地名篇(その五)

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  目 次 <近畿地方の地名(その三)>

 

29 奈良県の地名

 

 大和国まほろば秋津島・大倭豊秋津島・天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)浦安の国・細戈(くはしほこ)の千足(ちだ)る国・磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつま)国・玉牆(たまがき)の内つ国・虚空(そら)見つ日本(やまと)の国添上郡・添下郡奈良春日佐保川高円山鴬塚古墳猿沢池率川(いざかわ)神社法蓮町秋篠菅原富雄佐紀楯波(さきたたなみ)古墳群五社神(ごさし)古墳ヒシアゲ古墳ウワナベ古墳・コナベ古墳柳生月ヶ瀬平群郡矢田丘陵信貴山竜田竜田越え斑鳩(いかるが)藤ノ木古墳飽波安堵(あんど)町広瀬郡馬見古墳群(巣山古墳・新木山古墳・築山古墳・牧野(ばくや)古墳、佐味田宝塚古墳)葛上郡・忍海(おしのみ)郡・葛下郡葛城忍海二上山穴虫峠・竹内峠屯鶴峯(どんづるぼう)御所市腋上宮山古墳琴引原白鳥塚古墳宇智郡吉野郡吉野川宮滝津風呂川龍門岳国栖(くず)・井光(いかり)大峰山(山上ケ岳、八剣山、釈迦ケ岳)十津川天ノ川洞(どろ)川伯母子山脈北山川大台ケ原(日出ケ岳、三津河内山、経ケ峰山、大蛇嵒(だいじゃぐら)、蒸篭嵒(せいろうぐら)、大杉谷)宇陀郡芳野(ほうの)川榛原町額井岳・倶留尊(くるそ)山墨坂室生村曽爾村御杖村城上郡・城下郡桜井市初瀬忍坂(おしさか)三輪山巻向狭井神社・桧原神社穴師坐兵主(あなしにいますひょうず)神社海石榴市箸墓古墳鍵・唐古遺跡十市郡磐余(いわれ)多武峰外山(とび)桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳高市郡大和三山畝傍山耳成山天香具山飛鳥甘橿丘豊浦宮・小墾田宮・板葺宮石舞台古墳(桃原墓)剣池見瀬丸山古墳高取山壷坂山辺郡柳本古墳群西殿塚古墳(衾田陵)行灯山古墳櫛山古墳柳本天神山古墳渋谷向山古墳石上神宮和爾(わに)都祁(つげ)盆地

 

30 和歌山県の地名

 

 紀伊国伊都郡隅田(すだ)・眞土山(待乳山)紀見峠学文路(かむろ)九度山背山高野山楊柳山摩尼山弁天岳那賀郡名手岩出船戸粉河寺根来寺貴志川野上生石ケ峰美里町名草郡・海部郡加太紀三井寺和歌ノ浦片男波玉津島妹背山新和歌浦・奥和歌浦藤白坂下津有田郡湯浅白馬山脈日高郡護摩壇山龍神温泉由良門前の大岩美浜町日ノ御崎煙樹ケ浜南部川牟婁郡熊野田辺左・右会津川闘鶏神社朝来(あっそ)果無山脈日置(ひき)川すさみ町b ソビエト島串本町潮岬橋杭岩古座川大塔山太地町那智滝那智山熊野速玉大社神倉山ごとびき岩

<修正経緯>

<近畿地方の地名(その三)>

 

29 奈良県の地名

 

(1) 大和(やまと)国

 

a 大和

 大和(やまと)・倭(やまと)は、狭義では奈良県の一部、次いで奈良県全部、広義では日本全体を指します。

 ここでは律令制下の奈良県の地域を指す国名として検討します。

 大和(やまと)国は、夜麻登(『古事記』、『万葉集』)、夜萬止(『和名抄』)、耶魔等・夜麻等・野麻登・山門・大日本など(『日本書紀』)、日本(『日本書紀』、『万葉集』)、倭(『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』)、大養徳(『続日本紀』)、和(『万葉集』、『続日本紀』)、大倭(『古事記』、『日本書紀』)、大和(『続日本後紀』、『和名抄』、『万葉集』)などと多様に書かれています。

 その語源については、

(1) 「ヤマ(山)・ト(門)」で山間地帯への入り口の意、

(2) 「ヤマ(山)・ト(処)」で山国の意、

(3) 山の神が居られるところ、

(4) 大物主神が鎮座する三輪山あたりの土地の意とする説があります。

 この「やまと」は、マオリ語の

  「イア・マト」、IA-MATO(ia=indeed;mato=deep swamp)、「実に・深い湿地がある地域(大和国)」

の転訛と解します。

 かつて大和国の中心部、奈良盆地にはその中央に大きな湖がありました。このことは、縄文時代以降の遺跡の分布や古墳群の所在状況などからも明らかです。ただし、その湖がいつごろから縮小しはじめ、いつごろ完全に乾陸化したのかは定かではありません。おそらく神武天皇が大和へ入ってきた縄文時代の末期または弥生時代の初期にはいまだに大きな湖が存在し、その周辺に先住の部族がたむろしていたものと思われます。

 「やまと」とは、この乾陸化以前の「大きな、深い湿地」が存在するというこの地域の最大の地形的特徴を表現した地名です。

 この「やまと」は、福岡県の「山門(やまと)郡」と同じ語源です。水郷柳川市のたたずまいは、かつてこの地域に広い湿地があったことを推察させます。

 

b まほろば

 『古事記』は、倭建命が薨去される前に

  「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」

と歌ったと記しています(『日本書紀』景行紀17年3月条には「まほろば」ではなく「まほらま」とあります)。

 この「まほろば」は、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「まほら」に同じ(『万葉集』巻5・800、巻18・4089には「まほら」とあります)とあり、「まほら」の「ら」は接尾語で、その意味は「すぐれたよい所。ひいでた国土」とあります。

 この「まほろば」は、マオリ語の

  「マホ・ロパ」、MAHO-ROPA(maho=quiet,undisturbed;ropa=servant,single man,lodger in a family,make amorous advances by pinching or squeezing the land(whare ropa=public meeting house))、「静かな・愛着のある土地」または「静かな・(国中の)人々が集まる場所」

の転訛と解します。

 なお、『日本書紀』の「まほらま」は、マオリ語の

  「マホ・ラマ」、MAHO-RAMA(maho=quiet,undisturbed;rama=torch,catch eels by torchlight)、「静かな・(焚き火に誘われるように)人々が集まる場所」

の転訛と解します。

 

c 秋津島(あきつしま)・大倭豊秋津(おほやまととよあきづ)島・天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)

 『日本書紀』神武紀31年4月条に、天皇が腋上(わきがみ)の兼間(ほほま)丘に登って大和国の状を廻望して「妍哉乎(あなにや)、国を獲つること。内木綿(うつゆふ)の真乍(まさ)き国と雖も、蜻蛉(あきづ)の臀占(となめ)の如くあるかな」

といわれたので「秋津州(あきづしま)」の国号が起こったとあります。

 この「妍哉乎(あなにや)」、「内木綿(うつゆふ)の真乍(まさ)き」、「蜻蛉(あきづ)の臀占(となめ)」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ア・ナニ・イア」、A-NANI-IA(a=the...of,belonging to;nani=noisy,ache of the head;ia=indeed,current)、「実に・頭が痛い・こと」

  「ウ・ツイ・フ・ノ・マタ・キ」、U-TUI-HU-NO-MATA-KI(u=be firm,be fixed,reach its limit;tui=pierce,thread on a string,lace;hu=hill,promontory;no=of;mata=heap,deep swamp;ki=full,very)、「一面の・湿地帯・の中の・岡(または山から張り出した尾根)が・縁飾りをつけて・繋ぎ合わされている(ような地域。国)」

  「アキツ・ノ・トナ・メア」、AKITU-NO-TONA-MEA(akitu=close in on,fight,point,summit;no=of;tona=superative;mea=thing)、「(人々が)集住する・(土地の中)の・最高のもの(国)」

の転訛と解します。神武天皇が大和を制圧した時代は、まだ奈良盆地の中央に湖が残り、その周辺には広い湿地帯が広がっていたものと考えられます。

 この「秋津州(あきづしま)」は、マオリ語の

  「アキツ・チマ」、AKITU-TIMA(akitu=close in on,fight,point,summit;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「(人々が)集住する・(掘り棒で掘り散らかしたような地形の)島(地域)」

の転訛と解します。

 なお、『古事記』上巻大八島国生成条は、八番目に大倭豊秋津(おほやまととよあきづ)島、亦の名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)を生んだとします。

 この「おほやまととよあきづ」、「あまつみそらとよあきづねわけ」は、

  「オホ・イア・マト・トイ・アウ・アキツ」、OHO-IA-MATO-TOI-AU-AKITU(oho=surprise,arise,fruitful;ia=indeed;mato=deep swamp;toi=native,aboriginal;au=firm,intense;akitu=close in on,fight,point,summit)、「豊饒な・実に・湿地が多い(土地。大倭の)・原住民が・密に・集住している(島)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となり、その前の「トイ」と連結して「トヨ」となった)

  「ア・マツ・ミヒ・トラ・トイ・アウ・アキツ・ネイ・ワカイ(ン)ガ」、A-MATU-MIHI-TORA-TOI-AU-AKITU-NEI-WAKAINGA(a=the...of;matu=ma atu=go,come;mihi=greet,admire;tora=burn,blaze,be erect;toi=native,aboriginal;au=firm.intense;akitu=close in on,fight,point,summit;nei=to denote proximity,to indicate continuance of action;wakainga=distant home)、「あの・(人々が)行き来する・尊崇すべき・輝いている・原住民が・密に・集住し・続けている・遠く離れた本拠(場所)」(「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、名詞形語尾のNGA音が脱落して、「ワケ」となった)

の転訛と解します。

d 浦安(うらやす)の国・細戈(くはしほこ)の千足(ちだ)る国・磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつま)国・玉牆(たまがき)の内つ国・虚空(そら)見つ日本(やまと)の国

 上記の『日本書紀』神武紀31年4月条には、

(1) イザナキノミコトが名付けた国名として、「浦安(うらやす)の国、細戈(くはしほこ)の千足(ちだ)る国、磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつま)国」、

(2) オオナムチが名付けた国名として、「玉牆(たまがき)の内つ国」、

(3) ニギハヤヒノミコトが名付けた国名として、「虚空(そら)見つ日本(やまと)の国」の名が記されています。

 この「浦安(うらやす)」、「細戈(くはしほこ)の千足(ちだ)る」、「磯輪上(しわかみ)の秀真(ほつま)」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ウ・ライア・ツ」、U-RAIA-TU(u=say,bite,be firm,be fixed;raia=to give emphasis;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(多くの国津神たちが)うるさく・騒ぎ・立てる(国)」または「ウラ・イア・ツ」、ULA-IA-TU((Hawaii)ula=sacred,ghost,spirit;ia=indeed,very,each;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「聖なる霊が・いたるところに・宿る(国)」

  「クハ・チホウ・コ・ノ・チ・タル」、KUHA-TIHOU-KO-NO-TI-TARU(kuha=gasp;tihou=an implement for cultivating;ko=a wooden implement for digging or planting;no=of;ti=throw,cast;taru=shake,overcome,painful)、「鋤や・鍬が・汗を流して・振るわれることを・切望している(未墾地が多い国)」

  「チワ・カミ・ノ・ホ・ツマ」、TIWHA-KAMI-NO-HO-TUMA(tiwha=patch,appeal foe assistance in war,conspicuous;kami=eat;no=of;ho=pout,shout;tuma=challenge,defiance)、「目立っている(好戦的な)・神・の・挑戦的な・叫び(が聞かれる。国)」

の転訛と解します。なお、千葉県浦安市の「うら」は、同じハワイ語源ですが、「ウラ、ULA(spiny lobster)、刺の多い海老」で「実に海老が多い場所」の転訛と解します。

 この「玉牆(たまがき)の内つ(国)」は、マオリ語の

  「タマ・(ン)ガキ・ノ・ウチ・ツ」、TAMA-NGAKI-NO-UTI-TU(tama=son,man;ngaki=clear off weeds or brushwood,cultivate,avenge;no=of;uti=bite(utiuti=annoy,worry);tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(オオナムチに対して)害を・ひどく加えた・(兄弟たち)の・男どもを・征伐した(国)」

の転訛と解します。

 この「虚空(そら)見つ」は、マオリ語の

  「ト・ラミ・ツ」、TO-RAMI-TU(to=the...of,drag,open or shut a door or a window;rami=squeeze;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(ニギハヤヒノミコトが)戸をこじ開けて・強引に・奪った(土地。国)」

の転訛と解します。なお、「天磐船(あまのいわふね)」は、古典篇(その三)で解説したように、「対馬から来た多数の大型船(ダブル・カヌー)」の意味で、空を飛んで来たわけではありません。

 

(2) 添上(そうのかみ)郡・添下(そうのしも)郡

 

 大和国添上郡・添下郡は、大和国北部で、北は山城国、東から南は山辺郡、西は河内国、平群郡に接しています。おおむね現奈良市、月ヶ瀬村、生駒市の北部の地域です。『和名抄』は「曽不乃加美」、「曽不乃之毛」と訓じています。

 この「そふ」は、(1) 「ソブ(そば、傍)」の転で「自然堤防」の意、

(2) 「鉄錆のある地」などの説があります。

 この「そふ」は、山城国との境の細長い丘陵を形容した地名で、マオリ語の

  「タウフ」、TAUHU(=tahu=ridge-pole of a house)、「(家の)棟木(のような地形の地域)」

の転訛(原ポリネシア語の「サウフ、SAUHU」のAU音がO音に変化して「ソフ」となった)と解します。

 

(3) 奈良(なら)

 

a 奈良

 大和国の奈良(なら)は、那羅・乃楽(『古事記』、『日本書紀』)、奈良(『万葉集』、『三代実録』)、平・寧楽・名良・楢(『万葉集』)、平城(『万葉集』、『日本書紀』、『続日本紀』)等とさまざまに表記されています。

 この語源は、『日本書紀』崇神紀10年9月条に「草木踏み平(なら)す。因りて其の山を号(なづ)けて那羅山と曰ふ。」とあり、緩傾斜地を指すというのが通説です。

 この「なら」は、

  「ナラ」、NALA((Hawaii)to plait)、「(布の)皺を伸ばした(ような土地)」

  または「ナハ・アラ」、NAHA-ARA(naha,nahanaha=well arranged,in good order;ara=way,path)、「道路が・(碁盤目状に)整然と造られている(土地)」(「ナハ」のH音が脱落して「ナ」となり、その語尾のA音と「アラ」の語頭のA音が連結して「ナラ」となった)

の転訛と解します。

 

b 春日(かすが)

 春日は、現奈良市の春日大社から白毫寺付近の歴史地名です。このあたりには古く春日県が置かれたようで、大和国添上郡春日郷の地名があります。

 『日本書紀』開化紀元年10月条に「都を春日の地に遷す。是を率川宮と謂ふ」とあり、同60年10月条に天皇を「春日率川坂本陵に葬る」とあります。

 春日山は、三笠山(御蓋山。293メートル)の東にある台地状の山ですが、古くは花(はな)山(498メートル)を中心に、芳(ほ)山、香山(こうぜん)、若草山(三笠山)などの総称でした。ここは奈良盆地東縁部を大和高原と区切る春日断層崖の北部にあたっています。御蓋山の基部の台地には、春日大社、東大寺、奈良公園、興福寺などが立地しています。

 この「かすが」は、(1) 「カ(神)・ス(栖)・ガ(処)」の意、

(2) 「カ(神)・スガ(州処)」の意、

(3) 「カス(崖)・ガ(処)」の意などの説があります。

 この「かすが」は、断層崖にあたっていることを表現したもので、マオリ語の

  「カ・ツ(ン)ガ」、KA-TUNGA(ka=take fire,be lighted;tunga=circumstance of standing,site,wound,circumstance of being wounded,decayed tooth)、「傷がある居住地(または虫歯のような山のある居住地)」

の転訛と解します。 

 この「花(はな)山」の「はな」は、マオリ語の

  「パナ」、PANA(thrust or drive away)、「(奥に)押しやられた(山)」

の転訛と解します。

 この「香山(こうぜん)」は、マオリ語の

  「コウ・テンガ」、KOU-TENGA(kou=knob,stump;tenga=Adam's apple)、「(柳生街道に突き出ている)喉ぼとけのような瘤(山)」

の転訛と解します。

 この「芳(ほ)山」は、マオリ語の

  「ハウ」、HAU(project,exceed)、「突き出ている(山)」

の転訛と解します。

 

c 佐保(さほ)川

 佐保川は、奈良市東部の春日山と芳(ほ)山の間に源を発し、奈良市の北部を南西に貫流し、大和郡山市内を経て大和川に合流します。この佐保川上流一帯は、『日本書紀』垂仁紀5年10月条、武烈即位前紀、継体紀8年正月条等に「狭穂」、「小佐保」、「匝布」としてみえ、『万葉集』にはこの地を詠んだ歌が多くあります。

 この「さほ」は、マオリ語の

  「タホ」、TAHO(yielding,weak)、「川筋が変わりやすい(川)」

の転訛と解します。

 

d 高円(たかまど)山

 春日山山塊から南に、能登川を越えて延びて西に曲がったような山が高円山(465メートル)です。中腹には、天智天皇の御子志貴皇子の離宮を寺としたと伝える白毫寺があります。

  この「たかまど」は、マオリ語の

  「タカ・マト」、TAKA-MATO(taka=heap,lie in a heap;mato=deep,swamp;deep valley)、「深い谷がある・高地(山)」

  または「タカ・マタウ」、TAKA-MATAU(taka=heap,lie in a heap;matau=hook,a curve in tatooing on the face)、「鈎(かぎ)の形をした高地(山)」

の転訛と解します。

 

e 鴬(うぐいす)塚古墳

 若草山の頂上(342メートル)のすぐ手前に全長103メートルの前方後円墳の鴬塚古墳があります。この名は、『枕草子』に「陵はうくひすの陵」とみえています。

 この「うくひす」は、マオリ語の

  「ウク・ヒ・ツ」、UKU-HI-TU(uku=white clay,wash;hi=raise,rise;tu=stand,settle)、「洗い上げたよう(に綺麗)な・高いところ(山頂)に・ある(陵)」

の転訛と解します。

 

f 猿沢(さるさわ)池

 興福寺の南の崖下に、猿沢池があります。興福寺の放生池で、平城天皇の寵が衰えたことを嘆いた采女が身を投げたという伝説があります。

 この「さるさわ」は、マオリ語の

  「タルア・タワ」、TARUA-TAWHA(tarua=hollow;tawha=burst open,crack)、「割れ目(沢)にある穴(池)」

の転訛と解します。

 

g 率川(いざかわ)神社

 猿沢池の南を西流する川があり、これを率川といったようで、猿沢池とJR奈良駅の間に式内社率川神社があります。「三枝(さいぐさ)祭」で有名です。

 『日本書紀』開化紀元年10月条に「都を春日の地に遷す。是を率川宮と謂ふ」とあり、同60年10月条に天皇を「春日率川坂本陵に葬る」とあります。この陵は、率川神社の北の油坂(あぶらさか)町にある念仏寺山古墳と伝えられています。

 この「いざ」は、マオリ語の

  「イ・タハ」、I-TAHA(i=past tense,beside;taha=side,edge,pass on one side)、「(春日神社から興福寺が立地する岡の)縁を・流れる(川)」

の転訛と解します。

 この「あぶらさか」は、マオリ語の

  「アプ・ラ・タカ」、APU-RA-TAKA(apu=move or be in a flock or crowd,company of labourers;ra=wed;taka=heap,lie in a heap,fall off,revolve)、「(人々が)群集しているところ(居住地)に・密着した・(高いところから降りてくる)坂」

の転訛と解します。

 

h 法蓮(ほうれん)町

 奈良市街地の北、東大寺転害門から西に向かう一条街道の佐保川にかかる法蓮橋を渡ると法蓮町(旧法蓮村)で、橋のすぐ北に聖武天皇陵(佐保山南陵)、その東側に光明皇后陵(佐保山東陵)が並び、その北には元正天皇陵、元明天皇陵が、東には中世末期に松永久秀が築いた多聞山城跡があります。

 この地名は、「いにしへ聖武天皇此所に長幡寺、福王寺、長福寺、明覚寺とて四ケ寺を建立し給ひ、法花経を納め給ひしゆへ法蓮と名付し(地誌『奈良曝(ならざらし)』)」といわれています。

 この「ほうれん」は、マオリ語の

  「ホウ・レム」、HOU-REMU(hou=bind;remu=buttocks)、「尻を並べた(ような連なった丘のある土地)」

の転訛と解します。

 

i 秋篠(あきしの)

 佐紀楯波古墳群の西、小起伏の丘陵と溜池が重畳する地域に秋篠の地があり、光仁天皇の勅願により、宝亀11(780)年善珠僧正が開いた奈良時代最後の官寺、秋篠寺があります。

 この「あきしの」は、(1) 「アキ(瑞祥)・シノ(笹)」の意、

(2) 「アキ(アク、芥、湿地)・シノ(湿地)」の意とする説があります。

 この「あきしの」は、マオリ語の

  「アキ・チ(ン)ゴ」、AKI-TINGO(aki=dash,beat;tingo,tingongo=cause to shrink,shrivel,wasted)、「皺が寄った(起伏がある)ところを・打ったような(穴ができて湿地から池になった。場所)」(「チ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「チノ」から「シノ」となった)

の転訛と解します。

 

j 菅原(すがわら)

 奈良市の西郊、西大寺と薬師寺の中間に、菅原の里があります。この地は、野見宿禰の末裔、土師氏の居住地で、菅原道真の曾祖父のとき菅原姓を賜ったといい、菅原氏発祥の地です。

 この地には、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)があります。周濠の南東部に浮かぶ小島は田道間守の墓と伝えられています。この島は「1879年(明治12)以前の絵図にはこれはみえないから、その後の外堤工事でできたものだろう」(マイクロソフト『エンカルタ総合大百科』2003年、「天皇陵」の項による)との説があります(しかし、何も無かった所に新たに島を造成するというようなことが果たして行われたのでしょうか。絵図には無かったが、もともとあったと考える方が自然ではないでしょうか。)。

 この「すがはら」は、(1) 「菅草の生えた原」の意、

(2) 「清(すが)原」で「神聖な地」の意、

(3) 「スガ(洲処)・ハラ(原)」で「砂地の原」の意とする説があります。

 この「すがわら」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ・ハラ」、TUNGA-HARA(tunga=circumstance of standing,site,foundation;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「(首長の)葬送の・場所」

の転訛と解します。(垂仁天皇陵については、古典篇(その七)の211G菅原伏見陵の項を参照してください。)

 

k 富雄(とみお)

 奈良市の西部、矢田丘陵と西ノ京丘陵の間に富雄の地があり、富雄川が南流しています。

 『日本書紀』天武紀8年8月条の泊瀬行幸に見える「迹見(とみ)駅家」をこの添下郡富雄にあてる説がありますが、地理的に合いません。垂仁紀35年10月条にみえる「迹見(とみ)池」も、『大和志』は「添下郡池内村(現大和郡山市池ノ内町)にあり」とします。

 この「とみお」は、(1) 「トミ(トビ、崖地、自然堤防)」から、

(2) 「トブ(湿地)、沼」からとする説があります。

 この「とみお」は、マオリ(ハワイ)語の

  「タウ・ミオ」、TAU-MIO(tau=come to rest,float,settle down,beautiful;mio(Hawaii)=to disappear swiftly,to move swiftly as a stream of water,current,narrow)、「流れの速い川(またはその川が流れる土地)」

の転訛と解します。

 

(4) 佐紀楯波(さきたたなみ)古墳群

 

a 佐紀楯波古墳群

 奈良市の北に低く東西に横たわっている丘陵が平城(なら)山で、その東部を佐保山、西部を佐紀(さき)山と呼んでいます。現奈良市佐紀町、歌姫町、山陵町付近です。古くから奈良盆地から北への交通路として重視されました。

 ここには佐紀楯波古墳群として大型の古墳が多数密集しています。

 この「さき」は、(1) 「丘陵の尖端地」の意、

(2) 「谷(裂)」の意とする説があり、

「たたなみ」は、「楯並(たて・ならび)」の意とする説があります。

 この「さき」は、マオリ語の

  「タキ」、TAKI(track,lead,bring along)、「(北への)道を辿る(地域)」

の転訛と解します。

 この「たたなみ」は、マオリ語の

  「タ・タ(ン)ガ・ミ」、TA-TANGA-MI(ta=the;tanga=be assembled,row,tier;mi=urine,stream)、「(水を張った)周濠(を持つ墳墓)が段列をつくって並んでいる(場所)」

の転訛(「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」となった)と解します。

 

b 五社神(ごさし)古墳

 この古墳群の西北に、神功皇后陵に比定される前方後円墳の五社神(ごさし)古墳があります。『古事記』の分注に「狭城楯列陵」、『日本書紀』に「狭城楯列陵」、『延喜式』に「狭城楯列池上陵」とあります。

 紀は成務天皇陵も「狭城楯列陵」と同一名で記し、式は「狭城楯列池後陵」と区別していますが、五社神古墳のすぐ南にある成務天皇陵、その東の日葉酢媛陵、南の孝謙天皇陵との間で混乱が起き、幕末にこのように比定されていますが、なお異論があります。

 この「五社神(ごさし)」は、「陵畔に冢(ちょう)五あり、故に五社神といふ」(『山陵志』)との伝承があります。

 この「ごさし」は、マオリ語の

  「(ン)ゴ・タチカ」、NGO-TATIKA(ngo=cry;tatika=coastline)、「周濠の前で・号泣した(人があった古墳)」(「(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「ゴ」と、「タチカ」の末尾の「カ」が脱落して「タチ」から「サシ」となった)

の転訛(語尾の「カ」が脱落した)と解します。

 この「号泣した」の解釈については、三通りが考えられます

(1) これを「冢(ちょう)」のことと解するならばおおむね伝承の通りです。

(2) 『日本書紀』垂仁紀28年11月条に垂仁天皇の弟、倭彦命を葬ったとき、近習者が悉く陵の域(めぐり)に生きたまま埋められ、何日も昼も夜も泣き叫んだとあります。この陵は、「身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)」で高市郡にあったとされますから、五社神古墳ではありませんが、「ごさし」は「陵の周囲で(生き埋めされて殉死した人が)泣き叫んだ」とも解され、同じような殉死があった陵の意味である可能性が多分にあります。

(3) 佐紀楯波古墳群の中でもこの古墳がもっとも古いとされることと、垂仁天皇の命で「非時の香果(ときじくのかぐのみ)」を求めて帰ってきた田道間守が、垂仁天皇が崩御されていたので、「縵(かげ)四縵、矛四矛を分けて、大后に獻り、縵四縵、矛四矛を天皇の御陵の戸に獻り・・・遂に叫び哭きて死にき」(『古事記』)とあり、大后は生存していたかのような書き方ですが、記では大后の死亡年の記事がないのに、垂仁紀32年7月の条には大后を葬るにあたって殉死に代えて埴輪を立てるようにしたとの詳細な記事がありますので、日葉酢媛は既に亡くなっていたと考えるべきで、田道間守が垂仁天皇陵の前で死ぬ前に、日葉酢媛陵の前でも哭いていたはずであることを考え合わせますと、「五社神古墳は日葉酢媛陵である」とも考えることができます。この結論は、森浩一『天皇陵古墳』における比定と一致します。

 なお、田道間守(たじまもり。記では多遅摩毛理)は、天之日矛の玄孫で、三宅連の始祖とされています。この「田道間(たじま)」は、天之日矛の住んだ「但馬(たじま)」で、日葉酢媛の出身地丹波国の隣国です。

 この「たじま・もり」は、マオリ語の

  「タ・チマ・モリ」、TA-TIMA-MORI(ta=the,dash,lay;tima=a wooden emplement for cultivating the soil;mori=fondle,caress )、「(垂仁天皇と大后日葉酢媛に)可愛がられた但馬地方出身の男」

の転訛と解します。

 さらに、日葉酢媛皇后陵は、『古事記』は「狭木寺間(てらま)陵」と記します。

 この「てらま」は、マオリ語の

  「テラ・マ」、TERA-MA(tera=that,yonder;ma=white,clean)、「彼方にある清らかな(陵)」

の転訛と解します。五社神古墳は他の古墳と一段と離れた高い場所に造営されており、これが日葉酢媛陵であるとすれば、「彼方にある」という表現にピッタリといえます。

 

c ヒシアゲ古墳

 五社神古墳の南東の水上池の北に、仁徳天皇の皇后、磐之媛(いはのひめ)陵に比定されているヒシアゲ古墳があります。『日本書紀』仁徳紀37年11月条に「皇后を乃羅(なら)山に葬る」とあり、『延喜式』に「平城坂上墓」、『陵墓要覧』に「平城坂上陵、奈良県奈良市佐紀町字ヒシアゲ」とみえています。

 磐之媛は、葛城の曽都毘古の女(『古事記』)で、臣下の女として皇后に立たれた最初(『続日本紀』天平元年8月24日条)の方で、嫉妬が激しくて有名でした。

 この「ヒシアゲ」は、マオリ語の

  「ヒ・チア・(ン)ゲ」、HI-TIA-NGE(hi=raise,rise;tia=servant;nge=noise,screech)、「(皇后の)高い地位に登った臣下の女で、(嫉妬のあまり)金切り声をあげた(皇后)」

の転訛と解します。

 また、磐之媛の「いは」は、ハワイ語の

  「イハ」、IHA(=ihaiha=feeling of discomfort of one needing to relieve himself)、「(他人に頼らずに)自分自身で解決しなければならないという不安の感情(を持っている人間)」

の転訛と解します。

 

d ウワナベ古墳・コナベ古墳

 磐之媛陵の東南、水上池の東に、ウワナベ古墳(東側。全長269メートル)とコナベ古墳(西側。全長212メートル)が双子のように並んでいます。江戸時代にはウワナベ古墳は元明天皇陵、コナベ古墳は元正天皇陵と考えられていましたが、現在は陵墓参考地です。

 この「ウワナベ」は「後妻」、「コナベ」は「前妻」の意とする説があります。

 この「ウワナベ」は、マオリ語の

  「ウワ・ナペ」、UWHA-NAPE(uwha=female,woman;nape=weave,missay,tangled,stone of a fruit)、「(息子の文武天皇の早世、皇太子の若年という事態に遭遇して自ら皇位に即かざるを得なかった)困惑した・婦人(元明天皇を葬った古墳)」

の転訛と解します。

 この「コナベ」は、マオリ語の

  「コ・ナペ」、KO-NAPE(ko=girl;nape=weave,missay,tangled,stone of a fruit)、「(母の元明天皇の老齢による引退、皇太子の若年という事態に遭遇して自ら皇位に即かざるを得なかった)困惑した・娘(元正天皇を葬った古墳)」

の転訛と解します。

 

(5) 柳生(やぎゅう)

 

 奈良市北東部、木津川の支流白砂川、水間川の流域にある大和高原北部の盆地が柳生です。『和名抄』に添上郡楊生郷としてみえます。大柳生町には式内社夜支布(やきふ)山口神社が鎮座します。新陰流剣法の柳生氏の本拠地です。

 この「やぎふ」は、(1) 「ヤギ(箭木、柳)」の生育地で矢柄の産地の意、

(2) 「ヤギ(山間の狭い谷)」の意、

(3) 「ヤ(湿地)・キ(場所を示す接尾語)・フ(・・になっているところを示す接尾語)」の意とする説があります。

 この「やぎふ」は、マオリ語の

  「イア・ア(ン)ギ・フ」、IA-ANGI-HU(ia=current,indeed;angi=light air,fragrant smell,free,move freely,float;hu=swamp,hollow,silent,hill)、「静かに・(自由に)蛇行して流れる・川(その川の流れる地域)」(「イア」の語尾のA音と「ア(ン)ギ」の語頭のA音が連結し、NG音がG音に変化して「イアギ」から「ヤギ」となった)

の転訛と解します。

(6) 月ヶ瀬(つきがせ)

 

 奈良県北東端、京都府・三重県の県境に接する村で、中央部を名張川が横断しています。昭和43(1968)年に高山ダムが完成し、渓谷の景観が一変しました。村名は、名勝月ヶ瀬梅林にちなむといいます。

 この「つきがせ」は、マオリ語の

  「ツキ・(ン)ガテ」、TUKI-NGATE(tuki=beat,attack,central passage for water in an eel weir;ngate=move,shake)、「岩を噛んで(震動しながら)流れる(筌(うけ)の導水路のような)真っ直ぐな川(のある土地)」

の転訛と解します。

(7) 平群(へぐり)郡

 

a 平群郡

 平群郡は、生駒山の稜線の東、矢田丘陵の稜線の西から南、大和川にいたる地域で、北から東は添下郡、南は磯下郡、広瀬郡、葛上郡、西は河内国に接しています。『和名抄』は、「倍久里」と訓じています。おおむね現生駒市の南半部、平群町、三郷(さんごう)町、斑鳩町、安堵(あんど)町の地域です。

 この「へくり」は、(1) 「ヘ(辺)・クリ(国)」の意、

(2) 「ヘ(辺)・クリ(巡、河川の曲流)」の意とする説があります。

 この「へくり」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ヘ・クリ」、HE-KULI(he=wrong,mistaken,troublous;kuli(Hawaii)=knee)、「故障のある(片方が低い)膝(高い生駒山と低い矢田丘陵の間の地域)」

の転訛と解します。

 

b 矢田(やだ)丘陵

 この「やだ」は、マオリ語の

  「イア・タ」、IA-TA(ia=indeed,every,each;ta=dash,whip a top,cut,lay)、「(上部を)すべて切り取られた(丘陵)」

の転訛と解します。

(8) 信貴(しぎ)山

 

 信貴山(437メートル)は、生駒山地の南部、生駒郡平群町と三郷町の間にある山で、花崗岩の基盤の間に安山岩が瘤状に貫入、突出してできた山です。南北朝時代から砦が築かれ、永禄年間(1558〜70)には松永久秀が信貴山城を本拠として畿内に覇を唱えました。

 南の中腹には、信貴山朝護孫子(ちょうごそんし)寺があり、毘沙門天を祀って世の信仰を集めています。寺号は、聖徳太子が物部守屋討伐の際、この寺に祈って勝利したので、「信ずべき貴い山」としたと伝えますが、信貴山も、朝護孫子寺も、古くからの地名に基づくものと思われます。 

 この「しぎ」は、マオリ語の

  「チキ」、TIKI(a post to mark a place which was TAPU)、「禁忌とされる(ことを示す柱が立てられている)聖なる土地(場所)」

の転訛と解します。

 この「ちょうごそんし」は、マオリ語の

  「チ・オ・(ン)ゴト・ナチ」、TI-O-NGOTO-NATI(ti=throw,cadt;o=the place of;ngoto=head;nati=pinch,contract)、「頭のような岩山で挟みつけられた場所に放り出されている(狭い平地に在る寺)」

の転訛と解します。

(9) 竜田(たつた)

 

a 竜田

 竜田は、生駒郡斑鳩町から三郷町にまたがる地域の名です。竜田川が大和川に合流する前の両岸の地域で、大和川が奈良盆地から生駒山地を横切って大阪平野に流出する出口にあたります。

 生駒山地と矢田丘陵の間を流れる川は、上流では生駒川、中流では平群川、下流では竜田川と呼ばれます。古歌に詠まれる竜田川は、大和川と合流した後の大和川と解されています。

 生駒郡三郷町に鎮座する明神大社竜田大社の風神を祭る風神祭は、大和川左岸の北葛城郡河合町の広瀬神社の大忌祭とともに、国家的大祭として重視されました。

 この「たつた」は、「タツ(台地)・ノ(野)」の意とする説があります。

 この「たつた」は、マオリ語の

  「タツ・タ」、TATU-TA(tatu=reach the bottom;ta=lay)、「(生駒川、平群川の)川の下流(底、流末)に位置する(場所)」

の転訛と解します。

 

b 竜田越え

 竜田大社の背後の竜田山を越える大和と河内を結ぶ古道を竜田道、または竜田越えといいました。

 古代の竜田道のルートは定かではありませんが、近世には竜田大社から柏原市の峠集落を経て雁多尾畑(かりんどをばた)に至るルートが定着し、「立野越え」または「亀瀬越え」といわれました。

 この「かりんどをばた」は、マオリ語の

  「カリ・(ン)ゴト・パタ」、KARI-NGOTO-PATA(kari=dig;ngoto=head,be deep,penetrate;pata=seed,cause,advantage)、「(山を)深く掘った跡(のような場所)」

の転訛(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノト」となり、「カリ・ノト・パタ」から転訛した)と解します。

(10) 斑鳩(いかるが)

 

a 斑鳩

 矢田丘陵南東麓、富雄川右岸の地域で、聖徳太子がこの地に斑鳩宮を造営して推古13(605)年10月から同29(621)年2月まで住み、同15(607)年には法隆寺を完成させた土地です。

 この「いかるが」は、「斑(まだら)の鳩が群居する場所」の意と解されています。「イカル」または「イカルガ」は、怒るように鳴くスズメ目アトリ科の小鳥であるとされます。

 この「いかるが」は、マオリ語の

  「イカ・ル(ン)ガ」、IKA-RUNGA(ika=fish,prized possession,warrior,victim,cluster,heap;runga=the top,above,the south)、「最高の地位にある人の自慢の土地(または宮)」

の転訛と解します。ただし、「(政争の)犠牲にされた最高の地位にある人(の住む土地、宮)」と解することもできます。

 

b 藤ノ木古墳

 法隆寺の西に直径40メートル、高さ8メートルの大型円墳、藤ノ木古墳があります。豪華な副葬品が出土していることと、「みささぎ」という地名があることから、被葬者は天皇または皇子ではないかとされます。

 この「ふじのき」は、マオリ(ハワイ)語の

  「フチ・ノキ」、HUTI-NOKI(huti=pull up;noki(Hawaii)=deep)、「高く引き上げるよう築かれた(石室の)奥行きが深い(古墳)」

の転訛と解します。

(11) 飽波(あくなみ)

 

 『日本書紀』天武紀5年4月条に「飽波郡」、『和名抄』に「平群郡飽波郷」(阿久奈美)、『続日本紀』神護景雲元年4月の条などに「飽波宮」、『大安寺伽藍縁起併流記資財帳』(天平19(747)年)に聖徳太子の「飽波葦墻(あしがき)宮」の名がみえます。

 斑鳩付近と解する説、現安堵村の地と解する説(岩波大系本)などがありますが、次のマオリ語による解釈からすれば当時平群郡を飽波郡といったとする説(『大日本地名辞書』)は明らかに誤りです。(地名の解釈だけから地域を特定することはできませんが、大和川にたくさんの河川が合流する場所、安堵村またはその周辺の地域であった可能性があります。)

 この「あくなみ」は、マオリ語の

  「アク(ン)ガ・ミ」、AKUNGA-MI(akunga=rank and file;mi=urine,stream)、「川が列をなして流れる(場所)」

の転訛(「アク(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「アクナ」となった)と解します。

 この「あしがき」は、マオリ語の

  「アチ・(ン)ガキ」、ATI-NGAKI(ati=descendant,clan,beginning;ngaki=clear off weed or brushwood,apply oneself to)、「薮を切り開いた跡(に造営した宮)」または「(政治に)一身を捧げた人(聖徳太子)の一族(が住んだ宮)」

の転訛と解します。

(12) 安堵(あんど)町

 

 安堵町は、斑鳩町の東で、西の富雄川、東の岡崎川、南の大和川に三方を囲まれた低湿地です。

 町名は、古代から中世の安堵荘に由来します。

 この「あんど」は、マオリ語の

  「アノ・ト」、ANO-TO(ano=quite,just;to=wet)、「実に湿気が多い(低湿地)」

の転訛と解します。

(13) 広瀬(ひろせ)郡

 

 大和国広瀬郡は、大和川の南、大和川に曽我川、葛城川、高田川、佐味田川などが合流する盆地底部の、おおむね現北葛城郡河合町、広陵町の地域で、北は平群郡、東は磯下郡、十市郡、南から西は高市郡、葛下郡に接していました。

『和名抄』は「比呂世」と訓じています。

 この「ひろせ」は、マオリ語の

  「ヒロウ・テ」、HIROU-TE(hirou=rake,net for dredging shellfish;te=crack)、「貝を熊手で採取する川の割れ目(瀬)」

の転訛と解します。

(14) 馬見(うまみ)古墳群

 

 広陵町の西部に、南北に延びる低い馬見丘陵があり、ここを中心として北の河合町から南の大和高田市にまたがる地帯に、磯城地方の古墳にも匹敵する大型の前方後円墳を含む馬見古墳群があります。

 全長200メートルを越すものだけをみても、河合大塚山古墳(全長215メートル)、周濠の外側に広い樹木の植わった周庭帯を持つ巣(す)山古墳(204メートル)、新木(にき)山古墳(200メートル)、崩れがなく形の整った築(つき)山古墳(210メートル)などがあるほか、そう大きくはありませんが(直径55メートルの円墳)、石舞台と同じような巨石を用いて史跡に指定されている牧野(ばくや)古墳などがあります。

 この巣山の「す」、新木山の「にき」、築山の「つき」、牧野の「ばくや」は、それぞれマオリ語の

  「ツ」、TU(girdle)、「(周囲に)帯を巡らした(古墳)」

  「ニキ」、NIKI(small)、「(隣の巣山古墳よりも)小さい(古墳)」

  「ツキ」、TUKI(pound,beat)、「(しっかりと土を)叩いて築いた(古墳)」

  「パ・アク・イア」、PA-AKU-IA(pa=block up,prevent,assault,screen,stockade;aku=delay,scrape out,cleanse;ia=indeed)、「実に・盗掘に遭って・(封土を除かれて巨石の玄室が)剥き出しになつた(古墳)」(「パ」のA音と「アク」の語頭のA音が連結して「パク」から「バク」となった)

の転訛と解します。

 このほか、注目すべきものは、河合町佐味田(さみだ)の佐味田宝塚古墳で、30面をこす銅鏡を出土し、その中に4種の家屋図が描かれたものがあり、4世紀の日本の建物構造を知ることができます。

 この「さみだ」は、マオリ語の

  「タミ・タ」、TAMI-TA(tami=press down,smother;ta=dash,cut,lay)、「浸食されて滑らかになった(土地)」

の転訛と解します。

(15) 葛上(かつらぎのかみ)郡・忍海(おしのみ)郡・葛下(かつらぎのしも)郡

 

a 葛城

 この三郡は、大和川の南、金剛山地の北、葛城山脈の東麓の地帯で、葛下郡はおおむね現北葛城郡王寺町、上牧町、當麻町、香芝市、大和高田市の地域、忍海郡は現北葛城郡新庄町の中心のあたり(近鉄御所線の忍海(おしみ)駅があり、忍海の地名が残っています)、葛上郡はおおむね御所市の地域で、三郡の北は大和川、東は広瀬郡、高市郡、吉野郡、南は宇智郡、西は河内国に接しています。『和名抄』は「加豆良支乃加美」、「於之乃美」、「加豆良支乃之毛」と訓じています。

 『日本書紀』神武即位前紀己未年2月条に、高尾張邑の土蜘蛛を、「皇軍、葛の網を結(す)きて、掩襲(おそ)い殺しつ。因りて改めて其の邑を號けて葛城(かづらき)と曰ふ」とあります。

 この「かづらき」は、(1) 「葛の生えたところ」の意、

(2) 「カヅ(カテ、カツラ。崖地、急傾斜地)・ラ、キ(場所を示す接尾語)」の意とする説があります。

 この「かづらき」は、マオリ語の

  「カツア・ラ(ン)ギ」、KATUA-RANGI(katua=stockade,main portion of anything;rangi=sky,heaven,tower or elevated platform used for purposes of attack or defence of a stockade)、「空にそびえる砦(のような地域。そこにある山)」

の転訛と解します。

 

b 忍海

 『日本書紀』清寧紀3年7月条に飯豊皇女が角刺宮で「一度夫と交わり、女の道を知ったが、格別のこともない。一生男と交わろうとは思わない」といったとあります。また、顕宗即位前紀清寧5年正月の条に皇太子億計王と顕宗天皇が天皇位を譲り合って空位となったので、「天皇の姉飯豊青(いひとよのあお)皇女、忍海角刺(おしぬみのつのさし)宮に、臨朝秉政(みかどまつりごと)したまふ」とあります。『扶桑略記』、『本朝皇胤紹運録』は、「飯豊天皇」とし、中継ぎの天皇としての即位を認めています。なお、皇女の名は履中紀元年7月条には「青海(あおみ)皇女」と、履中記には「青海(あおみ)郎女」とみえています。

 恐らく中継ぎの即位はしたものの、わずか10ケ月の短期間の在位で、下記の人名、地名の解釈にみるように、朝廷を混乱に落とし入れ、全く功績が無く、人望が得られなかったので、記紀は「飯豊天皇」とは明記せず、かつ皇女の特異な性格、行状を伝える逸話を記録して皇女を「天皇」から抹殺した事情を暗に述べたものと思われます。(上記の逸話を記すこと自体が異例であるばかりでなく、その分注には「ここに夫があったということは、未詳である」とし、婚姻外の関係であったことを匂わせていますが、かりそめにも天皇の姉であり、かつ、すくなくとも摂政の地位にあった皇女の記録としてはあまりにも非礼な書き方です。)

 なお、皇女は顕宗即位前紀清寧5年11月に没して「葛城埴口丘(はにくちのおか)陵」に葬られたとあります。この御陵は、極めて周濠が狭く、墳長約90メートルと小規模な前方後円墳で、おざなりに造成した陵といった感じを受けます。

 この「おしのみ」は、(1) 「オシ(押し、押しつぶされた地形、崩崖)・ミ(ペの転、辺、そのあたり)」の意、

(2) 忍海部(おしぬみべ)女王(顕宗即位前紀の分注の飯豊女王の亦の名)に関係する部民の住んだ地名の意とする説があります。

 この「おしのみ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「オチ・ヌミ」、OTI-NUMI(oti=oki(Hawaii)=divide,separate;numi=fold,bend)、「(葛上郡と葛下郡の)間を切り離して挟み込んだ(郡)」

の転訛と解します。

 この「つのさし」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ツ・(ン)ゴタ・チ」、TU-NGOTA-TI(tu=stand,settle,fight with,energetic;ngota=fragment,particle;ti=throw,cast,squeek,tingle)、「躍起になって(ヒステリツクに)・小さなことに・金切り声を上げる(皇女の住む宮)」(「(ン)ゴタ」のNG音がN音に変化して「ノタ」から「ノサ」となった)

  または「ツノウ・タチ」、TUNOU-TATI(tunou=nod the head;tati→kaki(Hawaii)=cross,irritable,petulant(→hahi,hehi(Hawaii)=tread,trample,deny))、「気侭にへそ曲がりの行動をする(皇女の住む宮)」

の転訛と解します。

 この「いひとよのあお」は、マオリ語の

  「イヒ・トイ・イオ・ノ・アオ」、IHI-TOI-IO-NO-AO(ihi=split,separate;toi=move quickly,encourage;io=muscle,tough,obstinate;no=of;ao=daytime,bright,cloud,dawn,scoop up,be right ,bark)、「(天皇不在の)隙間を・疲れを知らずに・駆け抜けた(短期間天皇を代行した)・(夜が明けたように)次第に明るくなった(皇女)」

の転訛と解します。

 この青海(あおみ)皇女の「あおみ」は、マオリ語の

  「アオ・ミヒ」、AO-MIHI(ao=daytime,bright,cloud,dawn,scoop up,be right ,bark;mihi=greet,admire,sigh for)、「(夜が明けたように)次第に明るくなった・尊敬すべき(皇女)」

の転訛(語尾の「ハ」が脱落した)と解します。

 この葛城埴口丘陵の「はにくち」は、マオリ語の

  「ハニ・クチ」、HANI-KUTI(hani=speak ill of,disparage;kuti=contract,pinch)、「軽んじられた(天皇陵としては格が低い)・(圧縮された)小規模な(陵)」

の転訛と解します。

(16) 二上(にじょう)山

 

a 二上山

 生駒山地と金剛山地の間の鞍部、北葛城郡当麻(たいま)町と大阪府南河内郡太子町の境にある山で、北の雄岳(515メートル)と南の雌岳(474メートル)の2峰から成っています。「ふたかみやま」、「双子(ふたご)山」とも呼ばれています。山からは石器の材料となるサヌカイトや凝灰岩が採れます。

 雄岳頂上には式内社葛木二上(ふたかみ)神社が祀られています。

 この「ふたかみ」、「ふたご」は、マオリ語の

  「プタ・カミ」、PUTA-KAMI(puta=hole,pass through;kami=eat)、「食べた(石材を掘った跡の)穴(がある山)」

  「プタ・コ」、PUTA-KO(puta=hole,pass through;ko=dig)、「(石材を)掘った(跡の)穴(がある山)」

の転訛と解します。

 

b 穴虫(あなむし)峠・竹内(たけのうち)峠

 二上山北側の穴虫峠を通る大坂道(近世には長尾街道)と、南側の竹内峠を通る当麻(たいま)道(竹内街道)は、古来大和と河内を結ぶ重要な街道でした。この大坂は穴虫峠の麓の現香芝市の逢坂の地名により、当麻は竹内峠の麓の現当麻町の地名によっています。

 『日本書紀』履中即位前紀に太子(履中天皇)が仲皇子に襲撃されて難波から倭へ赴く際、大坂道をとらず当麻徑をとるよう少女に助言され、竜田道をとったことがみえています。

 この「あなむし」は、マオリ語の

  「アナ・アム・チ」、ANA-AMU-TI(ana=cave,denoting continuance of action or state;amu=grumble,complain;ti=throw,cast)、「(険しさに)ぶつぶつと不平を・垂れ・続ける(峠)」(「アナ」の語尾のA音と「アム」の語頭のA音が連結して「アナム」となった)

の転訛と解します。

 この「おおさか」は、マオリ語の

  「アウ・タカ」、AU-TAKA(au=firm,intense;taka=heap,lie in a heap)、「(傾斜の)厳しい高台(の土地)」

の転訛と解します。

 この「たけのうち」は、マオリ語の

  「タケ・ウチ」、TAKE-UTI(take=root,stump,base of a kill;uti=bite)、「浸食された山の麓」

の転訛と解します。

 この「たいま」は、マオリ語の

  「タイマハ」、TAIMAHA(heavy,oppressed in body or mind(=taumaha=heavy,of a genealogy))、「(系図のような)本道から分岐した(脇の街道)」

の転訛と解します。

 

c 屯鶴峰(どんづるぼう)

 二上山の西北方、穴虫峠の近くに、凝灰岩が露出して灰白色の断崖が続き、鶴がたむろしているように見える奇景があり、屯鶴峰と呼ばれています。この凝灰岩は、古墳の石棺、石室のほか、建築用材に使われています。

 この「どんづるぼう」は、マオリ語の

  「トネ・ツル・ポウ」、TONE-TURU-POU(tone=knob,projection;turu=pole,upright;pou=pole,erect a stake)、「縦に柱を並べ立てたような瘤(山)」

の転訛と解します。

(17) 御所(ごせ)市

 

a 御所市

 御所市は、金剛山地の東麓、新庄町の南に位置し、南東部は竜門山地の西端にあたり、北部は奈良盆地が開けています。

 この「ごせ」は、(1) 葛城川の「コ(河)・セ(瀬)」の意、

(2) 「五つの瀬」の意、

(3) 孝昭天皇の「掖上池心宮の御所」からとする説があります。

 この「ごせ」は、マオリ語の

  「(ン)ゴ・テ」、NGO-TE(ngo=cry,grunt;te=crack)、「泣くような音を立てる・(川の)割れ目(瀬のある場所)」(「(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「ゴ」となった)

  または「(ン)ゴテ」、NGOTE(suck,suck the breast)、「水を飲む(洪水に見舞われる。場所)」(NG音がG音に変化して「ゴテ」から「ゴセ」となった)

の転訛と解します。

 

b 腋上(わきがみ)

 『日本書紀』神武紀31年4月条に「腋上(わきがみ)の兼間(ほほま)丘」に登って国見をしたと、孝昭紀元年7月条に「都を掖上池心宮に遷す」と、孝安紀38年8月条に「掖上博多山上陵」と、推古紀21年11月条に「掖上池」などがみえます。

 この掖上(わきがみ)は、御所市東北部、葛城川右岸の旧南葛城郡掖上村(この村名は明治22年の命名)といい、また葛城川左岸の鴨都波神社の所在地小字ワキガミともいい、不詳です。

 この「わきがみ」は、マオリ語の

  「ワキ・(ン)ガミ」、WHAKI-NGAMI(whaki=disclose;ngami,whakangami=swallow up)、「(葛城川の旧流路であった沼や低湿地の)水を吸収して(排水して、干し上げて)地面を現した(土地)」

の転訛と解します。推古紀の「掖上池」は、このような土地を利用して溜池を造成したものでしょう。

 

c 宮(みや)山古墳

 御所市室(むろ)に葛城山麓最大の前方後円墳(全長238メートル)の宮山古墳があります。丘陵の尖端部を切断して造成された古墳の後円部を挟んで東北と南西に大きな二つの池が接しています。室は、『和名抄』に葛上郡牟婁郷がみえます。この古墳を豪族葛城襲津彦の墓に比する説があります。

 この「みや」は、後円部に小さな神社があり、孝安天皇の「室秋津島宮」の伝承地になっていることによるといいます。

 この「むろ」は、マオリ語の

  「ム・ロ」、MU-RO(mu=insects;ro=roto=inside)、「(丘陵部の)内側に・(虫が喰つてできたような)池と小山がある(土地)」

の転訛と解します。

 この「みや」は、マオリ語の

  「ミヒ・イア」、MIHI-IA(mihi=sigh for,greet;ia=indeed)、「実に・尊崇される(山のような古墳)」(「ミヒ」のH音が脱落し手「ミ」と、「イア」が「ヤ」となった)

の転訛と解します。

 

d 琴引原(ことひきはら)白鳥塚古墳

 宮山古墳の東、御所市富田に円墳の琴引原白鳥塚古墳があります。

 『日本書紀』景行紀40年是歳条は日本武尊の霊が伊勢の能褒野陵から出て「倭の琴引原」に止まったと記しています。

 この「ことひきはら」、「はくちょう」は、マオリ語の

  「コト・ヒキ・ハラ」、KOTO-HIKI-HARA(koto=sob,make a low sound;hiki=lift up,remove;hara=a stick bent at the top,used as a sign that a chief had died at the place)、「すすり泣きながら移動した墓(所)」

  「ハク・チオ」、HAKU-TIO(haku=complain of;tio=cry)、「あれこれ悔やんで泣いた(墓)」

の転訛と解します。なお、允恭紀42年11月条の「琴引坂」をこことする説(岩波大系本注)がありますが、誤りです。

(18) 宇智(うち)郡

 

 宇智郡は、現五條市の地域で、北部は金剛山地、南部は吉野山地で、中央を吉野川が西流し、両岸には4、5段の河岸段丘が発達しています。北は葛上郡、東は吉野郡、西は河内国、紀伊国に接しています。大和国、紀伊国、伊勢国を結ぶ交通の要衝です。

 この「うち」は、宇治(うじ)と同じで、(1) 「ウチ(内)」の意、

(2) 「菟(けもの)道」の意などとする説があります。

 この「うち」は、宇治と同じ語源で、マオリ語の

  「ウチ」、UTI(bite)、「(吉野川が氾濫しては)噛みつく(場所)」

の転訛と解します。

(19) 吉野(よしの)郡

 

a 吉野郡・吉野川

 吉野郡は、大和国の中央を西流する吉野川の流域から南の山間の地域(宇智郡を除く)すべてです。北は宇智郡、葛上郡、高市郡、十市郡、宇陀郡、東は伊勢国、東南から西は紀伊国に接しています。

 この吉野川は、奈良県と和歌山県を流れる紀ノ川の上中流部、奈良県側の名称で、三重・奈良県境の台高山脈に源を発し、蛇行しながら深い谷を刻み、奈良県吉野郡吉野町で高見川、津風呂川と合流し、同町宮滝を経て、五條市から中央構造線の断層谷に沿ってほぼ一直線に西に流れ、紀ノ川となつて和歌山市で紀伊水道に注ぎます。

 この「吉野」は、郡・川名のほか、町、山名とされ、芳野とも記されます。『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』には「吉野」、「曳之努」と、『和名抄』は「与之乃」と訓じています。

 「吉野」は、狭義では吉野川流域の表吉野を指しますが、広義では十津川、北山川流域など奥吉野を含みます。

 この「よしの」は、(1) 「すばらしい野」の美称、

(2) 「ヨシ(佳)・ノ(助詞。国、地など省略)」の意とする説があります。

 この「よしの」は、マオリ語の

  「イオ・チノ」、IO-TINO(io=muscle,ridge,strand of a rope,line;tino=main,essentiality,axact)、「極めて重要な綱(のような川。または主要な山脈(隆起線、断層線に沿った川))」

の転訛と解します。もちろん阿波国の吉野川も同じ語源です。

 なお、弥生時代後期の国内最大級の環壕集落遺跡として著名な佐賀県吉野ケ里(よしのがり。神埼郡三田川町大字田手字吉野ケ里)は、「吉野」は「佳野」に通じる佳字地名、「ケ里」は条里制による地名と解するのが通説ですが、これはマオリ語の

  「イオ・チノ・(ン)ガリ」、IO-TINO-NGARI(io=ridge;tino=main;ngari=greatness)、「主要な山脈(隆起線)のかたわらの場所にある壮大な集落」

と解することができます。この場所は、東は三養基郡の基山から武雄市の北の八幡岳に向けてほぼ一直線に延びた山脈の傍らに位置しています。ここからは古代の官道跡(奈良時代の西海道)も発見されており、縄文海進時代には海岸がかなり近くまできていたはずで、肥後や諌早との連絡にも好条件の地です。

 

b 宮滝(みやたき)

 『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』にみえる吉野は、宮滝付近と解するのが通説です。記には「吉野河の河尻」、神武即位前紀に「吉野」、応神紀には「吉野宮」、「吉野河上」の地名がみえます。(「吉野河の河尻」については、後出の和歌山県の「日置川」の項を参照してください。)

 吉野川の北岸の宮滝遺跡は縄文後期から奈良時代にかけての遺跡で、吉野宮がここにあった可能性が大です。

 この宮滝付近は、大和盆地からきた路、和歌山平野からきた路、高見川を遡って伊勢へ抜ける路、津風呂川を遡って伊賀へ抜ける路、吉野川を遡って熊野へ抜ける路などが交錯する交通の要衝であり、古くは壬申の乱における大海人皇子の決起の拠点となった歴史の舞台です。

 この「みやたき」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ミ・イア・タ・キ」、MI-IA-TA-KI(mi(Hawaii)=urine,stream;ia=indeed;ta=dash,beat;ki=full,very)、「水の流れが激しく岩を打つ川(のほとりの土地)」

の転訛と解します。

 『万葉集』の「水激(たぎ)つ滝の宮処(みやこ)(巻1、36)」や「芳野川たぎつ河内に高殿を高しりまして(巻1、38)」は、宮滝の吉野宮の描写でしょう。

(20) 津風呂(つぶろ)川

 『日本書紀』天武紀元年6月の条に壬申の乱で決起して徒歩で吉野を出発した天皇が「津振川」で車駕に乗ったとあります。

 この「津振川」は、津風呂川で、現大宇陀町の『万葉集』に歌われている阿騎野の関戸峠付近に源を発し、南流して吉野川に注ぐ川で、宇陀から伊賀への近道となっています。

 この「つぶろ」は、マオリ語の

  「ツ・プロ」、TU-PURAU(tu=fight with,energetic;purau=pointed stick,rake)、「激しく・(熊手で)浚うように流れる(川)」

の転訛と解します。

(21) 龍門(りゅうもん)岳

 

 宮滝の北に、奈良盆地の東南から南の縁に延びる龍門山地の主峰、龍門岳(904メートル)があります。

 この「りゅうもん」は、マオリ語の

  「リウ・モナ」、RIU-MONA(riu=valley,belly;mona=scar,knot of a tree,fat,rich)、「肥った・お腹(のような山)」または「傷のある・お腹(のような山)」

の転訛と解します。和歌山県那賀郡粉河町の龍門山も同じ語源でしょう。

(22) 国栖(くず)・井光(いかり)

 

 吉野川の宮滝の上流、支流高見川が吉野川に合流する直前の右岸に吉野町大字国栖があり、その対岸の南国栖には浄御原神社があって、毎年旧正月に「国栖奏」を奉納しています。

 『古事記』、『日本書紀』の神武東遷の条に「石押分(磐排別)之子」は「吉野国巣の祖」とあり、応神紀19年10月の条に吉野宮に行幸されたとき「国巣人」が来たり、醴酒を献じ、歌を歌って笑ったとあり、その民俗を記しています。

  この「くず」は、マオリ語の

  「ク・ツ」、KU-TU(ku=silent;tu=stand,settle)、「静かに暮らしている(人々。その住む土地)」

の転訛と解します。

 更に吉野川の上流、川上村に大字井光があります。

 『古事記』、『日本書紀』の神武東遷の条に「井氷鹿(ゐひか)」、「井光(ゐひか)」は「吉野首の祖」とあります。(これについては、古典篇(その三)を参照してください。)この井氷鹿(ゐひか)と現井光(いかり)を同じとする説が有力です。

 この「ゐひか」は、マオリ語の

  「イヒ・カ」、IHI-KA(ihi=split,front of a house,entrance of a cave;ka=take fire,be lighted,burn)、「火で照らしている洞窟の入り口(その洞窟に住む人)」

の転訛と解します。

 この「いかり」は、マオリ語の

  「イヒ・カリ」、IHI-KARI(ihi=split,front of a house,entrance of a cave;kari=dig)、「(人が)掘った洞窟の入り口(の土地)」

  または「イ・カリ」、I-KARI(i=beside,past time;kari=dig)、「(人が)掘った(洞窟、住居の)土地一帯」

の転訛と解します。

 いずれにしても、これらの地名の存在や記紀の伝承の内容からしますと、記紀の神武天皇は実在の人物で、大和へのルートは熊野から北山川を遡り、吉野川を下るルートであったと考えられます。

(23) 大峰(おおみね)山

 

 紀伊山地の中央を南北に延びる脊梁山脈が大峰山脈で、広義の大峰山は大峰山脈の峰々を指し、狭義にはその北部の山上ケ岳(1,719メートル)を指します。この山は、西日本の修験道の根本道場で、今も女人禁制の信仰の山です。(地名篇(その二)山形県の「及位(のぞき)」の項を参照してください。)

 大峰山脈の主峰は、近畿地方の最高峰である八剣山(はっけんざん。1,915メートル)で、北の弥山(みせん。1,895メートル)を結ぶ稜線は大きく曲がっています。この山脈は修験道の修行の場で、山上ケ岳から弥山、八剣山を経て釈迦ケ岳(1,800メートル)までを尾根伝いに踏破する奥駈け修行はその厳しいことで知られています。

 この大峰山の「おおみね」は、マオリ語の

  「アウミヒ・ヌイ」、AUMIHI-NUI(aumihi=mihi=sigh for,lament,greet;nui=large,many)、「(登るのに実に)何回も溜息をつく(山。または安全を願って何回も呪文を唱える山)」

  または「オホ・ミネ」、OHO-MINE(oho=spring up,wake up,arise;mine=be assembled)、「そびえ立った(頂が)・寄り集まった(山)」

の転訛と解します。

 この山上ケ岳の「さんじょう」は、マオリ語の

  「タネ・チオ」、TANE-TIO(tane=man,showing manly qualities;tio=sharp,cry)、「男性的な厳しい(山)」

の転訛と解します。

 この八剣山の「はっけん」は、マオリ語の

  「ハ・ツケ・ヌイ」、HA-TUKE-NUI(ha=what!;tuke=elbow,angle;nui=large,many)、「なんと大きな腕を曲げた(山)」

の転訛と解します。

 この釈迦ケ岳の「しゃか」は、マオリ語の

  「チアカ」、TIAKA(mother,leader of a flock of KAKA(bird))、「鳥の群の先頭を飛ぶ鳥(のような山)」

の転訛と解します。

(24) 十津(とつ)川

 

a 十津川

 十津川は、山上ケ岳に源を発し、深いV字形の峡谷をつくり、曲流しながら、東の大峰山脈と、西の伯母子(おばこ)山脈の間の大塔(おおとう)村、十津川村をほぼ南流し、和歌山県熊野川町と三重県紀和町の境付近で北山川と合流して熊野川となり、熊野灘に注ぎます。十津川水系も北山川水系も、日本有数の多雨地帯です。

 この「とつ」は、マオリ語の

  「ト・ツ」、TO-TU(to=wet,calm;tu=stand,girdle)、「水に濡れた飾り帯(のような川)」

の転訛と解します。この「ツ」は、前出の馬見古墳群の「巣山古墳」滋賀県の「賎ヶ岳」大阪府の「摂津」の「ツ」などと同じ語源です。

 

b 天(てん)ノ川

 十津川の上流を天ノ川と呼びます。

 この「てん」は、マオリ語の

  「テノ」、TENO(notched)、「ぎざぎざに刻まれた(川)」

の転訛と解します。

 

c 洞(どろ)川

 天ノ川の支流山上川のほとり、山上ケ岳の麓に天川村洞川があり、山上ケ岳へ登る信者が禊ぎをする龍泉寺があります。

 この「どろ」は、マオリ語の

  「トロ」、TORO(extend,stretch forth,creep)、「真っ直ぐ延びている(川)」

の転訛と解します。

(25) 伯母子(おばこ)山脈

 

 奈良県と和歌山県の境に、大峰山脈と並行して、伯母子山脈が南北に延びています。途中にある護摩壇山(1,372メートル)の東に延びた支脈に伯母子岳(1,344メートル)がそびえています。この山の東の肩に伯母子峠(1,230メートル)があり、かつて高野山と熊野地方を結ぶ古道(小辺路)の難所でした。

 この「おばこ」は、マオリ語の

  「オパ・コ」、OPA-KO(opa=throw,pelt;ko=a wooden implement for digging or planting,yonder)、「投げ出された鍬(のような山)」

の転訛と解します。

(26) 北山(きたやま)川

 

 紀伊山地の伯母峰(おばみね)峠(991メートル)に発し、奈良県内を南流して三重県との県境を通り、紀和町小船付近で十津川と合流して熊野川となり、熊野灘に注ぎます。穿入蛇行が著しく、美しい峡谷をつくり、瀞(どろ)峡はその代表です。上流は日本一の多雨地帯です。

 この「きたやま」は、マオリ語の

  「キタ・イア・マ」、KITA-IA-MA(kita=tightly,intensely,tightly clenched;ia=indeed;ma=white,clean)、「(山ひだに)密着して流れる(穿入蛇行が著しい)実に清らかな(川)」

の転訛と解します。

 この「どろ」は、マオリ語の

  「トロ」、TORO(stretch forth,creep,thrust or impel endways)、「這って歩く(静かに流れる峡谷)」

の転訛と解します。この「トロ」は、天川村洞(どろ)川の「どろ」と同じ語源ですが、やや意味が異なります。

(27) 大台(おおだい)ケ原

 

 奈良県と三重県の境に、大峰山脈と並行して、台高山脈が南北に延びています。その南部には、大台ケ原と総称される山があり、最高峰の日出ケ岳(1,695メートル)、三津河内(さんづこうち)山(1,654メートル)、経ケ峰山(1,529メートル)などがあります。

 これらの山の尾根や山頂には、100〜200メートルの小起伏面をもつ平坦面があり、高山植物や高層湿原がみられます。その外側の周囲には、堅い硬砂岩が谷頭浸食を食い止めてできた大蛇嵒(だいじゃぐら)、蒸篭嵒(せいろうぐら)などの断崖や、大杉(おおすぎ)谷などの峡谷と滝の嶮しい地形があります。古くからの信仰の山で、日本屈指の多雨地帯です。

 この大台ケ原の「おおだいがはら」は、マオリ語の

  「オホ・タイ・(ン)ガハ・ラ」、OHO-TAI-NGAHA-RA(oho=spring up,wake up,arise;tai=the sea,tide,wave;ngaha,ngahangaha=frivolous;ra=wed)、「高くて・波をうっている・何の変哲もない地形が・連なっている(山)」

の転訛と解します。

 この日出ケ岳の「ひので」は、マオリ語の

  「ヒ・(ン)ゴテ」、HI-NGOTE(hi=raise,rise;ngote=suck,suck the breast)、「(天から雨)水を飲む高い(山)」(「(ン)ゴテ」のNG音がN音に変化して「ノテ」となった)

の転訛と解します。

 この三津河内山の「さんづこうち」は、マオリ語の

  「タ(ン)グツ・コウ・チ」、TANGUTU-KOU-TI(tangutu=large;kou=stump,knob;ti=throw,cast)、「放り出されている大きな切り株(のような山)」(「タ(ン)グツ」のNG音がN音に変化して「タヌツ」から「サンヅ」となった)

の転訛と解します。

 この経ケ峰山の「きょう」は、ハワイ語の

  「キオ」、KIO(small pool for stocking fish spawn,puddle)、「小さな池や湿原(がある山)」

の転訛と解します。

 この大蛇嵒の「だいじゃ」は、マオリ語の

  「タイテア・クラ」、TAITEA(white,fearfull,timid)-KURA(red,ornamented with feathers)、「恐ろしい(断崖の上にある)・(羽根で飾った)紅葉が綺麗な(岩山)」(「タイテア」のE音がI音に変化して「タイチア」から「ダイジャ」と、「クラ」が「グラ」となった)

の転訛と解します。

 この蒸篭嵒の「せいろう」は、マオリ語の

  「テイ・ロウ・クラ」、TEI(high,tall)-ROU(a long stick used to reach anything,stretch out,staggering)-KURA(red,ornamented with feathers)、「高くて・(身体が)ふらつく・(羽根で飾った)紅葉が綺麗な(岩山)」(「テイ」が「セイ」と、「クラ」が「グラ」となった)

の転訛と解します。

 この大杉谷の「おおすぎ」は、マオリ語の

  「オホ・ツ・ウキ」、OHO-TU-UKI(oho=spring up,wake up,arise;tu=stand,settle;uki,ukiuki=old,lasting,undisturbed,peaceful)、「高く聳え立つ・場所に在って・(これまで人の手が入ったことが無い)千古不鉞(せんこふえつ)の(谷)」(「ツ」のU音と「ウキ」のU音が連結して「ツキ」から「スギ」となった)

の転訛と解します。

(28) 宇陀(うだ)郡

 

a 宇陀郡

 大和国宇陀郡は、奈良盆地の南東、竜門山地を越えた山間地帯で、西は磯上郡(桜井)、北は山辺郡、伊賀国、東は伊勢国、南は吉野郡に接しています。『和名抄』は「宇太」と訓じています。

 神武東遷説話の舞台で、『古事記』に「宇陀の穿(うかち)」、『日本書紀』神武即位前紀に「菟田下県」、「菟田穿邑」、「菟田血原」、「菟田高倉山」などととみえています。「宇陀の穿(うかち)」については、古典篇(その三)を参照してください。

 この「うだ」は、「アダ」、「ムタ」などと同義で、「河川の湿地帯」と解する説があります。

 この「うだ」は、マオリ語の

  「ウタ」、UTA(the inland,the interior)、「(奈良盆地と伊賀盆地の間の)内側(の地域)」

の転訛と解します。

 

b 芳野(ほうの)川

 龍門岳の北斜面に源を発し、宇陀郡大宇陀町を流れる宇陀川は、宇陀野町から榛原(はいばら)町を流れる支流芳野川、室生(むろう)村を流れる支流室生川などを合流して、名張盆地に入ります。御杖村に源を発し、名張市を流れる名張川は、同じく御杖(みつえ)村に源を発し、曽爾(そに)村から名張市を流れる青蓮寺川、そして宇陀川と合流して北流し、やがて木津川と合流します。

 この「ほうの」は、マオリ語の

  「ホウ・ナウ」、HOU-NAU(hou=bind,enter,force downwards or under;nau=come,go)、「下流へ押し流して行く(川)」

の転訛と解します。

 

c 榛原(はいばら)町

 宇陀郡の北東部、宇陀山地の入り口にあたり、名張へ抜ける伊勢街道、高見峠から櫛田川上流へ抜ける本伊勢街道、柳生へ抜ける道、吉野へ抜ける道が交叉する交通の要衝です。

 この「はいばら」は、「榛(はん)の木を伐って開いた場所」と解する説があります。

 この「はいばら」は、マオリ語の

  「ハイプ・アラ」、HAIPU-ARA(haipu=place in a heap;ara=way,path)、「高い場所にある道路(が通る場所)」

の転訛と解します。

 

d 額井(ぬかい)岳・倶留尊(くるそ)山

 榛原町の北部には、大和富士といわれる額井(ぬかい)岳(816メートル)がそびえています。室生村と名張市の間の室生火山群に属する山です。

 同火山群は室生赤目青山国定公園に指定され、最高峰は倶留尊(くるそ)山(1,038メートル)で、山頂付近の東斜面の急崖に倶留尊石仏があります。

 この「ぬかい」は、マオリ語の

  「ヌイ・カイ」、NUI-KAI(nui=large,many;kai=quantity,thing,fullfil its proper function)、「どっしりとした重量感を見せる(山)」

の転訛と解します。

 この「くるそ」は、マオリ語の

  「クル・ト」、KURU-TAU(kuru=strike with the fist,pound,throw;tau=ridge of a hill,fall of blows,come to rest)、「散々に殴られた(変形した峰)」

の転訛と解します。

 

e 墨坂(すみさか)

 榛原町の西方、伊勢街道西峠付近を、『日本書紀』即位前紀戊午年9月の条に「国見丘の上に即ち八十梟師(やそたける)有り。又女坂に女軍を置き、男坂に男軍を置く。墨坂におこし炭を置けり」とあり、崇神紀9年3月の条に天皇が夢の中でお告げを受け、赤い楯と矛で「墨坂神」を祀ったとあり、天武元年7月23日の条に天武川の将軍大伴吹負が乃楽(なら)山の戦いで敗れ、墨坂で伊勢からの援軍に遭遇したとある「墨坂」とする説が有力です。

 この「すみさか」、「おこしずみ」は、マオリ語(およびハワイ語)の

  「ツ・ウミ・タカ」、TU-UMI-TAKA(tu=stand,settle,fight with,energetic;(Hawaii)umi=to strangle,choke,suppress;taka=heap,go or pass round,range)、「(八十梟師の軍隊を置いて)厳重に・(通路を)塞いでいる・高台の場所」(「ツ」のU音と「ウミ」の語頭のU音が連結して「ツミ」から「スミ」と、「タカ」が「サカ」となった)

  「オ・コチ・ツ・ウミ」、O-KOTI-TU-UMI(o=the...of;koti=cut in two,interrupt,so cut across the path of any one;tu=stand,settle,fight with,energetic;(Hawaii)umi=to strangle,choke,suppress)、「例の・(八十梟師の軍隊を三箇所に)分けて置いた・厳重に・(通路を)塞いでいる(状況。その場所)」(「コチ」が「コシ」と、「ツ」のU音と「ウミ」の語頭のU音が連結して「ツミ」から「ズミ」となつた)

の転訛と解します。

 

f 室生(むろう)村

 宇陀郡の北東部の山間に室生村があります。

 室生川の厳しい渓谷を遡った山里に、女人高野として知られる室生寺があります。その上流には奇岩が屏風のようにそびえる場所に式内社龍穴(りゆうけつ)神社が鎮座し、祈雨、止雨の神として信仰され、室生寺はその神宮寺として成立したともいいます。

 室生川と宇陀川との合流点近くには、大野寺があり、その対岸の屏風ケ浦と呼ばれる岩壁には全高13.8メートルの弥勒像を刻んだ摩崖仏(史跡)があって有名です。

 この「むろう」は、マオリ語の

  「ム・ロ・ウ」、MU-LOU(mu=insects;ro=roto=inside;u=be firm,be fixed,reach the land,arrive by water,reach its limit)、「(室生川を)遡って到達する・(山地の)内側の・虫が食ったような(平地の場所)」

の転訛と解します。

 この龍穴神社の「りゆうけつ」は、マオリ語の

  「リウ・ケツ」、RIU-KETU(riu=valley,belly;ketu=remove earth by pushing or digging with a blunt implement)、「粗く掘られた渓谷」

の転訛と解します。

 この屏風ケ浦の「びょうぶ」は、マオリ語の

  「ピオ・プ」、PIO-PU(pio=be extinguished;pu=bunch,heap,stack)、「目立つ崖」

の転訛と解します。

 

g 曽爾(そに)村

 宇陀郡北東部にあり、名張川支流の青蓮寺川上流域を占めています。青蓮寺川渓谷は、下流の香落渓(こおちだに)(地名篇(その三)を参照してください。)に対し、奥香落渓(おくこおちだに)と呼ばれる景勝地をつくり、天然記念物の屏風岩、兜岩、鎧岩があって室生赤目青山国定公園に指定されています。

 この「そに」は、マオリ語の

  「タウ・ヌイ」、TAU-NUI(tau=come to rest,be suitable,beautiful;nui=large,many)、「美しい風景に・富む(地域)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」から「ソ」となり、「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」となった)

  または「タウ・オニ」、TAU-ONI(tau=come to rest,be suitable,beautiful;oni=move,wriggle)、「もがくように曲流する・美しい(川。その地域)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」から「ソ」となり、そのO音と「オニ」の語頭のO音が連結して「ソニ」となった)

の転訛と解します。

 

h 御杖(みつえ)村

 宇陀郡東部にあり、周囲を三峰山(1,235メートル)、岳ノ洞(学能洞。がくのどう。1,022メートル)などの1,000メートル級の山で囲まれている、名張川本・支流の源流地帯で、北流する神末(こうずえ)川、菅野川、土屋原川などの谷筋に集落が点在しています。本伊勢街道の宿場町です。

 この「みつえ」は、マオリ語の

  「ミ・ツアエ」、MI-TUAE(mi=urine,stream;tuae=lash the tines on to a rake for catching shellfish)、「貝を採る熊手で引っかいた(跡のように並行して北流する)川(またはその川が流れる地域)」

の転訛と解します。

 この神末川の「こうずえ」は、マオリ語の

  「コ・ツアエ」、KO-TUAE(ko=(emphasis);tuae=lash the tines on to a rake for catching shellfish)、「貝を採る熊手で引っかいた(跡のような川)」

の転訛と解します。

 この岳ノ洞(学能洞)山の「がくのどう」は、マオリ語の

  「(ン)ガク・(ン)ゴト」、NGAKU-NGOTO(ngaku=strip,shred;ngoto=head)、「ぼろぼろに傷ついた頭(のような山)」

の転訛(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノト」となり、濁音化して「ノド」となった)と解します。

(29) 城上(しきのかみ)郡・城下(しきのしも)郡

 

 城上郡・城下郡は、『日本書紀』神武紀2年2月条に「磯城」県主と、欽明紀元年7月条に「都を磯城郡の磯城嶋に遷す。乃りて號けて磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)とす」とみえるように、もと磯城(しき)郡で、おおむね城上郡は現櫻井市(南部の一部は十市郡)、城下郡は現磯城郡(川西町、三宅町、田原本町(南部の一部は十市郡))の地域です。城上郡・城下郡は、北は平群郡、山辺郡、東は宇陀郡、南は十市郡、西は広瀬郡に接していました。『和名抄』は、「之支乃加美」、「之伎乃之毛」と訓じています。

 この「しき」は、(1) 「シキ(頻り)」で「段丘」の意、

(2) 「シ(石)・キ(接尾語)」で「岩のある場所、磯」の意、

(3) 「シキ(城、石の城)」の意とする説があります。

 この「しき」は、マオリ語の

  「チキ」、TIKI(a post to mark a place which was TAPU)、「禁忌の土地(神聖な土地)であることを示す柱(を立てた土地。神聖な土地)」

の転訛と解します。

 河内国志紀郡も、古市古墳群の地域の一部を含んでおり、古代における葬送の地ではなかったかと考えられ、同じ語源と解されます。

 この磯城嶋の「しま」、金刺宮の「かなさし」は、マオリ語の

  「チマ」、TIMA(a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかした(ような地形の場所)」

  「カネ・タチカ」、KANE-TATIKA(kane=head;tatika=coastline)、「(湖の入り江の)岸辺に頭を突き出した(宮)」

の転訛と解します。このあたりは、古く奈良盆地の中央にあった湖の入り江が入り込んでいたと思われます。

(30) 桜井(さくらい)市

 

 城上郡東端、奈良盆地南東端に桜井市があります。その中心の旧桜井町は、初瀬川の谷口に位置し、古くから初瀬谷、竜門山地を後背地として発展した市場町でした。

 ここは古代の大和国の中心で、「志貴(しき)」と呼ばれたようです。北西部の金屋に式内大社志貴御県坐神社が鎮座しています。南北に走る上ツ道と東西に走る横大路(後の初瀬街道(伊勢街道))が交錯する交通の要衝です。三輪山麓には山辺道が通じています。

 現桜井市の南から南西部は、十市郡の地域を合併によって含んでいます。

 この「さくらい」は、(1) 『日本書紀』履中紀3年11月条に磐余の市磯(いちし)池に「両枝(ふたまた)船」を浮かべての酒宴の杯に時ならぬ桜の花びらが入つたことから「磐余稚桜宮(いわれのわかさくらのみや)」としたことにちなむ、

(2) 桜井市谷の若桜(わかさ)神社の「桜の井」にちなむ、

(3) 「サ(美称)・クラ(谷)・ヰ(川)」または「サク(谷)・ラ(接尾語)・ヰ(川)」で「谷川」の意とする説があります。

 この「さくらい」は、マオリ語の

  「タ・クラエ」、TA-KURAE(ta=the;kurae=be prominent,headland)、「卓越した(土地)」

  または「タク・ラヰ」、TAKU-RAWHI(taku=edge,border,rim;rawhi=gasp,hold firmly,surround)、「(山地の)縁に・しっかりとつかまっている(土地)」   

の転訛と解します。

 ちなみに、日本の国花である「桜(さくら)」は、マオリ語の

  「タ・クラ」、TA-KURA(ta=the;kura=precious,treasure)、「最上の(花)」

の転訛と解します。

(31) 初瀬(はつせ)

 

 桜井市東部の初瀬川渓谷の総称で、泊瀬(はつせ)、長谷とも記し、現在は「はせ」と呼びます。

 大和国と東国を結ぶ伊勢街道の要衝にあり、古くから開けた場所です。『日本書紀』雄略即位前紀安康3年11月条に「壇(たかみくら)を泊瀬の朝倉に設く」とあり、武烈即位前紀仁賢11年12月条に「壇場(たかみくら)を泊瀬列城(なみき)に設く」とあり、欽明紀31年4月条に「泊瀬柴籬(しばがき)宮に幸す」とあります。

 『和名抄』には大和国城上郡に長谷(はせ)郷がみえます。『万葉集』に「隠国(口)(こもりく)の泊瀬」と歌われた地で、渓谷中部の長谷寺が観音信仰の中心となり、『源氏物語』や『枕草子』など多くの文学に登場します。

 この「はつせ」は、(1) 「ハ(長い)・ツ(助詞)・セ(狭い)」の意、

(2) 「ハツ(初)・セ(瀬)」の意、

(3) 「ハツ(船が泊る)・セ(瀬)」の意、

(4) 「ハツ(果てる)・セ(瀬)」の意などの諸説があつて定説はありません。

 この「はつせ」、「はせ」は、同義のマオリ語の

  「パツ・テ」、PATU-TE(patu=strike,beat,edge;te=crack)、「(出水が)襲う割れ目(降雨によって突発的な洪水が発生しやすい川)」

  「パ・テ」、PA-TE(pa=touch,reach,be struck;te=crack)、「(出水が)襲う割れ目(降雨によって突発的な洪水が発生しやすい川)」

の転訛(原ポリネシア語の「パツ」、「パ」のP音が日本語に入ってF音を経てH音に変化し、「ハツ」、「ハ」となった)と解します。

 突発的な洪水を防止するため、上流に初瀬ダムが昭和62(1987)年に完成しています(小学館『日本地名大辞典』による)。

 全国に散在する「長谷(はせ)」地名も同じ語源でしょう。

 なお、枕詞「こもりくの(隠国(口)の)」は、マオリ語の

  「コモ・リヒ・ク・ノ」、KOMO-RIHI-KU-NO(komo=thrust in,insert;rihi=flat;ku=silent;no=of)、「(山の中へ)入っていくと・平らで・静かな・(場所)の」(「リヒ」のH音が脱落して「リ」となった)

の転訛と解します。

 この泊瀬朝倉宮の「あさくら」、泊瀬列城宮の「なみき」、泊瀬柴籬宮の「しばがき」は、マオリ語の

  「アタ・クラ」、ATA-KURA(ata=what!;kura=precious,treasure)、「素晴らしい財宝(を貯えた宮)」(『新撰姓氏録』山城諸蕃、秦忌寸の条に「秦公酒、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の御世に・・・諸秦氏を役して八丈の大蔵を宮の側に構え、其の貢物を納む。故に其地の名を朝倉宮と曰ふ」とあります。「秦酒公」については、地名篇(その三)京都府の地名の太秦(うずまさ)の項を参照してください。)

  「ナ・ミキ」、NA-MIKI(na=belonging to;miki=ridge of hills,buttocks)、「連なった丘(の地に造成した宮)」

  「チパ・カキ」、TIPA-KAKI(tipa=dried up,broad,extended;kaki=neck,throat)、「広がった喉(のど)もと(のような場所に造成した宮)」

の転訛と解します。

(32) 忍坂(おしさか)

 

 桜井市東部、大字忍阪(おっさか)に忍坂の歴史地名があります。押坂、恩坂とも記し、「おさか」ともいいます。

 『日本書紀』神武即位前紀戊午年11月10日条に椎根津彦の計略で「我が女軍を遣はして、忍坂の道より出で」たならば、「虜見て必ず鋭(ときつはもの)を尽して赴く」であろうから、「吾は勁(つよ)き卒を駈馳(は)せて、直に墨坂を指して、・・・其の不意に出でば」必ず敵を破ることができようといい、「男軍を以て墨坂を越えて、後より夾み撃ちて破」つたとあります。

 また、垂仁紀39年10月条にも「忍坂邑」がみえ、允恭天皇の皇后忍坂大中姫や、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子はここに住んだといわれています。日本最古の金石文の一つ、隅田八幡人物画像鏡の銘文に「意柴沙加宮」の名がみえます。

 この「おしさか」は、マオリ(ハワイ)語の

  「オチ・タカ」、OTI-TAKA(oti=oki(Hawaii)=divide,separate;taka=heap,lie in a heap)、「(本道である墨坂の道と)離れた(道にある別の)高台」

の転訛と解します。

 なお、古代の戦いは、神武即位前紀戊午年9月5日条に天香具山の埴土で天平瓮(あめのひらか)、厳瓮(いつへ)をつくって神を祭つたとあるように、必ず神を祭ることが不可分で、巫覡(ふげき)や巫女が大きな役割を果たすのが通例でした。神武天皇は、巫覡の長でもあったと思われます。上記の戊午年11月10日条の女軍は戦士ではなく巫女の群で、敵を調伏する呪文を唱えながら本隊の先頭に立って敵に接近し、敵の戦意を喪失させ、味方の志気を鼓舞することが任務であったと考えられます。このような戦い方は、中国の古代の戦争にもしばしば見られたものです。したがって敵は、神武軍の女軍の後には本隊が進んでくるものと考え、全力をあげて邀撃体制をとったところへ、別の墨坂を迂回した神武軍の別動隊によって後方から挟み打ちされて敗北したのです。

(33) 三輪(みわ)山

 

 三輪山(467メートル)は、桜井市北部にあり、美和山とも記し、三諸山(みもろやま)、御諸山ともいいます。南は初瀬川、北は巻向(まきむく)川で限られ、背後には巻向山、初瀬山が連なります。松杉の老木で覆われた端正な円錐形の山です。

 この山の西麓には、神殿が無く、この山をご神体とする大神(おおみわ)神社があり、山裾を縫って山辺の道が巻向、石上へと続いています。

 『日本書紀』神代上第8段に大己貴神の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)が「日本(やまと)国の三諸山」に「大三輪の神」として鎮座したとあります。この神は、『古事記』大国主神の項には「倭の青垣の東の山の上に伊都岐奉」る「御諸山の上に坐す神」としてみえます。

 また、崇神紀10年9月条には「ヤマトトトビモモソヒメ」と御諸山の神、大物主神との神婚説話があり、『古事記』崇神天皇の項には意富多多泥古の出生に関する三輪山伝説が記され、遺(のこ)った「三勾(みわ)の麻糸」にちなんで「其地を名づけて美和と謂ふ」、「意富多多泥古を以て神主として御諸山に意富美和の大神の前を拝き祭りき」とあります。

 この「みわ」は、(1) 「輪形の山」の意、

(2) 「己輪」で蛇がとぐろを巻いた形の山の意、

(3) 「御岩」の約、

(4) 「水曲(みわ)」の意などの説があります。

 また、この「みもろ」は、「ミ」は神の意、「モロ」は朝鮮語「モリ、mori、山」と同源の語で「神の降下してくる所」と解する説(岩波大系本『日本書紀上』注)があります。

 この「みわ」、「みもろ」は、マオリ語(またはハワイ語)の

  「ミヒ・ワ」、MIHI-WA(mihi=sigh for,greet,admire;wa=place,area)、「崇敬する(神の鎮座する。聖なる)・場所(地域。そこの山)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「ミヒ・モロ」、MIHI-MOLO(mihi=sigh for,greet,admire;(Hawaii)molo=to turn,to twist,to interweave and interlace)、「崇敬する神が・(大国主神から大物主神へ)交代した(山)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 (注)上記の記紀の記事は、当初この地方を支配していた出雲系の大国主神を祀る部族を、後にこの地方にやってきた崇神天皇をその首長とする渡来系の大物主神を祀る部族が駆逐した歴史を記述したものと解する説があります(『古事記』は、「御諸山の上に坐す神」と「意富美和の大神」を厳然と区別して記述しています)。

 私は、平成17年6月に古代史研究グループの仲間とともに大神神社の摂社狭井(さゐ)神社でお祓いを受けて三輪山に登る機会を得ました。この山は大神神社のご神体ですから、出羽湯殿山と同様、その状況を口外することは本来憚られるのですが、その山頂に立って愕然としたのは、「山頂には巨大な磐座(いわくら)がある」と聞いていたのに、そこにあつたのはかって存在した巨大な磐座が砕かれたのではないかと直感させられるようなせいぜい直径2メートル前後のあまり丸みのない大石多数が約80メートル四方ぐらいにわたって堆積・散乱している光景でした。

 崇神紀48年正月条には、崇神天皇が夢占によって後継者を選定する記事があり、活目尊が「自ら御諸山の嶺に登って縄を四方に巡らして粟を食む雀を逐った」といったので、皇太子に立てられたとあります。夢ではありますが、山上に粟があるはずもありません。そこでこの記事は、駆逐した出雲族が信仰の依り所としていた磐座を破壊して神が降臨できないようにしたことを意味するものと考えますと、この「すずめ」は、

  「ツツ・メハ」、TUTU-MEHA(tutu=set on fire,be raised as dust,violent;meha=separate(memeha=decaying,be dissolved))、「(磐座に)火をかけて(加熱した後水をかけて岩を割る)・粉々にした」(「メハ」のH音が脱落して「メ」となつた)

と解することができます。(大石に火をかけて破壊する話は、『続日本紀』宝亀元年2月条に「西大寺東塔の心礎の巨石(方一丈、厚さ九尺)を東大寺の東の飯盛山から苦労して運んで据えたが、巫覡(ふげき)の徒が何かにつけて石の祟りといって騒ぐので、大石に柴を積んで焼き、三十余斛の酒を灌いで片々に破却して道に捨てた。一月余の後に称徳天皇が病気になり、卜つたところ破られた石の祟りということであった。そこで道に捨てた石片を拾い、浄らかな場所に積んで人馬に踏ませないようにした」とあります。これも巨石には神が宿るとする古代からの信仰の現れでしょう。)

(34) 巻向(まきむく)

 

 奈良盆地の南東部、三輪山の北・西部一帯を指す地名です。

 『日本書紀』垂仁紀2年10月条に「纏向(まきむく)に都つくる。是を珠城(たまき)宮と謂ふ」と、景行紀4年11月条に「纏向(まきむく)に都つくる。是を日代(ひしろ)宮と謂す」とあります。

 また、巻向山(567メートル)は、三輪山の北東にあり2峰からなり、『万葉集』に詠まれる弓月ケ嶽(ゆつきがたけ。由槻ケ嶽)はこの1峰とされます。巻向山に発して南西に流れて初瀬川に注ぐ巻向川は、巻目(まきもく)川、穴足(あなし。痛足)川とも呼ばれました。

 この「まきむく」は、マオリ語の

  「マ・アキ・ムク」、MA-AKI-MUKU(ma=white,clean,to be possessed by,to be acted by;aki=dash,beat,abut on;muku=wipe,smear)、「(三輪山に)接して・いる・(表面が拭ったように)滑らかな(場所。またはその山)」(「マ」の語尾のA音と「アキ」の語頭のA音が連結して「マキ」となった)

の転訛と解します。

 この「ゆつき」は、マオリ語の

  「イ・ウツ・キ」、I-UTU-KI(i=beside;utu=spur of a hill;ki=full)、「丸く膨らんだ山の山頂一帯」

の転訛と解します。

 この「あなし」は、マオリ語の

  「ア・ナチ」、A-NATI(a=the...of;nati=pinch,contract)、「(山や尾根に挟まれて)狭くなったところ(またはそこを流れる川)」

の転訛と解します。

(35) 狭井(さゐ)神社・桧原(ひばら)神社

 

 大神神社から山辺道を北に辿ると、狭井川のほとりに狭井神社、さらにその北に桧原神社があります。

 狭井神社は、式内社の狭井坐大神荒魂神社で、現在は大神神社の摂社となり、大神の荒魂のほか神武天皇の妃「ホトタタライススキヒメ」、またの名は「ヒメタタライスケヨリヒメ」を祀る神社です。大神神社のご神体である三輪山の管理を司り、同山に登るには狭井神社に神饌料を納め、お祓いを受けなければなりません。

 この「さゐ」は、

  「タヰ」、TAWHI(hold,suppress feelings etc.)、「(古くからの信仰の伝統や聖地を)保持する(神社)」または「抑圧された(もと三輪山に鎮座していた大国主の神を祀る。神社)」(前出(33)三輪山の(注)を参照してください。)

の転訛と解します。 (この「狭井(さゐ)川」および妃の名については、古典篇(その三)の4の(4)「イハレヒコの妃と御子たち」の項を参照してください。)

 桧原神社は、大神神社の摂社で、三輪山の磐座をご神体とするため、本殿はなく、三つ鳥居と玉垣があるだけです。この地は『日本書紀』崇神紀6年条に豊鍬入姫命に天照大神を「倭の笠縫邑に祭らしむ」とある笠縫邑の伝承地で元伊勢とも呼ばれます。

 この「ひばら」は、マオリ語の

  「ヒ・パラ」、HI-PARA(hi=raise,rise;para=cut down bush,clear,shine clearly,come out from the clouds)、「高いところの・薮を切りはらつた(場所。(三輪山の)遙拝地。または暗いところ(宮中)から移って高いところに据えられて輝いた(場所))」

の転訛と解します。

(36) 穴師坐(あなしにいます)兵主(ひょうず)神社

 

 桧原神社の北、桜井市穴師に穴師坐兵主神社があります。『延喜式』の明神大社で、巻向山の高峰弓月ケ嶽山頂に上社がありましたが、応仁の乱で焼失し、麓の下社に合併したと伝えています。(兵主神社は、その漢字表記から、『史記』封禅書の宇宙を支配するという八神の一つ兵主(そもそも「兵主」とは兵士に対する「将軍」の意)に擬し、戦いの神、兵器の神を祀るとする説があります。)

 なお、崇神紀25年3月条の一書には、渟名城稚(ぬなきわか)姫命に命じて大倭大神を「神地(かむどころ)を穴磯(あなし)邑に定め、大市の長岡岬を祠(いは)いまつる」とあります。(「あなし」については上記の「巻向」の項を、「大市」については入門篇(その三)の「箸墓伝説の真実」の項を参照してください。)

 この「ひょうず」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ヒオ・ツ」、HIO-TU((Hawaii)hio=lean,slope;tu=stand,settle)、「(高峰の)傾斜地に・鎮座する(神)」

 または「ヒオ・ツ」、HIO-TU((Hawaii)hio=restless,active;tu=fight with,energetic)、「精力的に・戦う(神。その神を祀る神社)」

の転訛と解します。

 なお、「兵主」の漢字表記が古い伝承を正しく伝えていたものであったとすれば、

  「ピアウ・ツ」、PIAU-TU(piau=axe,generally restricted to an iron axe ;tu=stand,fight with)、「鉄の斧(を武器として)で・戦う(神。その神を祀る神社)」(「ピアウ」のP音がF音を経てH音に、AU音がO音に変化して「ヒオ」から「ヒョウ」となった)

の転訛と解することもできます。

(37) 海石榴市(つばいち)

 

 『日本書紀』武烈即位前紀に「海石榴市の巷(ちまた)」、推古紀16(608)年8月条に隋使裴世清の一行を「海石榴市の術(ちまた)」に迎えたとあります。

 ここは横大路と山辺路の交点の現桜井市金屋付近、または横大路と上ツ道の交点の三輪字上市から金屋字上市口あたりで、「椿」が植えられ、「駅館」があり、『万葉集』巻12、2,951の歌(海石榴市の八十のちまたに立ち平し結びし紐を解かまく惜しも)から、ここでは市が開かれるとともに、歌垣の場所であったと考えられています。

 この海石榴市は、古くは『延喜式』因幡国八上郡に「都波只知(つばきち)上神社」とあり、『元興寺縁起』に「都波岐市」とあることから、「つばきち」で、

その音便形「つばいち」が後世まで使われたとされます。

 この「つばきち」は、マオリ語の

  「ツパキ・チ」、TUPAKI-TI(tupaki=slope of a hill,fair whithout rain;ti=throw,cast)、「山の麓に(放り出されて)在る(場所)」

の転訛と解します。

 この「つばいち」は、マオリ語の

  「ツパ・イチ」、TUPA-ITI(tupa=dried up,barren,flat;iti=small)、「小さな荒れた平地」

の転訛と解します。

(38) 箸墓(はしはか)古墳

 

 桜井市箸中にヤマトトトビモモソヒメの墓と伝える箸墓古墳があります。これについては、入門篇(その三)の「箸墓伝説の真実」を参照してください。

(39) 鍵・唐古(かぎ・からこ)遺跡

 

 奈良盆地のほぼ中央、寺川と初瀬川の間、田原本町鍵と唐古地区にわたって、弥生時代の大規模な環濠集落跡があります。弥生時代全期間にわたる豊富な土器や、木製農具、銅鐸の鋳型などが出土しています。

 近世において田原本町は、大和川水運の結節点として栄えました。古代においても同様であったものと思われます。

 この「かぎ」、「からこ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「カ(ン)ギア」、KANGIA(=ka=take fire,be lighted)、「居住地(集落)」

  「カ・ラコ」、KA-LAKO(ka=take fire,be lighted;lako(Hawaii)=supply,provisions,wealth,rich)、「物資を供給する村(富裕な村)」

の転訛と解します。

(40) 十市(とおち)郡

 

 十市郡は、『日本書紀』孝安紀26年2月条に「十市」県主とみえ、『延喜式』にみえる十市御県坐神社の鎮座地(旧十市郡耳梨村十市)を中心とする地域で、おおむね現櫻井市の南部、現橿原市の北部、現磯城郡田原本町の西南部の地域です。十市郡は、北は磯上郡、磯下郡、東は宇陀郡、南は吉野郡、西は高市郡に接していました。『和名抄』は、「止保知」と訓じています。

 この「とおち」は、(1) 「遠方の市」の意、

(2) 「トヲ(タヲ、撓む、川や山際の曲がったところ、山の鞍部)・チ(場所を示す接尾語)」の意とする説があります。

 この「とおち」は、マオリ語の

  「トウ・チ」、TOU-TI(tou=dip into a liquid,wet;ti=throw,cast)、「水の中に放り出された(湿地に位置する地域)」

の転訛と解します。 

(41) 磐余(いわれ)

 

 『日本書紀』神武即位前紀己未年2月20日条に「磐余(いはれ)の旧の名は片居(かたゐ)、亦は片立(かたたち)と曰ふ。・・・磯城の八十梟師、彼処に屯聚(いは)み居たり。・・・故、名づけて磐余邑と曰ふ」とあります。

 この地は、現桜井市南西部の池の内、橋本、阿部から橿原市東池尻町を含む同市南東部にかけての地域で、宇陀盆地から奈良盆地に入る要衝の地でした。現桜井市谷には、磐余山があるといいます(岩波大系本注)。このあたりは、古く奈良盆地の中央にあった湖の入り江が入り込んでいたと思われます。

 この「いはれ」は、(1) 「イワ(石)・ムレ(聚)」の意、

(2) 「イワ(石)・ハレ(聚)」の意、

(3) 「岩根」の意とする説があります。

 この「いはれ」は、マオリ語の

  「イ・ハレ」、I-HARE(i=past time,beside;hare=here=come,go)、「(他所から軍が。または神武天皇が)やって来た場所」

の転訛と解します。古典篇(その三)を参照してください。

 この片居の「かたゐ」、片立の「かたたち」は、マオリ語の

  「カタ・アヰ」、KATA-AWHI(kata=opening of shellfish;awhi=embrace,besiege)、「貝が口を開いたような(入り江の)場所を・取り囲む(地域)」

  「カタ・タチカ」、KATA-TATIKA(kata=opening of shellfish;tatika=coastline)、「貝が口を開いたような(入り江の)場所の・岸辺」

の転訛と解します。

 前出の『日本書紀』履中紀3年11月条の「磐余の市磯(いちし)池」は、同2年11月条の「磐余池」と同じで、現桜井市池之宮あたりにあったとされます(岩波大系本)。

 しかし、そこに浮かべた「両枝(ふたまた)船」は、大型のダブル・カヌー(二隻の丸木船を連結して広い床を張ったもの)形式の船と思われますが、このような大型船を潅漑用の磐余池に持ち込むのは容易なことではありません。これは大和川水運に常用していた船を川・水路につながった池に回送して用いたとものと考えるべきです。

 この市磯(いちし)池の「いちし」は、マオリ語の

  「イ・チチ」、I-TITI(i=beside;titi=radiating lines of tatooing on the center of the forehead)、「額の放射状の入れ墨の線(のような川)のそば(の池)」

の転訛と解します。この川は、おそらく寺川でしょう。

 前出の「磐余稚桜宮」は、神功摂政3年正月条に「磐余に都つくる」とあり、分注に「是を若桜宮と謂う」とあります。この「若桜」、「稚桜」は、通常「わかさくら」と読んでいますが、桜井市谷の若桜神社は「わかさ」、因幡国八上郡若桜郷(現鳥取県八頭郡若桜町)も「わかさ」の音に「若桜」、「稚桜」の字をあてています。

 この「わかさ」は、マオリ語の

  「ワ・カタ」、WA-KATA(wa=the...place;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開いたような(入り江の場所に造営された宮)」

  または「ワカ・タ」、WAKA-TA(waka=canoe;ta=dash,lay,allay)、「船が・並んで置かれている(細長い水路のほとりに造営された宮)」

の転訛と解します。(カサ地名については、入門篇(その一)を参照してください。)

 以上のほか、『日本書紀』には清寧紀元年正月条に「磐余甕栗(みかくり)(宮)」、継体紀20年9月条に「磐余玉穂(たまほ)(宮)」、用明即位前紀敏達14年9月条に「磐余池辺双槻(いけのへのなみつき)宮」の名がみえます。

 この磐余甕栗宮の「みかくり」、磐余玉穂宮の「たまほ」、磐余池辺双槻宮の「なみつき」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ミ・カク・リ」、MI-KAKU-RI(mi=river,stream;kaku=scrape up,bruise;ri=screen,protect,bind)、「川が・浸食した場所が・連なった(場所に造営した宮)」または「ミカ・クリ」、MIKA-KURI(mika(Hawaii)=to press,crash;kuri(Hawaii)=knee)、「崩れた膝(のような場所に造営した宮)」

  「タマ・ホ」、TAMA-HO(tama=son,chid,man;ho=put out the lips,droop,shout)、「(天皇が崩御して(皇后の産んだ))子供の・元気がなくなった(宮)」もしくは「天皇が崩御して(皇后の産んだ)子供が・叫び声をあげた(痛めつけられた。または殺された。宮)」または「タ・マホ」、TA-MAHO(ta=the,lay;maho=quiet)、「実に静かな(場所に造営した宮)」

  「ナ・アミ・ツキ」、NA-AMI-TUKI(na=belonging to;ami=gather,collect;tuki=beat,butt,attack)、「(天皇に対する打撃である)難事件が・次々に・降りかかった(宮)」(「ナ」のA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「ナミ」となった)

の転訛と解します。

(42) 多武峰(とうのみね)

 

 桜井市の南西部、寺川上流一帯の名称です。狭義では竜門山地中部の御破裂(ごはれつ)山(破裂山とも。619メートル)をいいますが、広義ではその南麓一帯を含めた名称で、また多武峰寺の略称でもあります。

 『日本書紀』斉明紀2年是歳条に「田身(たむ)嶺に、冠らしむるに周れる垣を以てす。復、嶺の上に両つの槻の樹の辺に観(たかどの)を起つ。號けて両槻(ふたつき)宮とす。亦は天(あまつ)宮と曰ふ」とあります。

 ここには後に藤原鎌足の墓が移され、天武7(678)年ごろ十三重塔と堂が建てられ、藤原氏の隆盛とともに多武峰寺が整備されます。延長4(926)年には藤原鎌足に談峰権現(のち談山明神)の神号が与えられて、神仏混交の信仰が形成されました。その後幾多の盛衰を経て、明治の神仏分離によって談山神社となりました。「西の日光」といわれ、桜、紅葉の名所です。

 この「とう」は、峠を意味する「タワ」からとする説があります。

 この「たむ」、「とう」は、マオリ語の

  「タ・ム」、TA-MU(ta=the,lay;mu=silent)、「静かな(山)」

  「タウ」、TAU(come to rest,settle down,be suitable,beautiful)、「安息の(美しい山)」

の転訛と解します。

 この御破裂山の「ごはれつ」は、マオリ語の

  「コハラ・イツ」、KOHARA-ITU(kohara=split open,shine,be enraptured;itu=side)、「裂けたところのあたり」

の転訛と解します。

この両槻宮の「ふたつき」は、マオリ語の

  「フ・タツ・キ」、HU-TATU-KI(hu=promontry,hill,silent,desire;tatu=reach the bottom,be content,strike one foot against the other;ki=full,very,each)、「(天皇が)望みを・十分に・叶えた(満足した。宮)」

の転訛と解します。(これを「なみつき」と読む説がありますが、斉明天皇の事績、現地の立地条件等に照らしてふさわしい解釈ができません。)

 この談山神社の「たんざん」は、マオリ語の

  「タ(ン)ガタ(ン)ガ」、TANGATANGA(loose,comfortable)、「快適な(場所、山)」

の転訛と解します。

 なお、この両槻宮に「観(たかどの)を起つ」とあるところから、ここに道教の寺院、「道観(どうかん)」があったとする説(黒板勝美氏)がありますが、上記の地名解釈からはなんとも言えません。

(43) 外山(とび)

 

 桜井市南部に外山の地名があり、外見(とみ)山が二字化されたものとされています。ここの鳥見(とみ)山の麓には、式内社等彌(とみ)神社が鎮座します。

『日本書紀』雄略紀10年10月条には、磐余村に水間君が献じた「鳥養人(とりかい)を安置す」とみえます。

 宇陀郡榛原町にも鳥見(とりみ)山があり、『日本書紀』神武紀4年2月条にみえる「鳥見(とみ)山の中の霊畤(まつりのには)」の伝承地とされています。『古事記』、『日本書紀』神武即位前紀戊午年12月条には金鵄飛来伝説にちなむ鵄(とび)から「鳥見(とみ)」の由来説話があります。

 この「とみ」は、(1) 鳥養部(とりかいべ)が鳥部となり、「トビ」、「トミ」と転じた、

(2) 飛火(とぶひ。古代の烽)山から「トビ」、「トミ」と転じた、

(3) 「トビ、トミ(崖、崩れ地)」の意とする説があります。

 この「とみ」は、マオリ語の

  「タ・ウミ」、TA-UMI(ta=the;umi(Hawaii)=to strangle,choke,smother,supress)、「押し潰されて滑らかになった(山)」

の転訛(連続したA・U音がO音に変化して「トミ」となつた)と解します。

(44) 桜井茶臼(ちゃうす)山古墳・メスリ山古墳

 

 桜井茶臼(ちゃうす)山古墳は、桜井市外山(とび)にあり、鳥見(とみ)山の尾根の末端を利用して造成したもので、全長210メートルの前方後円墳です。4世紀中葉の造成とする説があり、碧玉の杖や玉が出土し、葺石と墳頂に円筒埴輪の祖型とされる壷形土器を並べています(同じ名を持つ赤堀茶臼山古墳(群馬県。5世紀前葉)、池田茶臼山古墳(大阪府。4世紀後葉)、柳井茶臼山古墳(山口県。4世紀後葉)は、いずれも葺石と円筒埴輪列をめぐらしています)。

 この「ちゃうす」は、マオリ語の

  「チア・ウツ」、TIA-UTU(tia=peg,adorn by sticking feathers,slave,servant,abdomen;utu=satisfaction,dip into water etc.,spur of a hill)、「墳丘の上を(壷形土器を並べて)飾った(古墳)」または「従者を(周囲に)埋めて殉死させた(古墳)」

の転訛と解します。

 メスリ山古墳は、鳥見山の西、桜井市高田にあり、桜井茶臼山古墳を凌ぐ全長224メートルの雄大な前方後円墳です。ここでも玉杖が出土し、葺石と大きな円筒埴輪列がめぐらされています。

 この「メスリ」は、マオリ語の

  「メ・ツリ」、ME-TURI(me=as if,like;turi=knee)、「(墳丘の)形が膝に似ている(古墳)」

の転訛と解します。

(45) 高市(たかち)郡

 

 高市郡は、『日本書紀』欽明紀17年10月条に「高市郡」がみえ、天武紀元年7月条に高市社(高市御県坐鴨事代主神社(橿原市高殿町))、身狭社(牟佐坐神社(橿原市見瀬町))の神が高市郡大領高市県主許梅に神がかりしたとあり、

おおむね現橿原市(北部の旧耳梨村の地域を除く)、高市郡明日香村、高取町、大和高田市の一部の地域です。高市郡は、北は広瀬郡、東は十市郡、南は吉野郡、西は葛上郡、忍海郡、葛下郡に接していました。『和名抄』は、「多介知」と訓じています。

 この「たかち」は、「タカ(高)・チ(場所を表す接尾語)」の意とする説があります。

 この「たかち」は、マオリ語の

  「タカ・チ」、TAKA-TI(taka=heap,lie in a heap;ti=throw,cast)、「高いところに放り出された(高台に在る地域)」

の転訛と解します。

(46) 大和三山(畝傍山、耳成山、天香具山)

 

 奈良盆地の南、橿原市に畝傍山(うねびやま。199メートル)、耳成山(みみなしやま。140メートル)、天香具山(あめのかぐやま、あまのかぐやま。152メートル)の大和三山があります。三山を結ぶ三角形の中央には藤原京跡があります。

 

a 畝傍山

 『播磨国風土記』揖保郡の項には畝傍山をめぐって耳成山と天香具山が争ったと記され、『万葉集』(巻1、13)に

  「香具山は畝火雄々しと耳梨と相あらそひき 神代よりかくあるらし 古昔もしかにあれこそうつせみも嬬をあらそふらしき」(天智天皇)

とあります。

 畝傍山は、花崗岩中に黒雲母安山岩が噴出した残丘で、平野にこんもりと盛り上がった形の山です。

 この「うね」は、山の尾根のうねり廻ったところ、「び」は「傍」で、「辺」の意とする説があります。

 この「うねび」は、マオリ語の

  「ウ・ネピ」、U-NEPI(u=breast of a female;nepi=stunted,diminutive)、「いじけた(変形した)乳房(のような山)」

の転訛(「ネピ」のP音がB音に変化して「ネビ」となつた)と解します。

 

b 耳成山

 耳成山は、きれいな円錐形の山で、山中にくちなしの木が多く、この「みみなし」は、(1) 「くちなし」にかかわる山名、

(2) 「ミミ(氏族の首長)」を失った氏族の本拠の山であろう(?)という説があります。氏族の首長名に付された「ミミ」は、「川の水利を管理する者」の意味と解します。(古典篇(その三)の4の(4)イハレヒコの妃と御子たちの項を参照してください。)

 この「みみなし」は、マオリ語の

  「ミミ・ナチ」、MIMI-NATI(mimi=stream;nati=to pinch)、「川(と川)に挟まれた(山)」

の転訛と解します。耳成山の東南から西北にかけての山麓には米(よね)川が流れ、南の山麓には山麓に接する沼から西北に流れ出る無名の(地図に表記のない)小川が流れています(この小川は、山麓を離れるとすぐに米川と合流し、米川はやがてさらに北を流れる銭川と合流して寺川となり、末は大和川に合流します)。

 なお、耳成山の地は旧十市郡の地域です。

 

c 天香具山

 天香具山は、竜門山地の末端部の丘陵に並行して緩やかな「へ」の字形をしている細長い山で、『延喜式』には「畝尾」とあり、うねが長くつづく形状を示しています。

 この「あまのかぐ」は、マオリ語の

  「アマ・ノ・カク」、AMA-NO-KAKU(ama=outrigger of a canoe;no=of;kaku=scrape)、「(中央部が)引き裂かれたカヌーのアウトリガー(舷の側に付けられた浮き材のような山)」

の転訛と解します。

 なお、天香具山の地は旧十市郡の地域です。

(47) 飛鳥(あすか)

 

a 飛鳥

 飛鳥は、奈良盆地南東部の歴史的地名です。通常高市郡明日香村の東部と橿原市の一部のかなり広い地域を指しますが、本来は天香具山の南、橘寺・岡寺に至る間の低い丘陵に囲まれた中央を飛鳥川が流れる小範囲の地域をいいました。

 この地には、早く允恭天皇の遠飛鳥宮、顕宗天皇の近飛鳥宮が営まれ、7世紀の初め推古天皇が豊浦宮で即位し、さらに近くに小墾田宮を造営して以後、舒明天皇の飛鳥岡本宮、皇極天皇の飛鳥板葺宮、斉明天皇の飛鳥川原宮・後飛鳥岡本宮、天武天皇の飛鳥浄御原宮がつぎつぎに営まれ、孝徳朝の難波遷都と天智朝の近江遷都の短期間を除き、持統8(694)年の藤原京遷都まで、日本の古代政治の中心をなし、律令制国家もここで誕生しています。

 この「あすか」は、(1) 「ア(接頭語)・スカ(住処)」の意、

(2) 「ア(接頭語)・スカ(州処)」の意、

(3) 「アスカラ(安伽羅、伽耶諸国のうちの1国。所在不明)」の約などとする説がありますが、定説はありません。

 この「あすか」は、マオリ語の

  「アツ・カ」、ATU-KA(atu=to form comperative or superlative or simply as an intensive,very;ka=take fire,be lighted)、「最高(最上)の居住地」

の転訛と解します。

 

b 甘橿(あまかし)丘

 奈良盆地の南端を限る細長い丘(148メートル)で、大和三山をはじめ奈良盆地を一望することができます。丘陵の東を飛鳥川が北流し、北西麓には豊浦宮と推定される豊浦寺跡(現向原寺)があり、その西には式内社甘橿坐神社があります。

 この「あまかし」は、マオリ語の

  「アマ・カチ」、AMA-KATI(ama=outrigger of a canoe;kati=be left in statu quo,barrier,bite)、「置き去りにされた(または通行の障害になっている)カヌーのアウトリガー(のような細長い丘)」

の転訛と解します。

 

c 豊浦(とゆら)宮・小墾田(おはりだ)宮・板葺(いたぶき)宮

 甘橿丘の北西麓、明日香村豊浦には豊浦宮跡があり、その北の明日香村豊浦の「古宮土壇」と呼ばれる場所に小墾田宮跡推定地があります。また、明日香村岡地区には板葺宮伝承地がありますが、最近の発掘結果によると、岡本宮ないし浄御原宮の可能性が出てきています。

 この「とゆら」、「おはりだ」、「いたぶき」は、マオリ語の

  「トイ・ウラ(ン)ガ」、TOI-URANGA(toi=summit,top,finger,move quickly,encourage;uranga=act or circumstance of becoming firm,place of arrival)、「(推古天皇がその場所で)最高の地位(天皇位)に・到達した(即位した。宮)」(「トイ」のI音と「ウラ(ン)ガ」の語頭のU音が連結し、語尾のNGA音が脱落して「トユラ」となった)

  「オ・ハリ・タ」、O-HARI-TA(o=the place of;hari=dance,song,joy,feel or show gladness;ta=dash,beat,lay)、「(推古天皇が)その場所で・(日々)喜びを顕わして(感じて)・いた(宮)」

  「イタ・プキノ」、ITA-PUKINO(ita=tight,fast;pukino=greedy)、「(皇極・斉明天皇の)小規模だが・贅を凝らした(注文の多い設計の。宮)」

の転訛と解します。

 

d 石舞台(いしぶたい)古墳(桃原(ももはら)墓)

 岡寺の南、明日香村島ノ庄に巨石を積み上げた石組みの石舞台古墳があります。7世紀初めの上円下方墳の上円部の封土が露出した状態のものです。『日本書紀』推古紀34年5月条に蘇我馬子が没して「桃原(ももはら)墓に葬る」とあり、馬子を「嶋大臣と曰う」とあるところから、石舞台古墳を馬子の墓とする説があります。

 この名は、「石がある舞台(高台。方墳を指した)」と解されています。

 この「いしぶたい」は、マオリ語の

  「イ・チプ・タイ」、I-TIPU-TAI(i=past time,beside;tipu=swelling,lump;tai=the sea,anger,violence)、「(封土を削られ、墓を暴かれて)怒りがいっぱいに膨らんだ(ような石。その石がある古墳)」または「イ・チプ・タヒ」、I-TIPU-TAHI(i=past time,beside;tipu=swelling,lump;tahi=one,(first),single,unique)、「膨らんだ特異な(石。その石がある古墳)」

の転訛と解します。

 この「ももはら」は、マオリ語の

  「モモ・ハラ」、MOMO-HARA(momo=in good condition,well proportioned;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「鄭重に葬られた(墓。古墳)」

の転訛と解します。この「モモ」は、箸墓に葬られたと伝えられるヤマトトトビモモソヒメの「モモ」と同じ語源です(入門篇(その三)を参照してください)。

(48) 剣(つるぎ)池

 

 橿原市石川町にある石川池(剣池)に、半島状に突き出た形をした孝元天皇陵(剣池島上陵)があります。『日本書紀』応神紀11年10月条に「剣池を作る」とあり、皇極紀3年6月条には剣池に一本の茎に二つの花が咲き、蘇我蝦夷が蘇我氏繁栄の瑞兆と喜んだとみえています。この池の西側は低地、北側は西の低地へ下る切り通しの坂になっており、西から北にかけて堤防を築いて溜池を造成したものと思われます。

 この「つるぎ」は、昔宝剣を沈めたからといいます。

 この「つるぎ」は、マオリ語の

  「ツルキ」、TURUKI(grow up in addition,come as a supplement)、「(堤防を)補足して築いた(溜池)」

の転訛と解します。

(49) 見瀬丸山(みせまるやま)古墳

 

 橿原市見瀬町、大軽町、五条野町にまたがつて奈良県下最大の前方後円墳である見瀬丸山古墳があります。現在は前方部がすっかり削り取られて平になっていますが、全長318メートル、全国第6位の大きな古墳です。これは現在陵墓参考地ですが、真の欽明陵とする説が有力です。

 この「みせ」は、畝傍山の南やよび南東一体を指す古代地名の「身狭(むさ)」の転とする説があり、この古墳を『日本書紀』宣化紀4年11月条の「身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうへ)陵」とする説もあります。

 この「みせ」、「まる」、「むさ」は、マオリ語の

  「ミ・テ」、MI-TE(mi=urine,stream;te=crack)、「川の割れ目(瀬。瀬のある場所)」

  「マル」、MARU(bruised,power,shelter,shield)、「(墳丘が)破壊された(山。古墳)」または「(被葬者の遺体を保護する)墓郭(が築かれている山。古墳)」

  「ム・タ」、MU-TA(mu=silent;ta=dash,lay)、「静かに居る(鎮座する場所)」

の転訛と解します。

(50) 高取(たかとり)山

 

a 高取山

 高市郡高取町の南にある竜門山地に属する山(584メートル)で、山頂には中世から山城が築かれていました。登り口には、猿石と呼ばれる謎の石像があり、古代の遺跡があった可能性があります。

 この「たかとり」は、マオリ語の

  「タカ・タウリ」、TAKA-TAURI(taka=heap,lie in a heap;tauri=fillet,band)、「高くなっている鉢巻きを締めた(ような頂上が切り立った嶮しい山)」

の転訛と解します。

 

b 壷坂(つぼさか)

 高取山の西、壷坂峠の下の壷坂には、『壷坂霊験記』で名高い西国33番札所第6番の壷坂寺があります。

 この「つぼさか」は、マオリ語の

  「ツポ・タカ」、TUPO-TAKA(tupo=ill omen,gruesome;taka=heap,lie in a heap)、「陰鬱な高台」

の転訛と解します。

(51) 山辺(やまのべ)郡

 

 山辺郡は、『日本書紀』仁賢紀6年是歳条に「山辺郡額田邑」がみえ、崇神紀68年12月(垂仁紀は68年10月)条に崇神天皇を「山辺道上陵」(『古事記』崇神記には「山辺道勾之岡上」)に葬ったと、成務紀2年11月条に景行天皇を「山辺道上陵」に葬ったとあり、おおむね現天理市、山辺郡都祁村、山添村、宇陀郡室生村の北部の地域です。山辺郡は、北は添上郡、東は伊賀国、南は宇陀郡、磯上郡、西は添下郡、磯下郡に接していました。『和名抄』は、「夜万乃倍」と訓じています。

 この「やまのべ」は、(1) 「山沿いの地方」の意、

(2) 「山守部」の中間省略とする説があります。

 この山辺郡の「やまのべ」は、布留(ふる)川が奈良盆地へ出て天理市井戸堂のあたりで大きくカーブした後初瀬川に合流しますが、その井戸堂のあたりの旧山辺村(式内社山辺御県坐神社が鎮座します)付近の地名で、マオリ語の

  「イア・マ・ナウペ」、IA-MA-NAUPE(ia=indeed;ma=white,clear;naupe=bend,stoop)、「実に清らかな、(川が)曲がっている(場所)」

の転訛と解します。

 この山辺道上陵、山辺道の「やまのへ」は、山辺道のあたりの山々が滑らかな形状をしていることによるもので、マオリ語の

  「イア・マ・(ン)ゴヘ」、IA-MA-NGOHE(ia=indeed;ma=white,clear;ngohe=supple,soft,quivering)、「実に清らかでしなやかな(山波の場所。そこを通る道)」

の転訛(「(ン)ゴヘ」のNG音がN音に変化して「ノヘ」となつた)と解します。

(52) 柳本古墳群

 

 山辺道の周辺には、天理市石上から桜井市巻向にかけて、大和(おおやまと)古墳群、柳本古墳群、箸中古墳群が分布しています。

 

a 西殿塚古墳(衾田(ふすまだ)陵)

 天理市中山町に大和古墳群の主墳、全長219メートルの前方後円墳で、継体天皇の皇后、手白香(たしらか)皇女の陵とされる西殿塚古墳があります。周濠は埋められて畑となり、墳丘に崩れがみえます。前方部は、丸味をもって開いています。

 この「ふすまだ」は、マオリ語の

  「フ・ツマ・タ」、HU-TUMA-TA(hu=promontory,hill;tuma=challenge,abscess;ta=dash,lay)、「(中に)膿(うみ)が溜まっているような丘」

の転訛と解します。

 

b 行灯(あんどん)山古墳(崇神陵)

 天理市柳本町に、全長242メートルの前方後円墳で、崇神天皇陵(山辺道勾岡上陵)とされる行灯山古墳があります。左右に造り出しがあり、傾斜地に築かれているため、周濠の三ケ所に墳丘と結ぶ堤防が設けられています。

 この「あんどん」は、マオリ語の

  「ア(ン)ガ・ト(ン)ガ」、ANGA-TONGA(anga=aspect,shell,stone of fruit;tonga=restrained,suppressed,secret(whakatonga=keep oneself quiet,lurk))、「(外側の)殻のような周濠の・内にひそかに埋蔵する(墳墓。古墳)」(「ア(ン)ガ・ト(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「アナ・トナ」から「アントン」、「アンドン」となった)(「行灯(あんどん)」も同じ語源で、「(外側の)殻のような風除けの・内で静かに燃える(灯り。行灯)」と解します。この古墳には、周濠と墳丘を結ぶ堤防があるところから、全体を行灯に見立てたものでしょう。)

の転訛と解します。

 

c 櫛(くし)山古墳

 行灯山古墳の東に、珍しい形の、円墳の左右に方形墳を付けたような形の双方中円墳(全長76メートル)の櫛山古墳があります。長持形の石棺が出土しています。

 この「くし」は、マオリ語の

  「クチ」、KUTI(draw tightly together,contract,pinch)、「(円墳の左右に方形墳を。または前方後円墳に方形墳を)しっかりとくっ付けた(古墳)」

の転訛と解します。

 

d 柳本天神(てんじん)山古墳

 行灯山古墳の西に、全長113メートルの前方後円墳の天神山古墳があります。

 この「てんじん」は、マオリ語の

  「テ(ン)ガ・チノ」、TENGA-TINO(tenga=Adam's apple,distended,extinguished;tino=essentiality,very,main)、「傑出して膨らんでいる(古墳)」

の転訛と解します。

 前橋天神山古墳(群馬県前橋市広瀬町。前方後円墳全長129メートル)、太田天神山古墳(群馬県太田市内ケ島。前方後円墳全長210メートル)、福井天神山古墳(福井市篠尾町。円墳直径50メートル)なども同じ語源でしょう。

 

e 渋谷向(しぶたにむこう)山古墳(景行陵)

 行灯山古墳の南、天理市渋谷町に、景行天皇陵(山辺道上陵)とされる全長302メートルの前方後円墳、渋谷向山古墳があります。前方部の幅が広く、堂々とした古墳です。

 この「しぶたに」、「むこう」は、マオリ語の

  「チプ・タヌ」、TIPU-TANU(tipu=swelling,lump;tanu=bury)、「埋葬した・丘(山)」(「タヌ」のU音がI音に変化して「タニ」となった)または「チプ・タ(ン)ギ」、TIPU-TANGI(tipu=swelling,lump;tangi=sound,cry,weep)、「嘆き悲しんだ・丘(山)」(「タ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「タニ」となった)

  「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな瘤(のような丘、山)」

の転訛と解します。

(53) 石上神宮

 

 天理市北部、春日断層崖から奈良盆地に至る地区を石上といい、式内社石上市神社が鎮座します。石上神宮(式内社石上坐布留御魂(いそのかみにますふるのみたま)神社。または布都(ふつ)御魂神社)は、天理市布留町の布留川扇状地の上に鎮座します(『姓氏録』に「布都努斯神社は山辺郡石上郷布瑠村高庭にあり」とあります)が、古代には付近一帯を石上と呼んだものでしょう。

 石上坐布留御魂神社は、布都御魂大神、またの名を甕布都(みかふつ)神、佐士布都(さじふつ)神ともいい、神武東遷の際、天照大神の命で武甕槌神が下した神剣フツノミタマ(『日本書紀』神武即位前紀戊午年6月条)の霊とされます。神武天皇即位の後軍事を司る物部(もののべ)氏の祖ウマシマジ命に命じて宮中で祀らせ、崇神天皇のとき物部氏の伊香色雄命に命じて現在地に移したといい(『先代旧事記』。『姓氏録』は仁徳天皇のときとします)、代々物部氏の氏神として祀り、国家非常の際には天皇が行幸して鎮護を祈ったといいます。また、この神社の「天神庫(あめのほくら)」には大量の武器が納められていたことは有名です(『日本書紀』垂仁紀39年10月条。『日本後紀』延暦24年2月条)。(石上神宮と五十瓊敷命との関係については、古典篇(その七)の211F2五十瓊敷入彦の項を参照してください。)

 この神社は、『延喜式』神祇・臨時祭の部によれば、「凡石上社門鑰一勾。匙二口。納官庫。臨祭在前。遣官人。神部。卜部各一人。開門掃除供祭。自余正殿併伴佐伯(ともさえき)二殿匙各一口。同納庫不得輙開。」とあって、常には高い障壁が巡らされ、厳重に門が閉め切られており、祈年・月次・相嘗・新嘗の各祭のほか、夏冬の祭(前出部。凡石上社備後国封租穀者。収社家。充夏冬祭料。ー夏冬祭は、現在の11月22日の鎮魂祭・節分前夜の玉の緒祭に相当か。)の時だけ門が開けられる他に例を見ない特異な神社でした。これは、下記の「石上」の解釈にみるように、もともと「戦利品の倉庫」であったことによるものと考えられます。

 なお、石上神宮の宝庫には、神功皇后摂政52年9月条にみえる百済の肖古王から贈られたとされる七枝刀が蔵されています。この刀は、百済から大和朝廷に贈られたものと通常解されていますが、岡山県赤磐郡吉井町石上1448に鎮座する備前国一宮・式内社の石上布都魂(いそのかみふつみたま)神社に所蔵されていた素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったという韓鋤(からさび)剣(『日本書紀』神代上第8段一書に「今吉備の神部の許にあり」とあります。)が崇神天皇の御代に大和に移されたとする説(大沢惟貞『吉備温古秘録』による。石上神宮由緒記にも「もと備前国赤坂宮にありしが」とあるという。以上『石上布都魂神社由緒書』による)があり、これとともに移されたものと考える説があります。この説と下記の神社名の解釈を併せて考えるならば、七枝刀は百済から当時九州にいた倭国王に贈られ、倭国の有力な構成国または同盟国であつた出雲朝廷に移り、次いで出雲朝廷を制圧した吉備朝廷が獲得した戦利品となり、さらにその後吉備朝廷を制圧した大和朝廷が獲得した戦利品として石上神宮の所蔵するところとなったと解することができます。

 また、この七枝刀は、根元に近いところでポッキリと折れています。(その折れ口は、堅くて脆い鋳物のような折れ方に見えますが、折れ口の周囲には柔らかく曲がっている部分もあります。七枝刀の銘文を発見した石上神宮大宮司菅政友が「錬鉄モテ造リタルカ、ナカゴノキハヨリ二寸バカリ置キテ折レタリ、ソノヲレ口ヲミルニ、鍛ノヨクテ折レ難カリシト覚シクテ、前ニ後ニ押シタハメテ シヒテ オリタルサマナリ」と述べています。(『古代刀剣の復元』奈良県立橿原考古学研究所付属博物館特別陳列図録第九冊、2006年2月による))すなわち、これは故意に折つたものと判断されます。

 そもそもこの七枝刀はその造りからみて実用品ではなく、その刀身に刻まれた金象眼表裏六十一字の中に「以辟百兵」とあるように、軍事に際してこれに祈ることによって自軍の勝利、敵軍の殲滅をもたらす霊力を有する祭祀用具であったと考えられ、これを切断したのは、勝利者が敗者から獲得した戦利品である七枝刀の霊力を奪い、敗者の戦闘意欲を削ぐためであったか、または敗者が七枝刀の霊力を勝利者に奪われることを嫌い、接収される前に自ら切断したものかと考えられます。

 この「いそのかみ」は、「イソ(石、石の多い場所)・カミ(上)」の意とする説があります。

 この「いそのかみ」は、マオリ語の

  「イト・ノ・カミ」、ITO-NO-KAMI(ito=object of revenge,trophy of an enemy,enemy;no=of;kami=eat)、「敵を征服した・際の・(記念の)戦利品(を所蔵する。神社)」

の転訛と解します。

 この布留御魂の「ふる」は、マオリ語の

  「フル」、HURU(contract,gird on as a belt,an incantation recited over weapons before fighting)、「(戦闘の前に刀剣などの武器に対し)呪文を唱えて霊力を与える(神霊)」

の転訛と解します。

 この布都御魂の「ふつ」、甕布都神の「みかふつ」、佐士布都神の「さじふつ」は、マオリ語の

  「フ・ツ」、HU-TU(hu=promontory,hill;tu=stand,settle)、「高いところ(または丘)に鎮座する(神霊)」

  「ミカ・フ・ツ」、MIKA-HU-TU(mika(Hawaii)=to press,crash;hu=promontory,hill;tu=stand,settle)、「押し潰された丘に鎮座する(神霊)」

  「タ・チプ・ツ」、TA-TIPU-TU(ta=the;tipu=swelling,lump;tu=stand,settle)、「膨らんでいる丘に鎮座する(神霊)」

の転訛と解します。

 ちなみに、物部の「もののべ」、伴佐伯(殿)の「ともさえき」、「天神庫」の「ほくら」は、マオリ語の

  「モノ・ノペ」、MONO-NOPE(mono=disable by means of incantations,an incantation to disable an enemy;nope=constricted)、「呪文を唱えて敵を調伏する(ことを司る)氏族で・(天皇に)従属するもの」

  「タウマウ・タエキ」、TAUMAU-TAEKI(taumau=keep in place,bespeak,be spoken;taeki=lie)、「(宝物を)納めることが・予定されている(予備の倉庫)」(「タウマウ」のAU音がO音に変化して「トモ」となった)

  「ホウ・クラ」、HOU-KURA(hou=dedicate;kura=treasure)、「奉納された・宝物(を納める倉庫)」

の転訛と解します。

(54) 和爾(わに)

 

 天理市北部に和爾町があり、和爾神社が鎮座します。ここから天理市櫟本(いちのもと)町にかけての地域は、5〜6世紀に天皇家と姻戚関係を結び、多くの后妃を出した大和の有力豪族である和珥(わに)臣氏の本拠地でした。記紀によれば、綏靖、孝霊、開化、応神、反正、雄略、仁賢、武烈、安閑、欽明、敏達の各天皇の后妃に、和珥氏出身の女性またはその后妃が産んだ皇女がなっています。

 この氏は、欽明朝ごろに、春日臣を名乗るようになり、大宅臣、栗田臣、小野臣、柿本臣などに分かれたとされます。

 この「わに」は、(1) 「ハニ(埴)」の転、

(2) 「鮫」の意の「鰐」の意とする説があります。

 この「わに」は、マオリ語の

  「ワニ」、WANI(scrape,comb the hair,defame,fire-stick for obtaining fire by friction)、「(土地の表面が洪水などで)掻き均らされた(地域)」

の転訛と解します。

(55) 都祁(つげ)盆地

 

 奈良県北東部、大和高原の東部に山辺郡の中心をなす都祁盆地があります。

 『日本書紀』仁徳紀62年是歳条に「闘鶏(つげ)稲置大山主」が、允恭紀2年2月条に「闘鶏(つげ)国造」がみえます。

 この「つげ」は、(1) 「柘植の木が生えた地」、

(2) 「ツゲ(継ぎ)」と関係する語で「崖地」の意とする説があります。

 この「つげ」は、マオリ語の

  「ツ・ゲ」、TU-NGE(tu=stand;nge=thicket)、「薮がある(土地)」

  または「ツケ」、TUKE(elbow,angle)、「(曲げた)腕(の中の土地)」(概観すると、笠置山から巻向山へ南北に走る山脈と、巻向山から東北東に伊賀へ走る山脈の間に挟まれたようにみえる都祁盆地をこのように形容した)

の転訛と解します。

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30 和歌山県の地名

 

(1) 紀伊(きい)国

 

 紀伊国は、南海道に属する旧国名で、現和歌山県の全域と三重県尾鷲市、熊野市、北牟婁郡、南牟婁郡の地域です。本州の最南端、紀伊半島の西南部を占め、北は和泉、河内2国、東は大和、伊勢2国に接し、南は太平洋、西は海を隔てて淡路、阿波、土佐3国に対しています。三方を海に囲まれ、長い海岸線があり、山が多く、平地が乏しい国です。

 もと「木国」と表記しましたが、和銅年間に「紀伊国」と改めています。古来良材を産する国で、『日本書紀』にはスサノオの子の五十猛命が韓から木種をもたらしてこの国に播種したとの一書の所伝があり、『古語拾遺』には宮殿造営のための採材の斎部の末裔が紀伊国名草郡御木・麁香(あらか)に住むとあります。このほか、記紀には「日前神」の創祀神話や、神武東遷にまつわる説話が数多く存在します。

 『和名抄』には伊都(いと)、那賀、名草(なくさ)、海部(あま)、在田(ありだ)、日高(ひだか)、牟婁(むろ)の7郡を記しています。

 この「きい」は、「キ(木。木の豊かな国)」と解されています。

 この「きい」は、ハワイ語の

  「キイ」、KII((Hawaii)to tie,bind)、「(山々を)結びつけている(山麓の平地が連なっている国)」

の転訛と解します。

(2) 伊都(いと)郡

 

a 伊都郡

 和歌山県の北東部、紀ノ川の両岸の現橋本市および伊都郡の地域です。北は、河内国、和泉国、東から南は大和国、西は有田郡、那賀郡に接していました。 

 『日本書紀』天武紀8(680)年是年条に「紀伊国伊刀郡」とみえます。また、孝徳紀大化2年正月条にかつらぎ町の「兄山(せのやま。背山)」を畿内の南限とするとあります。この兄山は、西に隣接する那賀郡との境界の地です。

 この「いと」は、「アタ・ウタ(河川の曲流部の小平地)」の転で「水辺(湿地)」の意とする説があります。

 この「いと」は、マオリ語の

  「イ・ト」、I-TO(i=beside;to=drag,haul)、「(紀ノ川の水を国境の狭隘部(待乳山)から那賀郡との境の狭隘部(背山)まで)引きずってゆく場所の周辺(の地域)」

の転訛と解します。

 

b 隅田(すだ)・真土(まつち)山(待乳山)

 橋本(はしもと)市の紀ノ川北岸東端に隅田の地名があり、10世紀末に石清水八幡宮の三昧堂の料所として隅田荘が置かれています。12世紀はじめには現地に別宮隅田八幡宮が創建されました。この地は、神功皇后が皇子の誉田別尊(応神天皇)とともに紀伊日高郡の衣奈浦から大和へ赴く途中しばらく滞在した遺跡と伝えられています。隅田八幡宮所蔵の国宝となった人物画像鏡は、日本最古の金石文の一つです。

 この場所は、大和国宇智郡(五條市)との境にある真土(まつち)山(待乳山。160メートル。『万葉集』などの歌枕として有名)が紀ノ川にせりだして狭隘部をつくっている場所の西側に位置します。

 この「すだ」、「まつち」は、マオリ語の

  「ツタ」、TUTA(back of the neck)、「狭隘部の後ろ(の場所)」

  「マツ・チ」、MATU-TI(matu=cut,cut in pieces;ti=throw,cast)、「(紀ノ川の流れるところが断崖のように)切られて放り出されている(山)」

の転訛と解します。

 

c 紀見(きみ)峠

 紀見峠は、紀伊見(きいみ)峠ともいい、大阪府河内長野市と和歌山県橋本市の境界にあり、国道170号線が葛城山脈を越える鞍部(標高約380メートル)に位置します。この峠は、平安時代初期に南海道の官道として整備された南河内から紀ノ川流域へ通ずる唯一の幹線道路で、後に高野山参詣が盛んとなってからは高野街道と呼ばれました。

 この「きみ」、「きいみ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「キ・ミ」、KI-MI(ki=to,towards;mi(Hawaii)=urine,stream)、「川(紀ノ川)へ向かっている(峠)」

  「キイ・ミ」、KII-MI(kii(Hawaii)=to tie,bind;mi(Hawaii)=urine,stream)、「川(紀ノ川)と結んでいる(峠)」

の転訛と解します。

 

d 学文路(かむろ)

 伊都郡の旧村名で、紀ノ川南岸にあり、昭和30(1955)年に橋本町ほか4村と合併して橋本市となりました。ここは曲流する紀ノ川が南の山側にカーブして接近している場所で、高野山への登り口にあたります。

 この「かむろ」は、マオリ語の

  「カム・ロ」、KAMU-RO(kamu=eat;ro=roto=inside)、「(川が)内側に食い込んだ(場所)」

の転訛と解します。

 

e 九度山(くどやま)町

 紀ノ川南岸、高野山北麓の町で、町名は中世以来の村名によります。中・近世に高野山参詣の主道が通る河港、宿場集落でした。

 この「くど」は、(1) 瓦を焼く窓(くど。かまど)から、

(2) 「弘法大師が槙尾明神に九度詣でた」からとする説があります。

 この「くど」は、マオリ語の

  「クタオ」、KUTAO(cold)、「寒い(場所)」または「ク・ト」、KU-TO(ku=silent;to=drag,open or shut a door or a window)、「静かな・(高野山の玄関の戸を開け閉めする)入り口の(集落)」

の転訛と解します。

 

f 背山(せのやま)

 伊都郡かつらぎ町の紀ノ川北岸、穴伏川が紀ノ川と合流する地点の北東に、かつて『日本書紀』大化2(645)年正月条のいわゆる大化改新の詔で畿内の南限とされた背山があります。

 背山の山頂には、二つの峰があり、片方を「鉢伏山」、片方を「城の跡」という(『紀伊続風土記』)といいます。背山の対岸にある妹山とともに、『万葉集』の歌枕として著名です。また、背山と妹山のあいだには、川の中州の船岡山があります。

 この「せのやま」は、妹山との間が「狭い山」の意とする説があります。

 この「せの」は、マオリ語の

  「テノ」、TENO(notched)、「(山頂が)ぎざぎざの(二つの峰がある山)」

の転訛と解します。

(3) 高野(こうや)山

 

a 高野山

 高野山は、和歌山県北東部、伊都郡高野町にある楊柳山、摩尼山、弁天岳など標高1,000メートル前後の山々の間にひろがる平坦面一帯の総称です。周囲の山塊は、紀ノ川支流の丹生川、貴志川と有田川、十津川の源流になっています。

 9世紀に空海がこの地に真言宗金剛峰寺を創建し、以来比叡山延暦寺と並ぶ山岳仏教の中心地となっています。

 この「こうや」は、弘仁7(816)年の空海の上表文に「四面高嶺の平原幽地これを高野と名づく」とあることによるとされます。

 この「こうや」は、マオリ語の

  「コウ・イア」、KOU-IA(kou=knob,stump;ia=indeed,very,each)、「実に切り株のような高台(の土地。その土地のある山)」

  または「カウ・イア」、KAU-IA(kau,whakakau=come gradually into view,rise of heavenly bodies;ia=indeed)、「実に・(修行によって俗世を越えて)次第に高い境地に到達する(場所。山)」(「カウ」のAU音がOU音に変化して「コウ」となった)

の転訛と解します。

 

b 楊柳(ようりゅう)山

 楊柳山(1,009メートル)は、高野山の北東にある山で、その北面から丹生川の支流北又川が流れ出しています。

  この「ようりゅう」は、マオリ語の

  「イオ・リウ」、IO-RIU(io=muscle,spur,ridge,lock of hair;riu=bilge of a canoe,valley,belly,chest)、「カヌーのあか水(のような川)を出す峰」

の転訛と解します。

 

c 摩尼(まに)山

 楊柳山の南に、摩尼山(1,004メートル)があり、その麓に大師廟があります。

 この「まに」は、マオリ語の

  「マ(ン)ギ」、MANGI(floating,unnerved by grief,fleet)、「悲しみに打ちひしがれた(場所。山)」(NG音がN音に変化して「マニ」となった)

の転訛と解します。

 

d 弁天(べんてん)岳

 高野山平坦部の西の入り口に弁天岳(985メートル)がそびえています。

 この「べんてん」は、マオリ語の

  「ペナ・テ(ン)ガ」、PENA-TENGA(pena=like that;tenga=Adam's apple)、「喉ぼとけに似ている(山)」

の転訛と解します。

(4) 那賀(なが)郡

 

a 那賀郡

 和歌山県北部、伊都郡の西に位置する郡で、北は和泉国、東は伊都郡、南は有田郡、西は名草郡に接していました。『続日本紀』大宝3(703)年5月条に「紀伊国奈我、名草二郡」と、神亀元(724)年条に「紀伊国那賀郡」とあります。『和名抄』は「那賀 々音如鵝」と記し、「那賀郷」がみえます。

 那賀郡は、おおむね紀ノ川の背山から岩出までの南北岸を中心とする地域です。

 この「なが」は、(1) 「中」で国の中央部の意、

(2) 「ナガ」は「河川の堤防などが長く続いている地」の意、

(3) 「谷などが長く入り込んでいる地」と解する説があります。

 この「なが」は、マオリ語の

  「ナ・(ン)ガ」、NA-NGA(na=belonging to;nga=satisfied)、「(満足して)ゆったりと流れる(川。紀ノ川の沿岸の地域)」

の転訛と解します。

 

b 名手(なて)

 紀ノ川の中流域、那賀郡那賀町の中心集落に名手市場(なていちば)があります。中世に那賀町から粉河町にかけて名手荘があり、石清水八幡宮領から高野山領として存続しました。この荘園は、伊勢・大和街道に沿っており、市場が早くから成立しています。

 この「なて」は、マオリ語の

  「ナ・アテ」、NA-ATE(na=the ...of,belonging to;ate=liver,heart,spirit)、「(その地方の肝心の)要(かなめ)に・あたる場所(集落。荘園。市場)」(「ナ」のA音と「アテ」の語頭のA音が連結して「ナテ」となった)

の転訛と解します。

 

c 岩出(いわで)

 紀ノ川下流域、那賀郡岩出町の岩出は、かつて紀ノ川の両岸に奇岩が突き出ており、北岸に紀州藩主が代々清遊した岩出御殿山があったことにちなむといいます。この奇岩は、昭和8(1933)年の河川改修によりすべて除去されました。

 この北岸の石手(いわで)荘の北部には、高野山を追われた新義真言宗の開祖興教大師覚鑁(かくばん)が根来(ねごろ)寺を開いています。

 この岩出は、かつては大和街道の渡河点に当たっており(現在もJR和歌山線が紀ノ川を渡っています)、対岸の船戸(ふなと)には6世紀に築かれた船戸古墳群があります。

 この「いわで」は、マオリ語の

  「イ・ワタイ」、I-WHATAI(i=past time,beside;whatai=stretch out the neck,gaze intently)、「(岩が)首を伸ばしたようにそそり立つ・ている場所のあたり(一帯)」(「ワタイ」のAI音がE音に変化して「ワテ」となった)

の転訛と解します。(「岩出」については、地名篇(その二)岩手県の「岩手山」の項を参照してください。)

 

d 船戸(ふなと)

 岩出の対向渡津であり、船戸古墳群がある船戸の「ふなと」は、マオリ語の

  「フナ・ト」、HUNA-TO(huna=conceal,destroy;to=the...of,to have)、「(古墳に遺骸、副葬品を)密封して隠した場所」

の転訛と解します。

(5) 粉河(こかわ)寺

 紀ノ川中流域、那賀町の西隣に粉河町があります。中心集落の粉河は、奈良時代創建の粉河寺の門前町として発展し、中世には紀ノ川水運の中継港、市場町として栄えました。

 この「こかわ」は、寺名からとされ、国宝『粉河寺縁起』によれば、宝亀年中(770〜781)那賀郡に住む猟師が山中に光明の輝く所があるのを見て奇異に思い、柴の庵を建てて仏像を造りたいと念じていると、童行者が訪れて7日の間庵に篭り、千手観音像を造ってそのまま姿を消したと伝えます。

 その後、粉河寺を尋ねた人が川を遡って行くと、にわかに川が米の粉を流したように白くなつて粉河寺のありかが知れたとありますが、これは寺名からの付会でしょう。

 この「こかわ」は、「小(こ)川」の意とする説があります。

 この「こかわ」は、この草創の粉河寺(庵)を指したもので、マオリ語の

  「カウ・カワ」、KAU-KAWA(kau=alone,bare,only;kawa=open a new house)、「ポツンと(山中に一つだけ)建っている新しく建てた家(庵。小さな草葺きの観音堂)」

の転訛(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となつた)と解します。

(6) 根来(ねごろ)寺

 

 紀ノ川下流域、岩出町根来の和泉山脈の谷間に新義真言宗の本山、根来寺(一乗山大伝法院)があります。興教大師覚鑁(かくばん)が高野山と対立して追われ、保延6(1140)年にこの地に一乗山円明寺を開いたのが始まりです。室町から戦国時代末期にかけて、根来衆が射撃や鍛冶の技術にすぐれた武装集団として活躍しました。

 この「ねごろ」は、葛城の「ネ(嶺)・クラ(鞍、谷間)」の意とする説があります。

 この「ねごろ」は、マオリ語の

  「ネイ・コロ」、NEI-KORO(nei=to denote proximity,to indicate continuance of action,to introduce explanatory;koro=noose,bay,cove)、「(山の尾根に囲まれた)入り江のような(場所)」

  または「ネイ・(ン)ゴロ」、NEI-NGORO(nei=to denote proximity,to indicate continuance of action,to introduce explanatory;ngoro,ngongoro=snore,utter exclamations of surprise or admiration)、「(仏を)讃える(お経の)声が・響き続ける(場所。寺)」(「(ン)ゴロ」のNG音がG音に変化して「ゴロ」となった)

の転訛と解します。

 この根来寺の西側の北方には、和泉へ抜ける風吹(かざふき)峠があります。

 この「かざふき」は、マオリ語の

  「カタ・フキ」、KATA-HUKI(kata=opening of shellfish;huki=transfix,spit)、「(貝が口を開けているような)谷(と谷)を貫いている(峠)」

の転訛と解します。

(7) 貴志(きし)川

 

a 貴志川

 貴志川は、和歌山県北部を流れる川で、紀ノ川最大の支流です。高野山に源を発して西流し、海南市沖野々(おきのの)で流路を大きく北東に変え、貴志川町を経て、岩出町で紀ノ川に合流します。

 沖野々より上流は野上(のかみ)谷と呼ばれ、低い分水嶺をこえて海南市の日方川の谷に至りますが、かつて河川争奪があったため貴志川に大きな曲流が生じたと考えられています。

 この「きし」は、マオリ語の

  「キ・チ」、KI-TI(ki=full,very;ti=throw,cast,overcome)、「完全に圧倒された(全く別方向へ流路を変えた)(川)」

の転訛と解します。

 この「おきのの」は、マオリ語の

  「オキ・ノノホ」、OKI-NONOHO(oki(Hawaii)=divide,separate;nonoho=remain)、「離れて残った(かつて貴志川の流路であつた場所)」(語尾のH音が脱落して「オキノノ」となった)

の転訛と解します。

 

b 野上(のかみ)

 貴志川の中流域、沖野々の上流が野上谷で、谷の西部には海草郡野上町(かつては美里町の地域とともに那賀郡に属していました)があります。

 この「のかみ」は、マオリ語の

  「ヌカ・ミ」、NUKA-MI(nuka=deceive,dupe;mi(Hawaii)=urine,stream)、「(そのまま真っ直ぐ西へ流れるかのように人々を)騙(だま)す川」

 の転訛と解します。

 

c 生石(おいし)ケ峰

 野上町の南端にある生石ケ峰(870メートル)の山頂は眺望が良く、生石高原一帯は県立自然公園になつています。

 この「おいし」は、マオリ(ハワイ)語の

  「オイ・チ」、OI-TI(oi(Hawaii)=sharp,prominent;ti=throw,cast,overcome)、「放り出されて目立っている(山)」

の転訛と解します。

 

d 美里(みさと)町

 野上谷の東側は美里町で、貴志川が中央を西流し、貴志川の支流真国(まくに)川が北部を西流します。野上谷には高野街道が通り、中心集落の神野(こうの)市場から南に龍神街道が分岐します。中世には、高野山領の神野荘、真国荘がありました。

 この「みさと」、「こうの」、「まくに」は、マオリ語の

  「ミ・タタウ」、MI-TATAU(mi(Hawaii)=urine,stream;tatau=tie with a coad,settle down upon)、「川の上に位置している(場所)」(原ポリネシア語の「サタウ、SATAU」が日本語に入ってAU音がO音に変化して「サト」となり、マオリ語ではS音がT音に変化して「タタウ、TATAU」となった)

  「コウ・ノ」、KOU-NO(kou=knob,stump;no=of,belonging to)、「切り株のような(高台の場所)」

  「マク・ヌイ」、MAKU-NUI(maku=wet,moist;nui=large,many.numerous)、「湿気の多い(川。その川の流れる地域)」(「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」となった)

の転訛と解します。

(8) 名草(なくさ)郡・海部(あま)郡

 

a 名草郡

 紀伊国北西部、紀ノ川下流域を中心とする地域で、明治29(1896)年に海部郡と合併して海草(かいそう)郡となりました。北は和泉国、東は那賀郡、南は有田郡、西は海部郡または紀伊水道に接しています。『和名抄』は「奈久佐」と訓じています。

 『日本書紀』神武即位前紀戊午年6月23日条に「名草邑」と、『続日本紀』大宝3(703)年条に「紀伊国奈我、名草二郡」とみえます。紀伊国府の所在地で、和歌山市府中がその伝承地です。

 この「なくさ」は、(1) 「七種(ななくさ)」から、

(2) 和歌の浦の「なごやかな」海面に由来する、

(3) 「凪(な)ぐ磯(いそ)」または「渚(なぎさ)」の転、

(4) 「ナガス(長州、中州)」の転とする説があります。

 この「なくさ」は、マオリ語の

  「ナク・タ」、NAKU-TA(naku=dig,scratch;ta=lay)、「掘られた(溝の。または洪水によって一面に削られた)ような地形の場所に位置する(地域。紀ノ川の河口の周辺の地域)」(古典篇(その三)の神武東遷の「名草戸畔(なくさとべ)」の項を参照してください。)

  または「ナ・クタ」、NA-KUTA(na=by,belonging to;kuta=a rush,woman's MARO(kilt or apron)made of the same)、「藺草が生えている(地域)」

の転訛と解します。

 

b 海部郡

 紀伊国の北西部の海岸部三カ所に散在した郡で、現和歌山市加太および友ケ島を中心とする区域、和歌山市雑賀(さいか)、和歌の浦付近、現海草郡下津町の地域です。のちに名草郡と合併して海草郡となりました。『和名抄』は「海部」を「阿末」と訓じています。

 『日本書紀』欽明紀17年10月条に「海部屯倉(あまのみやけ)」を設置したとみえます。

 この「あま」は、古代漁民集団、海部の居住地と解されています。

 この「あま」は、マオリ語の

  「ア・マ」、A-MA(a=drive,collect,the...of;ma=white,clean,freed from TAPU)、「禁忌から解き放たれた(この世の一般の決まりごとに拘束されない人々=海人の住む地域)」

の転訛と解します。

(9) 加太(かだ)

 

 和歌山市北西部、紀淡海峡に臨み、淡路島に対する水陸交通の要所です。賀太浦ともいい、賀陀、加陀、賀多、賀田とも記しました。

 この「かだ」は、「潟(かた)」と解されています。

 この「かだ」は、マオリ語の

 「カハ・タ」、KAHA-TA(kaha=strong,rope;ta=dash,beat,lay)、「(潮流が)力強く・押し寄せる(海峡。瀬戸)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

 加太と淡路島生石鼻との間の紀淡海峡には、沖ノ島と地ノ島(狭い瀬戸で隔てられたこの二島を「友(とも)が島」と総称します)が浮かびます。友が島には急傾斜の平面をもつ巨大な岩壁の岩場があり、葛城山、金剛山を巡る山岳修験道の山伏の葛城修行の出発点となっています。

 この「とも」は、 

  「トモ」、TOMO(enter,begin,assault)、「(修行の)始まりの(島)」

の転訛と解します。

(10) 紀三井(きみい)寺

 

 和歌山市南部、名草山西側中腹に、西国33所観音霊場の第2番札所、紀三井寺(通称。正式には紀三井山金剛宝寺)があります。

 この寺名は、(1) 寺内の三カ所の霊泉による、

(2) 寺が所在する「毛見(けみ)」の地名によるとの説があります。

 この「きみい」は、マオリ語の

  「キミ・イ」、KIMI-I(kimi=calabash;i=beside)、「瓢箪(のような形をした山=名草山)の傍ら(にある寺)」

の転訛と解します。

 日本では通常瓢箪は上部がくびれているものと考えがちですが、東南アジアからオセアニアの瓢箪の形は雑多で、もっとも普遍的なものはアボカド形です。

(11) 和歌ノ浦

 

a 和歌の浦

 和歌山市南部、和歌川河口の和歌浦湾に臨む一帯を和歌ノ浦と呼びます。北の雑賀山、東の名草山、南東の船尾(ふなお)山(海南市)に囲まれています。西側の和歌川河口に砂嘴の片男波(かたおなみ)が延び、砂嘴の内側に玉津島があり(現在は陸続き)、片男波と玉津島は不老(ふろう)橋で結ばれていました。

 ここは聖武天皇の和歌ノ浦、玉津島行幸の際に山部赤人が詠んだ

  「若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る」(『万葉集』巻6、919)

で知られる景勝地で歌枕として著名です。『続日本紀』神亀元年10月条には聖武天皇が眺望を絶賛して弱浜(わかのはま)を明光浦(あかのうら)に改めたとあります。

 この「わか」は、(1) 「和歌に詠まれた地」による、

(2) 「ワカ(柔らかい、柔らかい土地)」の意、

(3) 「ワカ(分かれる、砂州によって分かれた土地)」の意とする説があります。

 この「わか」は、マオリ語の

  「ワカ」、WAKA(canoe)、「カヌーのよう(に細長い浦)」

の転訛と解します。

 

b 片男波(かたおなみ)

 この砂嘴の「片男波」は、上記の「潟を無み」によるといわれます。

 この「かたおなみ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「カタ・オナ・ミ」、KATA-ONA-MI(kata=opening of shellfish;ona(Hawaii)=attracted,drunk;mi=urine,stream)、「酔った(ように静かな)波が洗う潟」

の転訛と解します。

 

c 玉津(たまつ)島

 この「たまつ」は、マオリ語の

  「タ・マツ」、TA-MATU(ta=the;matu=fat,kernel,cut)、「種子(仁のような島)」

の転訛と解します。

 玉津島と結ぶ不老橋の「ふろう」は、マオリ語の

  「プロウ」、PUROU(pointed stick,skewer)、「串(を刺したような橋)」

の転訛と解します。

 

d 妹背(いもせ)山

 玉津島東方には小島、妹背山があり、玉津島とは三断橋(中国杭州の西湖六橋を模倣したともいわれます)で結ばれていました。

 この「いもせ」、「さんだん」は、マオリ語の

  「イ・モテ」、I-MOTE(i=past time,beside,at;mote=sheer,abrupt)、「嶮しい(山のような島)」

  「タ(ン)ガタ(ン)ガ」、TANGATANGA(loose,easy,comfortable)、「容易(に渡ることができる橋)」

の転訛と解します。

(12) 新和歌浦・奥和歌浦

 

a 新和歌浦

 和歌ノ浦の西に、章魚頭姿(たこずし)山(高津子(たかづし)山とも)が断崖となって海に迫る一帯を新和歌浦と呼んでいます。

 この「たこずし」は、マオリ語の

  「タカウ・ツチカ」、TAKAU-TUTIKA(takau=steep;tutika=upright)、「嶮しくて垂直な(断崖をもつ山)」

の転訛(「タカウ」のAU音がO音に変化して「タコ」となり、原ポリネシア語の「ツシカ」(マオリ語ではS音がT音に変化して「ツチカ」)の語尾が脱落して「ツシ」となり、濁音化して「ヅシ」となつた)と解します。

 

b 奥和歌浦

 新和歌浦の西方の田野(たの)浦、雑賀(さいが)崎一帯を奥和歌浦と呼び、加太海岸、友ケ島、新和歌浦などをふくめて瀬戸内国立公園に一部となっています。

 この「たの」、「さいが」は、マオリ語の

  「タノア」、TANOA(belittle)、「小さな(浦)」

  「タイ(ン)ガ」、TAINGA(a place for bailing in a canoe)、「(波が荒くて)船に水が入る場所(岬。その付近一帯)」

の転訛と解します。

(13) 藤白(ふじしろ)坂

 

 海南市から下津へ抜ける熊野街道の峠(現海南市内海町藤白)を藤白坂といいます。

 『日本書紀』斉明紀4年11月10日条に謀反を企てた罪で捕らえられた有間皇子が「藤白坂」で絞殺されたとあります。(『万葉集』の難訓歌巻1-9は有馬皇子を悼む歌と解します。国語篇(その六)の付の2または国語篇(その七)の2を参照してください。)

 この「ふじしろ」は、マオリ語の

  「フチ・チロ」、HUTI-TIRO(huti=pull up.fish(v.);tiro=look)、「高くて(海を)展望する(坂)」

の転訛と解します。

(14) 下津(しもつ)

 

 和歌山県北西部、海草郡(もと海部郡)に下津湾があり、下津港があります。三方を紀伊山地に囲まれ、リアス式海岸をなす下津湾は、天然の良港です。

 この「しもつ」は、マオリ語の

  「チ・モツ」、TI-MOTU(ti=throw,cast;motu=severed,separated,escaped,broken off,cut)、「(口を)引き裂いて(開けて)放り出した(ような湾。その周辺の地域)」

の転訛と解します。

(15) 有田(ありだ)郡

 

 有田郡は、紀伊国中北部、北は海草郡(かつては海部郡、名草郡、那賀郡)、東は伊都郡、大和国、南は日高郡、西は太平洋に接しています。おおむね北は長峰山脈、南は白馬(しらま)山脈の間の地域で、有田川の流域とその周辺の地域です。

 『日本書紀』持統紀3年8月16日条に「紀伊国阿提(あて)郡」がみえます。「安諦」、「阿弖」(弖の本来の字はJISコードにありませんので、この字で代用しました。)とも記されました。大同元(806)年7月平城天皇の諱「安殿」を避けて「在田」に改め、中世には「有田」としたといいます。『和名抄』は「在田」を「阿利太」と訓じています。

 この「あて」は、(1) 「アテ(山の頂上、高所、荒れ地)」の意、

(2) 「アテ(高貴、上品)」の意、

(3) 「アタ・アダ(崩れる、落ちる)」の転とする説があります。

 この「あて」は、マオリ語の

  「ア・テ」、A-TE(a=the...of;te=crack)、「(有田川が流れる)割れ目(がある地域)」

の転訛と解します。

 なお、この「ありだ」は、(1) 「墾田(はりた)」の転、

(2) 「荒田(あらた)」の転で「崖地、崩壊地」の意、

(3) 「アリ(山)」の意とする説があります。

 この「ありだ」は、マオリ語の

  「アリタヒ」、ARITAHI(single fold,straight-grained of timber)、「(長峰山脈と白馬山脈の間の)一つのひだ(の中の地域。有田川が流れる地域)」

の転訛(語尾の「ヒ」が脱落して濁音化した)と解します。

(16) 湯浅(ゆあさ)

 

 和歌山県西部、有田郡の有田市の南、良港湯浅湾に面して湯浅町があります。古来、熊野街道の宿場で、中世には湯浅荘の地頭湯浅氏の本貫地で、紀州に勢力を誇った湯浅党が蟠踞していました。

 この「ゆあさ」は、マオリ語の

  「イ・ウアタハ」、I-UATAHA(i=past time,beside;uataha=incline)、「(海または港へ向かって)傾いている(土地)」

の転訛(語尾の「ハ」が脱落した)と解します。

(17) 白馬(しらま)山脈

 

 白馬山脈は、護摩壇山から西へ延びる有田郡と日高郡の境をなす山脈で、1,000メートル級の山が連なっています。

 この「しらま」は、マオリ語の

  「チラマ」、TIRAMA(look for with a torch,do by torchlight)、「松明をつけて分け入る(昼なお暗い山脈)」

の転訛と解します。

(18) 日高(ひだか)郡

 

 日高郡は、紀伊国中部、北は有田郡、東は大和国、南は(西)牟婁郡、西は太平洋に接しています。おおむね日高川の流域とその周辺の地域です。

 『日本書紀』神功紀摂政元年2月の条に皇后「太子に日高に会ひぬ」と、『続日本紀』大宝3(703)年5月9日条に「阿提、飯高、牟婁三郡」がみえます。『和名抄』は「比太加」と訓じています。

 この日高川は、白馬山脈の城ケ森山(1,269メートル)に源を発し、さらに奈良県境の護摩壇(ごまだん)山(1,372メートル)に源を発する小森谷川などをあわせ、龍神村、美山村、中津村などを流れて御坊市で太平洋に注ぎます。上・中流は高い山地に深い谷を刻み、蛇行が著しく、「七小森八平」といわれます。「七小森」は、日高郡東部の中央の丘陵部を川が取り囲むように、東流し、南流し、西流し、北流した後、西流する環流丘陵地形を指し、「八平」は河岸段丘の分布を示します。

 この「ひだか」は、(1) 「ヒ」は「ホ(秀)」の転、「タカ」は「高」で「高地」の意、

(2) 「ヒダ(山ひだ)・カ(場所を示す接尾語)」の意とする説があります。

 この「ひだか」は、川名からきたもので、マオリ語の

  「ヒタカ」、HITAKA(whipping-top)、「(鞭を打つて廻す)独楽(こま)(のように廻りながら流れる川の流域。その周辺の地域)」

の転訛と解します。

(19) 護摩壇(ごまだん)山

 

 護摩壇山(1,372メートル)は、日高郡龍神村と奈良県吉野郡十津川村との境にあり、和歌山県の最高峰の山です。高野龍神スカイラインが県境の尾根の上を通っています。

 古来真言密教の修験場で、山名は源平合戦に敗れた平維盛が護摩を焚いたことによるとされます。

 この「ごまだん」は、マオリ語の

  「コマタ・ヌイ」、KOMATA-NUI(komata=end,extremity;nui=large,many)、「巨大な尖端(のような山)」

の転訛(語尾のUI音が脱落した「コマタン」が濁音化した)と解します。

(20) 龍神(りゆうじん)温泉

 

 日高郡の東部、龍神村の中央を流れる日高川源流部の渓谷に、龍神温泉があります。この温泉は、役行者が発見し、空海が難陀竜王の夢告によって開湯したと伝えられます。江戸時代には、歴代紀州藩主の保護により深山幽谷の中で栄えました。

 この「りゅうじん」は、マオリ語の

  「リウ・チノ」、RIU-TINO(riu=bilge of a canoe,valley,belly;tino=essentiality,very,main)、「実に船底に湧き出るあか水(のように日高川の渓谷の底から湧く温泉。その温泉の湧く地域)」

の転訛と解します。

 なお、田辺市北部の龍神山は、やや「リウ」の意味が異なり、「(大きな)お腹のように(ふくらんだ山)」の意味でしょう。 

(21) 由良(ゆら)

 

a 由良港

 和歌山県西部、日高郡の西北にあり、紀伊山地西縁の白馬山脈が海に迫り、リアス式海岸をなしています。由良川の河口の由良港は天然の良港で、古来紀伊水道航行の要地でした。由良の湊、由良の御崎は歌枕としても著名です。

 この「ゆら」は、マオリ語の

  「イウ・ラ」、IU-RA(iu(Hawaii)=lofty,sacred;ra=sail,wed)、「高い帆(のような山、山脈の下にある港)」(地名篇(その四)の兵庫県の「由良港」の項を参照してください。)

  または「イ・ウラ(ン)ガ」、I-URANGA(i=beside;uranga=the place of arrival)、「到着地の周辺」(「ウラ(ン)ガ」の語尾の「(ン)ガ」が脱落して「イ・ウラ」から「ユラ」となった。この語尾脱落の「ウラ」が日本語の「浦(うら)。(1)海、湖などの湾曲して陸地に入り込んだ所、入り江、湾。)(2)海岸、海辺、浜辺。」の語源となつたものと考えられます。)

の転訛と解します。

 

b 門前(もんぜん)の大岩

 由良町門前の北側山麓に天然記念物の石灰岩の大露頭があり、「門前の大岩」と称されています。

 この「もんぜん」は、マオリ語の

  「マウヌ・テ(ン)ガ」、MAUNU-TENGA(maunu=be drawn from the belt or sheath,come out,be taken off;tenga=Adam's apple,extinguished)、「皮が剥けた喉ぼとけ(のような白い大岩。それがある土地)」

の転訛(「マウヌ」のAU音がO音に変化し、語尾のU音が脱落して「モン」となり、「テ(ン)ガ」のT音がS音に変化し、語尾のGA音が脱落して「セン」となって濁音化した)と解します。

(22) 美浜(みはま)町

 

a 日ノ御崎(ひのみさき)

 日高郡美浜町の西端にある紀伊水道に突出した岬で、北に比井(ひい)浦があり、比井(ひい)御崎ともいいます。岬の端に日ノ山(202メートル)があり、江戸時代には船見番所が置かれました。徳島県の蒲生田(かもだ)岬と約30メロメートル離れて相対しています。

 この「ひ」または「ひい」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ヒ」、HI(raise,rise)、「高い(岬)」

  「ヒイ」、HII((Hawaii)tall as cliff or mountain,to hold or carry in the arms as a child)、「背の高い(岬、崖)」

の転訛と解します。島根県簸川郡大社町の日御崎(ひのみさき)も同じ語源でしょう。

 

b 煙樹(えんじゅ)ケ浜

 美浜町の南部、日ノ御碕から日高川河口にかけての約5キロメートルの砂浜海岸を煙樹ケ浜といいます。先史時代には砂嘴で、その背後の潟湖が日高川、西川に埋積されて御坊平野ができたものです。海岸の美しい松の防風林は、徳川頼宣によって植林されたと伝えられています。

 この「えんじゅ」は、古代の海岸を形容したもので、マオリ語の

  「エネ・チウ」、ENE-TIU(ene=flatter(whakaene=make smooth);tiu=wander,swing,sway to and fro)、「ゆるやかに蛇行している(砂嘴。砂浜)」

の転訛と解します。

(23) 南部(みなべ)川

 

 和歌山県中央部、日高郡南部、日高郡と西牟婁郡との境の虎ケ峰(790メートル)に源を発し、支流をあわせながら南西流し、太平洋に注ぎます。河岸段丘の上の梅林は日本一といわれます。

 この「みなべ」は、マオリ語の

  「ミ・ナペ」、MI-NAPE(mi(Hawaii)=urine,stream;nape=weave,ligament of a bivalve)、「(山脈と山脈の間を結びつける)貝柱のような川(またはその川の流域)」

の転訛と解します。(この「ナペ」は、地名篇(その三)の三重県員弁(いなべ)郡京都府舞鶴市の旧地名田辺(たなべ)や、後出の田辺(たなべ)市の「ナペ」と同じです。)

 なお、この虎ケ峰の「とら」は、マオリ語の

  「トラ」、TORA(burn,be erect(used of showing warlike feelings))、「立ちはだかっている(山)」

の転訛と解します。

(24) 牟婁(むろ)郡

 

 紀伊国牟婁郡は、紀伊半島南部、和歌山県田辺市、西牟婁郡、東牟婁郡、新宮市、三重県南牟婁郡、熊野市の地域です。北は日高郡、大和国、東は伊勢国に接し、南から西は太平洋に面していました。明治4年の廃藩置県で熊野川(北山川)を境として西部は和歌山県に、東部は度会県(のち三重県)に分割編入され、同13年和歌山県牟婁郡を東西に、三重県牟婁郡を南北に分割しています。『和名抄』は「牟呂」と訓じています。

 『日本書紀』斉明紀3年9月条に「牟婁温湯」、斉明紀4年11月11日条分注に「牟婁津」、持統6年5月6日条に「牟婁郡」がみえます。この「牟婁津」は、現田辺市付近と考えられています。

 この「むろ」は、(1) 「神社の所在地」の意、

(2) 「岬に囲まれた小入り江」の意、

(3) 「館(むろつみ。海津の官舎)」の意(『紀伊続風土記』)、

(4) 「(熊野神社の)御室(みむろ。御森)」の意とする説があります。

 この「むろ」は、マオリ語の

  「ム・ロ」、MU-RO(mu=silent;ro=roto=inside)、「内側が・静かである(海岸部を少し離れると人跡未踏の山地が多い地域)」

の転訛と解します。

 なお、『日本書紀』神代下第9段の「(鹿葦津姫が)無戸室(うつむろ)を作る」、神武即位前紀戊午年10月条の「大室を忍坂邑に作る」、仁徳紀62年是歳条の「(闘鶏の)氷室」などの無戸室、土室、氷室や麹室などの「室(むろ)」は、マオリ語の

  「ムフ・ロ」、MUHU-RO(muhu=grope,push one's way through bushes;ro=roto=inside)、「(暗いので)手探りで中の方へ進む(場所。室)」

の転訛(「ムフ」の語尾の「フ」が脱落した)と解します。

(25) 熊野(くまの)

 

 熊野は、紀伊半島南部一帯をいい、現和歌山、三重、奈良三県にまたがっています。紀伊国牟婁郡を主とし、大和国吉野郡南部を含めた地域と考えられます。

 『日本書紀』神代上第5段の一書(第5)にイザナミノミコトが火神カグツチを産む際灼かれて薨去したので「紀伊国の熊野の有馬村」に葬ったとあり、『古事記』中巻神武天皇東遷の条に「熊野村に到りましし時、大熊が出」たとあります。

 ここは、古くから霊魂の鎮まる場所という観念があったようで、やがて熊野三山と称される霊場が開かれると、神秘的な伝承が次々に発生し、死者の霊は熊野に集まるとか、熊野へ行けば死者の霊に会えるといった信仰が生まれ、古代末期から中世には熊野詣が盛んとなりました。

 この「くまの」は、(1) 『古事記』の「大熊」出現の故事による、

(2) 出雲の「熊野」の地名が移された、

(3) 「クマ(曲、隈、隠)」からなどとする説があります。

 この「くまの」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ク・マノ」、KU-MANO(ku=silent,showery unsettled weather;mano=interior part,heart,thousand,indefinitely latge number)、「雨が非常に多い(地域)」または「静かな内陸(の地域)」

  または「クマノ」、KUMANO((Hawaii)water tank,reservoir)、「貯水タンク(のような土地)」

の転訛と解します。(古典篇(その三)の神武東遷の「熊野」の解釈は、上記のように微修正します。)なお、島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野大社の「くまの」は、紀伊国熊野との関係が不明ですのでまだ確定的なことは言えませんが、別々に成立したとすれば「静かな内陸(の地域)」の意でしょう。

(26) 田辺(たなべ)

 

a 田辺市

 和歌山県南部、田辺湾に面する市で、『日本書紀』斉明紀4年11月11日条分注の「牟婁津」や『万葉集』(巻13、3,302)の「紀の国の室の江」は、現田辺市付近と考えられています。

 この地は、三方を山に囲まれ、一方のみが海に面した、低い丘陵の多い盆地状の土地で、この盆地を囲むように左会津川、右会津川(秋津川)が流れています。田辺湾は、天然の良港で、中世には熊野水軍の根拠地でした。また、熊野三山への参詣路熊野街道は、山間を抜ける中辺路(なかへじ)と海岸を行く大辺路(おおへじ)がここのすぐ隣(上富田町朝来(あっそ))から分岐していました。

 この「たなべ」は、この地に置かれた館(むろつみ)に収める稲をつくる田部(たのべ)にちなむとする説があります。

 この「たなべ」は、マオリ語の

  「タ・ナペ」、TA-NAPE(ta=the;nape=ligament of a bivalve)、「(二枚貝の貝と貝を結びつける)貝柱(のような地形の場所)」

の転訛と解します。

 

b 左・右会津(あいづ)川

 この盆地状の土地を流れる左・右会津川の「あいづ」は、マオリ語の

  「アイ・ツ」、AI-TU(ai=procreate,beget;tu=stand,fight with,energetic,continuous,be wounded)、「傷を負ったような(奇岩や滝が連なる奇絶峡がある)・子供の川を生んでいる(川)」 

の転訛と解します。

 

c 闘鶏(とうけい)神社

 湊にある闘鶏神社は、源平合戦に際して熊野水軍を率いる熊野別当湛増が、いずれに味方すべきか神前で紅白の鶏を戦わせて決めたことで有名です。江戸時代には新熊野権現社ともいわれました。

 この「とうけい」は、マオリ語の

  「タウカイカイ」、TAUKAIKAI(quarrel,contend together)、「(神意を神の使いである鶏の)争い(に示す神。神社)」

の転訛(AU音がOU音に、AI音がEI音に変化し、反復語尾の「カイ」が脱落して「トウケイ」となつた)と解します。

 

d 朝来(あっそ)

 熊野街道中辺路と大辺路が分岐する西牟婁郡上富田町朝来は、田辺市のすぐ東の富田川の下流に位置しており、中辺路はここから富田川を遡ります。富田川の上流、支流中川との合流点(ここから山を越えて日高川へ抜ける龍神街道(国道371号線。ただし、現在途中は不通)が分岐します)の西牟婁郡中辺路町には、朝来平(あそだいら)の地名が残っています。

 この「あっそ」、「あそだいら」は、マオリ語の

  「アト」、ATO(enclose in a fence etc.)、「(垣根のような山で)周りを囲まれた(場所)」(「アト」が「アソ」から「アッソ」となつた)

  「アト・タイラ(ン)ガ」、ATO-TAIRANGA(ato=enclose in a fence etc.;tairanga=be raised up)、「高所にある・(垣根のような山で)周りを囲まれた(場所)」(「アト」が「アソ」と、「タイラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「タイラ」となった)

の転訛と解します。

(27) 果無(はてなし)山脈

 

 果無山脈は、和歌山・奈良県境にあって東西に走る山脈で、南北に連なる大峰山脈と、それに並行する伯母子山脈の間に挟まれています。熊野本宮から高野山へ抜ける熊野古道(小辺路)は、果無越えともいいました。

 この「はてなし」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ハテ・ナチ」、HATE-NATI(hate=hake(Hawaii)=packed full,cramfll,protruding;nati=pinch,contract)、「(大峰山脈と伯母子山脈に)挟まれて盛り上がった(山脈)」

の転訛と解します。

(28) 日置(ひき)川

 

 紀伊半島南部を流れる川で、和歌山・奈良県境の果無(はてなし)山脈南斜面に源を発し、西牟婁郡大塔村から日置川町を南西に流れ、太平洋に注ぎます。激しく穿入、蛇行しています。

 この「ひき」は、マオリ語の

  「ヒキ」、HIKI(lift up,raise,convey)、「(上流が)高いところにある(川。その川の流れる場所)」

の転訛と解します。

 日本人の原始感覚、原始信仰を今に伝えているといわれるアイヌ民族の信仰では、人間の霊魂は死後川を遡つて昇天するといい、川は水の流れとは逆に遡るのが順路と考えられていたといわれます。この「ヒキ」(高いところへ登る、導く)という川の形容は、アイヌ民族の観念と相通ずるものがあります。『古事記』の神武天皇東遷の項に神武天皇が八咫烏に導かれて「吉野河の河尻に到る」とあり、これも同じ観念によるものと考えられます。

(29) すさみ町

 

a すさみ町

 西牟婁郡すさみ町は、紀伊山地南端の山地が海岸に迫り、わずかに口を開いた場所から周参見(すさみ)川が流れ出す河口の後ろの河岸段丘の上に集落が点在しています。

 町名は、荒(すさ)ぶ海と中世の周参見荘によるとされます。

 この「すさみ」は、川の名称で、マオリ(ハワイ)語の

  「ツタ・ミ」、TUTA-MI(tuta=back of the neck;mi=urine,stream)、「(周参見川河口の)狭隘部の後ろを流れる川(その川が流れる場所)」

の転訛と解します。

 この「ツタ=すさ」は、前出の橋本市隅田(すだ)や、山口県阿武郡須佐(すさ)町、有田市の須佐(すさ)神社の「すだ」、「すさ」と同じ語源でしょう。

b ソビエト島

 すさみ町の海岸には、磯釣りに好適なソビエト島と呼ばれる岩が三つあります。

 この「ソビエト」は、マオリ語の

  「ト・ピエ・ト」、TO-PIE-TO(to=the...of,the one of;pie=desire earnestly;to=wet,annoint)、「水浴びを・したがっている・島(または岩)」(語頭の「ト」が「ソ」と、「ピエ」が「ビエ」となった)

の転訛と解します。

(30) 串本(くしもと)町

 

a 串本町

 和歌山県南端、西牟婁郡の町で、紀伊半島の尖端に位置しています。中心市街は、潮岬がある陸繋島と本土を結ぶ砂州の上に立地しており、東側の紀伊大島を含む一帯は、典型的な隆起海岸段丘をなしています。串本港は、天然の良港で、風待ち港であり、また捕鯨基地でした。

 この「くしもと」は、(1) 「潮岬へ越す本」の意、

(2) 「潮岬と本土を串刺しにしたような地形」の意とする説があります。

 この「くしもと」は、マオリ語の

  「クチ・モト」、KUTI-MOTO(kuti=pinch,contract;moto=strike with the fist)、「拳骨で殴られて細くなつた(潮岬がある陸繋島と本土を結ぶ砂州。その場所)」

の転訛と解します。

 

b 潮岬(しおのみさき)

 潮岬は、本州最南端の岬がある陸繋島です。南岸は黒潮が磯を洗う海食崖が発達し、雄大な景観を呈します。岬の島の東部は出雲(いづも)、西部は上野(うわの)といいました。

 『日本書紀』仁徳紀30年9月条に「皇后、紀国に遊行でまして熊野岬に到り」とあるのは、潮岬とする説と新宮市あたり(岩波大系本注)とする説があります。

 この「しお」は、「潮見」の意とする説があります。

 この「しお」は、マオリ語の

  「チオ」、TIO(cry,call)、「(黒潮(と親潮)がぶつかって岬の岩にくだけて)叫び声をあげる(場所)」

の転訛と解します。

 なお、この「いづも」、「うわの」は、マオリ語の

  「イツ・マウ」、ITU-MAU(itu=side;mau=fixed,continuing,caught)、「(本土と)繋がっている場所の傍ら」

  「ウワ(ン)ゴ」、UWHANGO(misty)、「霧が深い(場所)」(NG音がN音に変化して「ウワノ」となった)

の転訛と解します。

 

c 橋杭(はしくい)岩

      『日本地名大百科』小学館、1996年から

 串本町の東部の海岸から南の大島へ向かって、約700メートルにわたって大小30余の岩(多くは槍の穂先のように尖端が尖っています)が一列に並び、橋の杭のように見える(?)ことからこの名があります。弘法大師の架橋伝説があります。

 この「はしくい」は、マオリ語の

  「パチア・クヒ」、PATIA-KUHI(patia=spear;kuhi=insert)、「槍を海中に挿した(ような岩)」

  または「パチ・クヒ」、PATI-KUHI(pati=shallow water;kuhi=insert)、「(槍のような岩を)挿しこんだ浅瀬」

の転訛と解します。

 『日本書紀』神武即位前紀戊午年6月条に神武天皇軍が「遂に狭野(さの)を越えて、熊野の神(みわ)邑に到り、旦ち天磐楯(あまのいはたて)に登る。仍りて軍を引きて漸に進む。海の中にして卒に暴風に遇ひぬ。」とあり、この「狭野」は新宮市佐野、「神邑」は同市新宮のあたり、「天磐楯」は同所の熊野速玉神社の摂社神倉神社の境内神倉(かんのくら)山(以上岩波大系本注)または付近の「ごとびき岩」とする説があります。

 古典篇(その三)で解説したように、この「狭野」をマオリ語の「タ・ヌイ、TA-NUI(ta=the;nui=large,many)、大きな(開けた)場所」と解しますと、紀伊半島の海岸部には、例えば日高郡美浜町の煙樹(えんじゅ)ケ浜、田辺市周辺、三重県南牟婁郡御浜町の七里御浜などほかにも「狭野」と呼ばれても不思議ではない場所があります。とくに、海岸で極めて特徴のある景観を呈するものとして、「千畳敷」といわれる広い平らな岩場がありますが、西牟婁郡白浜町の千畳敷、同郡日置川町の日置千畳敷、東牟婁郡那智勝浦町の千畳敷、三重県熊野市の鬼ケ城の千畳敷があります。(古典篇(その三)では、「狭野」を鬼ケ城の千畳敷としましたが、ルートなどからしますと白浜町の千畳敷が最も妥当かと思われます。)

 また、「天磐楯」をマオリ語の「アマ・ノ・イワ・タタイ、AMA-NO-IWA-TATAI(ama=outrigger of a canoe;no=of;iwa=nine;tatai=arrange,set in order,adorn)、カヌーのアウトリガーのように多数(の岩)が一列に並んでいる(場所)」と解しますと、これは「橋杭岩」以外にはありません。「天磐楯」を「天から降ってきた楯のような岩」と解し、かつ「登る」との記述を重視するならば、これは「ごとびき岩」と解すべきでしょう。しかし、軍はそこからさらに航行を続けており、熊野川(北山川)から吉野川の源流に出たというルート(『古事記』)とは、これが「橋杭岩」であれば合いますが、「ごとびき岩」では全く合わないのです(『日本書紀』は八咫烏に導かれての到着地を「菟田」としており、新宮から海路伊勢・伊賀国を経てまず菟田に入ったとも考えられますが、伊勢・伊賀国の経由地の地名が全く見えないのが不審です)。

(31) 古座(こざ)川

 

 東牟婁郡古座川町の北端の紀南地方最高峰の大塔(おおとう)山に源を発し、南流して平井川と合流し、七川ダムを経て下流約15キロメートルにわたって奇岩怪石が切り立つ古座峡をつくり、熊野灘に注ぎます。

 古座峡の明神(みょうじん)にある「一枚岩」は、高さ約100メートル、幅約500メートルの巨岩で天然記念物に指定されています。

 この「こざ」は、マオリ語の

  「コタ」、KOTA(open,crack,gape)、「割れ目(深い渓谷を刻んで流れる川)」

の転訛と解します。

 この「みょうじん」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ミオ・チノ」、MIO-TINO(mio(Hawaii)=to move swiftly,current;tino=essentiality,very,main)、「主要な流れ(の場所)」

の転訛と解します。

(32) 大塔(おおとう)山

 

 紀南地方最高峰の大塔山(1,122メートル)は、西牟婁郡大塔村、東牟婁郡本宮町、同郡熊野川町、同郡古座川町の境に位置しており、いわば熊野の山地の中心にあたる場所にあります。

 この「おおとう」は、マオリ語の

  「アウ・タウ」、AU-TAU(au=cloud,current,whirlpool,sea,intense;tau=ridge of a hill,come to rest,beautiful)、「つむじ風のような山(山波が渦を巻いて集まって高くなつた山)」

の転訛と解します。

(33) 太地(たいじ)町

 

 東牟婁郡太地町は、熊野灘に突出する小半島にあり、海岸段丘をなす鷲ノ巣崎、灯明崎の二つの岬に囲まれた太地湾の奥に中心集落があります。

 日本捕鯨発祥の地として著名です。

 この「たいじ」は、マオリ語の

  「タイ・チ」、TAI-TI(tai=the sea,tide,wave;ti=throw,cast,overcome)、「波が(圧倒された)静かな(湾。その場所)」

の転訛と解します。

 この鷲ノ巣崎の「わしのす」、灯明崎の「とうみょう」は、マオリ語の

  「ワチ・(ン)ゴツ」、WHATI-NGOTU(whati=be broken off short;ngotu=firebrand,half-burnt stick)、「短くなった燃えさしの木(のような岬)」(「(ン)ゴツ」のNG音がN音に変化して「ノツ」となり、「ワチ・ノツ」のT音がS音に変化して「ワシ・ノス」となつた)

  「トウ・ミオ」、TOU-MIO(tou=dip into a liquid,wet;mio(Hawaii)=to move swiftly,current,narrow,pointed)、「速い潮流に洗われている(岬。または波に洗われている先が尖った岬)」転訛と解します。

(34) 那智(なち)滝

 

a 那智滝

 和歌山県南東部、東牟婁郡那智勝浦町に那智山があり、日本一の落差(133メートル)を誇る那智滝があります。

 那智山は、大雲取山(966メートル)を最高に、妙法山(750メートル)、烏帽子山(909メートル)などを含む那智川上流一帯の山塊です。年間降雨量は、3,500ミリメートルを越える多雨地帯です。

 那智滝は、那智山中の「那智四十八滝」の「一の滝」で、「那智大滝」とも呼ばれ、那智山の中腹にある熊野三山の一つ熊野那智大社の別宮飛滝(ひろう)神社のご神体とされています。滝の傍らには、西国33所観音霊場第1番札所の青岸渡(せいがんと)寺があり、修験の道場となっています。

 この「なち」は、「難地」の意のほか数説あるようです。

 この「なち」は、マオリ語の

  「ナチ」、NATI(pinch,contract)、「(山に挟まれて)狭い(谷に落ちる滝。その滝がある山)」

の転訛と解します。

 この飛滝神社の「ひろう」、青岸渡寺の「せいがんと」は、いずれも那智滝を意味する言葉で、マオリ語の

  「ヒ・ロウ」、HI-ROU(hi=raise,rise;rou=a long stick used to reach anything)、「高い柱(のような滝)」

  「テイ・(ン)ガナ・ト」、TEI-NGANA-TO(tei,teitei=high,tall;ngana=be eagerly intent,strong;to=drag)、「高くて力強く落ちる(滝)」(「(ン)ガナ」のNG音がG音に変化して「ガナ」となり、語尾のA音が脱落して「ガン」となつた)

の転訛と解します。

 

b 那智山

 この那智山塊に属する大雲取山を越えて那智と熊野本宮を結ぶ熊野古道は、最も嶮しく、「死出の山路」ともいわれることで著名です。また、那智権現の奥の院といわれる妙法山の中腹には、阿弥陀寺があります。

 この大雲取山の「くもとり」、妙法山の「みょうほう」、烏帽子山の「えぼし」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ク・モト・リ」、KU-MOTO-RI(ku=silent,showery unsettled weather;moto=strike with the fist;ri=screen,protect)、「(拳骨で殴られたように)崩れて嶮しい雨の多い(人の往来を阻む)障害物(の山)」

  「ミオ・ホウ」、MIO-HOU(mio(Hawaii)=to move swiftly,current,narrow,pointed;hou=bind)、「幅の狭い峰が連らなつた(山)」

  「エ・ポチ」、E-POTI(e=by,to give emphasis;poti=angle,corner)、「(山脈の)曲がり角(にある山)」

の転訛と解します。

(35) 熊野速玉(はやたま)大社

 

a 熊野速玉大社

 和歌山県東部、熊野川の河口にあり、交通の要衝にある新宮市に、『延喜式』にみえる熊野早玉神社、現熊野速玉大社が鎮座します。早くから山岳宗教として発展し、もとは早玉大神と那智の主神・熊野夫須美(ふすみ。結びの意とされる)神、本宮の主神・家津御子(けつみこ)神(のちに本地阿弥陀如来)を併せて祀っていましたが、のち仏教と混交し本地を薬師如来としています。

 この「はやたま」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ハイア・タマ」、HAIA-TAMA(haia(Hawaii)=retainer or follower of a chief;tama=son,child,spirit)、「氏族の長の霊(を神として祀る神社)」

の転訛と解します。

 なお、那智の主神の「ふすみ」、本宮の主神の「けつみこ」は、マオリ語の

  「フ・ツ・ミヒ」、HU-TU-MIHI(hu=hill;tu=stand,settle;mihi=admire)、「山に居る崇敬すべき(神)」

  「ケ・ツ・ミヒ・コ」、KE-TU-MIHI-KO(ke=different,strange;tu=stand,settle;mihi=admire;ko=girl,male)、「変わった場所に居る崇敬すべき(神)」

の転訛と解します。

 

b 神倉(かんのくら)山

 熊野川河口右岸に立地する新宮市の市街地の西の千穂(ちほ)ケ峯の南端に神倉山があり、山上に熊野速玉神社の摂社神倉神社が鎮座します。熊野速玉神社を新宮と称するのは、本宮に対する呼称ではなく、旧社地神倉山に対する呼称といいます。

 この「かんのくら」、「ちほ」は、マオリ語の

  「カネ・ノホ・クラ」、KANE-NOHO-KURA(kane=head;noho=sit,settle;kura=ornamented with feathers,ceremonial restriction(=tapu))、「(立ち入り禁止などの)禁忌がある・(山の)上に鎮座する・頭(ごとびき岩が鎮座する山。その岩をご神体とする神社)」(「カネ」が「カン」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「チホ」、TIHO(flaccid,soft)、「たるんだ(山)」

の転訛と解します。

 

c ごとびき岩

 神倉神社のご神体は、神倉山の巨岩「ごとびき岩」です。

 この「ごとびき」は、マオリ語の

  「(ン)ゴト・ピキ」、NGOTO-PIKI(ngoto=head;piki=climb,ascend)、「(山の上へ)よじ登った頭(のような形の岩)」

の転訛と解します。(前出の串本市の「橋杭岩」の項を参照してください。)

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<修正経緯>

1 平成14年1月1日

 奈良県の(1)大和国の「やまと」の意味を修正しました。

2 平成14年10月7日

 和歌山県の(9)加太の解釈を修正しました。

3 平成15年5月1日

 奈良県の(33)三輪山の解釈を一部修正しました。

4 平成16年10月1日

 奈良県の(1)大和国の「まほろば(まほらま)」、秋津島の項、浦安の国の項の解釈、(3)奈良の奈良、芳山、佐保川、高円山、鶯塚古墳、率川、油坂、秋篠の解釈、(4)佐紀盾波古墳群のウワナベ、コナベ両古墳の解釈、(14)馬見古墳群の牧野古墳の解釈、(15)のb忍海の角刺宮、飯豊青皇女、青海皇女の解釈、(16)二上山の穴虫峠、当麻径の解釈を修正しました。

5 平成16年11月1日

  奈良県の(20)津風呂川の解釈を修正、(21)竜門岳の解釈を修正、(23)大峰山の別解釈を追加、(27)大台ヶ原および大杉谷の解釈を修正、(28)宇陀郡の曽爾村の別解釈を追加、(30)櫻井市の別解釈を追加、(31)初瀬の枕詞「こもりくの」の解釈を修正、(36)兵主神社の別解釈を追加、(41)磐余の片居、甕栗宮、玉穂宮、双槻宮の解釈を修正、(42)多武峰の両槻宮の解釈を一部修正、(47)飛鳥の豊浦宮・小治田宮・板葺宮の解釈を修正、(52)柳本古墳群の行灯山および渋谷の解釈を修正、(53)石上神宮の解釈を修正し、同項に七枝刀の由来に関する記事を追加しました。

  和歌山県の(2)伊都郡の九度山町の解釈を修正、(3)高野山および摩尼山の解釈を修正、(4)那賀郡の名手の解釈を修正、根来寺の別解釈を追加、(9)加太の項に友が島の解釈を追加、(26)田辺の左右会津川の解釈を修正しました。

6 平成17年6月1日

奈良県の(34)巻向の解釈を修正しました。 

7 平成17年8月1日

 奈良県の(33)三輪山の項に(注)を追加し、(35)狭井神社の解釈を追加しました。

8 平成18年4月1日

 奈良県の(33)三輪山の項の三諸山の解釈を修正し、(53)石上神宮の項の七枝刀の解説を補完しました。

9 平成18年8月1日

 奈良県の(1)大和国のc秋津島の項を修正し、大倭豊秋津島、天御虚空豊秋津根別の解釈を追加しました。

10 平成19年2月15日

 (1)インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。これに伴う本文の実質的変更はありません。

 (2)奈良県の(36)の兵主神社の解釈を一部修正しました。

11 平成19年6月1日

 和歌山県の(4)那賀郡のc岩出の解釈を修正しました。

12 平成19年11月1日

 奈良県の(53)石上神宮の解説の一部を修正し、「伴佐伯(ともさえき)」の解釈を追加しました。

13 平成19年12月30日

 和歌山県の(26)田辺の「d朝来(あっそ)」の読みおよび解釈を修正しました。

14 平成22年12月1日

 奈良県の(27)大台ヶ原の大蛇嵒および蒸篭嵒の解釈の一部を修正し、和歌山県の(35)熊野速玉大社のb神倉山の項の神倉の解釈を修正しました。

15 平成23年3月1日

 奈良県の(15)葛上郡のb忍海の項の葛城埴口丘陵(飯豊天皇陵)の解釈を修正しました。

16 平成24年4月1日

 奈良県の(17)御所市のc 宮(みや)山古墳、(28)宇陀郡のe 墨坂(すみさか)およびf 室生(むろう)村ならびに和歌山県の(24) 牟婁(むろ)郡の牟婁の解釈を修正しました。

17 平成26年12月1日

 和歌山県の(29)すさみ町の項にbソビエト島の解釈を追加しました。

地名篇(その五)終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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