古典篇(その三)

(平成11-7-1書込。22-9-1最終修正)(テキスト約28頁)


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   目  次

 

<記紀神話を読み直す(その一)補遺>

 

1 「スサノオ神話」の真実

(6) スサノオは、「弥生時代に実在した」英雄だった

 

 記紀の「荒唐無稽な」記述は、編集者による伝承の誤った解釈によるものスサノオは、木材の性質と利用技術に関する最大、最高の知識を日本にもたらしたスサノオは、おおむね西暦紀元のはじめごろの英雄

 

<記紀神話を読み直す(その二)>

 

3 天孫降臨と日向三代

 

(1) 天孫降臨

 天孫の誕生猿田彦とアメノウズメ天孫の降臨勾玉真床追衾

(2) コノハナノサクヤヒメとイハナガヒメ

(3) ヒコホホデミと海幸彦・山幸彦伝説

(4) ウガヤフキアエズ

 

4 神武東遷

 

(1) 日向から摂津まで

(2) 熊野から吉野まで

(3) 大和の平定

(4) イハレヒコの妃と御子たち

 

<修正経緯>

 

<記紀神話を読み直す(その一)補遺>

1 「スサノオ神話」の真実
(6) スサノオは、「弥生時代に実在した」英雄だった

a 記紀の「荒唐無稽な」記述は、編集者による伝承の誤った解釈によるもの

 

 前回の古典篇(その二)の書き込みを終えてから、改めて記紀を読み直してみて、新たに発見したことがあります。

 それは『日本書紀』神代上第八段の一書(第四)に「(スサノオは)埴土(はに)を以て舟に作りて、乗りて東に渡りて」という記述があります。常識で考えて粘土で日本海を乗り切ることができる舟が作れるはずはありません。岩波古典文学大系本は、この箇所を無視し、一言も触れていません。荒唐無稽な神話として黙殺したのでしょう。

 しかし、この「荒唐無稽な」記述は、編集者による伝承の誤った解釈によるものでした。

 この「埴土(はに)」は、マオリ語の

  「ハンギ」、HANGI(earth oven,contents of the oven,scarf)、「土中の蒸し焼き竃、その内容物、(技術用語)木材の嵌(は)め継ぎ」

の転訛(NG音がN音に変化して「ハニ」となった)で、「(技術用語)scarf、木材の嵌(は)め継ぎ」とは、「土中の蒸し焼き竃」(ハワイ、ニュージーランドの「ウム料理」の「ウム」と同じもの)が地面に穴を掘って作ることから、木材に穴(「ほぞ」ともいいます)を掘り、穴と穴を別の木材で堅く連結して大きな構造物を作る技法をいうのです。

 造船技術が丸木舟の段階に止まっていては、舟の大きさは材料の木材の大きさによって限定され、外洋の荒波を凌ぐ大きな舟は作れません。そこで、丸木舟の舷側に板を立てる準構造船が生まれ、次いで竜骨に骨組みを付け、板を貼る構造船が誕生し、現在の造船につながります。この木材と木材を緊結するのに、藤や葛の縄で堅く縛る方法もありますが、強度が不足します。そこで木材を緊結する不可欠の技法が木材に穴を掘って他の木材を嵌めて(埋めて)繋ぐ「嵌め継ぎ」なのです。

 スサノオ伝説の中で、従来「荒唐無稽」と考えられてきたこの「埴土」船の記述は、正に現代の造船技術につながる当時の最新技術を創始し、これを日本に伝えたことを意味する記事であったのです。

 なお、『日本書紀』神代下第九段本文に、タカミムスヒの勅をコトシロヌシに伝えてその返事を求めるため、使者「稲背脛(いなせはぎ)」を熊野の諸手(もろた)船に載せて派遣したとあり(前回の古典篇(その二)の2の(7)国譲りの項参照)、この「いなせはぎ」は、「否やの返事を問う脛(足。使者)」と解されていますが、これはマオリ語の

  「イナチ・ハンギ」、INATI-HANGI(inati=excessive,extraordinary;hangi=scarf)、「木材を嵌め継ぎして建造した巨大な(船)」

の転訛と解します。熊野の諸手船、天の鴿(はと)船と同じく、船の種類を示す名称だったのです。

 

b スサノオは、木材の性質と利用技術に関する最大、最高の知識を日本にもたらした

 

 『日本書紀』神代上第八段の一書(第五)に、「鬚髯(ひげ)を抜きて散つ。即ち杉に成る。又、胸の毛を抜き散つ。是、桧に成る。尻の毛は、是槙(まき)に成る。眉の毛は、是橡樟(くす)に成る。已にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち稱(ことあげ)して曰く、「杉及び橡樟、此の両の樹は、以て浮寶とすべし。桧は以て瑞宮を為る材にすべし。槙は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将ち臥さむ具にすべし。夫の啖ふべき八十木種、皆能く播し生う。」とのたまう。」とあります。

 さらに続けて「素戔嗚尊の子を五十猛(いたける)命と曰す。妹大屋津姫命。次に爪津姫命。凡て此の三の神、亦能く木種を分布す。」とあります。

 さらにさきの「埴土の舟」の技術を伝えた『日本書紀』神代上第八段の一書(第四)には、「初め五十猛命、天降ります時に、多に樹種を将ちて下る。然れども韓地に殖ゑずして、尽に持ち帰る。遂に筑紫より始めて、凡て大八州国の内に、播殖して青山に成さずということ莫し。」とあります。

 これらの記述に明らかなように、スサノオとその子イタケルは、日本列島に生えている木材の樹種ごとの性質と用途に関する最大、最高の知識と造船などの利用技術を日本にもたらした英雄だったのです。その故に、日本列島に木をくまなく植えた英雄との伝承、ないし信仰が生まれたのでしょう。

 

c スサノオは、おおむね西暦紀元のはじめごろの英雄

 

 以上の記事からスサノオが生きていた時代をおおむね推測することが可能です。

 国立歴史民俗博物館『新弥生紀行』(平成11年)によりますと、いまから3〜5万年前には海水面は現在よりも約100メートル低く、日本列島、南西諸島は大陸と繋がり、日本海は湖でした。それが縄文海進で次第に海水面が上昇し、日本列島、南西諸島が大陸と切り離され、それまで琉球列島の東を流れていた黒潮が西に流れ込むようになり、その一部が対馬海流として分離して日本海に流れるようになります。それとともに、大陸の東辺の気象条件が大きく変わり、気温の上昇と相まって、不連続線が発生し易くなり、日本列島の降雨量が飛躍的に増大します。

 この結果、日本列島には世界的にみても他の地域を凌いで多種の樹木の生育が盛んとなります。最初は、気温が高いこともあって日本列島の低地に生育する樹木は広葉樹でしたが、やがて気温が下がって縄文海退期に入ると、日本列島の平野にまで杉、桧などの針葉樹が目立つようになります。

 このことを反映して、縄文時代の日本の遺跡から出土する木材は、三内丸山遺跡に見るように、栗、椎などの広葉樹ばかりでしたが、縄文時代の晩期から針葉樹がポツポツと出土するようになり、吉野ガ里遺跡に見るように、弥生時代の中期には針葉樹が非常に目立つようになりました。これは、平地の近くで容易に入手できるようになったこと、金属器が普及して加工が容易になったことなどによるものです。

 これらのことと、スサノオにまつわる諸々の伝承を総合しますと、スサノオが生きた時代は、これらの種々の木材の性質と特徴についての専門的知識が集積され、利用技術が普及した弥生時代の中期、おそらくそのはじめごろであることが推定できます。

 すなわち、スサノオは、おおむね西暦紀元のはじめごろ(おそらく紀元1世紀ないし2世紀ごろ)に生きていた英雄だったと考えられます。(原田常治氏は、日本各地の神社の古い伝承を整理して、『日本古代正史』(同志社、昭和51年)でスサノオの生没年をAD121(122)〜185(186)年と推定しています。原田説をすべて信ずるわけではありませんが、多くの傾聴すべき事項を含んでいます。)

 こう考えますと、アマテラスもスサノオとほぼ同じ時代、オオクニヌシはそれよりもやや下る時代に生きていたと考えても良いでしょう。記紀は、そう古くない時代の「事実の伝承」を多分に含んでいるのです。[補遺 終わり]

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<記紀神話を読み直す(その二)>

3 天孫降臨と日向三代

(1) 天孫降臨

 

a 天孫の誕生

 

 葦原中国平定の報告を聞いたアマテラスと高木神は、アメノオシホミミにかねての予定通り降臨を命じます。しかし、アメノオシホミミは、降臨の準備中に天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩迩藝(あめにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎ)命が生まれたので、この子を降臨させたいと言い、改めてヒコホノニニギに降臨の詔命が下ります。

 この天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩迩藝(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎ)命は、マオリ語の

  「アマ・ニキ・チ・クニ・ニキ・チ・アマ・ツ・ヒ・コ・ヒコ・ホノ・ニニキ」、AMA-NIKI-TI-KUNI-NIKI-TI-AMA-TU-HI-KO-HIKO-HONO-NINIKI(ama=outrigger of a canoe;niki=small;ti=throw,cast;kuni(Hawaii)=to burn,be lighted;tu=stand,settle;hi=raise,rise;ko=adress of a male or female;hiko=move at random or irregularly;hono=continual;niniki=small)、「対馬の地にあっても小さく、陽が照る地(葦原中国)にあっても小さい(存在である)、対馬の地に住む尊い子、(アマテラスの)血統を嗣ぐ対馬を離れて遠くに移住する幼い子(神)」

の転訛と解します。

 

b 猿田彦とアメノウズメ

 

 ヒコホノニニギが天下ろうとする時に、天の八衢(あめのやちまた)に、上は高天の原、下は葦原中国を光(てら)す神、伊牟迦布(いむかふ)神がいるというので、天宇受賣(あめのうずめ)命を差し向けて名を聞かせたところ、猿田彦であり、天孫の先導をするべく待機していたことが分かります。

 「天の八衢(やちまた)」は、「天から下る途中にある方々へ行く道の分岐点」と解されていますが、これは、マオリ語の

  「アマ・ノ・イア・チマ・タ」、AMA-NO-IA-TIMA-TA(ama=outrigger of a canoe;no=of;ia=indeed;tima=a wooden implement for cultivating the soil;ta=lay)、「対馬の島の実に掘り棒で掘り散らかしたような地形の場所があるところ(浅茅湾)」

の転訛と解します。日本列島、朝鮮半島への海上交通の要衝、対馬の天然の良港、浅茅湾を指していたのです。

 この「光(てら)す神」の「てらす」は、マオリ語の

  「テラ・ツ」、TERA-TU(tera=that,yonder;tu=stand,settle)、「彼方に立ちはだかっている」

の転訛と解します。

 この「伊牟迦布(いむかふ)神」は、「イ(接頭語)・ムカフ(敵対する)」神と解されていますが、これは、マオリ語の

  「イ・ムカ・フ」、I-MUKA-HU(i=past time,beside;muka=way;hu=resound,cry)、「路の脇で大声を上げている(神)」

の転訛と解します。

 この「手弱女人(たわやめ)にはあれども、伊牟迦布神と面勝(おもかつ)神」とされた天宇受賣命、面勝神、手弱女人は、マオリ語の

  「アマ・ノ・ウツ」、AMA-NO-UTU(ama=outrigger of a canoe;no=of;utu=dip up water,dip into for the purpose of filling)、「対馬の地に住む海女(の神)」

  「オモ・カツア」、OMO-KATUA(omo(Hawaii)=suck;katua=adult)、「人を呑む(人を恐れない)」

  「タウア・イア」、TAUA-IA(taua=old man or woman;ia=indeed)、「実に年を取っている(女神)」

の転訛と解します。

 アメノウズメが天の岩戸でヌードで踊ったこと、天孫降臨後、海の魚が集められて御贄となることを承知した際に、承知しなかった海鼠の口を裂いた逸話から、アメノウズメを祖とするサルメノキミが志摩の速贄を賜ることとなったことは、アメノウズメが海女の神であったことの証左でしょう。

 「手弱女人」は、アマテラスとスサノオのウケヒの項にも出てきて、そこではまさに「たおやかな女人」の意なのですが、ここでは「老女」と解したほうが全体の文意にピッタリのように思います。

 この猿田彦は、「サルダ」は琉球語の「サダル(先導する)」の転との説(伊波普猷氏)があり、また「猿田」は「サダ」で、「佐田岬、佐多岬」などの「サダ」と通ずる語との説があります。しかし、これはマオリ語の

  「タル・タ・ヒコ」、ARU-TA-HIKO(taru=shake,overcome;ta=dash,beat,lay;hiko=move at random or irregularly)、「(人を)震撼・させる・あちこち巡歴する(神)」または「タ・ルタ・ヒコ」、TA-RUTA-HIKO(ta=the,dash,beat,lay;ruta=rage,bluster;hiko=move at random or irregularly)、「猛威を振るう・あちこち巡歴する(神)」

の転訛と解します。

 猿田彦は、伊勢国一宮椿神社の祭神で、おそらく最後まで大和朝廷に服しなかった伊勢志摩地方の「荒ぶる」国津神でしたが、いちはやく朝廷に服し、天孫降臨の先導を勤めたという伝説を流布し、東国平定の際の説得材料にしたものと思われます。

 天孫降臨後のアメノウズメを祖とするサルメノキミの由来譚に、サルタヒコが「阿邪訶(あざか。伊勢国一志郡の地名)で漁をしたとき、比良夫貝(ひらぶがい。シャコ貝か)に手を挟まれて溺れた」とあります。

 この記事は、海人の大和朝廷への服属儀礼と解する説があります。

しかしこれは、サルタヒコが阿邪訶の地で異常な死を遂げたことを伝えたものとも、また、その埋葬にあたって遺体をシヤコ貝で挟むという本土では珍しかった葬送儀礼をとったことを示したものとも考えられます。沖縄の貝塚時代中期から後期(本土の弥生時代にあたる)の墓からは、魔除けのために、遺体の頭部をシャコ貝の貝殻で挟み、かつ頭部の上にシャコ貝の貝殻を載せたものが発見されます(国立歴史民俗博物館『新弥生紀行』平成11年)。このことからしますと、サルタヒコは、弥生時代に生きた南方系の航海民族出身の豪族の首長であった可能性が高く、対馬に割拠していた天孫民族とも同祖であったものかも知れません。

 なお、この阿邪訶は、マオリ語の

  「アタ・カ」、ATA-KA(ata=clealy,openly;ka=burn,be lighted)、「開けた(または清らかな)場所にある集落(のある場所)」または「アタ・カ」、ATA-KA(ata=how horrible!;ka=burn,be lighted)、「なんと恐ろしい場所(集落)」

の転訛と解します。安宅(あたか)関、陸奥国安積(あさか)郡などは前者と同じ語源でしょう。

 また、愛媛県の佐田岬(半島)、鹿児島県の佐多岬の「さだ」は、マオリ語の

  「タタ」、TATA(stem,fence)、「垣根(のような半島)」

の転訛と解します。島根県八束郡(旧秋鹿(あいか)郡)鹿島町の佐太(さだ)神社は、旧暦10月の神在月に全国から出雲に集まる神々の宿泊地と伝えられますが、この「サダ」は、同じ語源の別義の「主幹(のような神社)」の転訛でしょう。

 琉球語の「サダル」は、マオリ語の

  「タ・タル」、TA-TARU(ta=the;taru=shake,overcome)、「(鈴のついた杖を)振って(先頭に立って)進む(神)」

の転訛と解します。

 ちなみに、動物の猿(さる)は、

  「タハ・ル」、TAHA-RU(taha=side,edge often used merely to indicate proximity,spasmodic twitching of the muscles;ru=shake,agitatescatter,earthquake)、「(急に)興奮して・その極致に達する(習性がある。動物)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」から「サ」となった)

の転訛と解します。

 また、比良夫(ひらぶ)貝は、

  「ヒラ・プ」、HIRA-PU(hira=numerous,great,important;pu=tribe,heap,wise one)、「巨大な・種類に属する(貝)」

の転訛と解します。

 

c 天孫の降臨

 

 このようにしてヒコホノニニギは、天児屋(あめのこやね)命、太玉(ふとだま)命、天宇受賣(あめのうずめ)命、伊斯許理度賣(いしこりどめ)命、玉祖(たまのや)命の五伴緒(いつとものを)を従者として降臨することとなります。ここでアマテラスは、「其の遠岐斯(おきし)八尺(やさか)の勾玉」、鏡、草那藝剣の神器や、常世思金(とこよのおもいかね)神、手力男(たぢからを)神、天石門別(あめのいわとわけ)神を従者に加えて、「この鏡はわが魂として私自身を祭るように仕えよ。つぎに思金神は私の祭事を行え」と命じます。

 この二柱の神(鏡と思金神、ヒコホノニニギと思金神、サルタヒコとアメノウズメなどの説があります)は、「佐久久斯呂(さくくしろ)、伊須受能宮(いすずのみや)」をお祭りしているとあります。次に「登由宇気(とゆうけ)神は、外宮の度相(わたらひ)に座す神」とあります。次に天石門別神、亦の名は櫛石窓(くしいはまど)神、亦の名は豊石窓(とよいはまど)神は、御門の神であるとあります。次に手力男神は、佐那那県(さなながた)にあるとあります。

 こうしてヒコホノニニギは、「天の石位(あまのいはくら)を離れ、天の八重多那(あまのやえたな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理(うきじまり)、蘇理多多斯弖(そりたたして)、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」に天下ります。ここで天忍日(あめのおしひ)命と天津久米(あまつくめ)命は、弓矢を帯びて先に立ちます。

 ヒコホノニニギは、「ここは韓国(からくに)に向かい、笠沙の御前(かささのみさき)を真来通(まきとおり)て朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり、故ここはいと吉き地」といわれて、底津石根に宮柱布刀斯理、高天の原に氷椽多迦斯理て住んだとあります。

 

 この五伴緒は、『日本書紀』の一書には「五部神」とあり、五の伴(同一職業の団体)の緒(長)の意と解されています。これは、マオリ語の

  「イツ・トマウ・ノホ」、ITU-TOMAU-NOHO(itu=

side;tomau=steadfast;noho=sit,stay)、「(ニニギの)傍らにぴったりと寄り添っている(神々)」

の転訛と解します。

 「遠岐斯(をきし)八尺(やさか)の勾玉」の「をきし」は、「招きし」で、「アマテラスを天の岩戸から招き出した」の意、「八尺」は「勾玉を緒に通した長さ」(2.4メートルは長すぎます)と解されていますが、これはマオリ語の

  「オキ・チ」、OKI-TI(oki(Hawaii)=separated;ti=throw,cast)、「(アマテラスの身体から)分離して置かれた」

  「イア・タカ」、IA-TAKA(ia=indeed,each;taka=fasten fishing-hook)、「(それぞれ)紐に釣り針をつけるように結んだ(紐に通した勾玉)」

の転訛と解します。この勾玉が何を象ったものかについては、後述します。

 この「佐久久斯呂(さくくしろ)、伊須受(いすず)能宮」は、「裂釧(さくくしろ。鈴を多くつけた釧。五十鈴の枕詞)、伊勢の五十鈴川のほとりの皇大神宮」と解されていますが、この「さくくしろ」はマオリ語の

  「タ・クク・チロ」、TA-KUKU-TIRO(ta=the;kuku=firm,stiff;tiro=look)、「堅固に鎮座しているように見える」

の転訛と解します。

 この「伊須受(いすず)能宮」、「五十鈴川」の「いすず」は、マオリ語の

  「イ・ツツ」、I-TUTU(itu=beside;tutu=hoop for holding open a hand net)、「タモ網の付け根(を流れる川=五十鈴川。その場所に鎮座する宮=伊須受能宮)」

の転訛と解します。五十鈴川の上流域は、西の神路山連山と東の朝熊(あさま)山連山によって囲まれた丸い盆地状で、その北縁の尾根の切れたところから五十鈴川が流れ出していますが、この流れ出すところに伊勢神宮(内宮)が鎮座しています。この地形をさして「タモ網の付け根」と表現したのです。

 次いで突然に登場する登由宇気(とゆうけ)神は、豊受大神で、豊は美称、受は食物の意で、食物を司る神とされていますが、これはマオリ語の

  「タウイ・ウ・ウケ」、TAUI-U-UKE(taui=be sprained,be slack;u=breast of a female;uke(Hawaii)=to swing,sway,as breasts of a large-busted woman or as a pendulum)、「しなびた乳房を揺すっている(女神)」または「トイウイ・ウケ」、TOIWI-UKE(toiwi=idle fellow,vagabond;uke(Hawaii)=to swing,sway,as breasts of a large-busted woman or as a pendulum)、「振り子のように(二つの離れた住居を)往ったり来たりする漂泊者(の神)」

の転訛と解します。仮に後者の場合には、『止由気宮儀式帳』によれば雄略天皇の御代に、皇大神宮の神饌を供進する神として豊受大御神を丹波国与謝郡比沼(治)真名井原(現京都府加佐郡大江町。宇川沿いに内宮(ないく)、外宮(げぐう)という集落があり、伊勢に遷座する前の皇大神宮が置かれていたとの伝承があり、俗に元伊勢と呼ばれている)から迎え、山田原の宮に祭ったことに始まるといいますから、この伝承においては豊受大御神は丹波と伊勢を往復していたようです。

 この神が座す外宮の度相(わたらひ)は、マオリ語の

  「ワタ・ラヒ」、WHATA-RAHI(whata=elevated stage for storing food and for other purpose;rahi=great,abundunt)、「大きな高床の(食糧)倉庫」

の転訛と解します。

 天の石位(あまのいはくら)は、高天の原の岩石の御座と解されていますが、これはマオリ語の

  「アマ・ノ・イ・ハク・ラ」、AMA-NO-I-HAKU-RA(ama=outrigger of a canoe;no=of;i=beside;haku=chief;ra=yonder,wed)、「対馬の地の結合した首長(アマテラスとタカミムスヒ)の傍ら」

の転訛と解します。「ハク・ラ、結合した首長」とは、記紀ともに天の岩戸事件の前まではアマテラスが主権者として単独で登場するのに対し、天の岩戸事件の後は多くの場面でアマテラスとタカギ(タカミムスヒ)が連名で登場するのです。紀では、スサノオが皮を剥いだ馬を織殿に投げ込んだため、アマテラスが負傷したと伝えていますので、このことによって単独では決断も行動もできない体になっていた可能性が大です。タカギ(タカミムスヒ)は後見人というよりは共同主権者になっていたと思われます。

 この「天の八重多那(やえたな)雲を押し分けて」は、「空に幾重にもたなびいている雲をかきわけて」と解されていますが、これはマオリ語の

  「イ・アエ・タナ・クマウ・オチ・ワケワケ」、I-AE-TANA-KUMAU-OTI-WAKEWAKE(i=past time,beside;ae=calm;tana=his,her;kumau=komau=keep fire alight by covering it with ashes;oti=koti=separate;wakewake=hurry,hasten)、「急いで取り分けた彼の火種を静かに脇に置いて」

の転訛と解します。

 この「伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)」は、「威風堂々と道をかきわけかきわけて」と解されていますが、これはマオリ語の

  「イツ・ノ・チワキ・チワキ」、ITU-NAU-TIWHAKI-TIWHAKI(itu=side,away;nau=go,come;tiwhaki=expand,open)、「前方へ前方へと進んで行った」

の転訛と解します。

 この次の「天の浮橋に宇岐士摩理(うきじまり)、蘇理多多斯弖(そりたたして)」の語句は、極めて難解で、紀では別文に収められているところから、錯簡ではないかとする説もあります。

 この文章は、マオリ語の

  「ウキ・パチ・ヌイ・ウキ・チマ・リ」、UKI-PATI-NUI-UKI-TIMA-RI(uki(Hawaii)=to wring;pati=shallow water,ooze;nui=large,numerous;tima=a wooden implement for cultivating the soil;ri=screen,bind,protect)、「数多い浅瀬に苦しみ、(対馬の浅茅湾のような)出入りの多い複雑な地形が行く手を阻むのに苦しみながら」

  「タウ・リ・タタ・チ」、TAU-RI-TATA-TI(tau=turn away,attack;ri=screen,bind,protect;tata=bail water out of a canoe;ti=throw,cast,overcome)、「障碍を回避し(乗り越え)、カヌーの中に滲み出るあか水を排水しながら」

の転訛と解します。先頭に「天の」とありますので、「対馬の浅茅湾の」とも解されますが、やはりここでは降臨の途中にあった「対馬の浅茅湾のような」地形の場所(この経由地の場所がどこか特定することは至難です。あえて想像するならば、五島列島から、筑紫平野ないし筑後川流域あたりでしょうか)を指すもので、最後に日向にたどり着くまでの困難であった道中を述べたものと解すべきでしょう。これは、錯簡ではありません。

 「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)」も難解です。

 この「筑紫(つくし)」は、マオリ語の

  「ツ・クチ」、TU-KUTI(tu=stand,settle;kuti=contract,pinch)、「(背振山地と三郡山地に)挟まれて狭くなっているところに位置する(場所)」

の転訛と解します。

 背振山地と三郡山地に挟まれて狭くなっている福岡平野と筑紫平野を結ぶ二日市構造谷の要衝、現在の福岡県太宰府市から筑紫野市にかけての一帯がもともとの筑紫の地です。筑紫野市原田には式内社筑紫神社が鎮座し、隣接して大字筑紫の地名があります。この地名が、北九州一帯に拡大されて筑紫国となりました。さらに北九州が九州支配の中心となったことから、九州全体をも指すようになりました。筑紫国は、律令制の成立によって筑前、筑後に分割されましたが、筑紫は九州、西海道の俗称として残りました。

 『日本書紀』本文は、筑紫の地名はなく、「日向の襲(そ)の高千穂峯」に天降りしたと述べています。『古事記』の「筑紫」の記載は、経由地の記憶を反映したものかと思われます。

 「日向」は、現在は「ひゅうが」ですが、通常古くは「ひむか」であったと解されています。『和名抄』は、「比宇加知之知(ひうかちのち)」と訓じています。この「ひゅうが」、「ひうかちのち」は、マオリ語の

  「ヒ・ウ(ン)ガ」、HI-UNGA(hi=rise,raise;unga=place of arrival)、「到着した高地」

  「ヒ・ウ・カチ・ノチ」、HI-U-KATI-NOTI(hi=rise,raise;u=breast of a female;kati=bite;noti=contract,pinch)、「高地にある乳房を噛み切って圧縮した(ような地形の場所)」

の転訛と解します。

 この「襲(そ)」、「高千穂」は、マオリ語の

  「タウ」、TAU(alight,be suitable,beautiful)、「美しい(国)」または「ト」、TO(calm,wet)、「静かな(湿気の多い国)」

  「タカ・チホイ」、TAKA-TIHOI(taka=fall down,go round;tihoi=go astray,wander)、(天孫が)降臨して道に迷った(場所)」

の転訛と解します。『日向国風土記逸文』には、臼杵郡知鋪(ちほ)郷(『和名抄』には智保郷とあります)の記事として、ヒコホノニニギが天降ったときに「天暗冥(そらくら)く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。・・・千穂の稲を搓(ても)みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴(そらあか)り、日月照り光(かがや)きき。」とあります。高千穂の地名は、この事績を表した名でした。このことは、後述する紀の「国覓(くにま)ぎ行去(とほ)る」の語句の解釈とも符合します。

 なお、この「籾を投げ散らし」たのは、災害除け、魔除けのまじないであったとも解釈できますし、また最初は周辺の先住民族に圧迫されて人の住まない高山に押し込められていたのが、稲作技術を教えることによって漸く関係を改善することができた歴史の伝承とも解釈できます。

 この「久士布流多気(くじふるたけ)」は、神の子が天から降臨するというアルタイ系民族の観念を投影したもので、首露王の降下した亀旨(くじ)峰とも関係があるとする説が有力です。これはマオリ語の、

  「クチ・フル」、KUTI-HURU(kuti=contract,pinch;huru=contract,gird on as a belt,glow)、「帯を締めたように密集している(山)」

の転訛と解します。そうしますと、これは霧島山(火山群)を指すもので、高千穂峰(1,574メートル)と解することができます。北の高千穂も、風土記からみれば経由地であったことは間違いないでしょうが、笠沙岬へ出る直前の経由地としては、明らかにこちらでしょう。

 この「笠狭(かささ)」は、マオリ語の

  「カタ・タ」、KATA-TA(kata=laugh,opening of shellfish;ta=lay,ally)、「(貝が口を開けているような)湾が並んでいる(半島、岬)」

の転訛と解します。

 この「真来(まき)通りて」の「マキ」は、マオリ語の

  「マキ」、MAKI(a prefix giving the force that an action is done spontaneously)、「その動作がすんなり行われたことを強調する接頭語」

の意と解します。翻訳が難しいのですが、「まっすぐに、たやすく通ずる」といったところでしょうか。(入門篇(その一)笠沙町の項参照)

 

d 勾玉

 

 勾玉は、何を象ったものでしょうか。

 これまでに@人魂説、A月(半月)形説、B釣り針説、Cナマズ説(?)などが出されているようです。私は、上記の「八尺の勾玉」のマオリ語解釈とも関連して、これまで「山幸彦・海幸彦説話にみるように海洋民族の宝物である釣り針」説に傾いておりましたが、最近(平成11年5月)長年の宿願であった韓国旅行を果たした際の見聞から、新たにD鳥形説を主張したいと思います。

 ソウルの国立中央博物館の伽耶室に、5〜6世紀の古墳から出土した多数の鉄器、鉄挺などに混じって、写真の「有刺利器」が展示され、用途は不明とされていました。この左と中央の鉄器には、明らかに「鳥形」が付けられています。また、慶州博物館にも、下図のように単純化した「鳥形」をつけた有刺利器が展示されていました。これは正に勾玉の形そのものです。

韓国国立中央博物館蔵「有刺利器」    国立慶州博物館蔵「有刺利器」

 韓国国立中央博物館蔵「慶州皇南大塚出土金冠」

 考えてみますと、出土物から見て、日本の古墳の周囲にも、鳥形の木製品を付けた竿が立てられていました。家形埴輪の屋根に鳥形が付けられたものや、銅鐸や、埴輪に描かれた宮室とおぼしき日傘のある建物の屋根に鳥が描かれたものも目につきます。これらの鳥は、何を表すものでしょうか。私は、この「鳥」は、「神の依り代」であると考えます。

 古代、鳥は神の意志を人に伝える使者であり、また、人の願いを神に伝える使者でもありました。古墳の周囲の鳥形竿は、死者の霊魂を天の神の下へ運ぶ使者を表示したものでしょう。また、神社などの神域の入り口に立てられた鳥居の鳥は、そこに神が来臨すること表示するものでした。鳥居は、東南アジアのいたる所に存在します。アイヌのイナウは、木を鳥に見立て、目を刻み、木の肌を糸状に削って鳥の羽に見立てたもので、この鳥に神に対する祈願を託したものです。日本の御幣は、このイナウが変化したものに相違ありません。

 古代の朝鮮でも、日本と同様、鳥を神の依り代として観念していたと思われます。そこでシャーマンとしての巫女や、祭祀王が、神を祭る際の重要な祭具として、上記の「有刺利器」を使用したのではないでしょうか。そうしますと、シャーマンとしての巫女や、祭祀王が神の依り代としての鳥形の玉=勾玉を常にペンダントとして首に掛けていたのは、極めて当然のことです。勾玉を身につけるのは、シャーマンであることの象徴でした。伽耶の古墳出土の金冠には、数十個の勾玉が付いたものがあり、祭祀王の持ち物であったのでしょう。

 日本の古墳でも、勾玉と武器が同時に副葬されている例はほとんど無く、勾玉や玉などの装飾品が出土するのは女性(巫女)の墳墓で、銅剣、鉄剣、鏃などの武器が出土するのは男性の墳墓と推定されています。また、勾玉の中には、目、くちばしを刻んだ明らかに鳥形のものがありますし、子持ち勾玉の突起は、羽根をあらわしたものと考えられます。

 以上のことから、私は勾玉は神の依り代としての「鳥形」であると考えます。

 

e 真床追衾(まとこおふふすま)

 

 『古事記』にはありませんが、『日本書紀』本文は、「真床追衾(まとこおふふすま)を以て、皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊に覆ひて、降りまさしむ」とあります。

 この「真床追衾(まとこおふふすま)」は、通常、真は美称、床は座り、寝る牀(床)、追は覆う、衾は布団で、玉座の意味であり、大嘗祭の祭儀に用いられて天皇の霊力の新生の象徴と解されています。三国遺事に引く駕洛国記の首露神話でも神の子が紅の布に包まれて降臨したとあり、中央アジアでも新しい王の即位式にフェルトが用いられることなどとの類似性が説かれます。

 この「まとこおふふすま」は、マオリ語の

  「マ・トコ・オフ・フ・ツマ」、MA-TOKO-OHU-HU-TUMA(ma=white,clean,emphasis the subject;toko=pole,push to a distance,begin to move;ohu=company of volunteer workers;hu=silent,secretly;tuma=challenge)、「随伴者達が(ニニギを取り囲んで)思い切って静かに遠いところへと押し出した」

の転訛と解します。「真床追衾」の観念は、たまたま発音が一致するところから、首露神話などを取り込んで、後から創作されたものでしょう。

 このほか『日本書紀』本文にあって『古事記』にない語句は、”浮渚(うきじまり)「平処(たひら)に立たして、膂宍(そしし)の空国(むなくに)を、頓丘(ひたを)から国覓(くにま)ぎ行去(とほ)りて、吾田(あた)の長屋(ながや)の笠狭碕(かささのみさき)」に到ります”とあります。

 この「平処(たひら)に」は、マオリ語の

  「イ・タヒラ・ヌイ」、I-TAHIRA-NUI(i tahira=the day before yesterday;nui=large,numerous)、「何日も何日も(前、昔)」
 

の転訛と解します。

 この「膂宍(そしし)の空国(むなくに)」は、マオリ語の

 

  「タウ・チチ・ノ・ム・ナク・ヌイ」、TAU-TITI-NO-MU-NAKU-NUI(tau=alight,float;titi=peg,long streaks of cloud;no=of;mu=silent;naku=dig,piercing cold;nui=large,numerous)、「たなびき流れる雲の静かに突き刺すような厳しい寒さ(の中を)」

 

の転訛と解します。

 この「頓丘(ひたを)から国覓(くにま)ぎ行去(とほ)る」は、マオリ語の

 

  「ヒ・タウ」、HI-TAU(hi=rise,raise;tau=alight,float)、「高い場所(山)をさまよう」

  「クニ・マ(ン)ギ・タウ・ホリ」、KUNI-MANGI-TAU-HORI(kuni(Hawaii)=burn,be lighted;mangi=floating,unsettled by grief or hunger;tau=alight,float;hori=be gone by)、「陽が照らす場所(国)をさまよい、通り過ぎる」

 

の転訛と解します。これらは、すべて艱難辛苦を重ねた移住旅行の有り様の描写で、これだけではどこを経由したのか確たることは分かりませんが、対馬を出発して、五島列島から、筑紫に上陸し、高い脊梁山脈の尾根を縦断して、高千穂峯から笠沙岬にたどり着いたものかと思われます。


 

(2) コノハナノサクヤヒメとイハナガヒメ

 

 ヒコホノニニギは、笠沙岬で大山津見神の女、神阿多都(かあたつ)比賣(亦の名は木花之佐久夜(このはなのさくや)比賣)に逢い、求婚します。

 父の山の神は、喜んで姉の石長(いはなが)比賣とともに多くの贈り物を持たせて嫁がせます。ところが、ヒコホノニニギは姉が醜いのに恐れをなして送り返し、コノハナノサクヤヒメだけと一夜の契りを結びます。

 山の神は、姉の送り返されたのを恥じて、”二人を嫁がせたのは、姉を妻とされれば天神の御子の命は常に石のように長く、妹を妻とされれば花のように栄えるであろうとウケヒをしたのですが、妹だけを妻とされましたので、天神の御子の命は「木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さむ」”と申し送ります。

 後にコノハナノサクヤヒメは妊娠しますが、ヒコホノニニギが一夜の交わりで妊娠するわけがないと疑ったので、姫は出入り口のない「八尋(やひろ)殿」を建てて中に篭もり、「私の産む子が国津神の子であれば無事には生まれない。天神の子であれば無事に生まれるだろう」と言ってその産屋に火を付けて子を産みます。

 その火が盛んに燃える時に生まれた子は火照(ほでり)命、次に火須勢理(ほすせり)命、次に火遠理(ほをり)命(亦の名は天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほでみ)命)といいます。

 

 この「神阿多都(かむあたつ)比賣」は、『日本書紀』本文には「神吾田鹿葦津(かむあたかしつ)姫」とあり、これはマオリ語の

  「カ・ムア・タツ」、KA-MUA-TATU(ka=take fire,be lighted,burn;mua=the front,sacred place;tatu=be at ease,be content)、「(聖なる)産所に・火をかけて・平気だった(安産した。姫)」

  「カ・ムア・タ・カチ・ツ」、KA-MUA-TA-KATI-TU(ka=take fire,be lighted,burn;mua=the front,sacred place;ta=dash,beat,breathe,be relieved;kati=leave off,be left in statu quo,well,enough;tu=stand,settle)、「(聖なる)産所に・火をかけて・無事に・何事もなく・助け出された(姫)」

の転訛と解します。

 この「木花之佐久夜(このはなのさくや)比賣」は、マオリ語の

  「コ・ノ・ハナ・ノ・タク・イア」、KO-NO-HANA-TAKU-IA(ko=girl;no=of;hana=shine;taku=slow;ia=indeed)、「美貌の輝き出す・のが・実に・遅れて・いる・娘(花も蕾の娘)」

の転訛と解します。

 この「石長(いはなが)比賣」は、マオリ語の

  「イ・ハナ・(ン)ガ」、I-HANA-NGA(i=past time;hana=shine;nga=satisfied)、美貌の輝きが・すでに・盛りを過ぎている(姫)」

 
の転訛と解します。

 この「阿摩比能微(あまひのみ)」は、マオリ語の

  「ア・マヒ・ナウ・ミ」、A-MAHI-NAU-MI(a=the...of;mahi=work,doings,function;nau=come,go;(Hawaii)mi=to void urine)、「(人の)すべての・営みは・(束の間に)流れ・去ってしまう」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 この「八尋(やひろ)殿」は、大きな建物と解されています(紀では「無戸室(うつむろ)」となっています)が、これはマオリ語の

  「イ・アヒ・ロ」、I-AHI-RO(i=past time;ahi=fire;ro=roto=inside)、「中で火を燃やした(産屋)」

の転訛と解します。

 この「火照(ほでり)命」は、マオリ語の

  「ホ・タイリ」、HO-TAIRI(ho=shout,droop;tairi=be suspended,block up)、「(水に溺れさせられ)封じ込められて・悲鳴を上げた(神)」(「タイリ」のAI音がE音に変化して「テリ」から「デリ」となった)

の転訛と解します。

 この「火須勢理(ほすせり)命」は、マオリ語の

  「ホ・ツテ・リ」、HO-TUTE-RI(ho=shout;tute=a charm to ward off malign influences;ri=protect)、「大きな声で・災いを避ける呪文を唱えて・わが身を守った(神)」

の転訛と解します。

 この「火遠理(ほをり)命」、「天津日高日子穂穂手見(あまつひこひこほほでみ)命」は、マオリ語の

  「ホ・オリ」、HO-ORI(ho=shout;ori=cause to wave to and fro,move abou t)、「大きな声で呪文を唱えて・潮の干満を起こした(神)」

  「アマ・ツ・ヒ・コ・ヒコ・ホホ・テ・ミヒ」、AMA-TU-HI-KO-HIKO-HOHO-TE-MIHI(ama=outrigger of a canoe;tu=stand,settle;hi=rise,raise;ko=adressing to girls or males;hiko=move at random or irregularly;hoho=prominent;te=emphasis;mihi=greet,admire)、「対馬の地に・住む・高い地位にある男子で・(釣り針を求めて)あちこちさまよった・特に・尊敬すべき・卓越した(神)」

の転訛と解します。

 『古事記』で日向で生まれて育った「ヒコホホデミ」に「アマツヒコ」が付くのは、マオリ語解釈からしますと不審です。『日本書紀』には本文にも一書にも全て付いていません。これは、『古事記』の編集者が「アマツヒコの御子」の意味で「あまつひこ」と付けた誤りか、写本の誤りであったかも知れません。

 ヒコホホデミの名は、神武天皇にも付されているところから、従来両者を同一視して、神武という架空の天皇を創作してホオリが東遷を行った事績を移したとする説があります。しかし、ヒコホホデミは「(釣り針を求めて)さまよって海神の宮へ行った特に尊敬すべき卓越した(神)」ですし、神武天皇は「(東遷の途次)あちこちとさまよった特に尊敬すべき卓越した(神)」で、「ハツクニシラス(ハ・ツクニ・チラツ、HA-TUKUNUI-TIRATU(ha=what!;tukunui=large;tiratu=mast of a canoe)、なんと偉大なカヌーの帆柱のような(天皇))」と同様の美称、敬称であって、同じ名が両者に付されていて何等問題はないと考えます。


 

(3) ヒコホホデミと海幸彦・山幸彦伝説

 

 兄のホデリは海幸彦として魚を、弟のホヲリは山幸彦として獣を取っていましたが、ある日弟は自分たちの道具「佐知(さち)」の交換を申し出て、渋る兄にやっと許してもらいます。しかし、ホヲリは魚の一尾も釣れずに釣り針を無くしてしまいます。ホヲリは、訳を話し、刀を潰して五百、つぎには千の釣り針を提供しますが、兄は元の釣り針でなければだめだと許しません。

 ホヲリが悲しんで海辺で泣いていると、「塩椎(しおつち)神」が来て話を聞き、「无間勝間(まなしかつま)」の船を造り、これに乗って海神「綿津見(わたつみ)神」の宮へ行くよう教えます。

 海神は、ホヲリを”この人は、天津日高の御子、「虚空津日高(そらつひこ)」だ”と言って手厚くもてなし、「豊玉(とよたま)毘賣」を妻に与えます。それから三年間ホヲリはここに滞在し、ここに来た経緯を海神に打ち明けます。海神は、すべての魚を集め、鯛ののどから釣り針を取り出します。海神は、”釣り針を兄に渡すときは「この鈎は、淤煩鈎(おぼち)、須須鈎(すすぢ)、貧鈎(まぢち)、宇流鈎(うるぢ)」と言って後手に渡しなさい。兄が高田を作れば下田、兄が下田を作れば高田を作りなさい。私は水を掌っていますから、必ず兄は貧しくなるでしょう。もしそれを怨んで戦いになれば、塩盈(しほみつ)珠を出して溺れさせ、助けを求めたら塩乾(しほふる)珠を出して助けなさい”と言って塩盈珠、塩乾珠を与えます。そして海神は、一日で往復できる「一尋(ひとひろ)和迩」にホオリを乗せて送らせます。ホヲリは、刀をその頚につけて和迩を返したので、その和迩を「佐比持(さひもち)神」というとあります。

 ホヲリは、海神の教えのとおり兄を苦しめ、兄は遂に弟を昼夜守護することを誓います。そこで「隼人(はやと)」はいまでも溺れる仕草をして宮廷に仕えているのです。

 

 この「佐知(さち)」は、マオリ語の

  「タ・チ」、TA-TI(ta=the;ti=overcome,throw,cast)、「(海や山の獲物を)征服する(獲得する)ためのもの(釣り針や弓矢)」

の転訛と解します。

 この「塩椎(しおつち)神」は、マオリ語の

  「チア・ウツ・チ」、TIA-UTU-TI(tia=stick,servant,parent;utu=satisfaction,reward;ti=throw,cast,overcome)、「安心・させてくれる・親(または召使いのような。神)」(「チア」の語尾のA音と「ウツ」の語頭のU音が連結してO音に変化し「チオツ」から「シオツむとなった)

の転訛と解します。

 この塩椎神は、『日本書紀』では、「塩土(筒)老翁(しおつつのをぢ)」で、天孫降臨の際に笠沙岬で「ここに国がある」と教える「事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)」(一書の第四ではこの神はイザナキの子で、亦の名を塩土老翁というとあります)として、また、神武即位前紀でも「東に良い国があつて、青山が四方を巡っている」と教えます。このことから、塩土老翁はこれまで「潮」を支配する「霊(ち)」と解されています。この「事勝国勝長狭」は、事に勝(すぐ)れ、国に勝れた者で、「狭」は神稲の意などと解されていますが、これはマオリ語の

  「コト・カチ・クニ・カチ・ナ・(ン)ガ・タ」、KOTO-KATI-KUNI-KATI-NGANGA-TA(koto=sob;kati=well,enough;kuni(Hawaii)=to burn,be lighted;na=belonging to;nga=satisfied;ta=lay,breathe)、「逆境にあっても順境にあっても悠々と(満足して)座っている(神)」

の転訛と解します。

 この「无間勝間(まなしかつま)」は、マオリ語の

  「マナ・チカ・ツマ」、MANA-TIKA-TUMA(mana=power,having power;tika=straight,keeping a direct course;tuma=challenge)、「真っ直ぐ目標に向かって挑戦する(進む)霊力を与えられた(船)」

の転訛と解します。

 この「綿津見(わたつみ)神」は、マオリ語の

  「ウ・アタ・ツ・ミヒ」、U-ATA-TU-MIHI(u=be fixed,reach its limit;ata=clearly,openly,form;tu=stand,settle;mihi=greet,admire)、「極限まで広がっているところ(=海)に居る尊い(神)」

の転訛と解します。

 この「虚空津日高(そらつひこ)」は、マオリ語の

  「トラ・ツ・ヒ・コ」、TORA-TU-HI-KO(tora=burn,blaze,be erect;tu=stand,settle;hi=rise,raise;ko=adressing to girls or males)、「輝いている身分の高い男子」

の転訛と解します。

 この「豊玉(とよたま)姫」は、マオリ語の

  「タウ・イホ・タマ」、TAU-IHO-TAMA(tau=turn away,look in another direction;iho=heart,that wherein consists the strength of a thing,object of reliance,umbilical cord;tama=son,child)、「(自分が生んだ)子供との・絆を・断ち切って(海神の宮へ)帰つた(姫)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」と、「イホ」のH音が脱落して「イオ」から「ヨ」となった)

の転訛と解します。

 この「淤煩鈎(おぼち)、須須鈎(すすぢ)、貧鈎(まぢち)、宇流鈎(うるぢ)」は、マオリ語の

  「オ・パウ」、O-PAU(o=the...of;pau=consumed,exhausted)、「精根を尽き果てさせる(鈎)」

  「ツツ」、TUTU(move with vigour,violent)、「心が乱暴になる(鈎)」

  「マチ」、MATI(surfeited,deep affection)、「心が沈む(鈎)」

  「ウル」、URU(be anxious)、「不安になる(鈎)」

  「チ」、TI(throw)、「投げるもの(釣り針)」

の転訛と解します。

 この「一尋(ひとひろ)和迩」は、マオリ語の

  「ピト・ピロ」、PITO-PIRO(pito=at first;piro=extinguished)、「一番(速くて)目立っている(ワニ)」

の転訛と解します。

 この「佐比持(さひもち)神」は、マオリ語の

  「タヒ・モチ」、TAHI-MOTI(tahi=one,single,unique;moti=consumed,scarce)、「僅か一日 で(ホヲリを)送った(ワニ)」

の転訛と解します。

 この「隼人(はやと)」は、マオリ語の

  「ハ・イア・タウ」、HA-IA-TAU(ha=what!;ia=indeed;tau=strange)、「なんとまあ変わっている(人々)」

 
の転訛と解します。


 

(4) ウガヤフキアヘズ

 

 豊玉毘賣はホヲリの子を産むためにやってきて、海辺の渚に鵜の羽根を屋根に葺いて作った産屋が未完成のまま、産屋に入って出産します。その際、「異郷の者は出産のときに本来の姿になって子を産みますから、けっして見てはいけません」と言いましたが、ホヲリは不思議に思って覗きます。すると、姫は大きなワニになってのたうっていましたので、ホヲリはびっくりして逃げ出します。姫は、恥じて子を産んだ後、「私はこの海の道を通って往来するつもりでしたが、本来の姿を覗かれて恥ずかしい」と言って海坂を閉じて帰ってしまいます。そこで、この子の名を「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(あまつひこひこなぎさうがやふきあへず)命」といいます。

 姫は、妹の「玉依(たまより)毘賣」を子の養育のために送ります。

 ウガヤフキアヘズは、叔母のタマヨリヒメを妻として、五瀬(いつせ)命、稲氷(いなひ)命、御毛沼(みけぬ)命、若毛沼(わかみけぬ)命(亦の名は豊御毛沼(とよみけぬ)命、神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)命)が生まれます。

 

 この「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(あまつひこひこなぎさうがやふきあへず)命」は、マオリ語の

  「アマ・ツ・ヒ・コ・ヒコ・ナ・(ン)ギタ・タケ・ウ(ン)ガ・イア・フキ・アエ・ツ」、AMA-TU-HI-KO-HIKO-NA-NGITA-TAKE-UNGA-IA-HUKI-AE-TU(ama=outrigger of a canoe;tu=stand,settle;hi=rise,raise;ko=adressing to girls or males;hiko=move at random or irregularly;na=satisfied;ngita=fast,firm;take=stump,chief;unga=send;ia=indeed;huki=transfix,glance suddenly;ae=in answer to a negative question it affirms the negative and must be rendered by no;tu=be wound)、「<対馬の地に住む高い地位にある男子で>(後に)遠くに旅行する、しっかりした信頼される氏族の首長で、(見るなの禁忌を犯して産屋を)覗かれて傷ついた母が残した(子)」

の転訛と解します。

 この「あまつひこ」も、『古事記』にはありますが、『日本書紀』にはなく、その父「ひこほほでみ」と全く同じ不審な用法です。

 また、この名からみるかぎり、「鵜の羽根」で屋根を葺くとか、「葺き終わらないうちに」ということは、伝承の言葉の音にヒントを得た編集者の創作で、事実ではありません。

 この「玉依(たまより)毘賣」は、マオリ語の

  「タマ・イオ・リ」、TAMA-IO-RI(tama=son,child;io=lock of hair,tough;ri=protect)、子供をしっかりと保護した(育てた)(姫)」

の転訛と解します。

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4 神武東遷

 

(1) 日向から摂津まで

 

 カムヤマトイハレヒコは、東に行って天下を治めようと日向を出発して、筑紫に向かいます。「豊(とよ)国の宇佐(うさ)」で、ウサツヒコ、ウサツヒメが「足一騰(あしひとつあがり)宮」を作ってもてなします。そこから移って筑紫の「岡田(おかだ)宮」に一年、「阿岐(あき)国の多祁理(たけり)宮」に七年、「吉備(きび)の高島(たかしま)宮」に八年滞在します。そこから「速吹門(はやすひのと)」で「亀の甲に乗りて、釣りしつつ羽挙(はぶ)き来る人」に逢い、道案内をさせることとし、「槁根津日子(さをねつひこ)」と名づけます。

 それから「浪速(なみはや)の渡」を経て、「青雲の白肩(しらかた)津」に碇泊します。「日下(くさか)の楯津(たてつ)」で、「登美能那賀須泥(とみのながすね)毘古」に待ち伏せされ、五瀬命が負傷します。五瀬命は、日神の御子なのに、日に向かって戦ったのが良くなかったから、背に日を負って戦うことにしようと転戦する際に、「血沼(ちぬ)海」を経て、「男之水門(をのみなと)」で没します。

 

 この「五瀬(いつせ)命」は、マオリ語の

  「イ・ツテ」、I-TUTE(i=past time,beside;tute=push,a charm to ward off malign influences)、「(イハレヒコの)傍らで(東遷を)推進した(兄)」

の転訛と解します。

 なお、もう一つの解釈として、「(イハレヒコの)傍らで災いを除くまじないをした(兄)」と解することも可能です。

 古典篇(その二)で解説したように、日本の古代には『魏志倭人伝』のヒミコや『隋書』のアマノタリシホコの記事にみえるように、兄(姉)が祭祀を担当し、弟が政治を担当する伝統があり、このことがこの神武東遷神話にも反映していると考えても非合理ではありません。 

 また、この「五瀬」は、宮崎県北部の高千穂の地を貫流し、南東に流れて延岡市で日向灘に注ぐ「五ケ瀬(ごかせ)川」にちなんで「ごかせ」または「ごせ」と読むべきだとする説があります。この川名は、通常は上流から下流までに五つの瀬があることによるとされますが、延岡市の西部で川がいったん分流し、海岸の近くで再び合流するこの川の特性に由来したもので、マオリ語の

  「(ン)ガウ・テ」、NGAU-TE(ngau=bite;te=crack)、「割れた(川を)食べる(川)」

の転訛と解します。

 この「稲氷(いなひ)命」は、マオリ語の

  「イナ・ヒ」、INA-HI(ina=strengthen;hi=rise,raise)、「非常に尊い(神)」

の転訛と解します。

 この「御毛沼(みけぬ)命」は、マオリ語の

  「ミヒ・ケ・ヌイ」、MIHI-KE-NUI(mihi=greet,admire;ke=different,strange,unique;nui=large,numerous)、「卓抜していた尊い(神)」

の転訛と解します。

 この「若御毛沼(わかみけぬ)命」と亦の名の「豊御毛沼(とよみけぬ)命」は、これまで「穀霊的性格を示す幼名」と解され、さらに亦の名の「神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)命」は、これまで「神聖な大和の国の由緒(いわれ)を負うている」意と解されていますが、これらはマオリ語の

  「ワカ(ウアカハ)・ミヒ・ケ・ヌイ」、WHAKA(UAKAHA)-MIHI-KE-NUI(whaka=make an immediate return for anything(uakaha=vigorous);mihi=greet,admire;ke=different,strange,unique;nui=large,numerous)、「俊敏で(元気がよい)卓抜していた尊い(神)」

  「タウ・イオ・ミヒ・ケ・ヌイ」、TAU-IO-MIHI-KE-NUI(tau=be suitable,exactly;io=tough;mihi=greet,admire;ke=different,strange,unique;nui=large,numerous)、「実にねばり強くて卓抜していた尊い(神)」

  「カム・イア・マ・タウ・イ・ハレ」、KAMU-IA-MA-TAU-I-HARE(kamu=eat;ia=indeed;ma=white,clean;tau=beautiful;i=past time;hare=(poetical)haere=go,come)、「実に清らかで美しい(大和の)地にやってきて征服した(天皇)」

の転訛と解します。

 この「豊(とよ)国の宇佐(うさ)」は、マオリ語の

  「ト・イオ」、TO-IO(to=drag,open or shut a door or a window;io=muscle,line,spur,lock of hair)、「(潮の干満に応じて)潮が行き来する・縄のような海峡(関門海峡(および豊予海峡)に面している。国)」

  「ウタ」、UTA(the land,the inland,put persons or goods on board a canoe etc.)、「人や貨物を船に積み卸しする(場所。港のある地域)」

の転訛と解します。

 この「足一騰(あしひとつあがり)宮」は、『古事記伝』には「宮の一方は宇沙川の岸なる山に片かけて構へ、今一方は流の中に大なる柱を唯一つ建て支へたる構なるべし」とあり、また宇佐地方は古来製銅、製鉄の盛んな地で、「足一つ神」は金属精錬の神であるところから、これにちなむものであろうとの説もあります。これは、マオリ語の

  「アチ・ヒ・タウ・ツ・アガ・リ」、ATI-HI-TAU-TU-ANGA-RI(ati=descendant,clan,beginning;hi=raise,rise;tau=beautiful;tu=stand,settle;anga=aspect,shell;ri=protect)、「新築の高床のきれいで守りの固い(宮殿)」

の転訛と解します。

 この「岡田(おかだ)宮」は、マオリ語の

  「オ・カタ」、O-KATA(o=the...of;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開いたような地形(潟)の場所(にある宮)」

の転訛と解します。

 この「阿岐(あき)国の多祁理(たけり)宮」は、ハワイ語(マオリ語)の

  「アキ」、AKI((Hawaii)to furl as sails)、「折り畳んだ帆(のように山脈が整然と並んでいる国)」

  「タケ・リ」、TAKE-RI(take=chief;ri=bind)、「首長(イハレヒコ)が拘禁された(宮)」

の転訛と解します。「アキ(折り畳んだ帆のように山脈が整然と並んでいる)」地名の他の例としては、土佐国安芸(あき)郡が好例です。

 また、『延喜式』神祇の部に祭祀料として「安芸木綿(あきのゆふ)」が頻繁に出てきます。この「安芸木綿」の「木綿」は、現在の木綿(もめん)ではなく、当時のものは楮の皮を剥ぎ、黒皮を除いて晒したもので、「御麻(みぬさ)料」(斎宮の大殿祭の晦日解除料の条)、または「鬘(かつら)木綿」(同斎宮の三年潔斎の条)の用途に充てるとの記事があり、さらに斎宮寮で使用する諸国から貢納される諸物資の一覧の記事を見ますと、木綿三百斤は伊豆国二百六十二斤、遠江国三十八斤となっており、「安芸」は地名ではないことは明白です。この「安芸木綿」の「安芸」も、「折り畳んだ帆のように折り畳んである」の意と解します。

 なお、「多祁理(たけり)宮」は『日本書紀』では「埃宮(えのみや)」となっており、多祁理は「丈(たけ)有り」、「埃(え)」は「優れた」の意で同じ意と解されていますが、この「え」は、マオリ語の

  「ヘ」、HE(wrong,in trouble or difficulty)、「紛糾(困難)があった(宮)」

の転訛と解します。『古事記』では7年(『日本書紀』では甲寅年12月から乙卯年3月まで)の間滞在したとあるのは、何らかの事情で滞留せざるを得なかった(例えばイハレヒコが現地の豪族に捕らえられ、抑留されたなどの)ためではなかったでしょうか。

 次の「吉備(きび)の高島(たかしま)宮」は、マオリ語の

  「キ・ピ」、KI-PI(ki=full;pi=eye)、「目のような盆地がたくさんある(国)」

  「タカ・チマ」、TAKA-TIMA(taka=go round,encircled;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「複雑な入り江の奥のような場所(に建てられた宮)」

の転訛と解します。ここでも『古事記』では8年滞在しています(『日本書紀』では3年の間に兵船軍備を調えたとあります)。

 この「速吹門(はやすひのと)」は、豊予海峡で、潮の流れが急で、古来航海の難所でした。ここが『古事記』では吉備国の後に出てくるのは不審で、『日本書紀』のほうが路順としては正確です。これはマオリ語の

  「ハ・イア・ツヒ・ノ・ト」、HA-IA-TUHI-NO-TO(ha=breath;ia=indeed,very;tuhi=point at,conjure;no=of;to=drag,open or shut a door or window)、「実に魔法で呼び出されるように呼吸をする(潮の干満によって流れの向きが変わる)戸口(海峡)」

の転訛と解します。

 この「打ち羽挙(はぶ)き来る人」は、「羽ばたきして来る人」と解されていますが、これはマオリ語の

  「ウチ・ハプク」、UTI-HAPUKU(uti=bite;hapuku=cram food into the mouth)、「食べ物(釣った魚)を噛んで、口に詰め込む(ほおばる)」

の転訛と解します。

 この「槁根津日子(さをねつひこ)」は、「竿の先をつかんでイハレヒコの船に乗り込んできたから」とされていますが、これはマオリ語の

  「タ・オネ・ツ」、TA-ONE-TU(ta=the;one=beach,sand;tu=stand,settle)、「海岸に住んでいる(男)」

の転訛と解します。

 なお、『日本書紀』では槁根津日子は「珍(うづ)彦」と名乗り、「椎根津(しひねつ)彦」の名を与えたとあります。この「うづ」、「しひねつ」は、マオリ語の

  「ウツ」、UTU(dip up water,dip into for the purpose of filling)、「海から(船へ)上がってきた(男)」

  「チヒ・ネ・ツ」、TIHI-NE-TU(tihi=summit,top;ne=emphasis;tu=stand,settle)、「(帆柱の)先に座った(水先案内の男)」

の転訛と解します。

 この「浪速(なみはや)の渡」は、マオリ語の

  「ナ・ミハ・イア」、NA-MIHA-IA(na=belonging to;miha=admire,wonder;ia=indeed)、「実に驚くべき(潮流の速い場所)」

の転訛と解します。

 この「青雲の白肩(しらかた)津」は、マオリ語の

  「アウクメ・ノ・チロ・カタ」、AUKUME-NO-TIRO-KATA(aukume=prolong,lengthen out;no=of;tiro=look;kata=opening of shellfish)、「細長く延びている貝が口を開けたように見える潟(にある港)」

の転訛と解します。

 この「日下(くさか)の楯津(たてつ)」は、マオリ語の

  「ク・タカ」、KU-TAKA(ku=silent;taka=heap,be encircled)、「静かな高台(または音を立てずに包囲された(待ち伏せされた)場所)」

  「タ・テ」、TA-TE-(ta=the;te=crack)、「打ち破られた(場所)」

の転訛と解します。この「日下」は、「アスカ(飛鳥)」の転訛とする説がありますが、あまりにも音韻が違い、信じられません。

 この「登美能那賀須泥(とみのながすね)毘古」は、マオリ語の

  「タウ・ミヒ・ノ・ナ・(ン)ガツ・ヌイ」、TAU-MIHI-NO-NA-NGATU-NUI(tau=beautiful;mihi=greet,admire;no=of;na=belonging to;ngatu=crashed;nui=large,many)、「美しくて崇めるべき地域に住む、(イワレヒコによって)徹底的に打ち負かされた(氏族の首長)」

の転訛と解します。

 この「血沼(ちぬ)海」は、マオリ語の

  「チノ」、TINO(main,reality,exact)、「主要な(海)」

  または「チ・ヌイ」、TI-NUI(ti=squeak,tingle;nui=large,numerous)、「(傷の痛みに)大きな叫び声をあげた(海)」

の転訛と解します。

 この「男之水門(をのみなと)」は、マオリ語の

  「アウ・ナウ」、AU-NAU(au=sea;nau=come,go)、「(転進して)やって来た海(の港)」

の転訛と解します。

 この戦いについて『日本書紀』はくわしく経緯を記しています。イハレヒコの軍は、最初「河内(かふち)国」の青雲の白肩津から「龍田(たつた)」を経て大和に入ろうとしましたが路が険阻で諦め、「膽駒(いこま)山」を越えようとして、「孔舎衛(くさえ)坂(「衛」を「衙(が)」とする説があります)」でナガスネヒコと戦い、五瀬命が負傷します。この際大きな樹に隠れて災いを逃れた人があったのでその木を「恩、母(おも)の如し」といったとあります。また、茅渟(ちぬ)の「山城(やまき)水門(亦の名は山井(やまのい)水門)」で、五瀬命の傷が悪化し、「撫剣(つるぎのたかみとりしばる)」して、「慨哉(うれたきかや)」と言われ、紀国の「竈(かま)山」で亡くなったたとあります。

 この「河内(かふち)国」、「龍田(たつた)」、「膽駒(いこま)山」、「孔舎衛(くさえ)坂」、「恩、母(おも)の如し」は、マオリ語の

  「カハ・ウチ」、KAHA-UTI(kaha=rope,boundary line of the land,edge,ridge of a hill;uti=utiuti=bite)、「(生駒・金剛山地から和泉山脈という国の)境界線をなす(山地の)地域を・浸食して(いたる所に平地を作って)いる(地域。国)」(「カハ」の語尾のA音が脱落し、「ウチ」と連結して「カフチ」となった)
  または「カフ・チ」、KAHU-TI(kahu=chief;ti=overcome)、「首長(五瀬命)が・打ち倒された(場所)」)

  「タ・ツタ」、TA-TUTA(ta=the;tuta=back of the neck)、「頚(生駒山)の後ろ(のような急傾斜の場所)」

  「イカ・ウマ」、IKA-UMA(ika=warrior;uma=bossom,chest)、「戦士の胸(のようにそそりたっている山)」

  「ク・タエ」、KU-TAE(ku=silent;tae=arrive,reach)、「静かな取り付きの場所(山麓の坂)」(「ク・タ(ン)ガ」、KU-TAKA(ku=silent;tanga=row,circumstance,the operation of netting or weaving)、「静かに網を張った(伏兵を伏せた)場所」)

  「オンガ・オモ」、ONGA-OMO(onga=agitate,shake about;omo(Hawaii)=to suck)、「震えおののく人を吸い込んだ(木の洞の中に隠した)(木)」

の転訛と解します。

 また、「山城(やまき)水門」、「山井(やまのい)水門)」、「撫剣(つるぎのたかみとりしばる)」、「慨哉(うれたきかや)」、「竈(かま)山」は、マオリ語の

  「イア・マキ」、IA-MAKI(ia=indeed;maki=invalid,sick person)、「大怪我をした人間(五瀬命の怪我が悪化した場所)」

  「イア・マ・ノイ」、IA-MA-NOI(ia=indeed;ma=white;noi=elevated,erected)、「実に蒼白となりながら立ち上がった(場所)」

  「ツルキ・ナウ・タカアミオ・トリ・チパレ」、TURUKI-NAU-TAKAAMIO-TORI-TIPARE(turuki=follow,reinforce;nau=come,go;takaamio=go round about;tori=cut;tipare=band worn round the head)、「力を振り絞ってよろよろと歩き、頭の鉢巻きを取って」

  「ウレ・タキ・カイ・イア」、URE-TAKI-KAI-IA(ure=man,courage;taki=track,lead,challenge;kai=consume;ia=indeed)、「挑戦する勇気が無くなってしまった」

  「カ・マ」、KA-MA(ka=burn,be lighted;ma=white,clean)、「清らかな居住地(墓地の山)」

の転訛と解します。


 

(2) 熊野から吉野まで

 

 イハレヒコが、「熊野(くまの)」にやってきますと、大熊が現れ、イハレヒコ一行はにわかに「遠延(おえ)」ますが、その地に住む「高倉下(たかくらじ)」が夢の中でタケミカヅチから霊剣を授かり、「阿佐米余玖(あさめよく)」イハレヒコに献じて助かります。さらに、タカギノカミの神託で、「八咫烏(やたがらす)」が道案内として遣わされます。それから「吉野(よしの)川の河尻」で「贄持之子(にへもつのこ)」が服従し、さらに「井氷鹿(ゐひか)」、「石押分之子(いはおしわくのこ)」が服従し、「宇陀の穿(うだのうかち)」に着きます。

 この宇陀の「兄宇迦斯(えうかし)」はイハレヒコに反抗しますが、「弟宇迦斯(おとうかし)」が降伏し、兄宇迦斯は自分が作った「伊賀(いが)」作り仕え奉れる大殿の中へ「意礼(おれ)」まず入れと「矛由気(ゆけ)矢刺して」追い入れられ、「押機(おし)」に打たれて死にます。

 

 この「熊野(くまの)」は、マオリ語の

  「ク・マ・ノア」、KU-MA-NOA(ku=silent,showery unsettled weather;ma=white,clean;noa=free from any other restriction,quite,just)、「実に静かで(または雨が多くて)清らかな土地」

の転訛と解します。

 この「遠延(おえ)」は、マオリ語の

  「アウエ」、AUE(expressing astonishment or distress,groan)、「疲れはてる(苦しみうなる)」

の転訛と解します。『出雲国風土記』意宇郡の項で「国引き」を終えた八束水臣津野命が「おゑ」と言われて杖を突き立てたのでそこを「意宇郡」というとありますが、この「おゑ(疲れたなあ)」と同じです。

 この「高倉下(たかくらじ)」は、この剣(フツノミタマ)が物部氏が祭る石上神宮の神庫に収められていることにちなむ名で、「高い倉を掌どる人」の意と解されていますが、これはマオリ語の

  「タカ・クラ・チ」、TAKA-KURA-TI(taka=fall down;kura=treasure;ti=throw,cast,overcome)、「天から降ってきた宝剣を献じた(人)」

の転訛と解します。

 この「阿佐米余玖(あさめよく)」は、「朝目吉く」で「朝目を覚まして縁起の良いこの刀を見つけて」の意と解されていますが、これはマオリ語の

  「アタ・メア・オク」、ATA-MEA-OKU(ata=early morning,true;mea=thing,fact;oku(Hawaii)=to stand erect,hold upright)、「早朝に物(剣)が真っ直ぐに立っていた」

の転訛と解します。

 この「八咫烏(やたがらす)」は、「八咫の大きさの烏」で、『古事記』序文に「大烏吉野に導きき」とある大烏と解され、『日本書紀』では「頭八咫烏有りて、空より翔び降る」と記されていますが、この烏は道案内をしただけではなく、兄宇迦斯(えうかし)・弟宇迦斯(おとうかし)の下に使者として行き、口上を述べていますし、神武紀2年2月の条では論功行賞の対象となつて、「その苗裔は、即ち葛野主殿県主部(かづののとのもりのあがたぬしら)是なり」と記されていますから、これは間違いなく人の名で、マオリ語の

  「イア・タ・カラ・ツ」、IA-TA-KARA-TU(ia=indeed;ta=dash;kara=old man;tu=energetic)、「本当に先頭に立って突進する元気な老人」

の転訛と解します。

 この「吉野(よしの)川の河尻」は、『古事記伝』にも「川上といふべき・・を・・河尻と・・は・・違えるごとし」とあるようですが、これはマオリ語の

 
  「イオ・チノ」、IO-TINO(io=spur,ridge;tino=main)、「主要な(連なった)山の麓(断層線に沿った川)」

  「カワ・チリ」、KAWA-TIRI(kawa=heap,channel;tiri=throw or place one by one,scatter,stack)、「丘(または岩)が連続して折り重なっている(場所)」

の転訛と解します。

 この「贄持之子(にへもつのこ)」は、マオリ語の

  「ネヘ・モツ・ノ・コ」、NEHE-MOTU-NO-KO(nehe=distance;motu=separate;no=of;ko=adressing to girls or males)、「遠く離れた場所の男子」

の転訛と解します。

 この「井氷鹿(ゐひか)」は、マオリ語の

  「イヒ・カ」、IHI-KA(ihi=split,front of a house,entrance of a cave;ka=take fire,be lighted,burn)、「火で照している洞窟の入り口(その洞窟に住む人)」

の転訛と解します。

 この「石押分之子(いはおしわくのこ)」は、マオリ語の

  「ヒワ・オチ・ワキ・ノ・コ」、HIWA-OTI-WAKI-NO-KO(hiwa=light-heartedness,watchful;oti=finished;whaki=disclose,confess;no=of;ko=adressing to girls or males)、「身を潜めていたのを止めて姿を現した注意深い男子」

の転訛と解します。

 この「宇陀の穿(うだのうかち)」は、マオリ語の

  「ウタ・ノ・ウ・カチ」、UTA-NO-U-KATI(uta=the land,the inland;no=of;u=be fixed,reach the land,reach its limit;kati=leave off,block up,boundary)、「内陸の地(宇陀)の境界に位置する(村)」

の転訛と解します。

 この「兄宇迦斯(えうかし)」、「弟宇迦斯(おとうかし)」は、マオリ語の

  「ヘイ・ウ・カチ」、HEI-U-KATI(hei=go towards;u=be fixed,reach the land,reach its limit;kati=leave off,block up,boundary)、「先頭に立つ(兄の)境界に位置する(村に住む男子)」

  「アウト・ウ・カチ」、AUTO-U-KATI(auto=trailing behind;u=breast of a female,be fixed,reach the land,reach its limit;kati=leave off,block up,boundary)、「後ろについて行く(弟の)境界に位置する(村に住む男子)」

の転訛と解します。

 この「伊賀(いが)」は、マオリ語の

  「イ・(ン)ガ」、I-NGA(i=past time;nga=satisfied,breathe)、「息急ききって(宮を作った)」

の転訛と解します。

 この「意禮(おれ)」は、古典篇(その二)で解説したスサノオがオオナムチに呼びかけた語と同じですが、これはマオリ語の

  「オレ」、ORE(ore=kaore(poetry)=expressing surprise,admiration,distress,etc.)、「(ここでは皮肉をこめて)お前さんよ」

の転訛と解します。

 この「矛由気(ゆけ)」は、「矛を揺り動かし」と解されていますが、これはハワイ語の

  「イ・ウケ」、I-UKE(i=beside,close;uke=to swing,sway)、「(矛を兄宇迦斯の体の)近くで振って」

の転訛と解します。

 この「押機(おし)」は、マオリ語の

  「オ・チ」、O-TI(o=the ...of;ti=throw,cast,overcome)、「(人を)圧倒する(装置)」

の転訛と解します。

 

 この転進作戦について『日本書紀』はさらにくわしく記しています。

 紀国の名草(なくさ)邑で「名草戸畔(なくさとべ)」を殺し、「狭野(さの)」を越えて、熊野の「神(みわ)邑」の「天磐楯(あまのいはたて)」に登り、そこから引き返して海路を取りますが、海が荒れ、稲飯命、三毛入野命が入水して波を静めます。

 イハレヒコは、御子タギシミミと、熊野の「荒坂津(あらさかのつ)」(亦の名は「丹敷浦(にしきのうら)」)で「丹敷戸畔(にしきとべ)」を殺します。それから高倉下、頭八咫烏(やたのからす)の援助があり、菟田(うだ)で兄猾(えうかし)弟猾(おとうかし)を、さらに井光(ゐひか)らを服属させます。

 この「名草戸畔(なくさとべ)」、「狭野(さの)」、「神(みわ)邑」、「天磐楯(あまのいはたて)」、「荒坂(あらさか)津」、「丹敷戸畔(にしきとべ)」は、マオリ語の

  「ナク・タ・トペ」、NAKU-TA-TOPE(naku=dig,scratch;ta=lay;tope=cut,cut down)、「掘られた(溝の)ような地形の場所に住んでいて、殺された(部族の首長)」

  「タ・ヌイ」、TA-NUI(ta=the;nui=large,many)、「大きな(開けた)場所」

  「ミヒ・ワ」、MIHI-WA(mihi=greet,admire;wa=place)、「神聖な場所」

  「アマ・ノ・イワ・タタイ」、AMA-NO-IWA-TATAI(ama=outrigger of a canoe;no=of;iwa=nine;tatai=arrange,set in order,adorn)、「カヌーのアウトリガーのように多数の(岩が)一列に並んでいる(場所)」

  「アラ・タカ」、ARA-TAKA(ara=way,path;taka=heap,go round)、「路が周囲を巡っている(港)」

  「ヌイ・チキ・トペ」、NUI-TIKI-TOPE(nui=large,many;tiki=fetch,unsuccessful;tope=cut,cut down)、「非常に不運で、殺された(部族の首長)」

の転訛と解します。

 上記の「名草」は、和歌山市紀三井寺の名草山から名草郡の名が出たとして「崖地」と解する説がありますが、このマオリ語による解釈からすると、これは中央構造線に沿った地溝帯を流れる「紀ノ川(吉野川)」の河口を指すものと考えられます。

 また、「狭野」は和歌山県新宮市佐野、「神邑」は同市新宮のあたりとし、「天磐楯」は同所の熊野速玉神社の摂社神倉神社の境内神倉山とする説、または付近の「ゴトビキ岩」とする説などがあります。しかし、このマオリ語による解釈からすれば、「狭野」は熊野市木本町の奇勝鬼ケ城の「千畳敷岩」、「天磐楯」はイハレヒコの順路とはやや前後しますが、和歌山県西牟婁郡串本町の「橋杭岩」を指すものと考えられます。


 

(3) 大和の平定

 

 イハレヒコが「忍坂(おしさか)」の大室に来たとき、「八十建(やそたける)」がその室で「待ち伊那流(いなる)」といいます。そこで久米歌を歌って八十建を倒し、また登美毘古、「兄師木(えしき)」、「弟師木(おとしき)」を倒します。

 それから「迩藝速日(にぎはやひ)命」が後を追って来て、天津瑞(あまつしるし)を献じます。ニギハヤヒは、登美毘古の妹、「登美夜(とみや)毘賣」を娶って「宇摩志麻遅(うましまじ)命」が生まれます。

 こうして大和を平定し、「畝火(うねび)の白檮原(かしはら)宮」に坐して天下を治めました。

 

 この「忍坂(おさか)」は、現奈良県櫻井市忍阪(おつさか)の地で、「押しつぶされたような地形の土地、崖、急傾斜地」と解されていますが、これはマオリ語の

  「オ・サカ」、O-TAKA(o=the...of;taka=heap,heap up)、「高くなるところ(坂)」

の転訛と解します。

 この「八十建(やそたける)」は、「大変勇猛な首長」の意と解されていますが、これはマオリ語の

 
  「イア・タウ・タケ・ル」、IA-TAU-TAKE-RU(ia=indeed;tau=be suitable,befit;take=chief;ru=shake,agitate)、「実にきちんとした、人に恐れられる氏族の首長」

の転訛と解します。

 この「待ち伊那流(いなる)」は、「怒りを含んで唸なりながら待つ」といった意に解されていますが、この「イナル」はマオリ語の

  「イ・(ン)ガルエ」、I-NGARUE(i=past time;ngarue=shake,move to and fro)、「(室の中を)行ったり来たりしていた」

の転訛(NG音がN音に変化して「イ・ナルエ」となった)と解します。

 この「兄師木(えしき)」、「弟師木(おとしき)」は、マオリ語の

  「ヘイ(アウト)・チキ」、HEI(AUTO)-TIKI(hei=go towards(auto=trailing behind);tiki=a post to mark a place which was TAPU,unsuccessful)、「禁忌の土地であることを示す柱が立っている土地(侵してはならない神聖な土地。磯城)に住む兄(弟)の男子」または「不運な兄(弟)」

の転訛と解します。

 この「迩藝速日(にぎはやひ)命」は、『日本書紀』には「櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)命」とありますが、これはマオリ語の

  「クチ・タマ・(ン)ギ(ン)ギハ・イア・ヒ」、KUTI-TAMA-NGINGIHA-IA-HI(kuti=contract,pinch,close the mouth or hand;tama=son,child;ngingiha=burn,fire;ia=indeed;hi=rise,raise)、「小柄な(または口をきりっと結んだ)息子で、燃えるような情熱をもって行動する実に尊い(神)」

の転訛(最初のNG音がN音に変化)と解します。

 この「登美夜(とみや)毘賣」は、マオリ語の

  「タウ・ミヒ・イア」、TAU-MIHI-IA(tau=beautiful;mihi=greet,admire;ia=indeed,very)、「実に美しくて尊敬すべき(姫)」

の転訛と解します。

 この「宇摩志麻遅(うましまじ)命」は、マオリ語の

  「ウ・マチマチ」、U-MATIMATI(u=be fixed,be firm,reach its limit;matimati=toe,finger)、「手指を極限まで伸ばす(できる限りの努力をする神)」

の転訛と解します。

 この「畝火(うねび)の白檮原(かしはら)宮」は、『日本書紀』には「畝傍山の東南の橿原の地」とあり、これはマオリ語の

  「ウ・ネピ」、U-NEPI(u=breast of a female;nepi=stunted,diminutive)、「いじけた乳房(のような山)」

  「カチ・ハラ」、KATI-HARA(kati=block up,shut of a passage,boundary;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「道の行き詰まりの祖先の祭祀の土地」

の転訛と解します。

 

 この討滅作戦について『日本書紀』はさらにくわしく記しています。

 イハレヒコが菟田の高倉山から国見をしますと、国見丘の上に八十梟師(やそたける)が、「磐余(いはれ)邑」に「兄磯城(えしき)」らが、「高尾張(たかおはり)邑」に赤銅の八十梟師(やそたける)らが、「要害(ぬみ)の地」に「布(し)き満(いは)」みていました。そこで、天香具山の埴土を取って「八十平瓮(やそひらか)」・「天手抉(あまのたくじり)」・「厳瓮(いつへ)」を作って祈り、次々に敵を破ります。

 苦戦だった鵄(とび)邑(鳥見(とみ)邑)では金鵄が現れて優勢になりますが、長髄(ながすね)彦は服さず、すでに「天磐船(あまのいはふね)」に乗って降り、長髄彦の妹「三炊屋(みかしきや)媛」を娶って御子「可美真手(うましまで)命」をもうけていた天神の子「櫛玉饒速日(くしたまにぎはやひ)命」が長髄彦を殺します。

 次いで「層富(そほ)県の波多丘岬(はたのおかさき)」の「新城戸畔(にひきとべ)」、「和珥(わに)」の坂本の「居勢祝(こせのはふり)」、「臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのおかさき)」の「猪祝(ゐのはふり)」を討ち、高尾張邑の土蜘蛛を「葛(かづら)の網を結(す)きて掩襲(おそ)ひ殺」し、大和を平定します。

 

 この「磐余(いはれ)邑」、「高尾張(たかおはり)邑」、「要害(ぬみ)の地」、「布(し)き満(いは)み」、「八十平瓮(やそひらか)」、「天手抉(あまのたくじり)」、「厳瓮(いつへ)」、「天磐船(あまのいはふね)」、「三炊屋(みかしきや)媛」、「層富(そほ)県の波多丘岬(はたのおかさき)」、「新城戸畔(にひきとべ)」、「和珥(わに)」、「居勢祝(こせのはふり)」、「臍見(ほそみ)の長柄丘岬(ながらのおかさき)」、「猪祝(ゐのはふり)」は、マオリ語の

  「イ・ワレ」、I(past tense,beside)-WHARE(a divosion of an army)、「(神武軍を待ち受けていた)一群の軍隊が・いた場所」

  「タカ・オ・パリ」、TAKA-O-PARI(taka=heap,lie in a heap;o=the place of;pari=cliff)、「崖の上の高所」

  「ヌミ」、NUMI(bend,fold)、「路が屈曲している」

  「イ・ハム」、I-HAMU(i=past time;hamu=gather,glean)、「(多数の人が)集められた」

  「ヒラ・カ」、HIRA-KA(hira=great,important,widespread;ka=burn,take fire)、「平たい(埴土を火で焼いた)土器」

  「アマ・ノ・タ・クチ・リ」、AMA-NO-TA-KUTI-RI(ama=outrigger of a canoe;no=of;ta=the;kuti=contract,pinch;ri=protect,bind)、「対馬(で作っているような)の口をすぼめて結んだ壷」

  「イ・ツペ」、I-TUPE(i=past time;tupe=affect by the TUPE charm for depriving one's enemies of power and arresting their weapons)、「敵の力を削ぎ、武器を使えなくするまじないを施した(土器類)」(原ポリネシア語のP音が日本語に入ってF音を経てH音に変化して「イ・ツヘ」となつた)

  「アマ・ノ・イワ・フヌ」、AMA-NO-IWA-HUNU(ama=outrigger of a canoe;no=of;iwa=nine;hunu,huhunu=double canoe)、「対馬から来た多数の大型船(ダブル・カヌー)」(「天磐船(あまのいはふね)」を<古典篇(その二)>では、「アマ・ノ・イワ・フネイネイ」、AMA-NO-IWA-HUNEINEI(ama=outrigger of a canoe;no=of;iwa=nine;huneinei=anger)、「対馬出身の猛り狂って暴れ回る(神。ニギハヤヒ)」と解釈しましたが、これを改めます)

  「ミヒ・カチ・キ・イア」、MIHI-KATI-KI-IA(mihi=greet,admire;kati=barrier;ki=full;ia=indeed)、「実に近寄りがたい尊貴な(姫)」

  「トハウ」、TOHAU(damp,sweat)、「湿気の多い(地域)」

  「パタ・ノ・オカ・タキ」、PATA-NO-OKA-TAKI(pata=advantage;no=of;oka=prick;taki=track,lead)、「(岬のように)延びた先端(の場所)」

  「ニヒ・キ・トペ」、NIHI-KI-TOPE(nihi,ninihi=steep,move stealthily;ki=full;tope=cut,cut down)、「非常に嶮しいところに住んでいて、殺された(部族の首長)」

  「ワニ」、WANI(scrape,graze)、「引っかいた(ような坂)」

  「コテ・ノ・ハプ・リ」、KOTE-NO-HAPU-RI(kote=squeeze out,crush;no=of;hapu=section of a large tribe;ri=protect,bind)、「(人を)圧迫する、小氏族を保護する役(の巫者=祝(はぶり)、祭祀をする小氏族の首長)」

  「ホト・ミミ」、HOTO-MIMI(hoto=join;mimi=stream)、「川の流れが合流する(場所)」

  「ナ・(ン)ガ・ラ・ノ・オカ・タキ」、NA-NGA-RA-NO-OKA-TAKI(na=belonging to;nga=satisfied;ra=wed;no=of;oka=prick;taki=track,lead)、「ゆったりとした広い場所の(岬のように)延びた先端(の場所)」

  「ウイ・ノ・ハプ・リ」、UI-NO-HAPU-RI(ui=disentangle,ask;no=of;hapu=section of a large tribe;ri=protect,bind)、「紛糾を解決する、小氏族を保護する役(の巫者=祝(はぶり)、祭祀をする小氏族の首長)」

の転訛と解します。


 

(4) イハレヒコの妃と御子たち

 

 イハレヒコは、日向にいた時に、「阿多(あた)の小椅(おはし)君の妹、阿比良(あひら)比賣」を娶って、「多藝志美美(たぎしみみ)命」、「岐須美美(きすみみ)命」の御子がありました。

 「三島溝咋(みしまのみぞくひ)の女、勢夜陀多良(せやだたら)比賣」が美しかったので、「美和(みわ)の大物主神」が丹塗矢になって姫が厠にいる時に「富登(ほと)」を突き、姫は驚いて「立ち走り伊須須岐岐(いすすきき)」とあります。姫が丹塗矢を持ってくると、麗しい男に変身し、姫を娶って「富登多多良伊須須岐(ほとたたらいすすき)比賣、亦の名は比賣多多良伊須気余理(ひめたたらいすけより)比賣」が生まれます。 

 比賣の家は、「狭井(さゐ)河」の上にあり、イハレヒコは

比賣を娶って、「日子八井(ひこやゐ)命、神八井耳(かむやゐみみ)命、神沼河耳(かむぬなかはみみ)命」が生まれます。

 この「阿多(あた)の小椅(おはし)君の妹、阿比良(あひら)比賣」は、マオリ語の

  「アタ・ノ・オハ・チ」、ATA-NO-OHA-TI(ata=shadow,refrected image;no=of;oha=greet,utter incantation over;ti=throw,cast,overcome)、「(霧島火山の)影が映る土地の、まじないの言葉を(四方に向かって)唱える(豪族の首長)」

  「ア・ヒラ」、A-HIRA(a=particle before names of persons;hira=great,important,numerous)、「偉大な(姫)」

の転訛と解します。

 この「多藝志美美(たぎしみみ)命」は、古典篇(その一)で説明しましたが、これはマオリ語の

  「タ(ン)ギ・チ・ミミヒ」、TANGI-TI-MIMIHI(tangi=cry;ti=throw,cast,overcome;(Hawaii)mimihi=intensive of mihi,to repent,to change one's course,to cease to do wrong)、「悲鳴を上げて・打倒された・(自らの)運命が変わった(悪だくみに終止符を打った。命)」(「タ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「タギ」と、「ミミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)

の転訛と解します。

 この「岐須美美(きすみみ)命」は、紀には見えませんが、マオリ語の

  「キ・ツ・ミミヒ」、KI-TU-MIMIHI(ki=say,tell;tu=fight with,energetic;(Hawaii)mimihi=intensive of mihi,to repent,to change one's course,to cease to do wrong)、「精力的に・話をする・後悔した(命)」(「ミミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)

の転訛と解します。

 この「三島溝咋(みしまのみぞくひ)の女、勢夜陀多良(せやだたら)比賣」は、マオリ語の

  「ミミ・チマ・ノ・ミト・クヒ」、MIMI-TIMA-NO-MITO-KUHI(mimi=stream;tima=a wooden implement for cultivating the soil;no=of;mito=whakamito=pout;kuhi=gush forth,insert)、「掘り棒で掘り散らかしたような地形の場所を流れる川の(流域に住む)、口を尖らせて吐き出す(ように話をする人)」

  「テ・イア・タタラ」、TE-IA-TATARA(te=the;ia=indeed;tatara=loose,active)、「実に活発な性格の(姫)」

の転訛と解します。

 この「タタラ」を鍛冶の「踏鞴(ふいご)」または製鉄の溶鉱炉の「踏鞴(たたら)」と解して、鍛冶に関係する雷神=蛇神と関係づける説があります。さらに、セヤダタラヒメを三島地方の製鉄業者ミゾクヒの女と断定する説があります。しかし、これは人名の一部分だけを抜き出して既知の日本語にむりやりこじつけて解釈する結果、全体として大きな誤りを犯している事例の最たるものです。この踏鞴場は、民俗学の調査結果によれば、古来火を神聖視する結果、火の穢れを連想させる赤不浄(女性の月経の障り)の侵入を絶対に許さなかった女人禁制の場所でした。男性だけが働く場所の名が女性に付けられるはずはなく、女性の名としてもっともふさわしくない名なのです。しかも、男性の名に付けられた例も寡聞にして知りません。

 この「タタラ」を「活発な(性格の)、お転婆な」と解することによって、はじめて女性の名、性格の表現にふさわしい言葉として、この人名を正確に解釈することができるのです。(なお、製鉄の溶鉱炉の踏鞴(たたら)は、「火が活発に、ぼうぼうと燃えさかる(装置)」の意で、同じ語源と考えられます。)

 したがって、この人名の一部分だけからミゾクヒを製鉄業者と即断することは、明らかに誤りです。ただし、三島の地理的条件からみて、淀川の水運と、丹波地方への交通の要衝を押さえていた豪族であったことは、確実と思われます。

 この「美和(みわ)の大物主神」は、マオリ語の

  「ミヒ・ワ」、MIHI-WA(mihi=greet,admire;wa=place)、「神聖な場所(三輪)」

  「オホ・モノ・ヌイ・チ」、OHO-MONO-NUI-TI(oho=wake up,arise;mono=disable by means of incantations;nui=large,numerous;ti=overcome)、「(あたりを)睥睨する・まじないで敵を折伏する・多勢を・従える(神)」

の転訛と解します。

 この「富登(ほと)」は、マオリ語の

  「ホト」、HOTO(make a convulsive movement)、「衝動的に行動する」

の意と解します。けっして「陰部」ではないのです。

 この「立ち走り伊須須岐岐(いすすきき)」は、マオリ語の

  「イ・ツツ・キ」、I-TUTU-KI(i=past time;tutu=move with vigour;ki=full)、「元気いっぱいで行動した」

の転訛と解します。

 この「富登多多良伊須須岐(ほとたたらいすすき)比賣、亦の名は比賣多多良伊須気余理(ひめたたらいすけより)比賣」は、マオリ語の

 

  「ホト・タタラ・イ・ツツ・キ」、HOTO-TATARA-I-TUTU-KI(hoto=make a convulsive movement;tatara=loose,active;i=past time;tutu=move with vigour;ki=full)、「衝動的に行動する活発な性格で、元気いっぱいで行動した(姫)」

  「タタラ・イ・ツ・ケ・イオ・リ」、TATARA-I-TU-KE-IO-RI(tatara=loose,active;i=past time;tu=fight with;ke=different,extraordinary;io=tough;ri=protect)、「活発な性格で、風変わりな方法で戦って(暗喩の歌で子供たちに危険を知らせて)しっかりと(子供達を)保護した(姫)」

 

の転訛と解します。これについては、古典篇(その一)を参照してください。

 この「狭井(さゐ)河」は、『古事記』分注に「其の河を佐韋河と謂ふ由は、其の河の辺に山由理(やまゆり)草多に在りき。故、其の山由理草の名を取りて、佐韋河と號けき。山由理草の本の名は佐韋と云ひき。」とあります。『古事記伝』は百合の一種であろうとしますが、「サヰ」の語が他にみえないので不審とされています。これはマオリ語の

 

  「タ・ヰ」、TA-WI(ta=the;wi=tussock grass)、「稗に似たイネ科の草(が川辺に生えている川)」

 

の転訛と解します。

 この「日子八井(ひこやゐ)命、神八井耳(かむやゐみみ)命、神沼河耳(かむぬなかはみみ)命」は、マオリ語の

 

  「ヒコ・イア・ウイ」、HIKO-IA-UI(hiko=move at random or irregularly;ia=indeed;ui=disentangle)、「(天皇位の争奪をめぐる)紛糾を解決する際にあちこち出歩いていた(その場にいなかった皇子)」

  「カム・イア・ウイ・ミミヒ」、KAMU-IA-UI-MIMIHI(kamu=eat;ia=indeed;ui=disentangle;(Hawaii)mimihi=intensive of mihi,to repent,to change one's course,to cease to do wrong)、「(庶兄タギシミミを)倒して・実に・(天皇位を弟に譲って)紛糾を一挙に解決した・(自らの)運命を変えた(命)」(「ミミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)

  「カム・ヌナ・カワ・ミミヒ」、KAMU-NUNA-KAWA-MIMIHI(kamu=eat;(Hawaii)nuna=luna=high,above,foreman,boss,leader;kawa=heir,heap;(Hawaii)mimihi=intensive of mihi,to repent,to change one's course,to cease to do wrong)、「筆頭の・相続人(庶兄タギシミミ)を・倒して・(自らの)運命を変えた(命)」(「ミミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)

 

の転訛と解します。

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<修正経緯>

1 平成15年5月1日

 3の(1)の猿田彦とアメノウズメの項の一部を修正しました。

2 平成17年6月1日

 3の(2)の神阿多津比売、神吾田鹿葦津姫、阿摩比能微、火照命の解釈を修正、4の(1)の豊の国、宇佐の解釈を修正しました。

3 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

4 平成19年7月1日 

 4の(3)の磐余の解釈を修正、(4)の多藝志美美命・岐須美美命・大物主神・神八井耳命・神沼河耳命の解釈を一部修正しました。

5 平成19年9月20日

 3の(3)の豊玉姫の解釈を古典篇(その五)の解釈に合わせ修正しました。

6 平成22年9月1日

 4 神武東遷の(1)日向から摂津までの項中「河内(かふち)国」の解釈を修正しました。

古典篇(その三)終わり