地名篇(その十八)

(平成14-9-15書込み。26-12-1最終修正)(テキスト約40頁)


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 [ここでは『和名抄』所載の旧国名、旧郡名のほか、その地域の主たる古い地名などを選び、原則としてマオリ語により(ハワイ語による場合はその旨注記します)解説し、その他はまたの機会に譲ることとします。]

 

<九州地方の地名(その1)>

目 次

 

40 福岡県の地名

 

 筑前(ちくぜん)国・白日別(しらひわけ)怡土(いと)郡前原市三雲(みくも)・井原(いはら)・雷山(らいざん。いかづちやま。別名層々岐山(そそぎやま))・雷山神籠石(こうごいし)・浮岳(うきだけ)志麻(しま)郡芥屋の大門(けやのおおと)・玄界灘(げんかいなだ)早良(さわら)郡室見(むろみ)川・今津(いまづ)湾・能古島(のこのしま)那珂(なか)郡福崎(ふくさき)・博多(はかた)・博多どんたく・板付(いたつけ)遺跡・岡本須玖(すぐ)遺跡席田(むしろた)郡糟屋(かすや)郡箱崎(はこざき)・「玉せせり」行事・香椎(かしい)・多々良(たたら)浜・立花(たちばな)山・雁巣(がんのす)・志賀(しかの)島宗像(むなかた)郡沖(おきの)島・釣(つり)川・津屋崎(つやざき)・渡(わたり)半島・宮地嶽(みやじだけ)神社遠賀(おんが)郡・遠賀(おんが)川・洞海(どうかい)湾・洞海(くきのうみ)・江(え)川・若松(わかまつ)・戸畑(とばた)・脇田(わいだ)海岸・響灘(ひびきなだ)鞍手(くらて)郡直方(のおがた)市・竹原(たけはら)古墳・犬鳴(いぬなき)山・脇田(わきた)温泉・ひらた(船)嘉麻(かま)郡頴田(かいた)町(粥田(かいた)荘)・馬見(うまみ)山・古処(こしょ)山・嘉穂(かほ)町大隈(おおくま)穂浪(ほなみ)郡飯塚(いいづか)市・桂(かつら)川・桂川町寿命(じゅめい)・王塚(おうつか)古墳・筑穂町内野(うちの)夜須(やす)郡砥上(とがみ)岳・秋月(あきづき)下座(げざ)郡甘木(あまぎ)市・三奈木(みなぎ)上座(じょうざ)郡朝倉町比良松(ひらまつ)・杷木(はき)町御笠(みかさ)郡大野城(おおのじょう)・四王寺(しおうじ)山

 

 筑後(ちくご)国御原(みはら)郡小郡(おごおり)市・宝満(ほうまん)川生葉(いくは。うきは)郡水縄(みのう)山地・吉井(よしい)町・珍敷(めずらし)塚古墳竹野(たけの)郡田主丸(たぬしまる)町・寺徳(じとく)古墳・河童(かっぱ。えんこう。がわたろ)山本(やまもと)郡御井(みい)郡久留米(くるめ)市・篠山(ささやま)城・高良(こうら)山・神籠(こうご)石三潴(みずま)郡大川(おおかわ)市・若津(わかつ)港・柳川(やながわ)市・ドンコ舟上妻(こうつま)郡八女(やめ)市・磐井(いわい)・人形原(にんぎょうばる)・矢部(やべ)村・日向神(ひゅうがみ)峡・星野(ほしの)村下妻(しもつま)郡花宗(はなむね)川・羽犬塚(はいぬづか)山門(やまと)郡瀬高(せたか)町・女(ぞ)山神籠石・開(ひらき)三毛(みいけ)郡大牟田(おおむた)市・早鐘(はやがね)眼鏡橋

 

 豊前(ぶぜん)国・豊日別(とよひわけ)田河(たがわ)郡香春(かわら)町・香春(かわら)岳・がにまぶ・赤池(あかいけ)町・添田(そえだ)町・英彦(ひこ)山・岳滅鬼(がくめき)山・今(いま)川・中元寺(ちゅうがんじ)川・竜門(りゅうもん)峡企救(きく)郡馬関(ばかん)海峡・早鞆(はやとも)ノ瀬戸・門司(もじ)・和布刈(めかり)神社・小倉(こくら)・福智(ふくち)山地・平尾(ひらお)台・竜ケ鼻(りゅうがはな)京都(みやこ)郡長峡(ながを)縣・行事(ぎょうじ)村・大橋(おおはし)村仲津(なかつ)郡草野(かやの)津・祓(はらい)川・豊津(とよつ)町・国作(こくさく)・犀(さい)川築城(ついき)郡城井(きい)川・極楽寺(ごくらくじ)川・真如寺(しんにょうじ)川・椎田(しいだ)町上毛(こうげ)郡宇島(うのしま)港・求菩提(くぼて)山・犬(いぬ)ケ岳・経読(きょうよみ)岳

 

41 佐賀県の地名

 

 肥前(ひぜん)国・建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)基肄(きい)郡基山(きざん)・田代(たしろ)領養父(やぶ)郡鳥栖(とす)・轟木(とどろき)宿三根(みね)郡寒水(しょうず)川・千栗(ちりく)土居神埼(かんざき)郡背振(せふり)山・吉野ケ里(よしのがり)・目達原(めたばる)佐嘉(さか)郡嘉瀬(かせ)川・世田(よた)姫・與止日女(よどひめ)神社・多布施(たぶせ)川・石井(いしい)樋小城(おぎ)郡天(てん)山・多久(たく)盆地・牛津(うしづ)川・晴気(はるけ)川・祇園(ぎおん)川杵嶋(きしま)郡武雄(たけお)盆地・柄崎(つかさき)・六角(ろっかく)川・有明(ありあけ)海・搦(からみ)・籠(こもり)・黒髪(くろかみ)山藤津(ふじつ)郡多良(たら)岳・経(きょう)ケ岳・鹿島(かしま)市・塩田(しおだ)川・嬉野(うれしの)町・ムツゴロウ松浦(まつうら)郡唐津(からつ)市・虹(にじ)の松原・菜畑(なばたけ)遺跡・呼子(よぶこ)港・名護屋(なごや)城・可部(かべ)島伊万里(いまり)市・有田(ありた)

 

42 長崎県の地名

 

 肥前(ひぜん)国松浦(まつうら)郡平戸(ひらど)市・生月(いきつき)島・阿値賀(あじか)島・田平(たびら)町・免(めん)五島(ごとう)列島・小値賀(おぢか)島・知訶(ちか)島・天の忍男(おしを)・両児(ふたご)島・天両屋(あめのふたや)・福江(ふくえ)島・美彌良久(みみらく)の埼・鬼(おん)岳・京(きょう)ノ岳彼杵(そのき)郡佐世保(させぼ)湾・高後(こうご)崎・針尾(はりお)島・伊ノ(いの)浦瀬戸・早岐(はいき)ノ瀬戸(速来門(はやきのと))・大村(おおむら)湾・郡(こおり)川寄船鼻(よりふねばな)・角力(すもう)灘・外海(そとめ)町・内海(うちめ)・長崎(ながさき)市・茂木(もぎ)・香焼(こうやぎ)島・陰ノ尾(かげのお)島・野母(のも)崎高来(たかき)郡諫早(いさはや)市・雲仙(うんぜん)岳・普賢(ふげん)岳・眉(まゆ)山・島原(しまばら)市・千々石(ちぢわ)町・早崎(はやさき)瀬戸(瀬詰(せづめ)ノ瀬戸)

 

 壱岐(いき)国・天比登都柱(あめひとつばしら)壱岐(いき)郡勝本(かつもと)町(風本(かざもと))・名烏(ながらす)島・原ノ辻(はるのつじ)遺跡・触(ふれ)石田(いしだ)郡印通寺(いんどうじ)港・妻ケ(つまが)島・郷ノ浦(ごうのうら)町・岳(たけ)ノ辻

 

 對馬(つしま)国・天之狭手依(あめのさでより)比売上縣(かみつあがた)郡佐須奈(さすな)港・比田勝(ひたかつ)港下縣(しもつあがた)郡浅茅(あそう)湾・鶏知(けち)・厳原(いづはら)・矢立(やたて)山・豆酸(つつ)

<修正経緯>

 

 

<九州地方の地名(その1)>

 

40 福岡県の地名

 

(1)筑前(ちくぜん)国

 

 福岡県は、古くは筑前(ちくぜん)国、筑後(ちくご)国および豊前(ぶぜん)国の一部でした。

 筑前国は、福岡県の北西部に位置し、古くは筑後国とともに7世紀末まで筑紫(つくし)国と呼ばれ、岡、伊覩,儺などの縣主を筑紫国造が統括しており、6世紀はじめの筑紫国造磐井の乱以降大和朝廷の支配下に置かれ、律令制の下で筑前国・筑後国に分割されました。北は玄界灘、響灘、東は豊前国、南は豊後国、筑後国・肥前国に接します。怡土、志麻、早良、那珂、席田、糟屋、宗像、遠賀、鞍手、嘉麻、穂浪、夜須、下座、上座、御笠の15郡を所管し、国府・国分寺は御笠郡(現筑紫野市)に所在しました。

 古来その地理的位置から中国大陸、朝鮮半島に対する門戸として重要な役割を果たしてきた地域で、『魏志倭人伝』の舞台でした。

 『和名抄』は、「筑紫乃三知乃久知(ちくしのみちのくち)」と訓じます。

 筑紫(つくし)の国名は、『古事記』国生み条に「筑紫島も亦身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、筑紫国は白日別(しらひわけ)と謂ふ」とあり、九州島の名でもありました。筑紫・竺紫(記)、筑紫・竹斯・竹紫(紀)、豆久紫(万葉集)と表記され、好字の「筑紫」は大化2(646)年ごろからとされます。地名の初見は『隋書』倭国伝の「竹斯」です。筑紫野市原田の式内名神大社筑紫神社の縁起には「往古筑紫の名は当社の神号より起こる」とあり、もともと政治的・軍事的に重要であった福岡平野と筑紫平野の間の三郡山地と背振山地に挟まれた太宰府市、筑紫野市あたりの狭隘部を指す地名であったと考えられます。

 語源については、国の形が「木兎(つく)」に似る、人命尽神の「尽(つく)」から、「澪木(つくし)」から、「うつくし」から、「築石」から、「津・串」から、「大和からの道が尽き果てる所」から、「ツク(断崖)・クシ(急傾斜地)」からなどの諸説があります。

 また、「白日別(しらひわけ)」については、「明るい太陽の子」と解する説があります。

 この「つくし」、「しらひわけ」は、

  「ツ・クチ」、TU-KUTI(tu=stand,settle;kuti=pinch,contract)、「(三郡山地と背振山地に挟まれて)狭くなった・場所に位置している(地域)」

  「チ・ラヒ・ワカイ(ン)ガ」、TI-RAHI-WAKAINGA(ti=throw,cast,overcome;rahi=great,abundant;wakainga=distant home)、「巨大な大きさに・(岐美二神が)生み落とした・(大和から離れた)遠い土地に住む神(その支配する土地)」(「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)または「チラ・ヒ・ワカイ(ン)ガ」、TIRA-HI-WAKAINGA(tira=file of men,fin of a fish,mast of a canoe;hi=araise,rise;wakainga=distant home)、「高い・魚の鰭のような山(三郡山地、背振山地)がある・(大和から離れた)遠い土地に住む神(その支配する土地)」(「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)(古典篇(その五)の074白日別の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

(2)怡土(いと)郡

 

a怡土(いと)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の北西部に位置し、北は志麻郡、博多湾、東は早良郡、南は肥前国、西は玄界灘に接します。おおむね現在の前原(まえばる)市、糸島(いとしま)郡二丈(にじょう)町、福岡市西区の一部(糸島半島の基部)の地域です。糸島半島はかつては島で、糸島水道で本土と分かれていましたが、10世紀には糸島水道は埋積により閉じて半島となりました。明治29年に志麻郡と合併して糸島(いとしま)郡となっています。

 『魏志倭人伝』の伊覩(いと)国にあたり、「帯方郡の使者が往来するときいつも駐まる場所」であり、また「邪馬台国の一大率が常駐する場所」でした。

 『和名抄』は、「以土(いと)」と訓じます。郡名は、「磯(いそ)」の転(吉田東伍)、「イタ(美称)」から、「イタ(板)」から、「イタ(崖)」から、「イタ(分)」で「志麻郡との間が水路で分けられていたから」などの説があります。

 この「いと」は、

  「イ・ト」、I-TO(i=beside;to=drag,open or shut a door or a window)、「(伊覩国を経由して邪馬台国または博多湾に)出入りする場所の・周辺(の地域)」

の転訛と解します。(古典篇(その四)の06伊都国の項を参照してください。)

 

b前原市三雲(みくも)・井原(いはら)・雷山(らいざん。いかづちやま。別名層々岐山(そそぎやま))・雷山神籠石(こうごいし)・浮岳(うきだけ)

 かつての伊都国の中心は、弥生時代の遺跡がある前原市三雲(みくも)、井原(いはら)あたりと考えられています。

 郡の南には、背振山地に属し、急な断層崖をもつ雷山(らいざん。いかづちやま。別名層々岐山(そそぎやま)。955メートル)があり、その山中には国指定史跡の雷山神籠石(こうごいし)があります。

 その西には筑紫冨士と称される修験道の山である浮岳(うきだけ。805メートル)があります。

 この「みくも」、「いはら」、「らい」、「いかづち」、「そそぎ」、「こうご」、「うき」は、

  「ミヒ・クモウ」、MIHI-KUMOU(mihi=greet,admire,show itself,be expressed;kumou=cover a fire with ashes or earth to keep smouldering)、「尊崇すべき・埋め火の上に灰を盛り上げたような(土を盛り上げた古墳。その古墳のある地域)」または「埋め火の上に灰を盛り上げた(土を盛り上げた)ことを・見せつけている(古墳。その古墳のある地域)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となり、「クモウ」の語尾の「ウ」が脱落した)

  「イ・ハラ」、I-HARA(i=beside;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「首長を葬った場所の・周辺(の地域)」

  「ライ」、RAI(ribbed,furrowed)、「皺が寄っている(山)」

  「イカ・ツチカ」、IKA-TUTIKA(ika=heap,lie in a heap;tutika=upright)、「直立している(ような険しい)・山」(「ツチカ」の語尾の「カ」が脱落した)または「イ・カツア・チ」、I-KATUA-TI(i=past tense,beside;katua=adult,stockade or main fence of a fort;ti=throw,cast,overcome)、「周囲の柵(神籠石)が・壊れて・しまつた(山)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」から「カヅ」となった)

  「ト・ト(ン)ギ」、TO-TONGI(to=the...of;tongi=point,peck,nibble at bait)、「あの・(周囲が)食いちぎられている(断崖がある。山)」(「ト」が「ソ」に、「ト(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「トギ」から「ソギ」となった)

  「カウ・(ン)ガウ」、KAU-NGAU(kau=swim;ngau=bite,hurt,attack)、「(山の周囲を)泳ぐようにして・傷をつけた(溝を掘り、石垣を積んだ。山の中腹を取り巻く石垣)」(「カウ」のAU音がOU音に変化して「コウ」と、「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

  「ウキ」、UKI((Hawaii)anger,fierce)、「荒々しい(山)」

の転訛と解します。

 

(3)志麻(しま)郡

 

a志麻(しま)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の北西部、糸島半島に位置し、西から北は玄界灘、東は博多湾、南は怡土(いと)郡に接します。おおむね現在の糸島(いとしま)郡志摩(しま)町、福岡市西区の北西部(糸島半島の東部)の地域です。当郡はかつては島で、糸島水道で本土と分かれていましたが、10世紀には糸島水道は埋積により閉じて半島となりました。明治29年に怡土(いと)郡と合併して糸島(いとしま)郡となっています。

 『和名抄』は、訓を欠きます。

 この「しま」は、

  「チマ」、TIMA(a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘ったような(島。その地域)」

の転訛と解します。

 

b芥屋の大門(けやのおおと)・玄界灘(げんかいなだ)

 半島西部の志摩町介屋(けや)には、玄界灘に突出する玄武岩の柱状節理の絶壁の下部が荒波で浸食されて海食洞の大きな門を形作っている芥屋の大門(けやのおおと)があります。半島の西から北は玄界灘が広がります。

 この「けやのおおと」、「げんかい(灘)」は、

  「ケ・イア・ノ・オホ・ト」、KE-IA-NO-OHO-TO(ke=different,strange;ia=indeed;no=of;oho=wake up,arise;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・変わっている(景観)・の・(鴨居が)高い・出入り口(大門)」

  「(ン)ゲネ・カイ(ン)ガ」、NGENE-KAINGA(ngene=wrinkled,fold;kainga=field of operation,scope of work)、「(荒い波が船を)折り畳むように・襲ってくる場所(海域)」(「(ン)ゲネ」のNG音がG音に変化して「ゲネ」から「ゲン」と、「カイ(ン)ガ」の名詞形語尾のNGA音が脱落して「カイ」となった)

の転訛と解します。

 

(4)早良(さわら)郡

 

a早良(さわら)郡

 古代から昭和50年までの郡名で、筑前国の西部に位置し、北は博多湾、東は那珂郡、南は肥前国、西は怡土(いと)郡に接します。おおむね現在の福岡市西区の東部、早良区、城南区、中央区の西部の一部の地域です。昭和50年にすべて福岡市に併合されて早良郡は消滅しました。

 『和名抄』は、「佐波良(さはら)」と訓じます。郡名は、この地に縁のある武内宿禰の子孫河内国皇別早良臣にちなむ、麁原(そはら。福岡市西区)一帯が乾燥しているので「乾(さわらぐ)」から転じた、「サ(美称)・ハラ(原)」、「サハ(沢)・ラ(接尾語)」、「サ(美称)・ワラ(割れた地形)」からなどの説があります。

 この「さはら」は、

  「タワ・ラ」、TAWHA-RA(tawha=burst open,crack;ra=wed)、「開けた口(博多湾の湾口と糸島水道の河口)が・繋がっている(場所。地域)」または「タハ・ラ」、TAHA-RA(taha=side,edge,pass on one side,calabash with a narrow mouth;ra=wed)、「(伊都国と奴国の)境を・繋いでいる(地域)」もしくは「瓢箪のような岡(または水路)が・繋がっている(地域)」

の転訛と解します。

 

b室見(むろみ)川・今津(いまづ)湾・能古島(のこのしま)

 郡の東部の早良平野の中央を室見(むろみ)川が流れます。

 郡の西部は、今津(いまづ)湾に臨み、その北の博多湾には古代に兵部省の牛牧があった能古島(のこのしま)が浮かびます。

 この「むろみ」、「いまづ」、「のこの」は、

  「ム・ロミ」、MU-ROMI(mu=silent;romi=squeeze,crash,engulf)、「静かに・(流域の土砂などを)吸い込んで流れる(川)」

  「イ・ムア・ツ」、I-MUA-TU(i=beside,past tense;mua=the front,the fore part,the past,the future;tu=stand,settle)、「(博多湾の)前方の・傍らに・位置している(湾。そこにある港)」(「ムア」が「マ」となった)

  「ノコ・(ン)ガウ」、NOKO-NGAU(noko=stern of a canoe;ngau=bite,hurt,attack)、「艫(とも。船尾)が・食い千切られているような(舳先にあたる場所だけが高くて他は平らな台地状になっている。島)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

(5)那珂(なか)郡

 

a那珂(なか)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の西部、北は博多湾、東は席田郡、御笠郡、南は肥前国、西は早良郡に接し、福岡平野を北流する那珂川流域に位置します。おおむね現在の福岡市中央区(西部の一部を除く)、南区、博多区の北部、春日市、筑紫(ちくし)郡那珂川(なかがわ)町の地域です。明治29年に席田郡、御笠郡と合併して筑紫(ちくし)郡となりました。

 後漢に朝貢して金印を授けられた奴(な)国、『日本書紀』にみえる儺(な)縣の中心にあたるとされます。

 『和名抄』は、訓を欠きます。郡名は、「中」の意で国の中心部を指すとする説があります。

 この「なか」は、

  「ナ・カ」、NA-KA(na=satisfied,content;ka=take fire,be lighted,burn)、「満足している(繁栄している)・居住地(地域。その地域を流れる川)」または「ナ・カハ」、NA-KAHA(na=belonging to;kaha=strong,strength,rope,noose)、「縄・のような(川。その川が流れる地域)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

 

b福崎(ふくさき)・博多(はかた)・博多どんたく・板付(いたつけ)遺跡・岡本須玖(すぐ)遺跡

 福岡市の市名は、福岡藩主黒田氏の故地備前国邑久郡福岡に由来し、慶長5(1600)年に入部した黒田長政が福崎(ふくさき)に築城して福岡と命名したことによります。市街地の中央を流れる那珂川の左岸に城下町福岡があり、右岸に商人の町博多(はかた)があり、5月3、4日に行われる博多どんたく(祭り)は全国に著名です。

 御笠川沿いにある板付(いたつけ)遺跡からは、縄文晩期からの稲作農耕と環濠集落の遺構が、春日(かすが)市の福岡平野を一望する丘陵上にある弥生時代の岡本須玖(すぐ)遺跡からは中国では王権を象徴するものとされる璧(へき。ただし真正の玉(ぎょく)ではなくガラス製のもの)などが出土しています。

 この「ふくさき」、「はかた」、「どんたく」、「いたつけ」、「すぐ」は、

  「フク・タキ」、HUKU-TAKI(huku=tail;taki=stick in(takitaki=fence,screen))、「(丘の)尻尾が・突き出た(岬。その岬がある地域)」

  「ハ・カタ」、HA-KATA(ha=breathe,taste,what!;kata=opening of shellfish,laugh)、「何と(香しい。または素晴らしい)・貝が口を開けたような(湾。そこにある地域)」または「潮が干満によって出入りする(人や物資が頻繁に出入りする)・貝が口を開けたような(湾。そこにある地域)」

  「トヌ・タク」、TONU-TAKU(tonu=denoting continuance,just;taku=slow)、「ゆっくりと・(仮装などの練りを)続ける(祭り)」

  「イ・タ・ツケツケ」、I-TA-TUKETUKE(i=beside;ta=dash,beat,lay;tuketuke=funny-bone(tuke=elbow))、「尺骨(前腕の二本の骨のうち小指に近い方の細い骨。河口付近で太い那珂川と並行して流れる細い御笠川を指す)の・そばに・位置している(地域)」(「ツケツケ」の反復語尾が脱落して「ツケ」となった)

  「ツ(ン)グ」、TUNGU(kindle)、「(灯を灯す)居住地(地域)」(NG音がG音に変化して「ツグ」から「スグ」となった)

の転訛と解します。

 

(6)席田(むしろた)郡

 

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の西部、北・東は糟屋郡、南は御笠郡、北・西は那珂郡に囲まれた南北に細長い小郡で、おおむね現在の福岡市博多区の南東部の地域で、太宰府への官道が通っていました。明治29年に那珂郡、御笠郡と合併して筑紫(ちくし)郡となりました。

 『和名抄』は、「牟志呂多(むしろた)」と訓じます。郡名は、「筵(むしろ)を並べたような地」であることから、「ムシロ(毟る。崖地)・タ(処の転)」などの説があります。

 この「むしろた」は、

  「ムフ・チラウ・タ」、MUHU-TIRAU-TA(muhu=grope,push one's way through bushes etc.;tirau=stick,draw a canoe sideways with the paddle;ta=dash,beat,lay)、「奥(内陸)に入り込んで・(那珂郡の)脇に寄せて・置かれたカヌー(のような細長い地域)」(「ムフ」のH音が脱落して「ム」と、「チラウ」のAU音がO音に変化して「チロ」から「シロ」となった)

の転訛と解します。(地名篇(その十七)の岐阜県の(6)席田郡の項を参照してください。)

 

(7)糟屋(かすや)郡

 

a糟屋(かすや)郡

 古代からの郡名で、筑前国の中央部に位置し、北は宗像郡、東は、鞍手郡、穂浪郡、南は御笠郡、席田郡、那珂郡、西は玄界灘に接します。東は三郡山地があり、西は海の中道が玄界灘に伸び志賀島に連なります。おおむね現在の福岡市東区、粕屋(かすや)郡の地域です。古くは奴国、儺縣に属し、儺ノ津、太宰府の後背地として重要な地位を占めていました。

 『和名抄』は、「加須也(かすや)」と訓じます。郡名は、「香椎(かしひ)」の転、「酒粕」に由来する、「カス(カシ、カセと同じ。崖地)・ヤ(岩の略。または崖下の湿地)」の意とする説があります。

 この「かすや」は、

  「カツア・イア」、KATUA-IA(katua=stockade,main fence of a fort;ia=indeed,current)、「実に・(奴国の)主要な防護柵である(海の中道と三郡山地という障壁がある。地域)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」から「カス」となった)

の転訛と解します。

 

b箱崎(はこざき)・「玉せせり」行事・香椎(かしい)・多々良(たたら)浜・立花(たちばな)山・雁巣(がんのす)・志賀(しかの)島

 福岡市東区箱崎(はこざき)に鎮座する筥崎(はこざき)宮には、元寇の際の亀山上皇(社伝では醍醐天皇)宸筆の「敵国降伏」の額があり、正月3日には「玉せせり」行事が行われます。

 香椎(かしい)の香椎宮は、仲哀紀9年2月条に仲哀天皇が筑紫橿日(かしひ)宮に崩じたとあり、神功皇后がここに祠を建てて仲哀天皇を祀ったことにはじまるとされます。

 箱崎から香椎の間には、かつては多々良(たたら)川が河口に潟を形成し、細長い砂州が両側から突き出て多々良(たたら)浜となり、ここに元寇防塁が築かれていました。この浜は、延元元(1336)年足利尊氏・直義軍が菊池武敏等菊池・阿蘇連合軍に大勝した地です。

 博多湾の東北隅の奥、かつては海岸であったであろう平野の中に立花(たちばな)山(367メートル)が頭をもたげています。

 博多湾と玄界灘を隔てる海の中道の付け根には雁巣(がんのす)飛行場があり、海の中道の突端には「金印」が出土した志賀(しかの)島があります。

 この「はこざき」、「せせり」、「かしい」、「たたら」、「たちばな」、「がんのす」、「しかの」は、

  「ハコ・タキ」、HAKO-TAKI(hako=straight,errect;taki=stick in(takitaki=fence,screen))、「真っ直ぐに・突き出た(岬。その地域。そこにある宮)」

  「タイ・タイリ」、TAI-TAIRI(tai=wave,anger,dash,knock;tairi=be suspended,block up)、「(投げ入れられた玉を)突き上げて・(しばらく)空中に止めておく(祭り)」(「タイ・タイリ」のAI音がE音に変化して「テ・テリ」から「セ・セリ」となった)

  「カ・チヒ」、KA-TIHI(ka=take fire,be lighted,burn;tihi=summit,top,raised fortification,topknot of hair)、「最高の(地位にある。またはその地位にある神もしくは人の住む)・居住地(地域。宮)」または「カチヒ」、KATIHI(stack of fern root)、「食糧集積所(軍事基地)」

  「タタラ」、TATARA(fence,loose,quick)、「垣根のような(砂嘴。浜)」または「たるんだ(蛇行する。川)」

  「タチカ・パ(ン)ガ」、TATIKA-PANGA(tatika=coastline;panga=throw,place)、「(昔の)海岸のそばに・放り出されている(山)」(「タチカ」の語尾の「カ」が脱落して「タチ」と、「パ(ン)ガ」のP音がB音に、NG音がN音に変化して「バナ」なった)

  「(ン)ガ(ン)ガオ・ツ」、NGANGAO-TU(ngangao=dress timber with an adze,alternate ridge and depression;tu=stand,settle)、「材木を斧で削ったような粗い起伏が・ある(土地。その土地に造成した飛行場)」(「(ン)ガ(ン)ガオ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ガンオ」から「ガンノ」となった)

  「チカ・ノホ」、TIKA-NOHO(tika=straight,direct,keeping a direct course,just;noho=sit,stay,settle)、「(海の中道を)真っ直ぐ伸ばした先に・ある(島)」

の転訛と解します。

 

(8)宗像(むなかた)郡

 

a宗像(むなかた)郡

 古代からの郡名で、筑前国の北部に位置し、北は玄界灘、東は遠賀郡、南は鞍手郡、西は糟屋郡に接します。おおむね現在の宗像市、宗像郡の地域です。

 『和名抄』は、「牟奈加多(むなかた)」と訓じます。郡名は、天照大神と素戔嗚尊の誓約(うけひ)により誕生した宗像3女神(古典篇(その五)の033市寸嶋比売082多岐津比売083多紀理比売の項を参照してください。)の降臨・鎮座に際してその形代を奉祭したことから「身の形(みのかた)」、「身の像(みのかた)」と称したことによる(『西海道風土記逸文』)、郡を貫流する釣(つり)川沿いは古くは入り海で干潟をなしていたので「空潟(むなかた)」、「沼無潟(むなかた)」と称した、この地の海人(あま)たちが胸に入れ墨をしていたので「胸形」と称した、「海方(うなかた)」の転、「ムナ(ムネの古形。高地)・カタ(場所・方向を示す接尾語)」からとする説があります。

 この「むなかた」は、

  「ムナ・カタエ」、MUNA-KATAE(muna=tell or speak of privately,secret;katae=how great!)、「(秘密の)託宣を下す・偉大な(神。その神の鎮座する場所。地域)」(「カタエ」の語尾のE音が脱落して「カタ」となった)または「ムナ・カタ」、MUNA-KATA(muna=tell or speak of privately,secret;kata=opening of shellfish,laugh)、「(秘密の)託宣を下す・(かつて)貝が口を開いたような場所(に鎮座していた神。その鎮座する地域)」

の転訛と解します。

 

b沖(おきの)島・釣(つり)川・津屋崎(つやざき)・渡(わたり)半島・宮地嶽(みやじだけ)神社

 郡名の由来となった宗像(むなかた)大社は、祭祀遺跡からの出土品の質・量ともに卓越していることから海の正倉院と称される、大陸・半島との交通路の途中にある沖(おきの)島の沖津宮、大島の中津宮、玄海町田島の辺津宮の三社から成ります。

 郡の中央を貫流する釣(つり)川は、響灘に突き出た鐘ノ崎と玄界灘に突き出た草崎の間の草崎の近くで海に注ぎます。

 その西の津屋崎(つやざき)町の町名は、産土神の鎮座に際して河原が崎で通夜をしたことによるとの伝承があり、町の中央に渡(わたり)半島が突出し、津屋崎地区は福岡藩の藩米積出し港として栄え、同町宮司(みやじ)には古くは宗像末社の一つで、近世に商売繁盛の神として世の崇敬を集める宮地嶽(みやじだけ)神社が鎮座します。

 この「おきの」、「つり」、「つやざき」、「わたり」、「みやじだけ」は、

  「オキ・(ン)ガウ」、OKI-NGAU((Hawaii)oki=divide,separate;ngau=bite,hurt,attack)、「(本土から)遠く離れている・浸食を受けた(平地がない。島)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「ツツ・リ」、TUTU-RI(tutu=hoop for holding open a hand net;ri=screen,protect,bind)、「(鐘ノ崎から草崎にかけての)湾曲した海岸線を支えるU字形の支柱に・結び付けられている(川)」(「ツツ」の反復語尾音が脱落して「ツ」となった)

  「ツ・イア・タキ」、TU-IA-TAKI(tu=stand,settle,fight with,energetic;ia=current,indeed;taki=stick in(takitaki=fence,screen))、「激しい・潮流が洗う・突き出た(岬(渡半島)。その半島がある地域)」

  「ワタ・リ」、WHATA-RI(whata=elevated stage for storing food and for other purposes,be laid,stand out;ri=screen,protect,bind)、「(玄界灘に)突出している・(潮の流れの)障壁(の。半島)」

  「ミヒ・イア・チ・タケ」、MIHI-IA-TI-TAKE(mihi=greet,admire,show itself;ia=current,indeed;ti=throw,cast,overcome;take=stump,base of a hill,origin,charm,chief)、「実に・(人々の)尊崇が・寄せられている・丘(古墳)の麓にある(神社)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

(9)遠賀(おんが)郡

 

a遠賀(おんが)郡・遠賀(おんが)川

 遠賀郡は古代からの郡名で、古くは岡郡・岡の湊・崗水門と呼んでいたのが、和銅6年以降乎加・塢舸・遠河・遠賀の表記が行われ、「おか」から「おんが」と呼ばれるようになったもので、筑前国東北部に位置し、東は豊前国企救郡、南は鞍手郡、西は宗像郡、北は響灘に接します。おおむね現在の北九州市(東南部を除く)、中間市、遠賀郡の地域です。室町時代初期から寛文4年までの間は馬牧が多いことから御牧(みまき)郡・水巻郡と称されました。

 『和名抄』は、訓を欠きます。郡名は、長い岡があったから、広い丘があったから、「ヲ(高所)・カ(処)」の意とする説があります。

 遠賀川は、福岡県東部を北流する川で、県中部の馬見山(978メートル)に源を発し、飯塚市で穂波川、直方市で彦山川、犬鳴川など多くの支流を合流して、遠賀郡芦屋町で響(ひびき)灘に注ぎます。上流で広く下流で狭い流域は、三方を山地に囲まれ、低い古第三紀層丘陵などによって田川、飯塚などの諸盆地や直方(のおがた)平野に分かれています。川名は、古代からの郡名によったもので、古く河口付近を「岡の湊」・「崗水門(をかのみなと)」・「岡津(をかのつ)」と呼んでいたことから岡郡となり、和銅6年以降乎加・塢舸・遠河・遠賀の表記が行われ、「おか」から「おんが」と呼ばれるようになったものとされます。この河口は、古くから江川で洞海湾と通じていました。

 この「おか」は、

  「オカ」、OKA(prick,stab)、「刺し傷がある(江川が洞海湾に通じている河口の地域。その川)」または「アウカハ」、AUKAHA(lash the bulwark to the body of a canoe)、「船側に板を立てたような(細長い洞海湾の両側に高い岡がある地域。その地域を流れる川)」(AU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

の転訛と解します。

 

b洞海(どうかい)湾・洞海(くきのうみ)・江(え)川・若松(わかまつ)・戸畑(とばた)・脇田(わいだ)海岸・響灘(ひびきなだ)

 洞海湾は古代には「くきのうみ」と呼ばれていた大きな入り江で、その北側には北九州市若松(わかまつ)区の石峰山地の(高塔山公園がある)岡が、南側には河口の戸畑(とばた)区の平地に続き、八幡東区の福知山地の北端の(帆柱公園がある)岡が迫つており、入り江の奥が細長い水路(江(え)川)となって西の遠賀川の河口に通じていました。

 若松半島の北岸には玄海国定公園の東端にあたる脇田(わいだ)海岸があり、響灘(ひびきなだ)に面しています。

 この「くきのうみ」、「え(川)」「わかまつ」、「とばた」、「わいだ」、「ひびき」は、

  「クフ・フキ・ノ・フミ」、KUHU-HUKI-NO-HUMI(kuhu=thrust in,insert,conceal;huki=transfix,spit,stick in;no=of;humi=abundant,abundance)、「(海から陸へ)入り込んだ(入り江で)・(その奥に江川が串を刺したように)繋がって・いる(ところの)・(膨大な水の)海(くきのうみ)」(「クフ」の「フ」と「フキ」の「フ」が連結して「クフキ」となり、そのH音が脱落して「クキ」と、「フミ」のH音が脱落して「ウミ」となった)

  「パエ」、PAE(horizen,any transverse beam,lie across)、「(洞海湾と遠賀川を)横断して連結する(川)」(「パエ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハエ」となり、さらにそのH音が脱落し、AE音がE音に変化して「エ」となった)
  または「ハエ」、HAE(slit,tear,cut,split)、「(岡を)切り裂いて延びる(川)」(「ハエ」のH音が脱落し、AE音がE音に変化して「エ」となった)

  「ワカ・マツ」、WAKA-MATU(waka=canoe,any long narrow receptacle as trough for water;matu=cut,cut in pieces)、「カヌー(の尻尾)が・(二島と頓田を結ぶ断層によって)切り落とされている(石峰山地がある土地。地域)」

  「トパタ」、TOPATA(in small particles)、「ちっぽけな(土地。地域)」

  「ワイタ」、WHAITA(distort one's features,grin)、「顔をしかめているような(または歯を剥いて笑っているような。海岸)」

  「ヒ・ピキ」、HI-PIKI(hi=raise,rise;piki=climb,frizzled,pressed close together)、「(波に)高く持ち上げられて・ドスンと落とされる(叩き付けられる。海)」

の転訛と解します。

 

(10)鞍手(くらて)郡

 

a鞍手(くらて)郡

 古代からの郡名で、筑前国の東部中央の内陸部に位置し、北は宗像郡、遠賀郡、東は福知山系で豊前国企救郡、南は豊前国田河郡、嘉麻郡、穂浪郡、西は糟屋郡に接します。おおむね現在の直方市、鞍手郡の地域です。

 『和名抄』は、訓を欠きます。郡名は、この地に住んでいた鞍橋(くらじ)君(欽明紀15年12月条)にちなむ、神功皇后が倉久村で休憩して鞍を木に掛けたまま香椎宮へ向かったことにちなむ、「クラ(崖。谷)・テ(「の方」を意味する接尾語)」の意とする説があります。

 この「くらて」は、

  「クラ・テ」、KURA-TE(kura=red,ornamented with feathers,precious;te=crack)、「羽根で飾られた(美しい)・割れ目がある(遠賀潟ないし遠賀川がある。地域)」

の転訛と解します。

 

b直方(のおがた)市・竹原(たけはら)古墳・犬鳴(いぬなき)山・脇田(わきた)温泉・ひらた(船)

 直方(のおがた)市は、遠賀川中流にあり、遠賀川に彦山(ひこさん)川(彦山については、後出の(29)田川郡のb英彦山の項を参照してください。)と、犬鳴(いぬなき)山に源を発する犬鳴(いぬなき)川が合流する交通の要衝で、遠賀川水運の物資集散地として栄えました。市名は、「ノウ(野)・カタ(潟)」から、南北朝時代に足利尊氏と懐良(かねよし)親王が遠賀川を挟んで戦い、川の西方に布陣した親王方を王方といい、これが転訛した(通常は「武家方」に対する「宮方」の呼称が用いられます)とする説があります。

 若宮(わかみや)町の町名は、若宮八幡宮によります。町の北部の竹原(たけはら)古墳は装飾古墳として著名です。西部の犬鳴(いぬなき。いんなき)山(584メートル)は、あまりにも険阻なため「犬も鳴き叫んで越えられない山」で、黒田藩の「納戸(藩主の最後の隠れ家となるべき場所)」とされていました。山の麓には脇田(わきた)温泉が湧出します。

 遠賀川水運で使用された川船を「ひらた」といいました。

 この「のおがた」、「たけはら」、「いぬなき(いんなき)」、「わきた」、「ひらた」は、

  「ノホ・カタ」、NOHO-KATA(noho=sit,settle;kata=opening of shellfish,laugh)、「貝が口を開けたような場所に・位置している(地域)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノオ」となった)または「ノホ・(ン)ガタ」、NOHO-NGATA(noho=sit,settle;ngata=satisfied,dry)、「(昔入り江であつたところが)干上がった場所に・位置している(地域)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノオ」と、「(ン)ガタ」のNG音がG音に変化して「ガタ」となった)

  「タケ・ハラ」、TAKE-HARA(take=root,stump,chief;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「(部族の)首長の・墳墓(その地域)」

  「イ・ナナキア」、I-NANAKIA(i=beside,past tense;nanakia=crafty,reckless,desperate,better than expected)、「絶望的になった(追いつめられた)場合の・(隠れ家の)場所のそば(の山。谷)」(「ナナキア」の語尾のA音が脱落して「ナナキ」から「ンナキ」、「ヌナキ」となった)

  「ワキ・タ」、WHAKI-TA(whaki=reveal,disclose,confess;ta=dash,beat,lay)、「(地中から温泉が)姿を現し・噴出した(温泉。その場所)」

  「ヒラ・タ」、HIRA-TA(hira=widespread,numerous,abundant;ta=dash,lay,stem,stalk)、「胴の・幅が広い(川舟)」または「無数に・勢い良く動き回る(小舟)」(雑楽篇の1006ひらたぶねの項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

(11)嘉麻(かま)郡

 

a嘉麻(かま)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の東部中央に位置し、北は鞍手郡、東は豊前国田河郡、南は上座郡、夜須郡、西は穂浪郡に接します。おおむね現在の山田市、飯塚市の東部の一部、嘉穂(かほ)郡頴田(かいた)町、庄内町、稲築町、碓井町、嘉穂町の地域です。明治29年に穂浪郡と合併して嘉穂(かほ)郡となりました。郡を貫流する遠賀川は、ここでは嘉麻川と呼ばれています。

 『和名抄』は、「加万(かま)」と訓じます。

 この「かま」は、

  「カマ」、KAMA(eager(kakama=quick))、「勢い良く流れる(川。その川の流れる地域)」

の転訛と解します。

 

b頴田(かいた)町(粥田(かいた)荘)・馬見(うまみ)山・古処(こしょ)山・嘉穂(かほ)町大隈(おおくま)

 頴田(かいた)町の町名は、中世にこの町から鞍手郡宮田町、小竹町にかけて存在した、弘安役の時に異国警固の兵粮料所となった鎌倉幕府の荘園である粥田(かいた)荘の名にちなみます。

 嘉穂(かほ)町は、馬見(うまみ)山(978メートル)および頂上がカルスト地形を呈する古処(こしょ)山(862メートル)の北麓に位置し、中心の大隈(おおくま)はかつて筑前と豊前を結ぶ街道の宿場町、市場町で、古くはここまで遡上していた鮭を神として祀る鮭神社があります。町名は、郡名によります。

 この「かいた」、「うまみ」、「こしょ」、「おおくま」は、

  「カイタ」、KAITA(large,of super quality)、「大きな(またはとびきり素晴らしい。荘園。その地域)」

  「ム・ウマ・ミヒ」、MU-UMA-MIHI(mu=silent;uma=bosom,chest;mihi=greet,admire,show itself)、「静かな・胸の膨らみを・見せつけているような(山)」

  「コ・チオ」、KO-TIO(ko=a wooden implement for for digging or planting;tio=rock-oyster)、「鍬で掘られている(頂上に石灰岩が浸食されたカルスト地形がある)・岩牡蠣のような(山)」

  「オホ・クマ」、OHO-KUMA(oho=wake up,arise;(Hawaii)kuma=cracking of the skin between fingers and toes)、「谷間の・高くなった場所」

の転訛と解します。

 

(12)穂浪(ほなみ)郡

 

a穂浪(ほなみ)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の東部中央に位置し、北は鞍手郡、東は嘉麻郡、南は夜須郡、西は御笠郡、糟屋郡に接します。おおむね現在の飯塚市(東部の一部を除く)、嘉穂(かほ)郡穂波町、桂川(けいせん)町、筑穂町の地域です。明治29年に嘉麻郡と合併して嘉穂(かほ)郡となりました。安閑紀2年5月条に「穂波屯倉」を置いたとあります。

 『和名抄』は、国郡部は訓を欠き、郷里部は「保奈美(ほなみ)」と訓じます。郡名は、土地が肥沃で嘉禾が生ずるところから、神功皇后が筑穂町で軍を解いたとき強い風が船の帆に吹き付けたので「帆波激」といったことによる、神功皇后がこの地を通ったとき稲が実つて風にそよいでいるのを見て「よき穂波かな」といったことによる、「ホ(突出した山が並ぶさま)・ナミ(並)」の意とする説などがあります。

 この「ほなみ」は、

  「ホ(ン)ガ・ミ」、HONGA-MI(honga=tilt,make to lean on one side;mi=stream,river)、「(北の)一方へ向かって流れる・川(嘉麻川と合流して遠賀川となる穂波川。その川の流れる地域)」(「ホ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ホナ」となった)

  または「ポナ・ミ」、PONA-MI(pona=knot,joint in the arm or leg,cord;mi=stream,river)、「(手足の)関節のような(嘉麻川との合流点をつくる)・川(その川の流れる地域)」(「ポナ」のP音がF音を経てH音に変化して「ホナ」となった)

の転訛と解します。

 

b飯塚(いいづか)市・桂(かつら)川・桂川町寿命(じゅめい)・王塚(おうつか)古墳・筑穂町内野(うちの)

 飯塚(いいづか)市は、嘉麻川と穂波川が合流して遠賀川となる交通の要地に位置し、近世には遠賀川水運の舟場、長崎街道の宿場町として栄えました。市名は、神功皇后との別れを惜しんだ兵士が「何日加(いつか)逢おう」といったから、明星寺の開堂供養のとき「飯が多くて塚のよう」であったからなどの説があります。

 桂川(けいせん)町の町名は、町内を流れる泉河内川が古くは桂(かつら)川と呼ばれていたことによります。同町寿命(じゅめい)には、丘陵末端に全長80メートル、後円部径52メートル、前方部の大半は失われていますが推定幅63メートルという日本有数の装飾古墳の王塚(おうつか)古墳(特別史跡)があります。

 筑穂町南部の内野(うちの)は、江戸時代長崎街道の筑前六宿の一つとして栄えました。

 この「いいづか」、「かつら」、「じゅめい」、「おうつか」、「うちの」は、

  「イヒ・ツ・カ」、IHI-TU-KA(ihi=power,authority;tu=stand,settle;ka=take fire,be lighted,burn)、「力(権力)が・ある・居住地(地域)」(「イヒ」のH音が脱落して「イイ」となった)または「イヒ・ツ・カハ」、IHI-TU-KA(ihi=split,separate;tu=stand,settle;kaha=rope,noose)、「縄(遠賀川)が・そこで・分離している(嘉麻川と穂波川の合流点にある。地域)」(「イヒ」のH音が脱落して「イイ」と、「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

  「カハ・ツラ」、KAHA-TURA(kaha=strong,strength,rope,noose;tura,turatura=molest,spiteful)、「(洪水を起こして)激しく・悩ます(川)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

  「チウ・マイヒ」、TIU-MAIHI(tiu=soar,swing,strike at with a weapon;maihi=facing boards on the gable of a house)、「破風の飾り板(埴輪・祭具などを立て並べた古墳の前方部)が・斧ですっぱりと破壊された(古墳。その古墳のある土地)」(「チウ」が「ジュ」と、「マイヒ」のAI音がE音に、H音が脱落して「メイ」となった)

  「オフ・ツカハ」、OHU-TUKAHA(ohu=company of volunteer workers,beset in great numbers,surrond;tukaha=strenuous,headstrong,passionate)、「多数の人々が群集して・熱心に(築造した。古墳)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」と、「ツカハ」のH音が脱落して「ツカ」となった)

  「ウチ・ノホ」、UTI-NOHO(uti=bite;noho=sit,settle)、「(山が)食いちぎられたところ(平地)に・位置している(土地)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

(13)夜須(やす)郡

 

a夜須(やす)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の東南部に位置し、北は御笠郡、穂波郡、嘉麻郡、南は上座郡、下座郡、西は筑後国御原郡に接します。おおむね現在の甘木(あまぎ)市の北部、朝倉(あさくら)郡夜須町、三輪町の地域です。三輪・夜須低山地から古処・馬見山地の山麓に沿って福岡から日田へ通ずる日田街道が通り、夜須町で小倉から長崎へ通ずる長崎街道が交差し、また日田街道から薩摩街道が分岐する交通の要衝でした。明治29年に上座郡、下座郡と合併して朝倉(あさくら)郡となりました。

 『和名抄』は、訓を欠きます。郡名は、神功皇后がこの地の羽白熊鷲を討滅し(神功皇后摂政前紀(仲哀天皇)9年3月条)、「熊鷲を取りえて我が心即ち安し」といったことにちなむ、「ヤ(多数)・ス(セ(瀬)の転)」の意とする説があります。

 この「やす」は、

  「イア・ツ」、IA-TU(ia=indeed,current;tu=girdle,fight with,energetic)、「実に・帯を締めている(帯のような街道が通っている。地域)」または「(勾配の急な)勢いが良い・川が流れる(地域)」

の転訛と解します。

 

b砥上(とがみ)岳・秋月(あきづき)

 夜須(やす)町は、筑紫平野の北端に位置し、北東には筑紫山地の砥上(とがみ)岳(497メートル)があり、中部は筑後川支流の曽根田川などが形成する扇状地です。

 甘木(あまぎ)市北部の秋月(あきづき)は、建仁3(1203)年に秋月氏が古処山(前出の(11)嘉麻(かま)郡のb古処山の項を参照してください。)に築城した秋月城の城下町として成立し、のち元和9(1623)年から廃藩まで福岡黒田藩の支藩が置かれた町です。

 三輪(みわ)町の町名は、神功皇后摂政前紀(仲哀天皇)9年9月条に大三輪社(地名篇(その五)の奈良県の(33)三輪山の項を参照してください。)を建てて戦勝を祈願したとあることによります。

 この「とがみ」、「あきづき」は、

  「ト(ン)ガ・ミヒ」、TONGA-MIHI(tonga-blemish on the skin,wart,supressed;mihi=greet,admire,show itself)、「瘤のような膨らみを・見せつけている(山)」(「ト(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「トガ」となった)

  「アキツ・キ」、AKITU-KI(akitu=close in on,fight,point,summit;ki=full,very)、「実に・勇敢な(氏族。その城。その城がある地域)」または「(カルスト地形の)櫓のような高台が・たくさんある(山の城。その城がある地域。そこに住む氏族)」

の転訛と解します。

 

(14)下座(げざ)郡

 

a下座(げざ)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の南東部に位置し、北は夜須郡、東から南は上座郡、西は筑後国御井郡に接します。おおむね現在の甘木(あまぎ)市南西部(中心市街地を含む)の地域です。古くは「あさくら」郡であったのが上下に分かれ、「しもつあさくら」から「しもつくら」、「げざ」と呼ばれるようになりました。明治29年に上座郡、夜須郡と合併して朝倉(あさくら)郡となりました。

 『和名抄』は、「下都安佐久良(しもつあさくら)」と訓じます。「あさくら」の郡名はね東に山があって日の出が遅く「朝闇(あさくら)」と称した、大和の朝倉の地名が神功皇后によって移された、「倉庫」の意、「アサ(新生の太陽の昇るところ)・クラ(神座。神の降臨する地)」の意、「アサ(崩崖)・クラ(刳り。えぐられたような地形)」の意とする説があります。

 この「あさくら」は、

  「アタ・クラ」、ATA-KURA(ata=gently,clearly,openly;kura=red,ornamented with feathers,precious)、「羽根で飾ったような(美しい)・清らかな(土地。地域)」

の転訛と解します。

 

b甘木(あまぎ)市・三奈木(みなぎ)

 甘木(あまぎ)市の中心の小石原川の谷口の甘木(あまぎ)は、日田街道から豊前へ通ずる秋月街道が分岐する交通の要衝でした。地名の由来は、慶長年間に開かれた甘木山安長寺による、元町の竜泉池の「甘し水」による、海部(あまべ)にちなむ、「甘葛煎(あまづら)」の甘木によるなどの説があります。

 市内の三奈木(みなぎ)は中世に三奈木(みなぎ)荘があり、式内社の美奈宜(みなぎ)神社がみえます。

 この「あまぎ」、「みなぎ」は、

  「ア・マ(ン)ギ」、A-MANGI(a=the...of,belonging to;mangi=floating,unsettled,distressedfleet)、「(小石原川の)流れの上に・漂っているような(土地。地域)」(「マ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「マギ」となった)

  「ミ・ナキ」、MI-NAKI(mi=stream,river;naki=glide,move with an even motion)、「ゆったりと流れる・川(その川の流れる地域。そこにある神社)」または「ミナ・ア(ン)ギ」、MINA-ANGI(mina=desire,feel inclination for;angi=move freely,float)、「好き勝手に流れる(蛇行する)ことを・望んでいる(川。その川の流れる地域。そこにある神社)」(「ミナ」の語尾のA音と、「ア(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「アギ」となり、その語頭のA音と連結して「ミナギ」となった)

の転訛と解します。

 

(15)上座(じょうざ)郡

 

a上座(じょうざ)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の南東部に位置し、北は夜須郡、嘉麻郡、東は豊前国田河郡、豊後国、南は筑後川をはさんで筑後国生葉郡、竹野郡、西は下座郡に接します。おおむね現在の甘木市の南東部、朝倉郡朝倉町、杷木町、小石原村、宝珠山村の地域です。古くは「あさくら」郡であったのが上下に分かれ、「かみつあさくら」から「かみつくら」、「じょうざ」と呼ばれるようになりました。明治29年に下座郡、夜須郡と合併して朝倉(あさくら)郡となりました。

 『和名抄』は、「上都安佐久良(かみつあさくら)」と訓じます。

 この「あさくら」は、前出(14)下座郡の項を参照してください。

 

b朝倉町比良松(ひらまつ)・杷木(はき)町

 朝倉(あさくら)町は、斉明天皇が病没した朝倉行宮があった場所(斉明紀7年7月条)で、町の中心の比良松(ひらまつ)は、筑後川に沿う日田街道の宿場として栄えました。

 杷木(はき)町も筑後川に沿う日田街道の宿場でした。

 この「ひらまつ」、「はき」は、

  「ヒラ・マ・アツ」、HIRA-MA-ATU(hira=numerous,great,important;ma=come,go;atu=to indicate a direction or motion onwaeds,to indicate reciprocated action)、「大勢の人々が・行き来する(場所。宿場。その地域)」(「マ」のA音と「アツ」の語頭のA音が連結して「マツ」となった)

  「ハキ」、HAKI(ripple)、「皺が寄っている(場所。宿場。その地域)」

の転訛と解します。

 

(16)御笠(みかさ)郡

 

a御笠(みかさ)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑前国の南部に位置し、北は席田郡、糟屋郡、東は穂波郡、南は夜須郡、筑後国御原郡、肥前国、西は那珂郡に接します。おおむね現在の大野城市、太宰府市、筑紫野市の区域です。明治29年那珂郡、席田郡と合併して筑紫(ちくし)郡となりました。

 『和名抄』は、「美加佐(みかさ)」と訓じます。郡名は、神功皇后が羽白熊鷲を討伐するために橿日宮から松狭宮へ移る途中つむじ風が起こって御笠が吹き飛ばされたのでその地を「御笠」といったことによる(神功皇后摂政前紀(仲哀天皇)9年3月条)、太宰大監大友宿禰百代の恋の歌に「思はむを思ふといはば大野なる三笠の社(もり)の神し知らさむ」(『万葉集』巻4、561)があり、この「三笠の森」にちなむ(近年まで大野城市山田に「御笠の森」の小字名がありました。現在は小学校名として残っています)、「ミ(美称)・カサ(中心が高く、周辺が低い笠に似た地形)」の意とする説があります。

 この「みかさ」は、

  「ミ・カタ」、MI-KATA(mi=stream,river;kata=opening of shellfish,laugh)、「貝が口を開けたような場所を・流れる川(御笠川。その川が流れる地域)」

  または「ミカ・タ」、MIKA-TA((Hawaii)mika=to press,crush;ta=dash,beat,lay,alley)、「押し潰されたような(地形の)場所に・立地している(地域)」

の転訛と解します。

 

b大野城(おおのじょう)・四王寺(しおうじ)山

 御笠の森があった大野城(おおのじょう)市の市名は、白村江の日本水軍の敗戦をうけて太宰府市と糟屋郡宇美町にまたがる四王寺(しおうじ)山(410メートル)に、北側に大きな谷を取り込んだ馬蹄状の尾根の上に土塁・石塁を巡らした大野(おおの)城を築いた(天智紀4年8月条)ことにちなみます。

 この「おおの」、「しおうじ」は、

  「オフ・(ン)ガウ」、OHU-NGAU(ohu=company of volunteer workers,beset in great numbers,surrond;ngau=bite,hurt,attack)、「食いちぎられた谷を・取り囲んでいる(U字形の尾根上に防塁を巡らした。城)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」から「オオ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「チヒ・オウ・チ」、TIHI-OU-TI(tihi=summit,raised fortification within a stockade;ou,ouou=few;ti=throw,cast,overcome)、「稀にしか・征服されない(難攻不落の)・高いところに築かれた城(その城がある山)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

の転訛と解します。

(17)筑後(ちくご)国

 

 筑後国は、福岡県の南に位置し、古くは筑前国とともに7世紀末まで筑紫(つくし)国と呼ばれ、水沼、松浦、八女、山門、嶺、上妻などの縣主を筑紫国造が統括しており、6世紀はじめの筑紫国造磐井の乱以降大和朝廷の支配下に置かれ、律令制の下で筑前国・筑後国に分割されました。北は筑前国、肥前国、東は豊後国、南は肥後国、西は有明海に接します。御原、生葉、竹野、山本、御井、三潴、上妻、下妻、山門、三毛の10郡を所管し、国府・国分寺は御井郡(現久留米市)に所在しました。

 『和名抄』は、「筑紫乃三知乃之里(つくしのみちのしり)」と訓じます。

 この「つくし」は、(1)筑前国の項を参照してください。

 

(18)御原(みはら)郡

 

a御原(みはら)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑後国北部、筑後川支流の宝満(ほうまん)川の流域の洪積台地に位置し、北から東は筑前国御笠郡、夜須郡、南は御井郡、西は肥前国に接します。おおむね現在の小郡(おごおり)市(南部の一部を除く)、三井(みい)郡大刀洗町の地域です。明治29年に御井郡、山本郡と合併して三井(みい)郡となりました。

 『和名抄』は、「三波良(みはら)」と訓じます。郡名は、古く山隈原、大保原、小郡原の三つの野原があったことによる、「新原(にいはら)」の意、「ミ(美称)・ハラ(原)」の意、「ミハラ(水原。湿地)」の意とする説があります。

 この「みはら」は、

  「ミ・ハラ」、MI-HARA(mi=stream,river;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「部族の首長を葬った地を・流れる川(宝満(ほうまん)川。その川が流れる地域)」

の転訛と解します。

 

b小郡(おごおり)市・宝満(ほうまん)川

 小郡(おごおり)市の市名は、御原(みはら)郡が律令制の下で小郡であったことによるとされます。南部の低湿地帯は、かつて日本住血吸虫がはびこっていました。

 郡の中央を筑後川支流の宝満(ほうまん)川が流れます。

 この「おごおり」、「ほうまん」は、

  「オ・(ン)ガウ・オリ」、O-NGAU-ORI(o=the place of;ngau=bite,hurt,attack;ori=cause to wave to and fro,bad weather,prey of disease,a place where people have been carried off by disease)、「(住民が日本住血吸虫に)襲われて・移住を余儀なくされた・場所(地域)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

  「ホウ・マ(ン)ガ」、HOU-MANGA(hou=enter,force downwards;manga=branch of a tree or a river)、「(人々を)押さえつける・(筑後川の)支流の川」(「マ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「マナ」から「マン」となった)

の転訛と解します。

 

(19)生葉(いくは)郡

 

a生葉(いくは)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑後国の東北部に位置し、北は筑後川を隔てて筑前国上座郡、東は豊後国、南は上妻郡、西は竹野郡に接します。おおむね現在の浮羽(うきは)郡浮羽町、吉井町の地域です。明治29年に竹野郡と合併して浮羽郡となりました。

 『和名抄』は、「以久波(いくは)」と訓じます。郡名は、景行天皇に盞(うき)を差し上げたことにちなむ、景行天皇の巡幸時に盞(うき)を遺れたので浮羽(うきは)といい、これが転じて「的(いくは)」となった(『日本書紀』景行天皇18年8月条)、景行天皇が盞を遺れたことを悲しんで「惜乎朕之酒盞」といったことから宇岐波夜(うきはや)郡と称したのが転じた(『筑後国風土記逸文』)、的部氏の居住地から、「イ(接頭語)・クハ(崖)」の意とする説があります。

 この「いくは」、「うきは」は、

  「イ・クハ」、I-KUHA(i=past tense,beside;kuha=gasp,pant(kuha,kuwha=thigh,main limb of a large tree))、「太股のような山脈(耳納山脈)の・そば(地域)」

  「ウ・クハ」、U-KUHA(u=be firm,be fixed.reach the land,arrive by water;kuha=gasp,pant(kuha,kuwha=thigh,main limb of a large tree))、「太股のような山脈(耳納山脈)の・(そばに)定着している(地域)」

の転訛と解します。

(この「いくは」の「クハ、KUHA(KUWHA)」の本当の意味は「太股、大木の周縁部」であったのに、この「クハ、KUHA」および「うきは」の「キハ、KIHA」には、いずれも「切望する、gasp,pant」という意味があり、ここから「(遺れた盞を)惜しんだ」という誤解による『日本書紀』等の伝承が生まれたものでしょう。)

 

b水縄(みのう)山地・吉井(よしい)町・珍敷(めずらし)塚古墳

 郡の南には水縄(みのう。耳納とも)山地が連なります。

 吉井(よしい)町の町名は、『吾妻鏡』に「葦が生えて良い水が出るところ」からとされます。町は、古墳の宝庫といわれ、珍敷(めずらし)塚古墳などの装飾古墳が多く存在します。

 この「みのう」、「よしい」、「めずらし」は、

  「ミ・(ン)ガウ」、MI-NGAU(mi=stream,river;ngau=bite,hurt,attack)、「川(筑後川の流れ)が・浸食している(山。山脈)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がOU音に変化して「ノウ」となった)

  「イオ・チヒ」、IO-TIHI(io=muscle,line,spur,lock of hair;tihi=summit,raised fortification within a stockade)、「最高の(地位にある部族の首長を葬った)・髷(まげ)のような(古墳。その古墳がある地域)」(「チヒ」のH音が脱落して「チイ」から「シイ」となった)

  「メ・ツラハ・チ」、ME-TURAHA-TI(me=thing;turaha=startled,frightened;ti=throw,cast,overcome)、「(人々に)驚きを・与える・もの(珍しいものを内藏している。装飾古墳)」(「ツラハ」のH音が脱落して「ツラ」から「ヅラ」となった)

の転訛と解します。

 

(20)竹野(たけの)郡

 

a竹野(たけの)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑後国の東北部に位置し、北は筑後川を隔てて筑前国下座郡、上座郡、東は生葉郡、南は上妻郡、西は山本郡に接します。おおむね現在の浮羽(うきは)郡田主丸(たぬしまる)町の地域です。明治29年に生葉郡と合併して浮羽郡となりました。

 『和名抄』は、「多加乃(たかの)」と訓じます。郡名は、竹林があったから、「タカ(高い。大きい。または美称)・ノ(野。なだらかに傾斜した野原)」の意とする説があります。

 この「たかの」は、

  「タカ・ナウ」、TAKA-NAU(taka=fall down;nau=come,go)、「(はるか川上から)流れ下って・来る(川。その川の流れる地域)」または「タカ・(ン)ガウ」、TAKA-NGAU(taka=fall down;ngau=bite,hurt,attack)、「(水縄山脈の断層崖から)落ち込んで・(筑後川に)浸食されている(地域)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。(地名篇(その三)の京都府の(25)竹野郡の項を参照してください。)

 

b田主丸(たぬしまる)町・寺徳(じとく)古墳・河童(かっぱ。えんこう。がわたろ)

 田主丸(たぬしまる)町の北部は筑後川の沖積低地、南部は水縄山脈の断層崖となっており、山麓には装飾古墳として国の史跡指定を受けた寺徳(じとく)古墳をはじめ大小さまざまの古墳があります。町名は、中世の名(みょう)の名によりますが、慶長年間に町割をした菊池丹後入道の往生観「楽しく生まる」からという説があります。

 町には、筑後川に住む河童(かっぱ)の伝説が多く残ります。河童は異名が多く、エンコウ、ガワタロ、ヒョウスベなどとも呼ばれます。(「ヒョウスベ」については、地名篇(その二十)の宮崎県の(3)児湯郡のbひょうすんぼの項を参照してください。

 この「たぬしまる」、「じとく」、「かっぱ」、「えんこう」、「がわたろ」は、

  「タヌ・チ・マル」、TANU-TI-MARU(tanu=bury,lie buried,smother with;ti=throw,cast,overcome;maru=gentle,bruised,power,shelter)、「放り出されている・殻のような(古墳を)・均して平らにした(土地。地域)」

  「チト・クフ」、TITO-KUHU(tito=compose,do anything without previous practice;kuhu=thrust in,conceal)、「(あらかじめ彩色をした石を組み立てたものではなく)石組に直接彩色をして・封印した(古墳)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

  「カ・ツパ」、KA-TUPA(ka=when,as soon as,should;tupa=escape)、「(姿を見られると)直ぐに・逃げる(動物)」

  「エネ・カウ」、ENE-KOU(ene=flatter,cajole,annus(whakaene=present the posteriors in derision);kou=knob,knot,dress the hair in a knot on the top of the head)、「尻を出して人をからかう・(頭の上で髪の毛を結んでいる)オカッパ頭の(動物)」(「エネ」が「エン」となつた)

  「(ン)ガワ・タロ」、NGAWHA-TARO(ngawha=burst open,bloom as a flower,overflow banks:taro=denoting the lapse of a short interval of time)、「突然・(水中から)飛び上がって出現する(動物)」(「(ン)ガワ」のNG音がG音に変化して「ガワ」となった)

の転訛と解します。

 

(21)山本(やまもと)郡

 

 古代から明治29年までの郡名で、筑後国の北部、筑後川の中流部左岸に位置し、西から北は御井郡、東は竹野郡、南は上妻郡に接します。おおむね現在の久留米市の東部の一部、三井郡北野町の南部の一部(筑後川左岸)の地域です。明治29年に御井郡、御原郡と合併して三井(みい)郡となりました。

 『和名抄』は、「也万毛止(やまもと)」と訓じます。郡名は、耳納山の山麓にあるからとされます。

 この「やまもと」は、

  「イア・マ・モト」、IA-MA-MOTO(ia=indeed,current;ma=clear,white;moto=strike with the fist)、「実に・清らかな・拳骨で殴られたような(浸食が進んで平らになっている。地域)」

の転訛と解します。

 

(22)御井(みい)郡

 

a御井(みい)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑後国の北部、筑後川の中流部に位置し、北は肥前国、御原郡、東は筑前国下座郡、南は竹野郡、山本郡、上妻郡、上妻郡、西は三瀦郡に接します。おおむね現在の久留米市(東部および西部の一部を除く)、小郡市の南部の一部、三井郡北野町(南部の一部(筑後川左岸)を除く)の地域です。明治29年に山本郡、御原郡と合併して三井(みい)郡となりました。

 『和名抄』は、「三井(みゐ)」と訓じます。郡名は、古来から郡内に良質の井戸がある(大城村の益影の井、高良山麓の朝妻の井・御手洗の井を御井の三泉と称する)から、「ミ(美称)・ヰ(川)」の意、「ミ(廻)・ヰ(川)」で川の曲流の意とする説があります。

 この「みゐ」は、

  「ミヒ・ウイ」、MIHI-UI(mihi=greet,admire,show itself;ui=disentangle,loosen a noose)、「ほどけた輪縄のような(筑後川が蛇行するのを)・見せつけている(地域)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「ウイ」が「ヰ」となった)

の転訛と解します。

 

b久留米(くるめ)市・篠山(ささやま)城・高良(こうら)山・神籠(こうご)石

 久留米(くるめ)市は、筑紫平野のほぼ中央、筑後川が流れを西から南西に転ずる屈曲点に位置します。市名は、筑後国神名帳にある「玖留目神」から、応神紀・雄略紀にみえる渡来人の呉媛(くれひめ)が呉女(くれめ)から「くるめ」に転じた、呉羽(くれは)が久留真(くるま)から「くるめ」に転じた、繰女(くりめ)が「くるめ」に転じた、糸車の久留倍木(くるべき)が車木(くるめき)から「くるめ」に転じた、アイヌ語「クルミ(日本の男子)」の転、「クルメク(転く)」からなどの諸説があります。

 久留米には、古く国府・国分寺が置かれ、筑後川の屈曲点に戦国期に築かれた篠山(ささやま)城がのちに改修されて久留米城となりました。

 市の中央部の高良(こうら)山(312メートル)の中腹には、筑後国一宮の高良大社が鎮座し、社殿の背後から山裾まで1.5キロメートルにおよぶ列石神籠(こうご)石史跡があります。

 この「くるめ」、「ささ」、「こうら」、「こうご」は、

  「クル・マイヒ」、KURU-MAIHI(kuru=strike with the fist,weary;maihi=uneasy in mind,anxiety)、「拳骨で殴られる(洪水に襲われる)のを・いつも心配している(地域)」(「マイ」のAI音がE音に変化し、H音が脱落して「メイ」から「メ」となった)

  「タタ」、TATA(dash down,strike repeatedly)、「(筑後川が)間断なく襲う(山裾を洗っている。山。その山に築かれた城)」

  「コウラ」、KOURA(crayfish)、「ざりがにのような(尻尾を持ち上げている。山。その山に鎮座する神社)」

  「カウ・(ン)ガウ」、KAU-NGAU(kau=swim,wade;ngau=bite,hurt,attack)、「(山の中腹を)泳ぐようにして・食いちぎった(堀を掘って石垣を築いた。山。その遺跡)」(「カウ」のAU音がOU音に変化して「コウ」と、「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

の転訛と解します。

 

(23)三潴(みずま)郡

 

a三潴(みずま)郡

 古代からの郡名で、筑後国の西部、筑後川下流の水路が網の目状に分布する地域に位置し、西から北は肥前国、東は御井郡、南は、上妻郡、下妻郡、山門郡、有明海に接します。おおむね現在の久留米市の西部の一部、大川市、柳川市の北部、三瀦(みずま)郡の地域です。

 『和名抄』は、「美无万(みむま)」と訓じます。郡名は、筑後川下流域の後背湿地で沼沢が多かったことによる、「真(み)沼」から、「ミ(水)」で泥の多い湿地の意、「ミノマ」の転で「川と川の間の土地」の意、「水路のある狭間」の意などの説があります。

 この「みむま」は、

  「ミ・ムム・ア」、MI-MUMU-A(mi=stream,river;mumu=baffling wind,valiant warrior,(Hawaii)mumu=to rinse out the mouth;a=belonging to)、「川の水で・(口の中を)うがいをしているような(地域)」(「ムム」の語尾のU音と「ア」のA音が連結してA音となり「ムマ」となった)

の転訛と解します。

 

b大川(おおかわ)市・若津(わかつ)港・柳川(やながわ)市・ドンコ舟

 大川(おおかわ)市は、筑後川左岸の河口に近い三角州の上にあり、密なクリーク網が広がる地域で、宝暦元(1536)年に久留米有馬藩が若津(わかつ)港を開いてから発展した地域で、市名は筑後川を大川と称したことによるとされます。

 柳川(やながわ)市は、立花氏柳川藩の城下町として整備され、湿地帯でクリークに囲まれ、攻めがたい城として著名でした。最近では、北原白秋の生地、ドンコ舟による川下りの観光で有名です。市名は、川辺に柳が多かったから、付近の川で梁(やな)漁が盛んだったからとする説があります。

 この「おおかわ」、「わかつ」、「やながわ」、「ドンコ」は、

  「オフ・カワ」、OHU-KAWA(ohu=beset in great numbers,surround;kawa=channel,passage between rocks and shoals)、「水路が・密集している(地域)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」から「オオ」となった)

  「ワカ・ツ」、WAKA-TU(waka=canoe;tu=stand,settle)、「カヌー(舟)が・停泊する(場所。港)」

  「イア・ナ・カワ」、IA-NA-KAWA(ia=current,indeed,every;na=satisfied,by,belonging to,;kawa=channel,passage between rocks and shoals)、「実に・ゆったりと(満足)した・水路(がある。地域)」

  「ト・(ン)ガコ」、TO-NGAKO(to=drag,open or shut a door or a window;ngako=fat)、「(川を)行き来する・肥った(幅の広い。舟)」(「ト」が「ド」と、「(ン)ガコ」のNG音がN音に変化して「ナコ」から「ンコ」となった)(頭が扁平で著しく幅が広く口が大きい特徴をもつ川魚の「ドンコ」も同じ語源でしょう。)

の転訛と解します。

 

(24)上妻(こうつま)郡

 

a上妻(こうつま)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑後国の南部、矢部川、星野川の流域に位置し、北は三瀦郡、御井郡、山本郡、竹野郡、生葉郡、東は豊後国、南は肥後国、西は山門郡、下妻郡に接します。明治29年に下妻郡と合併して八女(やめ)郡となりました。おおむね現在の八女市、筑後市の北部、八女郡の地域です。

 『和名抄』は、「加乎豆万(かをつま)」と訓じます。郡名は、古くは景行紀18年7月条にみえる八女津媛が統治した八女県、八女国が上、下に分かれたことによる、「カム(上)・ツマ(詰。つまった地形の場所)」から、「カム(上)・ツマ(ツバ(潰)の転。崖地。または自然堤防、微高地)」からとする説があります。

 この「かをつま」は、

  「カオ・ツ・ウマ」、KAO-TU-UMA(kao=assembled,collected together;tu=stand,settle;uma=bosom,chest,convex side of an axe)、「斧の本体(水縄山地から筑肥山地の山々)に・付属して・いる(地域)」(「ツ」のU音と「ウマ」の語頭のU音が連結して「ツマ」となった)

の転訛と解します。

 

b八女(やめ)市・磐井(いわい)・人形原(にんぎょうばる)・矢部(やべ)村・日向神(ひゅうがみ)峡・星野(ほしの)村

 八女地方の中心地、八女(やめ)市の市名は、景行天皇が八女縣に入られて「美しい山々が重なっている。神がおられるのか。」と言われ、水沼縣主が「山中に八女津(やめつ)媛がおられます」と答えたことによる(景行紀18年7月条)、「ヤ(湿地)・メ(べ。辺。付近)」の意とする説があります。

 八女市から広川町、筑後市にかけての丘陵上に八女古墳群が分布し、八女市吉田には筑紫君磐井(いわい)の墓とされる多数の石人石馬を配した全長135メートルの岩戸山古墳があります。吉田から広川町一条にかけての丘陵を人形原(にんぎょうばる)といいました(岩波大系本『風土記』筑後国風土記逸文磐井君の項注)。

 矢部(やべ)村は、矢部川の最上流にあり、奇岩と絶壁に富む日向神(ひゅうがみ)峡があります。村名は、中世以来の村名によりますが、矢篠竹に覆われ、村民が弓をよくしたので「矢の部」と呼ばれたことによる、八女と同じく「ヤ(湿地)・メ(べ。辺。付近)」の転とする説があります。

 星野(ほしの)村は、星野氏が領し、13世紀末に採掘が始められた星野金山によって栄えました。

 この「やめ」、「いわい」、「にんぎょうばる」、「やべ」、「ひゅうがみ」、「ほしの」は、

  「イア・アマイ」、IA-AMAI(ia=indeed,current;amai=swell on the sea,giddy,dizzy)、「実に・(海の)波の高まりのような(高い山波がつづく、または美しい。地域)」(「イア」の語尾のA音と、「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」となった語頭のA音が連結して「ヤメ」となった)

  「イ・ワイ」、I-WHAI(i=past tense,beside;whai=sting-ray,cat's-cradle,play at cat's-cradle)、「綾取りを・した(ように、地位・境遇が一変した。人物。首長)」

  「ヌイ・(ン)ギオ・パル」、NUI-NGIO-PARU(nui=large,many;ngio=faded,extinguished(ngiongio=wrinkled);paru=mud,excrement,crush)、「さんざんに・打ち砕かれて・粉々になった(石人石馬がある。原)」(「ヌイ」が「ニ」と、「(ン)ギオ」が「ンギョウ」となった)

  「イア・アパイ」、IA-APAI(ia=indeed,current;apai=front wall of a house)、「実に・家の前面の壁のような(切り立った山に直面する。地域。その地域から流れる川)」(「イア」の語尾のA音と、「アパイ」のAI音がE音に変化して「アペ」となった語頭のA音が連結して「ヤペ」から「ヤベ」となった)

  「ヒ・ウ・(ン)ガミ」、HI-U-NGAMI(hi=raise,rise;u=bite,be firm,be fixed,reach its limit;ngami,whakangami=swallow up)、「高いところにある・浸食された・盛り上がった山波(高い山波がつづく、または美しい。地域)()()」(「(ン)ガミ」のNG音がG音に変化して「ガミ」となった)

  「ホウ・チノ」、HOU-TINO(hou=feather,bind,force downwards or under;tino=main,essentiality,very)、「全く・羽根飾り(のように貴重な財産である金山がある。地域)」(「ホウ」が「ホ」となった)

の転訛と解します。

 

(25)下妻(しもつま)郡

 

a下妻(しもつま)郡

 古代から明治29年までの郡名で、筑後国の南部、筑後川の支流花宗(はなむね)川の流域に位置し、北から東は上妻郡、南は山門郡、西は三瀦郡に接します。明治29年に上妻郡と合併して八女(やめ)郡となりました。おおむね現在の筑後市の南部の地域です。

 『和名抄』は、「之毛豆万(しもつま)」と訓じます。

 この「しもつま」は、

  「チモ・ツ・ウマ」、TIMO-TU-UMA(timo=peck as a bird,strike with a pointed instrument;tu=stand,settle;uma=bosom,chest,convex side of an axe)、「斧の本体(水縄山地から筑肥山地の山々)を・鳥がつついた(起伏のある平らな)場所に・位置している(地域)」(「ツ」のU音と「ウマ」の語頭のU音が連結して「ツマ」となった)

の転訛と解します。

 

b花宗(はなむね)川・羽犬塚(はいぬづか)

 筑紫平野の南東部の筑後市は、低い洪積台地と矢部川の扇状地からなり、西部は矢部川から分流した山ノ井川、花宗(はなむね)川が流れる低湿なクリーク地帯です。中心部の羽犬塚(はいぬづか)は、近世薩摩街道の宿場町として栄えました。

 この「はなむね」、「はいぬづか」は、

  「ハ・ナム・ヌイ」、HA-NAMU-NUI(ha=breathe,what!;namu,nanamu=smart,tingle,flash,irritate;nui=large,many)、「呼吸する(潮の干満に応じて水位が上下する。または上流と下流で時期をずらして取水し、定期に堰・水路の補修のために取水を止める)・ひどく・悩ましい(取水管理に手がかかる。川)」(「ヌイ」が「ネ」となった)

  「ハ・イヌ・ツカハ」、HA-INU-TUKAHA(ha=what!;inu=drink;tukaha=strenuous,vigorous,passionate)、「何と・一生懸命に・水を呑んでいる(水浸しの。地域)」(「ツカハ」のH音が脱落して「ツカ」となった)

の転訛と解します。

 

(26)山門(やまと)郡

 

a山門(やまと)郡

 古代からの郡名で、筑後国の南部に位置し、北は三瀦郡、下妻郡、東は上妻郡、南は肥後国、三毛郡、西は有明海に接します。おおむね現在の柳川市の南部、山門郡の地域です。

 『和名抄』は、「夜万止(やまと)」と訓じます。郡名は、山が相対して門のようだから、「八女津(やめつ。八女地方の外港)」の転、「山の間」からなどとする説があります。

 この「やまと」は、

  「イア・マト」、IA-MATO(ia=indeed,current;mato=deep swamp)、「実に・深い沼地がある(地域)」

の転訛と解します。(地名篇(その五)の奈良県の(1)大和国の項を参照してください。)

 

b瀬高(せたか)町・女(ぞ)山神籠石・開(ひらき)

 瀬高(せたか)町は、柳川城下の河港、肥後街道の宿場町として栄えました。町名は、古代以来の荘園名によります。町内には高良山と並ぶ最大級の女(ぞ)山神籠石など遺跡・古墳が多く分布します。

 有明海沿岸の干拓地には、筑後国では開(ひらき)の地名が多くみられます。(肥前国に多く見られる搦(からみ)、籠(こもり)については、後出佐賀県の(8)杵嶋(きしま)郡のb搦(からみ)、籠(こもり)の項を参照してください。)

 この「せたか」、「ぞ」、「ひらき」は、

  「テ・タカ」、TE-TAKA(te=the,crack;taka=heap,lie in a heap)、「割れ目(矢部川沿岸)の・高台(にある土地。地域)」

  「タウ」、TAU(turn away,look in another direction)、「(山の)周りを囲んでいる(列石の。遺跡)」(AU音がO音に変化して「ト」から「ゾ」となった)

  「ヒ・ラキ」、HI-RAKI(hi=arise,rise;raki=dried up)、「(干拓により)高くなり・乾燥した(土地。地域)」

の転訛と解します。

 

(27)三毛(みいけ)郡

 

a三毛(みいけ)郡

 古代からの郡名で、筑後国の南部に位置し、北は山門郡、東から南は肥後国、西は有明海に接します。中世から三池郡とも記すようになりました。おおむね現在の大牟田市、三池(みいけ)郡高田町の地域です。

 『和名抄』は、「三計(みけ)」と訓じます。郡名は、景行紀18年7月条に天皇が筑紫後国の御木の高田行宮の傍らの巨大な歴木(くぬぎ)の倒木を見てこの国を「御木の国」と命名したことによる(『筑後国風土記逸文』は御木国が転じて三毛となったとします)、「御食(みけ)」から、「ミ(接頭語)・ケ(崩え。崖地)」の意、「ミヤケ」の転などの説があります。

 この「みけ」は、

  「ミヒ・イケ」、MIHI-IKE(mihi=greet,admire,show itself;ike=high,lofty,strike with a hammer of other heavy instrument)、「金槌で殴られた(浸食された)ことを・見せつけている(山地。その山地のある地域)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となり、その語尾のI音と「イケ」の語頭のI音が連結して「ミケ」となった)

の転訛と解します。

 

b大牟田(おおむた)市・早鐘(はやがね)眼鏡橋

 大牟田(おおむた)市の市名は、近世以来の地名で「ムタ(湿地)」からとされます。

 南部には早鐘(はやがね)池の水を有明海沿岸平野へ通水するための水路兼人馬通行橋である早鐘(はやがね)眼鏡橋(重要文化財指定)があります。

 この「おおむた」、「はやがね」は、

  「オホ・ム・ウタ」、OHO-MU-UTA(oho=wake up,arise;mu=silent;uta=the land,the inland,put persons or goods on board a canoe)、「高くなっている・静かな・内陸(の土地。地域)」(「ム」のU音と「ウタ」の語頭のU音が連結して「ムタ」となった)

  「ハ・イア・(ン)ガネヘ」、HA-IA-NGANEHE(ha=what!;ia=current,indeed;nganehenehe=querulous,peevish)、「ひどく・怒りっぽい(騒がしい音を立てる)・水の流れ(その水路。その水の貯水池)」(「(ン)ガネヘ」のNG音がG音に変化し、H音が脱落して「ガネ」となった)

の転訛と解します。

 

(28)豊前(ぶぜん)国

 

 豊前国は、福岡県東部と大分県北部を占める地域の旧国名で、古くは豊(とよ)国であったのが7世紀末に豊前・豊後に分かれたとされます。ただし、古く豊国はそれほど広い国ではなく、大和朝廷といち早く交誼を結んだ現在の福岡県行橋市付近にあった長峡(ながさ)縣あたりの村落国家的一地方の呼称とする説があります(『大分県史』)。豊前国には、田河、企救、京都、仲津、築城、上毛(以上福岡県)、下毛、宇佐(以上大分県)の8郡が属しました。国府の所在地は、『和名抄』に京都郡とあり、現京都郡豊津町国作または行橋市津熊とする説があります。

 『和名抄』は、「止与久邇乃三知乃久知(とよくにのみちのくち)」と訓じます。豊(とよ)の国名は、『古事記』国生み条に「筑紫島も亦身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、・・・豊国は豊日別(とよひわけ)と謂ひ」とあり、『豊後国風土記』に「白鳥が地の豊草に化したので豊国という」とあり、「トヨ(響む。川の音などによる擬声語)」からなどとする説があります。

 この「とよ」、「とよひわけ」は、

  「ト・イオ」、TO-IO(to=drag,open or shut a door or a window;io=muscle,line,spur,lock of hair)、「(潮の干満に応じて)潮が行き来する・縄のような海峡(関門海峡(および豊予海峡)に面している。国)」

  「ト・イオ・ヒ・ワカイ(ン)ガ」、TO-IO-HI-WAKAINGA(to=drag,open or shut a door or a window;io=muscle,line,spur,lock of hair;hi=raise,rise;wakainga=distant home)、「(潮の干満に応じて)潮が行き来する・縄のような海峡(関門海峡(および豊予海峡))に面している・高くなっている(山地が多い)・(大和から遠く離れた)地域(に住む神。その神が住む国)」(「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった) (古典篇(その五)の099豊日別の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

(29)田河(たがわ)郡

 

a田河(たがわ)郡

 古代からの郡名で、

 『和名抄』は、訓を欠きます(出羽国田川郡は「多加波(たかは)」と訓じます)。郡名は、「鷹羽を産した」から、彦山川の旧名を「田川」といった(景行紀12年8月条に「高羽川」がみえます)から、「タ(美称)・カハ(川)」から、「タカ(高)・ハ(端)」で「台地の端、崖」の意などとする説があります。

 この「たかは」、「たがわ」は、

  「タカ・ワ」、TAKA-WHA(taka=heap,lie in a heap;wha=be disclosed,get abroad)、「(岩が)むき出しになった・高い山(英彦山など)がある(地域)」

  「タ・カハ」、TA-KAHA(ta=the,dash,beat,lay;kaha=crested grebe)、「カンムリカイツブリ(水鳥)の冠毛(のような山。三つの峰をもつ英彦山・香春岳)が・ある(地域)」

の転訛と解します。

 

b香春(かわら)町・香春(かわら)岳・がにまぶ・赤池(あかいけ)町・添田(そえだ)町・英彦(ひこ)山・岳滅鬼(がくめき)山・今(いま)川・中元寺(ちゅうがんじ)川・竜門(りゅうもん)峡

 香春(かわら)町は、香川盆地北部にあり、古くは「かはる」と呼ばれ、豊前国府から太宰府へ通ずる官道の宿場があり、中世以降は宿場町として栄え、幕末には第二次長州征伐で敗れた小倉藩が当地に移りました。

 「炭坑節」に歌われた香春(かわら)岳(511)メートルは、三つの峰をもつ石灰岩の山で、古く奈良時代初期から銅の採掘が行われ、宇佐八幡宮の神鏡鋳造所跡があり、東大寺大仏の鋳造にも大きな役割を果たしたと伝えられ、その採掘跡の巨大な坑道は「がにまぶ」と呼ばれます。

 赤池(あかいけ)町は彦山川中流にあり、町名は近世からの村名で「我(あ)が池」からという伝承があります。上野(あがの)村が昭和14(1939)年に町となり改称しました。

 添田(そえだ)町は、遠賀川支流彦山(ひこさん)川最上流で、南部には古くから修験の霊場として尊崇を集めた英彦(ひこ)山(1,200メートル)や、岳滅鬼(がくめき)山(1,037メートル)がそびえ、今(いま)川、彦山(ひこさん)川、中元寺(ちゅうがんじ)川が北流しています。英彦山には竜門(りゅうもん)峡などの景勝地があります。

 この「かはる」、「かわら」、「がにまぶ」、「あかいけ」、「そえだ」、「ひこ」、「がくめき」、「いま」、「ちゅうがんじ」、「りゅうもん」は、

  「カハ・アル」、KAHA-ARU(kaha=rope,noose;aru=follow,pursue)、「ほどけた輪縄(蛇行する川)を・辿る(街道。その地域)」(「カハ」の語尾のA音が「アル」の語頭のA音と連結して「カハル」となった)

  「カワ・ラ」、KAWA-RA(kawa=heap,channel;ra=wed)、「(三つの)山が・合体している(山)」

  「(ン)ガ・アニ・マプ」、NGA-ANI-MAPU(nga=the;ani=resounding;mapu=flow freely,shout)、「(中で音が)反響する・(巨大な)坑道」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となり、そのA音と「アニ」の語頭のA音が連結して「ガニ」となった)(「間歩(まぶ)」については、地名篇(その四)の兵庫県の(1)川辺郡のc多田銀山の項および地名篇(その十二)の島根県の(14)邇摩郡のc岩見銀山・竜源寺間歩の項を参照してください。)

  「トエ・タ」、TOE-TA(toe=split,divide;ta=dash,beat,lay)、「(今川、彦山川、中元寺川などで)筋に分けられている場所に・ある(地域)」

  「イ・ムア」、I-MUA(i=beside,past tense;mua=the front,the fore part,in front)、「(英彦山の)前面の・脇(を流れる。川)」(「ムア」が「マ」となった)

  「チウ・(ン)ガ(ン)ガ・チ」、TIU-NGANGA-TI(tiu=wander,sway to and fro,strike with a weapon;nganga=make a noise;ti=throw,cast)、「蛇行する・うるさい音を・立てる(川)」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がG音に変化し、次ぎのNG音がN音に変化して「ガナ」から「ガン」となった)

  「ア(ン)ガ・イケ」、ANGA-IKE(anga=driving force,thing driven;ike=high,strike with a hammer)、「(洪水で)金槌で殴られて・押し流された(地域)」(「ア(ン)ガ」のNG音がG音を経てK音に変化して「アカ」となった)

  「ヒコ」、HIKO(move at random or irregularly,flash,shine)、「(諸方から修験者などが)集散する(山)」または「(朝日、夕日を浴びて)光り輝く(山)」

  「(ン)ガ・クメ・キ」、NGA-KUME-KI(nga=satisfied,content;kume=pull,stretch,drag away;ki=full,very)、「尾根を長々と伸ばして・十分に・満足している(ような。山)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)または「(ン)ガク・マイキ」、NGAKU-MAIKI(ngaku=strip,shred(ngakungaku=reduced to shreds,soft);maiki=remove,depart,disaster,misfortune)、「落石の・危険がある(山)」(「(ン)ガク」のNG音がG音に変化して「ガク」と、「マイキ」のAI音がE音に変化して「メキ」となった)

  「リウ・モナ」、RIU-MONA(riu=bilge of a canoe,valley,belly;mona=scar,trace,knot of a tree,knee joint)、「木の瘤(のような岩)がある・峡谷」(「モナ」が「モン」となった)

の転訛と解します。

 

(30)企救(きく)郡

 

a企救(きく)郡

 古代からの郡名で、豊前国の最北部に位置し、北は関門海峡、東は周防灘、南は京都郡、田川郡、西は筑前国遠賀郡に接します。おおむね現在の北九州市の東部(門司区、小倉区)の地域です。

 『和名抄』は、「支多(久)(きく)」と訓じます。郡名は、「キク」はククと同じくクキに通じ、「高く突き出したところ」の意とする説があります。

 この「きく」は、

  「キク」、KIKU((Hawaii)to lean back firmly,be independent)、「(関門海峡の前に)胸を反らして立ちはだかっているような(半島のある。地域)」

の転訛と解します。

 

b馬関(ばかん)海峡・早鞆(はやとも)ノ瀬戸・門司(もじ)・和布刈(めかり)神社・小倉(こくら)・福智(ふくち)山地・平尾(ひらお)台・竜ケ鼻(りゅうがはな)

 響灘と瀬戸内海の周防灘を結ぶ関門海峡は、古くは馬関(ばかん)海峡と呼ばれました。とくに下関市の壇ノ浦と北九州市門司の和布刈(めかり)の間の幅約700メートルの最狭部は早鞆(はやとも)ノ瀬戸として知られます。

 門司(もじ)は、古代に門司関が置かれた海陸交通の要地で、早鞆ノ瀬戸に臨む岬の端には和布刈(めかり)神事で知られる和布刈神社があります。

 小倉(こくら)は、主要な鉄道、道路のすべてが集中する陸上交通の要地で、その南部には福智(ふくち)山地や日本でも有数のカルスト台地の平尾(ひらお)台があります。

 平尾台の南西、小倉から田川市へ抜ける街道の傍らに竜ケ鼻(りゅうがはな。681メートル)があります。

 この「ばかん」、「はやとも」、「もじ」、「めかり」、「こくら」、「ふくち」、「ひらお」、「りゅうがはな」は、

  「パカ(ン)ガ」、PAKANGA(strife,dissension,war)、「戦争をしているような(激しい潮流が押し合いへし合いする。海峡)」(NG音がN音に変化して「パカナ」から「バカン」となった)

  「ハ・イア・トモ」、HA-IA-TOMO(ha=breathe,what!;ia=current,indeed;tomo=enter,begin,assault)、「実に・(勢い良く)襲ってくる・(潮に干満に応じて)呼吸する(潮流が流れる。海峡)」

  「モ・オチ」、MO-OTI(mo=for,at,on,against;oti=finished)、「終点の(場所)」(「モ」のO音と「オチ」の語頭のO音が連結して「モチ」から「モジ」となった)

  「メ・カリ」、ME-KARI(me=if,as if,like;kari=dig,dig up)、「まるで・海底を掘るような(海中のワカメを採取して神前に献ずる。行事。その行事をおこなう神社)」または「メカリ」、MEKARI(within a little)、「ほんの僅かな量の(海中のワカメを採取して神前に献ずる行事。その行事をおこなう神社。その場所)」

  「コクフ・ウラ(ン)ガ」、KOKUHU-URANGA(kokuhu=insert,introduce,fill up gaps;uranga=circumstance of becoming firm,place of arrival)、「(企救山地と福智山地の間に)入り込んでいる・(船の)寄港地(地域)」(「コクフ」のH音が脱落して「コク」と、「ウラ(ン)ガ」のNGA音が脱落して「ウラ」となり、「コク」の語尾のU音と「ウラ」の語頭のU音が連結して「コクラ」となった)

  「フク・チ」、HUKU-TI(huku=tail feather;ti=throw,cast)、「(企救半島を頭として)尻尾の羽根(美しい羽根)が・放り出されているような(山。山地)」

  「ヒ・ラオラオ」、HI-RAORAO(hi=raise,rise;raorao=level or undulating country)、「高い場所にある・起伏に富む(地域)」(「ラオラオ」の反復語尾が脱落して「ラオ」となった)

  「リウ(ン)ガ・パ(ン)ガ」、RIUNGA-PANGA(riunga=passage,way;panga=throw,place,riddle,game of guessing)、「(小倉から田川市へ抜ける)街道で・(問いかけをして通行を妨害しているような)道を塞いでいるような(山)」(「リウ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「リウガ」から「リュウガ」と、「パ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「パナ」から「バナ」となった)

の転訛と解します。

 

(31)京都(みやこ)郡

 

a京都(みやこ)郡

 古代からの郡名で、豊前国の北部に位置し、北は企救郡、東は周防灘、南は築城郡、仲津郡、西は田川郡に接します。おおむね現在の行橋(ゆくはし)市の西部、京都(みやこ)郡苅田(かんだ)町、勝山町の地域です。明治29年に仲津郡を合併しました。

 『和名抄』は、「美夜古(みやこ)」と訓じます。郡名は、景行天皇が筑紫の豊前国の長峡(ながを)縣の行宮に居られたので京(みやこ)と曰ったことによる(景行紀12年9月条)、「神社や宮庁のあったところ」の意、「太宰府の出先基地のあったところ」の意などの説があります。

 この「みやこ」は、

  「ミ・イア・コ」、MI-IA-KO(mi=stream,river;ia=current,indeed;ko=a wooden implement for digging)、「実に・川の流れが・掘り返した(平らにした。地域)」

の転訛と解します。

 

b長峡(ながを)縣・行事(ぎょうじ)村・大橋(おおはし)村

 長峡(ながを)縣は、行橋(ゆくはし)市長尾(ながお)付近(『大日本地名辞書』)とされますが、『和名抄』にみえる企救郡長野(ながの)郷(現北九州市小倉区東南部。『書紀集解』)とする説もあります。

 行橋(ゆくはし)市の市名は、明治22年関係村が合併して町制を施行した際、宿場町であった行事(ぎょうじ)村、市場町であった大橋(おおはし)村の各一字をとって命名されたことに由来します。

 当郡の北西部には平尾台のカルスト台地があり、周防灘に注ぐ長峡(ながお)川、今(いま)川などがつくった沖積低地が殆どを占めています。

 この「ながを」、「ぎょうじ」、「おおはし」は、

  「(ン)ガ(ン)ガ・オフ」、NGANGA-OHU(nganga=breathe heavily or with difficulty,make a hoarse noise;ohu=surround)、「(苦しそうに)咳をする(急に洪水を起こす)川に・囲まれている(縣。地域)」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に変化し、次ぎのNG音がG音に変化して「ナガ」と、「オフ」のH音が脱落して「オウ」から「オ」となった)

  「(ン)ギオ(ン)ギオ・チ」、NGIONGIO-TI(ngiongio=withered,wrinkled;ti=throw,cast,overcome)、「皺が寄った場所に・放り出されている(宿場。その地域)」(「(ン)ギオ(ン)ギオ」の反復語尾が脱落し、NG音がG音に変化して「ギオ」から「ギョウ」となった)

  「オフ・パチ」、OHU-PATI(ohu=surround;pati=shallow,water,ooze,splash)、「浅瀬(の川)に・囲まれている(市場。その地域)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」と、「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」から「ハシ」となった)

の転訛と解します。

 

(32)仲津(なかつ)郡

 

a仲津(なかつ)郡

 古代から明治29年までの郡名で、豊前国中部に位置し、北は京都郡、東は周防灘、築城郡、南は下毛郡、西は田川郡に接します。おおむね現在の行橋市の東部、京都(みやこ)郡豊津町、犀川町の地域です。明治29年に京都郡に合併されました。

 『和名抄』は、訓を欠きます。郡名は、豊前国の中央に位置したからとされます。

 この「なかつ」は、

  「ナ・カツア」、NA-KATUA(na=by,belonging to;katua=adult,stockade or main fence of a fort distinguished from the inside and the outside)、「(中心の居住地の内側と外側の)間にある柵・のような(位置にある。地域)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」となった)

の転訛と解します。

 

b草野(かやの)津・祓(はらい)川・豊津(とよつ)町・国作(こくさく)・犀(さい)川

 長峡川の河口近くの行橋市草野(くさの)に古代の草野(かやの)津があったとされます。天平18(746)年以降東九州沿岸から荷を積んで難波へ行く船は過所(通行許可証)を持っていても門司関を通るべきこととされていましたが、延暦15(796)年以降は過所さえ所持すれば公私の船は豊前国草野(かやの)津、豊後国国埼津、坂門津の三津から出てよく門司津を経由する必要がないこととなりました(『類聚三代格』)。関門海峡の往復を嫌ってひそかに瀬戸内海を航行する船がいかに多く、かつその取り締まりが難しかったかを推測することができます。

 豊津(とよつ)町は、祓(はらい)川の流域に位置し、豊前国の国府・国分寺は、同町国作(こくさく)、総社付近にあったとされます。

 犀川(さいかわ)町は、犀(さい)川の流域に位置します。

 この「かやの」、「はらい」、「とよつ」、「こくさく」、「さい」は、

  「カイア・ノホ」、KAIA-NOHO(kaia=steal,stealthy;noho=sit,settle)、「足音を忍ばせる(門司関を経由せずに出入する)・場所(港)に居る(土地)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「ハ・ライ」、HA-RAHI(ha=breathe,what!;rahi=great,abundant)、「(潮の干満に応じて)呼吸する・大きな(川)」

  「ト・イオ・ツ」、TO-IO-TU(to=drag,open or shut a door or a window;io=muscle,line,spur,lock of hair;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(潮の干満に応じて潮が)出入りする・縄のような川が・そこにある(土地。地域)」

  「コクフ・タク」、KOKUHU-TAKU(kokuhu=insert,introduce,fill up gaps;taku=edge,border)、「内陸に入り込んだ(川の)・縁(にある。土地。地域)」(「コクフ」のH音が脱落して「コク」となった)

  「タイ」、TAI(tide,wave,anger,the other side)、「暴れる(川)」または「タ・アイ」、TA-AI(ta=the,dash,beat,lay;ai=beget,procreate)、「奔流する・(河口で長峡川と合流する)子供を生む(川)」(犀川については地名篇(その十六)の長野県の(4)筑摩郡のc犀川の項を、今川については前出(29)田河(たがわ)郡のb今川の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

(33)築城(ついき)郡

 

a築城(ついき)郡

 古代から明治29年までの郡名で、豊前国の中部に位置し、西から北は仲津郡、東は周防灘、南は上毛郡に接します。おおむね現在の築上(ちくじょう)郡築城(ついき)町、椎田町の地域です。明治29年に上毛郡と合併して築上(ちくじょう)郡となりました。

 『和名抄』は、「豆伊支(ついき)」と訓じます。郡名は、「古城が築かれていた」から、「百合若大臣の家臣別府太郎が城を築いた」から、「ツイキ」は「ツキキ」の音便で「ツキ」はツカと同じく「小高いところ」の意とする説があります。

 この「ついき」は、

  「ツイ・キ」、TUI-KI(tui=pierce,thread on a string,lace;ki=full,very)、「縫い目(のような川)が・たくさんある(山から多数の川が流れ出している。地域)」

の転訛と解します。

 

b城井(きい)川・極楽寺(ごくらくじ)川・真如寺(しんにょうじ)川・椎田(しいだ)町

 郡域は、ほとんどが英彦山から東に延びる山地で、城井(きい)川、極楽寺(ごくらくじ)川、真如寺(しんにょうじ)川などが北流し、城井(きい)川、極楽寺(ごくらくじ)川などは海岸近くで南東に向きを変え、豊前街道の宿場町であった椎田(しいだ)町で真如寺(しんにょうじ)川に合流して周防灘に注ぎます。

 この「きい」、「ごくらくじ」、「しんにょうじ」、「しいだ」は、

  「キヒ」、KIHI(cut off,strip of branches etc.)、「小枝の枝条のような(支流の。川)」(H音が脱落して「キイ」となった)

  「(ン)ガウ・クラク・チ」、NGAU-KURAKU-TI(ngau=bite,hurt,attack;kuraku,kurakuraku=annoyance,disturbance;ti=throw,cast)、「襲いかかって(洪水を起こして)・(住民に)悩みを・もたらす(川)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

  「チノ・(ン)ギオ・チ」、TINO-NGIO-TI(tino=main,essentiality,exact;ngio=faded(ngiongio=withered,shrivelled,wrinkled);ti=throw,cast,overcome)、「全く(最終には)・(他の川の)勢いを弱めて・圧倒する(飲み込む、合流する。川)」(「チノ」が「シン」と、「(ン)ギオ」のNG音がN音に変化して「ニオ」から「ニョウ」となった)

  「チ・イタ」、TI-ITA(ti=throw,cast,overcome;ita=firm,intense,compact)、「(他の川を)圧倒して(飲み込む、合流して)・(一本の川に)まとめた(川がある。地域)」

の転訛と解します。

 

(34)上毛(こうげ)郡

 

a上毛(こうげ)郡

 古代から明治29年までの郡名で、豊前国の中部に位置し、北は周防灘、東から南は下毛郡、西は築城郡に接します。「かみつけ」とも呼び、後に「こうげ」と呼びました。おおむね現在の豊前市、築上(ちくじょう)郡吉富町、新吉富村、大平村の地域です。明治29年に築城郡と合併して築上(ちくじょう)郡となりました。

 『和名抄』は、「加牟豆美介(かむつみけ)」と訓じます。郡名は、景行紀に「御木(みけ)の川上」とみえることによる(景行紀12年9月条)、『筑前国風土記逸文』上妻県の条に筑紫君磐井が豊前国上膳(かみつみけ)県の南の山深くに逃れたとあるところから「御食(みけ)」による、「ミ(接頭語)・ケ(崩え。崖地)」の意、「ミヤケ」の転などの説があります。

 この「かむつみけ」は、

  「カ・ムツ/ミ・ケ」、KA-MUTU/MI-KE(ka=take fire,be lighted,burn;mutu=finished;mi=stream,river;ke=different,strange)、「(灯を灯す)居住地の・果てる(最北の)地の/変わった・川(耶馬渓のある川が流れる。地域)」

の転訛と解します。

 

b宇島(うのしま)港・求菩提(くぼて)山・犬(いぬ)ケ岳・経読(きょうよみ)岳

 豊前(ぶぜん)市は、昭和30年4月10日八谷町と周辺8村が合併して市の中心の宇島(うのしま)港にちなんで宇島(うのしま)市となり、4日後に豊前(ぶぜん)市に改称しました。市の南西部には修験の霊場として有名な求菩提(くぼて)山(782メートル)や犬(いぬ)ケ岳(1,131メートル)、経読(きょうよみ)岳(992メートル)などの山々がそびえます。

 この「うのしま」、「くぼて」、「いぬが」、「きょうよみ」は、

  「ウ・ノホ・チマ」、U-NOHO-TIMA(u=be fixed,reach the land,arrive by water;noho=sit,settle;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「船着き場が・そこにある・掘り棒で掘ったような場所(島。地域)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「ク・ポタエ」、KU-POTAE(ku=silent;potae=covering for the head,hat)、「静かな・帽子(のような。山)」(「ポタエ」のAE音がE音に変化して「ポテ」から「ボテ」となった)

  「イ・ヌイ(ン)ガ」、I-NUINGA(i=beside,past tense;nuinga=majority,larger part,party)、「(周辺の山々の中で)大きな方・になっている(山)」(「ヌイ(ン)ガ」のUI音がU音に、NG音がG音に変化して「ヌガ」となった)

  「キオ・イオ・ミヒ」、KIO-IO-MIHI((Hawaii)kio=projection,protuberance;io=muscle,line,spur,lock of hair;mihi=greet,admire,show itself)、「(瘤のように)突出した・峰を・見せつけている(山)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

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41 佐賀県の地名

 

(1)肥前(ひぜん)国

 

 佐賀県は、古くは長崎県(壱岐、対馬を除く)とともに肥前(ひぜん)国でした。

 古代には「肥(火。ひ)国」で、「肥前の国は、本、肥後国と合わせて一つの国たりき」と『肥前国風土記』にあり、持統10(696)年ごろまでに分立したとされます。律令時代は、基肄、養父、三根、神埼、佐嘉、小城、松浦、杵嶋、藤津(以上松浦郡の一部を除き佐賀県)、彼杵、高来(以上松浦郡の一部を含め長崎県)の11郡がありました。国府は小城郡(佐賀郡大和町付近)とされます。『魏志倭人伝』には末廬国の名がみえ、『国造本紀』には末羅、葛津直(立)、杵肆、筑志米多の4国造の名がみえます。

 『和名抄』は、「比乃三知乃久知(ひのみちのくち)」と訓じます。肥(ひ)の国名は、『古事記』国生み条に「筑紫島も亦身一つにして面四つ有り。面毎に名有り。故、・・・肥国は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ふ」とあり、景行紀18年5月条に景行天皇が夜に火を見て上陸したことによるとの「火」国名の起源説話があり、『肥前国風土記』には建緒組が大空から火が降りて山に燃え移るのを見たことに由来するとあり、有明海の「不知火」による、阿蘇山・雲仙岳などの火山の存在による、「干潟」の「干(ひ)」から、「ヒ(水路)」から、「ヒ(扇状地の扇端)」からなどの諸説があります。

 この「ひ」、「たけひむかひとよくじひねわけ」は、

  「ピ」、PI(eye)、「眼(大きな外輪山の中に火口丘がある=阿蘇山)(阿蘇山がある地域・国)」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒ」となった)または「ヒヒ」、HIHI(ray of the sun,feelers of crayfish,a method of dressing the hair in horns on each side of the head)、「(輝くばかりに飾り立てた)角状のみづらのような(有明海の東西に二つの火山がある地域が分かれている。国)」(反復語尾が脱落して「ヒ」となった)

  「タ・ケヒ・ムク・ヒタウ・イオ・クチ・ピ・ヌイ・ワカイ(ン)ガ」、TA-KEHI-MUKU-HITAU-IO-KUTI-PI-NUI-WAKAINGA(ta=the;kehi=defame,speakill of;muku=wipe,smear;hitau=short apron;io=muscle,spur,lock of hair;kuti=pinch,contract;pi=eye;nui=large,big,many;wakainga=distant home)、「(出来が悪いと)悪口を言われている・巨大な・眼と・圧縮した・山脈の・(周りに)小さなエプロンのような平地を・なすりつけたような・(大和から)遠く離れた土地に住む(神。その神の住む土地)」(「ヒタウ」のAU音がO音に変化して「ヒト」と、「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)(古典篇(その五)の087建日向日豊久士比泥別神の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

(2)基肄(きい)郡

 

a基肄(きい)郡

 古代から明治29年までの郡名で、肥前国の東端に位置し、北は筑前国御笠郡、東は筑後国御原郡、御井郡、南から西は養父郡に接します。おおむね現在の鳥栖市の東部の一部、三養基(みやき)郡基山(きやま)町の地域です。明治29年に養父郡、三根郡と合併して三養基(みやき)郡となりました。

 『和名抄』は、訓を欠きます(郷里部の基肄郷は「木伊(きい)」と訓じます)。郡名は、『肥前国風土記』に景行天皇が筑紫国御井郡の高羅行宮から基肄の山をみて霧に覆われていたことから「霧の国」と呼び、基肄の国となり郡名となった、「木」の産地からとする説があります。

 この「きい」は、

  「キヒ」、KIHI(cut off,strip of branches etc.)、「(背振山地の東端の)切り離された(山。その山麓の地域)」(H音が脱落して「キイ」となった)または「キイ」、KII((Hawaii)to tie,bind)、「(基山に)結びつけられている(地域)」(地名篇(その五)の和歌山県の(1)紀伊国の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

b基山(きざん)・田代(たしろ)領

 当郡は、古くから交通・軍事の要衝で、肥前国府への駅路と肥後国府への駅路が分かれる場所にあり、白村江の敗戦後太宰府防衛のために大野城とともに基山(きざん。404メートル)を中心として4キロメートルに及ぶ土塁を巡らした山城が築かれました。

 当郡は、江戸時代に養父郡の北半とともに宗氏の対馬藩領となり、田代(たしろ)領と呼ばれ、長崎街道の田代(たしろ)宿がありました。

 この「き」、「たしろ」は、

  「キヒ」、KIHI(cut off,strip of branches etc.)、「(背振山地の東端の)切り離された(山)」(H音が脱落して「キイ」から「キ」となった)

  「タハ・チロ」、TAHA-TIRO(taha=side,edge,part,pass on one side;tiro=look,survey)、「(山麓または街道の)縁にある・ように見える(地域)」または「(江戸への参勤交代時などに)傍らを通過しながら・検分する(領地)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

の転訛と解します。

 

(3)養父(やぶ)郡

 

a養父(やぶ)郡

 古代から明治29年までの郡名で、肥前国の東部に位置し、北は筑前国御笠郡、北から東は基肄郡、南は筑後国御井郡、西は三根郡に接します。おおむね現在の鳥栖(とす)市(東部の一部を除く)の地域です。明治29年に基肄郡、三根郡と合併して三養基(みやき)郡となりました。

 『和名抄』は、「夜不(やぶ)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』に景行天皇の巡幸に吠えた犬が産婦が見ると吠え止んだことから「犬の声止むの国」が転じたとあり、「ヤブ(荒れ地)」から、「ヤブ(産土神の前身)」からとする説があります。

 この「やぶ」は、

  「イア・プ」、IA-PU(ia=current,indeed;pu=tribe,bunch,heap,pipe,origin,base of a mountain)、「実に・(人々が通過するだけの)管のような(地域)」

の転訛と解します。

 

b鳥栖(とす)・轟木(とどろき)宿

 鳥栖(とす)は、『肥前国風土記』に鳥樔(とす)郷とあり、鳥屋(とや)を作って鳥を飼い朝廷に献じたことによる、「ト(接頭語)・ス(州)」の意、「トシ」と関係し「崖」、「微高地、自然堤防」の意とする説があります。

 江戸時代に養父郡の南半は鍋島氏の佐賀藩領で長崎街道の轟木(とどろき)宿があり、田代宿とともに繁栄したと伝えます。

 この「とす」、「とどろき」は、

  「ト・ツ」、TO-TU(to=drag,open or shut a door or a window,wet,annoint;tu=stand,settle)、「(人が)行き来する(駅路が)・ある(土地)」または「(その土地の端が)水で濡れている(筑後川が流れる)・場所がある(土地)」

  「トトロ・キ」、TOTORO-KI(totoro=blaze;ki=full,very)、「たいへん・輝いている(繁盛している。宿場)」

の転訛と解します。

 

(4)三根(みね)郡

 

a三根(みね)郡

 古代から明治29年までの郡名で、肥前国の東部に位置し、北は筑前国那珂郡、東は養父郡、南は筑後国御井郡、三瀦郡、西は神埼郡に接します。おおむね現在の三養基(みやき)郡中原町、北茂安町、上峰村、三根町の地域です。明治29年に基肄郡、養父郡と合併して三養基(みやき)郡となりました。

 『和名抄』は、「岑(みね)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』に景行天皇が巡幸の際神埼郡三根村のあたりで夜安眠できたので「天皇の御寝安(みねやす)の村」から「御寝(みね)」となり、後に分かれて郡名となった、「峰のあるところ」の意とする説があります。

 この「みね」は、

  「ミネ」、MINE(be assembled)、「(大きく蛇行する筑後川やその支流の川の流れが)集まっている(地域)」

の転訛と解します。

 

b寒水(しょうず)川・千栗(ちりく)土居

 当郡の中央部を背振山地に源を発する寒水(しょうず)川が南流します。

 北茂安(きたしげやす)町の町名は、寛永年間(1624ー44年)に佐賀藩の重臣成富茂安が千栗(ちりく)土居を築いて筑後川の治水に成功したことに由来します。近くの千栗(ちりく)八幡宮は奈良時代の創建と伝えます。

 この「しょうず」、「ちりく」は、

  「チホウ・ツ」、TIHOU-TU(tihou=an implement used for cultivating;tu=fight with,energetic)、「荒々しく・土地を掘り返す(川)」(「チホウ」のH音が脱落して「チオウ」から「ショウ」となった)

  「チリ・ク」、TIRI-KU(tiri=throw or place one by one,scatter;ku=silent)、「(土砂を)少しづつ積み上げて(堤防を造成して)・(川を)静かにした(堤防。その場所。その場所にある神社)」(この堤防は、古くから造成と崩壊を繰り返してきたものと考えられます。)

の転訛と解します。

 

(5)神埼(かんざき)郡

 

a神埼(かんざき)郡

 古代からの郡名で、肥前国の東部に位置し、北は筑前国早良郡、那珂郡、東は三根郡、南は筑後国三瀦郡、西は佐賀郡、小城郡に接します。おおむね現在の神埼郡の地域です。

 『和名抄』は、「加无佐木(かむさき)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』に景行天皇の巡幸の際先住の荒ぶる神を平定したことによるとあり(通説ではこれは地名の説明にはなっていないとしますが、下記のとおりで通説は誤解です)、「神社の鎮座する場所の前」の意とする説があります。

 この「かむさき」は、

  「カム・タハキ」、KAMU-TAHAKI(kamu=eat,munch,close the hands;tahaki=one side,the shore)、「(敵対していた)一方を・征服した(地域)」(「タハキ」のH音が脱落して「タアキ」から「サキ」となった)

の転訛と解します。

 

b背振(せふり)山・吉野ケ里(よしのがり)・目達原(めたばる)

 当郡の北、佐賀県と福岡県の境をなす背振山地の最高峰、背振(せふり。せぶり)山(1,055メートル)は、平安時代には山岳宗教が栄え、頂上を上宮、東背振村の霊仙寺を中宮、同じく修学院を下宮として背振千坊と称される寺院があった一大霊場でした。

 背振山地の山麓には、縄文・弥生時代の遺跡が数多くあります。とくに、三田川町、神埼町、東脊振村にまたがる吉野ケ里(よしのがり)遺跡は、全国一の規模をもつ弥生時代後期の環濠集落跡などの遺跡として著名です。

 また、低い台地上にある三田川町目達原(めたばる)は、『国造本紀』の筑志米多(めた)国造の本拠地とする説があり、周辺には6基の前方後円墳が確認されています。

 この「せふり」、「よしのがり」、「めた」は、

  「タイ・プリ」、TAI-PURI(tai,taitai=dash,knock,perform certain ceremonies to remove tapu etc.;puri=sacred,pertaining to ancient lore)、「神聖な・穢れを祓う儀式を行う(山)」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」から「セ」と、「プリ」のP音がF音を経てH音に変化して「フリ」となった)

  「イオ・チノ・(ン)ガリ」、IO-TINO-NGARI(io=muscle,line,spur,lock of hair,tough;tino=main,essentiality,exact;ngari=annoyance,greatness,power)、「巨大な規模を持つ・(国の中心である)主要な・(生命力を秘めた)髷のような(集落)」(「(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「ガリ」となった)(古代人には髷(まげ)に生命力が宿るとする信仰があったと考えられます。地名篇(その十)の千葉県の(9)匝瑳郡のb生尾の項を参照してください。)

  「マイタイ」、MAITAI(good,beautiful,agreeable)、「良好な(土地。国)」(最初のAI音がE音に変化し、語尾のI音が脱落して「メタ」となった)

の転訛と解します。

 

(6)佐嘉(さか)郡

 

a佐嘉(さか)郡

 古代からの郡名で、肥前国の東部に位置し、北から東は神埼郡、筑後国三瀦郡、南は有明海、西から北は小城郡に接します。おおむね現在の佐賀(さが)市、佐賀(さが)郡(富士町(旧小関村の区域を除く)を除く)の地域です。中世から近世には佐嘉、佐賀の表記が併用されていましたが、明治3年に「佐賀」と定められました。

 『和名抄』は、訓を欠きます。郡名は、『肥前国風土記』の1説には巨大な樟樹があり、日本武尊がこの国は「栄(さか)の国」といったのが転じたとし、1説には巫女の託宣に従って土で人形・馬形を作って川上の荒ぶる神を祀ったところ災いがなくなったので「賢女(さかしめ)の郡」といったのが転じたとし、「サカ(坂。傾斜地)」の意とする説があります。

 この「さか」は、

  「タカ」、TAKA(fall off,turn on a pivot,revolve,pass round)、「(『肥前国風土記』にワニが魚を従えて世田(よた)姫の下に至り二、三日でまた海へ帰ると伝えるその魚が)遡上してまた戻る(川。その佐嘉(さか)川(現在の嘉瀬(かせ)川)の流れる地域)」

の転訛と解します。

 

b嘉瀬(かせ)川・世田(よた)姫・與止日女(よどひめ)神社・多布施(たぶせ)川・石井(いしい)樋

 背振山地から佐賀平野へ出た嘉瀬(かせ)川(『肥前国風土記』にいう佐嘉(さか)川)のほとりの大和町川上に、上記の郡名の由来となった世田(よた)姫を祀る肥前国一宮の河上神社(式内社與止日女(よどひめ)神社)があり、その少し下流の左岸(大和町尼寺付近)に肥前国府があったとされます。

 また、その下流の嘉瀬川と多布施(たぶせ)川の分岐点に、元和年間(1615ー24年)に佐賀藩の重臣成富茂安が佐賀城下へ流入する水量を調節する石井(いしい)樋を設けています。

 この「かせ」、「よた」、「よど」、「たぶせ」、「いしい」は、

  「カテテ」、KATETE(move forwards,be securely fastened,lengthen by adding a piece)、「(支流の多布施川が嘉瀬川本流に)しっかりと結び付けられている(川)」(反復語尾が脱落して「カテ」から「カセ」となった)

  「イオ・タ」、IO-TA(io=muscle,line,spur;ta=dash,beat,lay)、「(縄のような)川(のほとり)に・居る(女神)」

  「イオ・タウ」、IO-TAU(io=muscle,line;tau=come to rest,float,settle down,lie steeping in water)、「(縄のような)川(のほとり)に・鎮座する(女神)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」から「ド」となった)

  「タ・プテ」、TA-PUTE(ta=dash,beat;pute=bag or basket of fine woven flax)、「細い糸で編んだ袋(クリークが網の目のように流れる佐賀平野の中央部)を・直撃する(洪水が襲う。川)」

  「イ・チヒ」、I-TIHI(i=beside;tihi=summit,top)、「(多布施川の最上流部)頂点の・近くの(樋)」(「チヒ」のH音が脱落して「チイ」から「シイ」となった)

の転訛と解します。

 

(7)小城(おぎ)郡

 

a小城(おぎ)郡

 古代からの郡名で、肥前国中部に位置し、北は筑前国怡土郡、東は神埼郡、佐賀郡、南は杵島郡、西は松浦郡に接します。おおむね現在の多久(たく)市、小城郡、佐賀郡冨士町(旧小関村の区域を除く)の地域です。昭和31に北山村、南山村が佐賀郡小関村と合併して佐賀郡に編入されました。多久地区には先土器時代の遺跡が残り、小城地区には弥生時代の水田遺構がみられます。

 『和名抄』は、「乎支(をき)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』に土蜘蛛が堡(おき。砦)を築いて朝廷に反抗したことによるとあり、「ヲギ(ウギ(ウグ(穿)から)の転。崖地)」の意とする説があります。

 この「をき」は、

  「オキ」、OKI(cut,divide,separate)、「(多久地区から小城地区が)分かれた(地域)」または「(多久地区と小城地区の)二つに分かれている(地域)」

の転訛と解します。

 

b天(てん)山・多久(たく)盆地・牛津(うしづ)川・晴気(はるけ)川・祇園(ぎおん)川

 郡の中央には天(てん)山(1,046メートル)がそびえ、多久(たく)盆地には牛津(うしづ)川が、小城地区には晴気(はるけ)川、祇園(ぎおん)川が流れます。

 この「てん」、「たく」、「うしづ」、「はるけ」、「ぎおん」は、

  「テ(ン)ガ」、TENGA(Adam's apple,goitre)、「のど仏のような(膨らんでいる。山)」(NG音がN音に変化して「テナ」から「テン」となった)

  「タク」、TAKU(edge,rim,gunwale,hollow)、「穴のような(盆地)」

  「ウチ・ツ」、UTI-TU(uti=bite;tu=fight with,energetic)、「荒々しく・浸食する(川。その川の流れる地域)」

  「ハル・ケ」、PARU-KE(paru=mud,excrement,dirty;ke=different,strange)、「異様な・泥濘地(をつくる。川)」

  「(ン)ギホ(ン)ギホ」、NGIHONGIHO(diminutive)、「ほんの小さな(川)」(最初のNG音がG音に変化し、H音が脱落し、次ぎのNG音がN音に変化し、H音が脱落して「ギオニオ」から「ギオン」となった)

の転訛と解します。

 

(8)杵嶋(きしま)郡

 

a杵嶋(きしま)郡

 古代からの郡名で、肥前国中部に位置し、西から北は彼杵郡、松浦郡、北は小城郡、東は有明海、南は藤津郡に接します。おおむね現在の武雄(たけお)市、杵島(きしま)郡の地域です。

 『和名抄』は、「支志万(きしま)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』に景行天皇の船が停泊したとき、「かし(杭)」の穴から冷たい水が流れ出たからとも、停泊したところが島となったからともいい、「かし嶋」が転じて「杵島」となった、「カシ(キシに同じ。崖地、自然堤防)・マ(場所を示す接尾語)」の意「キ(割。刻み目)・シマ(島)」の意などとする説があります。

 この「きしま」は、

  「キ・チマ」、KI-TIMA(ki=full,very;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「堀り棒で掘ったような(浸食された)山や場所が・たくさんある(地域)」

の転訛と解します。

 

b武雄(たけお)盆地・柄崎(つかさき)・六角(ろっかく)川・有明(ありあけ)海・搦(からみ)・籠(こもり)・黒髪(くろかみ)山

 武雄(たけお)盆地にある武雄(たけお)市の市名は、古くは柄崎(つかさき)といい、明治6(1973)年に市内御船山の麓に鎮座する武雄神社にちなみ改称したものです。

 武雄盆地の中央を六角(ろっかく)川が流れ、有明(ありあけ)海に注ぎます。

 六角川の河口付近は、佐賀藩が安永元(1772)年に設けた搦(からみ)方(役所)によって推進された干拓事業によって造成された干拓地が多く、「搦(からみ)」の地名が残ります。また、それより古い干拓地には多く「籠(こもり)」の地名が残るとされます。搦(からみ)は、丸太を打ち込み、竹を「からみつかせて」放置し、泥土を堆積させてから堤防を造成したことにより、籠(こもり)は、石や土を入れた籠(かご)を堤防に使用したからとも、干拓地を囲み込む籠りの意ともいわれます。(「開(ひらき)」地名については、前出の福岡県の(26)山門郡のb開(ひらき)の項を参照してください。)

 山内町の西の黒髪(くろかみ)山(518メートル)は、周囲の山とともに石英粗面岩、安山岩などが浸食されて全山が奇岩絶壁の景勝地となっており、古くは修験の霊場でした。

 この「たけお」、「つかさき」、「ろっかく」、「ありあけ」、「からみ」、「こもり」、「くろかみ」は、

  「タケ・オフ」、TAKE-OHU(take=stump,base of a hill;ohu=beset in great numbers,surround)、「切り株(のような山々)が・周りを取り囲んでいる(土地。盆地)」(「オフ」のH音が脱落して「オ」となった)

  「ツカ・タハキ」、TUKA-TAHAKI(tuka,tukatuka=start up,proceed forwards;tahaki=one side,the shore)、「(武雄盆地の北の山寄りの)一方の側を・進む(街道に沿っている。土地。地域)」

  「ロツ・カク」、ROTU-KAKU(rotu=heavy,oppressive,favourable;kaku=scrape up,scoop up,bruise)、「圧迫して・(土砂を)堀り割る(川)」

  「アリ・アケ」、ARI-AKE(ari=clear,white,fence:ake=forthwith,very,upwards)、「垣根(多良岳山系の山々)が・(前面に)高くそびえている(海)」

  「カハ・ラミ」、KAHA-RAMI(kaha=strong,strength,persistency;rami=squeeze)、「時間をかけて・泥を絡め取る(堆積させる。干拓の工法。その工法によって造成した干拓地)」または「永久に・(海から陸を)奪い取る(干拓する事業。干拓地)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

  「コモ・リ」、KOMO-RI(komo=thrust in insert;ri=screen,protect,bind)、「(海に)突っこんだ・(土地を守る)防波堤(の中の土地。干拓地)」

  「クフ・ロ・カミ」、KUHU-RO-KAMI(kuhu=thrust in,insert;ro=roto=inside;kami=eat)、「浸食が・(山の)中に・入り込んでいる(山)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

の転訛と解します。

 

(9)藤津(ふじつ)郡

 

a藤津(ふじつ)郡

 古代からの郡名で、肥前国の南部に位置し、北は杵島郡、東は有明海、南から西は彼杵郡に接します。おおむね現在の鹿島(かしま)市、藤津(ふじつ)郡の地域です。

 『和名抄』は、「布知豆(ふちつ)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』は日本武尊の船がこの津の大きな藤に纜を結んで停泊したことによる、「フチ(縁)・ツ(港)」の意とする説があります。

 この「ふちつ」は、

  「フチ・ツ」、HUTI-TU(huti=pull up,fish with a line;tu=stand,settle)、「引き上げられて高くなった(多良岳山系の山が)・そこにある(地域)」

の転訛と解します。

 

b多良(たら)岳・経(きょう)ケ岳・鹿島(かしま)市・塩田(しおだ)川・嬉野(うれしの)町・ムツゴロウ

 当郡は、佐賀・長崎県境にある多良(たら)岳(1,057メートル)とその北西の経(きょう)ケ岳(1,076メートル)を最高峰とする山地の北部に位置します。『肥前国風土記』には、太良(たら)町多良(たら)に比定される託羅(たら)郷の由来として景行天皇が「食物が豊富なので、豊足(たらひ)の村」と謂われたことによるとあります。

 鹿島(かしま)市の域内には、『延喜式』に肥前国鹿嶋(かしま)牧がみえ、古くは多良岳山系の山麓の丘陵地で馬の放牧が行なわれていたとかんがえられます。

 多良岳山系からは、鹿島(かしま)川、塩田(しおだ)川が流れ、小平地を形成していました。

 塩田川の上流の盆地には、古くから知られた温泉のある嬉野(うれしの)町があります。

 ムツゴロウは、有明海および八代海のみに棲息するハゼ科の魚で、干潟に掘った穴に住み、近くの珪藻を食べ、穴から遠く離れることはないという習性があります。

 この「たら」、「きょう」、「かしま」、「しおだ」、「うれしの」、「ムツゴロウ」は、

  「タラ」、TARA(point as a horn,peak of a moumtain,horn of the moon)、「尖った峰をもつ(山)」

  「キオ」、KIO((Hawaii)projection,protuberance)、「突出した(瘤がある。山)」

  「カ・チマ」、KA-TIMA(ka=take fire,be lighted,burn;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘ったような(山が海へ落ち込む)場所の・居住地(地域)」

  「チオ・タ」、TIO-TA(tio=rock-oyster;ta=dash,beat,lay)、「岩牡蠣(のような山地)が・そこにある(地域。そこを流れる川)」

  「ウレ・チノ」、URE-TINO(ure=penis;tino=essentiality,exact,quite)、「まるで・ペニスのような(嬉野の市街地へ向かって南から北へ伸びる細長い(陰茎のような)山と、市街地の西に丸い(睾丸のような)山がある。地域)」(三重県一志郡嬉野(うれしの)町の地形も全く同様です。)

  「ム・ツ・コロ」、MU-TU-KORO(mu=silent;tu=stand,settle;koro=desire,intend)、「静かに・(棲息する穴に)定着・したがっている(穴の周辺から離れない。魚)」または「ム・ツ・(ン)ガウ・ロウ」、MU-TU-NGAU-ROU(mu=silent;tu=stand,settle,fight with,energetic;ngau=bite,hurt,attack;rou=a long stick used to reach anything,reach or procure)、「静かに(接近して)・勢いよく・長い竿で・襲う(ことで採れる魚)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

の転訛と解します。

 

(10)松浦(まつうら)郡

 

a松浦(まつうら)郡

 古代から明治11年までの郡名で、肥前国の西部に位置し、西は壱岐水道、北は唐津湾、筑前国怡土郡、東は小城郡、南は杵島郡、彼杵郡に接します。明治11年に東西南北の4郡に分割され、おおむね現在の唐津市、東松浦(ひがしまつうら)郡、伊万里市、西松浦(にしまつうら)郡(以上佐賀県)、松浦市、佐世保市、平戸市、北松浦(きたまつうら)郡、福江市、南松浦(みなみまつうら)郡(以上長崎県)の地域です。明治期までは「まつら」と呼び、『魏志倭人伝』の「末廬(まつろ)」国と考えられ、『古事記』、『先代旧事本紀』などに「末羅県」、「末羅国造」の名がみえます。『肥前国風土記』、『延喜式』には松浦郡とあります。中世に水軍を結成した武士団が「松浦党」を名乗って海外でも活躍しましたが、そのうち上松浦が佐賀県、下松浦が長崎県にほぼ相当するとされます。

 『和名抄』は、「万豆良(まつら)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』には神功皇后が願いを込めて鮎を釣り、「希見(めづら)の国」といったことによるとあり、「松の生えた浦」の意、「曲がった湾のあるところ」の意とする説があります。

 この「まつら」は、

  「マツ・ウラ(ン)ガ」、MATU-URANGA(matu=ma atu=go,come;uranga=circumstance of becoming firm,place of arrival)、「(海を越えて)行き来する・(船の)発着する場所(地域)」(「マツ」の語尾のU音と、「ウラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウラ」となった語頭のU音が、連結して「マツラ」となった)

の転訛と解します。

 

b唐津(からつ)市・虹(にじ)の松原・菜畑(なばたけ)遺跡・呼子(よぶこ)港・名護屋(なごや)城・可部(かべ)島

 唐津湾に面する唐津(からつ)市の市名は、朝鮮半島・大陸との関係が深い港であったことによるとする説があります。唐津市の海岸には虹(にじ)の松原があり、市街地の西には縄文晩期の稲作発祥地とも目される菜畑(なばたけ)遺跡があります。

 東松浦半島の北端にある呼子(よぶこ)町は壱岐水道に臨み、上場(うわば)台地の末端の入り江にある呼子港は、その西の鎮西町の太閤秀吉の朝鮮侵攻の拠点となった名護屋(なごや)城を置いた名護屋港とともに、その北に浮かぶ加部(かべ)島が天然の防波堤の役割を果たしている天然の良港で、古来半島・大陸への海上交通の拠点でした。

 この「からつ」、「にじ」、「なばたけ」、「よぶこ」、「なごや」、「かべ」は、

  「カラ・ツ」、KARA-TU(kara=basaltic stone;tu=stand,settle)、「(石器や墓石用の)玄武岩が・ある(地域)」(東松浦半島を占める上場台地は、玄武岩質の溶岩台地です。)

  「ニチ」、NITI(toy dart)、「投げ矢(を投げたような緩い放物線を描いている。砂浜。その松原)」

  「ナ・パタ・ケ」、NA-PATA-KE(na=belonging to;pata=prepare food,seed;ke=different,strange)、「どちらかというと・変わった(今まで知らなかった)・食物(米)をつくる(場所。水田)」

  「イ・オプア・コ」、I-OPUA-KO(i=beside,past tense;opua=porch,verandah of a house;ko=a wooden implement for digging)、「玄関(のように加部島と本土の間に入り江)が・掘られて・いる(場所。港)」(「オプア」の語尾のA音が脱落して「オプ」から「オブ」となり、「イ」と連結して「ヨブ」となった)

  「(ン)ガ(ン)ガウ・イア」、NGANGAU-IA(ngangau=disturbance,noise,quarrel;ia=current,indeed)、「実に・(絶壁の上にあって攻めるのに)障碍がある(城。その土地。そこの港)」(「(ン)ガ(ン)ガウ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ナゴ」となった)(地名篇(その十七)の愛知県の(8)愛智郡のb名古屋市の項を参照してください。)

  「カペ」、KAPE(reject,refuse,separate,eyebrow)、「(波浪を)拒絶する(防波堤のような。島)」

の転訛と解します。

 

c伊万里(いまり)市・有田(ありた)

 伊万里(いまり)市は、伊万里湾に面し、中世には松浦党が割拠し、近世になって焼き物の積み出し港として賑わいました。

 有田焼の里、有田(ありた)は、有田川の上流の狭い山間部に位置しています。

 この「いまり」、「ありた」は、

  「イ・ムア・リ」、I-MUA-RI(i=past tense,beside;mua=the front,the former time,the future;ri=screen,protect,bind)、「(海に向かった)前面が・(外敵の攻撃を防ぐ)障壁となっている・付近一帯(土地。地域)」もしくは「昔は・(海賊の)隠れ家・であった(地域)」または「イ・マリ」、I-MARI(i=past tense,beside;mari=fortunate,lucky)、「(良質の陶土を発見するという)幸運に・恵まれた(土地。地域)」

  「ア・リタハ」、A-RITAHA(a=the...of,belonging to;ritaha=lean on one side,incline)、「傾斜している・土地」(「リタハ」のH音が脱落して「リタ」となった)

の転訛と解します。

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42 長崎県の地名

 

(1)肥前(ひぜん)国

 

 長崎県は、古くは肥前国の西部、壱岐国および対馬国でした。

 肥前国については、前出の佐賀県の(1)肥前国の項を参照してください。

 

(2)松浦(まつうら)郡

 

a松浦(まつうら)郡

 前出の佐賀県の(10)松浦(まつうら)郡の項を参照してください。明治11年に東西南北の4郡に分割され、長崎県分では、北松浦半島と周辺の島嶼(宇久・小値賀の両島を含む)が北松浦郡、宇久・小値賀の両島を除く五島列島が南松浦郡となりました。

 長崎県分については、おおむね現在の松浦市、佐世保市の北部、平戸市、北松浦(きたまつうら)郡、福江市、南松浦(みなみまつうら)郡の地域です。

 

b平戸(ひらど)市・生月(いきつき)島・阿値賀(あじか)島・田平(たびら)町・免(めん)

 北松浦半島の先に平戸(ひらど)市となっている平戸島があり、その北端の平戸は天然の良港で、古代から大陸・半島との海上交通の要地でした。

 平戸島の北西にある宇治川の合戦で先陣争いをした名馬「いけづき」を産したと伝えられる生月(いきつき)島は、『延喜式』に生月馬牧としてみえる南北に細長い溶岩台地の島で、昔遣唐使が荒波を越えてやっといきついた所で「生属」から生月となったと伝えます。

 平戸島の南西にある(上下)阿値賀(あじか)島は、南方系島嶼植物群の北限で、天然記念物となっています。

 平戸島と北松浦半島との間の平戸瀬戸には平戸大橋が架けられ、対岸の吹上山の西の低平な溶岩台地に位置する田平(たびら)町と結んでいます。

 北松浦郡には、「免(めん)」という大字名が広く分布します。

 この「ひらど」、「いきつき」、「あじか」、「たびら」、「めん」は、

  「ヒラ・ト」、HIRA-TO(hira=numerous,great,important;to=drag,open or shut a door or a window)、「大勢の人々(や大量の貨物)が・行き来する(場所。地域)」

  「イキ・ツキ」、IKI-TUKI(iki=sweep away,clean off;tuki=pound,attack,piece attached to the body of a canoe to lengthen it)、「(表面が)拭い去られている・カヌーの延長部のような(島の北部に細長い低平な部分がある。島)」

  「ア・チカ」、A-TIKA(a=the...of,belonging to;tika=straight,direct,keeping a direct course)、「(南洋に)最も・近い(島)」

  「タ・ピララ」、TA-PIRARA(ta=the,dash,beat,lay;pirara=separated,wide apart,branching,dishevelled)、「(平戸島と)離れて・いる(地域)」または「髪の毛を振り乱したような(山腹の台地上の)場所に・ある(地域)」(「ピララ」の反復語尾が脱落して「ピラ」から「ビラ」となった)

  「メネ」、MENE(be assembled)、「(人々が)集まっている(集落。その地域)」

の転訛と解します。

 

c五島(ごとう)列島・小値賀(おぢか)島・知訶(ちか)島・天の忍男(おしを)・両児(ふたご)島・天両屋(あめのふたや)・福江(ふくえ)島・美彌良久(みみらく)の埼・鬼(おん)岳・京(きょう)ノ岳

 五島(ごとう)列島の北に小値賀(おぢか)島があります。

 『古事記』国生みの条に「知訶(ちか)島を生みき。亦の名を天の忍男(おしを)と謂ふ。次に両児(ふたご)島を生みき。亦の名を天両屋(あめのふたや)と謂ふ」とあり、この知訶(ちか)島は小値賀(おぢか)島を含む五島列島と、忍男(おしを)は「多し男(嶋)」と解され、両児(ふたご)島は五島列島の南の男女群島と、天両屋(あめのふたや)は「天(美称)・両屋(ふたつの家のような嶋)」と解されています。

 また『肥前国風土記』松浦郡に値嘉(ちか)郷の記事があり、第一の嶋の名は小近(をちか)、第二の嶋の名は大近(おほちか)といい、景行天皇が「この嶋は遠いが近く見えるので近(ちか)嶋と謂うべし」と言われたので「値嘉(ちか)」となったみえ、遣唐使の船は五島列島の西の停泊地から出て、(福江(ふくえ)島の)美彌良久(みみらく)の埼を経て、西に向かうとみえます。

 五島列島の中で最大の福江(ふくえ)島の南東部には、鬼(おん)岳火山群があり、鬼(おん)岳(315メートル)には直径200メートル、深さ70メートルの火口があり、なだらかな草原となっています。北西部の三井楽(みいらく)町には京(きょう)ノ岳(183メートル)を中心として緩傾斜の楯状火山が広がります。

 この「ごとう」、「おぢか」、「ちか」、「あめのおしを」、「ふたご」、「あめのふたや」、「ふくえ」、「みみらく」、「おん」、「きょう」は、

  「(ン)ガウ・タウ」、NGAU-TAU(ngau=bite,hurt,attack;tau=come to rest,float,settle down,lie steepimg water,beautiful)、「浸食されて・(波の上にゆったりと)浮かんでいる(島々)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」と、「タウ」のAU音がOU音に変化して「トウ」となった)

  「オ・チカ」、O-TIKA(o=the place of;tika=straight,direct,keeping a direct course)、「(大陸に)最も・近い場所(最短距離の。島)」

  「チカ」、TIKA(straight,direct,keeping a direct course)、「(大陸に)近い(最短距離の。島)」

  「ア・メノ・オ・チ・オフ」、A-MENO-O-TI-OHU(a=the...of,belonging to;meno=show off,make display;o=the place of;ti=throw,cast;ohu=beset in great numbers,surround)、「海上に・その姿を見せつけている・多数(の島)が・密集している・場所(列島)」(「オフ」のH音が脱落して「オ」となった)

  「プタ・ア(ン)ゴ」、PUTA-ANGO(puta=opening,move from one place to another.pass through in or out;ango=gape,be consumed,be desolated)、「(船がそこを)経由する・荒廃した(島)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」となったその語尾のA音と、、「ア(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「アゴ」となった語頭のA音が連結して「フタゴ」となった)

  「ア・メノ・プタ・イア」、A-MENO-PUTA-IA(a=the...of,belonging to;meno=show off,make display;puta=opening,move from one place to another.pass through in or out;ia=indeed,current)、「海上に・その姿を見せつけている・実に・(船がそこを)経由する(島)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」となった)

  「フク・ウエ」、HUKU-UE(huku=tail;ue=push,shake,move or steer the canoe)、「(五島列島を)押している・尻尾の(島。そこにある地域)」(「フク」の語尾のU音と「ウエ」の語頭のU音が連結して「フクエ」となった)

  「ミミ・ラク」、MIMI-RAKU(mimi=stream,river;raku=scratch,scrape)、「水が・削り取った(緩傾斜の楯状火山がある。地域)」

  「アウ(ン)ガ」、AUNGA(not including)、「(山体の)中が空っぽな(中に大きな空洞の火口がある。山)」(AU音がO音に、NG音がN音に変化して「オナ」から「オン」となった)

  「キオ」、KIO((Hawaii)projection,protuberance)、「突出した(膨れ上がった。山)」 の転訛と解します。

 

(3)彼杵(そのき)郡

 

a彼杵(そのき)郡

 古代から明治11年までの郡名で、肥前国の西部、長崎県の北部、大村湾を囲む多良岳山系西面および西彼杵半島・長崎半島の地域で、明治11年に分割されて大村湾の東側が東彼杵郡、西側の西彼杵半島・長崎半島が西彼杵郡となり、おおむね現在の佐世保市(北部を除く)、大村市、東彼杵郡、長崎市、西彼杵郡の地域です。

 『和名抄』は、「曽乃支(そのき)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』には景行天皇が土蜘蛛から三色の玉を得て「具足玉(そなひだま)の国」といったのが「彼杵(そのき)」に転じたとあり、「ソ(接頭語)・ノギ(崖地)」の意、「大村湾を挟んで分岐した地」の意とする説があります。

 この「そのき」は、

  「ト・(ン)ガウ・キ」、TO-NGAU-KI(to=drag,open or shut a door or a window;ngau=bite,hurt,attack;ki=full,very)、「(潮の干満に応じて)出入りする潮流が・激しく・襲ってくる(地域。大村湾を囲む地域)」(「ト」ガ「ソ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)または「トノ・キ」、TONO-KI(tono=bid,command,demand;ki=full,very)、「(海が)勝手気ままに・振る舞っている(潮の干満が大きく激しい。地域)」

の転訛と解します。

 

b佐世保(させぼ)湾・高後(こうご)崎・針尾(はりお)島・伊ノ(いの)浦瀬戸・早岐(はいき)ノ瀬戸(速来門(はやきのと))・大村(おおむら)湾・郡(こおり)川

 佐世保(させぼ)市の南に沈水によってできた深い湾入をもつ佐世保(させぼ)湾があり、水深が深く大型船の停泊に適し、湾口の北側高後(こうご)崎と南側西彼杵半島の寄船鼻(よりふねばな)(後出のc寄船鼻の項を参照してください。)との間は僅か800メートルで、周囲は数百メートルの山に囲まれて風波を凌ぐことができる天然の良港となっています。

 佐世保湾の南の大村(おおむら)湾との間には、針尾(はりお)島があり、ごく狭い針尾(はりお)瀬戸(西側。伊ノ(いの)浦瀬戸とも)と早岐(はいき)ノ瀬戸(東側。『肥前国風土記』には「速来門(はやきのと)」とあります)によって通じています。

 大村湾は、海水の外洋との交換が少なく、東岸には郡(こおり)川による大村扇状地が張り出し、西岸・南岸は入り江が多いリアス式海岸となっています。

 この「させぼ」、「こうご」、「はりお」、「いの」、「はいき(はやき)」、「おおむら」、「こおり」は、

  「タタイ・ポウ」、TATAI-POU(tatai=measure,,arrange,adorn;pou=pole,errect a stick,make a hole with a stake)、「長い棒で穴を掘って・(周囲を)飾ったような(深い湾。その地域)」(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」から「サセ」となった)

  「コウ・(ン)ゴ」、KOU-NGO(kou=knob,stump;ngo=cry)、「悲鳴をあげている・瘤(のような岬。潮の干満に応じて激しく音を立てて流れる潮流がある岬)」(「(ン)ゴ」のNG音がG音に変化して「ゴ」となった)

  「パリ・オフ」、PARI-OHU(pari=flowing of the tide,flow over;ohu=surround)、「激しい潮の流れが・(周囲を)取り囲んでいる(島。その島のそばの海峡)」(「パリ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハリ」と、「オフ」のH音が脱落して「オ」となった)

  「イノ」、INO((Hawaii)injure,hurt,storm,stormy)、「嵐が襲うような(激しい潮流が流れる。浦。そのそばの海峡)」

  「ハ・イキ」、HA-IKI(ha=breathe,what!;iki=sweep away,clean off)、「(潮の干満によって)呼吸しながら・押し流す(潮流。その流れる海峡)」または「ハ・イア・キ」、HA-IA-KI(ha=breathe,what!;ia=current,indeed;ki=full,very)、「実に・膨大に(短時間に大量の)・呼吸する(潮の干満に応じて潮流が流れる。海峡)」

  「オ・ウム・ウラ(ン)ガ」、O-UMU-URANGA(o=the place of;umu=earth-oven;uranga=circumstance of becoming firm,place of arrival)、「(水路の)終点にある・蒸し焼き穴のような・場所(湾。そこにある土地)」(「ウム」の語尾のU音と、「ウラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウラ」となったその語頭のU音が連結して「ウムラ」となった)

  「コ・オリ」、KO-ORI(ko=a wooden implement for digging;ori=cause to wave to and fro,sway,move about)、「ふらふらと方向を変えながら・鍬を揮うように掘り進む(川)」

の転訛と解します。

 

c寄船鼻(よりふねばな)・角力(すもう)灘・外海(そとめ)町・内海(うちめ)・長崎(ながさき)市・茂木(もぎ)・香焼(こうやぎ)島・陰ノ尾(かげのお)島・野母(のも)崎

 西彼杵半島の北端、佐世保湾の湾口に寄船鼻(よりふねばな)があります。

 半島の西側、角力(すもう)灘に面する外海(そとめ)町の町名は、中世以来の西彼杵半島の中央の分水嶺の東側、大村湾側を内目(うちめ)・内海(うちめ)と呼ぶのに対し、西側、五島灘に臨む一帯を外目(そとめ)・外海(そとめ)と呼んだ広域地名によります。

 長崎(ながさき)市は、西彼杵半島と長崎半島の結節点にある細長い長崎湾にある県庁所在市で、近世の鎖国時代において海外文化流入の拠点として大きな役割を果たしました。市名は、中世からの地名によりますが、地頭の長崎氏による、「長い岬となっている高台のある所」の意とする説があります。

 市の南部、長崎半島東側の天草灘に面したビワの栽培で有名な茂木(もぎ)は、半島東側で唯一比較的大きな川と良港がある地で、長崎とともに肥前領主大村氏によってイエズス会に教会領として寄進されたため、国内に治外法権の外国領が出現拡大するのを恐れた秀吉によって収公され、キリシタン禁令が出されるきっかけとなった土地です。ビワの大果の品種茂木(もぎ)は、天保・弘化(1830-48)の頃貿易船によって中国からもたらされた種子から茂木地方で育成されたと伝えられます。

 香焼(こうやぎ)町は、長崎湾に浮かんでいた香焼(こうやぎ)島と陰ノ尾(かげのお)島(両島は戦後埋め立てによって長崎半島と陸続きになりました)からなり、その名は弘法大師が護摩法を修した際その香気が染み通ったからとの説があります。

 長崎半島の先端の野母(のも)崎は、陸繋島の権現山(198メートル)の先端に位置しています。

 この「よりふねばな」、「すもう」、「そとめ」、「うちめ」、「ながさき」、「もぎ」、「こうやぎ」、「かげのお」、「のも」は、

  「イ・オリ・フネイ・パナ」、I-ORI-HUNEI-PANA(i=past tense,beside;ori=cause to wave to and fro,sway,move about;hunei,huneinei=anger,vexation,resentment;pana=thrust or drive away,expel,cause to come or go forth in any way)、「(潮流が)荒れ狂って・渦を巻きながら流れる・そばに・突き出ている(岬)」

  「ツ・モモウ」、TU-MOMOU(tu=fight with,energetic;momou=struggle,wrestle)、「激しく・取組み合いをするような(海)」(「モモウ」の反復音が脱落して「モウ」となった)

  「トト・マイ」、TOTO-MAI(toto=ooze,gush forth,spring up;mai=to indicate direction or motion towards)、「(潮流が)奔流して・ゆく(場所。地域)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「ウチ・マイ」、UTI-MAI(uti=bite;mai=to indicate direction or motion towards)、「(潮流を)呑み込んで・ゆく(場所。地域)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「(ン)ガ(ン)ガ・タハキ」、NGANGA-TAHAKI(nganga=breathe heavily or with difficulty;tahaki=one side,the shore)、「息が苦しいほど喉が締め付けられている(口の狭い細長い入り江の)・(片方の)海岸(の土地。地域)」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガ」と、「タハキ」のH音が脱落して「タキ」から「サキ」となった)

  「モ(ン)ギ」、MONGI(water)、「水(に恵まれた。地域)」(NG音がG音に変化して「モギ」となった)

  「コウ・イ・ア(ン)ギ」、KOU-I-ANGI(kou=knob,stump;i=past tense,beside;angi=free,move freely,float)、「(海に)浮いて・いた・瘤のような(島)」(「ア(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「アギ」となった)

  「カ・ア(ン)ガイ・ノホ」、KA-ANGAI-NOHO(ka=take fire,be lighted,burn;angai=north-north-west wind,on the west coast;noho=sit,settle)、「(長崎半島の)西側の海岸に・ある・居住地(の島)」(「カ」のA音と、「ア(ン)ガイ」のNG音がG音に、AI音がE音に変化した「アゲ」の語頭のA音が連結して「カゲ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノオ」となった)

  「ノホ・オモ」、NOHO-OMO(noho=sit,settle;omo,omoomo=gourd)、「瓢箪(権現山)が・そこにある(岬)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となったその語尾のO音と「オモ」の語頭のO音が連結して「ノモ」となった)

の転訛と解します。

 

(4)高来(たかき)郡

 

a高来(たかく)郡

 古代から明治11年までの郡名で、肥前国の南部、県の南東部、多良岳の南面と島原半島に位置し、明治11年に南北高来郡に分割され、おおむね現在の諫早市、北高来郡、島原市、南高来郡の地域です。

 『和名抄』は、「多加久(たかく)」と訓じます。郡名は、『肥前国風土記』には景行天皇が肥後国玉名から見て島か陸続きの山かを確かめさせたところ、山の神「高来津座(たかくつくら)」が出てきたので「高来(たかく)」というとあり、「タカ(高)・ク(コに同じ。場所を示す接尾語)」で「高いところ」の意とする説があります。

 この「たかく」は、

  「タ・カク」、TA-KAKU(ta=the,dash,beat,lay;kaku=scrape up,scoop up,bruise)、「ひどく・盛り上がっている(または傷付けられている。地域)」

の転訛と解します。

 

b諫早(いさはや)市・雲仙(うんぜん)岳・普賢(ふげん)岳・眉(まゆ)山・島原(しまばら)市・千々石(ちぢわ)町・早崎(はやさき)瀬戸(瀬詰(せづめ)ノ瀬戸)

 多良岳の南面および島原半島・長崎半島の付け根に位置する諫早(いさはや)市の市名は、中世の荘園名に由来します。

 島原半島の主部を占める雲仙(うんぜん)岳は、古くは温泉岳とも表記され(この名で特別名勝に指定されています)、これまで何回も噴火を繰り返してきた主峰普賢(ふげん)岳(1,359メートル)を中心として多くの火山群から成っています。

 普賢岳の東の側火山である眉(まゆ)山(819メートル)の東麓の扇状地に、古来「水の都」と称され、湧水の多い島原(しまばら)市が立地します。

 千々石(ちぢわ)町は、島原半島の西部にあり、三方を雲仙岳に囲まれ、雲仙岳を東西に横切る千々石断層崖の下に位置する町で、橘湾(千々石湾ともいう)に面しています。

 有明海の入り口、島原半島の南端瀬詰崎と熊本県天草下島の間に、早崎(はやさき)瀬戸(瀬詰(せづめ)ノ瀬戸)があります。

 この「いさはや」、「うんぜん」、「ふげん」、「まゆ」、「しまばら」、「ちぢわ」、「はやさき(せづめ)」は、

  「イ・タハ・イア」、I-TAHA-IA(i=beside,past tense;taha=side,edge,part(tahataha=slope of a hill);ia=indeed,current)、「実に・(多良岳の)山麓の・そばの(地域)」

  「ウヌ・テ(ン)ガ」、UNU-TENGA(unu=pull off,draw out,bring out;tenga=Adam's apple,goitre)、「(溶岩が)引っ張り出されて来る・喉ぼとけのように膨らんだ(山)」(「ウヌ」が「ウン」と、「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「セン」、「ゼン」となった)

  「フ・(ン)ゲネ」、HU-NGENE(hu=promontory,hill;ngene=scrofulous wen,wrinkle)、「るいれきのように醜い瘤をもつ・山」(「(ン)ゲネ」のNG音がG音に変化して「ゲネ」から「ゲン」となった)

  「マ・イフ」、MA-IHU(ma=white,clean;ihu=nose,bow of a canoe)、「清らかな・鼻のような(山)」

  「チマ・パラ」、TIMA-PARA(tima=a wooden implement for cultivating the soil;para=cut down bush,clear)、「藪を切り開いた原野を・掘り棒で掘った(水路をつけた。地域)」

  「チチワ」、TITIWHA(=tiwha=patch,spot,rings of shell inserted in carved work generally as eyes for grotesque figures)、「(貝殻を目玉として木彫にはめ込んだような)窪み(の場所。地域。湾)」

  「ハ・イア・タキ」、HA-IA-TAKI(ha=breathe,what!;ia=current,indeed;taki=track,lead,bring along)、「(潮の干満に応じて)呼吸する・潮流を・導く(海峡)」

  「テ・ツ・マイ」、TE-TU-MAI(te=the,crack;tu=fight with,energetic;mai=to indicate direction or motion towaeds)、「(潮流が)激しく・流れて行く・割れ目(海峡)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

 

(5)壱岐(いき)国

 

 壱岐(いき)国(壱岐嶋)は、九州北部、北松浦半島から壱岐水道を隔てて玄界灘に浮かぶ島で、西海道の一国として扱われました。壱岐、石田の2郡からなります。国府・国分寺は、壱岐郡芦辺町とされます。地形は全体的に低平な標高100メートル余の玄武岩の溶岩台地で、分水嶺は西に偏しています。

 『和名抄』は、壱岐嶋に「由岐(ゆき)」と訓じます。壱岐の嶋名は、『魏志倭人伝』に「一支(いき)国」とあり、『古事記』国生み条に「伊伎(いき)島を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばしら)と謂ふ」とあり、波しぶきが雪のように立つところからユキと呼ばれた(貝原益軒)、雪の浜という白砂の浜から、旅路で息をつくところから、斉忌(ゆき)から、鯨来(いさき)から、「イキ(オキに通じ、沖にある島)」の意などの説があります。

 この「いき」、「ゆき」、「あめひとつばしら」は、

  「イキ」、IKI(consume,sweep away,clear off)、「表面を拭い去ったような(島。そこの国)」(古典篇(その四)の04一支国の項を参照してください。)

  「イフ・キ」、IHU-KI(ihu=nose;ki=full,very)、「鼻(のような岬)が・たくさんある(島)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」となった)

  「アマイ・ヒタウ・ツ・パチ・ラ」、AMAI-HITAU-TU-PATI-RA(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;hitau=short petticoat or apron;tu=stand,settle,fight with,energetic;pati=ooze,splash,shallow;ra=wed)、「海の上に浮かんでいる・白い波しぶきを・付けた・エプロンを・(周りに)装着している(島)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「ヒタウ」のAU音がO音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

 

(6)壱岐(いき)郡

 

a壱岐(いき)郡

 古代からの郡名で、壱岐島の北部に位置し、おおむね現在の壱岐郡勝本町、芦辺町の地域です。明治29年に石田郡を合併しました。

 『和名抄』は、訓を欠きます。郡名は、前の(5)壱岐(いき)国の項を参照してください。

 

b勝本(かつもと)町(風本(かざもと))・名烏(ながらす)島・原ノ辻(はるのつじ)遺跡・触(ふれ)

 島の北西端の勝本(かつもと)町は、前面にある名烏(ながらす)島が天然の防波堤をなす良港で、古来から大陸との交通の要地でした。町名は、神功皇后が新羅から凱旋した際、風本(かざもと)を勝本に改めたと伝えます。

 芦辺町と石田町にまたがった低段丘上に弥生時代の大規模な集落遺跡の原ノ辻(はるのつじ)遺跡があります。

 島内の集落は、触(ふれ)と呼ばれる散村形式の農村と、浦(うら)と呼ばれる集村形式の漁村から成ります。触(ふれ)の語源は、その長が藩命を触れるから、朝鮮語のプル(村)からなどの説があります。江戸時代に触の中では10年ごとに田畑が割り替えられた(所有権はなく、耕作権だけが平等に割り当てられた)といいます。(浦については、後出の(2)石田郡の郷ノ浦町の項を参照してください。)

 この「かざもと」、「ながらす」、「はるのつじ」、「ふれ」は、

  「カタ・モト」、KATA-MOTO(kata=opening of shellfish;moto=strike with the fist)、「拳骨で殴られた(不整形の)・貝が口を開けたような(入り江がある。港。地域)」

  「ナ・(ン)ガラ・ツ」、NA-NGARA-TU(na=the...of,belonging to;ngara=snarl;tu=fight with,energetic)、「しきりに・文句を言っている・ような(波が打ち寄せる音が・うるさい。島)」(「(ン)ガラ」のNG音がG音に変化して「ガラ」と、「ツ」が「ス」となった)

  「パル・(ン)ガウ・ツ・チヒ」、PARU-NGAU-TU-TIHI(paru=crush,mud,deep,low;ngau=bite,hurt,attack;tu=stand,settle;tihi=summit,top,raised fortification with in a stockade)、「深く・掘られた(環濠がある)場所に・ある・柵を引き回した居住地(遺跡)」(「パル」のP音がF音を経てH音に変化して「ハル」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「ジ」ととなった)

  「フ・レイ」、HU-REI(hu=silent,guiet;rei=leap,run(whakarei=throw,scatter))、「静かな・とびとびに(住居がある。集落)」(「レイ」が「レ」となった)または「プレ」、PURE(arrange in tufts or patches(purei=cluster,isolated group or patch of anything))、「(ばらばらの)小さな地面を割り当てる(集落)」(P音がF音を経てH音に変化して「フレ」となった)

の転訛と解します。

 

(7)石田(いしだ)郡

 

a石田(いしだ)郡

 古代からの郡名で、壱岐島の南部に位置し、おおむね現在の壱岐郡石田町、郷ノ浦町の地域です。明治29年に壱岐郡に合併されました。

 『和名抄』は、「伊之太(いした)」と訓じます。郡名は、「石のあるところ」の意とする説があります。

 この「いした」は、

  「イ・チタハ」、I-TITAHA(i=past tense,beside;titaha=lean to one side,pass on one side)、「(一方に向かって)傾斜している・付近一帯(の土地。地域)」(「チタハ」のH音が脱落して「チタ」から「シダ」となった)

の転訛と解します。

 

b印通寺(いんどうじ)港・妻ケ(つまが)島・郷ノ浦(ごうのうら)町・岳(たけ)ノ辻

 島の南東部の石田町の中心地、印通寺(いんどうじ)は古代の交通の要地で、港の入り口に天然の防波堤の妻ケ(つまが)島があります。

 島の南西部の郷ノ浦(ごうのうら)町は、展望の良い岳(たけ)ノ辻(213メートル)を最高点とする溶岩台地が広がり、海岸は屈曲が多く良港となっています。

 この「いんどうじ」、「つまが」、「ごうのうら」、「たけのつじ」は、

  「イ・(ン)ゴト・ウチ」、I-NGOTO-UTI(i=past tense,beside;ngoto=head,be deep,penetrate;uti=bite)、「食いちぎられた・頭(のように突き出た岬)の・そば(にある港)」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノト」から「ンド」となった)

  「ツ・マ(ン)ガ」、TU-MANGA(tu=stand,settle;manga=branch of a tree or a river;watercourse,ditch)、「(船が航行する)水路(の中)に・位置している(島)」(「マ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「マガ」となった)

  「(ン)ガウ・ノホ・ウラ(ン)ガ」、NGAU-NOHO-URANGA(ngau=bite,hurt,attack;noho=sit,settle;uranga=circumstance of becoming firm,place of arrival)、「食いちぎられた場所(入り江)に・位置している・(船が)到着する場所(船着場。港。浦。その地域)」(「ウラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウラ」となった)

  「タケ・(ン)ガウ・ツ・チヒ」、TAKE-NGAU-TU-TIHI(take=stump,base of a hill;ngau=bite,hurt,attack;tu=stand,settle;tihi=summit,top,raised fortification with in a stockade)、「どっしりと長い裾を引いている・浸食されたような(低平な山で)・最も高い位置に・ある(山)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「ジ」ととなった)

の転訛と解します。

 

(8)對馬(つしま)国

 

 対馬(つしま)国(対馬嶋)は、壱岐島の北部、対馬海峡を隔てて朝鮮半島との間に浮かぶ島で、西海道の一国として扱われました。上縣、下縣の2郡からなります。国府は、下縣郡厳原町とされます。地形は全体的に険しい山々が連なり、中央部に西から浅茅湾が深く湾入し、分水嶺は東に偏しています。

 『和名抄』は、對馬嶋を「都之万(つしま)」と訓じます。對馬の嶋名は、『魏志倭人伝』には「對馬(ついま。つしま)国」とあり、『古事記』国生み条に「津島(つしま)を生みき。亦の名は天之狭手依(あめのさでより)比売と謂ふ」とあり、「津(港)の島」の意、「(上縣・下縣の2島が)相対する島」の意、「ツツ(崖地)の島」の意などとする説があります。

 この「つしま」、「あめのさでより」は、

  「ツ・チマ」、TU-TIMA(tu=stand,settle;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような地形(湾)が・ある(島)」(古典篇(その四)の01対馬国の項を参照してください。)

  「アマイ・ノ・タタイ・イオ・リ」、AMAI-NO-TATAI-IO-RI(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;no=of;tatai=measure,arrange,adorn;io=muscle,line,spur,lock of hair;ri=screen,protect,bind)、「海の上に浮かんで・いる・飾られた(美しい)・山の・衝立のような(島)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」から「サデ」となった)

の転訛と解します。

 

(9)上縣(かみつあがた)郡

 

a上縣(かみつあがた)郡

 古代からの郡名で、島の北部に位置し、おおむね現在の上県(かみあがた)郡の地域です。中世から元禄までの間、郡内に旧郷が豊崎郡、佐護郡、伊奈郡、三根郡(以上上縣郡内)、仁位郡、与良郡、佐須郡、豆酸郡(以上下縣郡内)の8郡として編成されています。

 『和名抄』は、加无津阿加多(かむつあかた)」と訓じます。郡名は、上(かみ)にある県(あがた。その地域を統治する豪族の勢力圏)の意で、古代にはここに九州から直行する港があったとされます。

 この「かむつあかた」は、

  「カム・ツ・ア(ン)ガ・タ」、KAMU-TU-ANGA-TA(kamu=eat;tu=stand,settle;anga=driving force,thing driven etc.;ta=dash,beat,lay)、「強制する力が・ある(行政機構。県)の・力が果てる場所に・位置する(地域)」(「ア(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「アガ」となった)

の転訛と解します。

 

b佐須奈(さすな)港・比田勝(ひたかつ)港

 西海岸には佐須奈(さすな)港、東海岸には比田勝(ひたかつ)港があります。

 この「さすな」、「ひたかつ」は、

  「タ・ツ(ン)ガ」、TA-TUNGA(ta=the,dash,beat,lay;tunga=circumstance of standing,site,wound,decayed,worn-eaten of timber)、「虫に喰われたような(入り江がある)・場所(の港)」

  「ヒタカ・ツ」、HITAKA-TU(hitaka=whipping-top;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「せわしなく・(鞭で回す)独楽を回している(活気に溢れている。港)」

の転訛と解します。

 

(10)下縣(しもつあがた)郡

 

a下縣(しもつあがた)郡

 古代からの郡名で、浅茅湾を含む島の南部に位置し、おおむね現在の下県(しもあがた)郡の地域です。

 『和名抄』は、訓を欠きます。郡名は、下(しも)にある県(あがた。その地域を統治する豪族の勢力圏)の意とされます。

 この「しもつあがた」は、

  「チモ・ツ・ア(ン)ガ・タ」、TIMO-TU-ANGA-TA(timo=peck as a bird,prik;tu=stand,settle;anga=driving force,thing driven etc.;ta=dash,beat,lay)、「強制する力が・ある(行政機構。県)の・鳥がつついたような場所(浅茅湾)が・そこにある(地域)」(「ア(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「アガ」となった)

の転訛と解します。

 

b浅茅(あそう)湾・鶏知(けち)・厳原(いづはら)・矢立(やたて)山・豆酸(つつ)

 対馬の西海岸の中央部には、典型的なリアス式海岸の浅茅(あそう)湾があります。

 浅茅湾の最奥部の近くに中世に対馬を支配した阿比留氏の本拠地であった美津島町鶏知(けち)があります。

 対馬支庁があり、対馬藩宗家の墓所がある厳原(いづはら)町には、博多とフエリーで結ぶ厳原港、対馬最高峰の矢立(やたて)山(649メートル)があり、また難解地名として知られる豆酸(つつ)があります。

 この「あそう」、「けち」、「いづはら」、「やたて」、「つつ」は、

  「アト・フ」、ATO-HU(ato=enclose in a fence;hu=promontory,hill)、「山々に・囲まれている(湾)」(「アト」が「アソ」と、「フ」のH音が脱落して「ウ」となった)

  「ケ・エチ」、KE-ETI(ke=different,strange;eti=shrink,recoil)、「異常に・尻込みしている(港の近くでなく、内陸に入ったところに立地している。場所)」(「ケ」のE音と「エチ」の語頭のE音が連結して「ケチ」となった)

  「イツ・ハラ」、ITU-HARA(itu=side;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「祖先の墳墓の地の・そば(地域)」

  「イア・タタイ」、IA-TATAI(ia=indeed;tatai=measure,arrange,adorn)、「実に・飾られた(美しい。山)」(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「ツツ」、TUTU(hoop for holding open a hand net)、「手網の支柱のような(U字形の岬がある。土地)」(地名篇(その十五)の石川県の(10)珠洲郡の項を参照してください。)

の転訛と解します。

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<修正経緯>

 

1 平成14年11月1日

 福岡県の(20)竹野郡のb田主丸町の項に「河童(かっぱ。えんこう。がわたろ)を追加しました。

2 平成15年1月1日

 佐賀県の(8)杵島郡のbの項に「有明(ありあけ)海」を追加しました。

3 平成16年12月1日

 福岡県の(1)筑前国の白日別の解釈の一部を修正、(2)怡土郡の「いかづちやま」の別解釈を追加、(6)席田郡の解釈を修正、(10)鞍手郡の直方市の別解釈を追加、(12)穂波郡の別解釈を追加、(13)野洲郡の秋月の解釈の一部を修正、(16)御笠郡の解釈の一部を修正、(28)豊前国の豊日別の解釈を一部修正し、

 佐賀県の(2)肥前国の建日向日豊久士比泥別の解釈の一部を修正、(9)藤津郡のムツゴロウの別解釈を追加、(10)松浦郡の呼子の解釈を修正しました。

4 平成17年8月1日

 長崎県の(3)のcの項に茂木ビワの由来の説明を補充しました。

5 平成19年2月15日

  インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

6 平成22年9月1日

 福岡県の(3)志麻郡の芥屋の大門の項に玄界灘の解釈を追加しました。

7 平成22年10月1日

 福岡県の(9)遠賀郡のa遠賀郡の項に「遠賀川」を追加し、「遠賀」の解釈を修正しました。

8 平成26年12月1日

 福岡県の(9)遠賀郡のb洞海湾の項に「洞海(くきのうみ)」および「江(え)川]を追加し、「洞海(どうかい)」および「八幡(やわた)」の解釈を削除しました。

 

地名篇(その十八)終り


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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