地名篇(その十)

(平成13-2-1書込み。28-5-1最終修正)(テキスト約53頁)


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目 次<関東地方の地名(その三)(千葉県・東京都(区部))>

12 千葉県の地名

 総(ふさ)国(上総(かずさ)国、下総(しもうさ)国)葛飾郡関宿町・古布内(こぶうち)野田市流山市柏市・布施・戸張松戸市・矢切の渡し鎌ヶ谷市市川市・行徳・国府台(こうのだい)・真間(まま)船橋市・海老川・飛の台・夏見潟千葉郡・千葉市花見川・都川・村田川・幕張・検見(けみ)川・稲毛・蘇我・生実(おゆみ)・加曽利・犢橋(こてはし)・土気(とけ)印旛郡印旛沼・鹿島川・神崎川・長門川・けとう佐倉市・八街市・酒々井(しすい)町印西市・木下(きおろし)相馬郡我孫子市・布佐手賀沼・手下浦・弁天川埴生郡成田市・根木名(ねこな)川・三里塚香取郡佐原市・十六島小見川町・多古町海上郡銚子市・犬吠(いぬぼう)埼・外川(とかわ)飯岡町・屏風ケ浦・刑部(ぎょうぶ)岬匝瑳(そうさ)郡椿海・刑部川八日市場市・生尾(おいお)

 市原郡養老川・能満(のうまん)・五井望陀(まうた)郡袖ヶ浦市・馬来田(まくた)・百目木(どうめき)・木更津市畔蒜(あひる)郡・小櫃(おびつ)川・久留里周准(すえ)郡君津市・小糸川・鹿野(かのう)山・鬼泪(きなだ)山天羽(あまは)郡富津市・金谷・明鐘(みょうがね)岬武射(むさ)郡成東町・作田川山辺(やまのべ)郡東金市・真亀川長柄(ながら)郡茂原市・南白亀(なばき)川夷隅(いすみ)郡太東(たいとう)崎・御宿町・網代(あじろ)湾・勝浦市・行川(なめかわ)・おせんころがし・粟又(あわまた)の滝

 安房国安房郡館山市・相浜・布良(めら)洲崎・大房崎・北条海岸・那古町船形平群(へぐり)郡鋸山・富山(とみさん)・金比羅峰・観音峰岩井海岸朝夷(あさひな)郡忽戸(ごっと)の鼻・野島崎長狭(ながさ)郡鴨川市・東条御厨・太海(ふとみ)清澄山

 

13A 東京都の地名(区部)

 

 武蔵国南葛飾郡葛飾区金町水元柴又高砂・曲金青戸小菅亀有・亀無・堀切・四つ木江戸川区小岩鹿本(ししもと)・鹿骨(ししほね)篠崎平井・平江・逆井(さかい)墨田区隅田川向島鐘ケ淵牛島・押上横網錦糸江東区深川・小名木(おなぎ)川猿江亀戸富岡砂町足立区千住綾瀬西新井舎人(とねり)・古千谷(こちや)・伊興保木間豊島郡北区王子・岸赤羽・岩淵・志茂(しも)浮間滝野川神谷・十條田端荒川区三河島・町屋日暮里(にっぽり)尾久台東区浅草橋場・今戸・花川戸・駒形千束(せんぞく)・山谷(さんや)・待乳(まっち)山下谷・入谷上野・忍(しのぶ)が岡・不忍(しのばず)池根岸・三ノ輪練馬区白子川・石神井川・貫井(ぬくい)川土志田(としだ)・谷原・田柄・羽沢板橋区成増・赤塚舟渡・蓮根・徳丸志村・茂呂(もろ)豊島区池袋雑司ヶ谷巣鴨駒込・染井新宿区淀橋・成子坂・角筈(つのはず)・十二社(じゅうにそう)柏木・小滝(おたき)橋・中井戸塚・早稲田・鶴巻牛込・神楽坂・大曲・市ヶ谷・合羽坂四谷・須賀町渋谷区古川・宇田川・道玄坂・宮益坂・広尾代々木・幡ヶ谷・牛窪千駄ヶ谷・穏田(おんでん)文京区小石川大塚・茗荷(みょうが)谷・小日向千駄木・団子坂・根津・湯島千代田区江戸・千代田・宝田・祝田麹町・平河町・日比谷・山王・弁慶濠神田・飯田坂中央区茅場町・鉄砲洲・霊岩島港区赤坂・一ツ木・霊南坂麻布・六本木・狸穴(まみあな)芝・愛宕(あたご)山・白金(しろかね)・高輪・三田荏原郡目黒区駒場・鷹番・権之助(ごんのすけ)坂・行人(ぎょうにん)坂碑文谷・衾(ふすま)・呑(のみ)川品川区大井・大崎戸越・中延・蛇窪・立会(たちあい)川大田区大森・馬込・池上・洗足池蒲田・六郷・羽田・糀谷・矢口の渡し・鵜の木世田谷区池尻・代田・横根駒沢・馬引沢・弦巻用賀・瀬田・野毛・等々力(とどろき)渓谷・二子千歳・粕谷・祖師谷・仙(せん)川砧(きぬた)・野(の)川・大蔵・宇奈根・喜多見多摩郡中野区神田川・十貫(じっかん)坂・雑色(ぞうしき)野方(のがた)・妙正寺(みょうしょうじ)川・江古田(えごた)・沼袋(ぬまぶくろ)・新井(あらい)杉並区阿佐ヶ谷・天沼井草・遅野井(おそのい)・善福寺川・荻窪・成宗・田端高井戸・久我山・浜田山・永福・和泉・尻割(けつはり)坂

<修正経緯>

<関東地方の地名(その三)>

 

12 千葉県の地名

 

(1) 総(ふさ)国(上総(かずさ)国、下総(しもうさ)国)

 

 総国は、現在の千葉県、茨城県南西部の一部、埼玉県東部の一部の地域です。関東平野の東部、房総半島と利根川下流の流域、江戸川の流域の地域で、北は常陸国、西は武蔵国に接しています。この地域は、古くは「総(ふさ)」といい、7世紀後半の令制国の建置にともなつて上総(かずさ)国と下総(しもうさ)国が成立し、のちに養老2(718)年に上総国から4郡が分かれて安房国が成立しました(天平13(741)年から天平宝字1(757)年まで上総国に併合)。

 『国造本紀』によれば、成務朝に須恵(すえ)、馬来田(うまくた)、上海上(かみつうなかみ)、伊甚(いしみ)、武社(むさ)、菊麻(くくま)、阿波(あわ)の国造が定まり、応神朝に印波(いんば)、下海上(しもつうなかみ)の国造が定まつたといい、これ以外に長狭(ながさ)、千葉の国造の名が見えます。

 安房国が分かれた後の上総国は、須恵、馬来田、上海上、伊甚、武社、菊麻の国造の地域に、下総国は、印波、下海上、千葉の国造の、安房国は阿波、長狭の国造の地域にあたります。

 『延喜式』では、(1)上総国に市原、海上、畔蒜(あひる)、望陀(まうた)、周淮(すえ)、天羽(あまは)、夷隅(いしみ)、埴生(はにゅふ)、長柄(ながら)、山辺、武射(むさ)の11郡が、

(2)下総国に葛飾(かとしか)、千葉(ちば)、印旛(いんば)、匝瑳(そうさ)、海上、香取(かとり)、埴生(はにゅふ)、相馬(そうま)、猿島(さしま)、結城(ゆうき)、豊田(とよた)の11郡が、

(3)安房国に平群(へぐり)、安房(あわ)、朝夷(あさひな)、長狭の4郡が記載されています。

 この三国については、古代の郡名に日本語では意味不明のものが非常に多くありますので、以下この古代の郡名を中心に解釈したいと思います。

 「ふさ」の語源は、(1) 『古語拾遺』によると、「天富命が阿波国から斎部氏を率いて東上し、麻を植えたところ、好い麻が生えたので、総(古語の麻を総という)の国という」とあり、

(2) 『風土記逸文』には、「総とは木の枝をいう。昔この国に大きな数百丈の楠が生えたが、大凶事との卜占が出たので切り倒したところ、南に倒れたので、上の枝を上総といい、下の枝を下総という」とありますが、いずれも根拠が弱く、

(3) 「塞ぐ」からで「山などが周囲にある土地」の意、

(4) 「フシ」の転で「高所」の意とする説などがあります。

 『和名抄』は「加三豆不佐」、「之毛豆不佐」と訓じています。

 この「ふさ」は、マオリ語の

  「フ・タ」、HU-TA(hu=promontry,hill;ta=dash,beat,lay,allay)、「浸食された丘陵(がある地域)」

の転訛と解します。『和名抄』に下総国相馬郡布佐(ふさ)郷がみえ、現千葉県我孫子(あびこ)市東端の布佐の地に比定されますが、これも同義と解されます(我孫子市の項を参照してください)。

 

(2) 葛飾(かつしか)郡

 

a 葛飾郡

 葛飾郡のうち江戸川東岸の地域及び南相馬郡の地域が現千葉県東葛飾郡に編入されています。葛飾郡のうち、現千葉県に属する地域は、おおむね現東葛飾郡関宿町、野田市、流山市、柏市(東北部の一部を除く。)、松戸市、鎌ヶ谷市、市川市、船橋市(東部の約半分の地域を除く。)の地域です。(葛飾郡については、埼玉県の地名の武蔵国の葛飾郡の項を参照してください。)

 この地域の中央を旧江戸川(古利根川)、旧太日(ふとひ)川(渡良瀬川下流)がほぼ真っ直ぐに流れていましたが、江戸時代初期に関宿から松伏町までの洪積台地を開削して太日川に通水し、承応3(1654)年には利根川本流の付け替え工事が完成して、現江戸川が利根川の支流となりました。

 この「葛飾」は、『和名抄』は「加止志加(かとしか)」と訓じ、武蔵野野東方に続く原野で、葛(くず)が繁茂していたことによるとされています。

 この「かとしか」は、マオリ語の

  「カト・チカ」、KATO-TIKA(kato=flowing,flood of the tide;tika=straight,direct,keeping a direct course)、「真っ直ぐ流れる(旧江戸川・旧太日川の流域の地域)」

の転訛と解します。

 

b 関宿(せきやど)町・古布内(こぶうち)

 千葉県北西端、東葛飾郡の町で、利根川と江戸川の分岐点に位置します。町名は、利根川付け替え後の江戸時代の水運の要衝として寛永18(1641)年に川関所が置かれ、宿場であったことに由来するとされますが、それよりも早く長禄1(1457)年に簗田成助が関宿城を築いており、古くから関宿の地名があったものと思われます。関宿には城下に侍屋敷町が、対岸の埼玉県幸手市西関宿、茨城県猿島郡境町には町人町がありましたが、明治期に三県に分断され、その後城跡も河川敷となりました。

 現在役場がある東宝珠花(ひがしほうしゅばな。対岸の埼玉県の庄和町の「西宝珠花」の項を参照してください)の北の古布内(こぶうち)は、開削された江戸川が湾曲して東に食い込んだ地形の場所です。

 この「せきやど」、「こぶうち」は、マオリ語の

  「テキ・イア・ト」、TEKI-IA-TO(teki=outer fence of a stockade;ia=current,indeed;to=drag,open or shut a door or window,wet,calm,be pregnant)、「(総の国の)外側の境界の川の出入り口(にあたる場所)」

  「コプ・ウチ」、KOPU-UTI(kopu=belly,calf of a leg,blistered;uti=bite)、「傷を負ったふくらはぎ(のような場所)」

の転訛と解します。

 

c 野田(のだ)市

 関宿町の南に野田市が接しています。市域は両総台地の北西端を占め、江戸川と利根川に囲まれています。醤油の生産地として有名です。

 この「のだ」は、(1) 「野の中に広がつた田畑」の意、

(2) 「ニタ・ムタ(いずれも湿田)」の転、

(3) 古河公方の臣野田右馬助の所領と城があつたからとする説があります。

 この「のだ」は、マオリ語の

  「(ン)ガウ・タ」、NGAU-TA(ngau=bite,hurt,attack;ta=dash,beat,lay)、「(川が)襲ってくる・場所に位置する(地域)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

d 流山(ながれやま)市

 野田市の南に接する江戸川東岸の市で、野田市との境に明治20年代に開削された利根川と江戸川を結ぶ利根運河が通ります。

 この「ながれやま」は、台地にある高さ15メートルの独立丘が渡良瀬川の洪水によつて赤城山の一部が流れ着いたとの地名伝説が残ったことによります。

 この「ながれやま」は、マオリ語の

  「ナ・(ン)ガレ・イア・マ」、NA-NGARE-IA-MA(na=by,belonging to;ngare=send;ia=indeed,very,current;ma=white,clean)、「(洪水によって)運ばれてきた、実に清らかな(山)」(「(ン)ガレ」のNG音がG音に変化し「ガレ」となった)

の転訛と解します。

 

e 柏(かしわ)市・布施(ふせ)・戸張(とばり)

 野田市の南、流山市の東に接し、両総台地の北西端を占め、北部を利根川が流れます。

 中心地の柏は、中世に水戸街道の宿場町でした。東北端の布施(ふせ。この地はもと南相馬郡に属しましたが、便宜上ここで解説します)には利根川の河岸があり、手賀沼に続く戸張(とばり)には中世豪族が居城した戸張城があり、河岸がありました。

 この「かしわ」は、(1) 「柏の木が茂る場所」の意、

(2) 利根川の「河岸(かし)」の転との説があります。

 この「かしわ」、「ふせ」、「とばり」は、マオリ語の

  「カチ・ワ」、KATI-WA(kati=leave off,be left in statu quo;wa=definite space,area)、「(原野のまま)放置された土地」

  「フ・テ」、HU-TE(hu=swamp,promontry,hill,silent;te=crack)、「割れた丘(割れ目=川に面している丘)」

  「ト・パリ」、TO-PARI(to=drag,open or shut a door or window,wet,calm,be pregnant;pari=cliff,flowing of the tide,flow over of the tide)、「(人が)出入りする崖(河岸)」(「パリ」のP音がB音に変化して「バリ」となった)

の転訛と解します。

 

f 松戸(まつど)市・矢切(やぎり)の渡し

 千葉県北西部、流山市の南、市川市の北にあり、下総台地の西端部と江戸川の沖積平野にまたがります。

 古くから常陸、武蔵へ通ずる交通の要衝で、水戸街道の宿場町、江戸川の渡し場、銚子からの鮮魚中継河岸として栄えました。南西端に演歌で有名になった「矢切(やぎり)の渡し」があって対岸の柴又と結んでいます。

 この「まつど」は、(1) 『更級日記』に菅原孝標女が江戸川のほとりに一泊した「まつさとのわたり」から、

(2) もと「馬津郷(うまつごう)」が「うまつのさと」から「まつさと」、「まつと」になったとする説があります。

 この「まつど」、「やぎり」は、マオリ(ハワイ)語の

  「マツ・ト」、MATU-TO(matu=ma atu=go,come;to=drag,open or shut a door or a window,wet,calm,be pregnant)、「(人が)行き来する・出入り口の(場所)」

  「イア・キリ」、IA-KILI(ia=indeed,very,current;kili(Hawaii)=to go or move in a light or sprightly manner)、「軽やかに流れる川(その場所にある渡し場)」

の転訛と解します。

 

g 鎌ヶ谷(かまがや)市

 千葉県北西部、市川市の東、船橋市の北に位置し、下総台地の分水界を占めます。近世には小金五牧のうちの中野牧が置かれ、江戸時代には木下(きおろし)街道の宿場町として栄えました。

 この「かまがや」は、(1) 「蒲茅(かまかや)の自生する地」から

(2) 「鎌形の谷がある地」から、

(3) 「蒲の繁茂する地を開拓した地」からとする説があります。

 この「かまがや」は、マオリ語の

  「カ・マンガ・イア」、KA-MANGA-IA(ka=take fire,be lighted;manga=branch of a tree or river,ditch;ia=indeed,very,each)、「樹枝状の谷のそれぞれに居住している(土地)」

の転訛と解します。

 

h 市川(いちかわ)市・行徳(ぎょうとく)・国府台(こうのだい)・真間(まま)

 千葉県北西部、松戸市の南、下総台地の西端から江戸川の三角州にまたがり、江戸川をはさんで東京都江戸川区と接します。

 中心市街の市川、八幡(やわた)、中山は千葉街道の街村で、成田・木下(きおろし)両街道の分岐点に位置する行徳(ぎょうとく)は近世から明治にかけての河港で、江戸湾内最大の行徳塩田の中心地でした。

 台地西部の国府台(こうのだい)は、鴻台とも記され、松戸から続く台地の突端で、西は江戸川に臨む約20メートルの断崖をなし、交通、戦略上重要な拠点で、その上には下総国府が置かれ、室町時代には千葉氏が、後には太田道潅が城を築き、北条氏と里見氏の古戦場となりました。その東南の崖下には『万葉集』(巻14、3,384〜5)の薄幸の美女「真間手児名(ままのてこな)」伝説が残る真間の地があります。

 この「いちかわ」は、(1) ここに市が開かれたから、

(2) 「一の川」(国第一の川)の意とする説があります。

 この「いちかわ」、「ぎょうとく」、「こうのだい」、「まま」は、マオリ語の

  「イ・チカ・ワ」、I-TIKA-WA(i=beside;tika=straight,direct,keeping a direct course;wa=definite space,area)、「真っ直ぐに(海へ)向かっている場所一帯」

  「(ン)ギオ・ト・ク」、NGIO-TO-KU(ngio=extinguished;to=drag,open or shut a door or window,wet,calm,be pregnant;ku=silent)、「潮の干満がある静かな海浜」

  「コウ・ノ・タイ」、KOU-NO-TAI(kou=knob,stump;no=of;tai=the sea,the coast)、「海岸にある瘤(のような台地)」

  「ママ」、MAMA(ooze)、「水が滲み出す(場所)」(地名篇(その六)の群馬県の地名の山田郡の「大間々町」の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

i 船橋(ふなばし)市・海老(えび)川・飛(とび)の台・夏見(なつみ)潟

 千葉県北西部、市川市の東、下総台地と東京湾沿岸埋め立て地からなる市です。(東部の約半分の地域、旧二宮町、豊富村の地域はかつて千葉郡に属していたものと思われます。)

 台地上から傾斜面にかけて飛(とび)の台貝塚など多くの縄文時代遺跡があり、中世には房総街道が整備され、江戸時代には北東部に小金五牧のひとつ中野牧が置かれ、千葉街道と成田街道の分岐点の宿場町、意富比(おおい)神社の門前町として栄えました。市街地の北に広がる夏見(なつみ)台地は、夏見御廚(なつみのみくりや)のあったところです。

 この「ふなばし」は、市の中央を流れる海老(えび)川に船を並べて橋としていたことによるとされます。

 この「ふなばし」、「えび」、「とび」、「なつみ」は、マオリ語の

  「フ(ン)ガ・パチ」、HUNGA-PATI(hunga=down,grind down,decayed;pati=shallow water,ooze,splash)、「川下が・浅瀬になっている(川が流れる。場所)」(「フ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「フナ」となった)

  「ヘ・ピ」、HE-PI(he=a,an,wrong,in trouble or difficulty;pi=flow of the tide,soaked,slight,eye)、「一つの・眼(を持つ川。かつて海老川の河口には北側の台地と西の海神山から東に突き出た砂嘴で囲まれた東西に長い楕円形の夏見潟があり、それが陸地化した後、中央に弁天池(現JR船橋駅北側に弁天池公園が残ります)が残りました)」または「氾濫して・難儀をもたらす(川)」(「ヘ」のH音が脱落して「エ」となり、「ピ」のP音がB音に変化して「ビ」となった)

  「トピ」、TOPI(small native earth oven,shut as the mouth or hand)、「小さな窪地(のある台地)」

  「(ン)ガツ・ミ」、NGATU-MI(ngatu=crushed,mashed;mi=stream,river)、「粉砕された川(海老川の流路。夏見潟)」(「(ン)ガツ」のNG音がN音に変化して「ナツ」となった)

の転訛と解します。

 

(3) 千葉(ちは)郡

 

a 千葉郡

 東京湾北東部に沿う平野部に位置し、四囲は西は東京湾と葛飾郡、北から東は印旛郡、東から南は上総国山武郡、長生郡、市原郡に接しています。おおむね現千葉市(南部の一部(緑区の旧土気(とけ)町の地域)を除く)、習志野市、船橋市(東部の約半分、旧二宮町、豊富村の地域か)、八千代市の地域です。中世の豪族千葉氏の本貫地です。『和名抄』は「知波」と訓じています。

 この「ちば」は、(1) 「千草(ちぐさ)の繁茂したさま」の意、

(2) 「ちはやふる」の語幹で、この神を祖先とする氏族とその居住地の名称、

(3) 「ツバ(端)」で「台地の端」の意、

(4) アイヌ語の「チプパ(船の数が多い)」からなどとする説があります。

 この「ちば」は、マオリ語の

  「チパ」、TIPA(dried up,broad,extend)、「乾上がつた(地域)」または「広々とした(地域)」

の転訛(P音がF音を経てH音に変化して「ちは」となり、後に濁音化して「ちば」となつた)と解します。

 

b 千葉市・花見(はなみ)川・都(みやこ)川・村田(むらた)川・幕張(まくはり)・検見川(けみがわ)・稲毛(いなげ)・蘇我(そが)・生実(おゆみ)・加曽利(かそり)・犢橋(こてはし)・土気(とけ)

 千葉市は、千葉県中西部、東京湾沿岸にある県庁が所在する政令指定都市です。

 市域は、ほとんどが下総台地の南西部にあたり、東京湾岸には花見川、都(みやこ)川、村田川が形成した幕張(まくはり)、検見川(けみがわ)、稲毛(いなげ)、蘇我(そが)、生実(おゆみ)などの低地と埋め立て地が広がります。台地上や傾斜地には、日本最大級の加曽利(かそり)貝塚や、犢橋(こてはし)貝塚などが分布します。南西部の房総山地の土気(とけ。もと上総国山辺郡に属しますが、便宜上ここで解説します)には昭和の森が造成されています。

 この「はなみ」、「みやこ」、「むらた」、「まくはり」、「けみ」、「いなげ」、「そが」、「おゆみ」、「かそり」、「こてはし」、「とけ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「パナ・ミ」、PANA-MI(pana=thrust or drive away,throb;mi(Hawaii)=urine,stream)、「動悸を打って流れる(水量が変化する)川」

  「ミ・イア・コ」、MI-IA-KO(mi(Hawaii)=urine,stream;ia=current,indeed;ko=a wooden implement for digging or planting,descend)、「実に土を掘るように流れる川」

  「ム・ラタ」、MU-RATA(mu=silent;rata=tame,quiet,familiar)、「静かでおとなしい(川)」

  「マク・パリ」、MAKU-PARI(maku=wet;pari=cliff,flowing of the tide,flow over of the tide)、「波が洗う湿地」

  「カイ・ミ」、KAI-MI(kai=consume,eat;mi=stream,river)、「水を呑み尽くす川(乾上がる川)」(「カイ」のAI音がEに変化して「ケ」となった)

  「イ・ナケ」、I-NAKE(i=beside,past tense;nake=belly of a net)、「網の膨らんだ腹(のような地形の場所)のそば」

  「タウ(ン)ガ」、TAUNGA(become familiarised,be at home in a place,resting place,fishing ground)、「休息の場所(または舟の停泊する場所)」(AU音がO音に、NG音がG音に変化して「トガ」から「ソガ」となった)

  「オイ・フミ」、OI-HUMI(oi=soft mud;humi=abundant)、「一面の泥寧地帯」(「オイ」の末尾のI音と「フミ」の語頭のH音が脱落したU音が連結して「ユ」となった)

  「カト・リ」、KATO-RI(kato=flowing,flood;ri=protect,screen,bind)、「流れを邪魔する堤」(香取の語源と同じです)

  「コテ・パチ」、KOTE-PATI(kote=crush,mash;pati=shallow water)、「粉砕された浅瀬」

  「タウケ」、TAUKE(apart,separate)、「(海から)離れている(土地)」(AU音がO音に変化して「トケ」となつた)

の転訛と解します。

 

(4) 印旛(いんば)郡

 

a 印旛郡

 印旛郡は、下総台地の西部、印旛沼の周辺の地域で、おおむね印西市、佐倉市、四街道市、八街市、印旛郡白井町、栄町(西部)、本埜(もとの)村、印旛村、酒々井(しすい)町、富里町の区域です。

 この「いんば」は、マオリ語の

  「イム・パ」、IMU-PA(imu=earth-oven,dip in felling a tree;pa=block up,prevent,screen,stockade)、「交通の障害となっている・大地に掘られた蒸し焼き穴のような(沼。その沼のある地域)」

の転訛と解します。

 

b 印旛沼・鹿島(かしま)川・神崎(かんざき)川・長門(ながと)川・けとう(土壌)

 印旛郡のほぼ中央に印旛沼があり、両総台地の水を集める鹿島川と神崎川が沼に流入し、長門川から利根川に排水していました。かつては、利根川の増水とともに逆流し、沼の周辺はしばしば水害に襲われました。

 江戸時代には、干拓、治水とともに、利根川と検見川を結び、銚子から江戸までの水運の改善を目的として、享保9(1724)年、天明5(1785)年、天保13(1842)年の三回にわたり工事が行われましたが、土性が堅い高台、「けとう」という軟弱な低湿地の地盤などに悩まされて工事は難航を極め、資金の不足等もあって失敗に終わりました。

 戦後昭和21(1946)年国営の干拓事業が開始され、後水資源公団によって昭和44(1969)年に工事の完成をみています。

 この「かしま」、「かんざき」、「ながと」、「けとう」は、マオリ語の

  「カチ・マ」、KATI-MA(kati=prevent,shut of a passage,bite,nip;ma=white,clean)、「(沼への)入り口が塞がれている清らかな(川)」(次の神崎川の意味とほぼ同じです)

  「カネ・タキ」、KANE-TAKI(kane=choke;taki=track,tow with a line from the shore,lead)、「(しばしば沼の水位が上昇して)流れ込み難くなる(川)」

  「ナ・(ン)ガ・ト」、NA-NGA-TO(na=belonging to;nga=breathe;to=drag,open or shut a door or window)、「潮の干満によつて水が逆流する(川)」(これは潮の干満によつて潮流の向きが変わる関門海峡を指す古地名で、長門(ながと)国の国名となっている「ながと」と同じです。)

  「ケ・トウ」、KE-TOU(ke=different,strange;tou=dip into a liquid,wet)、「水に浸っている奇妙なもの(特異な軟弱土壌)」(地名篇(その二)の岩手県の地名の夏油(げとう)温泉の語源と同じです。)

の転訛と解します。

 

c 佐倉(さくら)市・八街(やちまた)市・酒々井(しすい)町

 佐倉市は、下総台地北部と印旛沼南部の低地に広がる市で、市名は古代に存在した「麻の倉」の転という説があります。

 八街市は、佐倉市の東南に隣接し、下総台地とそれを刻む狭い谷津からなり、西側の印旛沼低地と東側の九十九里平野の分水界をなしており、市名は佐倉七牧を開墾の際、この地域が8番目に新田開発されたことによるとされます。

 酒々井町は、北は成田市、南は佐倉市に接する町で、印旛沼低地と谷津に刻まれた下総台地からなり、町名は孝子伝説の「酒の井」が円福寺にあることに由来するとされます。

 この「さくら」、「やちまた」、「しすい」は、マオリ語の

  「タク・ラ」、TAKU-RA(taku=edge,gunwale,hollow;ra=wed)、「船縁のように屹立した崖が連続している(場所)」

  「イア・チ・マタ」、IA-TI-MATA(ia=current,indeed;ti=throw,cast;mata=deep swamp,heap,face,eye)、「実に・(丘の中に)放り出された・眼(または湿地がある。場所)」

  「チ・ツイ」、TI-TUI(ti=throw,cast,overcome;tui=pierce,lace,sew)、「(川や谷が)レースの編み物のように入り組んでいる(場所)」

の転訛と解します。

 

d 印西(いんざい)市・木下(きおろし)

 印西市は、利根川南岸に位置し、下総台地とそれを刻む谷津からなり、市名は印旛沼の西にあることによります。同市の木下(きおろし)、大森は、利根川水運の重要な河港、宿場として発展しました。木下の名は、木材の積み下しが行われたことによるとされます。ここから船橋を経て行徳に至る木下街道の起点でした。

 この「きおろし」は、マオリ(ハワイ)語の

  「キオ・ロ・チ」、KIO-RO-TI((Hawaii)kio=small pool for stocking fish;ro=roto=inside;ti=throw,cast)、「内側に・魚の蓄養池(のような水面)が・ある(場所)」

の転訛と解します。

 

(5)相馬(そうま)郡

 

a 相馬郡

 相馬郡は、『和名抄』は「佐宇万」と訓じ、もとは利根川両岸にまたがつた地域で、右岸の千葉県側は、おおむね我孫子市、柏市(布施など東部のみ)、東葛飾郡沼南(しょうなん)町の地域です。

 この「そうま」は、マオリ語の

  「タ・ウマ」、TA-UMA(ta=dash,beat,lay;uma=bosom,chest)、「(洪水に)襲われる胸(のような丘の重なつた地域)」

の転訛と解します。

 

b 我孫子(あびこ)市・布佐(ふさ)

 我孫子市は、県北西部、北は利根川、南は手賀沼に挟まれる細長い地域です。市名は、領主我孫公(あびこのきみ)が畿内から移り住んだことによるなどの説があります。この地域には、西から東へ延びる細長い、ゆるやかに曲りうねつた丘陵があります。市の東端には、江戸初期に新田が干拓され、利根川水運の河港であった布佐があり、『和名抄』にみえる相馬郡布佐(ふさ)郷に比定されています。

 この「あびこ」、「ふさ」は、マオリ語の

  「ア・ピコ」、A-PIKO(a=the...of,belonging to;piko=bend,bent,curved,corner)、「(ゆるやかに曲り)うねった・丘陵がある(地域)」(「ピコ」が「ビコ」となった)

  「フ・タ」、HU-TA(hu=promontry,hill;ta=dash,beat,lay,allay)、「浸食された・丘陵(がある地域)」(「タ」が「サ」となった)

の転訛と解します。

 

c 手賀(てが)沼・手下浦(てかのうら)・弁天(べんてん)川

 千葉県北西部、利根川下流の右岸にある細長い屈曲のある沼で、我孫子、柏、印西の三市、東葛飾郡沼南町、印旛郡白井町にまたがり、沼南町を「つ」の字形に囲んでいます。東端から弁天川により利根川に排水します。

 古代には、印旛沼、霞ヶ浦に続く香取海の入り江で「手下浦」と呼ばれていましたが、利根川の堆積作用によりせき止めされて沼となりました。近世からたびたび干拓が計画されましたが、洪水により安定せず、戦後国営干拓事業が行われました。

 この「てが」、「てか」、「べんてん」は、マオリ語の

  「テ(ン)ガ」、TENGA(the prominence in the front of the throat,Adam's apple)、「喉(のど)ちんこ(のような地形の入り江)」(沼南町を「つ」の字形に囲んでいたところからの形容です。)

  「テカ」、TEKA(drive forward,attach cross pieces to a pole for the making a sort of ladder)、「柱の左右に突起を付けたはしご(のような細長い屈曲のある入り江)」

  「ペヌ・テ(ン)ガ」、PENU-TENGA(penu=quite,completely;tenga=the prominence in the front of the throat,Adam's apple)、「全く喉(のど)ちんこそっくり(の地形の入り江(沼)から流れ出す川)」(「ペヌ」のP音がB音に変化し、語尾のU音が脱落して「ベン」となつた)

の転訛と解します。

 

(6) 上(下)埴生(はむふ)郡

 

a 埴生(はむふ)郡

 古代から近代の下総国の郡名で、『和名抄』は「波牟布」と訓じていますが、古くは「はにゅう」と、新しくは「はぶ」と称しました。上(下)埴生郡に分かれ、上埴生郡はおおむね長生郡長南町、睦沢町(西部)、茂原市(南部)の地域にあたり、下埴生郡はおおむね成田市、印旛郡栄町の地域にあたります。

 この「はむふ」、「はにゅう」、「はぶ」は、マオリ語の

  「ハ・ムフ」、HA-MUHU(ha=what!,breath,flavour;muhu=grope,push one's way through bushes,overgrown with vegetation)、「生い茂った草木をかき分けて進む地域」

  「ハ(ン)ギ・フ」、HANGI-HU(hangi=earth oven,scarf;hu=promontry,hill,swamp,silent)、「大地に掘った蒸し焼き穴(のような盆地)がある丘陵地帯」(「ハ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「ハニ」となり、「フ」のH音が脱落して「ウ」となった)

  「ハプ」、HAPU(pregnant,conceived in the womb,section of the large tribe)、「丘陵(子宮)の中に(胎児が)大事に包まれているような場所」

の転訛と解します。

 

b 成田(なりた)市・根木名(ねこな)川・三里塚(さんりづか)

 成田市は、南東部は下総台地、北部は根木名川の低地、西部は印旛沼の低地からなり、市名は「熟田(なるた。豊作の水田)」からという説があります。台地上には、新東京国際空港が造成された三里塚地区があります。

 この「なりた」、「ねこな」、「さんりづか」は、マオリ語の

  「(ン)ガリ・タ」、NGARI-TA(ngari=disturbance,greatness,power;ta=dash,beat,lay)、「浸食された要害(人を寄せ付けない土地)」

  「ネコ・ナ」、NEKO-NA(neko,nekoneko=fancy border of a cloak;na=belonging to)、「(台地の)縁を飾る(縁に沿って流れる川)」

  「タ(ン)ガ・リ・ツカハ」、TANGA-RI-TUKAHA(tanga=be assembled,row;ri=protect,screen,bind;tukaha=strenuous,vigorous,hasty)、「列(のような台地)が力強く結びついている(場所)」

の転訛と解します。

 

(7) 香取(かとり)郡

 

a 香取郡

 香取郡は、利根川の南、下埴生郡の東に位置し、大化前代には下海上国造の領域であったといい、大化5年に下海上国造の領域の一里を割いて常陸国鹿島郡を神郡として建てた際に、当郡も香取神宮の神郡として成立したものと考えられます。その北端の現佐原市の北部には、古くは香取海(かとりのうみ)が入り込み、南部の下総台地には香取神宮が鎮座し、古代の大和朝廷の東国支配の拠点となつていました。『和名抄』は「加止里」と訓じています。おおむね現佐原(さわら)市、香取郡下総(しもふさ)町、神崎(こうざき)町、大栄(たいえい)町、多古(たこ)町、栗源(くりもと)町、小見川(おみがわ)町、山田(やまだ)町、東庄(とうのしょう)町、干潟(ひかた)町、銚子市(北西部)の地域です。なお、干潟町はもと椿海(つばきのうみ)が干拓された地域です((9)匝瑳郡のa椿海の項を参照してください。)。

 この「かとり」は、マオリ語の

  「カト・リ」、KATO-RI(kato=flowing,flood of the tide;ri=screen,protect,bind)、「(香取海の)潮流から土地を守る堤防となっている地域」

の転訛と解します。

 

b 佐原(さわら)市・十六島(じゅうろくしま)

 佐原市は、県北東部にあり、北部は古くは香取海が入り組んでいましたが、承応3(1654)年江戸幕府により利根川の河口が銚子に付け替えられてから低湿地帯となり、十六島と呼ばれた低湿地が新田として開発され(佐原市のほか、神崎町および茨城県東村にまたがつています)、現在は利根川流域の低湿な水田地帯、南部は下総台地からなります。

 市名は、(1)川沿いの堆積地を示す「砂原(さはら)」から、

(2)香取神宮の祭礼用土器「浅原」をつくった土地からという説があります。

 この「さわら」、「じゅうろくしま」は、マオリ語の

  「タワ・ラ」、TAWHA-RA(tawha=burst open,crack;ra=wed)、「割れ目が連なっている(「十六島」が浮いている香取海がある場所)」

  「チウ・ロク・チマ」、TIU-ROKU-TIMA(tiu=wander,sway to and fro;roku=bend,decline;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「四方八方に曲がりくねつた掘り棒で掘つた水路がある(場所。たくさんの島が浮いているように見える場所)」

の転訛と解します。

 

c 小見川(おみがわ)町・多古(たこ)町

 小見川町は、佐原市の東、利根川に面する町で、かつては利根川沿いと谷津の低地には香取海が入り込んでいました。町名は、(1)かつて「麻績(をみ。麻糸の産地の意)郷」と呼ばれたことによる、(2)「ヲ(接頭語)・ミ(水)」で「水辺、川辺」の意とする説があります。

 多古町は、下総台地中央部にあり、低地に沼が多かつたので、「多湖」から、農民の意の「田子」、「多胡」からという説があります。

 この「おみ」、「たこ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「オミ」、OMI((Hawaii)wither,droop)、「(香取海の波が)弱くなる(場所)」

  「タコ」、TAKO(loose,peeled off)、「ばらばらの(沼が散在する場所)」

の転訛と解します。

 

(8) 海上(うなかみ)郡

 

a 海上郡

 下総国の海上郡は、香取郡の南東、匝瑳郡の東に位置し、古くは下海上国が置かれたといわれる地域で、『和名抄』は「宇奈加美」と訓じています。郡名は、「海の上(ほとり)」からとする説があります。おおむね現銚子(ちょうし)市、旭(あさひ)市(南部)、海上郡海上(うなかみ)町、飯岡(いいおか)町の地域です。

 なお、古く養老川左岸に上海上国がおかれた上総国の海上郡は、中世に海北、佐是、馬野の3郡に分かれ、江戸期にすべて市原郡に併合されました。

 この「うなかみ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ウナ・カミ」、UNA-KAMI(una(Hawaii)=shell of turtle or tortoise;kami=eat)、「亀の甲が(海に)食べられている(亀の甲のような台地の周囲に波が打ち寄せている地形の地域)」

の転訛と解します。

 

b 銚子(ちょうし)市・犬吠(いぬぼう)埼・外川(とかわ)

 銚子市は、県北東端、利根川河口にあり、市名は河口の形が酒器の銚子に似ているからとされます。

 市域の大半は関東ローム層に覆われた台地と利根川沿いの低地ですが、東端に犬吠埼のある海に突き出た半島部分は中生層の地層で化石が多く発見され、原始・古代遺跡が多く存在しています。外川には、江戸初期に紀州の漁民が移住してイワシ漁等を伝えました。

 この「ちょうし」、「いぬぼう」、「とかわ」は、マオリ語の

  「チオ・チ」、TIO-TI(tio=ice,rock-oyster;ti=throw,cast)、「岩牡蛎(の殻が)が放り出されている(ような場所)」

  「イヌ・ポウ」、INU-POU(inu=drink;pou=post,pole)、「柱を飲み込んだ(ように直立した崖のある岬)」

  「トカ・ワ」、TOKA-WA(toka=rock,stone;wa=definite place)、「岩だらけの場所」

の転訛と解します。

 

c 飯岡(いいおか)町・屏風(びようぶ)ケ浦・刑部(ぎょうぶ)岬

 飯岡町は、県北東部、九十九里浜北端に位置します。東洋のドーバー海峡といわれる屏風ケ浦や、刑部岬の景勝地があります。町名は、アイヌ語で魚の集まる所を意味する「イヨカ」からという説があります。

 この「いいおか」、「びようぶ」、「ぎょうぶ」は、マオリ語の

  「イヒ・アウカハ」、IHI-AUKAHA(ihi=shudder,quiver;aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe)、「塁壁を巡らしたような直立する岩壁に波が打ち付けて・震動する(場所。刑部岬のある土地)」(「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)または「イヒ・ホカ」、IHI-HOKA(ihi=shudder,quiver;hoka=projecting sharply upwards,pierce,soar)、「直立した岩壁に・震える(場所。刑部岬のある地域)」

  「ピオ・プ」、PIO-PU(pio=be extinguished,many;pu=tribe,heap,stack,pipe,origin)、「声を失う(または顔面蒼白となる、岩石の)高まり(屏風ケ浦)」

  「(ン)ギオ・プ」、NGIO-PU(ngio=extinguished,faded;pu=tribe,heap,stack,pipe,origin)、「声を失う(または顔面蒼白となる、岩石の)高まり(刑部岬)」

 の転訛と解します。

 

(9)匝瑳(そうさ)郡

  

a 匝瑳郡・椿海(つばきのうみ)・刑部(ぎようぶ)川

 匝瑳郡は、香取郡の南、海上郡の西、下総国の東南部、栗山川以北の九十九里沿いの平地に位置します。おおむね現八日市場市、旭市(北部)、匝瑳郡光町、野栄(のさか)町の地域ですが、古代には香取郡多古町、栗源町の町域も含んでいたようです。

 『続日本後紀』承和2(835)年3月条に物部小事大連が坂東を征した勲功により下総国に匝瑳郡をたて同氏の氏としたとあります。『和名抄』は「匝瑳」に訓を付していませんが、「匝」の漢音は「サフ」であるところから、「さふさ」と訓じて(吉田東伍『大日本地名辞書』ほか)解釈することとします。

 この「さふさ」は、マオリ語の

  「タ・プタ」、TA-PUTA(ta=the...of,dash,beat,lay;puta=opening,hole,pass through)、「大きな穴(「椿海」)がある(地域)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」となった)

の転訛と解します。

 かつて九十九里平野の北部、現旭市、八日市場市、干潟町、海上町にまたがって、「椿海(つばきうみ)」という潟湖があり、古くここには椿の巨樹があって、それが倒れた痕跡が湖になつたという伝説があります。匝瑳郡建郡当時椿海がどのような状況であったのかは不明で、あるいは陸封される前の潟であったかも知れませんが、この地域における最大の地理的特徴をなしていたであろうことは疑いのないところです。

 なお、椿海は、寛文10(1670)年この水を九十九里の海に流す新川(刑部(ぎょうぶ)川)の開削に成功し、干潟八万石と称される水田地帯となりました。後に昭和26(1951)年大利根用水の完成によつて県下有数の早場米地帯になりました。

 この「つばき」、「ぎょうぶ」は、マオリ語の

  「ツ・パキ」、TU-PAKI(tu=stand,settle,fight with,energetic;paki=slap,clap,strike together)、「(波が湖岸を)しきりに・叩く(排水河川がないので雨が降ると水位が上がって周辺が冠水する。湖)」

  「(ン)ギオ・プ」、NGIO-PU(ngio=extinguished,faded;pu=pipe,tribe,heap,stack,origin)、「(椿海を)消滅させた管(水路)」

の転訛と解します。

 

b 八日市場(ようかいちば)市・生尾(おいお)

 八日市場市は、下総台地と九十九里平野北部にあり、市名は八の日に木綿の市が立ったことに由来します。市の中央、JR総武本線八日市場駅の北の高台の生尾の地に、延喜式神名帳に「匝瑳郡一座」と記載されている老尾(おいを)神社が鎮座し、生尾古墳があります。

 この「おいを」は、マオリ語の

  「オ・イオ」、O-IO(o=the...of;io=muscle,ridge,lock of hair)、「(人の生命力が宿る)髷(まげ)がある(土地。生命力を司る神)」

の転訛と解します。髷には「人の活力、生命力の源泉が宿る」という信仰が古代人にはあったようで、マオリ語には「イオ」と同義の「イホ、IHO(lock of hair)」の語があり、「髪を切る」という「ワカイホ、WHAKAIHO(cut the hair,charm or rite to weaken an enemy)」には「敵を弱体化させる呪詛」という意味が含まれています。

 

(10) 市原(いちはら)郡

 

a 市原郡

 市原郡は、県のほぼ中央部、大部分は上総丘陵から北流する養老川の流域で、おおむね現市原市の地域です。『和名抄』は「伊知波良」と訓じています。

 郡・郷名の由来は、(1)「イチイが生い茂つた原」から、

(2)「イチ」(集落の意)、

(3)「稜威(いつ)」の転などの説があります。

 この「いちはら」は、マオリ語の

  「イ・チパ・ラ」、I-TIPA-RA(i=beside;tipa=dried up,broad;ra=wed)、「広く開いた場所が連なった地域のそば」

の転訛と解します。

 

b 養老(ようろう)川・能満(のうまん)・五井(ごい)

 市原市の大部分は、養老(ようろう)川の流域で、大化の改新後上総国の中心地となり、能満には国衙が置かれました。養老川河口の三角州の上の五井には、石油化学コンビナートが立地します。

 この「ようろう」、「のうまん」、「ごい」は、マオリ語の

  「イオ・ロウ」、IO-ROU(io=muscle,line;rou=a long stick,draw out contents of a narrow vessel)、「細長い谷を根こそぎに洗い流す(川)」

  「ノホ・マナ」、NOHO-MANA(noho=sit,stay,settle;mana=authority,influence,power)、「権力(機構)が駐在している(土地)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノオ」となり、「マナ」が「マン」に変化した)

  「(ン)ガウ・ウイ」、NGAU-UI(ngau=wonder,go about,bite,hurt;ui=disentangle,relax or loosen a noose)、「ほどけた輪縄がさまよう(氾濫のたびに河口が移動する場所)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」と、「ウイ」が「ヰ」となつた)

の転訛と解します。

 

(11) 望陀(まうた)郡

 

a 望陀郡

 望陀郡は、古代から近代の郡名で、小櫃川の下流域一帯の馬来田国の領域を占め、中世には望東・望西郡に分かれ、江戸期には小櫃川の中・上流域一帯の旧畔蒜郡の地域を併合しました。『和名抄』は「末宇太」と訓じています。

 この「まうた」は、マオリ語の

  「マ・ウタ」、MA-UTA(ma=white,clean;uta=the inland)、「内陸の清らかな地域」または「マウ・タ」、MAU-TA(mau=fixed,established,caught,retain;ta=dash,lay,alley)、「(内陸に)隔絶している地域」

の転訛と解します。

 

b 袖ヶ浦(そでがうら)市・馬来田(まくた)・百目木(どうめき)・木更津(きさらづ)市

 袖ヶ浦市は、市原市の南、木更津市の北に位置する市で、市名は東京湾北東岸(現浦安市から富津市に至る沿岸)の古称で、江戸時代には内湾を指したとされる名ですが、この地は日本武尊伝説の弟橘媛の袖が流れ着いた地と伝えられていることによります。

 おおむね袖ヶ浦市、木更津市の地域が旧馬来田国、旧望陀郡の地域です。この地域名を「宇麻具多」、「馬来田」と記した史料(『万葉集』、『正倉院文書』)もありますので、馬来田は「うまくた」と訓じて解釈することとします。

 馬来田のすぐ西、北流してきた小櫃川が西へ大きく方向を変える地点に難解地名とされる百目木があります。(小櫃川中流部は蛇行が著しく、河岸段丘が発達しており、蛇行の頚部を切り、流路を短絡した川廻し地形が多く、旧流路の曲流部を水田として利用している場所が多くみられます。)

 木更津市は、袖ヶ浦市の南、小櫃川と矢那(やな)川の下流に位置し、市名は君津市と同じく、日本武尊が東征の際、龍神を鎮めるために身を投げた弟橘媛を偲んで歌った歌(君さらず袖しからみに立浪のその面影を見るぞ悲しき)の「君不去(きみさらず)」から採つたとされます。古代この地には金鈴塚古墳副葬品や遣唐使の献上品の望陀布を生産する高い文化があったと伝えられます。

 この「そでが(浦)」、「うまくた」、「どうめき」、「きさらず」は、マオリ語の

  「タウテカ」、TAUTEKA(brace,pole on which a weight is carried between two persons)、「(二人で担いだ荷物を吊るした棒のように)たるんでいる(海岸)」

  「ウマ・クタ」、UMA-KUTA(uma=bosom,chest:kuta=encumbrance,clog,woman's maro(apron))、「胸(のような上総丘陵)の前掛け(のような土地。小櫃川が上総丘陵から海岸平野に出る少し前に馬来田が位置しています)」

  「トウ・マイキ」、TOU-MAIKI(tou=dip into a liquid,wet;maiki=remove,,depart,disaster)、「水(の流れ)を・移動した(蛇行している水路を短絡させて旧水路を水田とした。場所)」(「マイキ」のAI音がE音に変化して「メキ」となった)

  「キタ・ラ(ン)ガ・ツ」、KITA-RANGA-TU(kita=tightly,intensely;ranga=raise,sandbank,fishing place;tu=stand,settle)、「砂の堤(または魚の釣り場)が密集してある(場所)」(「ラ(ン)ガ」の語尾の「(ン)ガ」が脱落した)または「キ・タラ・ツ」、KI-TARA-TU(ki=full,very;tara=point,peak,gossip;tu=stand,settle)、「(弟橘姫などの)伝説が・多く・残されている(地域)」

の転訛と解します。

 

(12) 畔蒜(あひる)郡・小櫃(おびつ)川・久留里(くるり)

 畔蒜郡は、古代から中世の郡名で、中世に荘園化し、江戸期には望陀郡の一部となりました。小櫃川の上・中流域に位置します。現君津市の一部の地域で、かって久留里藩の領域となっていました。『和名抄』は「阿比留」と訓じています。

 この「あひる」、「おびつ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ア・ヒル」、A-HILU(a=particle used before names of places;(Hawaii)hilu=quiet,reserved,well-behaved,strange)、「静かな地域」

  「ホピ・ツ」、HOPI-TU(hopi=earth oven,be terrified;tu=stand,settle)、「地面に掘つた蒸し焼き穴(のような凹地)がある地域を流れる(川)」(「ホピ」のH音が脱落して「オピ」から「オビ」となつた)

  「クル・リ」、KURU-RI(kuru=strike with the fist,pound,throw;ri=protect,screen,bind)、「(周囲の地域との交通を妨げる)障害物(となっている山)を拳骨で殴った(崩したような地形の場所)」

の転訛と解します。

 

(13) 周淮(すえ)郡

 

a 周淮郡

 周淮郡は、古代から近代の郡名で、小糸川の流域一帯、鹿野山の北東部にあたります。おおむね現君津市(東部の小櫃川流域を除く)の地域です。『和名抄』は「季(すゑ)」と訓じています。「須恵」、「種恵」とも記し、江戸期からは「すす」と称したようです。大化前代の須恵国が周淮・天羽両郡に分かれたといわれます。

 この「すえ」は、マオリ語の

  「ツ・ヘイ」、TU-HEI(tu=stand,settle;hei=tie round the neck,an ornament for the neck)、「首(鹿野山)に巻いた飾りのような(場所。北から東が周淮郡、南から西が天羽郡)」

の転訛(「ヘイ」のH音が脱落して「エイ」から「エ」となった)と解します。

 

b 君津(きみつ)市・小糸(こいと)川・鹿野(かのう)山・鬼泪(きなだ)山

 君津市は、県南西部、東京湾に面し、木更津市と富津市の間にあり、内陸部には小糸川と小櫃川が流れ、海岸には新日鉄君津製鉄所が立地します。君津の郡名は、日本武尊が東征の際、龍神を鎮めるために身を投げた弟橘媛を偲んで歌った歌(君さらず袖しからみに立浪のその面影を見るぞ悲しき)の「君不去(きみさらず)」から採つたとされます。

 鹿野山(かのうざん。380メートル)は、君津市と富津市の境に位置する山で、聖徳太子開基と伝える神野(じんや)寺があり、南房総国定公園の観光拠点ですが、公園区域外では山砂利の採掘が盛んです。

 この「きみつ」、「こいと」、「かのう」、「きなだ」は、マオリ語の

  「キミ・ツ」、KIMI-TU(kimi=calabash,seek;tu=stand,settle)、「ひょうたん(のような山)がある(場所)」(鹿野山の西の峰続きに、鬼泪(きなだ)山(319メートル)があり、一体としてひょうたん形をしている)

  「コイト」、KOITO(smooth)、「滑らかに流れる(川)」

  「カノ」、KANO(seed,colour)、「種子(砂利を多く含んでいる山)」

  「キナ・タ」、KINA-TA(kina=globular calabush,sea-egg;ta=dash,beat,lay)、「浸食されたひょうたん(のような山)」

の転訛と解します。

 

(14) 天羽(あまは)郡

 

a 天羽郡

 天羽郡は、古代から近代の郡名で、西流して東京湾に注ぐ八染川、湊川の流域一帯に位置し、現富津市(北端の一部を除く)の地域にあたります。大化前代の須恵国が周淮・天羽両郡に分かれたといわれます。『和名抄』は「阿末波」と訓じています。古くは天羽駅は、走水の海(浦賀水道)を隔てて、宝亀2(771)年に武蔵国が東山道から東海道に編入されるまで、東海道の主路の駅でした。

 天羽の「アマ」は「アバ、アブ」の転で「崖」、「ハ」は「端」の意とする説があります。

 この「あまは」は、マオリ語の

  「ア・マハ」、A-MAHA(a=particle used before names of places;maha=gratified,satisfied,depressed,many)、「多数の人がいる(地域)」

  または「アマ・ハ」、AMA-HA(ama=outrigger of a canoe;ha=breath,taste)、「(カヌーのアウトリガーが呼吸する)船が発着する(船着場がある場所)」

の転訛と解します。

 

b 富津(ふっつ)市・金谷(かなや)・明鐘(みょうがね)岬

 富津市は、県南西部、東京湾に面し、内陸は房総丘陵上に広がる市で、地名の由来は、日本武尊が東征の際、龍神を鎮めるために身を投げた弟橘媛の衣が流れ着いたところから「布流津(ふるつ)」と呼ばれたことによる等の説があります。

 富津岬は、小糸川から流出した土砂が形成した東京湾に鋭く突出した砂州です。富津市と南に隣接する鋸南町との境には鋸山(のこぎりやま。)があり、その麓の金谷(かなや)と久里浜の間には東京湾横断フェリーが就航し、明鐘(みょうがね)岬からは鋸山への有料登山道が通じています。

 この「ふっつ」、「かなや」、「みょうがね」は、マオリ語の

  「フツ・ツ」、HUTU-TU(hutu=a fishing net for sea fishing made of flax;tu=stand,settle)、「定置網を仕掛けてある(場所。岬)」

  「カナ・イア」、KANA-IA(kana=stare wildly,bewitch;ia=current,indeed)、「潮流(海の荒れ具合)を・じっと目を凝らして見る(場所。浦賀水道を渡る場所)」(地名篇(その十七)の静岡県の(15)のb金谷宿の項を参照してください。)

  「ミホ・カネ」、MIHO-KANE((Hawaii)miho=pile up;kane=head)、「頭(のような山)を積み上げた(岬)」

の転訛と解します。

 

(15) 武射(むさ)郡

 

a 武射郡

 武射郡は、古代から近代の郡名で、九十九里浜の中央部に注ぐ栗山(くりやま)川、木戸(きど)川、作田(さくだ)川の流域に位置し、おおむね現山武郡芝山(しばやま)町、横芝(よこしば)町、山武(さんぶ)町、松尾(まつお)町、蓮沼(はすぬま)村、成東(なるとう)町の区域です。

 郡名は、『和名抄』は訓注を欠きますが、古代武佐(むさ)国の領域であったとして通常「むさ」と読み、江戸期には「むしゃ」と読まれましたが、「むや」と読む説もあります。ただし、『和名抄』中「射」字をあてている郡郷名は、越中国「射水郡(伊三豆)」、上野国甘楽郡「那射郷(訓注なし)」、阿波国麻植郡「射立郷(伊多知)」、同国那賀郡知(和)射郷[射読如左]」の4例ですので、「むさ」または「むい」と読むべきかも知れません。

 この「むさ」、「むい」は、マオリ語の

  「ム・タ」、MU-TA(mu=silent,moroseness;ta=dash,beat,lay)、「不機嫌に襲う(川の流域にある地域)」

  「ムイ」、MUI(swarm round,infest,molest)、「(人々が)群がって住んでいる(地域)」または「(人々を)悩ます(川の流域にある地域)」

の転訛と解します。

 

b 成東(なるとう)町・作田(さくた)川

 成東町は、下総台地と九十九里平野にまたがつて広がる町で、作田川が流れ、浪切不動があります。この町名は、日本武尊が東征の折に太平洋の荒波にちなんで名付けたと伝えます。作田川の左岸、九十九里町の河口近くに作田(さくだ)の地名があります。

 この「なるとう」、「さくた」は、マオリ語の

  「(ン)ガル・トウ」、NGARU-TOU(ngaru=wave of the sea,corrugation;tou=dip into a liquid,wet,lower end of anything)、「波が洗つている(場所)」(「(ン)ガル」のNG音がN音に変化して「ナル」となった)

  「タク・タ」、TAKU-TA(taku=edge,border,gunwale,hollow;ta=dash,beat,lay)、「海岸に向かつて突進する(川)」または「タクタイ」、TAKUTAI(sea coast)、「海浜(にある場所。そこへ流れる川)」

の転訛と解します。

 

(16) 山辺(やまのべ)郡

 

a 山辺郡

 山辺郡は、古代から近代の郡名で、太平洋に注ぐ真亀(まがめ)川の流域に位置し、おおむね現東金(とうがね)市、九十九里(くじゅうくり)町、大網白里(おおあみしらさと)町、千葉市(土氣地区など南端部)の地域です。『和名抄』は「也末乃倍(やまのべ)」と訓じています。江戸期は、「やまべ」と称しました。

 この「やまのべ」は、マオリ語の

  「イア・マ・ノペ」、IA-MA-NOPE(ia=indeed,very;ma=white,clean;nope=constricted)、「(山々が)圧縮されている地域」

の転訛と解します。

 

b 東金(とうがね)市・真亀(まがめ)川

 東金市は、下総台地と九十九里平野に広がる市で、中世に千葉氏の鴇根(ときがね)城が築かれました。市名は鴇ケ峰(ときがね)の転とされます。

 真亀川は、台地から平野に出ると三本の流れに分かれ、一本は作田川に合流し、二本は再び合流して海に注ぎます。

 この「とうがね」、「まがめ」は、マオリ語の

  「トウ・カネ」、TOU-KANE(tou=dip into a liquid,wet,lower end of anything;kane=choke,head)、「海水に浸かっている頭(丘陵がある地域)」

  「マ(ン)ガ・メ」、MANGA-ME(manga=branch of a river,watercourse,branch of a tree;me=as if,like)、「枝のようなもの(を出して流れる川)」

の転訛と解します。

 

(17) 長柄(ながら)郡

 

a 長柄郡

 長柄郡は、古代から近代の郡名で、一宮川上流の山間部から南白亀(なばき)川流域の平地部に位置し、おおむね現茂原(もばら)市(西南端を除く)、長生郡長柄(ながら)町、白子(しらこ)町、長生(ちょうせい)村、一宮(いちのみや)町、睦沢(むつざわ)町(東部)の地域(おおむね茂原市西南端の地区、長生郡長南町、睦沢町西部の地域は、旧上埴生郡の地域でした)です。『和名抄』は「奈加良(なから)」と訓じています。

 この「なから」は、マオリ語の

  「ナ・カラ」、NA-KARA(na=belonging to;kara=whelk)、「(一宮川の谷を指して)ばい貝のような(地形の)地域」

の転訛と解します。

 

b 茂原(もばら)市・南白亀(なばき)川

 茂原市は、房総丘陵北東部と九十九里平野にまたがる市で、市名は(1)かつて海が入り込んでいた藻原があったことによる、

(2)緩やかな原野が続く場所の意、

(3)木の茂っている原の意などの説があります。

 南白亀川は、東金市の丘陵に発して平野に出た後、南流して小中川、赤目川、内谷川などを次々に併せて白子町で海に注ぎます。

 この「もばら」、「なばき」は、マオリ語の

  「マウ・パラ」、MAU-PARA(mau=fixed,taken or caught of fish or birds etc.;para=sediment,dust,cut down bush,clear)、「魚鳥を捕る原」または「陸化した沖積地」(「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)

  「ナ・パキ」、NA-PAKI(na=belonging to;paki=slap,clap,strike together)、「拍手をする(ように他の川を併せて流れる川)」

の転訛と解します。

 

(18) 夷隅(いすみ)郡

 

a 夷隅郡

 夷隅郡は、古代から近代の郡名で、太平洋に注ぐ夷隅川の流域の山間部から海岸の平地を含む地域に位置し、おおむね現勝浦(かつうら)市、大多喜(おおたき)町、夷隅(いすみ)町、岬(みさき)町、大原(おおはら)町、御宿(おんじゅく)町の地域です。『和名抄』は「伊志美」と訓じています。『古事記』の「伊自牟(いじむ)国」、『日本書紀』の「伊甚(いじむ)国」からの転訛とする説があります。

 この「いしみ」、「いじむ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「イ・チ・ミ」、I-TI-MI(i=beside;ti=throw,squeak,stick in;mi(Hawaii)=urine,stream)、「川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域」(夷隅川は、極めて蛇行のはげしい川です)

  「イ・チム」、I-TIMU(i=beside,past tense;timu=ebb)、「(縄文海進期が終わって海が)後退してできた土地(一帯)」

の転訛と解します。

 

b 太東(たいとう)崎・御宿(おんじゅく)町・網代(あじろ)湾・勝浦(かつうら)市・行川(なめかわ)・おせんころがし・粟又(あわまた)の滝

 夷隅郡北東部に海食崖が切り立った太東崎があり、岬町の名はこれに由来します。

 御宿町の名は、北条時頼が諸国行脚の際にこの地で「御宿(みやど)せしそのときよりと人問はば網代(あじろ)の海に夕影の松」と詠んだことにちなむとされます。網代湾の砂浜は『月の砂漠』記念像がある有名な海水浴場となっています。

 海中公園で有名な勝浦市の「勝」は「潟」、「浦」は「海浜」を意味するとされます。市の南には行川アイランドがあります。市と鴨川市天津小湊町の境界には、海面からの高さ百数十メートル、長さ4キロメートルにわたる清澄山脈の東端の断層崖の「おせんころがし」があり、この地の強欲非道な豪族の娘が父を改心させるために身を投じたとの伝説が残っています。

 山間部に位置する大多喜町の西部に景勝地として知られる養老川の上流の養老渓谷があり、階段状になだらかに傾斜した岩盤の上を落差として約30m、長さにして約100mにわたって滑り落ちる房総一の名瀑と称される粟又(あわまた)の滝があります。

 この「たいとう」、「おんじゅく」、「あじろ」、「かつうら」、「なめかわ」、「おせんころがし」、「あわまた」は、マオリ語の

  「タイ・トウ」、TAI-TOU(tai=the sea,the coast,wave;tou=dip into a liquid,wet,lower end of anything)、「波に洗われている(岬)」

  「オ・ナチ・ウク」、O-NATI-UKU(o=the...of,belonging to;nati=pinch,contract;uku=wash,white clay)、「(山の間に)挟まれて洗濯されたような場所」(「ナチ」の「ナ」が「ン」に、「ナチ」の「チ」と「ウク」が連結して「チュク」から「シュク」となった)

  「ア・チラウ」、A-TIRAU(a=the...of,drive;tirau=stick,pick root crops,out of the ground with a stick)、「(草木の)根を掘り出して捨てた跡のような(湾)」(「チラウ」のAU音がO音に変化して「チロ」となった)

  「カハツ・ウラ(ン)ガ」、KAHATU-URANGA(kahatu=upper edge of a seine net;uranga=act or circumstance of becoming firm,place of arrival)、「地曳網のようにたるんでいる・船が発着する場所(浦)」(「カハツ」の「ハ」と「ウラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落した)

  「ナ・マイカ・ワ」、NA-MAIKA-WA(na=by,belonging to;maika=quietly,basket for cooked food;wa=definite space,area)、「静かな・土地」または「料理を盛る籠・のような・(丸い)地形の場所」(「マイカ」のAI音がE音に変化して「メカ」となった)

  「オ・テナ・コロ・カチ」、O(the place of)-TENA(encourage,urge forward)-KORO(desire,intend)-KATI(cease, be left in statu quo)、「とても前へ・一歩も進むことが・できない・例の(絶壁の)場所」(「テナ」が「セナ」から「セン」と、「カチ」が「ガシ」となった)

  「アワ・マタ」、AWA-MATA(awa=channel,river,groove;mata=face,surface,headland)、「表面が・川のような(滝)」

の転訛と解します。

 

(19) 安房(あわ)国

 

a 安房国、安房郡

 安房国は、房総半島を東西に連なる上総丘陵の南斜面に位置し、鴨川や館山などのまとまた平地と海岸線に沿う狭い台地が展開する地域で、鋸(のこぎり)山(329メートル)と清澄(きよすみ)山(383メートル)を結ぶ清澄山脈が安房国と上総国の境界をなしています。

 安房国は、養老2(718)年に上総国から平郡(へぐり)、安房(あわ)、朝夷(あさひな)、長狭(ながさ)の4郡が分かれて成立しました(後に天平13(741)年から天平宝字1(757)年まで上総国に併合しています)。かつて『国造本紀』に成務朝に定まつたと伝える阿波国造と、『古事記』神武天皇段にみえる長狭国造の地域です。「安房」の国名は、(1)阿波とおなじく「粟」の産地、

(2)阿波から天富命が斎部の一族を率いて移住してきたから、

(3)「崖地」の称などの説があります。

 また、安房郡は、おおむね現館山市(北端の一部を除く)、三芳(みよし)村(東部。平久里(へぐり)川の下流の平野を中心とする区域を除く)、白浜町(西部)の地域です。

 この「あわ」は、マオリ語の

  「アワ」、AWA(channel,river,gorge)、「海峡(に面した地域)」

の転訛と解します。

 

b 館山(たてやま)市・相浜(あいのはま)・布良(めら)

 館山市は、県の南部、館山湾に臨む市で、市名は里見氏が築いた館山城に由来します。

 館山市南部の字大神宮に安房国一宮の安房神社が鎮座します。かつて旧大神宮村の村域には、祭神天富命が上陸した土地と伝える帯状の土地が海岸まで延びており、その土地を挟んで北に旧相浜(あいのはま)村、南に旧布良(めら)村がありました。

 この「たてやま」、「あい(の浜)」、「めら」は、マオリ語の

  「タタイ・イア・マ」、TATAI-IA-MA(tatai=arrange,adorn,apply as ornament;ia=indeed;ma=white,clean)、「(形が)整っている・実に・清らかな(山。そこに築かれた城。その山のある地域)」(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「アイ」、AI(marking place of an action or event)、「記念すべき(祖神が上陸した)場所」

  「メラメラ」、MERAMERA(prepared by steeping in water)、「(干物を水に漬けけて)料理の準備をした(場所)」(反復語尾が脱落して「メラ」となつた)

の転訛と解します。

 

c 洲崎(すざき)・大房(だいぶさ)岬・北条(ほうじょう)海岸・那古(なご)町船形(ふなかた)

  館山湾は、洲崎(すのさき。古くは「すざき」と呼んでいたようです)と大房岬に抱かれ、波静かなところから鏡ケ浦とも呼ばれ、海水浴場として知られる北条海岸や、那古町の船形漁港があります。

 この「すざき」、「だいぶさ」、「ほうじょう」、「なご」、「ふなかた」は、マオリ語の

  「ツタキ」、TUTAKI(meet,shut up in an enclosure,close up)、「(潮、船、人などが)寄り集まる(場所)」

  「タイ・プタ」、TAI-PUTA(tai=the sea,tide,wave;puta=opening,pass through in or out)、「潮流が出入りする(場所)」または「海が口を開いている(場所)」

  「ハウ・チ・アウ」、HAU-TI-AU(hau=wind,breath,famous,vitality of men;ti=throw,cast,overcome;au=sea,current,firm)、「風が抑えられた(波が静かな)海(海岸)」(「ハウ」、「アウ」のAU音がOU音に変化し、「ホウ・チ・オウ」から「ホウショウ」となった)

  「ナ・ア(ン)ゴ」、NA-ANGO(na=belonging to;ango=gape,be open)、「口を開けている(湾)」

  「フナ・カタ」、HUNA-KATA(huna=cinceal,destroy;kata=opening of shellfish)、「浸食された貝が口を開けている(ような地形の場所)」

の転訛と解します。

 

(20) 平群(へぐり)郡

 

a 平群郡

 平群郡は、おおむね現館山市(北部)、安房郡鋸南町、富山(とみやま)町、富浦町、三芳村(北西部。平久里川の下流の平野を中心とする区域)の区域です。『和名抄』は「倍久利」と訓じています。安房国の国府が所在し(三芳村府中)、国分寺も所在(館山市国分)しました。

 この「へくり」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ヘ・クリ」、HE-KULI(he=wrong,mistaken,troublous;kuli(Hawaii)=knee)、「故障があって片方の膝を曲げている(川(平久里川)がある地域)」

の転訛と解します。(地名篇(その五)の奈良県の地名の「平群郡」の項を参照してください。)

 

b 鋸(のこぎり)山・富山(とみさん)・金比羅(こんぴら)峰・観音(かんのん)峰

 千葉県南部、富津市と安房郡鋸南町の間に、鋸(のこぎり)山(329メートル)がそびえています。東京湾に臨み、砂質凝灰岩の岩峰がのこぎりの歯のように連なり、古くから東京湾を航行する船の目標とされてきました。

 旧岩井町と旧平群村が合併した富山(とみやま)町の中央に、『南総里見八犬伝』で知られる富山(とみさん。眺望に勝れる金比羅(こんぴら)峰(350メートル)と行基開創とつたえる観音堂がある樹木に覆われた観音(かんのん)峰(342メートル)の双耳峰からなります)があります。

 この「のこぎり」、「とみさん」、「こんぴら」、「かんのん」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ノコ・ホ(ン)ギ・リ」、NOKO-HONGI-RI(noko=stern of a canoe;hongi=smell,salute by pressing the noses together;ri=screen,protect,bind)、「カヌーの船尾のような(屹立した)峰が・((マオリ族の風習の)鼻を付け合って挨拶しているように)近接している・衝立(のような山)」(「ノコ」の語尾のO音と、「ホ(ン)ギ」のH音が脱落し、NG音がG音に変化して「オギ」となったその語頭のO音が連結して「ノコギ」となった)

  「タ・ウミイ・タ(ン)ガ」、TA-UMII-TANGA(ta=the;(Hawaii)umii=clamp,pinch;tanga=be assembled)、「(二つの峰を)つまんでくっつけた(山)」

  「コノ・ピララ」、KONO-PIRARA(kono=bend,curve,loop,knot;pirara=separated,wide apart,branching)、「(観音峰と)離れている結び目(のような峰)」

  「カネ・オ(ン)ゲ」、KANE-ONGE(kane=head;onge=scarce,rare)、「珍しい頭(のような峰)」

の転訛と解します。

 

c 岩井(いわい)海岸

 富山町の岩井(いわい)海岸は、遠浅で波静かな海岸として知られ、内房を代表する海水浴場となつています。

 この「いわい」は、マオリ語の

  「イ・ワイ」、I-WHAI(i=beside;whai=settled,constantly resident)、「定住地一帯」

の転訛と解します。(地名篇(その六)の茨城県の地名の「岩井市」の項を参照してください。)

 

(21) 朝夷(あさひな)郡

 

a 朝夷郡

 朝夷郡は、現安房郡和田町、丸山町、千倉町、白浜町(東部)の区域です。『和名抄』は「阿左比奈」と訓じています。近世以降は「あさい」と呼ばれました。

 この「あさひな」は、マオリ語の

  「アタ・ヒ(ン)ガ」、ATA-HINGA(ata=gently,slowly,clearly,form,shape;hinga=fall from an erect positin,lean)、「高いところからゆるやかに低く落ち込んでいる地形の地域」

の転訛(「アタ」のT音がS音に変化し「アサ」と、「ヒ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ヒナ」となった)と解します。

 

b 忽戸(ごっと)の鼻・野島(のじま)崎

 千倉町白間津(しらまづ)から白子(しらこ)までは朝夷七浦といい、川尻川以南は屈折に富む岩石海岸で、その東端部は忽戸(ごっと)の鼻と呼ばれています。 白浜(しらはま)町の房総半島の最南端に野島(のじま)崎があります。

 この「ごっと」、「のじま」は、マオリ語の

  「(ン)ゴト」、NGOTO(head)、「頭(のような形をした突出部)」

  「ノチ・マ」、NOTI-MA(noti=pinch,contract;ma=white,clean)、「(海に)挟みつけられている清らかな(岬)」

の転訛と解します。

 

(22) 長狭(ながさ)郡

 

a 長狭郡

 長狭郡は、おおむね現鴨川市、安房郡安房小湊町の区域です。『和名抄』は「奈加佐」と訓じています。

 この「なかさ」は、マオリ語の

  「ナ・カタ」、NA-KATA(na=belonging to;kata=opening of shell-fish)、「貝が口を開いたような地形(加茂川が流れる楔状の平野がある)の地域」

の転訛と解します。

 

b 鴨川(かもがわ)市・東条(とうじょう)御廚・太海(ふとみ)

 鴨川市は、千葉県南部、外房にある市で、中央を加茂川が流れ、鎌倉時代に伊勢外宮領の東条(とうじょう)御廚に属し、戦国時代に里見氏が開き、江戸時代に幕府の馬牧となった嶺岡(みねおか)牧の中心でした。市名は、古代の豪族「加茂」氏に由来するとされます。

 水族館やホテルが建ち並ぶ砂浜の東条海岸の南には、嶺岡山地の末端が島々となって「鴨川松島」の名があります。無霜地帯である付近の海岸は花の栽培が盛んで、太海(ふとみ)にはフラワーセンターがあります。

 この「かも(川)」、「とうじょう」、「ふとみ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「カモ」、KAMO(eyelash,eyelid,eye)、「瞼(眼のような地形の地域を流れる川)」

  「トウ・チオ」、TOU-TIO(tou=dip into a liquid,wet;tio=cry,call)、「潮騒が聞こえる(海水に浸かって泣いているような海岸)」

  「フ・タ・ウミイ」、HU-TA-UMII(hu=promontry;ta=dash,beat,lay;(Hawaii)umii=clamp,pinch)、「(海に)締め付けられ浸食されている尾根」

の転訛と解します。

 

c 清澄(きよすみ)山

 安房小湊町の北に、安房と上総の分水界をなす清澄(きよすみ)山(383メートル)があります。山頂には日蓮が得度した清澄寺があります。

 この「きよすみ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「キオ・ツ・ミヒ」、KIO-TU-MIHI((Hawaii)kio=projection,protrude;tu=stand,settle;mihi=greet,lament)、「神々しい突出した(山)」

の転訛(「ミヒ」の語尾の「ヒ」が脱落した)と解します。

 
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13A 東京都の地名(区部)

 

(1)武蔵(むさし)国

 

 武蔵は、律令制下の国名で、現在の埼玉県、東京都(伊豆国に属した島嶼部を除く。)および神奈川県の川崎市、横浜市を含む地域でした。関東平野の西部に位置し、初めは荒川流域の无邪志国、多摩川流域の胸刺国、知々夫国の三国に分かれていたものが、大化改新以降統一されて武蔵国となったようです。最初は東山道に属していましたが、後に東海道に編入されました。

 『和名抄』は「牟佐之」と訓じます。「むさし」の語源は、(1)『古事記』、『日本書紀』、『国造本紀』の「无邪志」から、(2)「関東武人の蔵」の意、(3)日本武尊が秩父嶺に武具を蔵したことによる、(4)相模は「牟佐上(むさかみ)」の語頭の「ム」が脱落し、武蔵は「牟佐下(むさしも)」の語尾の「モ」が脱落した、(5)「御坂上」が相模、「御坂下」が武蔵、(6)駿河・相模・武蔵を弟橘比賣の歌から「佐斯」とし、「佐斯上」から相模、「身佐斯」から武蔵となった、(7)「胸刺」から、(8)「ム(馬)・サシ(城)」の意、(9)「ムサ(草木)・シミ(茂る)」の転など数多くの説がありますが、定説はありません。

 この地域の大半は武蔵野と呼ばれる洪積台地で、西の関東山地を水源とする水系によって扇状地が作られ、その後地盤が隆起したものです。その表面は富士山の火山灰土である関東ローム層、下は扇状地性砂礫層または浅海の海底が隆起した砂泥層で水を透し易いため地下水位が低く、水利の便が悪いために台地上の開発が遅れ、また水を求めて台地や崖線の縁に住居を営みました。縄文時代の遺跡はその殆どが台地・崖線の縁にあります。また、この武蔵野には秋から冬にかけて烈しい風が吹きすさぶ特徴がありました。

 この「むさし」は、このような風土の特徴を簡潔に表現した地名で、マオリ語の

  「ムム・タハ・チ」、MUMU(baffling,boisterous wind,valiant warrior)-TAHA(side,edge,go by)-TI(throw,cast)、「(秋から冬に)烈しい風が吹く・(台地の)縁に・人が住む(地域。武蔵国)」(「ムム」の反覆語尾が脱落して「ム」と、「タハ」のH音が脱落して「タ」から「サ」と、「チ」が「シ」となった)

の転訛と解します。

 なお、稀代の剣豪、宮本武蔵の「むさし」も同じ語源、同じ単語の別の意味で、「勇猛な武士で・(武者修行の)旅に・出た者」の意味と解することができます。

 

(2)南葛飾郡

 

 南葛飾郡は、もと下総国に属し、のち武蔵国に移り、現在東京都に編入されているのは、おおむね葛飾区、江戸川区、墨田区および江東区の区域です。「葛飾」は、『和名抄』は「かとしか」と訓じています。

 

(3)葛飾(かつしか)区

 

 都の北東端、江戸川と荒川(旧荒川放水路)に挟まれ、中央を中川・新中川が貫流する沖積地で、埼玉県と千葉県に接しています。昭和7(1932)年、金(かな)、新宿(にいじゅく)等5町と水元(みずもと)、亀青(かめあお)2村が合併して葛飾区となりました。

 

a 金町(かなまち)

 区の東北部、江戸川に大きく突き出た地域が古くは金町郷でした。柴又帝釈天の北の河岸にある金町浄水場は、もと湿地(古くは遊水池)であった場所と思われます。

 この「かなまち」は、マオリ語の

  「カナ・マチ」、KANA-MATI(kana=stare wildly,bewitch;mati=surfeited)、「睨んでいる(眼のような)・(水を)たらふく呑んでいる(湿地の。土地)」

の転訛と解します。

 

b 水元(みずもと)

 区の北部に水元公園があります。近くには、大岡政談「縛られ地蔵」の南蔵院があります。水元公園の地は、もと江戸幕府が潅漑用に開削した小合(こあい)溜井です。

 この「こあい」、「みずもと」は、マオリ語の

  「コ・アイ」、KO-AI(ko=an implemen for digging;ai=procreate,beget)、「鍬を振るって作った・子供(の水路。本体(親)の水路を補完する水路)」または「コワエ」、KOWAE(divide)、「(土地を)切り割った(水路)」

  「ミ・ツモウ・ト」、MI-TUMOU-TO(mi=stream,river;tumou,tumau=fixed,continuous;to=drag,open or shut a door or window)、「潮の干満に・応じて水位が定まる(上下する)・川(水面。貯水池)」

の転訛と解します。

 

c 柴又(しばまた)

 柴又帝釈天や「フーテンの寅さん」で有名な柴又は、養老5(721)年の戸籍に「嶋俣里」とあり、後に嶋俣、柴俣から江戸期に柴又村となつています。河岸は、矢切の渡しです。(地名篇(その)の県の( )の項を参照して下さい。)

 この「しばまた」は、マオリ語の

  「チパ・マタ」、TIPA-MATA(tipa=dried up,broad;mata=deep swamp)、「湿地が乾燥した場所」の

の転訛と解します。

 

d 高砂(たかさご)・曲金(まがりかね)

 高砂は、京成本線高砂駅一帯の地区で、中川東岸と同放水路の建設によつて飛び地となつた地区を含んでいます。古くは曲金(まがりかね)村に属しましたが、昭和7年葛飾区の誕生の際改名されました。ここは『続日本紀』神護景雲2(768)年条所出の曲金駅に比定する説があります。

 この「まがりかね」は、マオリ語の

  「マ(ン)ガ・リ・カネ」、MANGA-RI-KANE(manga=branch of a river,watercourse;ri=screen,protect,bind;kane=head,choke)、「川の支流に接する頭(のように高くなつた場所)」

の転訛と解します。

 

e 青戸(あおと)

 青戸は、平安中期以降葛西氏の居城葛西城が置かれ、安房の里見氏と小田原の北条氏が父子二代にわたり激戦を交えた国府台合戦の舞台となった場所です。ここで勝利を収めた北条氏が関東の支配権を確立し、やがて葛西の地が下総国から武蔵国へ移るのです。

 ここには、鎌倉幕府の名判官青砥藤綱が晩年をここで過ごしたという伝説があり、京成電鉄「青砥」駅、環状7号線「青砥橋」の表示はこれによるものです。

 この「戸」は、船着き場の「津」の転訛という説があります。

 この「あおと」は、マオリ語の

  「アオ・ト」、AO-TO(ao=scoop up with both hands,take in quantities;to=drag,open or shut a door or window)、「満潮のとき水浸しになる(土地)」

の転訛と解します。

 

f 小菅(こすげ)

 区の西端、荒川と綾瀬川に挟まれた場所の小菅に、東京拘置所があります。江戸期には狩猟場で、徳川吉宗公のとき、小菅御殿が建てられたといい、明治2年には小菅県が置かれています。

 地名は、茅や菅が生い茂っていたからとされます。 

 この「こすげ」は、マオリ語の

  「コツイ・(ン)ガエ」、KOTUI-NGAE(kotui=lace,interlace;ngae=swamp)、「絡み合った・湿地(がある場所)」(「コツイ」のUI音がU音に変化して「コツ」から「コス」と、「(ン)ガエ」のNG音がG音に、AE音がE音に変化して「ゲ」となった)

の転訛と解します。

 

g 亀有(かめあり)・亀無(かめなし)・堀切(ほりきり)・四つ木(よつぎ)

 区の北西部、中川が大きく右岸に食い込んで流れる場所に亀有があります。この地名は中世には「亀無(かめなし。亀梨)」であったのが、江戸時代に「なし」を嫌って「あり」に改めたといいます。

 区の西部、綾瀬川の左岸に堀切があり、菖蒲園で有名です。その南には四つ木があり、水戸街道が通っています。

 この「かめなし」、「ほりきり」、「よつぎ」は、マオリ語の

  「カメ・ナチ」、KAME-NATI(kame=eat;nati=contract,pinch)、「(中川が)食い込んで狭くなっている(場所)」 

  「ホリ・キリ」、HORI-KIRI(hori=cut,be gone by;kiri=skin(kili(Hawaii)=to go or move in a light or sprightly manner))、「軽やかに流れる堀割(のそばの土地)」

  「イオ・ツ(ン)ギ」、IO-TUNGI(io=muscle,line,spur,ridge;tungi=kindle,burn)、「(街道が通る)丘の尾根にある(火を燃やす)集落」

の転訛と解します。

 

(4)江戸川(えどがわ)区

 

 都の東部、葛飾区の南、江戸川と旧江戸川を境に千葉県と接し、荒川の左岸に位置し、中央を新中川が貫流する沖積地です。昭和7(1932)年、小松川(こまつがわ)、松江(まつえ)、小岩(こいわ)3町と瑞江(みずえ)、葛西(かさい)、鹿本(ししもと)、篠崎(しのざき)4村が合併して江戸川区となりました。

 

a 小岩(こいわ)

 区の東北部、江戸川と新中川に挟まれ、JR総武本線が通る地区です。江戸期には、市川橋付近に対岸の市川との間に小岩の渡しがあり、関所が置かれていました。

 地名は、養老年間の戸籍にみえる下総国葛飾郡大島郷甲和里が小岩に転じたとされます。

 この「こいわ」は、マオリ語の

  「コイ・ワ」、KOI-WA(koi=headland,move about,wound with spike;wa=definite space)、「(川の氾濫で)傷を負った場所」

の転訛と解します。

 

b 鹿本(ししもと)・鹿骨(ししぼね)

 旧鹿本村の地名は、鹿骨と松本の合成地名で、鹿骨には昔常陸の鹿島大神が奈良へ向かう途中、神鹿がこの地で死んだのを葬つた塚が鹿見(ししみ)神社にあることによるという伝説かあります。

 この「ししみ」、「ししぼね」は、マオリ語の

  「チチ・ミ」、TITI-MI(titi=peg,comb for sticking in the hair,adorn by sticking feathers;mi=stream,river)、「川の水が櫛をかけたように削つた(土地)」

  「チチ・ホネ」、TITI-HONE(titi=peg,comb for sticking in the hair,adorn by sticking feathers;pone=in dificulties,troubled)、「(川の水が)櫛をかけたように削る災難に遭った(土地)」

の転訛と解します。

 江戸川区南端を通る湾岸道路の下あたりに、かつて江戸川の中州であった蜆(しじみ)島がありましたが、昭和40年代に地下水の汲み上げに伴う地盤沈下で海中に没し、今はその上が埋め立てられています。この「しじみ」も「鹿見(ししみ)」と同じ語源と解します。

 

c 篠崎(しのざき)

 区の東部、東京都の最東端、江戸川から旧江戸川にかけて東に大きく張り出している地区が篠崎です。

 この「しのざき」は、マオリ語の

  「チノ・タハキ」、TINO-TAHAKI(tino=very,main;tahaki=the shore regarded from the water,one side)、「主要な(目立つ)岸(のある場所)」

の転訛と解します。

 

d 欠

(「瑞江(みずえ)」は、大正2年の町村合併による合成地名でしたので削除しました。)

 

e 平井(ひらい)・平江(ひらえ)・逆井(さかさい)

 

 区の西部に、旧中川と荒川に挟まれたゼロメートル地帯の平井があり、「逆井(さかさい)の富士」の浅間神社、灯明寺別堂の「平井聖天」があります。

 この平井は、平安中期にこの地を支配した葛西氏が伊勢神宮に寄進した葛西御廚33郷の中の「上平江(かみひらえ)、下平江」が戦国期に「上平井、下平井」となつたとされます。

 この「ひらえ」、「ひらい」、「さかさい」は、マオリ語の

  「ヒラ・ヘ」、HIRA-HE(hira=great,important,abundant;he=wrong,in trouble or dificulty,mistake)、「無数の災難に見舞われる(土地)」(「ヘ」のH音が脱落して「エ」となつた)

  「ヒラ・ヱ」、HIRA-WE(hira=great,important,abundant;we=water)、「大量の水(をかぶる土地)」(「ヱ」のE音がI音に変化して「ヰ」となった)

  「タカ・タイ」、TAKA-TAI(taka=revolve,go or pass round;tai=the coast,tide)、「(潮の干満によつて)川の流れが順逆交替する(場所)」

の転訛と解します。

 

(5)墨田(すみだ)区

 

 都の東部、隅田(すみだ)川の東岸に位置し、隅田川と荒川、旧中川に挟まれた沖積地にあります。昭和22(1947)年、本所(ほんじょ)、向島(むこうじま)2区が合併して墨田区となりました。区名はいうまでもなく川名によります。

 

a 隅田(すみだ)川

 隅田川は、古くは入間川の下流でしたが、寛永年間の荒川の付け替えにより、荒川の下流となりました。この結果元荒川沿岸の低湿地の開発は進みましたが、隅田川沿岸の水害は激化し、明治43(1910)年の大水害を契機として東京都北区岩淵から東京湾に至る荒川放水路(現荒川)が開削され(明治44年着工、昭和5年完成)、現在は岩淵水門から下流の荒川の支流の名称となりました。近世初頭までは武蔵と下総の国境で、東岸の墨田、江東の両区と、西岸の台東、中央の両区との境となっています。この川は、古くは須田(すだ)川、あすだ川、染田川、みやこ川、両国川、浅草川(吾妻橋から下流)、大川(河口付近)などとも呼ばれました。

 この「すみだ」、「すだ」は、マオリ語の

  「ツ・ミ・タ」、TU-MI-TA(tu=stand,settle,girdle;mi=stream,river;ta=dash,beat,lay)、「襲ってくる(氾濫する)・水の・帯(のような川)」(「ツ」が「ス」となった)

  「ツ・タ」、TU-TA(tu=girdle;ta=dash,beat,lay)、「襲ってくる(氾濫する)・帯(のような川)」(「ツ」が「ス」となった)

の転訛と解します。

 

b 向島(むこうじま)

 地名は、浅草からみて川向こうの島のようにみえるからとされます。江戸時代初期将軍家専用の「御前菜畑」があったことから「向島御庭」と呼ばれ、後に付近一帯を向島と呼ぶようになったとする説があります。

 この「むこうじま」は、マオリ語の

  「ムア・コウ・チマ」、MUA-KOU-TIMA(mua=the front(place),before;kou=knob,stump;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「前方にある・(切り株のような)一段高くなった・掘棒で掘る(農耕をしている)場所」(「ムア」の語尾のA音が脱落して「ム」となった)

  または「ムア・コウ・チマ(ン)ガ」、MUA-KOU-TIMANGA(mua=the front(place),before;kou=knob,stump;timanga=elevated stage on which food is kept)、「前方にある・(切り株のような)一段高くなった・食料貯蔵庫(のような場所)」(「ムア」の語尾のA音が脱落して「ム」と、「チマ(ン)ガ」の名詞形語尾のNGA音が脱落して「チマ」から「シマ」なった)

の転訛と解します。

 

c 鐘ケ淵(かねがふち)

 向島の北端、東北流する隅田川が荒川区南千住八丁目の半島のように突き出た箇所を回って大きく南に流れを変える場所が鐘ケ淵で、狭義ではここから下流が隅田川です。

 この「かねがふち」は、マオリ語の

  「カネ・(ン)ガ・プチ」、KANE-NGA-PUTI(kane=head;nga=breathe;puti=cross-grained of timber,dried up)、「頭のような場所の・呼吸する(潮の干満によって逆流する)・樹木の節のような渦が巻くところ(淵)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

の転訛と解します。

 

d 牛島(うしじま)・押上(おしあげ)

 言問(こととい)橋東詰の隅田公園に向島総鎮守の牛島神社があり、その東に押上地区があります。牛島郷は、かつて向島の中心でした。

  この「うしじま」、「おしあげ」は、マオリ語の

  「ウチ・チマ」、UTI-TIMA(uti=bite;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘ったような傷がある(場所)」

  「オチ・ア(ン)ガイ」、OTI-ANGAI(oti=finished;angai=north-north-west wind,on the west coast)、「川の西岸に面した土地の端」(「ア(ン)ガイ」のAI音がE音に変化して「ア(ン)ゲ」となった)

の転訛と解します。

 

e 横網(よこあみ)

 JR両国駅の北、国技館、江戸東京博物館のほか、関東大震災の悲劇の舞台となつた被服廠跡があるのが横網です。

 この「よこあみ」は、マオリ語の

  「イホ・カウ・アミ」、IHO-KAU-AMI(iho=from above,downwards;kau=swim or wade across;ami=gather,collect)、「上流から押し流され(た土砂が)横に方向を変えて堆積した(土地)」

の転訛(「イホ」のH音が脱落して「ヨ」となり、「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)と解します。

 

f 錦糸(きんし)

 JR錦糸町駅に名が残る錦糸は、本所七不思議の一つ、「おいてけ堀」に比される本所錦糸堀に由来するとされ、「岸堀」の転などとする説があります。

 この「きんし」は、マオリ語の

  「キノ・チ」、KINO-TI(kino=evil,bad,ugly;ti=throw,cast,overcome)、「悪いものに憑かれる(堀)」

の転訛と解します。

 

(6)江東(こうとう)区

 

 都の南東部、隅田(すみだ)川の東岸に位置し、墨田区の南、隅田川と旧中川に挟まれたゼロメートル地帯の沖積地と東京湾埋め立て地にあります。昭和22(1947)年、深川(ふかがわ)、城東(じょうとう)2区が合併して江東区となりました。区名は、隅田川の東の意です。

 

a 深川(ふかがわ)・小名木(おなぎ)川

 深川の地名は、江戸時代の初めに摂津の人深川八郎右衛門により開拓されたことによるとされ、また深川を東西に貫流する小名木川は、江戸時代に行徳の塩を輸送するために中川と隅田川の間に開削されたものと伝えられていますが、いずれもこの土地または河川の属性を表す地名としてすでに存在したか、または新たに命名された可能性があると考えます。

 この「ふかがわ」、「おなぎ」は、マオリ語の

  「フカ・カワ」、HUKA-KAWA(huka=foam,trouble;kawa=heap,channel)、「災害(川の氾濫)に悩む水路(のある土地)」

  「オ・ナキ」、O-NAKI(o=of,belonging to;naki=glide,move with an even motion)、「流速が一定の(川)」

の転訛と解することができます。

 

b 猿江(さるえ)

 この地は、江戸期の猿江村ですが、康平年間の源義家奥羽征伐の頃、「源義家臣猿藤太」と書いた鎧を着用した武士の死体が漂着したのを葬つたことに由来するとされています。

 この「さるえ」は、マオリ語の

  「タル・ヱ」、TARU-WE(taru=painful,acute,shake,overcome;we=water)、「水(川の氾濫)に・苦悩する(土地)」

の転訛と解します。

 

c 亀戸(かめいど)

 区の北東部にあり、南葛飾郡亀戸町が昭和7年に城東区に、昭和22年に江東区に編入されました。地名は、亀に似た島であったことから亀村となり、村内の亀ケ井にちなんで亀井戸から亀戸となつたといいます。

 この「かめいど」は、マオリ語の

  「カメ・イト」、KAME-ITO(kame=eat,food;ito=object of revenge)、「(川の流れが)仇のように浸食する(土地)」

の転訛と解します。

 

d 富岡(とみおか)

 この地名は、ここに富岡八幡宮(寛永4(1627)年創建とされます)があることにちなみます。その元社は、横浜市金沢区富岡の富岡八幡宮(俗称「波除八幡」)とも、砂町の富賀岡神社ともする説があります。

  「ト・ミ・ホカ」、TO-MI-HOKA(to=drag,open or shut a door or window;mi=stream,river;hoka=projecting sharply upwards,pierce,screen made of branches stuck into the ground)、「潮の干満がある・水面の(中に)・木を地面に刺して囲つた(埋め立てた土地)」(「ホカ」のH音が脱落して「オカ」となつた)

の転訛と解します。

 

e 欠

(豊洲は、江戸期から細々と埋立が行われてきた地であったという文献を読んだ記憶から、江戸期に発する地名として解釈を行いましたが、その文献が見あたりませんので、削除しました。)

 

f 砂町(すなまち)

 ここもかつては海に臨む干潟でしたが、万治2(1659)年砂村新左右衛門が開拓して砂村新田とし、逐次埋立てが進んだものと伝えられます。

 この「すな」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ」、TUNGA(circumstance of standing,of being wounded)、「(川の流れによつて)傷ついている場所」

の転訛(「ツ(ン)ガ」の語源である原ポリネシア語の「ス(ン)ガ、SUNGA」のNG音がN音に変化して「スナ」となつた)と解します。

 

(7)足立(あだち)区

 

 都の北東部、北は埼玉県に接し、荒川、綾瀬川、中川の沖積地にあります。昭和7(1932)年、千住(せんじゅ)、西新井(にしあらい)、梅島(うめじま)3町と舎人(とねり)、綾瀬(あやせ)、伊興(いこう)等7村が合併して足立区となりました。

 区名の「あだち」は、地名篇(その七)の埼玉県の(2)足立郡の項を参照して下さい。

 

a 千住(せんじゅ)

 足立区南端と荒川区中東部、隅田川を挟んで南北に広がる地区です。慶長2(1597)年水戸街道と佐倉道の分岐点が宿駅に指定され、江戸時代日光(奥羽)街道第1番目の千住宿として栄え、隅田川では最初に橋が架けられました。

 古くは専住、千寿、千手とも書き、地名は、(1)千住2丁目の勝専寺の荒川から引き揚げられたという千手観音にちなむ、

(2)千葉氏の所領で「千葉住村」から、

(3)足利義政の愛妾「千寿の前」の出生地など諸説あります。

 この「せんじゅ」は、マオリ語の

  「テネ・チウ」、TENE-TIU(tene=be importunate;tiu=wander,sway to and fro)、「(隅田川(旧荒川の下流)の流路が)しつこく移動する(場所)」

の転訛(原ポリネシア語の「セネ、SENE」が「セン」になつた)と解します。

 

b 綾瀬(あやせ)

 綾瀬は、もと南足立郡綾瀬村で、綾瀬川と葛西用水に囲まれた低湿地であり、江戸期には新田開発で排水に苦労しています。古くは流路が定まらない小河川で、川名は「あやしの川」からという説があります。

 この「あやせ」は、マオリ語の

  「ア・イア・テ」、A-IA-TE(a=urge,drive;ia=endeed;te=crack)、「実に(水を強制的に)押し出す裂け目(川)」

の転訛と解します。

 

c 西新井(にしあらい)

 区中西部、荒川の北側の低地にあり、もと室町時代には下足立郡淵江郷、のち西新井村で、天長3(826)年弘法大師創建という西新井大師(総持寺)の門前町として江戸時代に栄えました。地名は、大師堂の西から観音像が掘り出され、その跡が「加持の井」と呼ばれ、お堂の「西にある新らしい井」の意によるとされます。

 この「にしあらい」は、マオリ語の

  「ヌイ・チア・ライ」、NUI-TIA-RAI(nui=big,large;tia=stick in,adorn by sticking feathers,navel;rai=ribbed,furrowed)、「大きな皺の寄ったへそ(のような土地)」

の転訛と解します。

 

d 舎人(とねり)・古千谷(こちや)・伊興(いこう)

 区の北西部にある地名で、この「とねり」、「こちや」、「いこう」は、マオリ語の

  「トネ・リ」、TONE-RI(tone=projection,knob;ri=screen,protect,bind)、「丘が連らなった(土地)」

  「コチ・イア」、KOTI-IA(koti=cut in two,divide;ia=indeed)、「実に・(舎人町を)二つに分断している(土地)」

  「イ・コウ」、I-KOU(i=beside;kou=knob,stump)、「丘のそば」

の転訛と解します。

 

e 保木間(ほきま)

 区の北部に在る地名で、この「ほきま」は、マオリ語の

  「ホキ・マ」、POKI-MA(poki=cover over,place with the concave surface downwards;ma=white,clean)、「中窪みの清らかな(土地)」

の転訛と解します。

 

(8)豊島(としま)郡

 

 武蔵国の郡名で、初見は『続日本紀』仁徳天皇18年春の条、『和名抄』は「止志末」と訓じています。「砥島」とも書いた(『新編武蔵風土記稿』)ようです。東は隅田川を境に葛飾郡、北は荒川を境に足立郡、西は新座郡、多摩郡、南は渋谷川を境に荏原郡に接していました。おおむね現在の北、荒川、台東、板橋、練馬、豊島、文京、新宿の各区と渋谷、港、千代田の各区の一部の地域です。

 郡名の由来は、古くは古東京湾は郡の東端まで入り込んでおり、沿岸に多くの島があったことによるという説があります。

 また、豊島(としま)の地名は、近世では豊島郡岩淵領豊島村(現北区豊島1〜8丁目)として残ります。この地名の由来は、(1)河口に洲が多数ある意、

(2)古代の豊島駅の所在地であった、

(3)豊嶋清光の館があったことによるなどの説があります。

 この「としま」は、いずれも、マオリ語の

  「ト・チマ」、TO-TIMA(to=drag,open or shut a door or window;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「(潮の干満に伴って)川水が逆流する掘り棒で掘ったような出入りのある(地形の地域)」

の転訛と解します。

 

(9)北(きた)区

 

 都の北東部、北は荒川を境に埼玉県に接します。昭和7(1932)年、北豊島郡王子(おうじ)、岩淵(いわぶち)2町が合併して王子区、昭和22年に滝野川区と合併して北区となりました。比高20メートル余の山手崖線の崖下を通るJR京浜東北線を境に北東部は荒川の沖積地、南西部は山手台地に分かれます。

 

a 王子(おうじ)・岸(きし)

 王子は、古くは岸村でしたが、平安末期にこの地を支配していた豊島氏が紀州の熊野若一王子を勧請して王子村と改めたといいます。王子駅西の丘の突端には王子神社が、駅の北西の台地の崖下には古典落語「王子の狐」の舞台王子稲荷があり、王子神社の南、滝野川渓谷を隔てた飛鳥山とともに江戸時代は行楽地として栄えました。

 この「おうじ」、「きし」は、マオリ語の

  「オウ・チ」、OU-TI((Hawaii)ou=flow as on a net,lean on something,protrude;ti=throw,cast)、「突出した丘が放り出されている(土地)」

  「キヒ・チ」、KIHI-TI(kihi=cut off,destroy completely;ti=throw,cast)、「切り落として放り出した(ような崖のある場所)」(「キヒ」のH音が脱落した)

の転訛と解します。

 

b 赤羽(あかばね)・岩淵(いわぶち)・志茂(しも)

 区の北部、荒川を隔てて埼玉県と接する地区で、このあたりは江戸時代から洪水と流路の変転に悩まされてきました。赤羽は、「赤い埴(はに。粘土)」の意とする説があります。岩淵は、荒川のほとりで「岩の多い淵」、アイヌ語で「渡し場」の意とする説があります。志茂は、江戸期には「下」村ですが、上村の地名は見当たりません。

 この「あかばね」、「いわぶち」、「しも」は、マオリ語の

  「アカ・パネ」、AKA-PANE(aka=clean off,scrape away;pane=head)、「表面を削り取られた頭(のような地形の場所)」

  「イワ・プチ」、IWA-PUTI(iwa=nine;puti=dried up,cross-grained of timber)、「九つもの(たくさんの)木の節(のような渦が巻いている川の淵)」または「イ・ハプア・チ」、I-HAPUA-TI(i=beside;hapua=hollow,pool,lagoon;ti=throw,cast)、「遊水池が放り出されている場所のそば」

  「チモ」、TIMO(peck,prick)、「鳥がついばんだ(ように小さな窪みがたくさんある土地)」

の転訛と解します。

 

c 浮間(うきま)

 区の北西部、荒川と新河岸川に挟まれた中州にある桜草で有名な地区で、もと埼玉県北足立郡横曽(よこそ)村大字浮間でした。かつて浮間は、荒川に囲まれ、「浮島」とよばれていたのが変じたとされます。浮間と板橋区舟渡との境に浮間ケ池がありますが、この池はかつては荒川の蛇行流路の名残りで、荒川と新河岸川を結ぶ水路であったものが川の氾濫によって断ち切られたものではなかったかと考えられます。

 この「うきま」は、マオリ語の

  「フキ・マ」、HUKI-MA(huki=spit,stick in;ma=white,clean)、「(荒川の流れによつて)串刺しにされた清らかな(土地)」

の転訛と解します。

 

d 滝野川(たきのがわ)

 滝野川は、石神井川の下流の別名で、音無(おとなし)川とも呼ばれていました。流れが滝のようであったからとも、紅葉の名所として知られる滝河山金剛寺の山号からともいわれます。

 この「たきのがわ」、「おとなし」は、マオリ語の

  「タ・ハキ・ナウ・カワ」、TA-HAKI-NAU-KAWA(ta=the...of;haki=cast away;nau=come,go;kawa=channel,heap)、「(高い所から下に向かって水を)吐き出して流れて行く水路(川)」

  「アウト・ナチ」、AUTO-NATI(auto=trailing behind,slow,drag out;nati=contract,pinch)、「狭いところを・ゆっくりと流れる(川)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

の転訛と解します。

 

e 神谷(かみや)・十條(じゅうじょう)

 志茂の南、隅田川が大きく食い込むところの沿岸に神谷があり、その西に十條が接しています。

 この「かみや」、「じゆうじょう」は、マオリ語の

  「カミ・イア」、KAMI-IA(kami=eat;ia=current,indeed)、「川に食べられる(浸食される土地)」

  「チウ・チオホ」、TIU-TIOHO(tiu=wander,sway to and fro;tioho=apprehensive)、「(川の流路が)移動することを心配している(土地)」

の転訛と解します。

 

f 田端(たばた)

 田端は、もと豊島郡岩淵領の田端村で、田の端にある集落の意とされます。

 この「たばた」は、マオリ語の

  「タパ・タ」、TAPA-TA(tapa=edge,cut;ta=dash,beat,lay)、「(台地の)端に位置する(場所)」

の転訛と解します。

 

(10)荒川(あらかわ)区

 

 都の北東部、隅田川右岸に位置し、足立、墨田、台東、北の各区に囲まれています。昭和7(1932)年、北豊島郡南千住(みなみせんじゅ)、三河島(みかわしま)、日暮里(にっぽり)、尾久(おぐ)4町が合併して荒川区となりました。区名は、荒川によることは勿論ですが、昭和40年に荒川放水路の工事が完了し、それ以前は鐘ケ淵までは荒川であったのが、岩淵水門から下流が隅田川となつた現在では、地域の中に該当地名をもたない区名となりました。

 

a 三河島(みかわしま)・町屋(まちや)

 区中央部、戦国期以来の三河島の地名は、昭和30年代の住居表示の整備によって姿を消しました。その由来は、(1)かつて川の中州にあり、三筋の川に囲まれていた、(2)長禄年間木戸三河守の館があったからなどの説があります。また、町屋は、もと江戸期に町屋村で、はじめ幕府領、寛文5(1665)年から東叡山寛永寺領でした。

 この「みかわしま」、「まちや」は、マオリ語の

  「ミ・カワ・チマ」、MI-KAWA-TIMA(mi=stream,river;kawa=heap,channel;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「川の水路が掘り棒で掘られたように交錯している(場所)」

  「マチ・イア」、MATI-IA(mati=surfeited;ia=indeed)、「(水を)たらふく呑んでいる(低湿地)」

の転訛と解します。

 

b 日暮里(にっぽり)

 日暮里は、もと新堀(にいぼり)村で、江戸期に道潅(どうかん)山から諏訪台一帯(現在JR西日暮里駅の西の台地)が「文人雅客の風景を探るもの多」く、「日暮しの里」として江戸の名所となり、日暮里村となつたといいます。

 この「にいぼり、にっぽり」、「どうかん」は、マオリ語の

  「ニヒ・ポリ」、NIHI-PORI(nihi=steep;pori=wrinkled as of the skin with fat)、「嶮しい(皮膚がたるんだ)皺(のような崖のある土地)」(「ニヒ」のH音が脱落してが「ニイ」になり、「ニイ・ポリ」が「ニッポリ」となった)

  「タウ・カネ」、TAU-KANE(tau=alight,settle down,beautiful;kane=head)、「美しい頭のような(山)」(「タウ」のAU音がOU音に変化し、濁音化して「ドウ」となつた)

の転訛と解します。

 

c 尾久(おぐ)

 尾久は、古くは小具、越具、奥とも書かれ、その由来は、江戸の奥とする説がありますが、不詳です。

 この「おぐ」は、マオリ語の

  「オ・(ン)グ」、O-NGU(o=the place of;ngu=tatoo marks on the side of the nose)、「(隅田川が)鼻の脇の入れ墨の(ような形に曲がって流れる)場所」

の転訛と解します。

 

(11)台東(たいとう)区

 

 都の東部、隅田川右岸に位置し、荒川、墨田、中央、千代田、文京の各区に囲まれています。昭和22(1947)年、浅草(あさくさ)、下谷(したや)両区が合併して台東区となりました。台東は、「日出る処衆人集まって栄える場所」の字義を持ち(『康煕字典』)、「上野の台地の東」の位置を表すとされます。

 

a 浅草(あさくさ)

 区の東部、江戸最古の寺、金龍山浅草寺を中心とする一帯の地区で、江戸期から門前町として隆盛を極めました。その名の由来は、諸説ありますが、「武蔵野ノ内ニテハ草ノ浅カリシ故ナルヘシ」(『東京府志料』)とされます。

 この「あさくさ」は、マオリ語の

  「ア・タク・タ」、A-TAKU-TA(a=the...of,belonging to;taku=edge,hollow,keep the edge of;ta=dash,beat,lay)、「川岸に沿った地域」

の転訛と解します。

 

b 橋場(はしば)・今戸(いまど)・花川戸(はなかわど)・駒形(こまがた)

 区の東部、隅田川沿いに北から橋場、今戸、花川戸、駒形の地名が並んでいます。

 この「はしば」、「いまど」、「はなかわど」、「こまがた」は、マオリ語の

  「パチ・パ」、PATI-PA(pati=shallow water,ooze;pa=touch,prevent,block up,assault,stockade)、「水が滲み出すのを防いでいる(場所)」

  「イ・マト」、I-MATO(i=beside;mato=deep swamp)、「深い沼地のそば」

  「パンガ・カワ・ト」、PANGA-KAWA-TO(panga=throw,place,lay;kawa=channel,heap;to=drag,open or shut a door or window)、「(塩の干満によつて)流れが逆流する水路がある(場所)」

  「コマカ・タ」、KOMAKA-TA(komaka=sort out;ta=dash,beat,lay)「どちらかというと(水流によつて)浸食されている(場所)」

の転訛と解します。

 

c 千束(せんぞく)・山谷(さんや)・待乳山(まつちやま)

 区の北東部、川沿いからやや中に入ったところには、新吉原遊郭があった千束、遊郭への交通路となっていた隅田川に注ぐ山谷堀の山谷、待乳山聖天の待乳山の地名があります。

 この「さんや」、「せんぞく」、「まつちやま」は、マオリ語の

  「タ(ン)ガ・イア」、TANGA-IA(tanga=be assembled;ia=indeed,current)、「(周囲の排水が)集まった流れ(堀。山谷堀)」(原ポリネシア語の「サ(ン)ガ、SANGA」のNG音がN音に変化して「サナ」から「サン」となつた)

  「テ・(ン)ゴト・ク」、TE-NGOTO-KU(te=the;ngoto=be deep,be intense,head;ku=silent)、「静かで深い(沼。田圃)」(「(ン)ゴト」のNG音がN音に変化して「ノト」となり、「テ・ノト・ク」が「センゾク」になった)

  「マツ・チ」、MATU-TI(matu=fat,cut;ti=throw,cast)、「肥ったもの(丘)が放り出されている(場所。待乳山)」

の転訛と解します。

 

d 下谷(したや)・入谷(いりや)

 区の北部、上野駅の北東にあたる地区を下谷といい、山手台地の東端の上野台に対し、下町の低地を意味するとされます。また、下谷の一部の入谷地区には「恐れ入谷の鬼子母神」(真源寺)があり、朝顔市で有名です。

 この「したや」、「いりや」は、マオリ語の

  「チタハ・イア」、TITAHA-IA(titaha=lean to one side,decline;ia=indeed,current)、「実に一方(隅田川に向って)に傾斜している(土地)」(「チタハ」の語尾の「ハ」が脱落した)

  「イリ・イア」、IRI-IA(iri=be elevated on,rest upon,be heard,a spell;ia=indeed,current)、「実に(有名な神様(鬼子母神)が)鎮座している(場所)」

の転訛と解します。

 

e 上野(うえの)・忍(しのぶ)が岡・不忍(しのばず)池

 区の西部、山手台地突端の上野台とその周辺を上野と呼んでいます。この岡は、古くは忍(しのぶ)が岡と呼ばれていましたが、藤堂高虎の屋敷があったところから、領地の伊賀上野にちなんで命名されたとも、「小高い岡で草の生い茂る地」であったからともいわれます。

 また、不忍(しのばず)池は、古くは東京湾の入り江で、一説には原野の中にはっきり見えるので「不忍」の名がつき、対する上野の山を忍が岡と呼んだといいます。

 この「うえの」、「しのぶ」、「しのばず」は、マオリ語の

  「ウエ・(ン)ガウ」、UE-NGAU(ue=nape of the neck;ngau=bite,hurt.attack)、「えり首を喰いちぎられている(麓に不忍池がある岡)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となつた)

  「チノ・プ」、TINO-PU(tino=main;pu=heap,bundle)、「主要な(目立つ)丘」

  「チノ・パツ」、TINO-PATU(tino=main;patu=screen,boundary,strike,used of washing clothes)、「主要な洗濯場」

の転訛と解します。

 

f 根岸(ねぎし)・三ノ輪(みのわ)

 区の北部、JR鴬谷駅の北東に、江戸中期から文人墨客の隠棲地として有名な根岸があり、上野台の崖下の地の意とされます。またその東北には江戸期には箕里(みのさと)と呼ばれた三ノ輪があります。

 この「ねぎし」、「みのわ」は、マオリ語の

  「(ン)ゲイ(ン)ゲイ・チ」、NGEINGEI-TI(ngeingei=stretching forth;ti=throw,cast,overcome)、「長々と・(平らな土地が)延びている(場所)」(「(ン)ゲイ(ン)ゲイ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に、EI音がI音に変化して「ネギ」となった)

  「ミ(ン)ゴ・ワ」、MINGO-WA(mingo=wrinkled;wa=definite place)、「皺が寄っている(場所)」

の転訛と解します。

 

(12)練馬(ねりま)区

 

 都の北東部にあり、北は埼玉県、板橋区、東は豊島区、南は中野区、杉並区、西は保谷市、武蔵野市に囲まれています。昭和22(1947)年、板橋区のうち旧北豊島郡練馬町と上練馬、大泉、石神井(しゃくじい)、中新井の4村および上板橋村の一部が合併して練馬区となりました。

 区名は、(1)馬を調練した原野に由来する(『新編武蔵風土記稿』)、(2)赤土を練った「ねり場」から、(3)古代の駅の「乗潴(のりぬま)」から(ただし、これを「あまぬま」と読んで、現杉並区天沼とする説もあります)、(4)古く石神井川流域は沼地で、下流の水田開拓からみて奥の「根の沼」からなどの説があります。

 

a 練馬(ねりま)

 この「ねりま」は、マオリ語の

  「ネイ・リマ」、NEI-RIMA(nei=stretched forward,bobbing up and down,shrub;rima=five,hand)、「手指を前方(東方)へ向かつて伸ばしている(ような地形の土地)」

の転訛(「ネイ」の語尾の「イ」が脱落した)と解します。

 この地名の示す地域の広がりは、北縁は立川市を扇頂として北東に流れる黒目川、白子(しらこ)川、石神井川、妙正寺川、善福寺川、神田川、そして南縁は目黒川あたりまでの河川によって形成される「山手に広がる数本の半島状の台地」と考えられますが、さらにもつと広範囲に仙川、野川、多摩川まで含めて、東縁を隅田川とする扇状の広い武蔵野台地のすべてとも考えることもできます。

 

b 白子(しらこ)川・石神井(しゃくじい)川・貫井(ぬくい)川

 白子川は、区の北西部を北東に向かって流れる川です。

 また、区の西部、もと石神井村に石神井池があり、そのほとりに霊石をご神体とする石神(しゃくじん)神社が祀られ、この池を水源の一つとする石神井川が東に流れて隅田川に注いでいます。貫井川は、その支流で、下流の流路は現在貫井四丁目あたりの円形の丘陵を巡って大きく逆S字状にカーブしています。

 この「しらこ」、「しゃくじい」、「ぬくい」は、マオリ語の

  「チラハ・コ」、TIRAHA-KO(tiraha=slow,lying open;ko=dig,a wooden implement for digging)、「掘り棒で掘った水路をゆっくり流れる(川)」(「チラハ」のH音が脱落した)

  「チア・クチ・ウイ」、TIA-KUTI-UI(tia=abdomen,navel;kuti=contract,pinch;ui=loosen noose)、「押し潰されたへそ(偏平な窪地。石神井池または源流の小平市小金井カントリークラブ北辺の細長い池を指すものと思われます)を縛っていた輪縄がほどけたような(川)」(原ポリネシア語の「シア、SIA」のS音がマオリ語ではT音に変化し、「ウイ」のUI音が日本語ではWI音「ゐ」に変化した)

  「ヌク・ウイ」、NUKU-UI(nuku=extend;ui=loosen noose)、「(狩猟に使う)輪縄がほどけて延びている(ような川)」

の転訛と解します。

 

c 土志田(としだ)・谷原(やはら)・田柄(たがら)・羽沢(はざわ)

 区の北部、白子川の流域に土志田地区が、その南の関越自動車道練馬ICを出たところに谷原地区が、その東にもと上練馬村字田柄であった成増飛行場跡、グラントハイツ跡の光が丘と田柄地区が、区の東端、石神井川の流域に羽沢(もとは「はねざわ」といいました)地区があります。

 この「としだ」、「やはら」、「たがら」、「はねざわ」は、マオリ語の

  「ト・チタハ」、TO-TITAHA(to=drag,open or shut a door or window;titaha=lean to one side)、「一方に(白子川に向かって)傾斜して引きずられている(場所)」

  「イア・パラ」、IA-PARA(ia=current,indeed;para=a flake of stone,cut down bush)、「実に石ころだらけの(土地。または薮を切り開いた土地)」

  「タ(ン)ガラ」、TANGARA(loose,unencumbered)、「だだっ広い(何もない土地」)」または「(水を)解放した(雨が降ったときだけ川になつて流れる土地)」

  「ハ・ネイ・タワ」、HA-NEI-TAWA(ha=breathe;nei=stretched forward,bobbing up and down,shrub;tawa=burst open,crack)、「呼吸する(満潮時に河水が逆流してくる)開けた場所(沢)」

の転訛と解します。

 

(13)板橋(いたばし)区

 

 都の北東部にあり、北は荒川を境に埼玉県、北から東は北区、南は豊島区、練馬区、西は埼玉県に囲まれています。昭和7(1932)年北豊島郡板橋、練馬2町と志村、上板橋、赤塚、中新井、上練馬、石神井、大泉7村が合併して板橋区となり、昭和22(1947)年、練馬町と上練馬、大泉、石神井(しゃくじい)、中新井の4村および上板橋村の一部が練馬区として分離しました。江戸期は川越街道に上板橋宿、中山道に下板橋宿が置かれ、宿場町として栄えました。

 

a 板橋(いたばし)

 区名は、中世以来の地名で、石神井川に架けられた橋に由来するとされます。

 この「いたばし」は、マオリ語の

  「イタ・パチ」、ITA-PATI(ita=small,compact;pati=shallow,shallow water)、「ちいさな浅瀬(のある場所)」

の転訛と解します。

 

b 成増(なります)・赤塚(あかつか)

 区の西部に成増台地が広がり、その東にかつて武蔵千葉氏の拠点であった赤塚城のあった赤塚があります。

 この「なります」、「あかつか」は、マオリ語の

  「(ン)ガリ・マツ」、NGARI-MATU(ngari=disturbance,greatness;matu=fat,cut)、「巨大な膨らみ(がある場所)」

  「アカ・ツカ」、AKA-TUKA(aka=clean off,scrape away;tuka,tukatuka=proceed forward)、「表面を拭ったような地面が延びている(場所)」

の転訛と解します。

 

c 舟渡(ふなと)・蓮根(はすね)・徳丸(とくまる)

 中山道の戸田橋(地名篇(その七)の埼玉県の(2)足立郡のhの戸田市の項を参照して下さい。)は、埼玉県戸田市と舟渡町を結んでいます。舟渡と北区浮間の境には浮間ケ池((9)北区のcの浮間の項を参照して下さい。)がありますが、この池はかつては荒川の蛇行流路の名残りで、荒川と新河岸川を結ぶ水路であったものが川の氾濫によって断ち切られたものではなかったかと考えられます。

 また、新河岸川に沿つて蓮根と、高層住宅団地や流通センターが広がる高島平(たかしまだいら)があります。高島平は、幕末に高島秋帆がわが国初の洋式大砲の試射を行った徳丸(とくまる)ケ原で、後に「徳丸田んぼ」、「赤塚田んぼ」が造成された場所です。

 この「ふなと」、「はすね」、「とくまる」は、マオリ語の

  「フナ・ト」、HUNA-TO(huna=conceal,destroy;to=drag,open or shut a door or window)、「(荒川と新河岸川の間の)往来が破壊された(場所)」

  「パツ・ネイ」、PATU-NEI(patu=screen,edge,strike,beat;nei=indicate continuance of action)、「(川が)浸食し続けている(場所)」

  「トウ・ク・マル」、TOU-KU-MARU(tou=dip into a liquid,wet;ku=silent;maru=bruised,crushed)、「水に浸かる静かな浸食された(場所)」

の転訛と解します。

 

d 志村(しむら)・茂呂(もろ)

 中山道の志村には、中世に地形の天険を利用した志村城があり、武蔵千葉氏が拠っていたといいます。この地名は、篠竹が繁茂していた「しのむら」によるという説があります。

 石神井川のほとりの小茂根5丁目は、もと茂呂(もろ)町で、その茂呂遺跡からは旧石器時代の黒曜石製のナイフが出土しています。

 この「しむら」、「もろ」は、マオリ語の

  「チム・ラ」、TIMU-RA(timu=ebb,shoulder,end,tail;ra=wed,yonder)、「(台地の)端(の崖)が連なっている(場所)」

  「マウ・ロ」、MAU-RO(mau=fixed,continuing,caught of fish or bird etc.;ro=roto=inside)、「内陸にある魚鳥などの採取(場所)」

の転訛と解します。

 

(14)豊島(としま)区

 

 都の北東部、武蔵野台地の末端近くにあり、北は板橋区、北区、南は文京区、新宿区、西は練馬に囲まれています。昭和7(1932)年北豊島郡巣鴨、西巣鴨、高田、長崎4町が合併して豊島区となりました。この区名は、古代の豊島郷の中心であったからといいます。この豊島(としま)については、(8)豊島郡の項を参照してください。

 

a 池袋(いけぶくろ)

 新宿とならぶ繁華街となったこの地は、もと池袋村で、地名の由来は江戸期にホタルと月の名所であった丸池周辺が窪地で袋のようであったから、古くおびただしい池があったからなどの説があります。

 この「いけぶくろ」は、マオリ語の

  「イケ・プク・ロ」、IKE-PUKU-RAU(ike=high,strike with a hammeror other heavyinstrument;puku=swelling,abdomen;ro=roto=inside)、「膨らんだ丘の内部を槌でめった打ちにしたような(地形の場所)」

の転訛と解します。

 

b 雑司ヶ谷(ぞうしがや)

 区の南部にあり、もと雑司ヶ谷村で、地名は付近の林野が法明(ほうみょう)寺の雑司料に充てられていたから、後醍醐天皇に仕えた雑司の柳下、戸張氏らが住んていたからなどの説があります。

 この「ぞうしがや」は、マオリ語の

  「トウ・チ(ン)ガ・イア」、TOU-TINGA-IA(tou=dip into a liquid,wet;tinga=likely;ia=indeed,current)、「実に水に浸かっているような(場所)」

の転訛(「チ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「チガ」から「シガ」となった)と解します。

 

c 巣鴨(すがも)

 この地は、もと北豊島郡巣鴨町と巣鴨村で、とげぬき地蔵(高岩寺)付近の門前町は「老人の原宿」といわれる繁昌を見せています。地名は、洲賀茂、洲処面、菅面、洲鴨などとも書かれ、大きな池があって鴨が住んでいたからともいいますが、不詳です。中山道ができるまでは、集落が無かったようで、「江戸近辺、神田の原より板橋宿まで見通し、竹木は一本もなく、皆、野良なりし」(『慶長見聞録』)といいます。

 この「すがも」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ・マウ」、TUNGA-MAU(tunga=circumstance of standing,site;mau=food product,carry,fixed,caught of fish or bird etc.)、「狩猟の場所」

の転訛と解します。

 

d 駒込(こまごめ)・染井(そめい)

 区の東部、文京区にかけてもと駒込村の駒込があり、その西にもと駒込村の枝郷、染井村の染井があります。染井は、江戸時代園芸が盛んで、植木の村として著名です。染井吉野は、幕末にこの地で創出された桜の新品種です。

 駒込の地名の由来は、東征中のヤマトタケルが味方の軍勢をみて「駒込たり」といつた、原野に駒が群れていたから、高麗人が住み、高麗篭から転訛したなどの説があります。

 この「こまごめ」、「そめい」は、マオリ語の

  「コ・マ(ン)ゴ・メ」、KO-MANGO-ME(ko=yonder place,dig with a wooden implement for digging;mango=shark,shark's tooth;me=if,as if)、「掘り棒で掘った鮫の歯のような(急坂のある場所)」 

  「ト・マイヒ」、TO-MAIHI(to=the...of,pregnant;maihi=a house so adorned,embellish)、「家を飾る(植木を生産する)場所」(「マイヒ」のAI音がE音に変化し、H音が脱落して「メイ」となった)

の転訛と解します。

 駒込は、谷の多い地形の地名です。(地名篇(その八)の2の(2)峠地名の馬篭(まごめ)峠の項、次の(15)新宿区のe牛込(うしごめ)の項(24)大田区のa大森・馬込(まごめ)の項を参照して下さい。)

 

(15)新宿(しんじゅく)区

 

 都の中東部、北は豊島区、文京区、東は千代田区、南は港区、渋谷区、西は中野区に囲まれています。明治11(1878)年に東京府15区の一つとして発足した四谷区、牛込区と、昭和7(1932)年北豊島郡淀橋、大久保、戸塚、落合の4町が合併した淀橋区の三区が、昭和22年に合併して新宿区となりました。

 四谷の地名については、この付近に四つの浸食谷があったから、江戸初期に甲州街道沿いに四軒の茶屋(四つ家)があったからとの説が、牛込については、牛の牧場があったからとの説が、淀橋については、西境を流れる神田川が青梅街道をよぎるところに淀橋が架けられていたから、『和名抄』にみえる豊島郡の郷名「余戸」に由来する、柏木・中野・角筈・本郷の四村の境に橋があったから、山城国の淀に似た風景だったなどの説があります。

 新宿の区名は、元禄11(1698)年に日本橋と高井戸宿の中間の高遠藩内藤氏の屋敷地に新設された内藤新宿に由来します。

 

a 淀橋(よどはし)・成子(なるこ)坂・角筈(つのはず)・十二社(じゅうにそう) 

 旧区名となった淀橋から青梅街道を東進すると成子坂で、その先のJR新宿駅周辺が角筈です。角筈の地名は、青梅街道と甲州街道に挟まれた矢筈のような地形に由来する、角筈村の開拓者で名主の渡辺家の祖先は優婆塞(うばそく。在家の仏教信者)で、優婆塞を表す伊勢神宮の忌詞(いみことば)の角筈からとする説があります。

 同駅西口の東京都庁がある新宿副都心は、かつて熊野三山の十二柱の神を勧請したと伝える十二社の地で、そこの弁天池周辺の行楽地が埋め立てられて淀橋浄水場となり、さらに新都心として再開発されました。

 この「よどはし」、「なるこ」、「つのはず」、「じゅうにそう」は、マオリ語の

  「イオ・ト・パチ」、IO-TO-PATI(io=muscle,strand of rope,line;to=drag,open or shut a door or window;pati=shallow water)、「潮の干満に伴って水が逆流する紐(のような流れ)の浅瀬(がある場所)」

  「(ン)ガル・(ン)ガウ」、NGARU-NGAU(ngaru=wave of the sea,corrugation;ngau=bite,hurt,attack)、「荒れて波を打っている(坂)」

  「ツノウ・パツ」、TUNOU-PATU(tunou=nod the head,sign of assent;patu=strike,beat)、「崩れて行くのに任せている(場所)」

  「チウ・ヌイ・トウ」、TIU-NUI-TOU(tiu=wander,sway to and fro;nui=big,large;tou=dip into a liquid,wet)、「さまよっている(その時々によって大きさを変える)大きな水溜まりがある(場所)」

の転訛と解します。

 

c 柏木(かしわぎ)・小滝(おたき)橋・中井(なかい)

 成子坂の北は、もと柏木村でしたが、住居表示で地名が消えました。神田川を早稲田通りが渡るのが小滝橋、その下流の落合で、バッケの原を経由して両側から丘陵が迫る狭隘な箇所を抜けた妙正寺(みょうしょうじ)川が中井を経て、神田川に合流しています。

 この「かしわぎ」、「おたき」、「なかい」は、マオリ語の

  「カチ・ハ(ン)ギ」、KATI-HANGI(kati=bite;hangi=earth oven)、「崩れた蒸し焼き穴のような窪み(がある場所)」

  「アウタキ」、AUTAKI(roundabout,lead by a circutous way)、「遠回りの路(にある橋)」

  「ナ・カイ」、NA-KAI(na=by,belonging to;kai=consume,eat,drink)、「(バッケの原でひと休みした妙正寺川を)飲み込んで行くような(場所)」

の転訛と解します。

 なお、江戸時代の紀行文を読みますと、一橋(ひとつばし)の武家屋敷から中野区の新井薬師に参詣するのに青梅街道から入る路はとらず、江戸川橋から神田川沿いに遡り、新宿区下落合から上落合の落合火葬場の横を通る路を辿っています。このルートが青梅街道、大久保通りや早稲田通りに比べて最も坂の少ない平坦な路で、現在の早稲田通りは最も新しく整備された路ですから、古くは全くの脇道であったものと考えられます。

 

d 戸塚(とつか)・早稲田(わせだ)・鶴巻(つるまき)

 区の北部、神田川南岸の高田馬場、西早稲田あたりがもと戸塚村で、早稲田大学の大隈庭園の地に戸塚の地名が残ります。その東がもと早稲田村字鶴巻であった早稲田鶴巻町です。戸塚の地名は、宝泉寺にあった富塚(とみつか)からという説が、鶴巻は、「水路のある原野(ツル)の牧場(マキ)」の意とする説があります。

 この「とつか」、「わせだ」、「つるまき」は、マオリ語の

  「ト・ツカツカ」、TO-TUKATUKA(to=drag,open or shut a door or window;tukatuka=proceed forward)、「潮の干満に伴って水が勢い良く逆流する(場所)」(「ツカツカ」の反復語尾が脱落して「ツカ」となつた)

  「ワ・テ・タ」、WA-TE-TA(wa=definite place;te=crack;ta=dash,beat,lay)、「割れ目(川の瀬)が浸食された(場所)」

  「ツ・ルマキ」、TU-RUMAKI(tu=stand,settle;rumaki=immerse,duck in the water,stoop((Hawaii)lumai=to douse,duck))、「ちょっと水に潜る(浸かる)ことがある場所に位置している(土地)」(この地名は、世田谷区弦巻(つるまき)、神奈川県秦野市鶴巻(つるまき)、千葉県市原市鶴舞(つるまい)、東京都町田市鶴間(つるま)、神奈川県大和市鶴間(つるま)と同じ語源と解します。)

の転訛と解します。

 

e 牛込(うしごめ)・神楽(かぐら)坂・大曲(おおまがり)・市ヶ谷(いちがや)・合羽(かっぱ)坂

 牛込は、区の北東端、北は神田川、東は市ヶ谷と神楽坂、西は早稲田と大久保に及ぶ地域です。東進してきた神田川が大きく曲がるところが大曲、防衛庁がある市ヶ谷本村町の西、台地からお堀端へ降りる坂が合羽坂です。

 この「うしごめ」、「かぐら」、「おおまがり」、「いちがや」、「かっぱ」は、マオリ語の

  「ウチ・(ン)ガウ・メ」、UTI-NGAU-ME(uti=bite;ngau=bite,attack,wander;me=if,as if)、「あちこち喰い荒らしたような(谷、急坂のある場所)」(「(ン)ガウ」のNG音のN音が脱落し、AU音がO音に変化して「ゴ」となつた)(地名篇(その八)の2の(2)峠地名の馬篭(まごめ)峠の項、前の(14)豊島区のd駒込(こまごめ)(24)大田区のa大森・馬込(まごめ)の項を参照して下さい。)

  「カク・ラ」、KAKU-RA(kaku=scrape up,bruise;ra=wed)、「引っかき傷が合わさっている(坂)」

  「オフ・マ(ン)ガ・リ」、OHU-MANGA-RI(ohu=surround,stoop;manga=water corse,ditch;ri=screen,protect)、「水が身をかがめる(水の流れを邪魔する)衝立(のような小高い丘の場所)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」となつた)

  「イチ・(ン)ガ・イア」、ITI-NGA-IA(iti=small,compact;nga=satisfied,breathe;ia=current,indeed)、「潮の干満に伴って水位が上下する小さな流れ(がある場所)」

  「カカパ」、KAKAPA(throb,palpitate)、「(あまりに急なので)心臓が激しく動悸を打つ(坂)」(「カカパ」の反復音が約されて「カパ」から「カッパ」となった)

の転訛と解します。

 

f 四谷(よつや)・須賀(すが)町

 四谷は、区の南東端の地区で、新宿御苑の東、新宿通りのすぐ南には深い谷が入り込んでいます。須賀町の須賀神社は、その谷を見下ろす崖の先端に鎮座しています。

  「イオ・ツ・イア」、IO-TU-IA(io=muscle,line,spur,lock of hair;tu=stand,settle;ia=current,indeed)、「(両側に谷があって)実に峯の上に位置している(場所)」

  「ツ(ン)ガ」、TUNGA(=tu=circumstance of standing,site,circumstamce of being wounded)、「傷のある場所(谷)」

の転訛と解します。

 

(16)渋谷(しぶや)区

 

 都の中東部、都心周辺の山手に位置する区で、北は中野区、新宿区、東は港区、南は目黒区、西は世田谷区、杉並区に囲まれています。昭和7(1932)年豊多摩郡渋谷、代々幡(よよはた)、千駄ヶ谷の3町が合併して渋谷区となりました。

 武蔵野台地上にあり、ほぼ中央を渋谷川が南流し、複雑に浸食されて起伏の多い地域です。

 区名は、平安末期の郷名とも、そのころこの地を領した渋谷氏の名に由来するともいいます。

 

a 渋谷(しぶや)・古(ふる)川・宇田川(うだがわ)・道玄(どうげん)坂・宮益(みやます)坂・広尾(ひろお)

 渋谷の地名は、上記のように、堀川院から渋谷の姓を賜った源義家の臣河崎重家がここに住んだからとも、相模国渋谷庄の渋谷氏の一族が住んだからとも、この地を流れる川の水が鉄分を含んでシブ色だつたからとも、塩谷の里の転とも、「しぼんだ谷合い」からともいわれますが、これは渋谷川の川名からきたものと思われます。また、その別名を古(ふる)川と呼びました。

 宇田川は、渋谷川に注ぐ細流で、すでに暗渠化されましたが、JR渋谷駅西部の町名として残っています。これも川名であるとともに、場所名であったものと思われます。

 渋谷を通る旧大山街道(矢倉沢往還)の西側には渋谷氏滅亡の後一族の大和田太郎入道道玄が近くに住んだからなどと伝える道玄坂が、東側には江戸時代には富士見坂と呼ばれたもと渋谷宮益町の宮益坂があります。

 広尾は、もと渋谷広尾町で早くから町場が開けたところです。

  この「しぶや」、「ふる」、「うだがわ」、「どうげん」、「みやます」、「ひろお」は、マオリ語の

  「チプ・イア」、TIPU-IA(tipu=swelling(=tupu=grow,increase);ia=current.indeed)、「膨らんだ(丘に挟まれた場所を流れる)川(その川が流れる地域)」

  「フル」、HURU(hair,contract,gird on as the belt,glow)、「(麻布台地の縁を)帯を巻く(ように流れる川)」

  「ウタ・カワ」、UTA-KAWA(uta=the inland,put persons or goods on board a canoe;kawa=heap,channel)、「人や荷物を舟に載せる水路」または「ウタ(ン)ガ・ワ」、UTANGA-WA(utanga=burden,freight;wa=definite place)、「荷物を積み込む場所」

  「トウ・(ン)ゲネ」、TOU-NGENE(tou=posteriors;ngene=wrinkle,fat)、「皺が寄ったお尻(のような場所の坂)」

  「ミ・イア・マツ」、MI-IA-MATU(mi=stream,river;ia=current,indeed;matu==ma atu=go,come)、「真っ直ぐ川に向かって進んでいる(町、そこの坂)」

  「ヒラウ・ワオ」、HIRAU-WAO(hirau=entangle,be caught;wao=forest)、「道に迷う(深い)・森(がある。場所)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「ワオ」のAO音がO音に変化して「ヲ」となつた)

の転訛と解します。

 

b 代々木(よよぎ)・幡ヶ谷(はたがや)・牛窪(うしくぼ)

 代々幡町は、明治22年に合併するまで、もと代々木村、幡ヶ谷村でした。

 代々木の地名の由来は、村人が代々サイカチの木を植え継いだから、代々木と呼ばれた大きな樅(もみ)の木からという説があります。

 幡ヶ谷の由来は、本町1丁目にあった源義家が旗を洗ったと伝える旗洗池からという説があります。甲州街道沿いに牛窪(うしくぼ)地蔵尊があり、極悪人を牛で引き裂く刑場跡の窪地に死者の霊を弔うために建てられたと伝えられます。

 この「よよぎ」、「はたがや」、「うしくぼ」は、マオリ語の

  「イオイオ・キ」、IOIO-KI(ioio=hard,cut into strips;ki=full,very)、「川の流れによつて多数の帯状になつた(土地)」

  「パタ(ン)ガ・イア」、PATANGA-IA(patanga=cause,occasion,advantage;ia=indeed,current)、「川が流れた跡(の土地)」

  「ウチ・クポウ」、UTI-KUPOU(uti=bite;(Hawaii)kupou=to go down,walk downhill fast)、「崩れた窪地」

の転訛と解します。

 

c 千駄ヶ谷(せんだがや)・穏田(おんでん)

 JR新宿駅の甲州街道から南はもと千駄ヶ谷町で、渋谷川に沿つてさらに現在は神宮前と名を変えていますが、もと原宿村、穏田(おんでん)村、上渋谷村へと続いていました。葛飾北斎『富岳三十六景』には穏田の水車が描かれています。

 この「せんだがや」、「おんでん」は、マオリ語の

  「テネ・タ・(ン)ガ・イア」、TENE-TA-NGA-IA(tene=be importunate;ta=dash,beat,lay;nga=breathe;ia=current,indeed)、「しつこく痛めつけられた(ために複雑な地形になっている)潮の干満によって水が逆流する(場所)」

  「オネ・テ(ン)ガ」、ONE-TENGA(one=beach,sand,mud;tenga=goitre,distended,extinguished)、「(川との境が消滅した)低い・川岸(の土地)」(「オネ」が「オン」と、「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「テン」、「デン」となつた)

の転訛と解します。

 

(17)文京(ぶんきょう)区

 

 都の東部、西から北は豊島区、北区、東は台東区、東から南は千代田区、新宿区に囲まれています。明治11(1878)年に東京府15区の一つとして発足した小石川区、本郷区が、昭和22(1947)年に合併して文京区となりました。

 武蔵野台地の東端に位置し、小石川谷(旧千川上水)、根津谷(旧藍染川)、茗荷谷谷底低地と、本郷台、白山台、小日向台、関口台などの高台からなり、坂の多い地区です。

 文京の区名は、大学等が密集する文教地区であることからの新規造語によるもので、賛否両論があります。

 

a 小石川(こいしかわ)・

 小石川は、白山通りと春日通りに挟まれる小石川台地と旧千川上水の低地にまたがる地区です。

 この「こいしかわ」は、マオリ語の

  「コイ・チ・カワ」、KOI-TI-KAWA(koi=promontry;ti=throw,cast;kawa=heap,channel)、「川が谷を刻んでいる半島(のような台地)」

の転訛と解します。

 

b 大塚(おおつか)・茗荷(みょうが)谷・小日向(こひなた、こびなた)

 区北西部に豊島区大塚にまたがる大塚地区があり、小石川台と小日向台の間に浅い茗荷谷があります。小日向台は、南は神田川、西は音羽の急崖に面しています。

 この「おおつか」、「みょうが」、「こひなた、こびなた」、「おとわ」は、マオリ語の

  「オホ・ツカ」、OHO-TUKA(oho=wake up,arise;tuka,tukatuka=proceed forward)、「高く延びている(台地)」

  「ミ・イホ(ン)ガ」、MI-IHONGA(mi=stream,river;ihonga=navel)、「へそ(のような地形の谷)を流れる川」(「イホ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がG音に変化して、「イオガ」から「ヨガ」となり、「ミ・ヨガ」が「ミョゥガ」となった)

  「コピ・(ン)ガタタ」、KOPI-NGATATA(kopi=doubled together,gorge of river;ngatata=split,open)、「(音羽の谷と神田川の)二つの谷が合流する(ところの台地)」(「(ン)ガタタ」のNG音がN音に変化し、反復語尾の「タ」が脱落して、「ナタ」となった)(小日向の「コピ」は、木曽川と飛騨川の合流点の右岸にある岐阜県美濃加茂市古井(こび)町の「こび」と同じ語源です。(地名篇(その二)の秋田県の(15)小比内山の項を参照して下さい。))

の転訛と解します。

 

c 千駄木(せんだぎ)・団子(だんご)坂・根津(ねづ)・湯島(ゆしま)

 千駄木は、元駒込村に属し、千駄木山ともいい、汐見坂の別名がある団子坂には森鴎外の旧居にちなむ鴎外記念本郷図書館があります。

 その南には、根津神社がある根津があり、向(むこう)ケ岡(本郷台を指す)の根にあつて舟の泊まる所の意とする説があります。

 さらにその南、本郷台の先端近くに、湯島天神、湯島聖堂がある湯島の地があります。

 この「せんだぎ」、「だんご」、「ねづ」、「ゆしま」は、マオリ語の

  「テナ・タキ」、TENA-TAKI(tena=encourage,urge forward;taki=track,challenge)、「勇気を出して路を辿る(急崖のある場所)」

  「タ・(ン)ガウ」、TA-NGAU(ta=the,dash,beat;ngau=bite,hurt,attack,raise a cry)、「(あまり急なので登るのに)悲鳴をあげる(坂)」(中央自動車道に談合(だんごう)坂SA(サービスエリア。山梨県上野原町所在)がありますが、この「だんごう」も同じ語源と解します。)

  「(ン)ガイ・ツ」、NGAI-TU(ngai=dried leaves of flax;tu=stand,settle)、「亜麻の枯れた下葉のようなところ(台地の麓に近い中腹)に位置している(場所)」 (「(ン)ガイ」のNG音がN音に、AI音がE音に変化して「ネ」となった)

  「イフ・チマ」、IHU-TIMA(ihu=nose;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「鼻を掘り棒で掘られたような(地形の台地の先端の場所)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」となつた)

の転訛と解します。

 

(18)千代田(ちよだ)区

 

 都区部の中央、皇居を中心とし、ほぼ江戸城の外堀に囲まれる区で、北は文京区、台東区、東は中央区、南は港区、西は新宿区に囲まれています。明治11(1878)年に東京府15区の一つとして発足した麹町区、神田区が、昭和22(1947)年に合併し千代田区となりました。

 西部は武蔵野台地の東端の麹町台地と駿河台からなり、東部の下町沖積低地との間の崖線は駿河台(神田山)と皇居紅葉山です。

 千代田のの区名は、康正3(1457)年太田道潅の江戸城築城のとき、千代田、宝田、祝田の3村があったこと、江戸城の別名を千代田城といったことにちなむとされます。

 

a 江戸(えど)・千代田(ちよだ)・宝田(たからだ)・祝田(いわいだ)

 江戸時代に幕府が置かれた「江戸」の名の初見は、『吾妻鏡』治承4(1180)年条で人名「江戸太郎重長」として登場します。その地名の由来は、岬または端(はな)を意味するアイヌ語による、江戸氏に由来する、満々と水を湛えた大河(江。かつて利根川は東京湾に注いでいた)の入り口の意とする説などがあります。

 この「えど」、江戸城築城時の村名、「ちよだ」、「たからだ」、「いわいだ」は、マオリ語の

  「エ・ト」、E-TO(e=particle to denote action in progress or temporary condition;to=drag,open or shut a door or window)、「出入りする(船着き場のある場所)」

  「チ・イオ・タ」、TI-IO-TA(ti=throw,cast;io=muscle,spur,ridge;ta=dash,beat,lay)、「崩れた岡が放り出されている(場所)」

  「タカ・ラタ」、TAKA-RATA(taka=heap,lie in heap;rata=quiet,familiar)、「静かな高台」

  「イ・ワヒ・タ」、I-WAHI-TA(i=beside,past tense;wahi=split,break open,place;ta=dash,beat,lay)、「崩れた裂け目(谷)のそば」

の転訛と解します。

 

b 麹(こうじ)町・平河(ひらかわ)町・日比谷(ひびや)・山王(さんのう)・弁慶(べんけい)濠

 皇居の西、甲州街道へつながる麹町は、武蔵府中へ通ずる国府路(こふじ)から、糀(かふじ)屋があったからなどの説があります。

 皇居の北、千鳥が淵から平河濠(清水濠)、大手濠は、もと平川(ひらかわ)で、日本橋川を経て東京湾へ注いでいました。

 丸の内・日比谷地区は、かつては日比谷の入り江という浅海でしたが、神田山を崩して埋め立てられました。

 溜池の脇の山王の丘には日枝神社があり、また赤坂見付の近くには弁慶濠があり、周囲の土地は中央が低く、東西端が高くなつています。

 この「こうじ」、「ひらかわ」、「ひびや」、「さんのう」、「べんけい」は、マオリ語の

  「コウ・ウチ」、KOU-UTI(kou=knob,stump;uti=bite)、「噛み跡がある(いくつも谷がある)丘」

  「ヒラ・カワ」、HIRA-KAWA(hira=great,important,widespread;kawa=channel,passage)、「重要な水路」

  「ピピ・イア」、PIPI-IA(pipi=ooze,soak in,cockle,small wedge;ia=current,indeed)、「鳥貝のような(形をした)流れ(入り江)」(「ピピ」の最初のP音がF音を経てH音に変化して「ヒピ」から「ヒビ」となった)

  「タ(ン)ガ・アウ」、TANGA-AU(tanga=be assembled,row;au=firm,intense)、「(丘が)堅く集まった(場所)」(大田区山王(もと新井宿村字山王)も同じ語源です。)

  「ペナ・ケイ」、PENA-KEI(pena=like that,treat;kei=stern of a canoe)、「カヌーの艫のような(堀)」

の転訛と解します。

 

c 神田(かんだ)・飯田(いいだ)坂

 神田は、伊勢の皇太神宮へ奉納する稲を作る神田(しんでん。みとしろ)に由来するとされます(『東京府志料』)。神田美土代(みとしろ)町は、この訓によるとされます。

 靖国神社の横の九段坂は、もと飯田坂といいました。

 この「かんだ」、「いいだ」は、マオリ語の

  「カネ・タ」、KANE-TA(kane=head;ta=dash,beat,lay)、「崩れている頭(のような山)」

  「イヒ・タ」、IHI-TA(ihi=shudder(with fear),quiver;ta=dash,beat,lay)、「(恐怖に)襲われて震える(急傾斜の坂)」

の転訛と解します。

 

(19)中央(ちゅうおう)区

 

 都の東部、隅田川河口の沖積低地に位置し、西から北を港区、千代田区、台東区、東を隅田川を隔てて墨田区、江東区、南を東京湾に接しています。昭和22(1947)年京橋、日本橋の2区が合併して中央区となりました。江戸初期までは、日本橋浜町と江戸橋、京橋を結ぶあたりに海岸線があり、家康の入府以降神田山を崩しての埋め立てや、掘割、水路の造成、架橋が進みました。

 新開地ですので、原ポリネシア語源と目される地名は僅かで、茅を採取する場所であったという日本橋茅場(かやば)町、細長い洲であったという鉄砲洲(てっぽうず)、もと隅田川の中州で、元和4(1648)年創建の霊巌寺に由来するという霊岸(れいがん)島などです。

 この「かやば」、「てっぽうず」、「れいがん」は、マオリ語の

  「カイアパ」、KAIAPA(covet)、「薮(やぶ。鳥獣の隠れ場)」

  「テ・ポウ・ツ」、TE-POU-TU(te=the;pou=pole,stick in,fasten to a stake,establish;tu=stand,settle)、「杭を打ち込んで固定した場所(埋立地)」

  「レイ・(ン)ガナ」、REI-NGANA(rei=swampy ground,wet;ngana=obstinate,persistent)、「いつまでもじめじめしている(埋め立て地)」

の転訛と解します。

 

(20)港(みなと)区

 

 都区部の中央に位置し、北を新宿区、千代田区、東を中央区、東京湾、南を品川区、西を渋谷区に囲まれています。昭和22(1947)年赤坂、麻布、芝の3区が合併して港区となりました。武蔵野台地の末端に位置し、山手と東部の沖積低地の下町との境界にあたります。中央部には古川(渋谷川)などが流れて台地を浸食し、赤坂、麻布、白金(しろかね)、高輪(たかなわ)台の台地に谷が入り込み、坂の多い複雑な地形となっています。

 区名は、東京湾に臨み、竹芝(たけしば)、日の出、芝浦の桟橋があり、東京港の一部となつていることによります。

 

a 赤坂(あかさか)・一ツ木(ひとつぎ)・霊南(れいなん)坂

 赤坂は、山手台地の南東部の地区で、明治11(1878)年に東京府赤坂区として発足し、明治22年に東京市に編入されました。江戸城外堀の赤坂御門の西は、もと一つ木村の地、赤坂はその一部の地名で、赤土の土地に由来するとの説があります。坂の多い町で、アメリカ大使館横の坂を霊南(れいなん)坂と呼びました。 

 この「あかさか」、「ひとつぎ」、「れいなん」は、マオリ語の

  「アカ・タカ」、AKA-TAKA(aka=clean off,scrape away;taka=heap,lie in a heap)、「表面を拭い去ったような高台」

  「ピト・ツ(ン)ギ」、PITO-TUNGI(pito=at first,end,navel;tungi=set a light to,kindle)、「最初に灯をともした(集落のある場所)」

  「レイ(ン)ガ・ナ」、REINGA-NA(reinga=leap,place of leaping,abode of departed spirits;na=to indicate position near or connection with the person addressed,to add emphasis)、「浮かばれない霊魂が住む(坂)」(「レイ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「レイナ」となり、「レイナ・ナ」が「レイナン」となった)

の転訛と解します。

 

b 麻布(あざぶ)・六本木(ろっぽんぎ)・狸穴(まみあな)

 麻布は、山手台地南東部と古川沿いの低地の地区で、明治11(1878)年に東京府麻布区として発足し、明治22年に東京市に編入されました。麻布は、古くは阿佐布などと記し、その土地に生えていた麻を布に織ったからとされます。

 大繁華街となった六本木は、六本の木があったからとも、隣の材木町の名からともいいますが、定かではありません。

 ロシア大使館のあたりは、もと麻布狸穴町で、「まみ(雌狸、むささび、あなぐまの類)の穴」が坂下にあったからとされます。

 この「あざぶ」、「ろっぽんぎ」、「まみあな」は、マオリ語の

  「アタ・プ」、ATA-PU(ata=gently.clearly,openly;pu=heap,bundle)、「開けた高台」

  「ロク・ポ(ン)ギ」、ROKU-PONGI(roku=bend,wane of the moon;pongi=girdle)、「曲がった帯(のような土地)」

  「マ・アミ・ハ(ン)ガ」、MA-AMI-HANGA(ma=white,clean;ami=gather,collect;hanga=make,work,thing,people)、「人や物が集まつている清らかな(場所)」(「ハ(ン)ガ」のNG音がN音に変化し、H音が脱落して、「アナ」となった)

の転訛と解します。

 なお、『江戸切絵図集』(新訂江戸名所図絵別巻1、ちくま学芸文庫、筑摩書房、1997年)の「赤坂・今井・一ツ木辺之絵図」と「麻布・広尾辺絵図」(いずれも嘉永2年近江屋板)を参照しますと、現在の六本木交叉点近くと思われる地点にある内藤能登守(日向延岡)中屋敷の前と向かいの教善寺の横をV字形に走る道に沿つて「麻布六本木丁、飯倉六本木丁」の記載(明治初期に竜土六本木丁もあったようですが、この絵図には見当たりません)があります。

 

c 芝(しば)・愛宕(あたご)山・白金(しろかね)・高輪(たかなわ)・三田(みた)

 区東部の地区で、中世は柴(芝)村、明治11(1878)年に東京府15区の一つ、芝区として発足し、昭和22(1947)年に赤坂、麻布の両区と合併して港区となりました。地名は、かつて芝が生えた海浜であったことに由来するとされます。

 独立丘の愛宕山(26メートル)は、山上に祀られた愛宕権現からとされ、江戸時代から信仰と見晴らしで知られ、寛永三馬術の馬垣平九郎、鉄道唱歌、日本最初の放送局などでも有名です。

 白金は、中世白金之郷、江戸期白金村、由来は「白金長者」と呼ばれる豪族が南北朝時代から住んでいたからといいます。

 忠臣蔵の泉岳寺のある高輪は、かつては品川区大井あたりまでの台地をさしていましたが、台地沿いの真直ぐの道を高縄手道と呼んだことに由来するとされます。

 慶応大学のある三田は、もと荏原郡三田郷、伊勢大神宮の神田があったので御田(みた)と称したという説があります。

 この「しば」、「あたご」、「しろかね」、「たかなわ」、「みた」は、マオリ語の

  「チパ」、TIPA(dried up)、「(もと湿地が)乾燥した(場所)」

  「アタ(ン)ガ・ウ」、ATANGA-U(atanga=beautiful,adorn;u=breast of a female)、「美しい乳房(のような山)」(「アタ(ン)ガ」のNG音がG音に変化し、その語尾のA音と「ウ」のU音が連結してO音に変化し、「アタゴ」となった。)

  「チロ・カネ」、TIRO-KANE(tiro=look;kane=head)、「頭のように見える(土地)」

  「タカ・ナワ」、TAKA-NAWA(taka=heap,lie in a heap;nawa=distant)、「遠くにある高台」

  「ミ・タ」、MI-TA(mi=stream,river;ta=dash,beat,lay)、「川(古川)がぶつかる(土地)」

の転訛と解します。

 

(21)荏原(えはら)郡

 

 荏原郡の初見は『万葉集』、『和名抄』は「江波良」と訓じ、「江原」、「縁原」、「永原」とも記します。北は豊島郡と江戸府内、東は海、南は多摩川を隔てて橘樹(たちばな)郡、西は多摩郡に囲まれます。おおむね現在の品川、目黒、大田、世田谷(西部を除く)の各区と、港区、千代田区の各一部とされます。

 郡名の由来は、荏(え。エゴマ)が繁茂する所の意(『新編武蔵風土記稿』)とされます。

  この「えはら」は、マオリ語の

  「エパ・ラ」、EPA-RA(epa=pelt,throw,hindrance;ra=wed)、「(川の氾濫で)痛めつけられた場所が連なる(地域)」

の転訛と解します。

 

(22)目黒(めぐろ)区

 

 目黒区は、都の南東部、武蔵野台地南西部の淀橋台、目黒台、荏原台とそれを刻む古川・呑(のみ)川(区の南端を流れる)沿いの低地の地区で、北は渋谷区、東は品川区、南は大田区、西は世田谷区に囲まれています。昭和7(1932)年にもと荏原郡目黒町、碑衾(ひぶすま)町の2町が合併して東京市目黒区となりました。

 区名は、目黒不動に由来する、古代の目黒牧に由来する、目黒は古くは「免畔」、「馬畔」とも書き、牧場を管理する者が畔道を通って見回りをし、その中を自分の縄張りとしていたことによる、「め」は窪地、「くろ」は嶺の意、優れた黒の毛色の馬がたくさんいたからなどの説があります。

 

a 目黒(めぐろ)・駒場(こまば)・鷹番(たかばん)・権之助(ごんのすけ)坂・行人(ぎょうにん)坂

 一般に神社名、山名寺号や施設名は地名由来のものが多く、目黒牧、目黒不動ができる前から地名として「目黒」、「目黒川」があったと考えます。

 駒場は、目黒牧(馬の放牧場)の中心ではなかったかとされ、江戸期には将軍家の狩猟の場でした。鷹番町は、将軍家の鷹狩場を管理する鷹番の居住地とされます。

 品川区内にあるJR目黒駅を通る目黒通りが大きく曲がつて目黒川に至る坂が権之助坂、真っ直ぐ目黒川へ降って目黒不動へ向かう急坂が、江戸三大火の一つ、行人坂の大火で知られる行人坂です。

 この「めぐろ」、「こまば」、「たかばん」、「ごんのすけ」、「ぎょうにん」は、マオリ語の

  「メ・(ン)グ・ロ」または「メ・ク・ロ」、ME-NGU(KU)-RO(me=as if like,with,denote concomitance;ngu=silent(ku=silent);ro=roto=inside)、「台地の中の静かな(場所。そこを流れる川)」

  「コウマ・パ」、KOUMA-PA(kouma=breast-plate,breast-bone;pa=be struck)、「崩れた胸板(のような土地)」

  「タカ・パ(ン)ガ」、TAKA-PANGA(taka=heap,lie in a heap;panga=throw,lay)、「高まりが放り出されている(ような土地)」

  「(ン)ガウ(ン)ガウ・ツケ」、NGAUNGAU-TUKE(ngaungau=raise a cry,make a disturbance;tuke=elbow,angle,bend)、「(あまりにも急傾斜で長いので)悲鳴を上げる曲がった(坂)」(「(ン)ガウ(ン)ガウ」の初めのNG音がG音に、次のNG音がN音に変化し、AU音がいずれもO音に変化して「ゴノ」となり、「ゴノ・ツケ」が「ゴンノスケ」となつた)

  「キオ・ニニヒ」、KIO-NINIHI((Hawaii)kio=projection,protrude;ninihi=steep,move stealthly)、「突出して・険しい(またはゆっくりと上り下りする。坂)」(「キオ」が濁音化して「ギョウ」に、「ニニヒ」のH音が脱落して「ニニ」から「ニン」となった)

の転訛と解します。

 

b 碑文谷(ひもんや)・衾(ふすま)・呑(のみ)川

 明治22(1889)年もと荏原郡碑文谷村と衾村が合併して碑衾(ひぶすま)村(後に町)となりました。世田谷領主吉良氏の領地です。呑川が南東へ向って流れます。

 この「ひもんや」、「ふすま」、「のみ」は、マオリ語の

  「ヒ・マウ(ン)ガ・イア」、HI-MAUNGA-IA(hi=raise,rise;maunga=mau=carry,fixed,caught;ia=current,indeed)、「(東の武蔵小山へ向かって流れ出す)川を結びつけている丘(碑文谷八幡宮が鎮座する場所)」(「マウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がN音に変化して「モナ」となり、「モン」となった)

  「プツ・マ」、PUTU-MA(putu=lie in a heap,swell;ma=white,clean)、「高みに位置する清らかな(土地)」

  「(ン)ガウ・ミ」、NGAU-MI(ngau=bite,hurt,attack,wander,raise a cry;mi=stream,river)、「襲いかかる・川」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

(23)品川(しながわ)区

 

 品川区は、都の南東部、武蔵野台地南西部の目黒台、荏原台とそれを刻む古川・立会(たちあい)川沿いの低地の地区で、北は港区、東は東京湾、南は大田区、西は目黒区に囲まれています。昭和7(1932)年にもと荏原郡大井町、大崎町、品川町の3町が合併して東京市品川区となりましたが、このとき荏原町が荏原区となり、昭和22年品川区と荏原区が合併して現在の品川区となりました。

 区名は、目黒川の古名品川から、上無し川(神奈川)に対する下無し川(しもなしがわ)の略称、品よき地形なので高輪に対し品が輪と称した、鎧にもちいる品革を染め出した場所からなどの説があります。

 品川は、武蔵国荏原郡の東海道の宿駅で、江戸時代には東海道第一宿の品川宿は四宿の一つとして品川湊とともに栄えました。

 

a 品川(しながわ)・大井(おおい)・大崎(おおさき)

 昭和7年に品川区を構成した3町の「しながわ」、「おおい」、「おおさき」は、マオリ語の

  「チナ・カワ」、TINA-KAWA(tina=fixed,firm;kawa=channel)、「流路が固定した(川。その河口にある場所)」

  「オフ・ウイ」、OHU-UI(ohu=surround,stoop;ui=disentagle,relax or loosen a noose)、「輪縄がほどけたような(流路の川。立会川)の周辺(の場所)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」となつた)

  「オフ・タハキ」、OHU-TAHAKI(ohu=surround,stoop;tahaki=the shore(regarded from the water),one side)、「目立つ海岸の・周辺(の場所)」(「タハキ」のH音が脱落して「タキ」から「サキ」となった)(この地名が付けられた時代には、海岸線はかなり現在よりも内陸に入つていたと考えられます。)

の転訛と解します。

 

b 戸越(とごし)・中延(なかのぶ)・蛇窪(へびくぼ)・立会(たちあい)川

 旧荏原区は、明治22年にもと荏原郡戸越、中延、小山、上・下蛇窪の5村が平塚村となつた後、荏原町に改称し、昭和7年に荏原区となったものです。この地域の中を立会川が貫流し、勝島運河を経て東京湾へ注ぎます。

 この「とごし」、「なかのぶ」、「へびくぼ」、「たちあい」は、マオリ語の

  「ト・コチ」、TO-KOTI(to=drag,open or shut a door or window;koti=spurt,flow,divide,cut off)、「(潮の干満に伴つて立会川の)川水が逆流する(場所)」

  「ナカ・ナウ・プ」、NAKA-NAU-PU(naka=move in a certain direction;nau=come,go;pu=heap)、「(東へ)向かつて延びている丘」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となつた)

  「ヘ・ピ・クポウ」、HE-PI-KUPOU(he=a,an,wrong,in trouble or difficulty;pi=flow of the tide,soaked;(Hawaii)kupou=to go down)、「(立会川が氾濫して)難儀を起こす窪地」

  「タ・チア・ウイ」、TA-TIA-UI(ta=the...of,dash,beat;tia=stick in,adorn by sticking in feathers,take a vigorous stroke in paddling;ui=disentagle,relax or loosen a noose)、「(沿岸が羽根で飾ったように)美しい(または力強く流れる)・輪縄がほどけたように蛇行して・流れる川」(「ウイ」が「ヰ」から「イ」となつた)

の転訛と解します。

 

(24)大田(おおた)区

 

 大田区は、都の南東端、武蔵野台地の最南端の台地と東京湾に臨む低地の地区で、北は目黒区、品川区、東は東京湾、南は多摩川を隔てて神奈川県川崎市、西は世田谷区に囲まれています。昭和22(1947)年に大森、蒲田の2区が合併して大田区となりました。

 区名は、大森、蒲田から一字づつを採ったものです。

 

a 大森(おおもり)・馬込(まごめ)・池上(いけがみ)・洗足(せんぞく)池

 大森は、JR東海道本線の東の沖積地に位置する地区で、もと荏原郡大森町です。昭和7(1932)年馬込、東調布、池上、入新井の4町と合併して大森区となりました。大森は、もと荏原郡六郷保に属する大森郷で、大きな森に由来するとされます。

 馬込(まごめ)は、もと馬込村で、九十九谷といわれる丘、谷、逆の多い場所で、地名は馬を飼育する土地から、名馬磨墨(するすみ)の産地とする説などがあります。

 池上は、古くは洗足池の南東に広がる高台一帯を指し、池の上の台地の意や、平将門の乱で東に下った藤原氏の一族が池上氏を名乗ったことによるとする説があります。弘安5(1282)年に日蓮が池上宗仲の屋敷で入滅し、その後池上本門寺が建てられました。

 この「おおもり」、「まごめ」、「いけがみ」、「せんぞく」は、マオリ語の

  「オホ・モリ」、OHO-MORI(oho=wake up;mori=low,mean,fondle)、「起き上がった低地」

  「マ(ン)ゴ・メ」、MANGO-ME(mango=shark,shark's tooth;me=if,as if)、「鮫の歯のような(急坂のある場所)」(地名篇(その八)の2の(2)峠地名の馬篭(まごめ)峠の項(14)豊島区の駒込(こまごめ)(15)新宿区の牛込(うしごめ)の項を参照して下さい。)

  「イケ・(ン)ガミ」、IKE-NGAMI(ike=high,strike with a hammer;ngami,wahkangami=swallow up)、「浸食されている・(膨らんだ)岡」(「(ン)ガミ」のNG音がG音に変化して「ガミ」となった)

  「テ(ン)ガ・トク」、TE-NGOTO-KU(te=the;ngoto=be deep,be intense,head;ku=silent)、「静かで深い(池沼)」

の転訛と解します。

 

b 蒲田(かまた)・六郷(ろくごう)・羽田(はねだ)・糀谷(こうじや)・矢口(やぐち)の渡し・鵜(う)の木

 蒲田は、もと荏原郡蒲田町、昭和7(1932)年に六郷、羽田、矢口の3町と合併して蒲田区となりました。その由来は、泥深い田の意、アイヌ語で「泥の中の島」の意とする説があります。

 六郷をはじめ、糀谷、羽田は、多摩川と呑川が形成した河口の三角州上にあります。六郷には、八幡塚・高畑・古川・町屋・道塚・雑色の六つの郷の総称という説があります。

 矢口は、南北朝期の鎌倉街道の渡船場で、『太平記』の新田義貞の子義興の憤死の舞台です。鵜の木は、その上流の川岸の小高い丘に位置します。

 この「かまた」、「ろくごう」、「はねだ」、「こうじや」、「やぐち」、「うのき」は、マオリ語の

  「カマ・タ」、KAMA-TA(kama=eager;ta=dash,beat,lay)、「(多摩川が氾濫して)しつこく痛めつけられた(土地)」

  「ロク・(ン)ガウ」、ROKU-NGAU(roku=bend,grow weak;ngau=bite,hurt,attack)、「(多摩川の流れに)喰いちぎられて曲がっている(場所)」

  「ハネ・タ」、HANE-TA(hane=be confounded,rotten,water;ta=dash,beat,lay)、「腐っている(ぐじゃぐじゃの土地)」

  「コウ・ウチ・イア」、KOU-UTI-IA(kou=knob,stump;uti=bite;ia=current,indeed)、「丘を崩す水の流れ(呑川が流れる土地)」

  「イア・クチ」、IA-KUTI(ia=current,indeed;kuti=contract,pinch)、「水の流れが狭くなった(場所)」

  「ウヌ・キ」、UNU-KI(unu=pull off,withdraw,drink;ki=full,very)、「(多摩川の水流に)どんどん引きずられる(土地)」

の転訛と解します。

 

(25)世田谷(せたがや)区

 

 都の南部、多摩川を境に神奈川県と接する区で、北は杉並区、東は渋谷区、目黒区、大田区、南は多摩川を隔てて神奈川県、西は三鷹市、調布市、狛江市に接しています。

 江戸期において、東部の世田谷領は荏原郡に属し、明治22年に荏原郡世田谷村、駒沢村、玉川村、松沢村となり、昭和7(1932)年東京市世田谷区となりました。

 江戸期には多摩郡に属していた西北部の千歳(ちとせ)領、西南部の砧(きぬた)領は、明治22年に北多摩郡千歳村、砧村となり、昭和11年に世田谷区に編入されています。

 

a 世田谷(せたがや)・池尻(いけじり)・代田(だいた)・横根(よこね)

 世田谷は、もと荏原郡世田谷郷ですが、『和名抄』の多摩郡勢田(せた)郷に含まれていたと解され、瀬戸(狭い海峡)から転じて瀬田(狭い谷地)となり、その谷の多い土地の意で世田谷と呼ばれたとする説があります。池尻の北には警視庁第三機動隊が駐屯する台地が屹立します。

 代田は、昔巨人「ダイダラボッチ」が住んでおり、守山小学校付近の窪地はその足跡とする説があります。

 もと陸軍自動車隊用地で、現在東京農業大学の世田谷キャンパスがある桜ケ丘は、おおむね世田谷村のうちの「横根(よこね)」で、『日本書紀』安閑元年閏12月条の武蔵国の横渟屯倉(よこぬのみやけ)の所在地に比定する説があります。

 この「せたがや」、「いけじり」、「だいた」、「ダイダラボッチ」、「よこね」は、マオリ語の

  「テ・タ(ン)ガ・イア」、TE-TANGA-IA(te=crack;be assembled,row;ia=current,indeed)、「川の割れ目が列を作つて並んでいる(場所)」

  「イケ・チリ」、IKE-TIRI(ike=high,lofty,strike with a hammer;tiri=throw or place one by one,scatter)、「高い丘陵が置かれている(場所)」

  「タイタ」、TAITA(drift timber lodged in the bed of a river,snag)、「(川を流れてきた)流木(のような土地)」(「タイタ」のAI音がE音に変化すると「テタ」、「セタ(勢田)」となる)

  「タヒ・タラ・ポチ」、TAHI-TARA-POTI(tahi=one,single,unique,sweep;tara=point,peak of a mountain,rays of the sun;poti=angle,basket for cooked food,be the subject of gossip or disparagement)、「(これまで)唯一の・(山のように)背が高い(巨大な)・噂話で名高い(巨人)」(「タヒ」のH音が脱落して「タイ」から「ダイ」となった)

  「イ・オコ・ヌイ」、I-OKO-NUI(i=beside;oko=open vessel;nui=big,large,many)、「大きな鉢のような場所のそば」

の転訛と解します。

 

b 駒沢(こまざわ)・馬引沢(うまひきざわ)・弦巻(つるまき)

 もと駒沢村は、明治22年に荏原郡上(下)馬引沢(うまひきざわ)村(大正14年に駒沢町大字上馬(かみうま)、下馬(しもうま))、野沢村、深沢村、弦巻村などを合併して成立しました。

 この「うまひきざわ」は、マオリ語の

  「ウマ・ヒキ・タワ」、UMA-HIKI-TAWHA(uma=bosom,chest;hiki=lift up,carry in the arms,remove;tawha=burst open,crack)、「裂け目を抱え込んでいる胸(のような土地)」

  「ツ・ルマキ」、TU-RUMAKI(tu=stand,settle;rumaki=immerse,duck in the water,stoop((Hawaii)lumai=to douse,duck))、「ちょっと水に潜る(浸かる)ことがある場所に位置している(土地)」(この地名は、新宿区早稲田鶴巻(つるまき)町、神奈川県秦野市鶴巻(つるまき)、千葉県市原市鶴舞(つるまい)、東京都町田市鶴間(つるま)、神奈川県大和市鶴間(つるま)と同じ語源と解します。)

の転訛と解します。

 

c 用賀(ようが)・瀬田(せた)・野毛(のげ)・等々力(とどろき)渓谷・二子(ふたこ)

 もと玉川村には、用賀、瀬田、野毛などが属し、現在も深山幽谷の趣がある等々力(とどろき)渓谷があり、大山街道の渡河点には二子があります。

 この「ようが」、「せた」、「のげ」、「とどろき」、「ふたこ」は、マオリ語の

  「イオ・フ(ン)ガ」、IO-HUNGA(io=muscle,line,spur,lock of hair;hunga=down,decayed)、「(川が流れていた跡の)髪の房のような地形が消滅した(平らになった土地)」(「イオ」が「ヨ」に、「フ(ン)ガ」のH音が脱落して「ウ(ン)ガ」から「ウガ」となり、「ヨウガ」となった)

  「タイタ」、TAITA(drift timber lodged in the bed of a river,snag)、「(川を流れてきた)流木(のような土地)」(「タイタ」のAI音がE音に変化すると「テタ」から「セタ」となった)

  「ナウ・(ン)ゲ」、NAU-NGE(nau=come,go;nge=noise,screech)、「(等々力渓谷の)川の音が聞こえてくる(場所)」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「トト・ロキ」、TOTO-ROKI(toto=ooze,gush forth;roki=make calm,calm)、「静かな水の流れ」

  「プタ・コ」、PUTA-KO(puta=opening,move from one place to another,pass through in or out;ko=a wooden implement for digging)、「掘り棒で掘って入り口を開けている(場所)」

の転訛と解します。

 

d 千歳(ちとせ)・粕谷(かすや)・祖師谷(そしがや)・仙(せん)川

 もと多摩郡千歳村の地域、烏山から千歳・船橋台にかけての地域の南には、仙川が流れ、中世には旋沢と呼ばれ、その中心地の徳富芦花が愛した粕谷には、鎌倉時代に糟谷三郎兼時が住んでいたと伝えられます。仙川の流域にあるのが祖師谷です。

 この「ちとせ」、「かすや」、「そしがや」、「せん」は、マオリ語の

  「チト・テ」、TITO-TE(tito=compose,shaggy,barb of a hook;te=crack)、「草深い川の割れ目(瀬。その場所)」

  「カツア・イア」、KATUA-IA(katua=stockade,main portion of anything;ia=current,indeed)、「実に中心である(土地)」

  「トチカ・イア」、TOTIKA-IA(totika=straight,well;ia=current,indeed)、「(それまで蛇行していた仙川が)真っ直ぐに流れる(沿岸の地域)」

  「タイ(ン)ガ」、TAINGA(place of bailing water)、「(船底にたまった)あか水を汲み出している(ような川)」(「タイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、NGA音がN音に変化して「セン」となった)

の転訛と解します。

 

e 砧(きぬた)・野(の)川・大蔵(おおくら)・宇奈根(うなね)・喜多見(きたみ)

 もと多摩郡砧村には、北の千歳村から仙川が、西から野川が流れ込み、合流していました。

 この「きぬた」、「の」、「うなね」、「きたみ」は、マオリ語の

  「キノ・ウタ」、KINO-UTA(kino=bad,ugly;uta=the land,put persons or goods on board a canoe)、「(浸食されて)醜い船着き場」(「キノ」と「ウタ」の語頭の「ウ」が連結して「キノウ」から「キヌ」となつた)

  「ナウ」、NAU(come,go;=naunau=angry,take up)、「(降った雨を)集めて流れる(川。または雨が降ると暴れる川)」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「オフ・クラエ」、OHU-KURAE(ohu=surround;kurae=promontry)、「(仙川と野川に)囲まれた半島(のような土地)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」となり、「クラエ」の語尾の「エ」が脱落した)

  「ウ(ン)ガ・ネイ」、UNGA-NEI(unga=circumstance of becoming firm,place of arrival;nei=to denote proximity to,to indicate continuance of action)、「河岸の近く(の土地)」(「ウ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ウナ」となった)

  「キタ・ミ」、KITA-MI(kita=tightly,itensely,tightly clenched;mi=stream,river)、「(多摩川と野川に)きつく縛られている(土地)」

の転訛と解します。

 

(26)多摩(たま)郡

 

 武蔵国の郡名で、「多麻」、「多磨」などとも書きました。初見は『延喜式』で、『和名抄』は「太婆(たば)」と訓じています。北は秩父郡、高麗郡、入間郡、新座郡、東は荏原郡、豊島郡、南は橘樹郡、都筑郡、相模国、西は甲斐国に接していました。おおむね現在の市部及び西多摩郡のほぼ全域と中野区、杉並区、世田谷区の西部の地域です。

 郡名の由来は、峠を意味する「タバ」に由来し、玉川の源流の山梨県北都留郡丹波(たば)山村、源流名の丹波(たば)川を採つたとする説、武蔵国の中央部を貫流する「聖なる御霊(みたま)」に由来するとする説、「タマ」は「撓(たゆ)む」で川が曲流する様を示す、「タマ」は「溜(たまり)」で湿地帯を意味する、「タバ」は「倒す」で崖地の意などの説があります。

 この「たば」、「たま」は、マオリ語の

  「タパ」、TAPA(edge,cut,split)、「(開けた台地の)縁(へり)を(切り裂いて)流れる(川。その流れる地域)」(「タパ」が「タバ」となった)

  「タハ・ハママ」、TAHA-HAMAMA(taha=edge,pass on one side;hamama=open,gaping,vaant)、「(東京湾に向かって )開けた台地の・縁(へり)を流れる(川。その流れる地域)」(「タハ」の「ハ」と「ハママ」の「ハ」が連結し、反復語尾の「マ」が脱落して「タハマ」となり、さらにH音が脱落して「タマ」となった)

の転訛と解します。

 

(27)中野(なかの)区

 

 都の東部、武蔵野台地の上にあり、北は練馬区、東は新宿区、南は渋谷区、西は杉並区に接しています。

 区名は、中世以来の中野郷に由来し、古くは武蔵野を上野、中野、下野に分けたが中野だけが残った(『新編武蔵風土記稿』)とされます。明治22(1889)年中野村、本郷村、雑色村が合併して中野村となり、上(下)鷺宮村、上(下)沼袋村など7村が合併して野方村となり、昭和7(1932)年豊多摩郡中野町と野方町が合併して東京市中野区となりました。

 

a 中野(なかの)・神田(かんだ)川・十貫(じっかん)坂・雑色(ぞうしき)

 JR中央線の南に位置するもと中野町の中央を、善福寺川と合流した暴れ川の神田川が東流しています。

 青梅街道の鍋屋横町から分岐して堀之内へ向かう道が中野通りを横切った後杉並区和田一丁目へ下る坂を十貫(じっかん)坂と呼んでいます。十貫坂は、新宿十二社熊野神社を勧請したという中野長者鈴木九郎がこの坂上から見える限りの土地を銭十貫文で買ったからなどという伝説があります。この坂下には辻斬りで命を奪われた子等を慰める十貫坂地蔵堂が建てられています。

 区の南端、神田川の傍らの南台はもと雑色村で、平安初期の令外(りょうげ)の官、蔵人所に所属した雑役に従事した人々で、その住んだ地または与えられた地を指すとされます。

 この「なかの」、「かんだ」、「じっかん」、「ぞうしき」は、マオリ語の

  「ナカ・(ン)ガウ」、NAKA-NAU((Hawaii)naka=quiver,crack open;ngau=bite,hurt,attack)、「(神田川に)浸食された割れ目(がある土地)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に変化し、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「カ(ン)ガ・タ」、KANGA-TA(kanga=curse,abuse;ta=dash,beat,lay)、「暴れまくる(川)」(「カ(ン)ガ」のNG音がN音に変化し、「カナ」から「カン」になった)

  「チ・カ(ン)ガ」、TI-KANGA(ti=throw,cast;kanga=curse,abuse)、「のろいが・かかっている(呪われている坂。辻斬りなどの不祥事が度重なって起こる坂)」(「チ」が強調されて「ジッ」と、「カ(ン)ガ」の語尾のGA音が脱落して「カン」となった)

  「トウ・チキ」、TOU-TIKI(tou=dip into a liquid,wet,kindle;tiki,tikitiki=girdle,topknot in dressing the hair)、「水に浸っているまげ(のような土地)」

の転訛と解します。

 

b 野方(のがた)・妙正寺(みょうしょうじ)川・江古田(えごた)・沼袋(ぬまぶくろ)・新井(あらい)

 JR中央線の北側に位置するもと野方町の中央の東西を妙正寺川が蛇行を繰り返しながら流れ、流域を南北に貫く古くからの交通路に沿って、太田道潅と豊島一族との古戦場の江古田、沼袋、そして眼病治験で有名な新井薬師がある新井の地があります。

 野方の名は、江戸期の豊島郡、多摩郡、新座郡計128村を指す野方領に由来し、水田の多い地方を里方(さとかた。さとがた)と呼んだのに対する畑など土地生産力の乏しい地方を指す野方(のかた。のがた)の呼び方によるものかとされます。

 江古田の地名は、エゴノキが群生していたから、アイヌ語で集団密集の意などとする説があります。

 新井薬師の北は、険しい崖があり、それを貫いて道路が開削されています。

 この「のがた」、「みょうしょうじ」、「えごた」、「ぬまぶくろ」、「あらい」は、マオリ語の

  「(ン)ガウ・(ン)ガタ」、NGAU-NGATA(ngau=bite,gnaw,hurt,attack;ngata=appeased,dry)、「(多くの川によって)浸食されている・(乾燥した)水利の便に恵まれない荒れた(台地の地域。野方)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「(ン)ガタ」のNG音がG音に変化して「ガタ」となった)

  「ミ・オチオチ」、MI-OTIOTI(mi=stream;otioti=okioki=rest,pause)、「(流路のところどころにある遊水池で)休み休み流れる・川」(「ミ」と「オチオチ」が連結して「ミョウチョウチ」から「ミョウショウジ」となった)(現西武新宿線鷺宮駅付近、同沼袋駅付近、上高田氷川神社前付近(通称「バッケの原」。この「バッケ」は、武蔵野の崖地を指す「はけ」の語源の「パケ」が転訛した語です。国語篇(その二十三)の2160はけ(崖)を参照してください。)あたりは古くは広い遊水池であったものと思われます。)

  「エ・コタ」、E-KOTA(e=to denote action in progress,or temporary condition,calling attention or expressing surprise,to give emphasis;kota=open,crack,anything to scrape or cut with)、「たいへん・(地表が)拭われたように平滑な(場所)」(「コタ」が「ゴタ」となった)

  「ヌムア・プク・ロ」、NUMUA-PUKU-RO(numua=pass by;puku=swelling,abdomen;ro=roto=inside)、「交通路の・内(裏)側に・膨らみ(沼)がある(場所)」(「ヌムア」が「ヌマ」と「プク」が「ブク」となった)

  「アライ」、ARAI(screen,ward off,block up,obstruct)、「(南北の交通を)遮る(場所)」

の転訛と解します。

 

(28)杉並(すぎなみ)区

 

 都の中東部、武蔵野台地の上にあり、北は練馬区、東は中野区、南は世田谷区、西は武蔵野市、三鷹市に接しています。

 区名は、江戸初期、成宗(なりそう)、田端(たばた)2村の領主岡部氏が青梅街道に杉並木を植えて境界としたことによるとされます。昭和7(1932)年豊多摩郡杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町の4町が合併して東京市杉並区となりました。

 

a 阿佐ヶ谷(あさがや)・天沼(あまぬま)

 阿佐ヶ谷は、応永27(1420)年の武蔵江戸氏の総領の名を列記した文書に「あさかやとの」と見え、「浅い水の谷」の意とされます。

 天沼は、妙正寺川の源流、妙正寺池の東一帯はかつて広い沼地でしたが、その池の東南の台地にあり、『続日本紀』神護景雲2(768)年条にみえる「豊島郡乗瀦駅」を「あまぬま」と読んで、ここに比定する説があります。

 この「あさがや」、「あまぬま」は、マオリ語の

  「アタ・(ン)ガ・イア」、ATA-NGA-IA(ata=gently,slowly,clearly.openly;nga=the,satisfied,breathe;ia=current,indeed)、「静かな川の流れ(がある場所)または潮の干満に伴い逆流する静かな川の流れ(がある場所)」

  「ア・マヌ・マ」、A-MANU-MA(a=names of places,the...of,belonging to;manu=float,be launched,overflow;ma=white,clean)、「(沼の上に)浮いている清らかな(場所)」

の転訛と解します。

 

b 井草(いぐさ)・遅野井(おそのい)・善福寺(ぜんぷくじ)川・荻窪(おぎくぼ)・成宗(なりそう)・田端(たばた)

 上(下)井草は、もと井草村で、藺(い)草が自生していたからとする説があります。上井草には、三方を丘陵で囲まれた善福寺池があり、池を源流として善福寺川が流れ出しており、この湧き水を遅野井といい、上井草村を遅野井村ともいいました。遅野井の由来には、源頼朝、家光、尾園某にまつわる三説があり、善福寺池には、かつて池の近くに二寺あったが地震による溢水で破壊され再建されなかったとも、太田道潅の兵火に焼かれたともいいますが、妙正寺、三宝寺などと同様、仮に寺があったとしても建てられる前から川名、地名があった可能性が高いと考えられます。

 荻窪は、荻が生えていた窪地からとされます。

 杉並の地名に関係する成宗、田端は、現成田東(西)となっています。

 この「いぐさ」、「おそのい」、「ぜんぷくじ」、「おぎくぼ」、「なりそう」、「たばた」は、マオリ語の

  「ウイ・(ン)グ・タ」、UI-NGU-TA(ui=loosen noose;ngu=silent,greedy;ta=dash,beat)、「ほどけた輪縄のような(蛇行する)川が・静かに・浸食している(土地)」(「ウイ」が「ヰ」と、「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)

  「オ・トヌイ」、O-TONUI(o=the...of,belonging to;tonui=thumb,great toe)、「足の指先(のような丘陵に囲まれた場所)」

  「テ・(ン)ガプ・クチ」、TE-NGAPU-KUTI(te=the,crack,emphasis;ngapu=oscillate or undulate as swampy ground;kuti=pinch,contract)、「うねって締め付けられて細くなっている割れ目(川)」(「(ン)ガプ」のNGA音がN音に変化し、「テ・ンプ・クチ」から「ゼンプクジ」となった)

  「ホ(ン)ギ・クポウ」、HONGI-KUPOU(hongi=native oven;(Hawaii)kupou=to go down)、「天然の蒸し焼き穴(荻窪の南の善福寺川公園あたりを指すか)へ降って行くところ(窪み)」(「ホ(ン)ギ」のH音とNG音のN音が脱落して「オギ」となった)

  「(ン)ガリ・トウ」、NGARI-TOU(ngari=disturbance,greatness;tou=dip into a liquid,wet,kindle)、「水に浸かった広い(場所)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「タパ・タ」、TAPA-TA(tapa=edge,cut,split;ta=dash,beat,lay)、「浸食された割れ目(川)」

の転訛と解します。

 

c 高井戸(たかいど)・久我(くが)山・浜田(はまだ)山・永福(えいふく)町・和泉(いずみ)・尻割(けつはり)坂

 高井戸は、もと甲州街道の宿場があった高井戸村で、東南東へ流れる神田川に沿つており、高い場所に本覚寺のお堂(高い堂)があったからとされます。

 久我山の「くが」は陸地・空閑地から「武蔵野の新開地」の意、浜田山は伊勢浜田の出身の江戸の商人浜田屋弥兵衛の名からという説があります。

 神田川が北東へ向きを変えたところには、永福町が、その下流には和泉があり、和泉には尻割坂(急坂で疲労するから。千葉徳爾『新・地名の研究』古今書院、1994年による)がありました。

 この「たかいど」、「くが」、「はまだ」、「えいふく」、「いずみ」、「けつはり」は、マオリ語の

  「タカ・ヰト」、TAKA-WHITO(taka=heap,lie in a heap;whito=dwarf)、「ほんの小さな・高まり(丘がある地域)」または「タ・カイタウ」、TA-KAITAU(ta=dash,beat,lay;kaitau=strand of fibre on which earthworms were threaded to serve as a fishing bob)、「ミミズが錘り(西の久我山、東の浜田山を指す)のように付いた釣り糸(神田川)が投げ出されている(ような地形の土地)」

  「クカ」、KUKA(dry leaves of flax,abortion)、「出来そこないの(山)」

  「ハマ・タ」、HAMA(faded,be consumed)、「(崩れて)消えかかった(山)」

  「ヘイ・プク」、HEI-PUKU(hei=go towards,at,for,tie round the neck,be bound;puku=swelling,abdomen)、「(川が)頚のまわりを取り巻いている(丘)」または「胃袋(のような和泉の低地)に接している(土地)」

  「イツ・ミ」、ITU-MI(itu=side;mi=stream,river)、「川(神田川)のそば(の地域)」

  「ケツ・パリ」、KETU-PARI(ketu=remove earth by pushing or digging with a blunt instrument;pari=cliff,upstanding)、「断崖を削ってつけた(坂)」(「パリ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハリ」となつた)

の転訛と解します。

 
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<修正経緯>

1 平成14年9月15日

 千葉県の(9)匝瑳郡の椿海の解釈、同県の(14)天羽郡のb金谷の解釈を修正しました。

2 平成16年11月1日

  千葉県の(2)葛飾郡の野田・松戸・船橋の解釈を修正、船橋市の海老川の別解釈を追加、(4)印旛郡の印旛の解釈を修正、八街の解釈の一部を修正、(5)相馬郡の相馬の解釈を修正、(8)海上郡の飯岡の解釈を修正、(11)望陀郡の百目木・木更津の解釈を修正、(15)武射郡の「むい」の解釈を修正、行川の別解釈を追加、(19)安房国の館山の解釈を追加、鋸山の解釈を修正し、

  東京都の(3)葛飾区の金町・小菅の解釈を修正、小合溜井の別解釈を追加、水元の解釈の一部を修正、(4)江戸川区の瑞江の解釈を修正、(6)江東区の猿江の解釈を修正、(7)足立区の古千谷の解釈を修正、(9)北区の音無川の解釈を修正、(11)台東区の根岸の解釈を修正、(16)渋谷区の広尾・穏田の解釈を修正、(22)目黒区の行人坂の解釈を修正、(23)品川区の立会川の解釈を修正、(25)世田谷区に「ダイダラボッチ」の解釈を追加、(28)杉並区の井草・高井戸の解釈を修正しました。

3 平成18年4月1日

  東京都の(20)港区の白金の読みを「しろかね」に修正しました。

4 平成19年2月15日

 (1)インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

 (2)東京都の(4)江戸川区の瑞江の項を削除し(合成地名でした)、(5)墨田区の隅田川の項の一部を修正するとともに「須田川」の解釈を追加し、向島の項の一部を修正し、(6)江東区の富岡の項の一部を修正し、豊洲の項を削除し(昭和になつてからの地名でした)、(25)世田谷区の代沢の項を削除し(合成地名でした)、(27)中野区の十貫坂の読み・解釈を修正しました。

5 平成19年6月1日

 千葉県の(18)夷隅郡のb太東崎の項に「粟又の滝」の解釈を追加しました。

6 平成22年9月1日

 千葉県の(18)夷隅郡のb太東崎の項中「おせんころがし」の解釈の一部を修正し、東京都の(1)武蔵国の項の一部を修正しました。

7 平成24年5月1日

 千葉県の(5)相馬郡のb我孫子市の解釈を修正しました。

8 平成28年5月1日

 東京都の(26)多摩郡の「たば」、「たま」の解釈を修正し、(27)中野区のb 野方の「のがた」、「えごた」、「ぬまぶくろ」の解釈を修正し、「新井(あらい)」の解釈を追加しました。

地名篇(その十)終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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