地名篇(その六)

(平成11-11-1書き込み。22-10-1最終修正)(テキスト約58頁)


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目 次 <関東地方の地名(その一)>

 

8 茨城県の地名

 

 常陸国新治郡足尾山・加波山笠間市真壁郡筑波郡筑波山騰波(とば)の江小貝川河内郡信太郡牛久沼龍ケ崎市茨城郡信筑川(恋瀬川)行方郡夜刀神社霞ヶ浦北浦・外浪逆浦潮来町鹿島郡安是の湖・阿多加奈の湖軽野大洗波崎町那珂郡山方町鷲子(とりのこ)山甫時臥(くれふし)山水戸千波湖阿字ケ浦久慈郡助川賀毘禮(かびれ)の高峯八溝山地八溝山大子町依上保袋田ノ滝生瀬の滝月居(つきおれ)山龍神峡東・西金砂山多珂郡・薦枕(こもまくら)多珂の国五浦海岸花園・花貫県立自然公園花園川堅破山花貫川結城郡鬼怒川水海道市古河市猿島郡岩井市相馬郡

 

9 栃木県の地名

 

 下野国足利郡渡良瀬川皇海山巴波(うずま)川・思川梁田郡安蘇郡葛生町田沼町佐野市三毳(みかも)山足尾山地都賀郡日光男体山・女峰山・太郎山・大(小)真名子山・白根山中禅寺湖・戦場ケ原華厳の滝大治川・大尻川古峰高原鹿沼市壬生町小山市野木町寒川郡河内郡上三川町汗(ふざかし)宇都宮市大谷石芳賀郡芳賀町祖母井(うばがい)真岡市益子町茂木町塩屋郡喜連川町矢板市高原山前黒山・明神岳・鶏頂山・釈迦岳・西平岳・八方ケ原箒川・鹿股川・スッカン沢塩原温泉・川治温泉・五十里ダム那須郡那須岳・茶臼岳・三本槍岳・南月山・朝日岳・黒尾谷岳・隠居倉・鬼面山・飯盛山烏山町馬頭町大田原市黒羽町黒磯市板室温泉

 

10 群馬県の地名

 

 上野国碓氷郡松井田町片岡郡烏川・鏑川甘楽郡妙義山・荒船山多胡郡吉井町緑野郡御荷鉾(みかぼこ)山神流(かんな)川・三波石峡鬼石町那波郡伊勢崎市群馬郡保渡田古墳群・八幡塚古墳・薬師塚古墳榛名山伊香保嶺掃部ケ岳・鬢櫛岳・烏帽子ケ岳・天目山箕郷町子持山渋川市高崎市倉賀野岩鼻吾妻郡四万温泉岩櫃山草津草津温泉白根山四阿(あずまや)山利根郡沼田盆地尾瀬ケ原谷川岳谷川連峰水上・湯桧曽勢多郡黒保根村宮城村大胡町赤城山黒桧山・駒ケ岳・長七郎岳・地蔵岳・鍋割岳・覚満淵前橋市広瀬川岩神佐位郡新田郡薮塚本町笠懸町太田(おおた)市山田郡大間々町桐生市邑楽郡板倉町佐貫荘館林市多々良(たたら)沼

 

<修正経緯>

 

 

<関東地方の地名(その一)>

 

8 茨城県の地名

 

(1) 常陸(ひたち)国

 

 茨城県の大部分は常陸国でした。久慈郡には陸奥国白河郡依上保の地が太閤検地以後編入され、下総国結城郡、猿島郡、相馬郡の一部が茨城県に編入されています。

 常陸国は、東海道に属し、国府は現石岡市石岡に置かれていたようです。

 『常陸国風土記』は、「それ常陸国は堺は是れ広大(ひろ)く、地もまた緬貌(はろか)にして、土壌も沃墳(つちこ)え、原野も肥衍(つちこ)えて、墾発(ひら)く処なり。海山の利ありて、人々自得(やすらか)に、家々足饒(にぎは)へり。」とあります。『和名抄』に記す11郡の152郷の郷数は陸奥国に次いで全国二位の大国でした。

 この「ひたち」は、(1) 往来の道が「直道(ひたみち)」に続いている(『常陸国風土記』)意、

(2) 「日高地(日高見国(蝦夷)へ通う地)」の意、

(3) 「ヒタ(直、平らな)・チ(土地)」の意、

(4) 「ヒ(干、乾燥)・タチ(台地)」の意など多数の説があります。

 この「ひたち」は、マオリ語の

  「ヒ・タハ・チ」、HI-TAHA-TI(hi=raise,rise;taha=calabash;ti=throw,cast)、「高く(引き上げられた)・瓢箪(のような山。筑波山)が・放り出されている(地域。国)」または「高い(山。筑波山)と・瓢箪(のような水の容れ物。霞ヶ浦)が・放り出されている(地域。国)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

の転訛と解します。

 

(2) 新治(にいはり)郡

 

a 新治郡

 常陸国の郡については、『常陸国風土記』には『和名抄』に記載される11郡のうち9郡の記事があり(白壁郡(『和名抄』は真壁郡)と河内郡の記事を欠きます)、その位置(東西南北の四至)の記載がありますが、その後近世に入つてから、この新治郡をはじめ、白壁郡(真壁郡)等いくつかの郡について古代の位置、区域とかなり変動が生じています。この「茨城県の地名」の部では、『和名抄』の郡名をとりあげてその意味を解釈し、区域の変動等については判明する限り解説することとします。

 『常陸国風土記』新治郡の条に「東は那賀の郡の堺なる大き山、南は白壁の郡、西は毛野河、北は下野と常陸に二つの国の堺にして、即ち波太(はだ)の岡なり」とあります。また、「東の夷の荒ぶる賊(にしもの)を討つ」ため遣わされた「新治の国造が祖、名は比奈良珠(ひならす)命・・・井を治(は)りしに因りて、郡の號(な)に着けき」とあります。

『風土記』日本古典文学大系、岩波書店から

 したがって風土記の新治郡は、おおむね現西茨城郡七会村、笠間市、西茨城郡岩瀬町、真壁郡協和町(『和名抄』の新治郡新治郷は、協和町新治に比定されています)、下館市あたりの区域ということになり、現在の新治郡とは全く異なっています。

 この「にいはり」は、「新たに開墾した地」の意と解されています。

 この「にいはり」は、マオリ語の

  「ヌイ・パリ」、NUI-PARI(nui=large,many;pari=cliff,upstanding)、「(八溝山地の)崖がたくさんある(地域)」

の転訛と解します。

 ちなみに、この「波太の岡」の「はだ」、「賊」の「にしもの」、「比奈良珠命」の「ひならす(ひならしゅ)」(岩波大系本は「す」と読んでいますが、原文には「珠」とあり、ここでは「しゅ」と読むべきであると考えます)は、マオリ(ハワイ)語の

  「パ・タ」、PA-TA(pa=block up,stockade;ta=dash,lay,allay)、「柵を巡らした(ような岡)」

  「ヌイ・チ・マウヌ」、NUI-TI-MAUNU(nui=large,many;ti=throw,cast;maunu=be loosened,emigrate)、「多数の散在している浮浪者(の賊)」

  「ヒ・ナラ・チウ」、HI-NALA-TIU(hi=raise,rise;nala(Hawaii)=to plait;tiu=soar,wander)、「高貴な、(国中の土地を)均して(平定して)巡る(命)」

の転訛と解します。

 

b 足尾(あしお)山・加波(かば)山

 『常陸国風土記』新治郡の条に「郡の東五十里に笠間(かさま)の村あり。越え通う道路を葦穂(あしほ)山という」とみえます。新治・真壁両郡堺の足尾山(628メートル)がその遺称地で、これから北の加波(かば)山(709メートル)にかけての山名とされています。

 加波山には、その山中に散在する奇岩、岩窟を行場とする独自の修験道の地方信仰が形成されていました。その西側の山腹からは良質の花崗岩が産出します。

 加波山の名は、「神庭(かんば)」の転とする説があります。

 この「あしほ」、「かば」は、マオリ語の

  「アチ・ホ」、ATI-HO(ati=descendant,clan;ho=pout,droop,shout)、「(加波山・筑波山に比して)元気がない・部類の(山)」

  「カパ」、KAPA(rank,row,disobedient,wayward)、「一列に並んでいる(山。または筑波山に対立している山)」

の転訛と解します。

 

c 笠間(かさま)市

 茨城県中央部、涸沼(ひぬま)川上流の笠間盆地にある市です。近世には市街地東方の佐白(さしろ)山に城を構えて笠間氏が勢力を張っていました。

 この「かさま」は、マオリ語の

  「カタ・マ」、KATA-MA(kata=opening of shellfish;ma=white,clean)、「清らかな貝の口が開いた(ような地形の場所)」

の転訛と解します。(入門篇(その一)の「カサ」地名の項を参照してください。)

 この「さしろ」は、マオリ語の

  「タ・チロ」、TA-TIRO(ta=the;tiro=look,view)、「眺める(見張りをする山)」

の転訛と解します。

 

(3) 真壁(まかべ)郡

 

 『常陸国風土記』は白壁郡(真壁郡)の記載を欠いていますが、他郡の記載を総合しますと、「新治郡の南から東、筑波山(を隔てて茨城郡)の西、筑波山(を隔てて筑波郡)の北」と推定できます(岩波大系本の附図参照)。おおむね現真壁郡大和町、真壁町、協和町南部、明野町の区域です。

 この「しらかべ」は、(1) 『日本書紀』清寧紀2年2月条に天皇の名にちなんで諸国に「白髪部」を置いたとあり、この部名にちなむもので、これが延暦4年に光仁天皇の諱「白壁」を忌んで「真髪部」に改められたことに伴い「真壁」と改められたと解する説と、

(2) 類音の自然地名「カベ(崖)」が先行していたとする説があります。

 この「しらかべ」、「まかべ」は、マオリ語の

  「チラ・カペ」、TIRA-KAPE(tira=file of men,fin of fish;kape=eyebrow,eye socket)、「眉毛のような魚の鰭(西に向かって弓なりに曲がっている筑波山から加波山にかけての山脈。その山脈の内側の地域)」

  「マ・カペ」、MA-KAPE(ma=white,clean;kape=eyebrow,eye socket)、「清らかな眉毛(西に向かって弓なりに曲がっている筑波山から加波山にかけての山脈。その山脈の内側の眼のくぼみのような地形の地域)」

の転訛と解します。

(4) 筑波(つくば)郡

 

a 筑波郡

 『常陸国風土記』筑波郡の条に「東は茨城の郡、南は河内の郡、西は毛野河、北は筑波岳なり」とあり、おおむね現つくば市(南部の一部を除きます)の区域にあたります。

 筑波は、『古事記』では「都久波」、『日本書紀』では「菟玖波」、『和名抄』では「筑波(豆久波)」と記しています。

 この「つくば」は、(1) 風土記に、筑波の県は古くは「紀の国」といったが、崇神天皇の御代に、采女臣の一族で国造として遣わされた筑箪(つくは)命が、「身(わ)が名をば国に着けて、後の代に流傳(つた)へしめむと欲(おも)ふ」といったことによるとあり、

(2) 風土記に、筑波山の形からか、「風俗の説(くにぶりのことば)に握飯(にぎりいひ)筑波の国といふ」とあり、

(3) 独坡(つくば。平野の中に独立した山)の意、

(4) 「「ツク(尽く。崖、急傾斜地)・バ(端)」で筑波山麓の急傾斜地の意、

(5) アイヌ語で「ツク・パ、尖った山」の意、

(6) アイヌ語で「刻み目」の意などの説があります。

 この「つくば」は、マオリ語の

  「ツ・クパ」、TU-KUPA(tu=stand,settle;kupa=a variety of fungus)、「茸が生えている(ような山。その山の付近の地域)」

の転訛と解します。

 

b 筑波山

 なお、『常陸国風土記』筑波郡の条には、筑波山は富士山に宿を断られた御祖(みおや)神を鄭重にもてなしたため、

  「福慈の岳(やま)は、常に雪ふりて登臨(のぼ)ることを得ず。其の筑波の岳は、(人々が)往集(ゆきつど)ひて歌ひ舞ひ飲(さけの)み喫(ものくら)ふこと、今に至るまで絶えざるなり。」

とあり、春秋に男女が集う歌垣の盛んな場所として著名でした。

 このことからすると、この「つくば」は、マオリ語の

  「ツク・パ」、TUKU-PA(tuku=let go,allow,side,ridge of a hill;pa=touch,hold personal communication with)、「(歌垣の)交際をする山」

の転訛と解すべきかも知れません。

 また、この筑波山は、男体(なんたい)山(870メートル)と女体(にょたい)山(876メートル)の2峰に断層によって分かれ、急傾斜の東側の岩壁には屏風(びょうぶ)岩があります。風土記は、この山容を

  「それ筑波岳は、高く雲に秀で、最頂は西の峯崢(さか)しく嵩(たか)く、雄の神と謂ひて登臨(のぼ)らしめず。唯、東の峯は四方磐石にして、昇り降りは峡(けは)しく屹(そばだ)てるも・・・」

と描写しています。この西の峯は男体山、東の峯は女体山です。

 この「なんたい」、「にょたい」、「びょうぶ」は、マオリ語の

  「ナニ・タイ」、NANI-TAI(nani=ache of the head;tai=wave,anger,the other side)、「片頭痛がする(片側が崩れている山)」(「ナニ」の約で「ナン」となった)

  「ニホ・タイ」、NIHO-TAI(niho=tooth,thorn;tai=wave,anger,the other side)、「片側が歯(のようにそそり立っている山)」(「ニホ」のH音が脱落して「ニオ」から「ニョ」となつた)

  「ピオ・プ」、PIO-PU(pio=be extinguished;pu=bunch,heap,stack)、「目立つ(崖)」(地名篇(その五)の奈良県の地名の室生村の「屏風ケ浦」と同じ語源です。)

の転訛と解します。

 

(5) 騰波(とば)の江(あふみ)

 

a 騰波の江

 『常陸国風土記』筑波郡の条に「騰波の江」がみえ、『万葉集』(巻9、1,757)に「新治の鳥羽の淡海」とある湖のことと解されています。現下妻市の大宝沼東方の小貝川筋の湿地が遺跡地とされます。古く筑波・新治・白壁3郡の間にあってどの郡にも所属していませんでした。

 この「とばのあふみ」は、マオリ語の

  「タウパ・ノ・アフ・ミ」、TAUPA-NO-AHU-MI(taupa=prevent,obstruction,boundary;no=of;ahu=move in a certain direction,point in a certain direction;mi=urine,stream)、「一方向に向かって流れる・水(河川または池沼)・が・境界となっている土地(またはその河川、池沼が自由な交通を妨害している土地)」

の転訛と解します。この「タウパ」は、地名篇(その三)の京都府の地名の「鳥羽」の語源と同じです。

 

b 小貝(こかい)川

 栃木県喜連川丘陵西方に源を発し、茨城県西部を南流し、水海道の南で東へ転じ、取手市東端で利根川に合流しています。『常陸国風土記』の時代には、下妻付近の「騰波の江」に流入していました。

 この「こかい」は、マオリ語の

  「コカイ」、KOKAI(back,rear)、「(鬼怒川の)後ろ(の川)」

の転訛と解します。

 

(6) 河内(こうち)郡

 

 『常陸国風土記』は河内郡の記載を欠いていますが、他郡の記載を総合しますと、「筑波郡の南、信太郡の西から北、毛野河の東」と推定できます(岩波大系本の附図参照)。おおむね現稲敷郡茎崎町、牛久市の一部、つくば市南部の一部、筑波郡谷和原村、伊奈町の区域です。『和名抄』は「甲加(知)」と訓じています。

 この「こうち」は、マオリ語の

  「コウ・チ」、KOU-TI(kou,koukou=anoint,sprinkle;ti=throw,cast)、「(笹竹で清めの)水を振りかけたような(僅かに湿っている)土地が・放り出されている(地域)」

の転訛と解します。

 

(7) 信太(しだ)郡

 

a 信太郡

 『常陸国風土記』信太郡の条に「東は信太の流海、南は榎の浦の流海、西は毛野河、北は河内の郡なり」とあり、おおむね現稲敷(いなしき)郡、牛久市、竜ヶ崎市の区域にあたります。『和名抄』では「志多」と訓じています。

 この「した」は、「シダ(垂る)」で、「傾斜地」、「崖」などを意味するとの説があります。

 この「しだ」は、マオリ語の

  「チタハ」、TITAHA(lean to one side,be on one side)、「(霞ケ浦に向かって)傾斜している(地域)」

の転訛と解します。

 この「いなしき」は、マオリ語の

  「イナ・チキ」、INA-TIKI(ina=bask;tiki=sacrum)、「陽光を受けて温もっている仙骨(台形の腰骨)(のような地形の地域)」

の転訛と解します。

 

b 牛久(うしく)沼

 稲敷台地の西部に牛久沼があり、その北東に牛久市があります。牛久沼は、小貝河の堆積作用によって、東・西谷田(やた)川の谷口が閉塞された堰止湖です。

 この「うしく」は、(1) 泥深くて牛も飲み込む「牛喰い沼」から、

(2) 鵜がたくさんいた「鵜宿(うしゅく)」の転、

(3) 河童がいて牛を引きずり込んだからなどの説があります。

 この「うしく」は、東・西谷田川を魚の上顎、下顎に見立てたもので、マオリ語の

  「ウチ・ヒク」、UTI-HIKU(uti=bite;hiku=tail of fish,tip of leaf)、「尾を噛み切られた魚(のような形の沼)」

の転訛(「ヒク」の語頭の「ヒ」が脱落した)と解します。

 この谷田川の「やた」は、マオリ語の

  「イア・タ」、IA-TA(ia=current,rushing stream;ta=dash,lay)、「勢いよく流れる川」

の転訛と解します。

 

(8) 龍ケ崎(りゅうがさき)市

 

 龍ケ崎市は、茨城県南部にあり、北部は稲敷台地、南部は小貝川の自然堤防と沖積平野からなっています。

 この地名は、「龍の起こる地」または「龍の起こるのを眺める地の崎」の意とする説があります。

 この「りゅう」は、マオリ語の

  「リウ」、RIU(bilge of a canoe,valley,belly)、「船底に滲み出すあか水(のような川が流れる土地。または台地を刻む谷のある土地)」

の転訛と解します。

 

(9) 茨城(むばらき。いばらき)郡

 

a 茨城郡

 『常陸国風土記』茨城郡の条に「東は香島の郡、南は佐我の流海、西は筑波山、北は那珂の郡なり」とあり、おおむね現東・西茨城郡の南部、新治郡の大部分の区域にあたります。『和名抄』では「牟波良支」と訓じています。国府の所在地で、国府および郡家は、石岡市茨城(ばらき)にあったとされます。

 風土記には、国巣(くず。俗に「つちくも」、「やつかはぎ」ともいう)の佐伯(さえき)が土窟(つちむろ)を掘り、穴に住んで悪事をしたので、黒坂命が穴を茨棘(うばら)で塞いで退治をしたとも、賊を滅ぼすために茨棘で城を築いたともあります。

 このことから、「う(い)ばらき」は、茨木の繁茂している地域と解されています。

 この「むばらき」、「いばらき」は、マオリ語の

  「ムフ・パラキ」、MUHU-PARAKI(muhu=grope,push one's way through bushes;paraki=land wind from the north)、「かん木の茂みをかき分けて進む、北風が吹きすさぶ(地域)」(「ムフ」の語尾の「フ」が脱落した)

  「イ・パラキ」、I-PARAKI(i=beside;paraki=land wind from the north)、「北風が吹きすさぶ(地域)」

の転訛と解します。

 ちなみに、この国巣の佐伯の「くず」、つち(土)くもの「くも」、「やつかはぎ」、「さえき」は、マオリ語の

  「ク・ツ」、KU-TU(ku=silent;tu=stand,settle)、「静かに暮らしている(人々。その住む土地)」(地名篇(その五)の奈良県の地名の「国栖(くず)」の語源と同じです。)

  「クモウ」、KUMOU(=komou=cover a fire with ashed or earth to keep it smouldering)、「(灰の中の埋め火のように穴の中に)篭もってじっとしている(人々)」

  「イア・ツ・カ・ハ(ン)ギ」、IA-TU-KA-HANGI(ia=indeed;tu=stand,settle;ka=take fire,be lighted;hangi=earth oven)、「実に穴を掘って住処としている(人々)」

  「タエキ」、TAEKI(lie)、「(穴の中に)横たわる(人々)」または「タ・エキ」、TAE-KI(ta=the;eki,ekieki=ike,ikeike=high,lofty)、「高貴な(心情をもつ人々)」

の転訛と解します。この風土記の地名伝承は、先住の静かに暮らしていた縄文人を賊として滅ぼし、土地を奪った侵略者としての弥生人、大和朝廷が作り上げた伝説です。

 

b 信筑(しづく)川(恋瀬(こいせ)川)

 『常陸国風土記』茨城郡の条に国府の近くの景勝の地として「信筑川」がみえます。この川は、加波山の東に源を発し、新治郡八郷町、千代田町を南流して、石岡市を貫流し、同市高浜で霞ヶ浦に注ぐ恋瀬川で、流域の筑波山から南東に延びる丘陵の尖端、新治郡千代田町に志筑(しづく)の地名が残ります。

 この「しづく」、「こいせ」は、マオリ語の

  「チ・ツク」、TI-TUKU(ti=throw,cast,overcome;tuku=let go,send,side,shore,ridge of a hill)、「丘陵を削って流れる(川)」

  「コイ・テ」、KOI-TE(koi=sharp,headland,move about,suitable;te=crack)、「丘陵の尾根にできた割れ目(のような川)」

の転訛と解します。

 

(10) 行方(なめかた)郡

 

a 行方郡

 『常陸国風土記』行方郡の条に「東・南・西は竝(とも)に流海、北は茨城の郡なり」とあり、霞ヶ浦の北浦と西浦の間に突き出た半島状の地域で、ほぼ現行方郡の区域にあたります。『和名抄』では「奈女加多」と訓じています。

 風土記は、孝徳天皇の御代、白雉4(653)年に茨城国の7里と那賀国の8里を併せて行方郡を建てたとし、その郡名は、倭武天皇が東国巡狩の際、現原(あらはら)の丘から四方を望んで山や海の配置の妙をたたえ、「行細(なめくはし)の国」と称するよういわれたことによるとしています。

 この「なめかた」は、(1) 「一定の地形(二つの大きな浦に囲まれ、どこまでも細く続く地形)が続いて行く方向」の意、

(2) 「ナメ(滑らかな地形)」が列状に続く土地の意とする説があります。

 この「なめかた」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ナ・メカ・タ」、NA-MEKA-TA(na=satisfied,belonging to;meka=true,chain,a form of ladder;ta=dash,beat,lay)、「満足した(肥沃な耕地が)・鎖のように(切れ目なしに)・連なっている(地域)」

の転訛と解します。

 

b 夜刀(やつ)神社

 『常陸国風土記』行方郡の条に、継体天皇の御代、箭括(やはず)の氏の麻多智(またち)が葦原を拓いて水田を造った際、夜刀の神である蛇の大群が出てきて妨害したので、武器をとって打ち払い、山の登り口に標柱を建て、これより上は神の土地、下は人の田と宣言し、神社を設けて神を祭ったとあります。この神社は、玉造町新田の夜刀神社とされます。

 この「やつ」または「やと」は、マオリ語の

  「イア・ツ」、IA-TU(ia=current;tu=stand,settle,be wounded,girdle)、「水の流れのある(場所。谷(やつ)、谷津(やつ))」または「イア・ト」、IA-TO(ia=current;to=be pregnant,wet)、「水の流れを妊(はら)んでいる(場所。または非常にじめじめした場所。谷戸(やと))」

の転訛と解します。

 ちなみに、この箭括の氏の麻多智の「やはず」、「またち」は、マオリ語の

  「イア・パツ」、IA-PATU(ia=current;patu=strike,weapon,screen,wall)、「水の流れを治める(氏族)」

  「マタ・チ」、MATA-TI(mata=deep swamp;ti=overcome)、「湿地を征服した(水田に作り変えた人)」

の転訛と解します。

 

(11) 霞ケ浦(かすみがうら)

 

a 霞ヶ浦

 茨城県南東部、利根川下流域に位置する日本第二の大きさの海跡湖です。

 『常陸国風土記』行方郡の条に、景行天皇が下総国印波の鳥見の丘から東方をご覧になって「海は即ち青波浩行(ただよ)ひ、陸は是丹霞空朦(にのかすみたなび)けり」といわれたので、「香澄(かすみ)の里」の名がついたとみえ、これから霞ヶ浦の名が付けられたとされます。

 一般に「かすみ」は、(1) 「カス(崖地)・ミ(辺)」の意、

(2) 「聖域」の呼称、

(3) 霞んでみえる場所の意、

(4) 「神住(かすみ)」の意とする説があります。

 この「かすみ」は、マオリ語の

  「カハ・ツ・ミ」、KAHA-TU-MI(kaha=strong,strength,persistency;tu=stand,settle;mi=urine,stream)、「どこまでも続いて・いる・水の流れのような(大きな。湖)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

 

b 北(きた)浦・外浪逆(そとなさか)浦

 広義の霞ヶ浦は、古代には霞ヶ浦(西浦ともいいました)の”東”にある北(きた)浦、東南にある外浪逆(そとなさか)浦を含んだ銚子方向へ開いた大きな入り江で、交通路として利用されていました。江戸初期に利根川が付け替えられて現在の流路となってから、東寄りの部分で堆積が進み、水域が縮小し、淡水化が進み、沿岸の干拓が進んで現在に至っています。

 この外浪逆浦は、鹿島郡神栖町と行方郡潮来町の間に位置し、常陸利根川の一部をなす水域で、北浦とは鰐川で、霞ヶ浦とは北利根川で通じています。内浪逆浦は、昭和25(1950)年に干拓されました。満潮時には海水が河水を抑えて波浪が逆流したので「浪逆」の名の由来とされます。『万葉集』(巻14、3,397)に「常陸なる浪逆(なさか)の海」とみえています。

 この北浦の「きた」、浪逆浦の「なさか」は、マオリ語の

  「キタ」、KITA(tightly,compact)、「こじんまりとした(または狭い湖)」

  「ナ・タカ」、NA-TAKA(na=belonging to;taka=revolve,turn on a pivot)、「(満潮時と干潮時によって潮流の向きが)逆転する(湖)」(すこし意味が違いますが、この「タカ」は、地名篇(その三)の滋賀県の地名の「逢坂山」の「タカ」と同じ語源です。)

の転訛と解します。

 

(12) 潮来(いたこ)町

 

 茨城県南端、行方郡潮来町は、北浦の西岸にあり、南は利根川をへだてて千葉県佐原市と接しています。町域の北半は台地、南半は低地で、内浪逆(うちなさか)浦など戦後の干拓地が広がっています。古来、水陸交通の要地でした。

 『常陸国風土記』行方郡の条に、板来(いたく)の駅家がみえ、崇神天皇の御代に、建借間(たけかしま)命が国栖(くず)を計略で誘い出して滅ぼした説話があり、

  「此の時、痛く殺すと言ひし所は、今、伊多久(いたく)の郷と謂ひ、臨(ふつ)に斬ると言ひし所は、今、布都奈(ふつな)の村と謂ひ、安く殺(き)ると言ひし所は、今、安伐(やすきり。またはあば)の里と謂ひ、吉く殺(さ)くと言ひし所は、今、吉前(えさき)の邑と謂ふ。」

とあります。

 この板来、伊多久は、行方郡の南端の潮来町潮来とされ、布都奈は、潮来町潮来の東北にある古高(ふつたか)と、安伐は、古高の安波(あば)台と、吉前は、潮来町江崎(えさき)と考えられています。

 この「いたく」は、(1) 「イタ(刻む)・ク(コ。処)」で常総台地の段丘、崖の呼称、

(2) 「イタ、イサ(石、砂)・コ(処)」で砂地の場所の意、

(3) 「イ(接頭語)・タコ(高地)」の意、

(4) 「イタ(潮)・コ(処)」で潮の入って来る場所の意とするなどの説があります。 

 この「いたく」、「ふつな」、「あば」、「えさき」は、マオリ語の

  「イ・タク」、I-TAKU(i=beside;taku=edge,border,gunwale)、「(半島の)周縁(の土地)」

  「フ・ツ・ナ」、HU-TU-NA(hu=promontry,hill;tu=stand,settle;na=particle used after words to indicate position near)、「近くにある丘」

  「アパ」、APA(fold) or APAAPA(heap)、「高台」

  「エ・タキ」、E-TAKI(e=by,emphasis;taki=take to one side,track,tow with a line from the shore)、「岸を辿って進んだ場所」

の転訛と解します。この潮来のもととなった「いたく」の「タク」は、愛媛県三豊郡、三崎半島に位置する詫間(たくま)町の「タク」と同じ語源で、「周縁」の意味です。

 

(13) 鹿島(かしま)郡

 

a 鹿島郡

 『常陸国風土記』香島郡の条に「東は大海、南は下総と常陸の堺なる安是(あぜ)の湖、西は流海、北は那賀と香島の堺なる阿多可奈の湖なり」とあり、鹿島灘沿岸の弧をなした巨大な砂州状の地域で、ほぼ現鹿嶋郡の区域です。『和名抄』では「加之末」と訓じています。

 風土記は、孝徳天皇の御代、大化5(649)年に下総国(海上国)の1里と那賀国の5里を分けて「神の郡」を置き、そこに鎮座する3座の神の総称「香島の天の大神」にちなんで「香島」郡と名付けたとあります。

 この「かしま」は、(1) 「神島」または「神栖間」で、「神の鎮座する神聖な土地」の意、

(2) 「カシ(上、傾いた、痩せた)・マ(処)」の意、

(3) 「鹿のいる島」とする説があります。

 この「かしま」は、マオリ語の

  「カチ・マ」、KATI-MA(kati=block up,shut of a passage,barrier,boundary;ma=white,clean)、「清らかな防波堤(または内陸との交通の障壁のような地形の地域)」

の転訛と解します。

 

b 安是(あぜ)の湖・阿多可奈(あたかな)の湖

 安是の湖は、遺称はありませんが、利根川の河口付近の地名とされます。

 また、阿多可奈の湖は、これも遺称はありませんが、涸沼の水が大海に流れ出る河口の地、即ち那珂川の河口付近の地名とする那珂湊説(岩波大系本)と、涸沼説があります。

 しかし、地名からみると、「阿多可奈の湖」は、かつて西茨城郡岩間町あたりから涸沼川が膨大してできた細長く延びた涸沼の古い名称であったと考えられます。涸沼は、古代のある時期に河口が閉塞して出現し、それ以降徐々に土砂の堆積によって縮小したと考えられ、明治以降も干拓が進み、大きく湖水面が縮小しました。

 この安是の湖の「あぜ」、阿多可奈の湖の「あたかな」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ア・テ」、A-TE(a=belonging to;te=crack)、「川の瀬(のような水域)」

  「アタ・カナ」、ATA-KANA(ata=gently,slowly,clearly,quite;kana(Hawaii)=horizontal support in houses for carrying poles)、「家屋の棟木そっくり(の沼)」

の転訛と解します。

 

c 軽野(かるの)

 『常陸国風土記』香島郡の軽野の里の条に、「軽野の東の大海の浜辺に、流れ着ける大船あり。長さ一十五丈(つえ)、濶(ひろ)さ一丈余、朽ち摧(くづ)れて砂に埋まり、今に猶遺れり。<以下分注>淡海のみ世、国覓ぎに遣はさむとして、陸奥の国石城の船造に令して、大船を作らしめ、此に至りて岸に着き、即(やが)て破(やぶ)れきと謂ふ。」とあります。

 『日本書紀』応神紀5年10月の条に「枯野(からの)」船の記事があり、「軽野の訛か」と分注があります。また、『古事記』仁徳記にも「枯野(加良怒。からの(ぬ))」船の記事があります。

 この地名の「かるの」は、ハワイ語の

  「カウルア・ナウ」、KAULUA-NAU(kaulua=double-canoe;nau=to chew,munch)、「波にしゃぶられている巨大なカヌー(が残されている浜)」

の転訛(「カウルア」が約されて「カル」となり、「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となつた)と解します。

 記紀の船名の「からの(からぬ)」は、ハワイ語の

  「カウルア・ヌイ」、KAULUA-NUI(kaulua=double-canoe;nui=large)、「巨大なカヌー」

の転訛と解します。(入門篇(その三)の「枯野(からの)船」の項を参照してください。)

 

(14) 大洗(おおあらい)

 

 茨城県東部、もとは鹿島郡でしたが、今は東茨城郡に属する大洗町があります。那珂川河口の南にあり、鹿島灘に面する漁業の町です。町名は、那珂川河口から南2キロメートルにわたって砂浜の間に礫岩が岩礁状に露出し、波が砕け散る「大洗」海岸にちなみます。

 『文徳実録』斉衡3(856)年の条に、常陸国の上言として、塩焼きの郡民が夜半海上に光り輝くのを見、翌日海辺に二つの怪石を発見、さらに翌日その石に侍座するような20個ほどの小石を見、時に託宣があって昔この国を造り、東海に行っていたが、いま民を救うため帰来した大己貴命、少彦名命とわかり、それぞれ大洗磯前(おおあらいいそざき)神社と酒列(さかつら)磯前神社に祀ったとあり、さらに翌年の条には、両社を官社とし、薬師菩薩明神と名づけたとあります。

 この「おおあらい」は、(1) 「大いに波に洗われる海岸」の意、

(2) 「大荒磯(おおあらいそ)」の転などの説があります。

 この「おおあらい」、「さかつら」は、マオリ語の

  「オホ・ア・ラヒ」、OHO-A-RAHI(oho=wake up,arise;a=the...of;rahi=great,abundant)、「忽然と出現した大きな岩(またはその岩がある海岸)」

  「タ・カツア・ラ」、TA-KATUA-RA(ta=the;katua=full grown,stockade,main portion of anything;ra=wed)、「中心の大岩に連なっている岩(の列)」

の転訛と解します。

 

(15) 波崎(はさき)町

 

 茨城県南東端、鹿島郡の南端、利根川河口の砂丘に位置する町です。

 この「はさき」は、(1) 地形が鳥の羽に似ているので、「羽先」の意、

(2) 刀の先の「刃先」の意とする説があります。

 この「はさき」は、マオリ語の

  「パタキタキ」、PATAKITAKI(boundary,the board placed on edge at the entrance to the porch of a house)、「境界(または(鹿島郡の)玄関の敷居にあたる場所)」(P音がF音を経てH音に変化し、反復語尾の「タキ」が脱落した)

の転訛と解します。

 

(16) 那珂(なか)郡

 

a 那珂郡

 『常陸国風土記』那賀(なか)郡の条に「東は大海、南は香島・茨城の郡、西は新治の郡と下野の国との堺なる大き山、北は久慈の郡なり」とあり、那珂川の流域一帯の地域で、ほぼ現那珂郡、ひたちなか市、水戸市、東茨城郡茨城町の北部、同郡内原町の区域です。平安初期までは「那賀」と表記され、中世以降郡域の変動があって「那珂」となりました。

 この「なか」は、(1) 「中」の意で、国の中心部や河川の間の地を指す、

(2) 「谷などが長く入り込んでいる土地」の意、

(3) 「ナガ」の場合は、「河川の堤防などが長く続いている土地」の意とする説があります。

 この「なか」は、那珂川の川名からで、マオリ語の

  「ナ・アカ」、NA-AKA(na=satisfied,belonging to;aka=clean off,scrape away,long and thin roots of trees or plants)、「満足して(ゆったりと)・根こそぎに押し流すように(力強く)流れる(川。その流域の土地)」(「ナ」のA音と「アカ」の語頭のA音が連結して「ナカ」となった)

の転訛と解します。

 

b 山方(やまがた)町

 茨城県北部、久慈川中流域の町で、中心集落の山方は、近世の水戸と郡山を結ぶ南郷街道の宿場町でした。周辺の男体山につづく山地や、鷲子(とりのこ)山塊の間を縫つて流れる久慈川が山方町山方に入ると、急に視界が開け、V字状に平野が広がります。

 この「やまがた」は、マオリ語の

  「イア・マ・カタ」、IA-MA-KATA(ia=indeed,very;ma=white,clean;kata=opening of shellfish)、「実に清らかな、貝が口を開けたような(地形の場所)」

の転訛と解します。入門篇(その一)の「カサ」地名の一つの典型です。

 

c 鷲子(とりのこ)山

 鷲子山(445メートル)は、八溝山地の鷲子山塊の西端にある主峰です。山頂は栃木県那須郡馬頭町に隣接し、東南東に延びる低い尾根の尖端に茨城県那珂郡美和町鷲子の地があり、この地方特産の和紙「鳥ノ子紙」の名称が発祥しました。この山は、久慈川水系と那珂川水系の分水界にあたります。

 『常陸国風土記』那賀郡の条にみえる「西は新治の郡と下野の国との堺なる大き山」を現東茨城郡御前山村伊勢畑の山とする説(岩波大系本)と、この鷲子山とする説(角川書店『日本地名大辞典』)があります。

 この「とりのこ」は、マオリ語の

  「トリ・ノコ」、TORI-NOKO(tori=cut;noko=stern of a canoe)、「切り落とされたカヌーの船尾(のような山。その場所)」

の転訛と解します。

 

d 甫時臥(くれふし)の山

 『常陸国風土記』那賀郡の条の茨城の里の東に、「甫時臥の山」にまつわる雷神伝説がみえます。

 この「くれふし」、「ぬか」は、マオリ語の

  「クラエ・フチ」、KURAE-HUTI(kurae=project,be prominent;huti=hoist,pull out of the ground)、「目立って・高い(丘)」(「クラエ」のAE音がE音に変化して「クレ」となった)または「クレ・フチ」、KURE-HUTI(kure=cry as a seagull;huti=hoist,pull out of the ground)、「(神の子の蛇が怒りの)叫び声を上げた・高い(丘)」

  「ヌカ」、NUKA(deceive)、「(神の子の蛇の期待を)裏切つた(兄、妹)」

の転訛と解します。

 

(17) 水戸(みと)

 

a 水戸

 茨城県中央部に所在する県庁所在地で、那珂川とこれに並行する桜川、千波湖の間の上市(かみいち)丘陵の先端に、水戸城が築かれ、これを中心に市街地が発展しました。

 『常陸国風土記』那賀郡の条に「粟河を挟みて駅家を置く」とあり、律令制下の条里水田が開かれた粟河(那珂川)の低地に「河内駅家」が、上市台地上に那珂郡の郡衙や寺が、台地の崖線に「曝(さらし)井」(風土記同条)がありました。

 この「みと」は、(1) 「水門(みと。水域の出入り口)」の意、

(2) 「湊」の意とする説があります。

 この「みと」は、マオリ語の

  「ミ・ト」、MI-TO(mi(Hawaii)=urine,stream;to=drag)、「(川、海などの狭くなった場所、堰などから)水を引き込む(場所。またはその堰などのある地域)」

の転訛と解します。

 

b 千波(せんば)湖

 市街地の西に、桜川に突き出るように偕楽園の丘があり、その南に接して千波湖があります。

 偕楽園の丘の西には沢渡川が桜川に合流し、丘の東には古く牛頭天王祠があったことから天王(てんのう)町の地名があります。

 この「せんば」、「てんのう」は、偕楽園の丘を「喉ぼとけ」に見立てた地名で、マオリ語の

  「テンガ・パ」、TENGA-PA(tenga=Adam's apple;pa=touch,reach)、「喉ぼとけに接している(湖)」(「テンガ」の語尾の「ガ」が脱落し、「パ」が濁音化した)

  「テンガ・アウ」、TENGA-AU(tenga=Adam's apple;au=firm,intense,certainly)、「正に喉ぼとけのような丘(のそばの土地)」(「テンガ」の語尾の「ガ」が脱落し、「アウ」と連結して「テンノウ」となった)

の転訛と解します。この「テンガ」地名は、地名篇(その三)の三重県の地名の大王崎の「天白」、京都府の地名の「天王山」、地名篇(その五)の奈良県の地名の春日の「香山」などをはじめ、各地に多数存在します。

 

(18) 阿字(あじ)ケ浦

 

 茨城県東部、ひたちなか市の北東部の磯崎岬から北に延びる海岸で、その砂浜には後ろの洪積台地に向かって吹き上がる砂丘があります。

 この「あじ」は、マオリ語の

  「アチアチ」、ATIATI(drive away)、「(砂丘を台地に)押し上げる(浜)」

の転訛(同音反復の語尾「アチ」が脱落した)と解します。

 

(19) 久慈(くじ)郡

 

a 久慈郡

 『常陸国風土記』久慈郡の条に「東は大海、南と西は那珂の郡、北は多珂の郡と陸奥の国との堺の岳なり」とあり、久慈川の流域一帯の地域で、おおむね現久慈郡(大子町を除く)、那珂郡山方町・大宮町・瓜連町・那珂町の久慈川沿いの地域、日立市の西北部および南部の一部、常陸太田市の区域です。

 風土記同条には、郡の南に鯨(くぢら)に似た小さな丘があったので、倭武天皇が「久慈郡」と名付けたとあります。

 この「くじ」は、(1) 「クシ、クジ(越す)」から「砂丘、小丘の長く連なった高まり」の意、

(2) 「クジ(抉る)、クジ(挫く)」から「崩れ崖」の意、

(3) アイヌ語「クシ(通過する、川や山の向こう)」の意などとする説があります。

 この「くじ」は、マオリ語の

  「クチ」、KUTI(contract,pinch)、「狭いところ(峡谷を流れる川)」

の転訛と解します。地名篇(その二)の岩手県の地名の「久慈市」の項を参照してください。神奈川県川崎市高津区久地(くぢ)も多摩川と西から張り出す丘陵に挟まれた狭い場所です。

 

b 助川(すけかわ)

 『常陸国風土記』久慈郡の条に「助川(すけかは)の駅家あり。昔逢鹿(あふか)と號く」とみえ、現日立市に助川町の地名が残ります。日立市の市街地の北西に神峰(かみね)山(598メートル)、高鈴山(624メートル)があり、高鈴山から東南に延びる尾根の先が海岸に並行にT字形に曲がっており、その尾根の北の尖端のあたりが助川の地です。

 この「すけかわ」、「あふか」は、マオリ語の

  「ツケ・カワ」、TUKE-KAWA(tuke=elbow,angle;kawa=heap,channel)、「肘を曲げたような丘陵(の付近の土地)」

  「アフ・カ」、AHU-KA(ahu=heap;ka=take fire,be lighted)、「丘陵の(上に)ある居住地」

の転訛と解します。

 

c 賀毘禮(かびれ)の高峯

 『常陸国風土記』久慈郡の条に「東の大き山を賀毘禮の高峯と謂ふ」とあります。天つ神の立速男(たちはやを)命、亦の名を速経和気(はやふわけ)命が、汚れた人里から離れて賀毘禮の高峯に登ったとし、「其の社は、石を以ちて垣と為し、・・・併(また)、品(くさぐさ)の宝・・・皆石と成りて存(のこ)れり」とあります。

 この山を久慈・多賀両郡境、現日立市の神峰山(598メートル)とする説(岩波大系本)と、その西の日立市の入四間山(御岩山)とする説(角川書店『日本地名大辞典』)がありますが、御岩山の山頂には多くの石の遺構があり、風土記の記事と一致しています。

 この「かびれ」は、マオリ語の

  「カピ・レイ」、KAPI-REI(kapi=be covered of a surface,be occupied as space;rei=large tooth,ivory,jewel)、「宝物が・表面を覆っている(山)」

の転訛と解します。

 ちなみに、この神名の「たちはやを」、「はやふわけ」は、マオリ語の

  「タ・チ・ハ・イア・アウ」、TA-TI-HA-IA-AU(ta=dash,strike;ti=throw,cast,overcome;ha=breathe,what!;ia=indeed,very;au=gall,rapid,certainly)、「人に罰を与えて放り出すことが実に厳しい(神)」

  「ハイ・アフ・ワカイ(ン)ガ」、HAI-AHU-WAKAINGA(hai=the name of the principal stone in the game of ruru,;ahu=heap,sacred mound;wakainga=distant home)、「要(かなめ)の石のような・聖なる峰に・人里を離れて住む(神)」(「ハイ」と「アフ」が連結して「ハヤフ」と、「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)

の転訛と解します。

 

(20) 八溝(やみぞ)山地

 

a 八溝山

 茨城県の北西端、久慈郡大子町と福島県東白川郡棚倉町にまたがる山(1,022メートル)で、福島県南部から茨城・栃木の県境に南の筑波山まで連なる八溝山地の主峰です。傾斜の緩い吊り屋根型の山容をもち、四方に渓谷を刻み、川が流れだしています。

 山名は、八方から谷に刻まれた山の意とされています。

 この「やみぞ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「イア・ミ・ト」、IA-MI-TO(ia=indeed,very,each;mi(Hawaii)=urine,stream;to=drag)、「実に川を(四方へ)引き出す(山)」

の転訛と解します。この「ミト」は、前出「水戸市」と同じ語源です。

 

b 大子(だいご)町

 久慈郡大子町は、茨城県の北西端に位置し、栃木・福島両県と接しています。八溝山地の山間部を占め、中央を久慈川が南流しています。

 古くは依上(よりかみ)保に含まれ、文禄年間(1592〜96年)の太閤検地までは陸奥国白河郡に属しました。

 中心集落の大子は、近世には水戸と郡山を結ぶ南郷街道の宿場町でしたが、久慈川と西から東へ向かって流れる押(おし)川の合流点にあり、この押川の流域は平坦な盆地となっています。

 この「だいご」は、「タイ(平らな)・コ(処)」の意と解する説があります。

 この「だいご」は、マオリ語の

  「タイ・(ン)ガウ」、TAI-NGAU(tai=the coast,tide;ngau=bite,hurt)、「(八溝山地の)山の端を噛み切った(ような平地のある地形の場所)」

の転訛と解します。地名篇(その三)の京都府の「醍醐」の語源と同じです。

 この押川の「おし」は、マオリ語の

  「オチ」、OTI(=koti=cut in two,divide)、「(八溝山地を二つに)分ける(川)」

の転訛と解します。

 

c 依上(よりかみ)保

 陸奥国依上保の「よりかみ」は、マオリ語の

  「イオ・リカ・ミ」、IO-RIKA-MI(io=muscle,spur,line;rika=writhe,impatient;mi(Hawaii)=urine,stream)、「水が(狭い谷を)もがきながら流れる川筋(の場所。久慈川の上流の地域)」

の転訛と解します。

 

d 袋田(ふくろだ)ノ滝

 大子町袋田の滝川にかかり、高さ121メートル、4段に落ちる滝で、「四段の滝」または「四度の滝」ともいい、大きな丸みを帯びた岩の表面を細いすだれのような水流が一面に覆って流れます。規模は大きいものの、繊細な美しさをもつ滝です。

 この「ふくろだ」は、マオリ語の

  「プクラウ・タ」PUKURAU-TA(pukurau=a net-like fungus;ta=dash,beat,lay)、「網(あみ)茸が(岩の上に)貼り付いている(ような滝)」(「プクラウ」のP音がF音を経てH音になり、AU音がO音に変化して「フクロ」となった)

の転訛と解します。

 

e 生瀬(なませ)の滝

 袋田の滝の上流にある滝を、「生瀬の滝」と呼んでいます。また、袋田ノ滝の北にあって滝を眼下に見下ろす山を「生瀬富士(なませふじ。420メートル)」と呼んでいます。

 この「なませ」は、マオリ語の

  「ナ・マテ」、NA-MATE(na=belonging to;mate=dead,sick,extinguished,moving slowly)、「ゆっくり流れる(滝。そのそばにある山)」

の転訛と解します。

 

f 月居(つきおれ)山

 袋田の滝は、生瀬富士とその南の月居山(404メートル)の間の集塊岩層を切り割って流れる滝川にかかっています。この月居山は、西面に絶壁をもつ男体(なんたい)山(654メートル)、篭岩山(501メートル)、白木山(610メートル)、武生(たきゅう)山(468メートル)などが南に口を開けた細長いU字形をなしている男体山地の北に細長く突出した山です。

 この「つきおれ」、「なんたい」は、マオリ語の

  「ツキ・オレ」、TUKI-ORE(tuki=beat,pestle,piece attached to the body of a canoe to lengthen it;ore=bore,poke out with a rod,a war spear)、「穴を開けられた(山に峡谷が刻まれて滝川が流れ、袋田の滝が落ちる)カヌーの延長舷側板(のように切り立った岩壁をもつ山)」

  「ナニ・タイ」、NANI-TAI(nani=noisy,ache of the head;tai=the sea,the other side)、「片頭痛がしている(片方の西面だけに絶壁がある山)」

の転訛と解します。

 

g 龍神(りゅうじん)峡

 上記のカヌーに見立てられたU字形の山地の間を南流する川は、久慈郡水府村の大吊橋のある龍神峡の峡谷を刻み、龍神ダムを経て山田川に合流します。

 この「りゅうじん」は、マオリ語の

  「リウ・チノ」、RIU-TINO(riu=bilge of a canoe,valley,belly;tino=essentiality,very,main)、「実に船底に湧き出るあか水(のような川の流れ。その場所)」

の転訛と解します。地名篇(その五)の和歌山県の「龍神温泉」の語源と同じです。

 

h 東・西金砂(かなさ)山

 久慈郡水府村の東部に東金砂山(494メートル)があります。里川と山田川の分水界をなし、傾斜が急で、東西交通の障害となっています。

 また、その西に山田川を隔てて、久慈郡金砂郷(かなさごう)町の最北端に西金砂山(412メートル)があります。山田川と久慈川の分水界をなし、とくに東部は急傾斜です。西金砂山の山頂付近には、周囲をすべて絶壁で囲まれた難攻不落の金砂城跡があり、治承4(1180)年佐竹秀義がたてこもる金砂城の攻略に源頼朝が苦しみ、内部の裏切りを褒賞で誘って漸く勝利したことで有名です。

 この「かなさ」は、もともとは「かねさ」で、マオリ語の

  「カネ・タ」、KANE-TA(kane=head;ta=dash,lay)、「頭が置いてある(突出しているような嶮しい山)」

の転訛と解します。

 

(21) 多珂(たか)郡・薦枕(こもまくら)多珂の国

 

 『常陸国風土記』多珂郡の条には、成務天皇の御代に多珂国造に任じられた建御狭日(たけみさひ)命が始めて「国體(くにがた)を歴験(めぐりみ)て、峯険しく岳崇(たか)しと為して、因りて多珂国と名づけき」とあります。
 また、同条分注には「国俗(くにぶり)の説(ことば)に薦枕(こもまくら)多珂の国といふ」とあり、この枕詞「こもまくら」は万葉集(7-1414)の「薦で作った枕」の意ではなく、多珂国の地形を形容する枕詞と解します。

 この「たか」および「こもまくら」は、マオリ語の

  「タカ」、TAKA(heap,lie in a heap,heap up)、「高くなっている(地域)」

  「コモ・マクウ・ラ」、KOMO-MAKUU-RA(komo=thrust in,insert;(Hawaii)makuu=topknot of hair;ra=wed,there,yonder)、「(髷のような)山々が・連なった・中にある(国の)」(「マクウ」の反復語尾のU音が脱落して「マク」となった)

の転訛と解します。

 

(22) 五浦(いづら)海岸

 

 茨城県北東端、北茨城市の大津岬の北東部を五浦海岸と呼びます。海食作用が著しく、高さ50メートル前後の絶壁、海食洞が点在します。岡倉天心ゆかりの日本美術院の旧跡があります。

 この地名は、五つの入り江の屈曲によるとされます。

 この「いづら」は、マオリ語の

  「イ・ツラ」、I-TURA(i=beside;tura=turaha=keep away.keep clear,be separated)、「人が近づけない(絶壁のある)場所の付近」

の転訛と解します。

 

(23) 花園(はなぞの)・花貫(はなぬき)県立自然公園

 

 茨城県北東部の北茨城市を流れる花園川(花園渓谷)を中心とする地域と、十王町の堅破(たつわれ)山(658メートル)に源を発する花貫川(花貫渓谷)を中心とする地域が県立自然公園に指定されています。

 

a 花園(はなぞの)川

 この「はなぞの」は、マオリ語の

  「パナ・トノ」、PANA-TONO(pana=thrust or drive away,throb;tono=bid,command,demand)、「力強く動悸をうつように流れる(川)」

の転訛と解します。

 

b 堅破(たつわれ)山

 堅破山には、源義家が東征の際、戦勝を祈願して太刀で真っ二つに割ったと伝えられる太刀割(たちわり)石という花崗岩の巨岩が、丸い平らな断面を上に向けて横たわっています。

 この「たつわれ」は、マオリ語の

  「タ・ツアワル」、TA-TUAWARU(ta=the...of;tuawaru=a round plaited rope of flax)、「(縄で丸く編んだ敷物の)円座のような岩(その岩がある山)」

の転訛と解します。

  
 『茨城県県北地区広域観光MAP』茨城県県北地区広域観光連絡協議会、平成10年3月から
 

c 花貫(はなぬき)川

 この「はなぬき」は、マオリ語の

  「パナ・ヌケ」、PANA-NUKE(pana=thrust or drive away,throb;nuke=crooked,humped)、「曲がりながら動悸をうつように流れる(川)」

の転訛と解します。

 

(24) 結城(ゆふき)郡

 

 下総国(追って千葉県の部で解説します)に属する郡で、結城台地と鬼怒川の沖積低地に位置し、おおむね現結城市、結城郡八千代町の大部分(北東部の一部を除く)、千代川村、石下町、下妻市の南部の一部の区域です。『和名抄』は「由不支」と訓じています。

 この「ゆふき」は、木綿(ゆふ)の原料となる「カジノキ(楮)」の生える場所とされます。

 この「ゆふき」は、マオリ語の

  「イ・フキ」、I-HUKI(i=beside;huki=transfix,spit)、「(鬼怒川、小貝川などで)串刺しになったあたり(の土地)」

の転訛と解します。

 

(25) 鬼怒(きぬ)川

 

 栃木県北西部、鬼怒沼湿原に源を発して栃木県内を貫流し、茨城県西部を南流して利根川に合流します。古くは、「毛野(けぬ)川」といわれ、絹川、衣川とも書かれました。

 この「きぬ」、「けぬ」は、(1) 「毛野(けの)国から発する川」の意、

(2) 「洪水が鬼のように猛り狂う川」の意、

(3) 「水面が絹のように美しい川」または「衣(きぬ)を洗う川」の意とする説があります。

 この「きぬ」、「けぬ」は、マオリ語の

  「キ・ヌイ」、KI-NUI(ki=say,tell;nui=large,many)、「饒舌な(うるさい音を立てて流れる川)」

  「ケヌ」、KENU(flat nosed)、「平たい鼻(のような丘陵地帯を流れる川)」

の転訛と解します。

 

(26) 水海道(みつかいどう)市

 

 茨城県南西部、東は小貝川を境につくば市と接し、中央を鬼怒川が南流します。江戸時代には鬼怒川の河岸集落として発展しました。

 この「みつかいどう」は、(1) 平安初期に坂上田村麻呂が東夷征討の際、この地の井戸で馬の水飼いをしたことから、「水飼戸(みつかえと)」と呼ばれた、

(2) 「水の街道」で、水運によって発達した河港の意とする説があります。

 この「みつかいどう」は、マオリ語の

  「ミ・ツカハ・イト」、MI-TUKAHA-ITO(mi=urine,stream;tukaha=strenuous,passionate;ito=object of revenge,enemy)、「川が手ひどく痛めつけた(地域)」

の転訛と解します。

 

(27) 古河(こが)市

 

 茨城県最西端、栃木・埼玉県境に接する市です。中世には下河辺氏が支配し、その後は古河公方と呼ばれた足利氏が勢力を占めました。近世には利根川水運の要衝、日光・奥州街道の分岐点として栄えました。

 この「こが」は、(1) 「コガ・クガ・カガ(空閑、未開地、芝原、荒れた草原)」の意、

(2) 『万葉集』(巻14、3,555)の「麻久良我(まくらが)の許我(こが)の渡し」からとの説があります。

 この「こが」は、マオリ語の

  「コ・オ(ン)ガ」、KO-ONGA(ko=a wooden implement for digging or planting;onga=agitate,shake about)、「躍起になって・掘り棒で掘った(ような水路が縦横にある。地域)」(「コ」のO音と「オ(ン)ガ」の語頭のO音が連結し、NG音がG音に変化して「コガ」となった)

  または「カ・ウ(ン)ガ」、KA-UNGA(ka=take fire,be lighted;unga=circumstance of becoming firm,place of arrival)、「定着した・居住地」(「カ」の語尾のA音と、「ウ(ン)ガ」の語頭のU音が連結してO音となり、「コ(ン)ガ」から「コガ」となつた)

の転訛と解します。山城国乙訓郡(京都市伏見区)の久我(こが。古我、木賀とも)荘や、福岡県粕屋郡古賀町の「こが」も同じ語源でしょう。

 この「まくらが」は、マオリ語の

  「マク・ラ(ン)ガ」、MAKU-RANGA(maku=wet;ranga=ridge of a hill,rising ground in a plain)、「水に浸っている丘」

の転訛と解します。

 

(28) 猿島(さしま)郡

 

 茨城県南西部、北は栃木県、東は結城郡、南から西は利根川に接し、おおむね現古河市、猿島郡、岩井市の区域で、北から南へ延びる台地が、南流する小河川によって浸食されてリアス式海岸のように出入した地形をなしています。『和名抄』は「佐之万」と訓じています。

 この「さしま」は、(1) 彦狭島王の名にちなむ、

(2) 「川の間の狭小な土地」の意、

(3) 「サシ(海へ向かってのびた陸地)」の意、

(4) 「サ(接頭語)・シマ(区切られた地)」の意とする説があります。

 この「さしま」は、マオリ語の

  「タ・チマ」、TA-TIMA(ta=the;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような(地形の場所)」

の転訛と解します。

 

(29) 岩井(いわい)市

 

 茨城県南西部、利根川を隔てて野田市と接します。

 この「いわい」は、『和名抄』の石井(いわい)郷にちなみ、平安時代中期平将門が本拠を置き、藤原秀郷に破られて戦死した場所です。

 この「いわい」は、マオリ語の

  「イ・ワイ」、I-WHAI(i=past tense,beside;whai=cat's cradle,follow,pursue,settled,constantly resident)、(1)「(洪水で綾取りのように)河川の流路が一変する・付近一帯(の土地)」または(2)「(平将門が)追いつめられ・た(場所)」もしくは(3)「(平将門の運命が綾取りのように)一変し・た(場所)」

の転訛と解します。

 ただし、千葉県安房郡富山町の岩井(いわい)海岸は「定住地・一帯」、宮城県一関市を流れる磐井(いわい)川・磐井郡は「(洪水で綾取りのように)河川の流路が一変する・付近一帯(の土地)」でしょうし、

 鳥取県岩美郡石見町の岩井温泉の「いわい」は「イ・ワイ、I-WAI(i=ferment,be stirred;wai=water)、水(湯)が湧く(土地)」、

 また、『日本書紀』継体紀21年6月3日条の叛乱を起こして討伐された筑紫国造磐井の「いわい」は「(征伐するために)探し求め・た(追いつめられた人)または(綾取りのように)運命が一変し・た(人)」と考えられますし、

 さらに、全国各地にある祟りがあるとして立ち入りを忌む「イワイ山」(日立デジタル平凡社『世界大百科事典』1998年。「癖(くせ)地」の項参照)は「イ・ワイ、I-WHAI(i=beside,past time;iwhai=perform an incantation or rite;a spell to cure wounds and other injuries)、(立ち入るために)お祓いをする(または祟りを除くためのお祓いをした山)」の意と考えられます。

 

(30) 相馬(そうま)郡

 

 もとは利根川両岸にまたがった地域で、左岸は茨城県南部、北から東は旧豊田郡、筑波郡、河内郡、南は利根川、西は猿島郡に接し、おおむね現北相馬郡、取手市の区域で、利根川・小貝川の流域の地域です。これに対する右岸は千葉県南相馬郡の区域でしたが、後東葛飾郡と合併して名称は消滅しました。『和名抄』は「佐宇万」と訓じています。

 この「そうま」は、(1) 「サワマ(沢・間)」の転、

(2) 「サヌマ(狭沼)」の転、

(3) 「サニワ(狭場)」の転、

(4) 「サ(接頭語)・ウマ、ウバ(崖、自然堤防)」の転、

(5) アイヌ語の「ソー・マ(滝、谷川)」の意などとする説があります。

 この「そうま」は、マオリ語の

  「タ・ウマ」、TA-UMA(ta=dash,beat,lay;uma=bosom,chest)、「(洪水に)襲われる胸(のような丘の重なつた地域)」

の転訛と解します。なお、陸奥国相馬郡(現福島県相馬市、原町市、相馬郡)は、この下総国相馬郡を領した相馬氏が奥州平泉討伐の功により陸奥国行方郡を与えられ、奥州相馬氏が出たことにちなむものです。

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9 栃木県の地名

 

(1) 下野(しもつけの)国

 

 栃木県は、もと東山道に属する下野国でした。はじめは上野(こうずけの)国とあわせて毛野(けぬの)国で、栃木県の北部は那須国でしたが、『国造本紀』によれば仁徳天皇の時代に渡良瀬川を境に上毛野(かみつけぬ)と下毛野(しもつけぬ)の二国に分かれ、大化改新後、下毛野国に那須国が那須郡として編入されて下野国となりました。

 国府は都賀郡(現栃木市田村町)に置かれ、足利、梁田、安蘇、都賀、寒川、河内、芳賀、塩屋、那須の9郡が置かれていました。

 この「けぬ」は、(1) 「ケ(木、草木)」の茂る国、

(2) 「ケ(禾、禾本科の植物(稲、麦など)、食物)」の豊富な国、

(3) 「クエ(崩れ)・ノ(野)」で火山の裾野の意とする説などがあります。

 この「けぬ」は、マオリ語の

  「ケ・ヌイ」、KE-NUI(ke=different,strange;nui=large,many)、「巨大な奇妙なもの(変ったもの(「華厳の滝」、「妙義山」などを指す)がある地域)」

の転訛と解します。

 

(2) 足利(あしかが)郡

 

 栃木県の南西端、おむね現在の足利市の区域ですが、渡良瀬川の流路の移動によつて変化があります。また、渡良瀬川の右岸は梁田郡に属し、また現群馬県桐生市の桐生川中下流の左岸を含みました。東山道の宿駅に「足利駅」の名がみえます。『和名抄』は「阿志加々」と訓じています。足利氏発祥の土地です。

 この「あしかが」は、(1) 「アシ(芦、葦)・カガ(低湿地、草地)」の意、

(2) 「アシ(アス・アズの転、崖地)・カガ(低湿地、草地)」の意、

(3) 「アシ(足尾山地、渡良瀬川の崩壊地形)・カ(欠け)・ガ(処)」の意とする説があります。

 この「あしかが」は、マオリ語の

  「アチ・カ(ン)ガ」、ATI-KANGA(ati=descendant,beginning;kanga=ka=take fire,be lighted)、「最初の居住地」

の転訛と解します。

 

(3) 渡良瀬(わたらせ)川

 

a 渡良瀬川

 栃木県西部、足尾山地北部の皇海(すかい)山(2,144メートル)に源を発し、足尾山地と赤城火山の間を流れ、群馬県大間々町付近で関東平野に出、南東に流れて古河市南方で利根川と合流します。

 この「わたらせ」は、「渡る瀬」、「浅瀬を渡って他国へ行く」意とされます。

 この「わたらせ」は、マオリ語の

  「ワ・タラ・テ」、WA-TARA-TE(wa=place,area;tara=peak,horn of the moon;te=crack)、「新月の端のような尖った地形の場所(大間々町から桐生、足利、佐野市にかけての地域を指します)の割れ目(を流れる川)」

の転訛と解します。

 

b 皇海(すかい)山

 皇海山は、横長の峻険なコニーデ型火山で、「颯爽と峰頭をもたげ、一気に下の沢まで落ちて」おり、山名は「笄(こうがい)山」からの転とされ、古くは一名「サク山」と呼ばれた(深田久弥『日本百名山』)といいます。

 この「こうがい」、「サク」は、マオリ語の

  「コウ・(ン)ガイ」、KOU-NGAI(kou=knob,stump;ngai=tribe or clan)、「瘤・の部類に属する(山)」

  「タク」、TAKU(edge,gunwale)、「船縁(のような山壁をもつ山)」

の転訛と解します。

 

c 巴波(うずま)川・思(おもい)川

 渡良瀬川は、現下都賀郡藤岡町で巴波川を合流し、次いで思川を合流して、古河市南方で利根川に合流します。かつては洪水の際には利根川の水が渡良瀬川の流れを塞ぐため、藤岡町付近は洪水が非常に多かったので、大正7(1918)年、足尾鉱山の鉱毒問題に悩む谷中村を廃村とし、付近一帯を遊水池としました。

 この巴波川の「うずま」は「ウズを巻き、波を立てて流れる」意と、思川の「おもい」は藤原秀郷が小山市の思川東岸に須賀神社を建てて祇園社の分霊を祭り、「平将門討伐の思い」を祈願したことによると伝えられています。

 この「うずま」、「おもい」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ウツ・マ」、UTU-MA(utu=dip up water,be stanched,cease running;ma=white,clean)、「清らかな(流れを)止められる(塞がれる川)」

  「オ・モイ」、O-MOI(o=the...of;moi(Hawaii)=to remain long in one place)、「(出口を塞がれて)一カ所に水が滞留する(川)」

の転訛と解します。

 

(4) 梁田(やなた)郡

 

 おおむね足利市の南部、渡良瀬川の右岸の地域です。現在梁田町の名が残ります。『和名抄』は「夜奈多」と訓じています。

 この「やなた」は、(1) 「簗(やな)を仕掛ける場所」の意、

(2) 「ヤ(湿地)・ノ(助詞)・タ(処)」の意とする説があります。

 この「やなた」は、渡良瀬川の異名で、マオリ語の

  「イア・ナ・タ」、IA-NA-TA(ia=current;na=belonging to;ta=dash)、「奔流する川(=渡良瀬川。そのほとりの地域)」

の転訛と解します。

 

(5) 安蘇(あそ)郡

 

a 安蘇郡

 おおむね現安蘇郡(葛生町の東部を除く)、佐野市、上都賀郡足尾町、同郡粟野町の区域です。

 この「あそ」は、「アズ」の転で「崖地」、「崩壊地」の意とする説があります。

 この「あそ」は、マオリ語の

  「アト」、ATO(enclose in a fence,thatch)、「垣根(のような山脈)がある(地域)」または「(垂木を並べて)屋根を葺いた(ような地域)」

の転訛と解します。オリエンテーション篇の「阿蘇山と関連地名」の項を参照してください。

 

b 葛生(くずう)町

 栃木県南西部、栃木市の西に接し、足尾山地の南東麓の山間を占め、渡良瀬川の支流、秋山川が南東流します。中心集落の葛生は秋山川の谷口集落です。町域には広く石灰岩層が分布し、石灰岩洞穴の中からは葛生原人の人骨化石が発見されています。

 この「くずう」は、マオリ語の

  「ク・ツ・フ」、KU-TU-HU(ku=silent;tu=stand,settle;hu=swamp,hollow,hill)、「(石灰岩層の中に)静かな・穴が・分布している(地域)」(「フ」のH音が脱落して「ウ」となった)

  または「(ン)グツ・フ」、NGUTU-HU(ngutu=lip,mouth,entrance;hu=promontry,hill)、「山の・入り口(谷口の集落)」(「(ン)グツ」のNG音がK音に変化して「クツ」となり、「クズ」となつた)

の転訛と解します。

 葛生町大叶(おがの)および前河原北山の石灰岩洞穴内から更新世の「葛生原人」の人骨化石が発見されています。

 この「おがの」は、マオリ語の

  「アウ(ン)ガ・ノホ」、AUNGA-NOHO(aunga=haunga=not including;noho=settle,sit)、「洞穴が・ある(土地)」(「アウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「オガ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

の転訛と解します。この「おが」は、地名篇(その二)の秋田県の地名の「男鹿(おが)半島」の「オガ」と同じ語源です。宮城県唐桑半島先端の景勝地「巨釜(おがま)」も同じと考えられます。

 

c 田沼(たぬま)町

 栃木県南西部、佐野市、足利市の北に接し、足尾山地の南東麓の山間を占め、中心集落の田沼は、渡良瀬川の支流、旗川、秋山川がつくる複合扇状地である出流原(いずるはら)の扇頂に位置する谷口集落で、中世の佐野荘の中心でした。

 この「たぬま」、「いずる」は、マオリ語の

  「タヌ・マ」、TANU-MA(tanu=bury,plant,smother with;ma=white,clean)、「(川が山から運んできた)土砂で埋めつくされた・清らかな(土地)」

  「イツ・ル」、ITU-RU(itu=side;ru=shake,scatter)、「(川が土砂を押し出して)ばらまいた付近一帯(の土地)」

の転訛と解します。

 

(6) 佐野(さの)市

 

a 佐野市

 栃木県南西部、足利市の東にあり、市名は古代・中世の佐野荘によります。足利氏から佐野氏が派生しています。

 この「さの」は、(1) 「狭い野」から、

(2) 「サ(美称)・ノ(野)」の意とする説があります。

 この「さの」は、マオリ語の

  「タ・ヌイ」、TA-NUI(ta=the;nui=large,many)、「広い(野原)」

の転訛と解します。

 

b 三毳(みかも)山

 市東部に『万葉集』(巻14、3,424)に「下つ毛の美加母(みかも)の山」と歌われた「三毳山」(225メートル)があります。養老3(719)年に三毳関が置かれた交通の要所です。

 この「みかも」は、(1) 「ミ(美称)・カモ(神の転)」の意、

(2) 「ミ(美称)・カモ(カマの転、崖地)」の意、

(3) 「ミ(水)・カモ(カミの転)」で「川上」の意とする説があります。

 この「みかも」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ミカ・マウ」、MIKA-MAU(mika(Hawaii)=to press,crush;mau=fixed,continuing)、「崩れて定着した(山)」

の転訛と解します。

 

(7) 足尾(あしお)山地

 

 栃木県南西部から群馬県東部にまたがる山地で、北は大治川を境に日光火山群、西は渡良瀬川を境に奥日光山地、赤城火山に接し、東から南は、関東平野に没しま

す。渡良瀬川に面する西斜面は急傾斜で、南東に向って緩傾斜しています。

 江戸時代に開発され、昭和48(1973)年に鉱毒を残して閉山した旧安蘇郡足尾町の足尾鉱山は、わが国の代表的銅山です。鉱床は、備前楯(びぜんたて)山(1,273メートル)を中心とする秩父古生層を貫いて噴出した足尾流紋岩に伴う1800本もの鉱脈と、その周辺部のおもに古生層に胚胎する130余の河鹿(かじか)鉱床と呼ばれる塊状、ポケット状の鉱体からなっていました(日立デジタル平凡社『世界大百科事典』1998年。「足尾鉱山」から)。

 この「あしお」は、(1) 「山裾」の意、

(2) 「アシ(芦、葦)・オ(尾、尻)」で「芦などが群生している渡良瀬川の尾の部分にあたる場所」の意などとする説があります。

 この「あしお」は、マオリ語の

  「ア・チホ」、A-TIHO(a=belonging to;tiho=flaccid,soft)、「軟らかい(崩壊しやすい山)」

の転訛と解します。

 また、備前楯山の「びぜんたて」、河鹿鉱床の「かじか」は、マオリ語の

  「ピヒ・テ(ン)ガ・タタイ」、PIHI-TENGA-TATAI(pihi=sprig up,cut,slit;tenga=Adam'd apple;tatai=measure,arrange,adorn)、「喉ぼとけ(のような山)の割れ目を飾る(付着している鉱脈。それがある山)」

  「カ・チカ」、KA-TIKA(ka=take fire,burn;tika=straight,direct,just)、「そのまま直接火に投ずる(精錬できる、選別を要しない鉱石)」

の転訛と解します。 

 

(8) 都賀(つが)郡

 

 都賀郡は、おおむね現日光市、今市市の霧降高原および旧例幣使街道沿いの南西の約半分、鹿沼市、栃木市、小山市(南西の旧寒川郡の区域を除く)、上都賀郡(粟野町の南西の約半分を除く)、下都賀郡の区域です。

 この「つが」は、「栂(つが)の木」が多く自生していたところに由来するとされます。

 この「つが」は、マオリ語の

  「ツ(ン)ガ」、TUNGA(=turanga=circumstance of standing,site,foundation)、「居住区域」または「(聖地である日光が)存在する敷地」

の転訛と解します。

 

(9) 日光(につこう)

 

a 日光

 栃木県北西部、日光市を中心とする地域を日光と通称し、日光火山群の南部、大治(だいや)川の上・中流地域で、華厳の滝より上流の奥日光、下流の表日光に分けられます。また、鬼怒川上流の塩谷郡栗山村を裏日光(奥鬼怒)、足尾山地北部を前日光とも呼びます。

 日光は、雄大な自然に恵まれた地域で、古くからの男体山を中心とする山岳信仰の聖地でした。

 男体(なんたい)山(2,484メートル)は、中禅寺湖の北東にそびえる成層火山で、二荒(ふたら)山、日光山、黒髪山ともいい、北東には大真名子(おおまなこ)山(2,375メートル)、小真名子(こまなこ)山(2,323メートル)、女峰(にょほう)山(2,464メートル)、北西には太郎(たろう)山(2,368メートル)、山王帽子(さんのうぼうし)山(2,085メートル)が連なり、戦場ケ原、湯ノ湖を隔てて白根山(日光白根山。2,578メートル)などとともに日光火山群を形成しています。このうち、男体、女峰、太郎の三峰は日光三山と呼ばれます。

 日光には日光山の神が大蛇となり、ムカデと化した赤城山の神と死闘を演じ、猟師猿丸の援助で勝利したという伝説が残されています。

 この「にこう(にっこう)」、「ふたら」は、男体山を指した言葉で、マオリ語の

  「ヌイ・コウ」、NUI-KOU(nui=large,many;kou=knob,stump)、「巨大なこぶ(のような山)」

  または「ニコ・ウ」、NIKO-U(niko=take a turn of a rope round anything,tie;u=breast of a female,bite,be fixed)、「(日光山の神である)大蛇が巻き付いている・乳房のように膨らんだ(山)」

  「フ・タラ」、HU-TARA(hu=promontry,hill;tara=peak)、「尖つた山」

  または「プタ・ラ」、PUTA-RA(puta=opening,hole,pass through;ra=wed)、「(大きな穴のような)湖が・そばにくっついている(山)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」となった)

の転訛と解します。

 

b 男体山・女峰山・太郎山・大(小)真名子山・山王帽子山・白根山

 この「なんたい」、「にょほう」、「たろう」、「まなこ」、「さんのうぼうし」、「しらね」は、マオリ語の

  「ナニ・タイ」、NANI-TAI(nani=ache of the head;tai=wave,anger,the other side)、「片頭痛がする(片側が崩れている山)」(「ナニ」の約で「ナン」となった)(茨城県の「筑波山」の項を参照してください。)

  「ニアオ・ホウ」、NIAO-HOU(niao=gunwale of a canoe,rim of any open vessel;hou=bind)、「カヌーの船腹を連結した(長くしたような山)」

  「タラウ」、TARAU(dredge,grapnel,paddle sideways)、「錨(を下ろして女峰山を繋ぎ止めているような山)」

  「マナコ」、MANAKO(like,set one's heart on)、「(女峰山を)好いている(近くに寄り添っている山)」

  「タ(ン)ガ・アウ・ポチ」、TANGA-AU-POTI(tanga=be assembled,row,tier;au=firm,intense,certainly;poti=angle,corner)、「(太郎山の)隅にしっかりと密着している(山)」

  「チラ・ヌイ」、TIRA-NUI(tira=fin of a fish;nui=large.many)、「大きな魚の鰭(のような山)」

の転訛と解します。

 

c 中禅寺(ちゅうぜんじ)湖・戦場(せんじょう)ケ原

 中禅寺湖は、男体山の南にある東西約6キロメートル、南北平均約2キロメートルの湖で、湖面標高1,269メートルにあり、標高1,000メートル以上の湖としては日本最大です。男体山が噴出した溶岩によって堰き止められてできた湖で、戦場ケ原とは成因を異にします。

 戦場ヶ原は、中禅寺湖の北部から男体山の西部に広がる湿原で、標高は1400メートル前後、面積は約9平方キロメートルです。かつてあった古戦場ヶ原湖が埋まって出現したもので、竜頭の滝(りゅうずのたき)火砕流が男体山から噴出して戦場ヶ原湖盆を形成し、その後、男体山西部の山崩れや溶岩流によって湯川が堰き止められ、古戦場ヶ原湖を出現させました。当初の水深は24メートル程度と推測され、流入する土砂が堆積して次第に泥炭地となりました。
 地名は男体山の主である大蛇と赤城山の主の大ムカデが、ここで領地をめぐる戦いをしたという伝説に由来するとされます。

 この「ちゅうぜんじ」、「せんじょうがはら」は、マオリ語の

  「チウ・テ(ン)ガ・チ」、TIU-TENGA-TI(tiu=soar,wander;tenga=extinguished;ti=throw,cast)、「非常に・高い(ところに)・放り出されている(湖)」(「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「テン」、「ゼン」となつた)

  「テ(ン)ガ・チホ・(ン)ガ・パラ」、TENGA(distended,gorged,extinguished)-TIHO(flaccid,soft)-NGA(satisfied,breathe)-PARA(cut down bush etc.,shine clearly)、「(満腹して)土砂で埋まって・(軟らかい)泥炭地化して・(呼吸するように)季節によって(水分を増減する)軟らさを変える・(灌木がない)草原(湿原)」(「テ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「テナ」から「テン」、「セン」と、「チホ」のH音が脱落して「チオ」から「シオ」、「ジョウ」と、「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」と、「パラ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となつた)

の転訛と解します。

 

d 華厳(けごん)の滝

 中禅寺湖から流出した大谷(だいや)川が、男体山から噴出した溶岩の崖にかかって、高さ約97メートル、幅約7メートルの滝となつています。

 この「けごん」は、マオリ語の

  「ケ・(ン)ゴ(ン)ゴ」、KE-NGONGO(ke=different,strange;ngongo=waste away,suck,suck out)、「珍しい・(中禅寺湖から)水を吸い出している(または次第に細くなる。滝)」(「(ン)ゴ(ン)ゴ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ゴナ」から「ゴン」となつた)

の転訛と解します。

 

e 大治川・大尻川

 大治川は、中禅寺湖を源とし、東流して華厳の滝となり、神橋を経て鬼怒川に合流しますが、華厳の滝となって流下するまでを大尻(おおじり)川と呼んでいます。

 この「だいや」、「おおじり」は、マオリ語の

  「タイ・イア」、TAI-IA(tai=tide,wave,violence;ia=current)、「奔流する川」

  「アウ・チリ」、AU-TIRI(au=firm,intense,certainly;tiri=throw or place one by one,scatter)、「密度濃く流下する(滝。その川)」

の転訛と解します。

 

f 古峰(ふるみね)高原

 鹿沼市の西北端、前日光に古峰高原があります。

 この「ふる」は、マオリ語の

  「フル」、HURU(hair,contract,gird on as the belt)、「帯を締めた(ように山が周囲を取り巻いている地形の場所)」

の転訛と解します。

 

(10) 鹿沼(かぬま)市

 

 栃木県中部、宇都宮市の西に接する市で、主要部は足尾山地の東麓、鹿沼扇状地の扇端から黒川沿岸の低地を中心に市街地が立地しています。

 中世末期から壬生氏の鹿沼城が築かれ、城下町として発展し、近世には日光例幣使街道の宿場町、市場町として栄えました。

 この「かぬま」は、園芸に賞用される鹿沼土で覆われた土地条件を表したもので、マオリ語の

  「カヌ・マ」、KANU-MA(kanu=ragged,torn;ma=white,clean)、「清らかでざらざら(の土のある地域)」

の転訛と解します。

 

(11) 壬生(みぶ)町

 

 下都賀郡壬生町は、栃木県南部、宇都宮市の南西に接し、思川の支流、黒川と小倉川の合流点の北の台地上にあります。中心集落の壬生は、黒川と小倉川が並行して流れる場所の西の台地上に位置します。中世以来の城下町で、近世には日光壬生通り(西街道)の宿場町、河岸、市場町としても栄えました。

 この「みぶ」は、(1) 古代の壬生部(みぶべ)に由来するとされ、当地の壬生氏からは円仁(慈覚大師)が出たことで知られ、

(2) 「ミ(水)・フ(辺の転)」の意とする説があります。

 この「みぶ」は、マオリ語の

  「ミ・プ」、MI-PU(mi(Hawaii)=urine,stream;pu=heap,stack,double)、「二つの川が並んで流れる(場所)」

の転訛と解します。長野県を流れる天竜川の支流の三峰(みぶ)川は、長野・静岡県境の仙丈ケ岳および塩見岳付近に源を発し、最上流部は南流したあと(並んで)北流する川で、同じ語源と考えられます。

 

(12) 小山(おやま)市

 

 栃木県南部にある市で、主要部は思川の東岸にあります。

 中世以来の小山氏の城下町で、江戸時代は日光道中の宿場町、思川水運の河港として栄えました。この町は、足利、佐野方面から結城への街道の交点で、宿の北の喜沢から壬生通りが分岐しており、「五方追分」といわれた交通の要所でした。

 この「おやま」は、思川東岸の台地が小高い山をなしていたので「こやま」といったのが転じたとされます。

 この「おやま」は、マオリ語の

  「オ・イア・マ」、O-IA-MA(o=the...of;ia=current,rushing stream,indeed;ma=white,clean)、「清らかな川が流れる土地」

の転訛と解します。

 

(13) 野木(のぎ)町

 

 下都賀郡野木町は、栃木県南端、思川東岸の台地を占め、中心集落の野木は近世に日光道中の宿駅として栄えました。

 この「のぎ」は、(1) 『和名抄』にみえる「寒川郡奴宜(ぬぎ)郷」の転、

(2) 「ノギ(禾、穀物)」からとする説があります。

 この「のぎ」は、マオリ語の

  「(ン)ゴ(ン)ギ」、NGONGI(suck,water)、「(水を)吸い込む(頻繁に洪水がある。土地)」(最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ノギ」となった)

の転訛と解します。茨城県北相馬郡守谷町野木崎(のぎさき)も同じ語源でしょう。

 

(14) 寒川(さむかわ)郡

 

 寒川郡は、都賀郡の中の現小山市の南部、思川流域に位置します。古代には思川の両岸にまたがっていましたが、平安末期には思川東岸は寒河御廚となり、中世以降は思川西岸の地が寒川郡となりました。『和名抄』は「佐无加波」と訓じています。

 また、平安末期に「寒河御廚」となった思川東岸の地は、鎌倉中期には北に隣接する小山氏の小山郷と一体化して「小山荘」と称されました。寒河御廚は、平安末期、後白河院領でしたが、永万2(1166)年御幣用の料紙を内・外両宮に供進するため、伊勢神宮へ寄進されています。

 この「さむかは」は、(1) 「サム(スサム、荒む)・カハ(川)」の意、

(2) 「サビ(荒れる)・カハ(川)」、「川の荒れるところ、氾濫原」の意、

(3) 寒川神社の伝搬地名とする説があります。

 この「さむかわ」は、マオリ語の

  「タムイ・カワ」、TAMUI-KAWA(tamui,tamuimui=throng,croud around;kawa=reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals)、「(船着き場があつて)人々が群集する・水路(そのほとりの土地)」(「タムイ」のUI音がU音に変化して「タム」から「サム」となった)

  または「タ・ムカ・ワ」、TA-MUKA-WA(ta=the;muka=prepared fibre of flax,the way by which an god communicates with the medium;wa=place)、「黒皮を除いた楮の繊維(木綿(ゆふ))を産出する場所」

の転訛と解します。

 『延喜式』によりますと、各国から調進された木綿は、「幣」に結びつけられて神事に用いられ、また祭主(または斎王)の頭髪に結びつけられて使われています。これはアイヌの習俗のイナウの削り掛けと同じく、神と人を結ぶ鳥の羽根を模したもので、神と人とを結ぶ象徴であると考えられます。

 

(15) 河内(かわち)郡

 

a 河内郡

 河内郡は、おおむね現今市市の霧降高原および旧例幣使街道沿いの南西の約半分を除く北東の約半分、宇都宮市、河内郡の区域です。北は塩谷郡、東は南流する鬼怒川を境に芳賀郡、南から西は都賀郡に接しています。

 この「かわち」は、マオリ語の

  「カプチ」、KAPU-TI(kapu=hollow of the hand;ti=throw,cast)、「手のひらの窪み(のような地形の場所)」

の転訛と解します。

 

b 上三川町汗(ふざかし)

 鬼怒川西岸の河内郡上三川(かみのかわ)町の東北部に、大字名(旧村名)の汗(ふざかし)があります。

 伝承によれば、村に霊験あらたかな薬師があり、お祈りをすると汗をかくので「汗かき薬師」と呼ばれていました。他方、鬼怒川を航行する回米船には藩の許可を得たことを証する藩札が必要とされ、それを改める船着き場を「札貸(ふだかし)」と称しました。これが「ふざかし」に転訛し、「ふざかしの汗薬師」がいつしか「汗(ふざかし)薬師」となつたといわれています。

 この「ふざかし」は、マオリ語の

  「プタ・カチ」、PUTA-KATI(puta=opening,pass through;kati=block up,closed of a passage)、「通行を・阻む(関所)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」から「フザ」となった)

の転訛と解します。

 

(16) 宇都宮(うつのみや)市

 

a 宇都宮

 栃木県の中央に県庁が所在する宇都宮市があります。中心市街地は、もと『和名抄』の「池辺郷」の地とされますが、二荒山神社が鎮座したことから「宇津宮(うつのみや)」と呼ばれ、中世には宇都宮氏の城下町となり、近世には日光・奥州道中の分岐点の宿場町、市場町として栄えました。

 この「うつのみや」は、(1) 「一宮(いちのみや)」の転、

(2) 二荒山神社に観音が現に現れるところから「現(うつ)の宮」といった、

(3) 東北征討の「討つの宮」からという説があります。

 この「うつ」は、マオリ語の

  「ウツ」、UTU(spur of a hill,front part of a house)、「家(奥宮)の前面(にある宮)」

の転訛と解します。

 

b 大谷(おおや)石

 市街地の西部の大谷は、建築用材として著名な大谷石の産地です。

 この「おおや(おほや)」は、マオリ語の

  「オ・ホウ・イア」、O-HOU-IA(o=the...of;hou=houhou=dig up,obtain by digging;ia=indeed)、「実に(地下から石を)掘り出す場所(そこから掘り出された石)」

  または「オ・ポウ・イア」、O-POU-IA(o=the...of;pou=pole,make a hole with a stake;ia=indeed)、「なんと(木の)棒で穴が掘れる(軟らかい石。その石が採れる場所)」(「ポウ」のP音がF音を経てH音に変化して「ホウ」となった)

の転訛と解します。

 

(17) 芳賀(はが)郡

 

a 芳賀郡

 芳賀郡は、おおむね現真岡市、宇都宮市のうち鬼怒川以東の区域、芳賀郡の地域です。北は塩谷郡、那須郡、東から南は常陸国、西は河内郡に接しています。『和名抄』は「波加」と訓じています。

 この「はが」は、「ハガ(剥ぎ)」で「地肌の出た荒れ地」をいい、「湿地」や「崖地」なども多いとする説があります。

 この「はが」は、マオリ語の

  「ハ(ン)ガ」、HANGA(head of a tree;hana(Hawaii)=notch as in a tree)、「木の尖頂(のような地形の地域)」

の転訛と解します。

 これは、常陸国境の鶏足山(431メートル)、仏頂山(431メートル)、高峯(520メートル)、雨巻山(533メートル)などの山々が内陸へ向かって何本もの長い尾根を伸ばしているさまを、「木の尖頂が新梢を(ぎざぎざに)伸ばしている」と形容したものでしょう。兵庫県宍粟郡波賀(はが)町も、同じ語源と解します。

 

b 芳賀町祖母井(うばがい)

 真岡市の北、芳賀郡芳賀町の中心集落、街道が交叉する旧宿場町を祖母井といいます。

 この「うばがい」は、マオリ語の

  「ウパ・(ン)ガイ」、UPA-NGAI(upa=fixed,at rest,satisfied;ngai=tibe,clan)、「(我々)一族が安住した(土地)」

の転訛と解します。

 

(18) 真岡(もおか)市

 

a 真岡市

 栃木県南東部の市で、市域は鬼怒川東岸の低地から真岡台地、五行川、小貝川沿岸低地を経て八溝山地にかかっています。中世には芳賀氏の城下町として発展し、近世から明治時代にかけては真岡木綿の集散地としてにぎわいました。

 この「もおか」は、(1) 「マ(良い、美称)・オカ(岡)」の転、

(2) 鶴が舞い群れていた「舞岡」の転とする説があります。

 この「もおか」は、マオリ語の

  「マウカ」、MAUKA(dry)、「乾燥した(土地)」

  または「モウ・カ」、MOU-KA(mou=fixed,firm;ka=take fire,be lighted)、「定住地」

の転訛と解します。

 

b 五行(ごぎょう)川

 鬼怒川の支流五行川の「ごぎょう」は、マオリ語の

  「(ン)ガウ・(ン)ギオ」、NGAU-NGIO(ngau=bite,hurt,wander;ngio=extinguished,faded)、「際だっている暴れ川」

の転訛と解します。

(19) 益子(ましこ)町

 

 栃木県南東部、真岡市の東、八溝山地西麓の町で、益子焼きで有名です。

 この「ましこ」は、(1) 古代には「猿子(ましらこ)」といったが、中世に宇都宮氏系の豪族紀氏の子孫が益子氏を名乗ったことによる、

(2) 「マソコ(麻処、麻の産地)」から、

(3) アイヌ語の「マシケ(崖)」から、

(4) 「益処(ましこ)」で土地や村が増えることを願っての佳字とする説があります。

 この「ましらこ」、「ましこ」は、マオリ語の

  「マチラ・コウ」、MATIRA-KOU(matira=tilt up,point upwards;kou=knob,stump)、「上を指さしている瘤(のような山。その山のある地域)」

  「マチコ」、MATIKO(descend,run)、「(山から)降りてきた(場所、山麓の土地)」

の転訛と解します。

 

(20) 茂木(もてぎ)町

 

 栃木県南東端、芳賀郡の町で、八溝山地の西麓を占め、北部を那珂川が、また南から北へ那珂川支流の逆(さか)川が流れ、茨城県境で合流しています。

 中世に常陸の守護職を世襲した八田氏の一族が下野茂木郷の地頭職になり、茂木氏を名乗り、故地の「本木(もとぎ)」から「茂木(もてぎ)」としたといいます。

 この「もてぎ」は、マオリ語の

  「モテ(ン)ギ」、MOTENGI(placed aloft)、「高いところに位置する(地域)」

の転訛と解します。

 

(21) 塩屋(しおのや)郡

 

 塩屋郡は、おおむね現塩谷郡(喜連川町の北東部の一部を除く)、矢板市(北東部の一部を除く)、那須郡塩原町の区域です。北は陸奥国、東は那須郡、南は芳賀郡、河内郡、都賀郡、西は上野国に接しています。『和名抄』は「之保乃夜」と訓じています。

 この「しほのや」は、(1) 「塩泉」の意、

(2) 「シホ(しぼむ)・ヤ(湿地)」で「萎んだ形の谷地(やち)」の意とする説があります。

 この「しほのや」は、マオリ語の

  「チホ・ノイ・イア」、TIHO-NOI-IA(tiho=flaccid,soft;noi=elevated,high;ia=indeed,very,each)、「実にたるんだ(川による浸食が進んだ)高台(の地域)」

の転訛と解します。

 

(22) 喜連川(きつれがわ)町

 

 栃木県東部、塩谷郡の町で、矢板市の東に接します。那珂川支流の江川、内川、荒川などによって開析された喜連川丘陵が北西から南東方向に走っています。

 鎌倉時代に塩谷氏がここに築城し、のち安土桃山時代に豊臣秀吉が足利国朝を配置、のち喜連川氏と称しました。奥羽街道の宿場として栄えました。

 この「きつれがわ」は、(1) 内川と荒川が「来て連れ添う」ことによる、

(2) 古く荒川を「狐(きつね)川」と称していたのにちなみ、これを佳字化したとする説があります。

 丘陵の先端、内川と荒川の合流点にある市街地には、被圧地下水の層があり、自噴水がみられます。

 この「きつれ」は、この自噴水のある地域を指した地名で、マオリ語の

  「キ・ツ・レイ」、KI-TU-REI(ki=full,to(of place),upon,at;tu=stand,settle;rei=swampy ground)、「湿地の上にある(地域。その地域を流れる川)」

の転訛と解します。

 

(23) 矢板(やいた)市

 

 栃木県北東部の市で、北西部は山地、東部、南部は、那珂川の支流箒(ほうき)川、内川、荒川の沖積低地です。

 中世の中心は塩谷氏が城を築いた南部にあり、現在の中心集落の矢板は近世の日光北街道の宿駅でしたが、間の宿で明治初年でも戸数60余にすぎませんでした(日立デジタル平凡社『世界大百科事典』1998年)。

 この「やいた」は、(1) 荒れ地の山林を焼いて開拓したので「焼田(やいた)」から、

(2) 田が八重に作られたので「八重田」からとする説があります。

 この「やいた」は、マオリ語の

  「イア・イタ」、IA-ITA(ia=indeed,very;ita=compact)、「実にこじんまりした(土地)」

の転訛と解します。

 

(24) 高原(たかはら)山

 

a 高原山・前黒(まえぐろ)山・明神(みょうじん)岳・鶏頂(けいちょう)山・釈迦(しゃか)ケ岳・西平(にしひら)岳・八方(はっぽう)ケ原

 高原山は、栃木県北部、那須岳と日光白根山のほぼ中間に位置する日光国立公園に含まれる火山です。北の塩原火山と、南の釈迦ケ岳火山の二つの成層火山からなります。

 前黒(まえぐろ)山(1,678メートル)、明神(みょうじん)岳(1,633メートル)などからなる塩原火山が形成されてから、鶏頂(けいちょう)山(1,766メートル)、釈迦(しゃか)ケ岳(1,795メートル)、西平(にしひら)岳(1,708メートル)が噴出しました。その北東には嶮しい山壁の上になだらかな溶岩台地の八方(はっぽう)ケ原(最高点1,402メートル)が広がります。

 高原山は、古くから山岳信仰の修験の山でした。さらに、北関東で唯一の黒曜石の産地でした。

 この「たかはら」、「まえぐろ」、「みょうじん」、「けいちょう」、「しゃか」、「にしひら」、「はっぽう」は、マオリ(ハワイ)語の

  「タカ・ハラ」、TAKA-HARA(taka=heap,lie in a heap;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「高い(祖先の墳墓の地である)聖地(の山)」

  「マエ・ク・ロ」、MAE-KU-RO(languid,withered;ku=silent;ro=roto=inside)、「奥にある静かな滑らかな(弱々しい山)」

  「ミオ・チノ」、MIO-TINO(mio(Hawaii)=to move swiftly,narrow,tapering;tino=essentiality,exact,main)、「実に(山頂が)狭くなっている(山)」

  「ケイ・チオ」、KEI-TIO(kei=stern of a canoe;tio=sharp,cold,cry)、「鋭い船尾の先(のような山)」

  「チアカ」、TIAKA(mother,leader of a flock of KAKA(bird))、「鳥の群の先頭を飛ぶ鳥(のような山)」(地名篇(その五)の奈良県の地名の大峰山の「釈迦岳」の項を参照してください。)

  「ヌイ・チヒ・ラ」、NUI-TIHI-RA(nui=large,many;tihi=summit,peak,topknot of hair;ra=wed)、「巨大な髷(まげ)を(釈迦岳に)乗せたような(山)」

  「ハ・ツポウ」、HA-TUPOU(ha=what!;tupou=bow the head,steep,headlong)、「なんと嶮しい(山の上の高原)」(この「はっぽう」は、もともとは釈迦岳を指す名称であったかも知れません。)

の転訛と解します。

 

b 箒(ほうき)川・鹿股(しかまた)川・スッカン沢

 高原山の東に開く爆裂火口は、スッカン沢から鹿股川となって箒川に注ぎます。

 この「ほうき」、「しかまた」、「スッカン」は、マオリ語の

  「ポウ・キ」、POU-KI(pou=pour out;ki=full,very)、「一気に奔流する(川)」

  「チカ・マタ」、TIKA-MATA(tika=straight,direct,just;mata=adding little force(just),heap,edge,deep swamp)、「真っ直ぐな岸(を流れ下る川)」

  「ツカハ・ヌイ」、TUKAHA-NUI(tukaha=vigorous,headstrong,passionate;nui=large many)、「すごい勢い(で流れる沢)」

の転訛と解します。

 

c 塩原(しおばら)温泉・川治(かわじ)温泉・五十里(いかり)ダム

 高原山の北麓には塩原温泉が、西麓には川治温泉があります。

 また、川治温泉の奥には五十里ダムがありますが、この場所は江戸時代前期(天和3(1683)年)に日光大地震で葛老(かつろう)山が崩壊し、男鹿川を堰止めて湖ができていましたが、江戸時代中期(享保8(1723)年)に大雨で自然決壊して消失し、宇都宮付近まで被害をもたらし、鬼怒川の風光がそのときに形成されたと伝えられています。

 この「しおばら」、「かわじ」、「いかり」は、マオリ語の

  「チホ・パラ」、TIHO-PARA(tiho=flaccid,soft;para=cut down bush,clear)、「(洪水で)綺麗に拭われたような平地」

  「カワ・チ」、KAWA-TI(kawa=heap,reef of rocks,channel,passage between rocks and shoals;ti=throw,cast)、「岩や浅瀬の間の通路(のそば)に放り出された(土地)」

  「イ・カリ」、I-KARI(i=beside,past time;kari=dig,cleave,rush along violently)、「昔洪水で切り裂かれた(場所)」

の転訛と解します。

 

(25) 那須(なす)郡

 

a 那須郡

 那須郡は、おおむね現黒磯市、大田原市、那須郡(塩原町を除く)、矢板市の北東部の一部、塩谷郡喜連川町の北東部の一部の区域です。北は陸奥国、東は常陸の国、南は芳賀郡、西は塩屋郡に接しています。

 この「なす」は、(1) 「ナス(ならす)」で「平坦地=那須野」の意、

(2) マレー語「アス(煙)」から「火山の多い土地」とする説があります。

 この「なす」は、マオリ語の

  「ナツ」、NATU(scratch,stir up,tear out)、「引っかき回した(ような地形の地域)

の転訛と解します。

 

b 那須岳

 那須岳は、栃木県北部から福島県南部にまたがる那須火山群の総称で、主峰茶臼(ちやうす)岳(1,915メートル)の別称でもあります。

 このほか、最高峰の三本槍(さんぼんやり)岳(1,917メートル)、南月(みなみがつ)山(1,776メートル)、朝日(あさひ)岳(1,896メートル)、黒尾谷(くろおや)岳(1,589メートル)を含めて那須五岳といいます。

 さらに朝日岳の西には隠居倉(いんきょぐら。1,819メートル)、東には鬼面(きめん)山(1,616メートル)、飯盛(いいもり)山(1,364メートル)が東西に並んでいます。

 この「ちゃうす」、「さんぼんやり」、「(南)がつ」、「あさひ」、「くろおや」、「いんきょぐら」、「きめん」、「いいもり」は、マオリ語の

  「チア・ウツ」、TIA-UTU(tia=peg,adorn by sticking feathers;utu=spur of a hill)、「頂上を羽根で飾った(ようなぎざぎざの縁をもつ火口がある山)」(地名篇(その五)の奈良県の地名の「桜井茶臼山古墳」の項を参照してください。)

  「タネ・ポナ・イア・リ」、TANE-PONA-IA-RI(tane=head;pona=knot,joint in the arm or leg,anything tied up into a compact parcel;ia=indeed,very,each;ri=screen,protect,bind)、「頭をまとめて縛った(ような山)」

  「(ン)ガツ」、NGATU(ngatu=crushed)、「崩れた(山=茶臼岳の南にある山)」(地名篇(その二)の山形県の地名の出羽三山の「月山」の項を参照してください。)

  「アタ・ヒ」、ATA-HI(ata=how horrible!,clearly,deliberately;hi=raise,rise)、「どっしりとした高い(山)」(地名篇(その二)の山形県の地名の「朝日連峰」の項を参照してください。)

  「ク・ロ・オホ・イア」、KU-RO-OHO-IA(ku=silent;ro=roto=inside;oho=wake up,arise;ia=indeed,very,each)、「(茶臼岳から見て南月山の向こうの)奥にある静かな起き上がった(山)」

  「イナキ・オ・クラエ」、INAKI-O-KURAE(inaki=overlap,thatch;o=of;kurae=headland)、「尾根の先端に屋根を葺いた(ような山)」

  「キ・メネ」、KI-MENE(ki=full,very;mene=be assembled,show wrinkles,contort the face)、「顔をひどくしかめている(皺の多い山)」

  「イヒ・モリ」、IHI-MORI(ihi=split,separate;mori=low,mean)、「(本体の山から)離れている低い(山)」(地名篇(その二)の福島県の地名の「飯盛山」の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

(26) 烏山(からすやま)町

 

 栃木県東部、那須郡の町で、八溝山地の西部の那珂川が蛇行する場所に位置しています。

 ここは坂上田村麻呂が東征に際し当地に陣を張ったところから、古くは「坂主(さかしゅ)村」、のちに「酒主村」と呼んでいました。応永25(1418)年那須氏の一族沢村資重が那珂川西岸の段丘上の「烏が金の幣束を落とした地」に烏山城を築城し、この城名が町名となりました。

 この古い地名の「さかしゅ」は、マオリ語の

  「タカ・チウ」、TAKA-TIU(taka=revolve,go or pass round;tiu=soar,wander,sway to and fro)、「(川が)蛇行して流れる(場所)」

の転訛と解します。

 

(27) 馬頭(ばとう)町

 

 栃木県東端、八溝山地西麓の町で、町の中央を武茂(むも)川が流れて西境の那珂川に合流しています。

 かつては「武茂(むも)」といいました。この町名は、建保5(1217)年に創建された武茂山地蔵院十輪寺のそばに馬頭観世音が建立され、馬頭院と称するようになり、後元禄5(1692)年に徳川光圀が寺を修理した際、郷名を馬頭と改めたことによるとされますが、馬頭院の由来には「ばとう」の古地名があったのではないかと思われます。

 この「ばとう」、「むも」は、マオリ語の

  「パト」、PATO(crack,break)、「(川の)割れ目がある(地域)」

  「ム・モウ」、MU-MOU(mu=silent;mou=fixed,firm)、「静かに落ち着いている(川。その川が流れる地域)」

の転訛と解します。

 

(28) 大田原(おおたわら)市

 

 栃木県北部の市で、中心集落の大田原は、那須扇状地の扇端部の湧水帯に位置し、中世末期には大田原氏の城下町となりました。

 この「おおたわら」は、(1) 豊かな田原の地を領した「大田原氏」による、

(2) 低湿地を水田にしたところを「オダ」といい、それをふくむ平地を「オダッパラ」と呼んだことによるとの説があります。

 この「おおたわら」は、マオリ語の

  「アウ・タワラ」、AU-TAWHARA(au=sea,firm,certainly;tawhara=spread out,wide apart)、「実に広く開けた(地域)」

の転訛と解します。地名篇(その一)の相模国の「小田原」の「タワラ」と同じ語源です。

 

(29) 黒羽(くろばね)町

 

 栃木県北東端、那須郡南部の町で、八溝山地の山間にあり、町の西部を那珂川が南流しています。

 天正4(1576)年に那須七騎の一人大関氏が那珂川左岸の黒羽田(た)町に黒羽城を築き、城下町として発展し、江戸時代前期に対岸の向(むこう)町に河岸が開かれ、商業が発展、芭蕉の「奥の細道」でも長く滞在しています。

 この「くろばね」は、(1) 「黒い埴(はに)土」の意、

(2) 那須余一の馬「鵜(う)黒」を「黒鵜」と誤読したところからとする説があります。

 この「くろばね」、田町の「た」、向町の「むこう」は、マオリ語の

  「ク・ロ・パネ」、KU-RO-PANE(ku=silent;ro=roto=inside;pane=head)、「静かな内側にある頭(のような丘。そこに築いた城)」

  「タ」、TA(lay)、「(丘、黒羽城が)在る(町)」

  「ム・カウ」、MU-KAU(mu=silent;kau=alone,bare)、「静かな裸の(城の無い町)」

の転訛と解します。

 

(30) 黒磯(くろいそ)市

 

a 黒磯市

 栃木県最北端の市で、複合扇状地をなす那須野原から北西の帝釈山地へと広がっています。

 この「くろいそ」は、(1) 永保年間(1081〜84年)に関西の武将黒舘五郎と磯勝光がこの地に隠棲し、両者の一字づつをとつた、

(2) 那須岳の黒い火山灰が積もって小石の浜のようであったことによる、

(3) 「黒い小石の多い土地」の意とする説があります。

 この「くろいそ」は、マオリ語の

  「ク・ロ・イ・ト」、KU-RO-I-TO(ku=silent;ro=roto=inside;i=beside,past time;to=drag)、「静かな内陸の(那珂川の水を)引き込むあたり(の地域)」

の転訛と解します。

 

b 板室(いたむろ)温泉

 那須岳の南西麓、那珂川の上流の谷間にある11世紀に発見されたと伝えられる那須七湯の一つで、中風に良く効く「下野の薬湯」といわれる温泉です。ここには、共同浴場で太い綱につかまって入浴する風習があります(日立デジタル平凡社『世界大百科事典』1998年)。

 この「いたむろ」は、マオリ語の

  「イ・タミロ」、I-TAMIRO(i=ferment;tamiro=twist a cord by rubbing the strand with the hand on the high,draw together by twisting a cord)、「綱を綯う(ように綱に人がつかまつて入浴する)温泉」

の転訛と解します。

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10 群馬県の地名

 

(1) 上野(かみつけの)国

 

 群馬県は、もと東山道に属する上野国でした。栃木県の下野(しもつけの)国の項で説明したように、はじめは下野国とあわせて毛野(けぬの)国でしたが、『国造本紀』によれば仁徳天皇の時代に渡良瀬川を境に上毛野(かみつけぬ)と下毛野(しもつけぬ)の二国に分かれ、大化改新後、上野国となりました。

 碓氷、片岡、甘楽、多胡、緑野、那波、群馬、吾妻、利根、勢多、佐位、新田、山田、邑楽の14郡が置かれていました。国府は前橋市元総社町付近に置かれたと推定されています。

 

(2) 碓氷(うすい)郡

 

a 碓氷郡

 碓氷郡は、おおむね現碓氷郡(松井田町)、群馬郡倉淵村、安中市、高崎市の西部の一部の区域です。北は吾妻郡、群馬郡、東は片岡郡、南は甘楽郡、西は信濃国に接しています。『和名抄』は「宇須比」と訓じています。

 この「うすひ」は、(1) 「ウス(薄、浅い)・ヒ(水、川)」で「浅い川」の意、

(2) 「薄日」で「日があまりささない場所」の意とする説があります。

 この「うすひ」は、マオリ語の

  「ウ・ツヒ」、U-TUHI(u=breast of a female,reach the land,reach its limit;tuhi=conjure)、「(旅の無事を)祈願する・(最も高い地点の)峠(その峠のある地域)」

の転訛と解します。静岡県の「宇都ノ谷(うつのや)峠」(ウ・ツヌ・イア、U-TUNU-IA(u=breast of a female,reach the land,reach its limit;tunu=inspire with fear;ia=indeed,very)、ほんとうに恐怖におののく峠)の「ウ」もおなじ語源でしょう。

 

b 松井田(まついだ)町

 群馬県西部、碓氷郡の町で、町域の大部分は山地で、ほぼ中央を利根川の支流碓氷川が南東流しています。古くから碓氷峠を控えた交通の要衝で、戦国時代には安中氏が九十九川の南の断崖上に松井田城を築き、近世には安中藩領の中山道の宿駅として栄えました。

 この「まついだ」は、マオリ語の

  「マツ・ヰタ」、MATU-WITA(matu=ma atu=go,come;wita=one of the fences forming the fortication of a stockade)、「人々が行き来する・柵で囲った集落(宿場)」

の転訛と解します。

 

(3) 片岡(かたおか)郡

 

 片岡郡は、高崎市の西南部の、おおむね烏(からす)川と碓氷川との合流点から鏑(かぶら)川との合流点付近までの烏川の西岸の細長い地域です。『和名抄』は「加太乎加」と訓じています。

 この「かたおか」は、マオリ語の

  「カタ・オカ」、KATA-OKA(kata=opening of shellfish;oka=prik,stab)、「貝が口を開いたような場所を串(川)で横刺しにしたような(土地)」

の転訛と解します。

 

(4) 烏(からす)川・鏑(かぶら)川

 

a 烏川

 長野県との境の鼻曲(はなまがり)山(1,655メートル)に源を発し、榛名山南麓を流れ、途中碓氷川、鏑川、神流川を合流しながら、高崎市を抜けて伊勢崎市と埼玉県の境界部で利根川に合流します。

 この「からす」は、マオリ語の

  「カラ・ツ」、KARA-TU(kara=basaltic stone;tu=stand,settle)、「玄武岩質の(石器に適した)石がある(川)」

の転訛と解します。

 

b 鏑川

 長野県との境に発する南牧川と西牧川が下仁田町の中心部で合流して鏑川となり、富岡市、吉井町を通って高崎市で烏川に注ぎます。河岸段丘が発達しています。

 この「かぶら」は、マオリ語の

  「カプ・ラ」、KAPU-RA(kapu=hollow of the hand,curly(of the hair);ra=wed)、「くねくねと曲がっている(川)」

の転訛と解します。

 

(5) 甘楽(かんら)郡

 

 甘楽郡は、おおむね現甘楽郡、富岡市、多野郡(吉井町の北部の一部以外の地域、鬼石町の北部の大部分を除く)の区域です。『和名抄』は「加牟良」と訓じています。

 この「かむら」は、「カラ(韓。朝鮮半島)」の転とする説が有力です。

 この「かむら」は、マオリ語の

  「カムラ」、KAMURA(kamura=burn dry leaves over mussels in order to open them)、「貽貝(いがい。カラスガイの類)の上で焚火をしている(ような地形の地域。二枚貝のような山脈の上に炎を上げているような妙義山がある地域)」

の転訛と解します。

 

(6) 妙義(みょうぎ)山・荒船(あらふね)山

 

a 妙義(みょうぎ)山

 甘楽郡妙義町、下仁田町と碓氷郡松井田町にまたがる山塊の総称で、赤城山、榛名山とともに上毛三山といわれています。山体は激しく浸食され、奇怪な蛾蛾たる山容を示しています。

 金洞(こんどう)山(1,104メートル)から北東に白雲(はくうん)山(1,081メートル)、南西に金鶏(きんけい)山(856メートル)と鋸歯状の尾根が連なる表妙義と、谷急(やきゅう)山(1,162メートル)から千駄木(せんだぎ)山(997メートル)に至る裏妙義があります。

 この「みょうぎ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「ミオ・キ」、MIO-KI(mio(Hawaii)=pointed,tapering;ki=full,very)、「尖った峰がたくさんある(山)」

の転訛と解します。

 また、この「こんどう」、「はくうん」、「きんけい」、「やきゅう」、「せんだぎ」は、マオリ語の

  「コノ・トウ」、KONO-TOU(kono,konokono=deep and narrow;tou=anus,posteriors)、「深くて狭い・尻の割れ目(がある。山)」(「コノ」が「コン」となつた)

  「パク・フナ」、PAKU-HUNA(paku=extend,beat,knock;huna=destroy,conceal)、「破壊されて・(上に)延びている(山)」(「パク」のP音がF音を経てH音に変化して「ハク」となり、「フナ」のH音が脱落して「ウナ」から「ウン」となった)

  「キノ・ケヒ」、KINO-KEHI(kino=bad,ugly;kehi=defame,speak ill of)、「醜いと・評判の(山)」(「キノ」が「キン」となり、「ケヒ」のH音が脱落して「ケイ」となつた)

  「イア・キ・イフ」、IA-KI-IHU(ia=indeed,very,each;ki=full,very;ihu=nose,bow of a canoe))、「ほんとうに・カヌーの船首・にそっくりの(尖った山)」

  「テノ・タキ」、TENO-TAKI(teno=notched;taki=track,bring along)、「鋸の歯のような(峯が)・連なっている(山)」(「テノ」が「テン」から「セン」となつた)

の転訛と解します。

 

b 荒船(あらふね)山

 甘楽郡下仁田町、南牧村と長野県佐久市の境にある山で、溶岩が広く浸食に抵抗して台状地を形成したものです。遠望すると「荒海を行く船」のように見えるのでこうよばれています。

 この台状の山は、東西幅300メートル、南北長1,500メートル、比高200メートルの崖に囲まれています。最高点は、南端の京塚(きょうつか)山(1,423メートル)で、付近には兜岩(かぶといわ)山(1,368メートル)、熊倉(くまくら)峰(1,234メートル)、立岩(たていわ。1,266メートル)、毛無(けなし)岩(1,281メートル)などが突起しています。

 この「あらふね」は、マオリ語の

  「ア・ラフ・ヌイ」、A-RAHU-NUI(a=belonging to;rahu=basket made of strips of undressed flax;nui=large,many)、「麻茎で編んだ巨大な篭(のような山)」

の転訛と解します。

 また、この「きょうつか」、「かぶと」、「くまくら」、「たて」、「けなし」は、マオリ(ハワイ)語の

  「キオ・ツカハ」、KIO-TUKAHA(kio(Hawaii)=projection,protuberance;tukaha=vigorous,passionate)、「勢いよく突出している(山)」

  「カプ・タウ」、KAPU-TAU(kapu=hollow of the hand,close the hand;tau=ridge of a hill)、「両手を合わせたような岩」(地名篇(その四)の兵庫県の地名の六甲山地の「甲(かぶと)山」の項を参照してください。)

  「ク・マ・クラエ」、KU-MA-KURAE(ku=silent;ma=white,clean;kurae=headland)、「静かで清らかな尾根の先端」

  「タタイ」、TATAI(arrange,adorn)、「きちんと据えられている(岩)」

  「ケ・ナチ」、KE-NATI(ke=different,strange;nati=pinch,contract)、「痩せて変わった(岩)」

の転訛と解します。

 

(7) 多胡(たご)郡

 

a 多胡郡

 多胡郡は、おおむね現多野郡吉井町(北部の一部を除く)、藤岡市の西部の山間地の大部分の区域です。

 『続日本紀』和銅4年3月6日条に「上野国甘楽郡織裳(おりも)、韓級(からしな)、矢田、大家、緑野郡武美、片岡郡山等の6郷をさきて別に多胡郡を置く」とあります。

 また、上野三碑の一つに、鏑川南岸の多野郡吉井町大字池字御門で発見された「多胡碑」があり、『続日本紀』に記す多胡郡建郡に対応する記載があります。

 『和名抄』は「多胡 々音如呉」と記しており、「たご」と読むべきものと考えます。

 一般にはこれを「たこ」と読み、「タカ(高)」の転とする説があります。

 この「たご」は、マオリ語の

  「タ(ン)ゴ」、TANGO(take,take in hand,remove)、「(移住民が)取得した(地域)」または「(建郡にともなって所属を)移動した(地域)」

の転訛と解します。

 

b 吉井(よしい)町

 高崎市の南西に接する町で、町域の大部分は関東山地の北東端にあたる丘陵性山地で、中央を鏑川が東流します。

 この「よしい」は、「良い水の出るところ」という説があります。

 この「よしい」は、マオリ語の

  「イオ・チヒ」、IO-TIHI(io=muscle,spur,ridge;tihi=summit,raised fortification,lie in a heap)、「高い台地」

の転訛と解します。

 

(8) 緑野(みどの)郡

 

a 緑野郡

 緑野郡は、おおむね現藤岡市の東半分、多野郡鬼石町の北部の三波川の流域の部分、多野郡新町の区域です。『和名抄』は「美止乃」と訓じています。

 この「みとの」は、マオリ語の

  「ミ・トノ」、MI-TONO(mi(Hawaii)=urine,stream;tono=bid,command,drive away by means of a charm)、「川の流れ(洪水)を・呪文を唱えて遠ざけている(あまり洪水が無い。地域)」

の転訛と解します。

b 御荷鉾(みかぼこ)山

 この「みかぼこ」は、マオリ語の

  「ミカオ・ポコ」、MIKAO-POKO(mikao=finger;poko=go out,extinguished,put out)、「指が・なくなつた(小さな尾根を持たない胴体だけの。山)」

の転訛(「ミカオ」の語尾のO音が脱落した)と解します。

 

c 神流(かんな)川・三波石(さんばせき)峡

 埼玉・長野県境の三国山付近に源を発し、多野郡上野村、中里村、万場町を通り、鬼石町から藤岡市を経て、玉村町と埼玉県本庄市の境で、烏川と合流します。鬼石町にある下久保ダムの下流2キロメートルは、天然記念物の三波石峡となっています。

 この「かんな」は、マオリ語の

  「カム(ン)ガ」、KAMUNGA(handful)、「(細くて)一つかみ(にできそうな川)」

の転訛(「ム」が「ン」に、NG音がN音に変化して「カンナ」となつた)と解します。

 また、この「さんば」は、マオリ語の

  「タ(ン)ガ・パ」、TANGA-PA(anga=be assembled,row,tier;pa=block up,prevent)、「(行く手を)妨害する(石が)積み重なっている(川。峡谷)」(「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」から「タン」、「サン」となった)

の転訛と解します。

 

d 鬼石(おにし)町

 南は埼玉県に接し、神流川とその支流三波川の流域を占めます。

 町名は、御荷鉾山から鬼が投げた石が落ちた場所という伝説によります。

 この「おにし」は、マオリ語の

  「オニ・チ」、ONI-TI(oni=move,wriggle;ti=throw,cast,overcome)、「(川が)のたくっている(蛇行している場所)」

の転訛と解します。

 

(9) 那波(なは)郡

 

 那波郡は、おおむね現佐波郡玉村町、伊勢崎市の約西半分(旧利根川の河道(おおむね広瀬川と桃木川の中間)の西側)、前橋市の南部の一部の区域です。

 この「なは」は、ハワイ語の

  「ナハ」、NAHA(cracked as a dish,smashed to bits,to split)、「ひびが入っている(たくさんの川が流れている地域)」

の転訛と解します。

 

(10) 伊勢崎(いせさき)市

 

 群馬県南部、赤城山麓の南方、利根川中流部北岸の低地にあります。

 中世には「赤石(あかいし)郷」と称しましたが、永禄9(1566)年に由良氏がこの地の年貢を伊勢神宮に献じたことから、「伊勢前(いせさき)」と呼ばれ、伊勢崎となったなどとする説があります。

 この「あかいし」は、マオリ語の

  「アカ・イチ」、AKA-ITI(aka=clean off,scrape away;iti=small)、「(洪水によって)削り取られることが・少ない(土地)」

の転訛と解します。

 

(11) 群馬(くるま。ぐんま)郡

a 群馬郡 

 群馬郡は、おおむね現高崎市(烏川の右岸の区域を除く)、前橋市(旧利根川の河道(おおむね広瀬川と桃木川の中間)から東部の区域を除く)、渋川市(東部の一部を除く)、群馬郡(倉淵村を除く)、北群馬郡、吾妻郡高山村(西部の一部を除く)の区域です。『和名抄』は「久留末」と訓じています。

 この地域は、かつて上毛野君の同族の車持君が支配する豊かな地域でしたが、6世紀ごろに榛名山の二度の噴火による火砕流・降灰・土石流(洪水)によって一挙に埋没したものと考えられます。

 この「くるま」は、(1) 藤原宮出土木簡に「上毛国車評(くるまのこほり)」、『上野国神名帳』に「車持(くるまもち)明神」、「車持若御子明神」の名があり、上毛野君の一族である車持君の名を伝えていることから、上毛野君の一族が車持部を統率してこの地にいたため、「車」と書かれ、これが「群馬」に転じた、

(2) 「クロ(黒)・マ(馬)」の転、

(3) 「クルメキ(川や山腹のぐるぐる廻ったところ)」の転などとする説があります。

 この「くるま」、「くるまもち」、「ぐんま」は、マオリ語の

  「クル・マ」、KURU-MA(kuru=weary,strike whith the fist,pound;ma=white,clean,a particle used after names of persons and terms of address to indicate the inclusion of others whom it is not necessary to specify)、「(すべての人や物が)無差別に・(榛名山の噴火による火砕流・土石流(洪水)による)被害を受けた(地域)」

  「クル・マ・モチ」、KURU-MA-MOTI(kuru=weary,strike whith the fist,pound;ma=white,clean;moti=consumed,scarce,surfeited)、「(すべての人や物が)無差別に・(榛名山の噴火による火砕流・土石流(洪水)による)被害を受けて・壊滅した(または衰亡した部族。その首長)」

  「(ン)グヌ・マ」、NGUNU-MA(ngunu=singe,roast food,on glowing embers;ma=white,clean)、「(すべての人や物が)無差別に・(榛名山の噴火による火砕流・降灰によって)焼け焦げになった(地域)」(「(ン)グヌ」のNG音がG音に変化して「グヌ」から「グン」となった)

の転訛と解します。

 この「クル」は、地名篇(その三)の滋賀県の地名の「栗太(くりた。くるもと)郡」と同じ語源です。なお、広島県高田郡高宮町来女木(くるめぎ)は、「クル・メケ」、KURU-MEKE(kuru=weary,strike whith the fist,pound;meke=strike whith the fist)、洪水で被害を大きく受けた(地域)」の転訛と解します。

b 保渡田(ほどた)古墳群  

 この地域では、最近上越新幹線の工事を契機としておおよそ5世紀後半にさかのぼる古代の豪族の館跡(三ツ寺T遺跡)、全長100メートル級の大規模な前方後円墳群(国指定遺跡の保渡田古墳群=二子山古墳・八幡塚古墳・薬師塚古墳が密集しています)や集落跡などの発掘復元が進み、古代の様相が明らかになつて来ています(群馬郡群馬町「かみつけの里博物館」など)。

 このうち八幡塚(はちまんづか)古墳は、最近美麗に復元された、古墳群の中で二番目に築造された墳丘長96メートルの前方後円墳で、二重の浅い周濠に囲まれ、多数の人物・動物埴輪群が出土していることで有名です。この発掘中、大量の湧水に悩まされたと伝えられます。

 また薬師塚(やくしづか)古墳は、古墳群の中で最後に築造された墳丘長105メートルの前方後円墳で、江戸時代に発掘された舟形石棺の「朱水の中」から鏡・馬具・玉が出土しています。墳丘の前方部と後円部の間が深くくびれ、前方部の南面は削られて寺院の敷地となっています。

 この「ほどた」、「はちまん」、「やくし」は、

  「ホト・タ」、HOTO-TA(hoto=join,wooden spade;ta=dash,beat,lay)、「(古墳が)集合して・置かれている(場所)」

  「パチ・マ(ン)ガ」、PATI-MANGA(pati=shallow water,shoal;manga=branch of a tree or river,ditch)、「(湧水が流れる)浅い水の・溝(に取り囲まれている。古墳)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」と、「マ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「マナ」から「マン」となった)

  「イア・クチ」、IA-KUTI(ia=indeed;kuti=contract,pinch)、「実に・(前方部と後円部の間が)深くくびれている(古墳)」

の転訛と解します。

 

(12) 榛名(はるな)山

 

a 榛名山

 群馬県中央部にある複式成層火山で、赤城山、妙義山とともに上毛三山と呼ばれています。なだらかな裾野の上に開析の進んだ急峻な山体を乗せています。

 この「はるな」は、「ハル(墾)・ナ(土地)」で「開墾した土地」の意とする説があります。

 この「はるな」は、マオリ語の

  「パ・ル(ン)ガ」、PA-RUNGA(pa=stockade;runga=the top,the upper part)、「上部に・(柵で囲まれた集落のような)外輪山の中に火口丘がある(山)」(「パ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハ」と、「ル(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ルナ」となった)

の転訛と解します。

 

b 伊香保嶺(いかほね)

 榛名山は、『万葉集』に「伊香保嶺(いかほね)」(巻14、3,421)、「伊香保ろ」(巻14、3,409、3,410、3,435)と詠まれています。

 この「いかほ」は、「イカ(厳)・ホ(秀)」で「嶮しい山」の意とする説があります。

 この「いかほね」、「いかほろ」は、マオリ語の

  「イ・カホ・ネイ」、I-KAHO-NEI(i=past tense,beside;kaho=batten,rail of a fence(whakakaho=raise in waves);nei=to denote proximity to,to indicate continuance of action)、「高い波のような山が・密集して・いる(山)」

  「イ・カホ・ロ」、I-KAHO-RO(i=past tense,beside;kaho=batten,rail of a fence(whakakaho=raise in waves);nei=to denote proximity to,to indicate continuance of action;ro=inside)、「高い波のような山が・奥に・ある(山)」

の転訛と解します。

 

c 掃部ケ岳(かもんがたけ)・鬢櫛(びんぐし)山・烏帽子(えぼし)ケ岳・天目(てんもく)山

 榛名山の山頂部には、東西に長いカルデラがあり、その中に火口原湖の榛名湖、円錐形の中央火口丘の榛名富士(1,391メートル)があります。

 カルデラ壁をつくる外輪山は、掃部ケ岳(1,444メートル)、鬢櫛山(1,350メートル)山、烏帽子ケ岳(1,363メートル)、天目山(1,303メートル)などです。

 この「かもん」、「びんぐし」、「えぼし」、「てんもく」は、マオリ語の

  「カモ(ン)ガ」、KAMONGA(eyelash)、「眉毛(のような山)」

  「ピナク・チ」、PINAKU-TI(pinaku=pitau=figurehead of a canoe;ti=throw,cast)、「(カヌーの舳先に付ける)神像が・放り出されている(ような山)」または「ピネ・クチ」、PINE-KUTI(pine=close togather;kuti=contact,pinch)、「圧縮された(山が)・密着したような(山)」

  「エ・ポチ」、E-POTI(e=by;poti=angle,corner)、「角(かど)にある(山)」

  「テ(ン)ガ・モク」、TENGA-MOKU(tenga=Adam's apple;moku=few,little)、「小さな喉ぼとけ(のような山)」

の転訛と解します。

 

d 箕郷(みさと)町

 

 榛名山の南東斜面に位置し、ほぼ中央を白川が南東流し、南は高崎市に接します。中心集落の西明屋(にしあきや)には室町時代末期に上杉氏の家臣長野氏によって箕輪(みのわ)城が築かれ、城下町がつくられましたが、慶長3(1598)年に廃城となりました。町名は、昭和30年に箕輪町と車郷(くるまさと)村が合併した際の合成地名です。

 この「みのわ」、「あきや」は、マオリ語の

  「ミ(ン)ゴ・ワ」、MINGO-WA(mingo=curled,wrinkled;wa=place,area)、「皺が寄った土地」

  「アキ・イア」、AKI-IA(aki=dash,beat;ia=indeed)、「実に(洪水が)襲った(浸食を受けた土地)」

の転訛と解します。

 

(13) 子持(こもち)山

 

 榛名山の北、吾妻川を隔てて子持山(1,296メートル)がそびえています。

 この「こもち」は、マオリ語の

  「コモウ・チ」、KOMOU-TI(komou=cover a fire with ashes or earth to keep it smouldering;ti=throw,cast,overcome)、「埋め火(が中にある)が放り出されているような(山。現在は活動していないが、いつ活動を始めるかわからない火山)」

の転訛と解します。

 

(14) 渋川(しぶかわ)市

 

 榛名山東麓に位置する市で、中心市街地は利根川と吾妻川の合流点に近く、三国街道の宿場町、市場町として発展しました。

 この「しぶかわ」は、マオリ語の

  「チプ・カワ」、TIPU-KAWA(tipu=swelling,lump;kawa=heap,reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals)、「岩や浅瀬の間の通路(のそば)の高台」

の転訛と解します。

 

(15) 高崎(たかさき)市

 

a 高崎

 群馬県南部、利根川と烏川の間の台地に位置する高崎は、古くから中山道の宿駅で、交通の要衝であり、中世以降は城下町、市場町として栄えました。古くは「赤坂の庄」といわれ、鎌倉時代以後は和田(わだ)氏の居城の地として「和田宿」と呼ばれました。

 この「たかさき」は、(1) 天正18(1590)年小田原落城にともない和田氏が滅亡したのち、慶長3(1598)年に井伊直政が城を榛名山麓の箕輪から移して、烏川東岸の河岸段丘の上に築城した際、「高崎」と命名したと伝えられていますが、

(2) 烏川に突き出た小高い場所の「高い先」から「高崎」となったとする説があります。

 なお、旧名の「あかさか」、「わだ」は、マオリ語の

  「アカ・タカ」、AKA-TAKA(aka=clean off,scrape away;taka=heap,lie in a heap)、「(洪水によつて側面を)削り取られた高台」

  「ワタ」、WHATA(elevated)、「高台」

の転訛と解します。

 

b 倉賀野(くらがの)

 高崎市南部の倉賀野地区は、烏川に臨み、利根川水系の舟運と日光例幣使街道が中山道から分かれる要衝としてにぎわいました。

 この「くらがの」は、マオリ語の

  「ク・ラカ・ナウ」、KU-RAKA-NAU(ku=silent;raka=agile,spread abroad;nau=come,go)、「静かな、速やかに(四方へ)行ける(場所。交通の要衝)」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

c 岩鼻(いわはな)

 倉賀野の東、烏川左岸に岩鼻地区があります。南部は河岸段丘上の台地、東部は井野川の低地帯に接する高低差の著しい地区です。戦国時代から地名がみえ、江戸時代には岩鼻代官所が、明治初期には岩鼻県庁が置かれました。

 この「いわはな」は、マオリ語の

  「イ・ワハ(ン)ガ」、I-WAHANGA(i=beside;wahanga=waha=carry on the back,raise)、「荷物を背負ったような(高くなっている)場所・の付近」(「ワハ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ワハナ」となった)

の転訛と解します。

 

(16) 吾妻(あがつま)郡

 

a 吾妻郡

 吾妻郡は、おおむね現吾妻郡(高山村の東部を除く)、利根郡新治村(東部の一部の区域を除く)の区域です。おおむね吾妻川の流域です。『和名抄』は「阿加豆末」と訓じています。

 この「あがつま」は、(1) 『日本書紀』景行紀40年是歳条に日本武尊が「碓日嶺(うすいのみね)に登りて、東南の方を望りて三たび嘆きて曰はく、「吾嬬(あづま)はや」とのたまふ」とあるところからの命名といいます。しかし、『古事記』では足柄の坂本でのこととされています。いずれも「吾妻郡」の土地とは関係がありません。

(2) 「アガタ(県)・ツマ(端)」から、

(3) 「アガ(高所)・ツマ(末端)」の意とする説があります。

 この「あかつま」または「あがつま」は、マオリ語の

  「アカ・ツマ」、AKA-TUMA(aka=clean off,scrape away;tuma=abscess,any hard swelling in the flesh)、「表面を削り取ったかさぶた(のような外観を呈する丘陵が覆う地域)」

  「ア(ン)ガ・ツマ」、ANGA-TUMA(anga=face or move in a certain direction,aspect,hard outer covering;tuma=abscess,any hard swelling in the flesh)、「かさぶたのような外観を呈する(丘陵が覆う地域)」または「かさぶたのような丘陵(から流れ出す川)がひたすら東方に向かっている(地域)」

の転訛と解します。

 この「ツマ」は、とくに吾妻郡の中央を南北に走る王城山、菅峰などの第三紀末から第四紀前半に活動した古期火山列の東側の山や丘陵が浸食が進んでいるため、「表面を削り取ったかさぶたのような外観を呈する丘陵が覆う」と形容したものでしょう。島根県隠岐郡都万(つま)村、宮崎県西都市妻(つま)、茨城県下妻(しもつま)市、福岡県福岡市志賀島(しかのしま)勝馬(かつま)なども同じ語源でしょう。

 

b 四万(しま)温泉

 群馬県北西部、吾妻郡中之条町の北部の四万川上流部の臨む温泉で、温泉口、山口、新湯(あらゆ)、日向見(ひなたみ)の四温泉の総称です。

 この「しま」、「ひなたみ」は、マオリ語の

  「チマ」、TIMA(a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような出入の多い地形(の場所)」(オリエンテーション篇の「阿蘇山」の項の「浅茅湾」を参照してください。)

  「ヒ(ン)ガ・タミ」、HNGAI-TAMI(hinga=fall from an errect position,be killed,lean;tami=press down,suppress,smother)、「高いところから下つてきて・淀む(川。そこの温泉)」(「ヒ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ヒナ」となった)

の転訛と解します。

 

c 岩櫃(いわびつ)山

 群馬県北西部、吾妻郡吾妻町郷原の吾妻川左岸に岩櫃山(802メートル)があります。嶮しい断崖絶壁のこの山は、天然の要害で、鎌倉時代にこの地の吾妻氏が城を築き、のちに真田氏の手に落ち、真田幸村もこの関東三名城の一つといわれる岩櫃城に住んだといいます。

 この山には諸所に岩陰や半洞窟があり、そのなかの一つから弥生時代の土器および人骨が多数発見されました(鷹の巣岩陰遺跡)。

 この「いわびつ」は、マオリ語の

  「イ・ハピ・ツ」、I-HAPI-TU(i=beside;hapi=native oven or cooking pit;tu=stand,settle)、「天然の台所(または蒸し焼き穴。半洞窟を指す)が在るあたり(の山)」

の転訛と解します。

 

(17) 草津(くさつ)

 

a 草津温泉

 群馬県北西部、白根火山東斜面の標高1,200メートルの高原中の小凹地にある温泉で、泉源は街の中央の湯畑(ゆばたけ)ほか100余ケ所におよび、湧出量は鹿児島県の指宿温泉に次ぐといわれます。硫黄の匂いがきつい強酸性の温泉で、吾妻川では現在石灰乳を投入して中和されています。

 この「くさつ」は、「臭水(くさみず)」の意で、「草生津(くさうづ)」、「九相津(くそうづ)」、「久佐津(くさつ)」などと書かれました。

 この「くさうず」、「ゆばたけ」は、マオリ語の

  「クタ・ウツ」、KUTA-UTU(kuta=encumbrance,clog;utu=dip up water)、「始末に困る邪魔物(異臭のする強酸性水)を汲み出す(温泉)」

  「イ・ウパ・タケ」、I-UPA-TAKE(i=ferment,beside;upa=fixed,settled,at rest,satisfied;take=stump,base of a hill etc.,means,origin)、「(温泉が)湧き出して・(湯の華が)沈着する・最初の場所」(「イ・ウパ」が「ユパ」から「ユバ」となった)

の転訛と解します。

 

b 白根(しらね)山

 群馬県北西部、吾妻郡草津町の長野県境近くにある活火山で、草津白根とも呼ばれ、本(もと)白根山(2,176メートル)と白根山(2,160メートル)が鞍部を隔てて南北に対峙する双子火山です。

 白根山の北には横手(よこて)山(2,305メートル)が、西には万座(まんざ)山(1,994メートル)が連なり、白根山と万座山の間の谷には万座温泉があります。

 この「しらね」、「まんざ」、「よこて」は、マオリ語の

  「チラ・ヌイ」、TIRA-NUI(tira=fin of a fish;nui=large.many)、「大きな魚の鰭(のような山)」

  「イオ・コタイ」、IO-KOTAI(io=muscle,spur,ridge;kotai=one,alone)、「一つだけの(離れた)峰」

  「マ(ン)ガ・タ」、MANGA-TA(manga=branch of a tree or river,ditch;ta=dash,lay)、「枝(の場所)にある(山)」

の転訛と解します。

 

c 四阿(あずまや)山

 白根山の南西、群馬・長野県境に四阿山(2,333メートル)があります。吾妻山とも書かれます。北東斜面は急なカルデラの壁となっていますが、南西斜面は緩やかな高原で菅平高原と呼ばれています。

 この「あずまや」は、(1) 山の形が四阿(あずまや)に似ているから、

(2) 「ア(接頭語)・ツマ(端)」で「辺境の山」の意とする説があります。

 この「あずまや」は、マオリ語の

  「ア・ツマ・イア」、A-TUMA-IA(a=belonging to;tuma=abscess,any hard swelling in the flesh;ia=indeed,very)、「実にかさぶたのような(山)」

の転訛と解します。

 

(18) 利根(とね)郡

 

a 利根郡

 利根郡は、おおむね現沼田市、利根郡(新治村の西部、昭和村、利根村の南部(赤城山麓の区域)を除く)、吾妻郡高山村(西部の一部の区域を除く)の区域です。『和名抄』は「止祢」と訓じています。

 この「とね」は、(1) 郡内に谷川岳、大利根岳、朝日岳、武尊(ほたか)山など2,000メートル級の山々がそびえていることから、「ト(鋭(と)き)・ネ(峰)」の意で、これが利根郡を源流とする利根川の名ともなった、

(2) 「ソネ(岩地、峠)」の転、

(3) 「タニ(谷)」の転、

(4) 「タナ(棚、河岸段丘)」の転、

(5) アイヌ語で「ト(湖(のような))・ネ(川)」などとする説があります。

 この郡名の「とね」は、マオリ語の

  「トネ」、TONE(projection,knob)、「瘤(のような突出した山々がある地域)」

の転訛と解します。

  しかし、川名の「とね」は、群馬・埼玉県境の利根川の景観に即した名で、マオリ語の

  「テ・オネ」、TE-ONE(te=the;one=beach,sand)、「(広い)砂岸(や砂の中州をもつた川)」

の転訛と解すべきではないかと考えます。

 なお、「ソネ(曽根)」地名が全国に広く存在し、「オネ(尾根)」、「ウネ(畝)」などと同系の言葉で、「山の尾根」や「峰」、「長く延びた高まり」をいい、西日本では「海中の岩礁」も意味するとされていますが、この「ソネ」は上述の「トネ」と同じ語源で、T音とS音が交替したものと解します。

 また、「オネ」は、「トネ、TONE(projection,knob)」のT音が脱落したもの、「ウネ」はマオリ語の「ウ・ネヘ、U-NEHE(u=breast of a female;nehe=rafters of a house)、家の垂木のように並行に並んだ高まり」の転訛と解します。

 全国の「ソネ」、「トネ」地名には、上述のマオリ語の「トネ」、「テ・オネ」が混在しており、兵庫県高砂市曽根町(海岸)、福岡県北九州市小倉南区曽根(川岸)、長崎県南松浦郡新魚目村曽根(海岸)、長崎県西彼杵郡琴海町戸根(とね)(海岸)などは「テ・オネ(海岸、砂浜)」で、福岡県宗像郡大島村の曽根鼻(岬)、同郡津屋崎町の曽根ノ鼻(岬)などは「トネ(瘤、突出部)」てあると考えられます。

 

b 沼田(ぬまた)盆地

 群馬県北部、利根川と片品(かたしな)川の合流点付近に形成された盆地で、沼田市を中心に、昭和村、白沢村、川場村にまたがります。盆地には、河岸段丘が発達し、北には独立峰の武尊(ほたか)山(2,158メートル)がそびえ、その南西には奇岩怪石と天狗信仰で有名な迦葉(かしょう)山(1,332メートル)があり、その北の玉原(たんばら)湖から発する発知(ほっち)川が迦葉山を半周して南流し、利根川に注いでいます。

 この「ぬまた」、「かたしな」、「ほたか」、「かしょう」、「たんばら」、「ほっち」は、マオリ語の

  「ヌイ・マタ」、NUI-MATA(nui=large,many;mata=deep swamp)、「巨大な(元は湖であった)湿地」

  「カタ・チナ」、KATA-TINA(kata=opening of shell-fish;tina=fixed,firm,satisfied)、「貝が口を開いたような地形が落ち着いている(場所を流れる川)」

  「ホウ・タカ」、HOU-TAKA(hou=feather,dedicate;taka=heap,lie in a heap)、「神に捧げられた(または羽根で飾つたように美しい)・高い(山)」または「ハウ・タカ」、HAU-TAKA(hau=famous,illustrious,be heared;taka=heap,lie in heap)、「際だって目立つ・高い(山)」(「ハウ」のAU音がO音に変化して「ホ」となった)

  「カチ・アウ」、KATI-AU(kati=bite,block up,shut of a passage,barrier;au=firm,intense,certainly)、「本当に通行を邪魔している(山。発知川を遡って水上町藤原へ抜ける峠を「玉原越え」といいました)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となり、「カチオ」から「カショウ」となつた)

  「タ(ン)ガ・パラ」、TANGA-PARA(tanga=circumstance of or place of dashing or laying;para=cut down bush,clear)、「潅木を刈ったようなきれいな環境の場所」 (「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」から「タン」となつた)

  「ポチ」、POTI(angle,corner)、「(玉原から南流して迦葉山にぶつかり)直角に曲がって流れる(川)」(P音がF音を経てH音に変化して「ホチ」から「ホッチ」となつた)

の転訛と解します。

 

(19) 尾瀬(おぜ)ケ原

 

 阿賀野川の支流、只見川の源流部の小盆地に形成された日本屈指の高層湿原(泥炭地)です。原の3分の2が群馬県、3分の1が福島県、ごく一部が新潟県に属します。(地名篇(その二)の福島県の地名の「阿賀川」「桧枝岐」の項を参照してください。)

 湿原は、至仏(しぶつ)山(2,228メートル)、背炙(せあぶり)山(1,511メートル)、景鶴(けいつる)山(2,004メートル)、カッパ山(1,892メートル)、与作(よさく)岳(1,933メートル)、燧(ひうち)岳(2,346メートル)など2,000メートル級の山々に取り囲まれて細長い三角形をなしており、その中をヨッピ川、猫又(ねこまた)川などが流れています。

 この「おぜ」、「しぶつ」、「せあぶり」、「けいつる」、「カッパ」、「よさく」、「ひうち」、「ヨッピ」、「ねこまた」は、マオリ語の

  「オ・テ」、O-TE(o=the...of;te=crack)、「割れ目(にできた湿原)」

  「チプ・ツ」、TIPU-TU(tipu=swelling,lump;tu=stand,settle)、「膨らみがある(山)」

  「テ・アプ・リ」、TE-APU-RI(te=the;apu=burrow,heap upon,spread over;ri=protect,screen,bind)、「(景鶴山などの前に)衝立のように立ちはだかっている(山)」

  「ケイ・ツルア」、KEI-TURUA(kei=at,on,in,with,like;turua=beautiful)、「美しい(山)」

  「カパ」、KAPA(row,stand in a row or rank)、「(景鶴山などと)一列に並んでいる(山)」

  「イオ・タク」、IO-TAKU(io=muscle,spur,ridge;taku=edge,border,gunwale)、「(カッパ山、景鶴山と並んでいる山脈の)端にある峰」

  「ヒ・ウチ」、HI-UTI(hi=raise,rise;uti=bite(utiuti=annoy,worry,fuss,ado))、「(噴火によって只見川を堰き止めて尾瀬ヶ原を作ったという)大騒ぎをした・高い(山)」

  「イオ・ピ」、IO-PI(io=muscle,strand of rope;pi=urine)、「筋肉(繊維)から出る尿(のような小川)」または「(見え隠れする)縄の撚りから出る尿(のような小川)」

  「ネコネコ・マタ」、NEKONEKO-MATA(nekoneko=fancy border of a cloak;mata=deep swamp)、「(背炙山の)山裾の湿地(を流れる小川)」(「ネコネコ」の反復語尾が脱落した)

の転訛と解します。

 

(20) 谷川(たにがわ)岳

 

a 谷川岳

 群馬・新潟の県境をなす三国山脈中部にある山で、山頂はトマの耳(1,963メートル)とオキの耳(1,960メートル)の二峰に分かれ、古くは「耳二つ」と呼ばれていました。清水峠からほぼ南にのびてきた上越国境の稜線が直角に向きを変えて西に転ずる場所に位置します。

 谷川岳周辺は、新潟県側の西および北斜面は比較的ゆるやかなのに反し、群馬県側の東および南斜面は、一ノ倉沢、幽(ゆう)ノ沢、マチガ沢など嶮しく急な岸壁が続いています。また、ロープウェイが通ずる天神平(てんじんだいら)にはカール状の地形があり、U字谷の一ノ倉沢とともに、かつて氷河があったと考えられています。

 この「たにがわ」、「トマ(の耳)」、「オキ(の耳)」、「いちのくら」、「ゆう」、「マチガ」、「まないた」、「てんじん」は、マオリ語の

  「タ(ン)ギ・(ン)ガワ」、TANGI-NGAWHA(tangi=sound,cry,weep,mourn;ngawha=burst open,split of timber)、「(多くの死者を出して)悲嘆に暮れる・切り裂いた絶壁(をもつ。山)」(「タ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「タニ」と、「(ン)ガワ」)のNG音がG音に変化して「ガワ」となった

  「トマ」、TOMA(resting place for bones)、「(険しい山を登ってきて疲れた)体を休める場所(の。耳のような尖峰)」

  「オキ」、OKI((Hawaii)separate,cut)、「(トマの耳から)離れている(耳のような尖峰)」

  「イ・チノ・クラエ」、I-TINO-KURAE(i=beside;tino=main;kurae=headland)、「主要な尾根のそば(の谷)」

  「イフ」、IHU(nose,bow of a canoe)、「カヌーの舳先(のように切り立っている谷)」

  「マチカ」、MATIKA(uplight,assume an errect position)、「垂直の(谷)」

  「テ(ン)ガ・チノ」、TENGA-TINO(tenga=Adam's apple;tino=main)、「際だって突出している喉ぼとけ(のような高まり。峠)」

の転訛と解します。

 

b 谷川連峰

 谷川岳の北側にある武能(ぶのう)岳(1,760メートル)、茂倉(しげくら)岳(1,978メートル)、西側にある万太郎(まんたろう)山(1,954メートル)、仙ノ倉(せんのくら)山(2,026メートル)、平標(たいらっぴょう)山(1,984メートル)など、清水峠と三国峠の間にある山々を含めて谷川連峰と総称します。

 この「ぶのう」、「しげくら」、「まんたろう」、「せんのくら」、「たいらっぴょう」は、マオリ語の

  「プナウナウ」、PUNAUNAU(satiated,self-sown potato)、「満足している(山)」(反復語尾の「ナウ」が脱落し、AU音がO音に変化して「プノ」から「ブノウ」となつた)

  「チ(ン)ゲイ・クラエ」、TINGEI-KURAE(tingei=unsettled,ready to move;kurae=headland)、「浮石がある(落石が多い)・尾根(がある。山)」(「チ(ン)ゲイ」のNG音がG音に変化して「チゲイ」から「シゲ」となった)

  「マ(ン)ガ・タロア」、MANGA-TAROA(manga=branch of a tree or river or etc.;taroa=long,enduring)、「枝(のような尾根)を・(北へ向かって)長く伸ばしている(山)」(「マ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「マナ」から「マン」となった)

  「テ(ン)ガ・クラエ」、TENGA-KURAE(tenga=Adam's apple;kurae=headland)、「尾根を突き出した喉ぼとけ(のような突出した山)」

  「タ・ヒラ・ピオ」、TA-HIRA-PIO(ta=the;hira=important;pio=be extinguished)、「どっしりとして目立つ(山)」

の転訛と解します。

 

c 水上(みなかみ)・湯桧曽(ゆびそ)

 谷川岳の東・南斜面の急崖は、断層によるもので、断層の延長上には、水上、湯桧曽の両温泉が湧出しています。

 この「みなかみ」、「ゆびそ」は、マオリ語の

  「ミナカ・ミ」、MINAKA-MI(minaka=desire;mi(Hawaii)=urine,stream)、「(何かを)求めるように(噴流する川。噴流する温泉)」

  「イフ・ピト」、IHU-PITO(ihu=nose,bow of a canoe;pito=end,navel)、「カヌーの舳先の頂点(のような嶮しい谷の奥の場所。そこに湧く温泉)」

の転訛と解します。

 

(21) 勢多(せた)郡

 

a 勢多郡

 勢多郡は、おおむね現勢多郡、利根郡利根村の南部(赤城山麓の区域)、同昭和村、前橋市の東部(旧利根川の河道(おおむね広瀬川と桃木川の中間)から西部の区域を除く)の区域です。

 この「せた」は、(1) 「セ(瀬)・ト(処)」で「川瀬のあるところ」の意、

(2) 「セ(狭)・ト(処)」で「山などが両側に迫った地」の意、

(3) 赤城山の下にあたる地で「シタ(下)」の転とする説があります。

 この「せた」は、マオリ語の

  「テ・タ」、TE-TA(te=crack;ta=dash,beat,lay,alley)、「(赤城山の南面の)割れ目がある(川瀬がある地域)」

の転訛と解します。

 

b 黒保根(くろほね)村

 群馬県東部、赤城山東麓の勢多郡に属する村で、村名は赤城山の最高峰黒桧山が『万葉集』(巻14、3,412)で「久路保(くろほ)の嶺(ね)」といったことにちなんでいます。

 この「くろほね」は、マオリ語の

  「ク・ロ・ハウ・ヌイ」、KU-RO-HAU-NUI(ku=silent;ro=roto=inside;hau=wind,famous,exceed,external angle,corner;nui=large,many)、「静かな奥の片隅の大きな(山)」

の転訛と解します。「くろほ」は「くろび」と同じ意味と解されます。

 

c 宮城(みやぎ)村

 群馬県東部、赤城山南麓の勢多郡に属する村で、村名は村内の三夜(みよ)沢に鎮座する赤城神社から「宮」を、赤城山から「城」をとって命名しています。

 赤城神社は、上野国二宮で、県内外に300余の末社をもつ赤城山信仰の総本社で、裏山には古代祭祀跡の櫃(ひつ)石があります。

 この三夜沢の「みよ」、櫃石の「ひつ」は、マオリ語の

  「ミ・イオ」、MI-IO(mi(Hawaii)=urine,stream;io=muscle,strand of a rope,line)、「紐のような川」

  「ヒ・ツ」、HI-TU(hi=raise,rise;tu=stand,settle)、「高いところへ据えられた(石)」

の転訛と解します。

 

d 大胡(おおご)町

 群馬県中央部、赤城山南麓の前橋市の北東に接する勢多郡に属する町で、町名は中世の郷名によっています。大胡郷は、大胡町から前橋市の東部、桃木川と広瀬川の間の利根川の旧河道の北側にまたがる広大な地域でした。中世には足利氏の支族大胡氏が大胡城を築き、江戸時代には日光裏街道の宿場町として栄えました。

 町の中央を荒砥(あらと)川が南流し、南部には江戸時代につくられた溜池の千貫(せんがん)沼があります。

 この「おおご」、荒砥川の「あらと」、千貫沼の「せんがん」は、マオリ語の

  「アウ・(ン)ガウ」、AU-NGAU(au=firm,intense,certainly;ngau=bite,hurt,attack)、「しっかり(川の流れによって)浸食された(地域)」(「アウ」のAU音がOU音に変化し、「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「オウゴ」となつた)

  「ア・ラト」、ARA-TO(ara=way,path;to=be pregnant,drag)、「(登山)道となる(川)」

  「テ(ン)ガ・ヌイ」、TENGA-NUI(tenga=Adam's apple;nui=large,many)、「大きな喉ぼとけ(が沼に突き出ているような地形の沼)」(語尾のUI音が脱落した)

の転訛と解します。

 

(22) 赤城(あかぎ)山

 

a 赤城山

 関東平野の北西縁、群馬県東部の成層火山で、榛名山、妙義山とともに上毛三山と呼ばれています。

 『万葉集』(巻14、3,412)に「上毛野久呂保の嶺」とあり、古名を「くろほ」といい、最高峰の黒桧(くろび)山に名が残るとされています。

 この「くろほ」は、「クロ(黒)・ホ(嶺)」で黒い山の意とする説があります。

 「赤城」は、古く『続日本後紀』、『三代実録』などに「赤城神」としてみえます。伝説によれば、昔二荒山(日光男体山)の神が大蛇の姿で、赤城山の神が百足の姿で戦ったが、弓の名手猿麻呂が大蛇に助勢したため、百足が傷を負って利根川の岸に退却し、血が流れて水が赤くなったので赤城山と呼んだとされます。

 この「あかぎ」は、「アカ(赤)・キ(土地を示す接尾語)」とする説があります。

 この「あかぎ」は、マオリ語の

  「ア・カ(ン)ギア」、A-KANGIA(a=belonging to;kangia=ka=take fire,be lighted,burn)、「火を噴く(山)」(「カ(ン)ギア」のNG音がG音に変化し、語尾の「ア」が脱落して「カギ」となった)

転訛と解します。地質学上は一万年前にできた爆裂火口跡の小沼(この)が形成されたのちは、顕著な活動はありませんが、12世紀に『吾妻鏡』に「上野国赤城岳焼」とありますから、かなり近くまで噴煙を上げていた山のようです。

 

b 黒桧(くろび)山・駒(こま)ケ岳・長七郎(ちょうしちろう)山・地蔵(じぞう)岳・鍋割(なべわり)山・覚満(かくまん)淵

 赤城山の山頂付近は、激しく浸食され、複数の峰に分かれています。

 最高峰は、黒桧山(1,828メートル)で、その南に駒ケ岳(1,685メートル)、長七郎山(1,579メートル)が続き、大沼のほとりには独立して地蔵岳(1,674メートル)があり、長七郎山につながる尾根の先端には鍋割山(1,332メートル)山がそびえています。また、長七郎山の西には小沼が、北には大沼から流出する小流が大きな音を立てて底なしの洞窟に流れ込む覚満(かくまん)淵があります。

 この「くろび」、「こま」、「ちょうしちろう」、「じぞう」、「なべわり」、「かくまん」は、それぞれマオリ語の

  「ク・ロ・ピ」、KU-RO-PI(ku=silent;ro=roto=inside;pi=corner of the eye or mouth,eye)、「内側の眼(大沼)尻にある静かな(山)」

  「コ・マ(ン)ガ」KO-MANGA(ko=descend;manga=branch of a tree or river,ditch)、、「(黒桧山の)低くなった枝(のような山)」

  「チオ・チチロ」、TIO-TITIRO(tio=cry;titiro,tiro=look)、「(そばに小沼があって)泣いている(涙を流している)ように見える(山)」

  「チ・タウ」、TI-TAU(ti=throw,cast;tau=turn away,ridge of a hill,come to rest,lie steeping in water)、「別の方向を向いている(山)」(「タウ」のT音がS音に変化し、AU音がO音に変化して「ソウ」となり、濁音化した)

  「ナ・ペワ・リ」、NA-PEWA-RI(na=belonging to;pewa=eyebrow;ri=screen,protect,bind)、「眉につながっている(山)」

  「カク・マ(ン)ガ」、KAKU-MANGA(kaku=make a hardh grating sound,scrape up;manga=branch of a tree or river,ditch)、「大きな音を立てる・溝(淵)」(「マ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「マナ」から「マン」となった)

の転訛と解します。

 

(23) 前橋(まえばし)市

 

a 前橋市

 群馬県中部の県庁所在地で、関東地方でもっとも早くから関西の影響を受けた場所といわれ、大きな古墳も多く、市の西部の元総社地区は古代に上野国府が置かれた場所で、その西には国分寺跡があります。

 前橋は、古代の東山道の宿駅で、利根川にかかる橋があったため、ふるくは「厩橋(まやばし)」といいました。

 この「まや」は、マオリ語の

  「マイア」、MAIA(brave,bravery)、「(利根川の激流に対抗して)勇気をもって立ち向っている(橋)」

の転訛と解します。

 

b 広瀬(ひろせ)川

 前橋市の市街地の中央を広瀬川が流れ、萩原朔太郎の像や詩碑が建っています。かつて利根川はしばしばその河道を変えていました。広瀬川も、その河道の一つで、しょっちゅう川筋を変えていたようです。

 この「ひろせ」は、マオリ語の

  「ヒラウ・テ」、HIRAU-TE(hirau=entangle,be entangled;te=crack)、「もつれる(川筋を変えてあちこちぶつかる)割れ目(瀬、川)」

の転訛と解します。

 

c 岩神(いわがみ)

 前橋市の厩橋城跡にある群馬県庁の北、利根川の左岸、岩神町に天然記念物に指定されている高さ20メートル、周囲70メートルの飛石(とびいし)をご神体とする岩神稲荷があります。

 この「いわがみ」、「とび」は、マオリ語の

  「イ・ワ・(ン)ガミ」、I-WHA-NGAMI(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;ngami,whakangami=swallow up)、「(洪水によって)流されて・来た・膨れ上がった(大岩。それを祀つた稲荷。その場所)」

  「トピ」、TOPI(shut as the mouth or hand)、「掌を合わせて組んだ(ような形の石)」

の転訛と解します。

 

(24) 佐位(さい)郡

 

 佐位郡は、おおむね現伊勢崎市の東半分、佐波郡(玉村町を除く)の区域です。

 この「さい」は、(1) 「サ(狭)・ヰ(居)」で「狭いところ」の意、

(2) 「サ(狭)・ヰ(川)」で「狭い川」の意、

(3) 「サヰ(山百合)」の意とする説があります。

 この「さい」は、マオリ語の

  「タイ」、TAI(the coast,tide,anger,dash)、「(利根川の広い)砂岸(や中洲がある地域)」

の転訛と解します。

 

(25) 新田(にふた)郡

 

a 新田郡

 新田郡は、おおむね現新田郡、太田市の西半分の区域です。『和名抄』は「尓布太」と訓じています。新田氏の本拠地として著名です。赤城山麓から東南へ八王子丘陵が延び、その先に中世に築城された金山城があった金山丘陵が太田市街地のすぐ北西に位置しています。

 この「にふた」は、(1) 「ニタ(湿地)」の意、

(2) 「ニフ(粘土、赤土のあるところ)」の意、

(3) 「開墾して新たに田を開いたところ」の意とする説があります。

 この「にふた」は、マオリ語の

  「ヌイ・フ・タ」、NUI-HU-TA(nui=big,many;hu=promontory,hill;ta=dash,beat,lay,alley)、「大きな・丘(金山丘陵)が・ある(地域)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

の転訛と解します。

 

b 薮塚(やぶづか)本町

 群馬県南東部、新田郡薮塚本町は、笠懸町の南に接する町で、笠懸野と呼ばれた大間々扇状地の扇央部を占め、北東部は八王子丘陵が連なって桐生市に接しています。水利が悪い台地で、江戸時代初期に岡登用水が開削されてから開墾が進みました。

 この「やぶづか」は、マオリ語の

  「イア・プ・ツカ」、IA-PU-TUKA(ia=indeed,very,each;pu=heap,stack,lie in a heap;tuka,tukatuka=start up,proceed forward)、「実に(八王子)丘陵が前方に続いている(土地)」

の転訛と解します。

 

c 笠懸(かさがけ)町

 群馬県南東部、新田郡笠懸町は、桐生市の西に接する町で、笠懸野と呼ばれた大間々扇状地の扇央部を占めています。

 水利が悪い台地で、江戸時代初期に岡登用水が開削されてから開墾が進みました。かつてため池であった阿左美(あざみ)沼は、現在競艇場となっています。

 JR両毛線岩宿(いわじゅく)駅北方の稲荷山切り通しには、昭和24(1949)年に発見された旧石器時代の岩宿遺跡があり、地表下50センチメートル以下に堆積する関東ローム層の、上層の黄褐色ローム層と下層の暗褐色粘土層からそれぞれ特徴のある旧石器が出土しています。

 この「かさがけ」は、マオリ語の

  「カタ・カケ」、KATA-KAKE(kata=opening of shell-fish;kake=ascend,climb upon or over)、「貝が口を開いたような扇状地の上へ登って行く(場所)」

の転訛と解します。

 また、阿左美沼の「あざみ」、岩宿の「いわじゅく」は、マオリ語の

  「アタ・ミ」、ATA-MI(ata=genyly,clearly,openly;mi=urine,stream)、「開けた(清らかな)・水(を湛えた。沼)」

  「イ・ワチ・ウク」、I-WHATI-UKU(i=past tense,beside;whati=be broken off short,be bent at an angle;uku=white clay,wash,ally,supporting tribe)、「(石を)砕いて(磨いて)・綺麗に・した(石器を製造していた。土地)」

の転訛と解します。

 

(26) 太田(おおた)市

 

 群馬県南東部にある市で、利根川と渡良瀬川に挟まれた広い低地を占め、北部に八王子丘陵、中央部に金山(かなやま)丘陵があります。中世には新田氏の所領で、金山には金山城が築かれました。江戸時代には、日光例幣使街道の宿場町として栄えました。

 この「おおた」は、中世の郷名からとされ、

(1) 「オホ(大)・タ(処)」の意、

(2) 「オホ(美称)・タ(田、処)」の意とする説があります。

 この「おおた」は、マオリ語の

  「オホ・タ」、OHO-TA(oho=wake up,arise;ta=dash,lay,alley)、「むっくり起き上がつた丘がある(または丘が並んでいる地域)」

の転訛と解します。

 つまり、金山丘陵、八王子丘陵があることによる地名で、場合によると、全長210メートル、後円部径120メートル、前方部前端幅126メートルの東日本最大の前方後円墳、太田天神(てんじん)山古墳の存在も意識しての命名かも知れません。

 この金山丘陵の「かな」、八王子丘陵の「はちおうじ」、天神山古墳の「てんじん」は、マオリ語の

  「カナ」、KANA(stare wildly(whakana=make grimaces))、「眉間(みけん)に皺を寄せた(丘)」

  「パチ・アウ・チ」、PATI-AU-TI(pati=ooze,splash,break wind;au=sea,firm,certainly;ti=throw,cast)、「空っ風を防ぐ、海(のような広い野原)に放り出された(丘)」

  「テ(ン)ガ・チノ」、TENGA-TINO(tenga=Adam's apple;tino=main)、「主要な喉ぼとけのような(古墳)」

の転訛と解します。

 

(27) 山田(やまだ)郡

 

a 山田郡

 山田郡は、おおむね現山田郡大間々町、桐生市(桐生川の中・下流左岸の区域を除く)、太田市の東半分の区域です。『和名抄』は「夜末太」と訓じています。

 この「やまた」は、(1) 「山を開いて田をつくったところ」の意(『常陸国風土記』久慈郡山田の里の項に「多く墾田と為れり。因りて名づく。」とあります)、

(2) 「山間の田」の意、

(3) 「山処(やまど)」の意とする説があります。

 この「やまだ」は、マオリ語の

  「イア・マタ」、IA-MATA(ia=indeed.very;mata=deep swamp)、「実に低湿地(が多い地域)」

の転訛と解します。

 

b 大間々(おおまま)町

 群馬県南東部、足尾山地の南西部にあり、西縁を渡良瀬川が南流しています。中心集落の大間々は大間々扇状地の扇頂部に発達した谷口集落で、江戸時代には足尾高山に通ずる銅(あかがね)街道の宿駅で、絹市も立ちました。

 この「おおまま」は、扇形の扇状地の両側に段丘の崖がある地形を指し、「ママ」は「急傾斜地、崖、畦畔、堤の崩れたところ、水辺の湿地」(小学館『日本国語大辞典』)を指すとされ、『万葉集』(巻14、3,384〜5)の「真間(まま)の手古奈」伝説の市川市真間は急崖があってその適例とされています。しかし、柳田国男は「日本語にてはママの原義が説明しあたはぬ」とされ、「アイヌ語の残存」ではないかとされました(『地名の研究』)。

 この「おおまま」は、マオリ語の

  「アウ・ママ」、AU-MAMA(au=rapid,firm,intense,certainly;mama=ooze through small apertures)、「確かに水が滲み出てくる(場所)」

の転訛と解します。

 この解釈によつて「ママ」に関するすべての疑問が氷解します。「急傾斜地、崖」だけでなく、「畦畔、堤の崩れたところ、水辺の湿地」なども「ママ」と呼ばれるのは、それが土地の形態的特徴をしめす地形地名ではなく、「水が滲み出る」という機能的特徴を示す地名であったことによるのです。

 

(28) 桐生(きりゅう)市

 

 群馬県東端部にある市で、中心市街地は渡良瀬川北東岸の段丘上にあり、支流の桐生川の谷口集落です。南北朝の初期、桐生氏が市街地北方の柄杓山に桐生城を築いています。

 この「きりゅう」は、(1) 「キリ(開く)・ウ(渓谷)」の意、

(2) 「桐の生えている場所」の意とする説があります。

 この「きりゅう」は、マオリ語の

  「キ・リウ」、KI-RIU(ki=say,full,very;riu=bilge of a canoe,vallay,belly)、「(大きい)瀬音を立てる渓谷」

の転訛と解します。

 

(29) 邑楽(おはらぎ)郡

 

a 邑楽郡

 邑楽郡は、おおむね現邑楽(おうら)郡、館林市の区域です。『和名抄』は「於波良支」と訓じています。

 この「おはらぎ」は、(1) 「オ(接頭語)・ハラ(原)・ギ(場所を示す接尾語)」の意、

(2) 「オハ(崖地)・ラ・ギ(ともに場所を示す接尾語)」の意とする説があります。

 この「おはらぎ」は、マオリ語の

  「オハ・ラ(ン)ギ」、OHA-RANGI(oha=generous,abundant;rangi=sky,tower or elevated platform used for purposes of attack or defence of a stockade)、「肥沃な、柵を巡らした(川に接した)高台」

の転訛と解します。この地名は、もともと群馬の穀倉といわれた邑楽町の中心地あたりを指すものであったかも知れません。

 この「ラ(ン)ギ」は、地名篇(その三)の滋賀県の地名の「信楽(しがらき)町」(「しがらき」を「空のような(天上に近い場所)」と解しましたが、「柵を巡らした高台のような(場所)」と改めます)や、地名篇(その五)の奈良県の地名の「葛城(かつらぎ)」と同じです。また、熊本県球磨郡多良木(たらぎ)町も同じですし、いずれ解説しますが、日本語の「あららぎ」、「ひいらぎ」、「ひもろぎ」なども同じ語源です。

 

b 板倉(いたくら)町

 群馬県南東端、北縁を渡良瀬川、南縁を利根川が流れ、かつては板倉沼など大小の池沼が散在した低湿地帯で、水害常習地でしたが、渡良瀬川遊水池の設置、排水施設の整備によつて群馬の穀倉になっています。

 この「いたくら」は、マオリ語の

  「イ・タク・ラ」、I-TAKU-RA(i=beside,past time;taku=edge,gunwale,holloe,keep the edge of;ra=wed)、「窪地が繋がっている(土地)」

の転訛と解します。

 

c 佐貫(さぬき)荘

 館林市の南、利根川に接して邑楽郡明和(めいわ)村があります。昭和30(1955)年佐貫(さぬき)、梅島、千江田の3村が合併し、公募によつて村名が付けられました。館林市を含むこの地域は、中世には佐貫荘で、近世には南西部の川俣(かわまた)に日光脇往還の宿場と利根川水運の河岸があって栄えました。

 この「さぬき」、「かわまた」は、マオリ語の

  「タヌ・キ」、TANU-KI(tanu=bury,plant,smother with;ki=full,very)、「(洪水によって運ばれた)土砂で埋め・尽くされた(土地)」

  「カワ・マタ」、KAWA-MATA(kawa=reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals;mata=deep swamp)、「湿地のある川の浅瀬」

の転訛と解します。

 

(30) 館林(たてばやし)市

 

a 館林市

 群馬県南東部の市で、利根川と渡良瀬川に囲まれた洪積台地と低地からなります。分福茶釜の茂林寺があります。

 この「たてばやし」は、中世以来の地名によります。この「タテ」は、台地状地形の先端をさすとされています。

 この「たてばやし」は、マオリ語の

  「タタイ・パイア・チ」、TATAI-PAIA-TI(tatai=measure,arrange,adorn;paia=pa=block up,prevent,assault,stockade;ti=throw,cast)、「きちんとした・防禦柵で囲まれた集落が・放り出されている(土地)」(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

の転訛と解します。

 ちなみに、館林城は16世紀に赤井氏が築城以来、江戸時代には榊原氏、徳川氏が整備し、徳川綱吉が将軍になった後天和3(1683)年に破却され、宝永4(1707)年に松平清武が入って再築され、「尾曳(おびき)城」と呼ばれました。

 この「おびき」は、マオリ語の

  「オ・ピキ」、O-PIKI(o=the...of;piki=second,support)、「二番目の(再度築かれた城)」

の転訛と解します。

 

b 多々良(たたら)沼

 館林市の北西部、利根川と渡良瀬川に挟まれた低湿地にある湖沼群の一つで、北東部は干拓が進みましたが、沼の南東側には古砂丘が連なり、松林となって風致地区に指定されています。

 この「たたら」は、マオリ語の

  「タタラ」、TATARA(fence)、「垣根のある(砂丘に接する沼)」

の転訛と解します。古典篇(その一)の「ヒメタタライスケヨリヒメ」の項を参照してください。

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<修正経緯>

1 平成16年11月1日

  茨城県の(1)常陸国の解釈を修正、(2)新治郡の葦穂山の解釈を修正、(5)騰波の江の解釈を修正、(6)河内郡の解釈を修正、(9)茨城郡の佐伯の別解釈を追加、(10)行方郡の解釈を修正、(11)霞ヶ浦の解釈を修正、(16)那珂郡および甫時臥山の解釈を修正、(19)久慈郡の賀毘礼の高峯および速経和気命の解釈を修正、(27)古河市の別解釈を追加、(29)岩井市の解釈を修正、(30)相馬郡の解釈を修正しました。

  栃木県の(3)渡良瀬川の皇海山の解釈を修正、(5)安蘇郡の葛生町・大叶および田沼町の解釈を修正、(9)日光の日光・二荒の別解釈を追加、中禅寺湖・戦場ヶ原の解釈を修正、(13)野木町の解釈を修正、(14)寒川郡の別解釈を追加しました。

  群馬県の(2)碓氷郡の松井田町の解釈を修正、(6)妙義山の金洞山・千駄木山の解釈を修正、(8)緑埜郡・御荷鉾山の解釈を修正、(12)榛名山・伊香保嶺・伊香保呂・鬢櫛山の解釈を修正、(16)吾妻郡の日向見温泉の解釈を修正、(17)草津の湯畑の解釈を修正、(18)利根郡の武尊山の解釈を修正、(19)尾瀬の燧ケ岳の解釈を修正、(20)谷川岳・トマの耳・茂倉岳・万太郎山・仙ノ倉山の解釈を修正、(23)前橋市の岩神の解釈を修正、(25)新田郡・阿佐美沼・岩宿の解釈を修正、(29)邑楽郡の佐貫荘の解釈を修正、(30)館林市の解釈を修正しました。

2 平成16年12月1日

 群馬県の(11)群馬郡の「くるま」の解釈を修正、「くるまもち」、「ぐんま」の解釈を追加、b保渡田古墳群の項(保渡田・八幡塚・薬師塚)を追加しました。

3 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

4 平成19年8月1日 

 茨城県の(21)多珂郡の項に「薦枕(こもまくら)」の解釈を追加しました。

5 平成22年10月1日 

 栃木県の(9)日光のc中禅寺湖の項中「戦場ヶ原」の解釈を一部修正しました。

 

地名篇(その六)終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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