古典篇(その十四)

(平成15-9-1書込み。19-7-1最終修正)(テキスト約36頁)


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<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その八)>

  ー天智天皇から持統天皇までー

  目 次

 

[238天智天皇]

 

 238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇238B1長津(ながつ)宮238B2近江大津(あふみのおほつ)宮238C1息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇238C2寶(たから)皇女238D1間人(はしひと)皇女から238D4蚊屋(かや)皇子まで238E1倭(やまと)姫王238E2遠智(をち)娘238E3姪(めひ)娘238E4橘(たちばな)娘238E5常陸(ひたち)娘238E6色夫古(しこぶこ)娘238E7黒媛(くろめ)娘238E8越道君伊羅都売(いらつめ)238E9伊賀采女宅子(やかこ)娘238F1大田(おほた)皇女238F2鵜野(うの)皇女238F3建(たける)皇子238F4御名部(みなべ)皇女238F5阿陪(あへ)皇女238F6飛鳥(あすか)皇女238F7新田部(にひたべ)皇女238F8山邊(やまのへ)皇女238F9大江(おほえ)皇女238F10川嶋(かはしま)皇子238F11泉(いづみ)皇女238F12水主(もひとり)皇女238F13施基(しき)皇子238F14伊賀(いが)皇子(亦の名大友(おほとも)皇子)238G山科(やましな)陵238H1河邊百枝(ももえ)臣・阿倍引田比邏夫(ひらぶ)臣・物部連熊(くま)238H2狭井連檳榔(あぢまさ)・秦造田来津(たくつ)238H3上毛野君稚子(わかこ)・間人連大蓋(おほふた)・巨勢神前臣譯語(をさ)・三輪君根(ね)麻呂・大宅臣鎌柄(かまつか)238H4廬原(いほはら)君臣(おみ)・朴市田来津(えちのたくつ)・白村江(はくすきのえ)238H5守君大石(おほいは)・坂合部連石積(いはつみ)・吉士岐彌(きみ)・吉士針間(はりま)238H6笠臣諸石(もろいは)238H7道守君麻呂(まろ)・吉士小鮪(をしび)238H8藤原(ふぢはら)氏238H9河内直鯨(くぢら)238H10中臣金(かね)連238H11巨勢人(ひと)臣・蘇我果安(はたやす)臣・紀大人(うし)臣238H12黄書造本實(ほんじち)238H13次田生磐(すきたのおひは)238H14法師道久(どうく)・筑紫君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝娑婆(さば)・布師首磐(いは)

 

[239弘文天皇]

 

 239A弘文天皇(漢風諡号)239B近江大津(おほつ)宮239C1天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇239C2伊賀采女宅子(やかこ)娘239E十市(とをち)皇女239F葛野(かどの)王239G長等(ながら)山前陵

 

[240天武天皇]

 

 240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇240B1不破(ふは)宮(野上(のがみ)行宮)・嶋(しま)宮・岡本(をかもと)宮240B2飛鳥浄御原(きよみはら)宮240B3吉野(よしの)宮240C1息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇240C2寶(たから)皇女240D1葛城(かづらき)皇子から240D4蚊屋(かや)皇子まで240E1菟野(うの)皇女240E2大田(おほた)皇女240E3大江(おほえ)皇女240E4新田部(にひたべ)皇女240E5氷上(ひかみ)娘240E6五百重(いほへ)娘240E7太豕(おほぬ)娘240E8額田(ぬかた)姫王240E9尼子(あまこ)娘240E10梶(かぢ)媛娘240F1草壁(くさかべ)皇子尊(日並知(ひなみし)皇子尊)240F2大来(おほく)皇女(大伯(おほく)皇女)240F3大津(おほつ)皇子240F4長(なが)皇子240F5弓削(ゆげ)皇子240F6舎人(とねり)皇子240F7但馬(たぢま)皇女240F8新田部(にひたべ)皇子240F9穂積(ほづみ)皇子240F10紀(き)皇女240F11田形(たかた)皇女240F12十市(とをち)皇女240F13高市(たけち)皇子命240F14忍壁(おさかべ)皇子240F15磯城(しき)皇子240F16泊瀬部(はつせべ)皇女240F17託基(たき)皇女240G檜隈大内(ひのくまのおほち)陵(天武天皇・持統天皇合葬陵)240H1蘇我臣安(やす)麻侶240H2朴井連雄君(をきみ)・村國連男依(をより)・和珥部臣君手(きみて)・身毛君廣(ひろ)・湯沐令多臣品治(ほむぢ)・大分君恵尺(ゑさか)・黄書造大伴(おほとも)・逢臣志摩(しま)・留守司高坂(たかさか)王240H3縣犬飼連大伴(おほとも)・佐伯連大目(おほめ)・大伴連友國(ともくに)・稚櫻部臣五百瀬(いほせ)・書首根(ね)摩呂・書直智徳(ちとこ)・山背直小林(をばやし)・山背部小田(をだ)・安斗連智徳(ちとこ)調首淡海(あふみ)・大伴連馬来田(まぐた)・土師連馬手(うまて)・大伴朴本連大國(おほくに)・美濃(みの)王240H4民直大火(おほひ)・赤染造徳足(とこたり)・大蔵直廣隅(ひろすみ)・坂上直國(くに)麻呂・古市黒(くろ)麻呂・竹田大徳(だいとく)・膽香瓦臣安倍(あへ)・国司守三宅連石床(いはとこ)介三輪君子首(こびと)・湯沐令田中臣足(たり)麻呂・高田首新家(にひのみ)・路直益人(ますひと)240H5難波吉士三綱(みつな)・駒田勝忍人(おしひと)・山辺君安(やす)麻呂・小墾田猪手(ゐて)・泥(はづかし)部氏枳(しき)・大分君稚臣(わかみ)・根連金身(かねみ)・漆部友背(ともせ)・安斗連阿加布(あかふ)240H6韋那公磐鍬(いはすき)・書直薬(くすり)・忍坂直大(おほ)摩呂・穂積臣百足(ももたり)・弟五百枝(いほえ)・物部首日向(ひむか)・佐伯連男(をとこ)・樟使主磐手(いはて)・筑紫大宰栗隈(くるくま)王吉備國守當摩公廣嶋(ひろしま)・三野(みの)王・武家(たけいへ)王・大伴連馬来田・弟吹負(ふけひ)240H7尾張国司守小子部連鋤鉤(さひち)・坂上直熊毛(くまけ)・秦造熊(くま)・稚狭(わかさ)王・大伴連安(やす)麻呂・坂上直老(おきな)・佐味君宿那(すくな)麻呂・三輪君高市(たけち)麻呂・鴨君蝦夷(えみし)240H8紀臣阿閉(あへ)麻呂・置始連菟(うさぎ)・山部(やまべ)王・羽田公矢國(やくに)・羽田公大人(うし)・出雲臣狛(こま)240H9荒田尾直赤(あか)麻呂・忌部首子人(こびと)・大野君果安(はたやす)・田辺小隅(をすみ)・合言葉「金(かね)」・境部連薬(くすり)・秦友足(ともたり)240H10社戸臣大口(おほくち)・土師連千嶋(ちしま)・智尊(ちそん)・犬養連五十君(いきみ)・谷直塩手(しほて)・物部連麻呂(まろ)240H11坂本臣財(たから)・長尾直眞墨(ますみ)・倉墻直麻呂(まろ)・民直小鮪(をしび)・谷直根(ね)麻呂・紀臣大音(おほと)・壱岐史韓国(からくに)・勇士来目(くめ)・廬井造鯨(くぢら)・奴徳(とこ)麻呂・高市縣主許梅(こめ)240H12紀臣訶多(かた)麻呂・忍海造大國(おほくに)・大伴連御行(みゆき)・佐伯連廣足(ひろたり)・間人連大蓋・曽禰連韓犬(からいぬ)・比彌沙伎理(ひみさきり)・大伴連國(くに)麻呂・三宅吉士入石(いりし)240H13山背直百足(ももたり)・杭田史名倉(なくら)・倭画師音樫(おとかし)・丹比公麻呂(まろ)・忍海造能(よし)摩呂・倭馬飼部造連(むらじ)・寸主光父(くわうぶ)・巫鳥(しとと)240H14廣瀬(ひろせ)王・竹田(たけだ)王・桑田(くはた)王・上毛野君三千(みちち)・忌部連首(おびと)・阿曇連稲敷(いなしき)・難波連大形(おほかた)・中臣連大嶋(おほしま)・平群臣子首(こびと)・錦織造小分(をきだ)采女臣竹羅(ちくら)・當摩公楯(たて)・小墾田臣麻呂(まろ)・日高(ひだか)皇女(亦の名新家(にひのみ)皇女。のちに244元正天皇)・高向臣麻呂(まろ)・都努臣牛甘(うしかひ)240H15姓(かばね)・眞人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなき)240H16縣犬養連手繦(たすき)・川原連加尼(かね)・石川朝臣虫名(むしな)・巨勢朝臣粟持(あはもち)・路眞人迹見(とみ)240H17大海宿禰蒭蒲(あらかま)・壬生(みぶ)・伊勢(いせ)王・犬養宿禰大伴(おほとも)・河内(かふち)王・當麻眞人国見(くにみ)・紀朝臣眞人(まひと)・誄(しのびごと)・布勢朝臣御主人(みぬし)石上朝臣麻呂(まろ)・阿倍久努朝臣麻呂(まろ)・紀朝臣弓張(ゆみはり)・穂積朝臣虫(むし)麻呂

 

[241持統天皇]

 

 241A高天原廣野(たかまはらひろの)姫天皇241B1吉野(よしの)宮241B2藤原(ふぢはら)宮241C1天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇241C2遠智(をち)娘241D1大田(おほた)皇女から241D13伊賀(いが)皇子まで241F草壁(くさかべ)皇子尊241G檜隈大内(ひのくまのおほち)陵(天武天皇・持統天皇合葬陵)241H1八口朝臣音橿(おとかし)・中臣朝臣臣(おみ)麻呂・巨勢朝臣多益須(たやす)・新羅法師行心(かうじむ)・帳内(とねり)礪杵道作(ときのみちつくり)241H2土師宿禰根(ね)麻呂・大宅朝臣麻呂(まろ)・藤原朝臣史(ふびと。不比等)・當麻眞人櫻井(さくらゐ)・穂積朝臣山守(やまもり)・大三輪朝臣安(やす)麻呂241H3羽田朝臣斎(むごへ)・伊余部連馬飼(うまかひ)・調忌寸老人(おきな)・大友宿禰手拍(てうち)・巨勢朝臣多益須(たやす)241H4丹比嶋(しま)真人241H5大伴部博麻(はかま)・土師連富杼(ほど)・氷連老(おゆ)・弓削連元宝(ぐわんほう)241H6當摩眞人智徳(ちとこ)241H7小野朝臣毛野(けの)241H8軽(かる)皇子

<修正経緯>

 

<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その八)>

ー天智天皇から持統天皇までー

 

 [ここでは神武天皇の部を201とし、その中で和風諡号は201A(別名または幼名は201A2~)、宮都は201B、父母は201C1~2、兄弟姉妹は201D1~、后妃は201E1~、皇子は201F1~、陵は201G、治世中特筆すべき人名等は201H1~として整理番号を付し、以下同様に<その一>では201神武天皇から209開化天皇まで、<その二>では210崇神天皇・211垂仁天皇を、<その三>では212景行天皇から219允恭天皇まで、<その四>では220安康天皇から225武烈天皇まで、<その五>では226継体天皇から229欽明天皇まで、<その六>では230敏達天皇から233推古天皇まで、<その七>では234舒明天皇から237斉明天皇まで、<その八>では238天智天皇から241持統天皇まで、<その九>以降では242文武天皇から250桓武天皇まで(『続日本紀』については主要な事項のみに限ります)を順次解説する予定です。

 表記は原則として『古事記』、『日本書紀』(以上岩波日本古典文学大系本)および『続日本紀』(岩波新日本古典文学大系本)によります。本文中001〜199の神名は、古典篇(その五)<『古事記』の神名>により、名義は主として岩波日本古典文学大系本または岩波新日本古典文学大系本の注および『古事記』(新潮日本古典集成、校注西宮一民、昭和54年)の付録「神名の釈義」によります。

 ポリネシア語による解釈は、原則としてマオリ語により、ハワイ語による場合は注記を付します。]

 

 

[238天智天皇]

 

238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇

 紀は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇(234舒明天皇)と234E1寶(たから)皇女の第1子の234F1葛城(かづらき)皇子とします。

 舒明紀13年10月条は東宮開別(ひらかすわけ)皇子が父帝の葬儀において16歳で弔辞を述べたとし、皇極紀3年正月条以降中大兄(なかのおほえ)皇子と通称します。

 海外では隋に代わって強大な唐が台頭し半島を脅かす不穏な情勢の中で、舒明天皇が崩御し、皇極天皇がその後を嗣ぎ、蘇我入鹿が山背大兄王を殺し、皇子は中臣鎌足等と乙巳の変を起こして入鹿を暗殺し、皇極天皇は退位します。皇子は、皇極天皇の弟の孝徳天皇を擁立し、その皇太子となって大化の改新を推進し、古人大兄皇子を謀反の罪で滅ぼし、皇子と皇室の殆どに見捨てられた孝徳天皇は淋しく病没します。その後重祚した斉明天皇の下でも皇子は皇太子となり、唐と新羅に攻められた百済救援軍の派遣中に斉明天皇が没するとそのまま政治を執り、救援軍が白村江で大敗すると唐の来襲に備えて水城、山城を造り、都を近江の大津に遷し、国政の改革を進めます。天智7年に正式に即位して238天智天皇となり、同10年1月には近江令を公布して律令体制を固め、大友皇子を太政大臣に任じますが、その体制が固まらないうちに同年12月に没します。

 この国風諡号の「あめみことひらかす」は「皇運を開いた」の意かと、「わけ」は尊称とされます。

 この「あめみことひらかすわけ」、「かづらき」、「ひらかすわけ」、「なかのおほえ」は、

  「アマイ・ミコ・ト・ヒラ・カツア・ワカイ(ン)ガ」、AMAI-MIKO-TO-HIRA-KATUA-WAKAINGA(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;miko,mimiko=gooseflesh,creeping sensation of flesh or skin from fear or sickness;to=drag;hira=numerous,great,important,widespread;katua=adult,stockade or main fence of a fort distinguished from the outside and from the inside,main portion of anything;wakainga=distant home)、「光り輝いている・(神懸かりになって託宣を下す)巫女(巫覡)を・統率する者で・重要な・中核の人物である・遠いところに住んでいた(天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」から「カス」と、「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)

  「カツア・ラ(ン)ギ」、KATUA-RANGI(katua=adult,stockade or main fence of a fort,main portion of anything;rangi=sky,heaven,weather,tenor of a speech,chief,heart)、「中核の(または傍系に属する)人物である・堂々と演説する(音吐朗々と弔辞を述べた。皇子)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」と、「ラ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「ラギ」となった)

  「ヒラ・カツア・ワカイ(ン)ガ」、HIRA-KATUA-WAKAINGA(hira=numerous,great,important,widespread;katua=adult,stockade or main fence of a fort,main portion of anything;wakainga=distant home)、「重要な・中核の人物で・遠いところに住んでいた(皇子)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」から「カス」と、「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)

  「ナカ・ノ・オホ・ヘイ」、NAKA-NO-OHO-HEI((Hawaii)naka=to crack open;no=of;oho=spring up,wake up,arise;hei=go towards,turn towards,be requited)、「(舒明天皇・皇極天皇とその次の天皇との間を)分けて(中に)・いる・(兄弟の先頭に立って)進んで・行く(皇子)」

の転訛と解します。

 

238B1長津(ながつ)宮

 天智即位前紀斉明天皇7年7月是月条は、斉明天皇の崩御の後、皇太子は長津(ながつ)宮(磐瀬行宮)に遷って即位の式を挙げないまま政務を執ったとします。(「長津宮」については古典篇(その十三)の237B5磐瀬(いはせ)行宮(長津(ながつ)宮)の項を参照してください。)

 

238B2近江大津(あふみのおほつ)宮

 天智紀6年3月条は、前月に母斉明天皇と間人皇女を237G小市岡上陵に合葬した後、都を飛鳥から近江(あふみ)に遷したとします。同10年11月および12月条は近江(あふみ)宮と記し、天武元年7月24日条は宮の別名またはその所在地を筱浪(ささなみ)と記します。持統紀6年閏5月条(および舒明紀2年正月条分注)には「近江大津(おほつ)宮御宇天皇」とみえます。

 この「ささなみ」は、

  「タタ・ナ・ミ」、TATA-NA-MI(tata=near of place,suddenly,stalk,fence;na=to indicate position near,belonging to,satisfied;mi=stream,river)、「水(琵琶湖)に・近い・場所に造営された(宮)」または「水(琵琶湖)を・垣根と・している(宮)」

の転訛と解します。(「あふみ」、「おほつ」については地名篇(その三)の滋賀県の(1)近江国および(3)大津の項を参照してください。)

 

238C1息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇

 父は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇(234舒明天皇)の項を参照してください。

 

238C2寶(たから)皇女

 母は234E1寶(たから)皇女(235皇極天皇・237斉明天皇)の項を参照してください。

 

238D1間人(はしひと)皇女から238D4蚊屋(かや)皇子まで

 兄弟姉妹は234F2間人(はしひと)皇女から234F5蚊屋(かや)皇子までの項を参照してください。

 

238E1倭(やまと)姫王

 天智紀7年2月条は、皇后を234F4古人(ふるひと)大兄皇子の女、倭(やまと)姫王とします。子はありません。

 この「やまと」は、

  「イア・マト」、IA-MATO(ia=indeed,current;mato=deep swamp,deep valley)、「実に・(父古人大兄皇子とともに吉野の)深い谷(に居た。姫)」

  または「イア・マタウ」、IA-MATAU(ia=indeed,current;matau=know,be acquainted with)、「実に・(何事にも)通暁している(姫)」(「マタウ」のAU音がO音に変化して「マト」となった)

の転訛と解します。

 

238E2遠智(をち)娘

 天智紀7年2月条は、四人の嬪の第一を236H1(235H7)蘇我石川麻呂大臣の女の遠智(をち)娘、或本は美濃津子(みのつこ)(236H9蘇我造媛(堅塩媛)と同人と見て、造(みやつこ)の表記の変化かとする説があります。)、また或本は茅渟(ちぬ)娘とし、238F1大田(おほた)皇女、238F2鵜野(うの)皇女および238F3建(たける)皇子の3人(或本は大田(おほた)皇女と娑羅羅(さらら)皇女の2人)を生んだとします。

 孝徳紀大化5年3月是月条は蘇我石川麻呂大臣が讒言のため殺されたことを悲しんだ皇太子妃の蘇我造媛(堅塩媛)がついに死去したと伝えます。

 この「をち」、「みのつこ」、「ちぬ」は、

  「オチ」、OTI(finished)、「(父の死を悲しんで)死亡した(媛)」

  「ミヒ・(ン)ガウ・ツコウ」、MIHI-NGAU-TUKOU(mihi=greet,admire,sigh for;ngau=bite,hurt,attack;tukou=dress timber with an adze)、「斧で木を削るように・襲われた(父が悲惨な死を遂げた)ことを・嘆いた(媛)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」と、「ツコウ」の語尾のU音が脱落して「ツコ」となった)

  「チ・ヌイ」、TI-NUI(ti=throw,cast,overcome;nui=large,many)、「(父の悲惨な死によって)手ひどく・衝撃を受けた(媛)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

の転訛と解します。(「造(みやつこ)」・「堅塩(きたし)」については古典篇(その十三)の236H9蘇我造媛の項を参照してください。)

 

238E3姪(めひ)娘

 天智紀7年2月条は、四人の嬪の第二を238E2遠智(をち)娘の妹の姪(めひ)娘、或本は櫻井(さくらゐ)娘とし、238F4御名部(みなべ)皇女と238F5阿陪(あへ)皇女の2人を生んだとします。

 この「めひ」は、

  「マイヒ」、MAIHI(uneasy in mind,anxiety)、「心配性の(媛)」(AI音がE音に変化して「メヒ」となった)

の転訛と解します。(「櫻井(さくらゐ)」については古典篇(その十二)の230F17櫻井弓張皇女の項を参照してください。)

 

238E4橘(たちばな)娘

 天智紀7年2月条は、四人の嬪の第三を236H1阿倍倉梯麻呂大臣の女の橘(たちばな)娘とし、238F6飛鳥(あすか)皇女と238F7新田部(にひたべ)皇女を生んだとします。

 この「たちばな」は、

  「タ・チパ・ナ」、TA-TIPA-NA(ta=the...of,dash,beat,lay;tipa=dried up,turn aside,a small body of men which advancees rapidly brfore the main force;na=to indicate position near,belonging to,satisfied)、「小柄で敏活に動き回る・ような(媛)」

の転訛と解します。

 

238E5常陸(ひたち)娘

 天智紀7年2月条は、四人の嬪の第四を237H8蘇我赤兄大臣の女の常陸(ひたち)娘とし、238F8山邊(やまのへ)皇女を生んだとします。

 この「ひたち」は、

  「ヒタ・チ」、HITA-TI(hita=move convulsively or spasmodically;ti=throw,cast,overcome)、「(父の流罪を知って)震えを・起こした(媛)」

の転訛と解します。

 

238E6色夫古(しこぶこ)娘

 天智紀7年2月条は、後宮の女官で天皇の子を生んだ者四人の第一を忍海造小龍(をたつ)の女の色夫古(しこぶこ)娘とし、238F9大江(おほえ)皇女、238F10川嶋(かはしま)皇子および238F11泉(いずみ)皇女を生んだとします。

 この「しこぶこ」、「をたつ」は、

  「チコ・プ・コ」、TIKO-PU-KO(tiko=stand out,protrude;pu=tribe,bunch,heap,skilled person,wise one;ko=addressing to males or females)、「ずば抜けた・賢明な・女性(女官)」

  「オ・タツ」、O-TATU(o=the...of,belonging to;tatu=reach the bottom,be content,strike one foot against the other,stumble)、「(娘が天皇の子を生んだと知って)安心・した(首長)」

の転訛と解します。

 

238E7黒媛(くろめ)娘

 天智紀7年2月条は、後宮の女官で天皇の子を生んだ者四人の第二を栗隈首徳萬(とこまろ)の女の黒媛(くろめ)娘とし、238F12水主(もひとり)皇女を生んだとします。

 この「くろめ」、「とこまろ」は、

  「ク・ロ・マイ」、KU-RO-MAI(ku=silent;ro=roto=inside;mai=to indicate direction or motion towards,clothing,dance)、「心底から・無口で・動き回る(女官)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「トコ・マロ」、TOKO-MARO(toko=pole,rod,propel with a pole,push or force to a distance;maro=a sort of kilt or apron worn by males and females)、「(嫌がる娘を)遠い国(大和朝廷)へ送った・礼装をした(首)」

の転訛と解します。

 

238E8越道君伊羅都売(いらつめ)

 天智紀7年2月条は、後宮の女官で天皇の子を生んだ者四人の第三を越道君伊羅都売(いらつめ)とし、238F13施基(しき)皇子を生んだとします。

 この「いらつめ」は、

  「イラ・ツ・マイ」、IRA-TU-MAI(ira=freckle,mole,shine,life principle;tu=stand,settle;mai=to indicate direction or motion towards,clothing,dance)、「信念を・持っている・動き回る(女官)」

の転訛と解します。

 

238E9伊賀采女宅子(やかこ)娘

天智紀7年2月条は、後宮の女官で天皇の子を生んだ者四人の第四を伊賀采女宅子(やかこ)娘とし、238F14伊賀(いが)皇子、後の名大友(おほとも)皇子を生んだとします。

 この「やかこ」は、

  「イア・カ・コ」、IA-KA-KO(ia=indeed,current;ka=take fire,be lighted,burn;ko=addressing to males or females)、「実に・燃えているような(情熱的な)・女性(女官)」

の転訛と解します。

 

238F1大田(おほた)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E2遠智(をち)娘の第1子(或本は第2子)、大田(おほた)皇女とします。

 大海人皇子の妃となり、斉明紀7年正月条に斉明天皇の乗つた船が大伯(おほく)海に到つたときに皇女を出産したので大伯(おほく)皇女と名付けたとあり、翌々年娜大津で大津(おほつ)皇子を生みます。

 この「おほた」は、

  「オホ・タ」、OHO-TA(oho=spring up,wake up,arise;ta=dash,beat,lay)、「すっくと・立っている(皇女)」

の転訛と解します。

 

238F2鵜野(うの)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E2遠智(をち)娘の第2子(或本は第3子)、鵜野(うの)皇女とします。或本は名を娑羅羅(さらら)皇女とします。また、持統称制前紀は幼名を鵜野讃良(うののさらら)皇女とします。

 240天武天皇の皇后となり、240F1草壁皇子を生み、天武天皇の崩御後241持統天皇となります。

 この「うの」、「さらら」は、

  「ウ・(ン)ガウ」、U-NGAU(u=breast of a female;ngau=bite,hurt,attack)、「乳房(胸)が・(囓られて)無い(皇女)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「タ・ララ」、TA-RARA(ta=the...of,dash,beat,lay;rara=twig,rib,scorch)、「小枝の・ような(痩せている。または肋骨が見えている。皇女)」または「日焼け・している(皇女)」

の転訛と解します。

 

238F3建(たける)皇子

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E2遠智(をち)娘の第3子(或本は第1子)、建(たける)皇子とします。唖で、斉明紀4年5月条は皇子が8歳で没したのを天皇が悲しんで将来合葬するよう命じたとあります。

 この「たける」は、

  「タケ・ル」、TAKE-RU(take=absent oneself,crooked;ru=shake,agitate,scatter)、「無心に・走り回る(皇子)」

の転訛と解します。

 

238F4御名部(みなべ)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E3姪(めひ)娘の第1子、御名部(みなべ)皇女とします。240F13高市皇子の妃とされ、続紀慶雲元年に百戸増封の記事がみえます。

 この「みなべ」は、

  「ミナ・パイ」、MINA-PAI(mina=desire,feel inclination for;pai=good,excellent,good-looking,prosperity)、「繁栄(財産)を・望んだ(皇女)」(「パイ」のAI音がE音に変化して「ペ」から「ベ」となった)

の転訛と解します。

 

238F5阿陪(あへ)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E3姪(めひ)娘の第2子、阿陪(あへ)皇女とします。

 240F1草壁皇子の妃となり、軽(珂瑠。かる)皇子(242文武天皇)を生み、文武天皇の崩御後243元明天皇となります。

 この「あへ」は、

  「アヘイ」、AHEI(able,possible within one's power)、「(何でもできる)能力がある(皇女)」(語尾のI音が脱落して「アヘ」となった)

の転訛と解します。

 

238F6飛鳥(あすか)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E4橘(たちばな)娘の第1子、飛鳥(あすか)皇女とします。

 この「あすか」は、

  「ア・ツカ」、A-TUKA(a=the...of,belonging to;tuka,tukatuka=start up,proceed forwards)、「ひたすら・出歩く(またはでしゃばる。皇女)」

の転訛と解します。(地名の「飛鳥(あすか)」については地名篇(その五)の奈良県の(47)飛鳥の項を参照してください。)

 

238F7新田部(にひたべ)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E4橘(たちばな)娘の第2子、新田部(にひたべ)皇女とします。

 天武天皇の妃となります。

 この「にひたべ」は、

  「ニヒ・タパエ」、NIHI-TAPAE(nihi=steep,move stealthly,surprise;tapae=stack,present,invest,ambuscade)、「ひそかに・先回りして心配りをする(皇女)」(「タパエ」のAE音がE音に変化して「タペ」から「タベ」となった)

の転訛と解します。

 

238F8山邊(やまのへ)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E5常陸(ひたち)娘の子、山邊(やまのへ)皇女とします。

 240F3大津皇子の妃となり、持統紀朱鳥元年10月条は謀反の罪で皇子が死んだ後殉死したと伝えます。

 この「やまのへ」は、

  「イア・マ・ノペ」、IA-MA-NOPE(ia=indeed,current;ma=white,clear;nope=constricted)、「実に・清らかな・(夫の横死を聞いて死ぬほど心を)締め付けられた(殉死した。皇女)」(「ノペ」のP音がF音を経てH音に変化して「ノヘ」となった)

の転訛と解します。

 

238F9大江(おほえ)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E6色夫古(しこぶこ)娘の第1子、大江(おほえ)皇女とします。

 240天武天皇の妃となります。

 この「おほえ」は、

  「オ・ホヘ」、O-HOHE(o=the...of,belonging to;hohe=active,strong)、「実に・活動的な(皇女)」(「ホヘ」の2番目のH音が脱落して「ホエ」となった)

の転訛と解します。

 

238F10川嶋(かはしま)皇子

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E6色夫古(しこぶこ)娘の第2子、川嶋(かはしま)皇子とします。

 天武天皇の皇子の240F3大津(おほつ)皇子と親交を結び(『懐風藻』)、天武天皇の皇女の240F16泊瀬部(はつせべ)皇女を妃とし(『万葉集』194、195左注)、天武8年には吉野での諸皇子の会盟に天智天皇の皇子としてただ一人参加し、同10年には詔により240F14忍壁皇子等とともに帝紀および上古諸事の記定にあたったとされます。『懐風藻』の伝によれば温和で包容力があり、大津皇子と莫逆の交を結んだにもかかわらず、朱鳥元年大津皇子の謀逆を密告したため、朝廷はその忠誠を嘉みしましたが、朋友はその才情を薄しとしたとします。持統5年9月浄大参位で没しました。

 この「かはしま」は、

  「カウアチ・マ」、KAUATI-MA(kauati=chief,man of important;ma=white,clear)、「清らかな・首長(皇子)」

  または「カワ・チマ」、KAWA-TIMA(kawa=unpleasant to the taste,bitter,heap,reef of rocks,channel;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「苦い思いで・掘り棒で掘った(密告することによって親交があった大津皇子の墓穴を掘った。皇子)」

の転訛と解します。

 

238F11泉(いづみ)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E6色夫古(しこぶこ)娘の第3子、泉(いづみ)皇女とします。

 大宝元年2月に斎王に卜定、慶雲3年閏正月伊勢大神宮に下向し、天平6年2月に死去しています。

 この「いづみ」は、

  「イツ・ミ」、ITU-MI(itu=side;mi=stream,river)、「川(五十鈴川)の・ほとり(に居る。皇女。斎宮)」または「イツ・ミヒ」、ITU-MIHI(itu=side;mihi=greet,admire)、「尊崇すべき(神。伊勢大神)の・そば(に仕える。皇女。斎宮)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

238F12水主(もひとり)皇女

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E7黒媛(くろめ)娘の子、水主(もひとり)皇女とします。その所有する経典類は東大寺に寄託されて写経のためしばしば諸方に貸し出され、その目録も作成されていました(神護慶雲2年10月9日造東大寺司牒)。

 この「もひとり」は、

  「モヒト・リ」、MOHITO-RI(mohito=cautious;ri=screen,protect,bind)、「注意深く・保護された(皇女)」または「(経典類を)注意深く・保管していた(皇女)」

の転訛と解します。

 

238F13施基(しき)皇子

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E8越道君伊羅都売(いらつめ)の子、施基(志貴。しき)皇子とします。

 249光仁天皇(白壁王)、湯原親王、榎井親王等の父で、光仁天皇の即位に伴い宝亀元年11月に春日宮天皇と追尊(田原天皇とも呼ばれます)されています。『延喜式』は陵を「田原西陵、春日宮御宇天皇、在大和国添上郡」とします。

 この「しき」は、

  「チキ」、TIKI(unsuccessful,unsuccessful man)、「不幸な(天皇になれなかった。皇子)」

の転訛と解します。

 

238F14伊賀(いが)皇子(大友(おほとも)皇子)

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E9伊賀采女宅子(やかこ)娘の子、伊賀(いが)皇子とします。後に大友(おほとも)皇子と呼ばれます。

 紀は天智10年正月に皇子は太政大臣となり、同年10月17日に大海人皇子は出家して吉野へ去ってからは近江朝廷を主宰し、同年12月3日天皇が崩御、翌年6月壬申の乱が勃発、近江朝廷軍が敗れて7月23日に皇子は自殺したと伝えます。

 紀は皇子の即位を認めていませんが、『水鏡』、『扶桑略記』等は天智天皇崩御の2日後に即位したとし、徳川光圀も『大日本史』で淡海廃帝として帝紀に加えており、明治3年に「弘文天皇」と追号されました。

 この「いが」、「おほとも」は、

  「イ・(ン)ガ」、I-NGA(i=past tense,beside;nga=satisfied,breathe)、「(太政大臣となって)満足して・いた(皇子)」

  「オホ・トモ」、OHO-TOMO(oho=spring up,wake up,arise;tomo=be filled,enter,begin,assault,take by assault)、「(大海人皇子軍の)襲撃を受けて・びっくりして飛び上がった(皇子)」

の転訛と解します。

 

238G山科(やましな)陵

 紀は陵を記しません。万葉集(155)によれば当初から山科(やましな)御陵が定められていたと解する説があり、天武元年5月是月条は山陵造営のための人夫の徴発が見えますが、これが契機となって壬申の乱が勃発して造営は中断したものと思われ、続紀文武3年10月条に越智山陵(235G小市岡上陵)および山科山陵(238G山科(やましな)陵)の造営の命令と修造の官の任命がみえます。

 『延喜式』は「山科陵」とし、所在地を山城国宇治郡とします。『陵墓要覧』は所在地を京都市東山区山科御陵上御廟野町とします。下方部の一辺約70メートル、上円部の直径約40メートルの上円下方墳です。

 この「やましな」は、

  「イア・マ・チナ」、IA-MA-TINA(ia=indeed,current;ma=white,clear;tina=fixed,firm,satisfied)、「実に・清らかで・ゆったりとした(のんびりとした。地域。そこに造営された陵)」または「イ・アマ・チナ」、I-AMA-TINA(i=past tense,beside;ama=outrigger of a canoe;tina=fixed,firm,satisfied)、「(京都盆地の)脇に・カヌーの舷側の浮子(アウトリガー)のように・置かれている(細長い盆地。そこに造営された陵)」

の転訛と解します。

 

238H1河邊百枝(ももえ)臣・阿倍引田比邏夫(ひらぶ)臣・物部連熊(くま)

 天智即位前紀斉明天皇7年8月条は、斉明天皇の崩御の翌月、百済救援の前軍の将軍として235H2阿曇比邏夫(ひらぶ)連、河邊百枝(ももえ)臣等を、後軍の将軍として阿倍引田比邏夫(ひらぶ)臣、物部連熊(くま)、237H8守君大石(おほいは)等を派遣したとします。

 この「ももえ」、「くま」は、

  「モモヘ」、MOMOHE(flacid,gentle of the eyes)、「優しい目をした(臣)」(H音が脱落して「モモエ」となった)

  「ク・ウマ(ン)ガ」、KU-UMANGA(ku=silent;umanga=pursuit,business,an incantation for the destruction of the enemy)、「静かに・責務を果たす(連)」または「静かに・敵を打倒する呪文を唱える(連)」(「ク」のU音と「ウマ(ン)ガ」のNGA音が脱落して「ウマ」となったその語頭のU音が連結して「クマ」となった)

の転訛と解します。(「阿倍引田比邏夫(ひらぶ)臣」の「比邏夫(ひらぶ)」については古典篇(その十三)の235H2阿曇山背連比邏夫(ひらぶ)の項を参照してください。)

 

238H2狭井連檳榔(あぢまさ)・秦造田来津(たくつ)

 天智即位前紀斉明天皇7年9月条は、百済の世子豊璋(ほうしょう)に織冠を授け、多臣蒋敷(こもしき)の妹を妻に与え、狭井連檳榔(あぢまさ)と秦造田来津(たくつ)を遣し、兵5千人を副えて本国に送ったとします。

 なお秦造田来津は、天智紀元年12月条に百済王豊璋の遷都に反対する正論を唱えた朴市(えち)田来津(たくつ)として、また天智紀2年8月条に白村江で最後まで奮戦した勇士として記録されています。(「秦造田来津(たくつ)」については後出238H4朴市田来津(えちのたくつ)の項および古典篇(その十三)の236H4朴市(えち)秦造田来津(たくつ)の項を参照してください。)

 この「こもしき」、「あぢまさ」は、

  「コモ・チキ」、KOMO-TIKI(komo=thrust in,insert;tiki=unsuccessful,unsuccessful man)、「(妹を)不幸・へと追いやった(臣)」

  「アチ・マタ」、ATI-MATA(ati=descendant,clan,beginning;mata=face,eye,edge,raw,medium of communication with a spirit,spell)、「眼の・部族に属する(眼が大きい。連)」または「(神霊と交流する)御巫(かんなぎ)の・部族に属する(連)」

の転訛と解します。(植物名の「檳榔(あぢまさ。びんろう)」は、「ア・チマ・タ」、A-TIMA-TA(a=the...of,belonging to;tima=a wooden instrument for cultivating the soil;ta=dash,beat,lay)、「(掘り棒で周囲を掘ったような)島に・(海流に乗って種子が漂着するため)生えている・(ことが多い)植物」の転訛と解します。)

 

238H3上毛野君稚子(わかこ)・間人連大蓋(おほふた)・巨勢神前臣譯語(をさ)・三輪君根(ね)麻呂・大宅臣鎌柄(かまつか)

 天智紀2年3月条は、前軍の将軍として上毛野君稚子(わかこ)、間人連大蓋(おほふた)を、中軍の将軍として巨勢神前臣譯語(をさ)、三輪君根(ね)麻呂を、後軍の将軍として238H1阿倍引田臣比邏夫(ひらぶ)、大宅臣鎌柄(かまつか)を任命し、2萬7千人の軍をもって新羅を攻撃させたとします。

 この「わかこ」、「おほふた」、「かまつか」は、

  「ウアカハ・コ」、UAKAHA-KO(uakaha=vigorous,difficult;ko=addressing to males and females)、「元気が良い・男子(君)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

  「オホ・プタ」、OHO-PUTA(oho=spring up,wake up,arise;puta=opening,hole,move from one place to another,escape)、「すっくと立って・あちこちと転戦した(連)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」となった)

  「カマ・ツカ」、KAMA-TUKA(kama=eager;tuka,tukatuka=start up,proceed forward)、「ひたすら・前進する(臣)」

の転訛と解します。(「巨勢神前臣譯語(をさ)」については古典篇(その十二)の230H4吉士譯語彦(をさひこ)の項を、「三輪君根(ね)麻呂」については古典篇(その十三)の236H14高田首根(ね)麻呂の項を参照してください。)

 

238H4廬原(いほはら)君臣(おみ)・朴市田来津(えちのたくつ)・白村江(はくすきのえ)

 天智紀2年8月条は、百済王が「日本の救援軍の将軍廬原(いほはら)君臣(おみ)が1萬余の健児を率いて海を越えてやってくるとの知らせが入ったので、私は城を出て白村に出迎えることとする」といったとあり、その後新羅軍は州柔城を包囲し、唐の水軍は戦船百七十隻を白村江に連ねてそれに数倍する日本の水軍を待ち受け、同月27日、28日の両日の戦いで日本軍は大敗しました(『三国史記』新羅紀文武王11年条は「倭国船兵、来助百済、倭船千艘」と、『旧唐書』劉仁軌伝は「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其船四百艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」とします)。このとき朴市(えち)田来津(たくつ)は最後まで奮戦して戦死し、百済王は数人と船で高麗へ逃げたと伝えます。
 この戦場を『旧唐書』は「白江之口」と、『三国史記』は「伎伐浦」、「白沙」とし、『日本書紀』は「白村江(はくすきのえ)」としています。

 この「いほはら」、「おみ」、「えちのたくつ」、「はくすきのえ」は、

  「イホ・ハラ」、IHO-HARA(iho=heart,that wherein consists the strength of a thing as of an army,lock of hair,up above,downwards;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place)、「(白村江の敗戦で多くの)軍勢を・墓に埋めた(海の藻屑とした。君)」

  「オミ」、OMI((Hawaii)to wither,droop)、「(大敗を喫して)しょげかえった」

  「エチ・ノ・タク・ツ」、ETI-NO-TAKU-TU(eti=shrink,recoil(etieti=disgusting);no=of;taku=slow,edge,threaten behind one's back;tu=fight with,energetic)、「(味方のふがいなさに)怒り狂っ・た(または遂に亡くなった)・人に遅れて(戦う人がいなくなっても一人だけ残って)・奮戦した(造)」

 「ハク・ツキ・ノ・アエ」、HAKU-TUKI-NO-AE(haku=complain of ,find fault with;tuki=pound,beat,attack;no=of;ae=calm)、「不満が残る(失敗だった)・攻撃をおこなった・その・(静かな船の)停泊場所」(「アエ」のAE音がE音に変化して「エ」となった)

の転訛と解します。

 

238H5守君大石(おほいは)・坂合部連石積(いはつみ)・吉士岐彌(きみ)・吉士針間(はりま)

 天智紀4年是歳条は、237H8守君大石(おほいは)等を唐に派遣したとし、同条分注は「等」とは坂合部連石積(いはつみ)、吉士岐彌(きみ)および吉士針間(はりま)をいい、おそらく唐の使を送ったものとします。

 この記事については、同年(665年)9月に唐の劉徳高等が来日し、同年12月に帰国しており、『旧唐書』などからするとこの一行は唐の高宗の泰山での封禅の儀(666年正月)に参列するためのものであった可能性が指摘されています。

 なお、坂合部連石積は、天武紀11年3月条に「境部連石積等に命(みことのり)して更に肇(はじ)めて新字(にひな)一部四十四巻を造らしむ」とあり、当時進められていた律令の編纂、帝紀、上古諸事等の記定の前提として、漢字の古字と新字の相違対照、訓詁、音義などを説く一種の辞書を編纂したものとする説があります。

 この「おほいは」、「いはつみ」、「きみ」、「はりま」は、

  「オホ・イ・ワ」、OHO-I-WA(oho=spring up,wake up,arise;i=past tense,beside;wa=definite space,area)、「(唐の高宗の泰山での封禅の儀の)式場の・傍らに・すっくと立っていた(君)」(参考までに237H8守君大石(おほいは)の項を再掲しました。)

  「イ・ワツ・ミイ」、I-WHATU-MII(i=past tense,beside;whatu=stone,weave garment or basket etc.;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「営々と・(唐の文物について)勉学に・努めた(連)」

  「キミ」、KIMI(seek,look for)、「(唐の文物について)研究に努めた(吉士)」

  「ハリ・マ」、HARI-MA(hari=dance,song,joy;ma=white,clear)、「快活で・色白の(吉士)」

の転訛と解します。

 

238H6笠臣諸石(もろいは)

 天智紀6年11月条は、熊津都督府の司馬法聡等が238H5坂合部連石積(いはつみ)(237H8守君大石(おほいは)は途中で死亡したものかとされます)を筑紫都督府に送ってきたので、237H9伊吉連博徳(はかとこ)と笠臣諸石(もろいは)を送使として法聡等を送ったとします。

 この「もろいは」は、

  「モロ・イ・ワ」、MOLO-I-WHA((Hawaii)molo=to turn,twist,to interweave;i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad)、「海外へ・出て・帰った(臣)」

の転訛と解します。

 

238H7道守君麻呂(まろ)・吉士小鮪(をしび)

 天智紀7年11月条は、道守君麻呂(まろ)と吉士小鮪(をしび)を新羅に派遣したとします。

 この「をしび」は、

  「オ・チピ」、O-TIPI(o=the...of,belonging to;tipi=pare,go quickly or smoothly)、「敏捷に・行動する(吉士)」

の転訛と解します。(「道守君麻呂(まろ)」の「麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀(まろ)子皇子の項を参照してください。)

 

238H8藤原(ふぢはら)氏

 天智紀8年10月条は、15日に内大臣235H7中臣鎌足に大織冠と大臣の位を授け、藤原(ふぢはら)氏の姓を賜り、内大臣は16日に56歳で死去したとします。

 この「ふぢはら」は、

  「フチ・パラ」、HUTI-PARA(huti=hoist,pull up,fish with a line;para=bravery,spirit,blood,relative,a form of address by a child to its father)、「高い地位にある・(強い)親父(である鎌足を始祖とする氏族)」(「パラ」のH音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

の転訛と解します。

 

238H9河内直鯨(くぢら)

 天智紀8年是歳条は、河内直鯨(くぢら)を(白村江の戦い以来中断していた国交再開のために)唐に派遣したとします。

 この「くぢら」は、

  「クフ・チラ」、KUHU-TIRA(kuhu=thrust in,insert,conceal,join a company;tira=file of men,fin of fish,rays,mast of a canoe)、「(唐と国交を再開することによって)光を・照射した(明るい見通しを得た。連)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)(なお、古典篇(その十三)の234H1大伴鯨連の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

238H10中臣金(かね)連

 天智紀9年3月条は大津の三井寺の泉のほとりに(天下安穏を祈って)諸神を下ろし、御幣を立て、中臣金(かね)連が祝詞を奏上したとします。

 この「かね」は、

  「カネヘ」、KANEHE(trifle,desire,affection,regretful,yearning)、「(神に願いをした)祈った(連)」(H音が脱落して「カネ」となった)

の転訛と解します。

 

238H11巨勢人(ひと)臣・蘇我果安(はたやす)臣・紀大人(うし)臣

 天智紀10年正月条は、2日に237H8蘇我赤兄(あかえ)臣と巨勢人(ひと)臣が殿前で新年の拝賀の詞を述べ、5日に238H10中臣金(かね)連が神を祀る祝詞を奏上し、この日に238F14大友(おほとも)皇子を太政大臣に任じ、蘇我赤兄臣を左大臣に、中臣金連を右大臣に、蘇我果安(はたやす)臣、巨勢人臣および紀大人(うし)臣を御史大夫としたとします。

 この「ひと」、「はたやす」、「うし」は、

  「ピト」、PITO(end,extremity,at fiest)、「(部族の中で)第一の(人物。臣)」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「パタイ・アツ」、PATAI-ATU(patai=question,provoke,challenge,induce,trifling;atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action)、「前向きに(積極的に)・挑戦する(努力する。臣)」または「今後(の作戦)について・(激論し)腹を立てた(そして240H8山部王を殺した。臣)」(「パタイ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハタイ」となり、その語尾のI音が「アツ」の語頭のA音と連結して「ハタヤツ」から「ハタヤス」となった)

  「ウ・チヒ」、U-TIHI(u=be firm,be fixed,reach its limit;tihi=summit,top,lie in a heap)、「(部族の)最高の地位に・上りつめた(臣)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

の転訛と解します。

 

238H12黄書造本實(ほんじち)

 天智紀10年3月条は、黄書造本實(ほんじち)が水ばかり(土木・建築用の水準器)を献上したとします。

 この「ほんじち」は、

  「ホノ・チチ」、HONO-TITI(hono=be on the point of,proceed to do,go on;titi=peg,stick in pegs)、「棒を・要所要所に立てる(測量する。造)」

の転訛と解します。

238H13次田生磐(すきたのおひは)

 天智紀10年10月条は、天皇が病が重くなったので皇太子の234F3大海人皇子を呼び、汝に後の事を委ねると言ったところ、皇子は辞退して、「皇后に譲位し238F14大友皇子に政務を執らせなさい、私は出家します」といい、直に剃髪して僧形となり、天皇は次田生磐(すきたのおひは)に命じて袈裟を贈り、皇子は吉野へ引きこもったとします。

 この「すきたのおひは」は、

  「ツキ・タ・ノ・オヒ・ハ」、TUKI-TA-NO-OHI-HA(tuki=beat,attack,central passage for water in an eel weir;ta=dash,beat,lay;no=of;ohi=grow,be vigorous;ha=breath,breathe,what!)、「(大海人皇子に袈裟を贈ることによって皇子を鰻を筌(うけ)へ誘導する)導水路に・乗せ・たように(一気に出家をさせ)・息をつかせて・元気にさせた(男子)」

の転訛と解します。

 

238H14法師道久(どうく)・筑紫君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝娑婆(さば)・布師首磐(いは)

 天智紀10年11月条は、対馬国司から使いがあり、法師道久(どうく)、筑紫君薩野馬(さちやま)、韓嶋勝娑婆(さば)および布師首磐(いは)の4人が唐からやってきて、唐の使者郭務綜をはじめ総勢2千人が船47隻に乗ってきたが、そのまま日本の港を目指すと騒ぎになるので、あらかじめ来朝の趣旨を明らかにするために4人が対馬に上陸したとします。

 この船団は、白村江など百済救援の戦いで捕虜となった者を送還するためのもので、上記の4人はその捕虜の代表であり、天武紀元年5月条の唐使郭務綜に対して下賜した物品(すべて細かい端数がついています)はその身代金であったとする説があります。(筑紫君薩野馬については、241H5大伴部博麻(はかま)の項を参照してください。)

 この「どうく」、「さちやま」、「さば」、「いは」は、

  「ト・ウク」、TO-UKU(to=drag;uku=ally,supporting tribe)、「(捕虜を)引率して来るのを・援助した(法師)」

  「タ・チ・イア・マハ」、TA-TI-IA-MAHA(ta=the...of,dash,beat,lay;ti=throw,cast,overcome;ia=indeed,current;maha=abundant,many)、「実に・多数の(兵士を)・(白村江の戦いで)打ち倒され・置き去りにした(君)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「タパ」、TAPA(edge,cut,call,name,command,recite charms)、「(安全の)祈願をした(首長)」

  「イ・ワ」、I-WHA(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad)、「海外へ出て・行った(首)」

の転訛と解します。

 

 

[239弘文天皇]

 

239A弘文天皇(漢風諡号)

 天皇は、238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智天皇)と238E9伊賀采女宅子(やかこ)娘の第2子、238F14伊賀(いが)皇子、亦の名大友(おほとも)皇子です。日本最古の漢詩集『懐風藻(かいふうそう)』(天平勝宝3(751)年)によれば風貌たくましく頭脳明晰で、文武にすぐれ、23歳で立太子、25歳で壬申の乱により没したとされます。

 紀は天智10年正月に皇子は太政大臣となり、同年10月17日に大海人皇子は出家して吉野へ去ってからは近江朝廷を主宰し、同年12月3日天皇が崩御、翌年6月壬申の乱が勃発、近江朝廷軍が敗れて7月23日に皇子は自殺したと伝えます。

 紀は弘文天皇の即位を認めていませんが、『水鏡』、『扶桑略記』等は天智天皇崩御の2日後に即位したとし、徳川光圀も『大日本史』で淡海廃帝として帝紀に加えており、明治3年に追号されました。

 天皇の国風諡号は伝えられておらず、漢風諡号の「弘文」は森鴎外『帝謚考』によればその典拠を記した神祇官取調書が紛失したため不明ですが、『懐風藻(かいふうそう)』所収の皇子二首序中の「風範弘深」、「文藻日新」から採ったものかとされます。

 この「いが」、「おほとも」は、

  「イ・(ン)ガ」、I-NGA(i=past tense,beside;nga=satisfied,breathe)、「(太政大臣となって)満足して・いた(皇子)」

  「オホ・トモ」、OHO-TOMO(oho=spring up,wake up,arise;tomo=be filled,enter,begin,assault,take by assault)、「(大海人皇子軍の)襲撃を受けて・びっくりして跳び上がった(皇子)」

の転訛と解します。(上の解釈は238F14伊賀皇子の項の解釈を再掲しました。)

 

239B近江大津(おほつ)宮

 238B2近江大津(おほつ)宮の項を参照してください。

 

239C1天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇

 父は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇の項を参照してください。

 

239C2伊賀采女宅子(やかこ)娘

 母は238E9伊賀采女宅子(やかこ)娘の項を参照してください。

 

239E十市(とをち)皇女

 紀は妃を240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇(240天武天皇)と240E8額田(ぬかた)姫王の子の240F12十市(とをち)皇女とし、238F14伊賀(いが)皇子(大友(おほとも)皇子。239A弘文天皇)との間に239F葛野(かどの)王を生みます。

 皇女は、『扶桑略記』、『宇治拾遺物語』などによれば、壬申の乱の際、父方に従った(鮒の腹に夫方の情報を入れて父に送っていた)とされます。天武4年2月阿閉皇女とともに伊勢に参り、同7年4月宮中で急死し、大和国赤穂に葬られました。

 この「とをち」は、

  「ト・オチ」、TO-OTI(to=drag;oti=finished,gone or come for good)、「(夫の死後父の元へ)引き取られて・仕合わせだった(皇女)」

の転訛と解します。

 

239F葛野(かどの)王

 王は239弘文天皇(238F14大友(おほとも)皇子)と239E十市(とをち)皇女の長子です。

 『懐風藻』によれば幼くして学を好み、天武14年に天武天皇の嫡孫と同様皇族最下位の浄大肆を授けられ、治部卿に任ぜられ、持統10年7月に太政大臣240F13高市皇子が薨去した後、宮中で皇太子を定めるための会議が開かれ、群臣から多くの意見が出て紛糾したとき、王が「我が国は神代以来子孫が皇位を継承してきた。もし兄弟が皇位を継承すれば乱が起こるだろう。後継者は当然決まっている。」と発言し、240F5弓削皇子が発言しようとしたのを叱りつけて止めさせ、翌年2月240F1草壁皇子の子の241H8軽皇子が立太子、8月に242文武天皇として即位しました。持統天皇は王の功績を賞して正四位、式部卿に任じましたが、時に37歳だったとします。慶雲2年12月に没しています。

 この「かどの」は、

  「カト・(ン)ガウ」、KATO-NGAU(kato=pluck,break off;ngau=bite,hurt,attack)、「(弓削皇子が発言しようとしたのに)噛みついて・中止させた(皇子)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

239G長等(ながら)山前陵

 陵は紀、『延喜式』ともに記載がありません。『陵墓要覧』は長等(ながら)山前(やまさき)陵とし、所在地を滋賀県大津市御陵町とします。通称平松亀丘古墳(円墳)です。

 この「ながら」は、

  「(ン)ガ(ン)ガラ」、NGANGARA(anything small)、「小さい(山)」(最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に変化して「ナガラ」となった)

の転訛と解します。

 
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[240天武天皇]

 

240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇

 紀は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇と234E1寶(たから)皇女の第3子の234F3大海(おほしあま)皇子(天武天皇即位前紀は大海人(おほしあま。おほあま)皇子)とします。生誕年は不明ですが、天智天皇より5歳年少とする説があります。

 皇子は、生来恵まれた素質を持ち、武徳にすぐれ、天文・占星の術をよくしたとされます。天智7年に天智天皇が正式に即位すると皇太子となって皇太弟と呼ばれますが、10年正月に大友皇子が太政大臣となり、同年10月17日に皇子は出家して吉野へ去り、同年12月3日天皇が崩御、翌年6月壬申の乱が勃発、吉野方が勝利して7月23日に大友皇子(弘文天皇)は自殺したと伝えます。

 皇子は、都を大和へ帰し、翌年即位して239天武天皇となります。天皇は太政大臣や左右大臣を置かず、天皇に権力を集中し、律令体制を推進しました。その治世の間に部曲・山林原野の収公、飛鳥浄御原令の編纂、八色の姓の制定、兵制の整備、官吏の登用・昇進の制、位階制の整備などを精力的に行ない、治世15年で没しました。

 この国風諡号の「ぬな」は「ぬ(瓊)・な(助詞の)」で「ぬなはら」は「瓊を産出する原」の意、「おき」は「沖」の意、「まひと」は「道教の悟りを開いた神仙」の意かとされます。

 この「あまのぬなはらおきのまひと」、「おほしあま」、「おほあま」は、

  「ア・マハ・ノ・ヌナ・ハラ・オキ・ノ・マ・ピト」、A-MAHA-NO-NUNA-HARA-OKI-NO-MA-PITO(a=the...of,belonging to;maha,mahamaha=liver,seat of affection;no=of;(Hawaii)nuna=luna=high,above,foreman,boss,leader;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place;(Hawaii)oki=to stop,finish,extraordinary,wondrous,to cut,divid;ma=white,clear;pito=end,extremity,at first)、「肝がすわって・いる・指導者で・(皇位を巡る争いで死者を)墓(に埋葬すること)は・終わりにした・清らかなことは・第一の(天皇)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「オホ・チ・ア・マハ」、OHO-TI-A-MAHA(oho=spring up,wake up,arise;ti=throw,cast,overcome;a=the...of,belonging to;maha,mahamaha=liver,seat of affection)、「すっくと立ち・はだかっている・肝がすわって・いる(皇子)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「オホ・ア・マハ」、OHO-A-MAHA(oho=spring up,wake up,arise;a=the...of,belonging to;maha,mahamaha=liver,seat of affection)、「すっくと立っている・肝がすわって・いる(皇子)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

240B1不破(ふは)宮(野上(のがみ)行宮)・嶋(しま)宮・岡本(をかもと)宮

 天智紀元年6月27日条は、天皇は不破(ふは)に入り、野上(のがみ)に行宮を置いたとし、同29日条はこれを不破(ふは)宮と称しています。

 同年9月条は、天皇は伊勢、伊賀を経由して12日に倭京の嶋(しま)宮(蘇我馬子(嶋大臣)の邸跡に造られた宮とされます)に入り、15日に岡本(をかもと)宮に移ったとします。

 「不破(ふは)宮」については地名篇(その十七)の岐阜県の(4)不破郡の項を、「野上(のがみ)行宮」については同県の(4)のb野上宿の項を、「嶋(しま)宮」については古典篇(その十二)の233H22嶋大臣の項を、「岡本(をかもと)宮」については古典篇(その十三)の234B1岡本宮の項を参照してください。

 

240B2飛鳥浄御原(きよみはら)宮

 天武紀元年是歳条は、岡本宮の南に宮を造営して冬に遷ったとします。朱鳥元年7月に改元して飛鳥浄御原(きよみはら)宮と称したとします。

 この「きよみはら」は、

  「キオ・ミヒ・パラ」、KIO-MIHI-PARA((Hawaii)kio=projection,protuberance;mihi=greet,admire;para=bravery,spirit,blood,relative,a form of address by a child to its father)、「傑出した・尊敬すべき・(強い)親父(である天武天皇の住む宮)」(「キオ」が「キヨ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「パラ」のH音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

の転訛と解します。

 

240B3吉野(よしの)宮

 天武紀8年5月条は、天皇が吉野(よしの)宮に行幸して皇后と草壁皇子、大津皇子、高市皇子等6人の皇子に団結の誓いを立てさせたとします。

 この「吉野(よしの)宮」については古典篇(その八)の215B2吉野(よしの)宮の項を参照してください。

 

240C1息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇

 父は234A息長足日廣額(おきながたらしひひろぬか)天皇(234舒明天皇)の項を参照してください。

 

240C2寶(たから)皇女

 母は234E1寶(たから)皇女(235皇極天皇。重祚して237斉明天皇)の項を参照してください。

 

240D1葛城(かづらき)皇子から240D4蚊屋(かや)皇子まで

 兄弟姉妹は234F1葛城(かづらき)皇子(238天智天皇)から234F5蚊屋(かや)皇子までの項を参照してください。

 

240E1菟野(うの)皇女

 紀は皇后を238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E2遠智(をち)娘の第2子(或本は第3子)、238F2鵜野(うの)皇女とします。或本は名を娑羅羅(さらら)皇女とします。また、持統称制前紀は幼名を鵜野讃良(うののさらら)皇女とします。

 240天武天皇の皇后となり、240F1草壁(くさかべ)皇子尊を生み、天武天皇の崩御後241持統天皇となり、草壁皇子尊の薨去後その子の241H8軽皇子に譲位します。

 この「うの」、「さらら」は、

  「ウ・(ン)ガウ」、U-NGAU(u=breast of a female;ngau=bite,hurt,attack)、「乳房(胸)が・(囓られて)無い(皇女)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「タ・ララ」、TA-RARA(ta=the...of,dash,beat,lay;rara=twig,rib,scorch)、「小枝の・ような(痩せている。または肋骨が見えている。皇女)」または「日焼け・している(皇女)」

の転訛と解します。

 

240E2大田(おほた)皇女

 紀は妃の第一を240E1菟野(うの)皇女の同母姉、238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E2遠智(をち)娘の第1子(或本は第2子)、238F1大田(おほた)皇女とします。

 大海人皇子の妃となり、斉明紀7年正月条に斉明天皇の乗つた船が大伯(おほく)海に到つたときに皇女を出産したので大伯(おほく)皇女(240F2大来(おほく)皇女)と名付けたとあり、翌々年娜大津で240F3大津(おほつ)皇子を生みます。

 この「おほた」は、

  「オホ・タ」、OHO-TA(oho=spring up,wake up,arise;ta=dash,beat,lay)、「すっくと・立っている(皇女)」

の転訛と解します。

 

240E3大江(おほえ)皇女

 紀は妃の第二を238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E6色夫古(しこぶこ)娘の第1子、238F9大江(おほえ)皇女とし、240F4長(なが)皇子と240F5弓削(ゆげ)皇子の2人を生んだとします。

 この「おほえ」は、

  「オ・ホヘ」、O-HOHE(o=the...of,belonging to;hohe=active,strong)、「実に・活動的な(皇女)」(「ホヘ」の2番目のH音が脱落して「ホエ」となった)

の転訛と解します。

 

240E4新田部(にひたべ)皇女

 紀は妃の第三を238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇と238E4橘(たちばな)娘の第2子、238F7新田部(にひたべ)皇女とし、240F6舎人(とねり)皇子を生んだとします。

 この「にひたべ」は、

  「ニヒ・タパエ」、NIHI-TAPAE(nihi=steep,move stealthly,surprise;tapae=stack,present,invest,ambuscade)、「ひそかに・先回りして心配りをする(皇女)」(「タパエ」のAE音がE音に変化して「タペ」から「タベ」となった)

の転訛と解します。

 

240E5氷上(ひかみ)娘

 紀は夫人の第一を235H7藤原大臣(鎌足)の女の氷上(ひかみ)娘(氷上夫人、藤原夫人または氷上大刀自とも称しました)とし、240F7但馬(たぢま)皇女を生んだとします。

 この「ひかみ」は、

  「ヒカ・ミイ」、HIKA-MII(hika=girl,daughter;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「美しい・娘」(「ミイ」の語尾のI音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

240E6五百重(いほへ)娘

 紀は夫人の第二を240E5氷上(ひかみ)娘の妹の五百重(いほへ)娘(藤原夫人または大原大刀自とも称しました)とし、240F8新田部(にひたべ)皇子を生んだとします。

 この「いほへ」は、

  「イ・ホヘ」、I-HOHE(i=past tense,beside;hohe=active,strong)、「活発(お転婆)で・あった(娘)」

  または「イホ・ハエ」、IHO-HAE(iho=heart,kernal;hae=slit,tear,jealousy,ill feeling,cause pain)、「本心は・嫉妬深い(娘)」(「ハエ」のAE音がE音に変化して「ヘ」となった)

の転訛と解します。

 

240E7太豕(おほぬ)娘

 紀は夫人の第三を237H8蘇我赤兄大臣の女の太豕(おほぬ)娘(石川(いしかは)夫人とも称しました)とし、240F9穂積(ほづみ)皇子、240F10紀(き)皇女および240F11田形(たかた)皇女の3人を生んだとします。

 この「おほぬ」、「いしかは」は、

  「オホ・ヌイ」、OHO-NUI(oho=spring up,wake up,arise;nui=large,many)、「すっくと立っている・大柄な(娘)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

  「イ・チヒ・カハ」、I-TIHI-KAHA(i=past tense,beside;tihi=summit,top,lie in a heap;kaha=strong,able,rope,edge)、「(夫人の中で)最高の・力を・持っていた(夫人)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

の転訛と解します。

 

240E8額田(ぬかた)姫王

 紀は女官の第一を鏡(かがみ)王(天武紀7年10月条の鏡姫王。藤原鎌足の嫡室。舒明天皇の皇女または皇妹とする説があります)の女の額田(ぬかた)姫王(『万葉集』の女性の代表的歌人である額田(ぬかた)王です)とし、はじめ大海人皇子に嫁して240F12十市(とをち)皇女を生んだ後、天智天皇に召されたとされます。

 この「ぬかた」、「かがみ」は、

  「ヌカ・タ」、NUKA-TA(nuka=deceive,dupe;ta=dash,beat,lay)、「(いかにも気があるかのような)嘘を・投げかける(男性を惑わす。王)」または「ヌイ・カタ」、NUI-KATA(nui=large,many;kata=laugh,opening of shellfish)、「良く・笑う(王)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

  「カ(ン)ガ・ミイ」、KANGA-MII(kanga=ka=take fire,be lighted,burn;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「燃える(情熱的な)・美しい(王)」(「カ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「カガ」と、「ミイ」の語尾のI音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

240E9尼子(あまこ)娘

 紀は女官の第二を胸形君徳善(とくぜん)の女の尼子(あまこ)娘とし、240F13高市(たかち)皇子命を生んだとします。

 この「あまこ」、「とくぜん」は、

  「ア・マハ・コ」、A-MAHA-KO(a=the...of,belonging to;maha,mahamaha=liver,seat of affection;ko=addressing to males and females)、「肝がすわって・いた(娘)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「トコ・テナ」、TOKO-TENA(toko=pole,propel with a pole,push or force to a distance;tena=encourage,urge forward)、「(娘が采女として)遠い場所(大和朝廷)に出ることを・強制した(または激励した。君)」(「テナ」が「テン」から「ゼン」となった)

の転訛と解します。

 

240E10梶(かぢ)媛娘

 紀は女官の第三を宍人臣大(おほ)麻呂の女の梶(かぢ)媛娘とし、240F14忍壁(おさかべ)皇子、240F15磯城(しき)皇子、240F16泊瀬部(はつせべ)皇女および240F17託基(たき)皇女の4人を生んだとします。

 この「かぢ」、「おほ」は、

  「カチ」、KATI(leave off,so be it,well,enough)、「良くできた(娘)」または「カ・チ」、KA-TI(ka=take fire,be lighted,burn;ti=throw,cast,overcome)、「(あかあかと火が燃えるように)光を・放っている(娘)」

  「オホ」、OHO(spring up,wake up,arise)、「すっくと立っている(臣)」

の転訛と解します。

 

240F1草壁(くさかべ)皇子尊(日並知(ひなみし)皇子尊)

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E1鵜野(うの)皇女(241持統天皇)の子の草壁(くさかべ)皇子尊とします。亦の名を日並知(ひなみし)皇子尊とも呼ばれます。妃は243元明天皇で、242文武天皇、244元正天皇、吉備(きび)内親王(長屋王妃)の父です。

 皇子は、天智元年に筑紫の大津宮で生まれ、壬申の乱のときには天武天皇に従って吉野から東国へ向かい、天武8年5月には天皇の吉野行幸に従い、天皇の前で皇后、大津・高市・忍壁・芝基皇子の異母兄弟および238F10川嶋皇子(天智天皇の皇子)と団結を誓い、天武10年2月皇太子となり、天武14年正月に諸皇子中筆頭の浄廣壱の位を授けられますが、生来病弱で次第に朝廷に出なくなり、持統3年4月に没します。天平宝字2年8月岡宮御宇天皇と追号されました。『延喜式』は陵を真弓(まゆみ)丘陵、所在地を大和国高市郡とし、奈良県高市郡高取町森字森谷の円墳が比定されています。

 この「くさかべ」、「ひなみし」、「まゆみ」は、

  「クタ・カペ」、KUTA-KAPE(kuta=encumbrance or clog as old and infirm people on a march;kape=pass by,leave out,reject,refuse,pick out)、「(年少であったため壬申の乱の天武軍の)邪魔者として・通り過ぎた(従いて行っただけで何らの貢献もしなかった。皇子)」または「ク・タカ・パエ」、KU-TAKA-PAE(ku=silent;taka=fall off,fall away,fail of fulfilment;pae=horizen,direction,any transverse beam,perch)、「静かに・止まり木から・落ちた(死んだ。皇子)」(「パエ」のAE音がE音に変化して「ペ」から「ベ」となった)

  「ヒ(ン)ガ・ミチ」、HINGA-MITI(hinga=fall from an erect position,be killed,lean,be overcome with astonishment or fear,be outdone in a contest;miti=lick up,backwash,dryness of the throat and mouth caused by fear or etc.)、「(皇子の間の)競争に敗けて・唇を噛んだ(皇子)」(「ヒ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ヒナ」となった)

  「マイ・フミ」、MAI-HUMI(mai=become quiet,token or expression of affection;humi=abundant,abundance)、「巨大な・(故人の)記念物(墓)」(「マイ」の語尾のI音が「フミ」のH音が脱落した「ウミ」の語頭のU音と連結して「マユミ」となった)

の転訛と解します。

 

240F2大来(おほく)皇女(大伯(おほく)皇女)

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E2大田(おほた)皇女の第1子の大来(おほく)皇女(大伯(おほく)皇女)とします。

 斉明紀7年正月条に筑紫へ向かう斉明天皇と同行した大田皇女の乗つた船が大伯(おほく)海に到つたときに皇女を出産したので大伯(おほく)皇女(240F2大来(おほく)皇女)と名付けたとあります。

 天武2年4月斎王となって泊瀬の斎宮に入り、同3年10月伊勢へ向かい、朱鳥元年11月同母弟大津皇子の事件後帰京、大宝元年12月に没しました。『万葉集』に大津皇子の死の前後に詠まれた歌6首が収められています。

 この「おほく」は、

  「オ・ハウ・ク」、O-HAU-KU(o=the...of,belonging to;hau=wind,breathe,eager,famous,vitality of man;ku=silent)、「穏やかな・風が吹く・海(そこで生まれた皇女)」または「静かな・性格を・もつ(皇女))」(「ハウ」のAU音がO音に変化して「ホ」となった)

  または「オホ・ク」、OHO-KU(oho=spring up,wake up,arise;ku=silent)、「(大津皇子の死を聞いて)びっくりして立ち上がって・声も出なかった(皇女)」

の転訛と解します。

 

240F3大津(おほつ)皇子

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E2大田(おほた)皇女の第2子の大津(おほつ)皇子とします。

 斉明9年に娜大津(なのおほつ)で生まれたので大津皇子と名付けられたとします。『懐風藻』は天皇の長子とします。妃は天智天皇の皇女238F8山辺皇女です。

 皇子は、4歳のとき母を失いますが、幼少時を近江京で天智天皇に愛されて過ごし、壬申の乱に際し天皇挙兵の報に接して近江を脱出、鈴鹿で天皇一行と合流し、天武12年2月に始めて国政に参画、同14年正月に草壁皇子に次ぐ浄大弐の位を授けられています。『懐風藻』は皇子についてたくましい風貌、体躯をそなえ、気宇が大きく、文武に秀で、衆望があったと伝えます。朱鳥元年9月天武天皇の崩御直後に謀反の嫌疑がかけられ(『懐風藻』によれば大津皇子と莫逆の交わりを結んだ238F10川嶋皇子が密告したとします)、10月に逮捕、死を賜り、妃の山辺皇女が殉死しました。

 この「おほつ」は、

  「オフ・ツ」、OHU-TU(ohu=beset in great numbers,surround;tu=stand,settle)、「たくさん(の船が)群がって・停泊する(場所。大きな港。そこで生まれた皇子)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」となった)

  または「オ・ホツ」、O-HOTU(o=the...of,belonging to;hotu=sob,desire eagerly,chafe with animosity)、「実に・(皇位に就くことを)切望してやきもきした(皇子)」

の転訛と解します。

 

240F4長(なが)皇子

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E3大江(おほえ)皇女の第1子の長(なが)皇子とします。栗栖王、長田王、智努王、大市王、広瀬女王の父です。持統7年正月高市皇子に次ぐ浄廣弐位を授けられ、霊亀元年6月に没しています。

 この「なが」は、

  「ナ・(ン)ガ」、NA-NGA(na=belonging to;nga=breathe,satisfied)、「(自分の境遇に)満足して・いる(皇子)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

の転訛と解します。

 

240F5弓削(ゆげ)皇子

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E3大江(おほえ)皇女の第2子の弓削(ゆげ)皇子とします。持統7年正月長皇子とともに浄廣弐位を授けられ、文武3年7月に没しています。

 この「ゆげ」は、

  「イフ・(ン)ガイ」、IHU-NGAI(ihu=nose,bow of a canoe;ngai=ngati=tribe,clan)、「(船の舳先のように鼻が高い)誇り高い・種族の(男子。皇子)」(「イフ」のH音が脱落して「ユ」と、「(ン)ガイ」のNG音がG音に、AI音がE音に変化して「ゲ」となった)

の転訛と解します。

 

240F6舎人(とねり)皇子

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E4新田部(にひたべ)皇女の子の舎人(とねり)皇子とします。247淳仁天皇(大炊王。母は當麻山背)、三原王、三島王、船王、池田王、守部王、室女王、飛鳥田女王の父です。持統9年正月浄廣弐位を授けられ、養老2年正月二品から一品に叙せられ、『日本書紀』編纂の事業を総裁して同4年5月に完成奏上し、同4年8月知太政官事となり、天平7年11月没、太政大臣を追贈、天平宝字3年6月追尊して崇道尽敬皇帝と称せられました。

 この「とねり」は、

  「トネ・リ」、TONE-RI(tone=projection,knob;ri=screen,protect,bind)、「突出したもの(才能)を・持っている(皇子)」または「瘤が・附いている(皇子)」

の転訛と解します。

 

240F7但馬(たぢま)皇女

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E5氷上(ひかみ)娘の子の但馬(たぢま)皇女とします。和銅元年6月に没しています。『万葉集』の作歌によると240F13高市皇子の宮に居て240F9穂積皇子と交情があった(114,116)ようです。

 この「たぢま」は、

  「タ・チ・マハ」、TA-TI-MAHA(ta=the...of,dash,beat,lay;ti=throw,cast,overcome;maha=gratified,satisfied,depressed,many)、「実に・(人に)満足を・与える(皇女)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。

 

240F8新田部(にひたべ)皇子

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E6五百重(いほへ)娘の子の新田部(にひたべ)皇子とします。塩焼王、道祖王の父です。文武4年正月浄廣弐位を授けられ、神亀元年2月一品となり、知五衛及授刀舎人事、大惣管等の職に就き、天平7年9月に没しています。

 この「にひたべ」については前出240E4新田部(にひたべ)皇女の項を参照してください。

 

240F9穂積(ほづみ)皇子

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E7太豕(おほぬ)娘の第1子の穂積(ほづみ)皇子とします。持統5年正月に浄廣弐位を授けられ、慶雲2年9月知太政官事となり、霊亀元年正月一品となり、同年7月に没しています。『万葉集』によると240F7但馬(たぢま)皇女と交情があり、また大伴坂上郎女がはじめ皇子に嫁して類のない寵愛を受けた(528左注)ようです。

 この「ほづみ」は、

  「ホツ・ミイ」、HOTU-MII(hotu=sob,desire eagerly,chafe with animosity;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「美女に・夢中になる(皇子)」(「ミイ」の語尾のI音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

240F10紀(き)皇女

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E7太豕(おほぬ)娘の第2子の紀(き)皇女とします。

 この「き」は、

  「キヒ」、KIHI(indistinct of sound,barely audible,cut off,strip of branches etc.)、「消え入りそうな声(で話す。皇女)」または「小枝のような(痩せた。皇女)」(「キヒ」のH音が脱落して「キ」となった)

の転訛と解します。

 

240F11田形(たかた)皇女

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E7太豕(おほぬ)娘の第3子の田形(たかた)皇女とします。慶雲3年8月三品で斎王となり、神亀元年2月二品、同5年3月に没しています。

 この「たかた」は、

  「タカ・タ」、TAKA-TA(taka=heap,lie in a heap;ta=dash,beat,lay)、「高い(斎王の)地位に・ある(皇女)」

  または「タ・カタ」、TA-KATA(ta=the...of,dash,beat,lay;kata=laugh,opening of shellfish)、「良く・笑う(皇女)」

の転訛と解します。

 

240F12十市(とをち)皇女

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E8額田(ぬかた)姫王の子の十市(とをち)皇女とします。238F14伊賀(いが)皇子(大友(おほとも)皇子。239A弘文天皇)の妃、239F葛野王の母です。

 この「とをち」については前出239E十市(とをち)皇女の項を参照してください。

 

240F13高市(たけち)皇子命

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E9尼子(あまこ)娘の子の高市(たけち)皇子命とします。天皇の長子で、長屋王、鈴鹿王の父です。

 皇子は壬申の乱に際し天皇挙兵の報に接して近江を脱出、伊賀で天皇一行と合流し、不破関に赴いて天武軍を総管し、大いに活躍しましたが、その母が地方豪族の出身であったため年長にもかかわらず席順は低く、天武14年正月に大津皇子に次ぐ浄廣弐の位を授けられ、持統4年7月草壁皇子の没後太政大臣に任命され、同7年正月浄廣壱位、同10年7月没して紀は「後皇子尊」と記します。『延喜式』はその墓を「三立(みたち)岡墓、大和国広瀬郡に在り」とし、奈良県北葛城郡広陵町字見立山(みたてやま)の地あたりかとされます。

 この「たけち」、「みたち」は、

  「タケ・チヒ」、TAKE-TIHI(take=stump,base of a hill,cause,reason,origin,chief;tihi=summit,top,lie in a heap)、「(壬申の乱における)功績が・最高の(皇子)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」となった)

  「ミ・タハ・チ」、MI-TAHA-TI(mi=stream,river;taha=side,edge,pass on one side;ti=throw,cast,overcome)、「川の・そばに・放り出されている(岡。そこに造営されて墓)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

の転訛と解します。

 

240F14忍壁(おさかべ)皇子

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E10梶(かぢ)媛娘の第1子の忍壁(おさかべ)皇子とします。山前王、小長谷女王の父です。壬申の乱では天皇と吉野から行を共にし、天武3年8月石上神宮に遣わされて神宝の武器を磨き、同14年正月浄大参位、大宝3年正月知太政官事、慶雲2年5月に没しました。天武10年3月川嶋皇子等と帝紀および上古諸事の記定事業に参加、のち大宝律令の制定を主宰しています。

 この「おさかべ」は、

  「オタ・カペ」、OTA-KAPE(ota=unripe,uncooked,refuse,dregs;kape=pass by,leave out,reject,refuse,pick out)、「年少で・(壬申の乱に貢献できずに)通り過ぎた(従いて行っただけの。皇子)」または「(石上神宮に遣わされて神宝の武器の)さびを・落とした(皇子)」

の転訛と解します。

240F15磯城(しき)皇子

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E10梶(かぢ)媛娘の第2子の磯城(しき)皇子とします。朱鳥元年8月封2百戸を加えられた記事が見えるだけです。

 この「しき」は、

  「チキ」、TIKI(unsuccessful,unsuccessful man)、「不幸な(官位、官職を与えられなかった。皇子)」

の転訛と解します。

 

240F16泊瀬部(はつせべ)皇女

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E10梶(かぢ)媛娘の第3子の泊瀬部(はつせべ)皇女とします。天平13年3月三品にて没しています。

 皇女は、『万葉集』の記事(194、195左注)から238F10川嶋皇子の妃であったと考えられますが、この川嶋皇子は天武天皇の皇子の240F3大津(おほつ)皇子と親交を結び(『懐風藻』)、泊瀬部皇女を妃とし、天武8年には吉野での諸皇子の会盟に天智天皇の皇子としてただ一人参加し、同10年には詔により皇女の同母兄の240F14忍壁皇子等とともに帝紀および上古諸事の記定にあたった皇子で、『懐風藻』の伝によれば温和で包容力があり、大津皇子と莫逆の交わりを結んだにもかかわらず、朱鳥元年大津皇子の謀逆を密告したため、朝廷はその忠誠を嘉みしたが、朋友はその才情を薄しとしたとします。皇女も当然川嶋皇子の裏切りに大きなショックを受けたに違いありません(『万葉集』194に「ぬば玉の夜床も荒るらむ」とあるのは、このような状況を詠んだものと解します)。

 この「はつせべ」は、

  「パツ・テペ」、PATU-TEPE(patu=screen,wall,edge,strike,kill,ill treat in any way,weapon;tepe=congeal,coagulate)、「(夫の川嶋皇子が大津皇子を)裏切ったことで・(心を)凍らせた(皇女)」(「パツ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハツ」となった)

の転訛と解します。

 

240F17託基(たき)皇女

 紀は240A天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇と240E10梶(かぢ)媛娘の第4子の託基(たき)皇女とします。

 238F13施基(しき)皇子の妃で、朱鳥元年4月伊勢神宮に派遣、文武2年9月斎王となり、天平勝宝3年正月一品にて没します。

 この「たき」は、

  「タキ」、TAKI(take to one side,take out of the way)、「(斎王になるまでに)脇道に外れた(皇女)」

の転訛と解します。

 

240G檜隈大内(ひのくまのおほち)陵(天武天皇・持統天皇合葬陵)

 持統紀元年10月条は皇太子草壁皇子が百官、国司、国造等を率いて大内(おほち)陵を築きはじめたとし、2年11月条は遺骸を納めたとします。『延喜式』は檜隈大内(おほち)陵、所在地を大和国高市郡とし、『陵墓要覧』は所在地を奈良県高市郡明日香村大字野口とします。通称「野口皇(おう)ノ墓古墳」で、一辺約190メートルの方形壇の上に八角墳が造成されています。

 この陵には大宝2年12月に没した持統天皇の遺骨が翌年12月に合葬されました。

 のち文暦2(1235)年3月に御陵が盗掘されたことがいくつもの文献に記録され、明治13(1880)年に高山寺文書中から『阿不幾乃(あふきの)山陵記』が発見されて詳細が判明し、それまで見瀬丸山古墳が天武・持統合葬陵とされていたのが野口皇(おう)ノ墓古墳に改められました。

 この「おほち」、「あふきの」は、

  「オ・ポチ」、O-POTI(o=the...of,belonging to;poti=angle,basket for cooked food)、「(料理を盛り合わせた)籠・のような(天武・持統両天皇の遺骸・遺骨を合葬した。陵)」(「ポチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ホチ」となった)

  「アフ・キノ」、AHU-KINO(ahu=heap,mound,tend,treat with,move in a certain direction;kino=bad,ugly,ill-will,ill-treat,with ill-usage)、「悪意を持って・動かした(盗掘した。陵)」

の転訛と解します。(「檜隈(ひのくま)」については古典篇(その十一)の229G檜隈坂合陵の項を参照してください。)

 

240H1蘇我臣安(やす)麻侶

 天武即位前紀天智4(10)年10月条は、大海人皇子を呼びに来た蘇我臣安(やす)麻侶が「注意して発言しなさい」とそっと耳打ちしたので、天皇の譲位の誘いに乗らず、直ちに出家して吉野へ脱出することとなったとします。

 この「やす」は、

  「イ・アツ」、I-ATU(i=past tense,beside;atu=to indicate a direction or motion onwards(whakaatu=point out,call attention))、「(発言に)注意するよう助言・した(臣)」

の転訛と解します。

 

240H2朴井連雄君(をきみ)・村國連男依(をより)・和珥部臣君手(きみて)・身毛君廣(ひろ)・湯沐令多臣品治(ほむぢ)・大分君恵尺(ゑさか)・黄書造大伴(おほとも)・逢臣志摩(しま)・留守司高坂(たかさか)王

 天武紀元年5月是月条は、近江朝廷が美濃、尾張両国司に命じて先帝の山陵を造るために武器を持った人夫を徴集しようとしているのは不審ですみやかに対応すべきであると朴井連雄君(をきみ)がいい、また、近江朝廷は近江京から倭京に至る道に見張りを置き、宇治橋の番人が皇子の舎人の食料の輸送を禁止したとの報告があり、これを確かめたところ事実であったので、天皇は挙兵を決意したとします。

 そこで、同年6月22日条は、天皇が村國連男依(をより)、和珥部臣君手(きみて)および身毛君廣(ひろ)に対して急いで美濃へ行き安八摩郡の湯沐令多臣品治(ほむぢ。ほんぢ)に計画の要点を告げてまずその郡で兵を発し、さらに国司等に接触して他の軍をも発し、すみやかに不破道を塞ぐようにせよと命令し、自身もすぐに出発すると告げます。

 同月24日条は、大分君恵尺(ゑさか)、黄書造大伴(おほとも)および逢臣志摩(しま)を飛鳥の留守司高坂(たかさか)王の下へ遣わして駅鈴を求め、もし拒絶されたら志摩は帰って報告し、恵尺は急いで近江へ行き、高市皇子、大津皇子を率いて伊勢で合流せよと命じます。

 この「をきみ」、「をより」、「きみて」、「ひろ」、「ほむぢ(ほんぢ)」、「ゑさか」、「おほとも」、「しま」、「たかさか」は、

  「アウ・キミ」、AU-KIMI(au=firm,intense;kimi=seek,look for)、「しっかりと・調査した(連)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)

  「アウ・イオ・リ」、AU-IO-RI(au=firm,intense;io=muscle,line,spur,lock of hair;ri=screen,protect,bind)、「しっかりとした・筋肉が・(身体に)ついている(筋骨たくましい。連)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)

  「キミ・タエ」、KIMI-TAE(kimi=seek,look for;tae=arrive,come,go,proceed to)、「先を・急いだ(臣)」(「タエ」のAE音がE音に変化して「テ」となった)

  「ヒラウ」、HIRAU(entangle,trip up,be caught,be entangled)、「足手まといの(君)」(AU音がO音に変化して「ヒロ」となった)

  「ホノ・チ」、HONO-TI(hono=assembly,company,crowd;ti=throw,cast,overcome)、「仲間を・(周辺に)置いていた(令)」(「ホノ」が「ホン」となった)

  「ワイ・タカ」、WHAI-TAKA(whai=follow,pursue,look for,lay hold of;taka=turn on a pivot,revolve,undergo change in direction)、「(高市皇子と大津皇子を近江朝廷から一転して)救出すべく・追求した(史)」(「ワイ」のAI音がE音に変化して「ヱ」となった)(古典篇(その十三)の235H8船史恵尺(ゑさか)の項を参照してください。)

  「オホ・トモ」、OHO-TOMO(oho=spring up,wake up,arise;tomo=be filled,pass in,begin,assault,storming party)、「突然立ち上がって・奇襲攻撃をかける(造)」

  「チ・マハ」、TI-MAHA(ti=throw,cast,overcome;maha=gratified,depressed)、「(天皇を)失望させる・(駅鈴の交付を拒絶されたとの報告を)もたらした(臣)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「タカタカ」、TAKATAKA(fall frequently or in numbers,turn or roll from side to side,head,reverberating,make ready)、「(天武軍へ)寝返った(王)」

の転訛と解します。

 

240H3縣犬飼連大伴(おほとも)・佐伯連大目(おほめ)・大伴連友國(ともくに)・稚櫻部臣五百瀬(いほせ)・書首根(ね)摩呂・書直智徳(ちとこ)・山背直小林(をばやし)・山背部小田(をだ)・安斗連智徳(ちとこ)・調首淡海(あふみ)・大伴連馬来田(まぐた)・土師連馬手(うまて)・大伴朴本連大國(おほくに)・美濃(みの)王

 天武紀元年6月24日是日条前段は、天皇の出発があまりに急であったので乗り物が間に合わず、すぐに出会った縣犬飼連大伴(おほとも)の馬に乗ったとし、最初から随行したのは240F1草壁皇子、240F14忍壁皇子および舎人の240H2朴井連雄君(をきみ)、縣犬飼連大伴、佐伯連大目(おほめ)、大伴連友國(ともくに)、稚櫻部臣五百瀬(いほせ)、書首根(ね)摩呂、書直智徳(ちとこ)、山背直小林(をばやし)、山背部小田(をだ)、安斗連智徳(ちとこ)、調首淡海(あふみ)など二十余人、女官十余人で、宇陀で大伴連馬来田(まぐた)と240H2黄書造大伴(おほとも)が追いつき、ここで土師連馬手(うまて)が従者に食事を提供し、さらに大伴朴本連大國(おほくに)の率いる猟師二十余人を供に加え、美濃(みの)王を呼んだとします。

 この「おほめ」、「ともくに」、「いほせ」、「ちとこ」、「をばやし」、「をだ」、「あふみ」、「まぐた」、「うまて」、「おほくに」、「みの」は、

  「オホ・メ」、OHO-ME(oho=spring up,wake up,arise;me=like,as if like)、「(出発すると聞いて)びっくりして飛び起きた・らしい(連)」

  「トモ・ク・ヌイ」、TOMO-KU-NUI(tomo=be filled,pass in,begin,assault,storming party;ku=silent;nui=large,many)、「実に・静かに(物音を立てずに)・(敵を)襲撃する(連)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

  「イホ・タイ」、IHO-TAI(iho=heart,inside,kernel;tai=the sea,the coast,wave,anger,violence)、「荒々しい・心を持つ(臣)」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

  「チ・トコ」、TI-TOKO(ti=throw,cast,overcome;toko=pole,propel with a pole,push or force to a distance,quarter-staff(weapon))、「六尺棒を・(自在に)振り回す(直または連)」

  「オ・パイア・チ」、O-PAIA-TI(o=the...of,belonging to;pa,paia=block up,prevent,assault,stockade;ti=throw,cast,overcome)、「実に・防塁の柵を・打ち破る(力のある。直)」

  「オ・タ」、O-TA(o=the...of,belonging to;ta=dash,beat,lay)、「実に・(敵へ向かって)突進する(舎人)」

  「ア・フミ」、A-HUMI(a=the...of,belonging to;humi=abundant,abundance)、「実に・巨大な(身体の。首)」

  「マ(ン)グ・タ」、MANGU-TA(mangu=black;ta=dash,beat,lay)、「真っ黒に・日焼けした(連)」

  「ウマ(ン)ガ・タイ」、UMANGA-TAI(umanga=pursuit,occupation,an incantation for the destruction of the enemy;tai=the sea,the coast,wave,anger,violence)、「荒々しく・仕事を遂行する(連)」(「ウマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウマ」と、「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」となった)

  「オホ・クニ」、OHO-KUNI(oho=spring up,wake up,arise;(Hawaii)kuni=to burn,blaze,kindle)、「すっくと立っている・火(情熱)を燃やしている(血気盛んな。連)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

  「ミ(ン)ゴ」、MINGO(curled,wrinkled)、「(毛が)縮れている(王)」または「皺が寄っている地域(山脈が多い地域。美濃国。そこに住む(王)」(NG音がN音に変化して「ミノ」となった)

の転訛と解します。(「縣犬飼連大伴(おほとも)」については前出240H2黄書造大伴(おほとも)の項を、「書首根(ね)摩呂」については古典篇(その十三)の236H14高田首根(ね)麻呂の項を参照してください。)

 

240H4民直大火(おほひ)・赤染造徳足(とこたり)・大蔵直廣隅(ひろすみ)・坂上直國(くに)麻呂・古市黒(くろ)麻呂・竹田大徳(だいとく)・膽香瓦臣安倍(あへ)・国司守三宅連石床(いはとこ)・介三輪君子首(こびと)・湯沐令田中臣足(たり)麻呂・高田首新家(にひのみ)・路直益人(ますひと)

 天武紀元年6月24日是日条後段は、25日の夜明けに高市皇子とその従者民直大火(おほひ)、赤染造徳足(とこたり)、大蔵直廣隅(ひろすみ)、坂上直國(くに)麻呂、古市黒(くろ)麻呂、竹田大徳(だいとく)および膽香瓦臣安倍(あへ)が伊賀で合流し、鈴鹿で国司守三宅連石床(いはとこ)、介三輪君子首(こびと)、湯沐令田中臣足(たり)麻呂、高田首新家(にひのみ)が参加しました。三重郡家に至って鈴鹿関に山部(やまべ)王等が来ているとの知らせがあり、路直益人(ますひと)を遣わします。

 この「おほひ」、「とこたり」、「ひろすみ」、「くに」、「くろ」、「だいとく」、「いはとこ」、「こびと」、「たり」、「にひのみ」、「ますひと」は、

  「オ・ホピ」、O-HOPI(o=the...of,belonging to;hopi=be terrified,be faint-hearted)、「人に・怖がられる(直)」(「ホピ」のP音がF音を経てH音に変化して「ホヒ」となった)

  「トコ・タリ」、TOKO-TARI(toko=pole,propel with a pole,support with a pole,push or force to a distance;tari=carry,bring,urge,incite)、「(高市皇子を)支援して・(近江京から伊賀へ)連れていった(造)」

  「ヒ・ロツ・ミ」、HI-ROTU-MI(hi=raise,rise;rotu=heavy,oppressive,favourable,put to sleep by means of a spell;mi=stream,river)、「高い(身分の)・水(河海)を・(呪文を唱えて)鎮める(力を持つ。直)」

  「ク・ヌイ」、KU-NUI(ku=silent;nu=large,many)、「非常に・静かな(直)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

  「ク・ロ」、KU-RO(ku=silent;ro=roto=inside)、「心底から・静かな(舎人)」

  「タイ・トコ」、TAI-TOKO(tai=the sea,the coast,wave,anger,violence;toko=pole,propel with a pole,support with a pole,push or force to a distance)、「荒々しい・(高市皇子を)支援する(舎人)」

  「イ・ワ・トコ」、I-WHA-TOKO(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;toko=pole,propel with a pole,support with a pole,push or force to a distance)、「(大海人皇子を)支援することを・明らかに・した(国司)」

  「コ・ピト」、KO-PITO(ko=addressing to males and females;pito=end,extremity,navel,at first)、「(部族の)第一の・男子(介)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった))

  「タリ」、TARI(carry,bring,urge,incite)、「人をせかす(気の短い。臣)」

  「ヌイ・ヒノ(ン)ガ・ミヒ」、NUI-HINONGA-MIHI(nui=large,many;hinonga=doing,undertaking;mihi=greet,admire)、「大きな・仕事をやってのけた・尊敬すべき(首)」(「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」と、「ヒノ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ヒノ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「マ・アツ・ピト」、MA-ATU-PITO(ma atu=go,come;pito=at first,end,extremity,navel)、「(行き来する)使者の・第一(の地位を占める者)」(「マ」のA音と「アツ」の語頭のA音が連結して「マツ」から「マス」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。(「膽香瓦臣安倍(あへ)」の「あへ」については前出238F5阿陪(あへ)皇女の項を参照してください。)

 

240H5難波吉士三綱(みつな)・駒田勝忍人(おしひと)・山辺君安(やす)麻呂・小墾田猪手(ゐて)・泥(はづかし)部氏枳(しき)・大分君稚臣(わかみ)・根連金身(かねみ)・漆部友背(ともせ)・安斗連阿加布(あかふ)

 天武紀元年6月26日条は、鈴鹿関にいたのは山部王ではなく大津皇子で、240H2大分君恵尺、難波吉士三綱(みつな)、駒田勝忍人(おしひと)、山辺君安(やす)麻呂、小墾田猪手(ゐて)、泥(はづかし)部氏枳(しき)、大分君稚臣(わかみ)、根連金身(かねみ)、漆部友背(ともせ)等が従って朝明郡で合流し、郡家で男依が不破道を塞いだと報告したので、まず高市皇子を不破に遣わして軍事を総監させ、次ぎに240H3山背部小田と安斗連阿加布(あかふ)を遣わして東海道諸国の軍を編成させ、また240H3稚櫻部臣五百瀬と240H3土師連馬手を遣わして東山道諸国の軍を編成させたとあります。

 この「みつな」、「おしひと」、「やす」、「ゐて」、「はづかし」、「しき」、「わかみ」、「かねみ」、「ともせ」、「あかふ」は、

  「ミヒ・ツ(ン)ガ」、MII-TUNGA(mihi=greet,admire;tunga=send,circumstance of standing,circumstance of wounding)、「尊敬すべき・(大津皇子を)送り届けた(吉士)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「ツ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ツナ」となった)

  「オチ・ピト」、OTI-PITO(oti=finished,go or come for good;pito=at first,end,extremity,navel)、「(大津皇子を伊勢へ送り届ける任務に)成功した・(功績が)第一の(舎人)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「イ・アツ」、I-ATU(i=past tense,beside;atu=to indicate a direction or motion onwards(whakaatu=point out,call attention))、「(行動に)注意するよう助言・した(臣)」

  「ウイ・タイ」、UI-TAI(ui=disentangle,relax or loosen a noose,ask;tai=the sea,the coast,wave,anger,violence)、「荒々しく(勇気をもつて)・包囲を破った(舎人)」(「ウイ」が「ヰ」に、「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」となった)

  「ハ・ツカハ・チ」、HA-TUKAHA-TI(ha=what!,breath;tukaha=strenuous,vigorous,headstrong,passionate;ti=throw,cast,overcome)、「何と・勇猛さを・発揮する(部族)」(「ツカハ」のH音が脱落して「ツカ」となった)

  「チキ」、TIKI(unsuccessful,unsuccessful man)、「不幸な(官位、官職を与えられなかった。舎人)」

  「ウアカハ・ミヒ」、UAKAHA-MIHI(uakaha=vigorous,strenuous,difficult;mihi=greet,admire)、「尊敬すべき・元気が良い(君)」(「ウアカハ」・「ミヒ」のH音が脱落して「ワカ」・「ミ」となった)(この舎人は近江の瀬田の合戦で先鋒として大活躍します。)

  「カネ・ミヒ」、KANE-MIHI(kane=head;mihi=greet,admire)、「尊敬すべき・頭(が良い。連)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「トモ・タイ」、TOMO-TAI(tomo=be filled,pass in,begin,assault,storming party;tai=the sea,the coast,wave,anger,violence)、「荒々しく・奇襲攻撃をかける(舎人)」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

  「ア・カフ」、A-KAHU(a=the...of;belonging to;kahu=hawk,chief)、「鷹のよう・(に俊敏)な(首長)」

の転訛と解します。

 

240H6韋那公磐鍬(いはすき)・書直薬(くすり)・忍坂直大(おほ)摩呂・穂積臣百足(ももたり)・弟五百枝(いほえ)・物部首日向(ひむか)・佐伯連男(をとこ)・樟使主磐手(いはて)・筑紫大宰栗隈(くるくま)王・吉備國守當摩公廣嶋(ひろしま)・三野(みの)王・武家(たけいへ)王・大伴連馬来田・弟吹負(ふけひ)

 天武紀元年6月26日是時条は、大海人皇子が東国へ入ったことを聞いて動揺し、直ちに追討軍を出すことなく、韋那公磐鍬(いはすき)、書直薬(くすり)および忍坂直大(おほ)摩呂を東国へ、穂積臣百足(ももたり)、弟五百枝(いほえ)および物部首日向(ひむか)を倭京へ遣わし、また佐伯連男(をとこ)を筑紫へ、樟使主磐手(いはて)を吉備に遣わしてそれぞれ軍を派遣するよう求めるとともに、大海人皇子と親しい関係の筑紫大宰栗隈(くるくま)王および吉備國守當摩公廣嶋(ひろしま)を殺害させようとします。磐鍬は先行した使者が伏兵に捕らわれたのを見て逃げ帰り、栗隈王は九州の警備を解くことはできないと軍の派遣を拒否し、その身辺の左右を子の三野(みの)王(240H3美濃(みの)王とは別人とされます(岩波大系本頭注))、武家(たけいへ)王が固めていたので殺害できず、當摩公廣嶋はあざむかれて殺害されます。なお、大伴連馬来田と弟吹負(ふけひ)は、形勢を見て倭の家へ戻り、兄は天武軍に参加し、弟は同志を集めます。

 この「いはすき」、「くすり」、「おほ」、「ももたり」、「いほえ」、「ひむか」、「をとこ」、「いはて」、「くるくま」、「ひろしま」、「たけいへ」、「ふけひ」は、

  「イ・ワ・ツキ」、I-WHA-TUKI(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;tuki=beat,attack)、「(一行から遅れて行くことによって伏兵からの)攻撃を・明らかに・した(そして逃げ出した。公)」

  「ク・ツリ」、KU-TURI(ku=silent;turi=knee,deaf,obstinate)、「静かで・強情な(直)」

  「オホ」、OHO(spring up,wake up,arise)、「すっくと立っている(直)」または「(伏兵に遭って)びっくりして飛び上がった(直)」

  「マウマウ・タリ」、MAUMAU-TARI(maumau=waste,to no purpose;tari=carry,bring,urge,incite)、「(小墾田の兵器倉庫の兵器を近江に)移動したのが・無駄になった(吹負によって斬られた。臣)」(「マウマウ」のAU音がO音に変化して「モモ」となった)

  「イホ・ヘ」、IHO-HE(iho=heart,inside,kernel;he=wrong,mistaken,in trouble or difficulty)、「誤った(近江朝廷に服従した)・心を持つ(臣)」(「ヘ」のH音が脱落して「エ」となった)

  「ヒム・ウカ」、HIMU-UKA(himu=hip-bone;uka=hard,firm,be fixed)、「腰骨が・しっかりした(首)」(「ヒム」の語尾のU音と「ウカ」の語頭のU音が連結して「ヒムカ」となった)

  「オ・トコ」、O-TOKO(o=the...of,belonging to;toko=pole,propel with a pole,support with a pole,push or force to a distance)、「遠く(筑紫)へ派遣され・た(連)」

  「イ・ワ・タイ」、I-WHA-TAI(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;tai=the sea,the coast,wave,anger,violence)、「(當摩公廣嶋を殺害して)勇猛さを・明らかに・した(使主)」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」となった)

  「クル・ク・ウマ(ン)ガ」、KURU-KU-UMANGA(kuru=strike with the fist,pound,throw;ku=silent;umanga=pursuit,occupation,an incantation for the destruction of the enemy)、「音も立てずに・(呪文を唱えて敵を)殴り倒すことを・やってのける(王)」(「ク」のU音と「ウマ(ン)ガ」の語頭のU音が連結し、語尾のNGA音が脱落して「クマ」となった)

  「ヒラウ・チヒ・マ」、HIRAU-TIHI-MA(hirau=entangle,pull down anything by engaging it in a forked stick,be caught;tihi=summit,top,lie in a heap;ma=white,clear)、「(壬申の乱の)紛争に巻き込まれた・高い地位にある・清らかな(公)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

  「タケ・イヘ」、TAKE-IHE(take=absent oneself,crooked,stump;ihe=the garfish(needlefish))、「死に物狂いで・突進する魚(ダツ)のような(王)」

  「フ・ケヒ」、HU-KEHI(hu=resound,be rumoured,noise;kehi=defame,speak ill of)、「(何回も敗走したという)悪い・噂が流れた(将軍)」

の転訛と解します。(「三野(みの)王」については前出240H3美濃(みの)王の項を参照してください。)

 

240H7尾張国司守小子部連鋤鉤(さひち)・坂上直熊毛(くまけ)・秦造熊(くま)・稚狭(わかさ)王・大伴連安(やす)麻呂・坂上直老(おきな)・佐味君宿那(すくな)麻呂・三輪君高市(たけち)麻呂・鴨君蝦夷(えみし)

 天武紀元年6月27日条は、天武天皇が不破に入り、尾張国司守小子部連鋤鉤(さひち)が2萬人の兵を率いて参陣します。

 さらに同日条は、倭京の240H6大伴連吹負が留守司坂上直熊毛(くまけ)と協議して秦造熊(くま)を馬に乗せ「高市皇子の大軍が不破から押し寄せたぞ」と叫ばせると留守軍の兵士は四散し、小墾田の兵器倉庫の兵器を近江に移動していた240H6穂積臣百足を斬り、240H6穂積臣五百枝および240H6物部首日向を捕らえ、240H2高坂王と稚狭(わかさ)王を従わせ、大伴連安(やす)麻呂、坂上直老(おきな)、佐味君宿那(すくな)麻呂等を不破へ遣わして戦況を報告します。吹負は将軍に任じられ、三輪君高市(たけち)麻呂、鴨君蝦夷(えみし)等の豪傑が吹負の下に集まり、奈良を経て近江へ進攻することとなります。

 この「さひち」、「くまけ」、「くま」、「わかさ」、「おきな」、「すくな」、「たけち」、「えみし」は、

  「タヒ・チ」、TAHI-TI(tahi=one,single,unique,sweep,trim timber with an adze;ti=throw,cast,overcome,squeak,tingle)、「(旧近江朝廷側の人間を)一掃する(動きに)・悩んだ(打ちのめされて自殺した。国司)」(天武紀元年8月条は、鋤鉤(さひち)が山に隠れて自殺し、天皇が「彼は功績があったのにどうして自殺したのか。隠された陰謀があったのであろうか」と仰せられたとします。)

  「ク・マ(ン)ガイ」、KU-MANGAI(ku=silent;mangai=slow,moving heavily)、「静かに・どっしりと行動する(直)」(「マ(ン)ガイ」のNG音がG音に、AI音がE音に変化して「マゲ」となった)

  「ク・ウマ(ン)ガ」、KU-UMANGA(ku=silent;umanga=pursuit,occupation,an incantation for the destruction of the enemy)、「音も立てずに・(呪文を唱えて敵を)打撃を与える(造)」(「ク」のU音と「ウマ(ン)ガ」の語頭のU音が連結し、語尾のNGA音が脱落して「クマ」となった)(動物の熊(くま)も同じ語源で「音も立てずに(接近して)・打撃を与える(動物)」と解します。)

  「ウアカハ・タ」、UAKAHA-TA(uakaha=vigorous,strenuous,difficult;ta=dash,beat,lay)、「元気良く・突進する(王)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

  「オキ・ナ」、OKI-NA((Hawaii)oki=to stop,finish,extraordinary,to cut,separate;na=satisfied,indicate position near,belonging to)、「(人生の)終わりに・近い(直)」

  「ツクヌイ」、TUKUNUI(large,main body of an army)、「大きな(身体の。君)」(UI音がA音に変化して「ツクナ」から「スクナ」となった)

  「タケ・チヒ」、TAKE-TIHI(take=stump,base of a hill,cause,reason,origin,chief;tihi=summit,top,lie in a heap)、「(壬申の乱のみならず、天武・持統期における)功績が・最高の(君)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」となった)(朱鳥元年9月天武天皇の殯宮に理官の事を誄し、持統6年天皇の吉野行幸を農事の妨げとして再度にわたり諫言するなどの記事が見えます。)

  「エミ・チ」、EMI-TI(be assembled,be gathered together,be ashamed;ti=throw,cast,overcome)、「(兵を)集めて・(石手道(竹ノ内街道)の防衛に)置いた(君)」または「(石手道(竹ノ内街道)の防衛に)敗れて・恥をかいた(君)」

の転訛と解します。(「大伴連安(やす)麻呂」については前出240H5山辺君安(やす)麻呂の項を参照してください。)

 

240H8紀臣阿閉(あへ)麻呂・置始連菟(うさぎ)・山部(やまべ)王・羽田公矢國(やくに)・羽田公大人(うし)・出雲臣狛(こま)

 天武紀元年7月2日条は、天皇は紀臣阿閉(あへ)麻呂、240H2多臣品治、240H4三輪君子首、置始連菟(うさぎ)を遣わして数万の軍を伊勢から倭に向かわせ、240H2村國連男依、240H3書首根麻呂、240H2和珥部臣君手、240H4膽香瓦臣安倍を遣わして数万の軍を不破から近江に向かわせ、後に240H2多臣品治および240H4田中臣足麻呂には別に間道を守らせます。近江軍は山部(やまべ)王、238H11蘇我臣果安(はたやす)および238H11巨勢臣比等(ひと)が数万の軍を犬上川のほとりに陣しますが、そこで内紛により山部王が殺され、蘇我臣果安はその後自殺します。このときに近江の将軍羽田公矢國(やくに)がその子の大人(うし)等一族を率いて投降したので将軍として北越へ派遣します。近江軍の一部が米原付近に来襲し、出雲臣狛(こま)を遣わして反撃します。

 この「うさぎ」、「やまべ」、「はたやす」、「ひと」、「やくに」、「うし」、「こま」は、

  「ウタ・ア(ン)ギ」、UTA-ANGI(uta=the land,the inland;angi=free without hindrance,move freely)、「内陸の地を・自由に動き回る(連)」(「ウタ」の語尾のA音と「ア(ン)ギ」の語頭のA音が連結し、NG音がG音に変化して「ウタギ」から「ウサギ」となった)

  「イア・マ・ペ」、IA-MA-PE(ia=indeed,current;ma=white,clear;pe=crushed,soft)、「実に・清らかな・(内紛で)殺された(王)」

  「イア・アク・ヌイ」、IA-AKU-NUI(ia=indeed,current;aku=delay,scrape out,cleanse;nui=large,many)、「実に・多数の・(一族を)引き連れた(投降した。公)」(「イア」の語尾のA音と「アク」の語頭のA音が連結して「ヤク」と、「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」となった)

  「ウ・チ」、U-TI(u=be fixed,reach its limit;ti=throw,cast,overcome)、「最高の・能力を発揮した(偉大な人。子)」

  「コマ」、KOMA(pale,whitish)、「蒼白い(顔をした。臣)」

の転訛と解します。(「紀臣阿閉(あへ)麻呂」については前出238F5阿陪(あへ)皇女の項を参照してください。)

 

240H9荒田尾直赤(あか)麻呂・忌部首子人(こびと)・大野君果安(はたやす)・田辺小隅(をすみ)・合言葉「金(かね)」・境部連薬(くすり)・秦友足(ともたり)

 天武紀元年7月3日条は荒田尾直赤(あか)麻呂、240H4忌部首子人(こびと)が古京の道の橋の板を楯として町中に立てて守り、同4日条は240H6将軍吹負が近江の将大野君果安(はたやす)と奈良山で戦い大敗しますが、果安は古京の町中に楯があるのを見て伏兵があるかと思って前進を思い止まったとあります。

 同月5日条は、近江の別将田辺小隅(をすみ)が240H4田中臣足麻呂の軍に奇襲をかけ、「金(かね)」を合言葉に切り込み、足麻呂の軍は大いに混乱しますが、240H2多臣品治の軍は善戦して蹴散らします。

 同月7日条は240H2男依等が近江軍を横河で破って境部連薬(くすり)を斬り、同月9日条は男依等が鳥籠山で秦友足(ともたり)を斬ります。

 同月7日是日条は、240H8東道将軍紀臣阿閉麻呂が吹負の敗戦を聞いて240H8置始連菟を応援に遣わしたとします。

 この「あか」、「はたやす」、「をすみ」、「かね」、「ともたり」は、

  「ア・カ」、A-KA(a=the...of,belonging to;ka=take fire,be lighted,burn)、「火が燃えている・ような(血気盛んな。直)」

  「パタイ・アツ」、PATAI-ATU(patai=question,provoke,challenge,induce,trifling;atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action)、「前方に(伏兵があるかどうか)について・疑問を抱いた(そして前進を思い止まった。臣)」(「パタイ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハタイ」となり、その語尾のI音が「アツ」の語頭のA音と連結して「ハタヤツ」から「ハタヤス」となった)

  「オ・ツ・ミヒ」、O-TU-MIHI(o=the...of,belonging to;tu=fight with,energetic;mihi=greet,admire)、「実に・尊敬すべき・果敢に(奇襲)攻撃した(指揮官)」

  「カネ」、KANE(head(cf.pane=head,keep heads in line in making an attack))、「(首を揃えて=一列横隊になって)突撃!」(この語は、もともと号令語であったものが結果として合言葉となったものと考えられます。)

  「トモ・タリ」、TOMO-TARI(tomo=be filled,pass in,begin,assault,storming party;tari=carry,bring,urge,incite)、「移動して・奇襲する(指揮官)」

の転訛と解します。(「忌部首子人(こびと)」については前出240H4三輪君子首(こびと)の項を、「境部連薬(くすり)」については前出240H6書直薬(くすり)の項を参照してください。)

 

240H10社戸臣大口(おほくち)・土師連千嶋(ちしま)・智尊(ちそん)・犬養連五十君(いきみ)・谷直塩手(しほて)・物部連麻呂(まろ)

 天武紀元年7月13日条は、240H2男依等は安河のほとりで大勝し、社戸臣大口(おほくち)、土師連千嶋(ちしま)を捕らえます。22日には瀬田で激突し、近江の将智尊(ちそん)は橋板を外して防戦しますが、240H5大分君稚臣(わかみ)が突進して橋を渡り、近江軍は退却します。23日には近江の将犬養連五十君(いきみ)と谷直塩手(しほて)を粟津市で斬ります。大友皇子は逃げ場を失い、還って山前(やまさき)に隠れて自ら首をくくりますが、このとき左右大臣、群臣は皆逃げ去り、物部連麻呂(まろ)ほか1、2人が残っただけだったと伝えます。

 この「おほくち」、「ちしま」、「ちそん」、「いきみ」、「しほて」は、

  「オホ・クチ」、OHO-KUTI(oho=spring up,wake up,arise;kuti=contract,pinch)、「縛られて・すっくと立っていた(臣)」

  「チチ・マ」、TITI-MA(titi=peg,stick in,be fastened with pegs;ma=white,clear)、「柱に縛り付けられた・清らかな(悪あがきしない。連)」

  「チト(ン)ギ」、TITONGI(peck at,nibble)、「橋板を引き剥がした(防戦した。将軍)」(NG音がN音に変化して「チトニ」から「チソン」となった)

  「イ・キミ」、I-KIMI(i=past tense,beside;kimi=seek,look for)、「探し・当てた(逮捕した。連)」

  「チオ・タイ」、TIO-TAI(tio=cry,call;tai=the sea,the coast,wave,anger,violence)、「烈しく・泣き叫んだ(直)」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」となった))

の転訛と解します。(「物部連麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

240H11坂本臣財(たから)・長尾直眞墨(ますみ)・倉墻直麻呂(まろ)・民直小鮪(をしび)・谷直根(ね)麻呂・紀臣大音(おほと)・壱岐史韓国(からくに)・勇士来目(くめ)・廬井造鯨(くぢら)・奴徳(とこ)麻呂・高市縣主許梅(こめ)

 天武紀元年7月初め条は、7月1日に240H6将軍吹負が飛鳥から奈良へ向かったとき、河内から大軍が来襲するとの報告を聞き、坂本臣財(たから)、長尾直眞墨(ますみ)、倉墻直麻呂(まろ)、民直小鮪(をしび)、谷直根(ね)麻呂を遣わして3百人の兵で竜田道を守らせ、240H7佐味君少(すくな)麻呂を遣わして数百人の兵を大坂に駐屯させ、240H7鴨君蝦夷を遣わして数百人の兵で石手道を守らせ、紀臣大音(おほと)を遣わして懼坂道を守らせます。同月2日未明に坂本臣財等は近江の将壱岐史韓国(からくに)の軍と交戦しますが、敗退します。

 240H6将軍吹負は敗走の途中墨坂で240H8置始連菟の援軍と出会い、体制を立て直して7月4日に當摩で韓国の軍と戦い、勇士来目(くめ)の奮戦で韓国の軍を撃退します。そののち中道に駐屯していた将軍吹負の本営が近江の将240H10犬養連五十君の別将廬井造鯨(くぢら)が率いる2百の精兵に急襲されますが、大井寺の奴徳(とこ)麻呂等5人が奮戦して持ちこたえ、上道にいた240H7三輪君高市麻呂、240H8置始連菟が箸陵のもとで近江軍を破り、応援にかけつけたので近江軍を撃退したとします。

 これらの戦闘が行われる前、高市郡大領高市縣主許梅(こめ)が神懸かりして敵軍の襲来を予言したということがあったとします。

 この「たから」、「ますみ」、「をしび」、「おほと」、「からくに」、「くめ」、「くぢら」、「とこ」、「こめ」は、

  「タ・カラ」、TA-KARA(ta=the...of,dash,beat,lay;kara=old man,secret plan,a request for assistance in war either verbal or material)、「応援(軍の将となること)を申し・出た(臣)」

  「マ・アツ・ミ」、MA-ATU-MI(ma-atu=go,come;mi=stream,river)、「川(大和川)を・行き来する(直)」

  「オ・チピ」、O-TIPI(o=the...of,belonging to;tipi=pare off,go quickly or smoothly)、「実に・敏速に行動する(直)」

  「オホ・ト」、OHO-TO(oho=spring up,wake up,arise;to=drag,carry the weapon at the trail)、「すっくと立っている・(武器を携えて)闊歩する(臣)」または「オ・ホト」、O-HOTO(o=the...of,belonging to;hoto=begin,be apprehensive,suspicious,dislike)、「(与えられた兵力で防衛できるか)心配して・いる(臣)」

  「カラ・クニ」、KARA-KUNI(kara=old man,secret plan,a request for assistance in war either verbal or material;(Hawaii)kuni=to burn,blaze,kindle)、「応援(軍の将となること)を申し出た・火(情熱)を燃やしている(血気盛んな。史)」または「カラク・ヌイ」、KALAKU-NUI((Hawaii)kalaku=to proclaim,to release as evil by prayer,chilled,shivering;nui=large,many)、「(勇士来目の奮戦によって蹴散らかされて)震えが・止まらない(ほどの恐れを感じた。史)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

  「クメ」、KUME(pull,drag,stretch)、「(兵士を)引っ張った(先頭に立って奮戦した。勇士)」

  「クフ・チラ」、KUHU-TIRA(kuhu=thrust in,insert,conceal,join a company;tira=file of men,fin of fish,rays,mast of a canoe)、「一隊の兵士を・(敵陣の)中に突入させた(造)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

  「トコ」、TOKO(pole,propel with a pole,support with a pole,push or force to a distance)、「(敵軍を)撃退した(奴)」

  「コメ」、KOME(move the jaw as in eating close the mouth or lips(komekome=move the lips as in eating or speaking))、「口の中でモゴモゴとしゃべる(神懸かりになって神の託宣を伝える。縣主)」

の転訛と解します。(「倉墻直麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を、「谷直根(ね)麻呂」については古典篇(その十三)の236H14高田首根(ね)麻呂の項を参照してください。)

 

240H12紀臣訶多(かた)麻呂・忍海造大國(おほくに)・大伴連御行(みゆき)・佐伯連廣足(ひろたり)・間人連大蓋・曽禰連韓犬(からいぬ)・比彌沙伎理(ひみさきり)・大伴連國(くに)麻呂・三宅吉士入石(いりし)

 天武紀2年12月条は、240H3美濃王と紀臣訶多(かた)麻呂を高市大寺造司に任じたとします。

 同3年3月条は、対馬国司守忍海造大國(おほくに)が銀が産出したので献上したとします。

 同4年3月条は、240H6栗隈王を兵政官長とし、大伴連御行(みゆき)を大輔としたとします。

 同年4月条は、240H3美濃王と佐伯連廣足(ひろたり)に風神を竜田に祭らせ、238H3間人連大蓋と曽禰連韓犬(からいぬ)に大忌神を広瀬に祭らせたとし、また諸国の漁猟の方法に制限を加え、檻穽・機槍の類は禁止、4月から9月までの間比彌沙伎理(ひみさきり)・梁(やな)の設置は禁止、牛馬犬猿鶏の肉食を禁止したとあります。

 同年7月条は、大伴連國(くに)麻呂を大使とし、三宅吉士入石(いりし)を副使として新羅に派遣したとします。

 この「かた」、「みゆき」、「ひろたり」、「からいぬ」、「ひみさきり」、「やな」、「くに」、「いりし」は、

  「カタ」、KATA(laugh,opening of shellfish)、「(良く)笑う(臣)」

  「ミイ・イフ・キ」、MII-IHU-KI((Hawaii)mii=clasp,good-looking;ihu=nose;ki=full,very)、「鼻が・高くて・立派な容貌の(連)」(「ミイ」の反復語尾のI音が脱落して「ミ」と、「イフ」のH音が脱落して「ユ」となった)

  「ヒ・ロタリ」、HI-ROTARI(hi=raise,rise;rotari=fierce looks,fierce)、「背が高く・いかめしい顔をした(連)」または「ヒラウ・タリ」、HIRAU-TARI(hirau=entangle,pull down,anything by engaging it in a forked stick,be caught;tari=urge,incite,carry,wait)、「(風神を)困惑させて・(その活動に)待ったをかけた(連)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」となった)

  「カラ・イヒ・ヌイ」、KARA-IHI-NUI(kara=old man,secret plan,a request for assistance in war either verbal or material;ihi=power,authority,spell;nui=large,many)、「年をとっているが・力の・強い(連)」(「イヒ」のH音が脱落して「イ」と、「ヌイ」のUI音がU音に変化して「ヌ」となった)

  「ヒ・ミ・タキリ」、HI-MI-TAKIRI(hi=raise,rise;mi=stream,river;takiri=loosen,spread out food,open the receptacles containing it,draw away suddenly,snare with a noose and long string)、「(川に小さなダムを作って水を堰き止め)水位を・高くして・(その下流を乾上がらせて川底に)散らばった魚を捕る(漁法)」(この語は語義未詳とされ、『日本書紀通証』は「遮隙」と、『日本紀標注』は「隙挟」で隙間の狭い梁をかけて小魚までとることと、『書紀集解』は梁の傍注がまぎれたものとします。)

  「イア・アナ」、IA-ANA(ia=current,indeed;ana=cave,denoting continuance of action or state)、「川の流れが・続いているよう(に見せかけた魚を捕る仕掛け)」(「イア」の語尾のA音と「アナ」の語頭のA音が連結して「ヤナ」となった)

  「クニ」、KUNI((Hawaii)to burn,blaze,kindle)、「火(情熱)を燃やしている(血気盛んな。連)」

  「イリ・イチ」、IRI-ITI(iri=be elevated on something,rest upon,be published,a spell to influence at a distance,be empty;iti=small,compact)、「小さいことで・知られている(吉士)」

の転訛と解します。(「忍海造大國(おほくに)」については前出240H3大伴朴本連大國(おほくに)の項を参照してください。)

 

240H13山背直百足(ももたり)・杭田史名倉(なくら)・倭画師音樫(おとかし)・丹比公麻呂(まろ)・忍海造能(よし)摩呂・倭馬飼部造連(むらじ)・寸主光父(くわうぶ)・巫鳥(しとと)

 天武紀5年10月条は、240H10物部連摩呂(まろ)を大使とし、山背直百足(ももたり)を小使として新羅に派遣したとします。

 同6年4月条は、杭田史名倉(なくら)が乗輿をそしったとして伊豆嶋に流されたとします。

 同年5月条は、倭画師音樫(おとかし)に官位を授けたとします。

 同年10月条は、238H1河辺臣百枝(ももえ)を民部卿に任じ、丹比公麻呂(まろ)を摂津職大夫に任じたとします。

 同7年9月条は、忍海造能(よし)摩呂が瑞祥とされる不思議な稲を献上したので、大赦を行ったとします。

 同8年11月条は、倭馬飼部造連(むらじ)を大使とし、寸主光父(くわうぶ)を小使として多禰嶋に派遣したとします。

 同9年3月条は、摂津国が白い巫鳥(しとと)を献上したとします。

 この「ももたり」、「なくら」、「おとかし」、「よし」、「むらじ」、「くわうぶ」、「しとと」は、

  「マウマウ・タリ」、MAUMAU-TARI(maumau=waste,to no purpose;tari=carry,bring,urge,incite)、「(新羅に小使として)使いをしたのが・無駄になった(途中で死亡したか事故を起こして罷免された。臣)」(「マウマウ」のAU音がO音に変化して「モモ」となった)(翌年2月大使の物部連摩呂が帰国していますが、山背直百足については帰国の記事がなく、その後も全く記事が見えません。なお、前出240H6穂積臣百足(ももたり)の項を参照してください。)

  「ナク・ウラ(ン)ガ」、NAKU-URANGA(naku=dig,scratch,bewitch;uranga=act of reaching its limit)、「口を極めて・(乗輿を)指さしてそしった(史)」(「ナク」の語尾のU音と「ウラ(ン)ガ」の語頭のU音が連結し、語尾のNGA音が脱落(名詞形の単語の語尾のNGA音はしばしば脱落します。)して「ナクラ」となった)

  「オト・カチ」、AUTO-KATI(auto=trailing behind,slow,dilatory,protract;kati=block up,close up,bite,nip)、「(小さい物を)引き延ばして・大きく描く(ことに巧みな。画師)」

  「イ・オチ」、I-OTI(i=past tense,beside;oti=finished,gone or come for good)、「(瑞祥を発見して献上した)結果として良いことが・あった(造)」

  「ムラ・チ」、MURA-TI(mura=blaze,flame;ti=throw,cast,overcome)、「光を・放っている(造)」または「(火を燃やしている)集落(部族)を・治めている(造)」

  「クアウ・プ」、KUAU-PU(kuau=beard;pu=tribe,bunch,heap,skilled person,wise one)、「髭面の・賢者(寸主)」(「クアウ」のAU音がOU音に変化して「クオウ」となった)

  「チ・トト」、TI-TOTO(ti=throw,cast,overcome;toto=ooze,gush forth,spring up,causing a tingling sensation,sacred kit)、「(神の託宣のようにそれを聴くと)総毛立つような・声を発する(鳥)」

の転訛と解します。(「丹比公麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

240H14廣瀬(ひろせ)王・竹田(たけだ)王・桑田(くはた)王・上毛野君三千(みちち)・忌部連首(おびと)・阿曇連稲敷(いなしき)・難波連大形(おほかた)・中臣連大嶋(おほしま)・平群臣子首(こびと)・錦織造小分(をきだ)・采女臣竹羅(ちくら)・當摩公楯(たて)・小墾田臣麻呂(まろ)・日高(ひだか)皇女(亦の名新家(にひのみ)皇女。のちに244元正天皇)・高向臣麻呂(まろ)・都努臣牛甘(うしかひ)

 天武紀10年3月条は、238F10川嶋皇子、240F14忍壁皇子、廣瀬(ひろせ)王、竹田(たけだ)王、桑田(くはた)王、240H3三野(みの)王、上毛野君三千(みちち)、忌部連首(おびと)、阿曇連稲敷(いなしき)、難波連大形(おほかた)、中臣連大嶋(おほしま)、平群臣子首(こびと)に詔して帝紀および上古諸事を記定させたとします。

 同年4月条は、錦織造小分(をきだ)他14人に連の姓を賜ったとします。

 同年7月条は、采女臣竹羅(ちくら)を大使とし、當摩公楯(たて)を小使として新羅国へ、また240H12佐伯連廣足を大使とし、小墾田臣麻呂(まろ)を小使として高麗国へ派遣したとします。

 同11年8月条は、皇太子240F1草壁皇子の子の日高(ひだか)皇女(亦の名新家(にひのみ)皇女。のちに244元正天皇)の病気のために大赦を行ったとします。

 同13年4月条は、高向臣麻呂(まろ)を大使とし、都努臣牛甘(うしかひ)を小使として新羅国へ派遣したとします。

 この「ひろせ」、「たけだ」、「くはた」、「みちち」、「おびと」、「いなしき」、「おほかた」、「おほしま」、「をきだ」、「ちくら」、「たて」、「ひだか」、「にひのみ」、「うしかひ」は、

  「ヒラウ・テ」、HIRAU-TE(entangle,pull down anything by engaging it in a forked stick,be caught;te=crack)、「割れ目(川。困難な事態)に直面して・困惑した(王)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」となった)

  「タケ・タ」、TAKE-TA(take=absent oneself,crooked,stump,base of a hill,cause,origin,chief;ta=dash,beat,lay)、「どっしりと・している(王)」

  「クワタ」、KUWATA(long for,yearn,love,desire)、「(何かを)切望している(王)」

  「ミヒ・チチ」、MIHI-TITI(mihi=greet,admire;titi=peg,comb for sticking in the hair,adorn by sticking feathers)、「尊敬すべき・(鳥毛で)美しく飾り立てている(君)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「オ・ピト」、O-PITO(o=the...of,belonging to;pito=end,extremity,navel,at first)、「(部族の)第一の・人物(介)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった))

  「イナチ・キ」、INATI-KI(inati=excessive,extraordinary,monstrous;ki=full,very)、「とてつもなく優秀な(連)」

  「オホ・カタ」、OHO-KATA(oho=spring up,wake up,arise;kata=laugh,opening of shellfish)、「すっくと立っている・(良く)笑う(連)」

  「オホ・チヒ・マ」、OHO-TIHI-MA(oho=spring up,wake up,arise;tihi=summit,top,lie in a heap;ma=white,clear)、「すっくと立っている・(部族の)最高の地位にある・清らかな(連)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

  「オ・キタ」、O-KITA(o=the...of,belonging to;kita=tightly,fast,intensely,tightly clenched)、「しっかりと(職務に)精励・している(造)」

  「チヒ・クラ」、TIHI-KURA(tihi=summit,top,lie in a heap;kura=red,red feathers,precious,treasure,chief)、「最高に・(鳥毛で)飾り立てている(臣)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」となった)

  「タタイ」、TATAI(measure,arrange,adorn,plan,)、「(物事を良く)整理する(公)」(AI音がE音に変化して「タテ」となった)

  「ヒ・タカ」、HI-TAKA(hi=raise,rise;taka=heap,lie in a heap,prepare)、「(天皇という)高い地位へ・引き上げられた(皇女)」または「(首皇子へ皇位を引き渡す)準備のために・高い地位に就いた(皇女)」

  「ヌイ・ヒノ(ン)ガ・ミヒ」、NUI-HINONGA-MIHI(nui=large,many;hinonga=doing,undertaking;mihi=greet,admire)、「大きな・(皇位を首皇子に伝えるという)仕事をやってのけた・尊敬すべき(皇女)」(「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」と、「ヒノ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ヒノ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「ウ・チカイ」、U-TIKAI(u=be firm,be fixed,reach its limit;tikai=insult,domineer over,presumption,disrespect)、「威張り・くさっている(臣)」

の転訛と解します。(「忌部連首(おびと)」については前出240H4三輪君子首(こびと)の項を、「小墾田臣麻呂(まろ)」および「高向臣麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

240H15姓(かばね)・眞人(まひと)・朝臣(あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなき)

 天武紀13年10月条は、諸姓をあらためて八色の姓(かばね)、眞人(まひと)、朝臣(あそみ)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)および稲置(いなき)に再編成することとしたとします。

 この「かばね」、「まひと」、「あそみ」、「すくね」、「いみき」、「みちのし」、「おみ」、「むらじ」、「いなき」は、

  「カパ・ネイ」、KAPA-NEI(kapa-rank,row,stand in a row or rank;nei=to denote proximity to or connection with the speaker)、「人々(を並べる場合)の・序列(または階級)」(「ネイ」のEI音がE音に変化して「ネ」となった)

  「マ・ピト」、MA-PITO(ma=white,clear;pito=end,extremity,navel,at first)、「清らかな・第一の・人物(部族)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった))

  「アト・ミヒ」、ATO-MIHI(ato=thatch,enclose in a fence etc.;mihi=greet,admire)、「(葺いた屋根のように諸部族の)上にある・尊敬すべき(部族)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「ツクヌイ」、TUKUNUI(main body of an army,large)、「偉大な(部族)」(UI音がE音に変化して「ツクネ」から「スクネ」となった)

  「イ・ミヒ・キ」、I-MIHI-KI(i=past tense,beside;mihi=greet,admire;ki=full,very)、「非常に・尊敬・された(部族)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)または「イ・ミキ」、I-MIKI(i=past tense,beside;miki=ridge of hilles)、「山の嶺の・上にある(高い地位にある。部族)」

  「ミヒ・チノ・チヒ」、MIHI-TINO-TIHI(mihi=greet,admire;tino=essentiality,main,exact;tihi=summit,top,lie in a heap)、「尊敬すべき・主要な・高い地位にある(部族)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

  「オ・ミヒ」、O-MIHI(o=the...of,belonging to;mihi=greet,admire)、「実に・尊敬される(部族)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「ムラ・チ」、MURA-TI(mura=blaze,flame;ti=throw,cast,overcome)、「光を・放っている(輝かしい、名誉ある。部族)」または「(火を燃やしている集落)部族を・治めている(支配者の。部族)」

  「イナキ」、INAKI(overlap,crowd one upon another,thatch,come up as reinforcements to an advanced position)、「(人の)上に立つ(部族をまとめる。部族)」

の転訛と解します。

 

240H16縣犬養連手繦(たすき)・川原連加尼(かね)・石川朝臣虫名(むしな)・巨勢朝臣粟持(あはもち)・路眞人迹見(とみ)

 天武紀13年10月条は、縣犬養連手繦(たすき)を大使とし、川原連加尼(かね)を小使として耽羅に遣わしたとします。

 同14年9月条は、240H14都努朝臣牛飼(うしかひ)を東海使者と、石川朝臣虫名(むしな)を東山使者と、240H7佐味朝臣少(すくな)麻呂を山陽使者と、巨勢朝臣粟持(あはもち)を山陰使者と、路眞人迹見(とみ)を南海使者と、240H12佐伯宿禰廣足(ひろたり)を筑紫使者に任じたとします。

 この「たすき」、「むしな」、「あはもち」、「とみ」は、

  「タ・ツキ」、TA-TUKI(ta=the...of,dash,beat,lay;tuki=beat,attack,give the time to paddlers in a canoe)、「実に・(仕事の)音頭をとる(先頭に立つて指揮を執る。連)」

  「ム・チナ」、MU-TINA(mu=silent,murmur at,show discontent with;tina=fixed,firm,satisfied,exhausted)、「かたくなに・口数が少ない(朝臣)」

  「アハ・モチ」、AHA-MOTI(aha=what?,who?,do what?;moti=consumed,scarce,surfeited)、「質問が・少ない(何でも知っている、または確認せずに行動する。朝臣)」または「アワ・モチ」、AWA-MOTI((Hawaii)awa=to deliberate;moti=consumed,scarce,surfeited)、「(何事も)熟考・しない(即断即決する。朝臣)」

  「ト・ミヒ」、TO-MIHI(to=drag,carry the weapon at the trail;mihi=greet,admire)、「刀を携えた・尊敬すべき(真人)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。(「川原連加尼(かね)」については前出238H10中臣金(かね)連の項を参照してください。)

 

240H17大海宿禰蒭蒲(あらかま)・壬生(みぶ)・伊勢(いせ)王・犬養宿禰大伴(おほとも)・河内(かふち)王・當麻眞人国見(くにみ)・紀朝臣眞人(まひと)・誄(しのびごと)・布勢朝臣御主人(みぬし)・石上朝臣麻呂(まろ)・阿倍久努朝臣麻呂(まろ)・紀朝臣弓張(ゆみはり)・穂積朝臣虫(むし)麻呂

 天武紀朱鳥元年9月条は、9日に天皇が崩御し、27日に大海宿禰蒭蒲(あらかま)が壬生(みぶ)の事を、伊勢(いせ)王が諸王の事を、犬養宿禰大伴(おほとも)が宮内の事を、河内(かふち)王が左右大舎人の事を、當麻眞人国見(くにみ)が左右兵衛の事を、240H14采女朝臣竺(竹)羅(ちくら)が内命婦の事を、紀朝臣眞人(まひと)が膳職の事を誄(しのびごと)し、28日に布勢朝臣御主人(みぬし)が大政官の事を、石上朝臣麻呂(まろ)が法官の事を、240H7大三輪朝臣高市(たけち)麻呂が理官の事を、240H7大伴宿禰安(やす)麻呂が大蔵の事を、240H14藤原朝臣大嶋(おほしま)が兵政官の事を誄し、29日に阿倍久努朝臣麻呂(まろ)が刑官の事を、紀朝臣弓張(ゆみはり)が民官のことを、穂積朝臣虫(むし)麻呂が諸国司のことを誄したとします。

 この「あらかま」、「みぶ」、「いせ」、「くにみ」、「しのびごと」、「みぬし」、「ゆみはり」、「むし」は、

  「アラ・カマ」、ARA-KAMA(ara=rise,awake,raise,way,path;kama=eager)、「(職務に)精励して・昇進した(宿禰)」または「熱心に・小道を辿った(大宝元年3月冶金のために陸奥国へ派遣された。宿禰)」

  「ミヒ・プ」、MIHI-PU(mihi=greet,commend,acknowledge an obligation,admire;pu=tribe,bundle,heap,skilled person)、「(皇子に)必須の知識を・教育する専門家(の組織。乳部)」

  「イ・テ」、I-TE(i=past tense,beside,from,in comparison of,by,at;te=crack)、「(諸国の)境界を確定・した(王)」(天武紀12年12月条は、伊勢王、240H8羽田公八国等が天下を巡行して諸国の境界を確定していたが、今年は確定できなかったとします。なお、地名の「伊勢(いせ)」については地名篇(その三)の三重県の(1)伊勢(いせ)国の項を参照してください。)

  「クニ・ミヒ」、KUNI-MIHI((Hawaii)kuni=to burn,blaze,kindle;mihi=greet,admire)、「火(情熱)を燃やしている(血気盛んな)・尊敬すべき(真人)」

  「チ(ン)ゴ・ピ・コト」、TINGO-PI-KOTO(tingo,tingongo=cause to shrink,shrivel,shrivelled;pi=flow of the tide,soaked,source,origin;koto=sob,make a low sound)、「(故人の誕生時に遡る)事績を回顧する・(涙で)途切れ勝ちになる・低い声(の弔辞)」(「チ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「チノ」から「シノ」となった)

  「ミヒ・ヌイ・チヒ」、MIHI-NUI-TIHI(mihi=greet,admire;nui=large,many;tihi=summit,top,lie in a heap)、「尊敬すべき・非常に・高い地位にある(朝臣)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「ヌイ」のUI音がU音に変化して「ヌ」と、「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

  「イフ・ミ・パリ」、IHU-MI-PARI(ihu=nose;mi=urine,river;pari=flowing of the tide,flow over)、「(悲しみが極まって涙とともに)鼻・水を・垂らした(朝臣)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」と、「パリ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハリ」となった)

  「ム・チヒ」、MU-TIHI(mu=silent,murmur at,show discontent with;tihi=summit,top,lie in a heap)、「口数が少ない・高い地位にある(朝臣)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

の転訛と解します。(「犬養宿禰大伴(おほとも)」については前出240H2黄書造大伴(おほとも)の項を、「河内(かふち)王」については地名篇(その四)の大阪府の(7)河内国の項を、「紀朝臣眞人(まひと)」については前出240H15眞人(まひと)の項を、「石上朝臣麻呂(まろ)」および「阿倍久努朝臣麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

 

[241持統天皇]

 

241A高天原廣野(たかまはらひろの)姫天皇

 紀は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智天皇)と238E2遠智(をち)娘の第2子(或本は第3子)、238F2鵜野(うの)皇女とします。或本は名を娑羅羅(さらら)皇女とします。また、持統称制前紀は幼名を鵜野讃良(うののさらら)皇女とします。

 234F3大海(おほしあま)皇子の妃となり、240F1草壁(くさかべ)皇子を生み、大海皇子にしたがって吉野に隠れ、壬申の乱を経て240天武天皇の皇后(240E1菟野(うの)皇女)として天皇を補佐し、天皇の崩御とともに即位の儀を行わずに政を執り、直ちに朝廷にあって人望を集めていた240F3大津皇子を抹殺し、幼少であった草壁皇子の成長を待ちますが病弱の草壁皇子は持統3年に病没、持統4年正月に即位して241持統天皇となります。天皇は、240F13高市皇子を太政大臣とし、官僚組織を整備して、律令体制の整備に尽力します。持統10年に高市皇子が死去し、『懐風藻』によれば皇太子の人選について物議を醸しましたが、239A弘文天皇(238F14大友皇子)の子の239F葛野王が壬申の乱をふまえて兄弟間相承を否定し、240F5弓削皇子を抑えて草壁皇子の子の241H8軽(かる)皇子の立太子が実現します。翌持統11年に天皇は孫の軽皇子に皇位を譲り、太上天皇となり、242文武天皇を後見し、大宝2年に崩御し、天武天皇陵に合葬されます。

 天皇の国風諡号を持統紀および続紀文武即位前紀は「高天原廣野(たかまはらひろの)姫天皇」とし、続紀大宝3年12月条は、太政天皇に「大倭根子天之広野(おほやまとねこあまのひろの)日女尊」と諡したとします。

 この国風諡号の「ひろの」は「鵜野」と関係があるかと、「ねこ」は大地に伸びて樹木をささえる根」の意、「おほやまとねこ」は「おほやまとの国の中心となって支えるもの」の意かとされます。

 この「たかまはらひろの」、「おほやまとねこあまのひろの」、「うの」、「さらら」は、

  「タカムア・ハラ・ヒラウ・ノホ」、TAKAMUA-HARA-HIRAU-NOHO(takamua=fire,front;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place;hirau=be caught,be entangled;noho=sit,settle)、「氏族の首長の墳墓の・前に・(皇位を継ぐべき皇子が幼少であることに)困惑して・座っていた(皇后。天皇)」(「タカムア」のUA音がA音に変化して「タカマ」と、「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「オホ・イア・マト・ネイ・コ・アマイ・ノ・ヒラウ・ノホ」、OHO-IA-MATO-NEI-KO-AMAI-NO-HIRAU-NOHO(oho=wake up,arise;ia=indeed;mato=deep swamp,deep valley;(Hawaii)nei=to rumble as an earthquake,sighing as of the wind;ko=addressing to males and girls;amai=giddy,dizzy;no=of;hirau=be caught,be entangled;noho=sit,settle)、「(夫の死に)びっくりして立ち上がった・実に・深い湿地がある(大和国の)・(世の中を揺るがす)騒ぎを引き起こした(自ら天皇位に就いて天智・天武の皇子たちを抑えて草壁の血統に皇位を継がせることに奔走した)・きらきらと輝く(美貌の)・(皇位を継ぐべき皇子が幼少であることに)困惑して・(ただ)座つていた(皇后。天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「ウ・(ン)ガウ」、U-NGAU(u=breast of a female;ngau=bite,hurt,attack)、「乳房(胸)が・(囓られて)無い(皇女)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)または「フノノイ」、HUNONOI(cold,shivering,dry)、「冷たい(皇女)」(H音と語尾のI音が脱落して「ウノノ」となった)

  「タ・ララ」、TA-RARA(ta=the...of,dash,beat,lay;rara=twig,rib,scorch)、「小枝の・ような(痩せている。または肋骨が見えている。皇女)」または「日焼け・している(皇女)」

の転訛と解します。(なお、「鵜野讃良(うののさらら)」は、欽明紀23年7月条にみえる河内国更荒(さらら)郡鵜野(うの)邑の地名にちなむとする説があります。)

 

241B1吉野(よしの)宮

 持統紀3年正月条は、18日に240B3吉野宮に行幸し、21日に240B2飛鳥浄御原(きよみはら)宮に還ったとします。こののち頻繁に吉野宮に行幸し、その例は枚挙にいとまがありません。(前出240B3吉野宮の項を参照してください。)

 

241B2藤原(ふぢはら)宮

 持統紀4年10月条は、高市皇子が藤原の宮地を検分し、公卿百寮が随行したとします。このときに藤原宮の造営が開始されたものと思われ、同7年8月条には完成間近の宮地に天皇が行幸したとあり、同8年12月条に藤原宮に遷つたとあります。

 この宮は、和銅3年の平城遷都まで持統・文武・元明三天皇が居住することとなります。その所在地は大和三山の間の平地にあったとされ、藤原京とともに具体的な位置、規模等は現在発掘調査が進行中です。

 この「ふぢはら」は、

  「フチ・パラ」、HUTI-PARA(huti=hoist,pull up,fish with a line;para=bravery,spirit,blood,relative,a form of address by a child to its father)、「高い地位にある・(強い)親父(のような天皇。その天皇が住む宮)」(「パラ」のH音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

の転訛と解します。

 

241C1天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇

 父は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智天皇)の項を参照してください。

 

241C2遠智(をち)娘

 母は238E2遠智(をち)娘の項を参照してください。

 

241D1大田(おほた)皇女から241D13伊賀(いが)皇子まで

 兄弟姉妹は238F1大田(おほた)皇女から238F14伊賀(いが)皇子(大友(おほとも)皇子。239弘文天皇)の項を参照してください。

 

241F草壁(くさかべ)皇子尊

 子は240F1草壁(くさかべ)皇子尊の項を参照してください。

 

241G檜隈大内(ひのくまのおほち)陵(天武天皇・持統天皇合葬陵)

 天武天皇陵は、持統紀元年10月条は皇太子草壁皇子が百官、国司、国造等を率いて大内(おほち)陵を築きはじめたとし、同2年11月条は天武天皇の遺骸を納めたとします。この陵には大宝2年12月に没した持統天皇の遺骨が翌年12月に合葬されました。

 『延喜式』は天武天皇・持統天皇合葬陵を檜隈大内(おほち)陵、所在地を大和国高市郡とし、『陵墓要覧』は所在地を奈良県高市郡明日香村大字野口とします。通称「野口皇(おう)ノ墓古墳」で、一辺約190メートルの方形壇の上に八角墳が造成されています。

 のち文暦2(1235)年3月に御陵が盗掘されたことがいくつもの文献に記録され、明治13(1880)年に高山寺文書中から『阿不幾乃(あふきの)山陵記』が発見されて詳細が判明し、それまで見瀬丸山古墳が天武・持統合葬陵とされていたのが野口皇(おう)ノ墓古墳に改められました。(前出240G檜隈大内(ひのくまのおほち)陵の項を参照してください。)

 

241H1八口朝臣音橿(おとかし)・中臣朝臣臣(おみ)麻呂・巨勢朝臣多益須(たやす)・新羅法師行心(かうじむ)・帳内(とねり)礪杵道作(ときのみちつくり)

 持統紀朱鳥元年9月条は、天武天皇の崩御後皇后が臨朝称制したとし、同年10月条は、2日に240F3大津皇子に謀反の計画があることが発覚し(『懐風藻』は238F10川嶋皇子が密告したとします)、皇子と八口朝臣音橿(おとかし)、237H9壱伎連博徳(はかとこ)、中臣朝臣臣(おみ)麻呂、巨勢朝臣多益須(たやす)、新羅法師行心(かうじむ)および帳内礪杵道作(ときのみちつくり)等3十余人は逮捕されて、3日に皇子は死を賜り、妃の山辺皇女も殉死したとします。逮捕者のうち礪杵道作は伊豆へ流罪、新羅法師行心は飛騨の寺へ移され、他は赦免されました。

 この「おとかし」、「たやす」、「かうじむ」、「ときのみちつくり」は、

  「オト・カチ」、AUTO-KATI(auto=trailing behind,slow,dilatory,protract;kati=block up,close up,bite,nip)、「(小さな事柄を)引き延ばして・大きく誇張する(話を仕立て上げる。朝臣)」

  「タイア・ツ」、TAIA-TU(taia=neap of the tide,outer palisade of a stockade;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(朝廷の)外で・活発に行動した(朝臣)」

  「カウ・チム」、KAU-TIMU(kau=alone,bare,empty,swim,wade;timu=ebb,ebbing,involuntary contraction of muscles,shoulder,end,tail)、「最後は・一人ぼっちだった(仲間から離れて何もしていなかった。法師)」

  「トキ・ノ・ミチ・ツク・リ」、TOKI-NO-MITI-TUKU-RI(toki=adze or axe,fetch;no=of;miti=lick,undertow of surf,a heavy stone from which weapons were made;tuku=let go,leave,allow,send,present,catch in a net,side,shore;ri=screen,protect,bind)、「堅い特殊な石で・斧(武器)を・まとめて・製造(調達)した(舎人)」

の転訛と解します。(「中臣朝臣臣(おみ)麻呂」については前出240H15臣(おみ)の項を参照してください。)

 

241H2土師宿禰根(ね)麻呂・大宅朝臣麻呂(まろ)・藤原朝臣史(ふびと。不比等)・當麻眞人櫻井(さくらゐ)・穂積朝臣山守(やまもり)・大三輪朝臣安(やす)麻呂

 持統紀3年2月条は、240H14竹田王、土師宿禰根(ね)麻呂、大宅朝臣麻呂(まろ)、藤原朝臣史(ふびと。不比等)、當麻眞人櫻井(さくらゐ)、穂積朝臣山守(やまもり)、241H1中臣朝臣臣(おみ)麻呂、241H1巨勢朝臣多益須(たやす)および大三輪朝臣安(やす)麻呂を判事に任命したとします。

 この「ふびと(ふひと)」、「さくらゐ」、「やまもり」は、

  「フ・ピト」、HU-PITO(hu=hill,promontory,resound,noise,tenor or drift of a speech;pito=end,extremity,navel,at first)、「(部族の歴史や物語を)語って聞かせる(ことでは)・第一の(人物。朝臣)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)(藤原朝臣史(不比等)は、235H7藤原鎌足の次男で、幼時に山科の田辺史大隅の家で育ったので史と名付けられたと伝えられます。)

  「タク・ラヰ」、TAKU-RAWHI(taku=edge,gunwale,hollow,skirt,threaten behind one's back;rawhi=grasp,seize,hold firmly,surround)、「(事柄の)周辺(=本質的でない、重要でない事柄)に・拘泥する(真人)」

  「イア・マ・モリ」、IA-MA-MORI(ia=indeed,current;ma=white,clear;mori=fondle,caress)、「実に・清らかな場所(山)を・保護する(朝臣)」

の転訛と解します。(「土師宿禰根(ね)麻呂」については古典篇(その十三)の236H14高田首根(ね)麻呂の項を、「大宅朝臣麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を、「大三輪朝臣安(やす)麻呂」については前出240H5山辺君安(やす)麻呂の項を参照してください。)

 

241H3羽田朝臣斎(むごへ)・伊余部連馬飼(うまかひ)・調忌寸老人(おきな)・大友宿禰手拍(てうち)

 持統紀3年6月条は、238F13施基皇子、240H7佐味朝臣宿禰(すくな)麻呂、羽田朝臣斎(むごへ)、伊余部連馬飼(うまかひ)、調忌寸老人(おきな)、大友宿禰手拍(てうち)、241H1巨勢朝臣多益須(たやす)等を撰善言司に任命したとします。

 この「むごへ」、「うまかひ」、「てうち」は、

  「ム・(ン)ゴヘ」、MU-NGOHE(mu=silent,murmur at,show discontent with;ngohe=supple,quivering,obedient,active)、「小さな声で話す・腰が低い(朝臣)」(「(ン)ゴヘ」のNG音がG音に変化して「ゴヘ」となった)

  「ウマ(ン)ガ・カヒ」、UMANGA-KAHI(umanga=pursuit,occupation,an incantation for the destruction of the enemy;kahi,kakahi=chief,perform some part of the ceremony removing tapu)、「(諸々の穢れを)祓う・仕事に従事する(連)」(「ウマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウマ」となった)

  「タイ・ウチ」、TAI-UTI(tai=the sea,the coast,wave,anger,violence;uti=bite)、「烈しく・(噛みつく)議論を吹っかける(宿禰)」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」となった)

の転訛と解します。(「調忌寸老人(おきな)」については前出240H7坂上直老(おきな)の項を参照してください。)

 

241H4丹比嶋(しま)真人

 持統紀4年7月条は、240F13高市(たけち)皇子を太政大臣とし、丹比嶋(しま)真人を右大臣とし、八省百寮の官を選任したとします。

 この「しま」は、

  「チヒ・マ」、TIHI-MA(tihi=summit,top,lie in a heap;ma=white,clear)、「最高の地位にある・清らかな(真人)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

の転訛と解します。

 

241H5大伴部博麻(はかま)・土師連富杼(ほど)・氷連老(おゆ)・弓削連元宝(ぐわんほう)

 持統紀4年10月22日条は、9月に新羅の使者とともに帰国した筑紫国上陽羊郡の軍丁大伴部博麻(はかま)が白村江の敗戦によって唐の捕虜となった後、唐の対倭国計画を知らせようとした土師連富杼(ほど)、氷連老(おゆ)、238H14筑紫君薩夜麻(さちやま)および弓削連元宝(ぐわんほう)の児の4人の帰国旅費を工面するために自らの身を奴隷に売って30年間異国で苦労した功績を厚く顕彰したとします。

 この「はかま」、「ほど」、「おゆ」、「ぐわんほう」は、

  「ハ・カマ」、HA-KAMA(ha=what!,breath,taste;kama=eager)、「何と・(朝廷を尊び国を愛する)心情が真摯であった(軍丁)」

  「ホト」、HOTO(begin,make a convulsive movement,be apprehensive,dislike)、「ぶるぶる震えていた(連)」(紀には帰国の記事が見えません。)

  「オイ・ウ」、OI-U(oi=shout,shudder,move continuously,agitate;u=bite,be firm,be fixed)、「(しょっちゅう)身体を揺すっているのが・習慣となっている(連)」(この「氷連老(おゆ)」は白雉5年2月条分注に見える遣唐使とともに帰国した留学生氷連老人(をきな)と同一人かとする説があります(岩波大系本頭注)。)

  「ク・ワナ・ホウ」、KU-WHANA-HOU(ku=silent;whana=recoil,kick,revolt,impel,travel,company;hou=bind,lash together,enter,force downwards or under)、「静かに・(帰国する遣唐使と)一緒に・帰国した(連)」(「ワナ」が「ワン」となった)(この「弓削連元宝(ぐわんほう)」は白雉5年2月条分注に見える遣唐使とともに帰国した趙元宝と同一人とする説があります(岩波大系本頭注)。)

の転訛と解します。(「筑紫君薩夜麻(さちやま)」については前出238H14筑紫君薩野馬(さちやま)の項を参照してください。)

 

241H6當摩眞人智徳(ちとこ)

 持統紀6年3月条は、240H14廣瀬(ひろせ)王、當摩眞人智徳(ちとこ)および240H17紀朝臣弓張(ゆみはり)等を留守官とし、240H17大三輪朝臣高市(たけち)麻呂の農事の妨げとなるので行幸しないようにとの再度にわたる諫言を退けて天皇が吉野へ行幸したとします。

 この「ちとこ」は、

  「チ・トコ」、TI-TOKO(ti=throw,cast,overcome;toko=pole,propel with a pole,support with a pole,push or force to a distance)、「(吉野行幸の留守を)支える(役に)・充てられた(任じられた。真人)」

の転訛と解します。

 

241H7小野朝臣毛野(けの)

 持統紀9年7月条は、小野朝臣毛野(けの)、237H9伊吉連博徳(はかとこ)等を新羅への使者に任じたとします。

 この「けの」は、

  「ケノ」、KENO(=kekeno=look,look about,seal,sea-lion,chief)、「(良く)観察する(朝臣)」または「あざらし(またはトド)のような(どっしりとした部族の長。朝臣)」

の転訛と解します。

 

241H8軽(かる)皇子

 持統紀11年2月条は、240F1草壁皇子の子の軽(かる)皇子(のち同年8月に禅譲されて242文武天皇)を皇太子とし、240H17當摩眞人国見(くにみ)をの東宮大傅と、240H16路眞人跡見(とみ)を春宮大夫と、240H16巨勢朝臣粟持(あはもち)をその亮(すけ)としたとします。

 この「かる」は、

  「カル」、KARU(rags,spongy matter enclosing the seeds of a gourd,snare,eye,head)、「(スポンジのように)軟らかい(弱い性格の。皇子)」

の転訛と解します。(雑楽篇の301の(3)いろもの項を参照してください。)

 
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<修正経緯>

1 平成17年8月1日

 238G山科陵の別解釈および240H8の項に羽田公矢国の子の大人(うし)の名を追加しました。

2 平成18年4月1日

 238H5守君大石の項の坂合部連石積の業績を補充しました。

3 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

4 平成19年7月1日

 238H4廬原君臣の項に白村江の解釈を追加し、241A持統天皇の項の一部(ヤマトネコの解釈)を修正しました。

5 平成20年5月1日

 240H11坂本臣財の項に壱岐史韓国の別解釈を追加しました。

 

古典篇(その十四)終わり

 
U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
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(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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