古典篇(その十一)

(平成15-5-1書込み。19-10-15最終修正)(テキスト約38頁)


トップページ 古典篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その五)>  ー継体天皇から欽明天皇までー

  目 次

 

[226継体天皇]

 226A男大迹(をほど)尊226B1樟葉(くすは)宮226B2筒城(つつき)宮226B3弟國(おとくに)宮226B4磐余玉穂(いはれのたまほ)宮226C1彦主人(ひこうし)王226C2振(ふる。ふり)媛226E1手白香(たしらか)皇女・衾田(ふすまだ)墓226E2目子(めのこ)媛226E3稚子(わかこ)媛226E4廣(ひろ)媛226E5麻績(をみ)娘子226E6關(せき)媛226E7倭(やまと)媛226E8夷(はえ)媛226E9廣(ひろ)媛226F1勾大兄(まがりのおほえ)皇子(227安閑天皇)226F2檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子(228宣化天皇)226F3天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊(229欽明天皇)226F4大(おほ)郎皇子226F5出雲(いづも)皇女226F6神前(かむさき)皇女226F7茨田(まむた)皇女226F8馬来田(うまぐた)皇女226F9豆角(ささげ)皇女226F10茨田大(まむたのおほ)郎皇女226F11白坂活日(しらさかいくひ)姫皇女226F12小野稚(をののわか)郎皇女226F13大(おほ)娘皇女226F14椀子(まろこ)皇子226F15耳(みみ)皇子226F16赤(あか)姫皇女226F17稚綾(わかや)姫皇女226F18圓(つぶら)娘皇女226F19厚(あつ)皇子226F20兔(うさぎ)皇子226F21中(なかつ)皇子226G藍野(あゐの)陵226H1大伴金村(かなむら)大連・物部麁鹿火(あらかひ)大連・許勢男人(こせのをひと)大臣226H2倭彦(やまとひこ)王226H3河内馬飼首(おびと)荒籠(あらこ)226H4穂積臣押山(おしやま)226H5伴跛(はへ)国226H6近江毛野(けな)臣226H7筑紫國造磐井(いはゐ)・筑紫君葛子(くずこ)226H8物部伊勢連父根(ちちね)・吉士老(きしのおきな)226H9河内馬飼首御狩(みかり)226H10調吉士(つきのきし)・目頬子(めづらこ)

 

[227安閑天皇]

 227A廣國排武金日(ひろくにをしたけかなひ)尊227B勾金橋(まがりのかなはし)宮227C1男大迹(をほど)尊227C2目子(めのこ)媛227D1檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子から227D20中(なかつ)皇子まで227E1春日山田(かすがのやまだ)皇女227E2紗手(さて)媛227E3香香有(かかり)媛227E4宅(やか)媛227G舊市高屋丘(ふるいちのたかやのをか)陵227H1内膳卿膳(かしはで)臣大(おほ)麻呂・伊甚(いじみ)国造稚子(わくご)直227H2大河内(おほしかふち)直味張(あぢはり)・黒梭(くろひ)・雌雉(きじ)田・狭井(さゐ)田227H3三嶋(みしま)縣主飯粒(いひぼ)・竹村(たかふ)・鳥樹(とりき)227H4廬城(いほき)部連枳呂喩(きこゆ)・幡(はた)媛・物部大連尾輿(をこし)227H5武蔵国造笠原(かさはら)直使主(おみ)・小杵(をき)・上毛君小熊(をくま)227H6櫻井田部(たべ)連・縣犬飼(いぬかひ)連・難波吉士(なにはのきし)

 

[228宣化天皇]

 228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊228B檜隈(ひのくま)廬入野(いほりの)宮228C1男大迹(をほど)尊228C2目子(めのこ)媛228D1勾大兄(まがりのおほえ)皇子から228D20中(なかつ)皇子まで228E1橘仲(たちばなのなかつ)皇女228E2大河内(おほしかふち)稚子(わくご)媛228F1石(いし)姫皇女228F2小石(こいし)姫皇女228F3倉稚綾(くらのわかや)姫皇女228F4上殖葉(かみつうゑは)皇子228F5火焔(ほのほ)皇子228G身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうへ)陵228H1蘇我稲目(そがのいなめ)宿禰・阿倍大(あへのおほ)麻呂臣228H2大伴磐(いは)・狭手彦(さでひこ)

 

[229欽明天皇]

 229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊229B1磯城嶋(しきしま)金刺(かなさし)宮229B2難波祝津(はふりつ)宮229B3樟勾(くすのまがり)宮229B4泊瀬柴籬(はつせのしばかき)宮229C1男大迹(をほど)尊229C2手白香(たしらか)皇女229D1勾大兄(まがりのおほえ)皇子から229D20中(なかつ)皇子まで229E1石(いし)姫皇女229E2稚綾(わかあや)姫皇女229E3日影(ひかげ)皇女229E4堅鹽(きたし)媛229E5小姉(をあね)君229E6糠子(あらこ)229F1箭田珠勝大兄(やたのたまかつのおほえ)皇子229F2譯語田渟中倉太珠敷(をさたのぬなくらのふとたましき)尊(230敏達天皇)229F3笠縫(かさぬひ)皇女229F4石上(いそのかみ)皇子229F5倉(くら)皇子229F6大兄(おほえ)皇子(231用明天皇)229F7磐隈(いはくま)皇女229F8臘嘴鳥(あとり)皇子229F9豊御食炊屋(とよみけかしきや)姫尊(233推古天皇)229F10椀子(まろこ)皇子229F11大宅(おほやけ)皇女229F12石上部(いそのかみべ)皇子229F13山背(やましろ)皇子229F14大伴(おほとも)皇女229F15櫻井(さくらゐ)皇子229F16肩野(かたの)皇女229F17橘本稚(たちばなのもとのわか)皇子229F18舎人(とねり)皇女229F19茨城(うまらき)皇子229F20葛城(かづらき)皇子229F21泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇女229F22泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇子229F23泊瀬部(はつせべ)皇子(232崇峻天皇)229F24春日山田(かすがのやまだ)皇女229F25橘(たちばな)麻呂皇子229G檜隈坂合(ひのくまのさかひ)陵229H1秦大津父(はだのおほつち)229H2青海夫人(あをみのおほとじ)勾子(まがりこ)229H3津守(つもり)連己麻奴跪(こまなこ)・阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)229H4膳臣巴提使(はすひ)229H5中臣(なかとみ)連鎌子(かまこ)・溝辺(いけへ)直229H6馬飼首歌依(うたより)・逢(あふ)臣讃岐(さぬき)・守石(もりし)・名瀬氷(なせひ)229H7紀男(を)麻呂宿禰・河邊(かはへ)臣瓊缶(にへ)・薦集部(こもつめべ)首登弥(とみ)・倭国造手(て)彦・坂本臣甘美(うまし)媛・調吉士(つきのきし)伊企儺(いきな)・大葉(おほば)子229H8美女(をみな)媛・吾田子(あたこ)229H9江渟(えぬ)臣裙代(もしろ)・東漢氏直糠児(あらこ)・葛城直難波(なにわ)229H10膳臣傾子(かたぶこ)・許勢臣猿(さる)・吉士赤鳩(あかはと)・東漢坂上直子麻呂(こまろ)・錦部首大石(おほいし)229H11坂田耳子(みみこ)郎君229H12筑紫国造鞍橋(くらじの)君

<修正経緯>

 

 

 

<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その五)>

  ー継体天皇から欽明天皇までー

 

 [ここでは神武天皇の部を201とし、その中で和風諡号は201A(別名または幼名は201A2~)、宮都は201B、父母は201C1~2、兄弟姉妹は201D1~、后妃は201E1~、皇子は201F1~、陵は201G、治世中特筆すべき人名等は201H1~として整理番号を付し、以下同様に<その一>では201神武天皇から209開化天皇まで、<その二>では210崇神天皇・211垂仁天皇を、<その三>では212景行天皇から219允恭天皇まで、<その四>では220安康天皇から225武烈天皇まで、<その五>では226継体天皇から229欽明天皇まで、<その六>以降では230敏達天皇から250桓武天皇までを順次解説する予定です。

 表記は原則として『古事記』、『日本書紀』(242文武天皇から250桓武天皇までは『続日本紀』。すべて岩波日本古典文学大系本)によります。本文中001〜199の神名は、古典篇(その五)<『古事記』の神名>により、名義は主として岩波日本古典文学大系本の注および『古事記』(新潮日本古典集成、校注西宮一民、昭和54年)の付録「神名の釈義」によります。

 ポリネシア語による解釈は、原則としてマオリ語により、ハワイ語による場合は注記を付します。]

 

 

[226継体天皇]

 

226A男大迹(をほど)尊

 紀は226C1彦主人(ひこうし)王と226C2振(ふる。ふり)媛の子で、215応神天皇の5世の孫の男大迹(をほど)尊(亦の名は彦太(ひこふと)尊)とし、記も品太(ほむだ)王(215応神天皇)の5世の孫の袁本杼(をほど)命とします。

 記紀は215応神天皇の5世の孫とするのみで系譜を記しませんが、『釈日本紀』に引用する『上宮記逸文』には父方・母方の系譜が記されています。(226C1彦主人(ひこうし)王の項に記すように「ホムツワケ」と「ホムタワケ」の混同または系譜の混乱か、または血統が全く異なる天皇の出自を意図的に皇族の範囲に含めるための作為があった可能性があります。)

 225武烈天皇が崩御して子が無かったので、大伴金村大連等は最初丹波国にいた226H2倭彦(やまとひこ)王を擁立しようとしますが果たさず、越前三国にいた男大迹(をほど)尊を招請しますが尊はその真意を疑って直ちには皇位に就こうとせず、旧知の226H3河内馬飼首(うまかいのおびと)荒籠(あらこ)が真意を告げたので226B1樟葉(くすは)宮に移り、再三辞退したのち漸く即位して226E1手白香(たしらか)皇女を皇后としたと伝えます。

 その後226B2筒城(つつき)宮、226B3弟國(おとくに)宮を転々として継体20年に漸く大和に入って磐余玉穂(いはれのたまほ)宮に移ります。

 天皇の時代には半島情勢が流動化し、その対処に追われるようになり、継体21年には磐井の乱が起こっています。

 この「をほど」、「ひこふと」は、

  「ワウ・ホト」、WHAU-HOTO(whau,whawhau=tie;hoto=begin,make a convulsive movement,be apprehensive,suspicious)、「(大伴金村大連が派遣した使者の招請の真意に対する)疑念に・縛られていた(尊)」(「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」となった)

  「ヒコ・フトイ」、HIKO-HUTOI(hiko=move at random or irregularly,flash as lightning;hutoi=stunted,growing weakly,dishevelled)、「(都を)あちこち移動した・(大和へ入るのを)躊躇していた(尊)」(「フトイ」の語尾のI音が脱落して「フト」となった)

の転訛と解します。

 

226B1樟葉(くすは)宮

 紀は最初の宮を河内の樟葉(くすは)宮とします。崇神紀10年9月条に樟葉の地名の起源説話があります。(古典篇(その七)の210H9彦国葺(ひこくにぶく)の項を参照してください。)淀川の水陸交通の拠点で、対岸の三嶋との間に渡し場がありました。

 記は樟葉(くすは)宮、226B2筒城(つつき)宮、226B3弟國(おとくに)宮の名を記しません。

 この「くすは」は、

  「ク・ツパ」、KU-TUPA(ku=silent;tupa=dried up,barren,flat)、「静かな・平地(地域。そこにある宮)」(「ツパ」のP音がF音を経てH音に変化して「ツハ」から「スハ」となった)

の転訛と解します。

 

226B2筒城(つつき)宮

 継体紀5年10月条は山背(やましろ)の筒城(つつき)宮に移ったとします。216仁徳天皇の皇后216E1磐(いわ)之媛が引きこもった筒木(つつき)宮の所在地とされます。

 この「つつき」は、

  「ツツ・キ」、TUTU-KI(tutu=hoop for holding open a hand net;ki=full,very)、「手網の取手のような(U字形の丘陵の)尾根が・たくさんある(地域。そこにある宮)」

の転訛と解します。

 

226B3弟國(おとくに)宮

 継体紀12年3月条は弟國(おとくに)宮に移ったとします。垂仁記および垂仁紀15年8月条に弟國の地名起源説話があります。(古典篇(その七)の211E4真砥野(まとの)媛の項を参照してください。)

 この「おとくに」は、

  「アウト・クニ」、AUTO-KUNI(auto=trailing behind,slow,drag out;(Hawaii)kuni=to burn,kindle,blaze)、「(淀川から)引き込まれている(桂川の)後ろ(西岸)に位置している・居住地(地域。そこにある宮)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

の転訛と解します。

 

226B4磐余玉穂(いはれのたまほ)宮

 継体紀20年9月条は磐余玉穂(いはれのたまほ)宮に移った(一書は7年に移った)とします。記は宮を伊波禮(いはれ)の玉穂(たまほ)宮とします。

 この「いはれ」、「たまほ」は、

  「イ・ハレ」、I-HARE(i=past tense,beside;hare=come,go)、「(大和国の中に)進入・した(土地)」(地名篇(その五)の奈良県の(1)大和国(41)磐余の項を参照してください。)

  「タマ・ホ」、TAMA-HO(tama=son,child,man;ho=put out the lips,droop,shout)、「(天皇が崩御して(皇后の生んだ))子供の・元気がなくなった(宮)」もしくは「(天皇が崩御して(皇后の生んだ))子供が・叫び声をあげた(痛めつけられた。または殺された。(宮)」

  または「タ・マホ」、TA-MAHO(ta=the...of,dash,beat,lay;maho=quiet,undisturbed)、「静寂に・包まれている(宮)」

の転訛と解します。

 

226C1彦主人(ひこうし)王

 紀は天皇を誉田天皇(215応神天皇)の5世の孫、父の名は彦主人(ひこうし)王とし、記は天皇を品太王(215応神天皇)の5世の孫として父の名は記しません。

 彦主人王は、226C2振(ふる。ふり)媛が端麗な美人だと聞いて近江国高嶋郡の三尾(みを)の別業(なりどころ)から使いを出して越前三国の坂中井(さかなゐ)に住んでいた振媛を娶り、天皇を生んだとします。

 なお、『釈日本紀』に引用する『上宮記逸文』には父方として凡牟都和気(ほむつわけ)王ー若野毛二俣(わかのけふたまた)王ー大(おほ)郎子(意富々等(おほほど)王)ー乎非(をひ)王ー汗斯(うし)王ー乎富等(をほど)大公王(継体天皇)の系譜が記されています。『上宮記逸文』は、凡牟都和気(ほむつわけ)王を応神天皇としますが、記紀は「ほむつわけ」王を211垂仁天皇の子、211F1誉津別(ほむつわけ)命としており、世数が合いません。

 また、『上宮記逸文』の系譜中若野毛二俣(わかのけふたまた)王は記紀には応神天皇の皇子215F17稚野毛二派皇子として見えています。

 さらに継体天皇の曾祖父として意富々等(おほほど)王を掲げており、この「おほほど」の「おほ」を「大」、「をほど」の「を」を「小」と解する説があります。

 この「ひこうし」、「みを」、「なりどころ」、「おほほど」、「をひ」は、

  「ヒコ・ウチ」、HIKO-UTI(hiko=move at random or irregularly,flash as lightning;uti=bite)、「(諸方に)遠征して・征服した(王)」

  「ミ・オフ」、MI-OHU(mi=stream,river;ohu=besat in great numbers,surround)、「湖(琵琶湖)を・取り囲む(地域。そこに住む氏族)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」から「ヲ」となった)

  「(ン)ガリ・トコラウ」、NGARI-TOKORAU(ngari=annoyance,disturbance,greatness,power;tokorau=absent at a distance,separate)、「(本拠と)離れている・権力(の所在地。別荘)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」と、「トコラウ」のAU音がO音に変化して「トコロ」となった)

  「オホ・ホト」、OHO-HOTO(oho=spring up,wake up,arise;hoto=begin,make a convulsive movement,be apprehensive,suspicious)、「すっくと立つていた・疑ぐり深かった(王)」

  「オヒ」、OHI(grow,be vigorous applied chiefly to childhood)、「(幼少のころは)活発だった(王)」

の転訛と解します。

 

226C2振(ふる。ふり)媛

 紀は母を活目天皇(211垂仁天皇)の7世の孫、振(ふる)媛とし、記は母の名は記しません。

 媛は越前三国(みくに)の坂中井(さかなゐ)から近江へ嫁ぎましたが、天皇が幼い頃に226C1彦主人(ひこうし)王が死んだので、実家のある高向(たかむこ。現福井県坂井郡丸岡町付近)に戻って天皇を養育したとします。

 なお、『釈日本紀』に引用する『上宮記逸文』には母方として伊久牟尼利比古(いくむねりひこ)大王(211垂仁天皇)ー伊波都久和希(いはつくわけ)(211F15磐衝別命)ー伊波智和希(いはちわけ)ー伊波己里和気(いはこりわけ)ー麻和加介(まわかけ)ー阿加波智(あかはち)君ー乎波智(をはち)君ー布利(ふり)比弥命の系図が記されています。

 この「ふる(ふり)」、「みくに」、「さかなゐ」、「たかむこ」、「いはつくわけ」、「いはちわけ」、「いはこりわけ」、「まわかけ」、「あかはち」、「をはち」は、

  「フル」、HURU(hair,contract,glow,dislike)、「輝いていた(媛)」もしくは「(近江の地で子育てすることを)嫌った(媛)」または「フリ」、HURI(turn round,overturn,overflow)、「(近江から生地の越前へ)戻った(媛)」

  「ミ・イク・ヌイ」、MI-IKU-NUI(mi=stream,river;iku=hiku=tail of a fish,tip of a leaf etc.;nui=large,many)、「巨大な・魚の尻尾のような場所(福井平野の河口部)を・流れる川(その河口の場所)」(「ミ」のI音と「イク」の語頭のI音が連結して「ミク」と、「ヌイ」が「ニ」となった)

  「タカ・ナウェ」、TAKA-NAWE(taka=heap,lie in a heap;nawe=scar)、「傷がある(浸食されている)・高台(地域)」(「ナウェ」が「ナヰ」となった)

  「タカ・ムク」、TAKA-MUKU(taka=heap,lie in a heap;muku=wipe,rub,smear)、「拭ったような(平らな)・高台(地域)」

  「イ・ワツクフ・ワカイ(ン)ガ」、I-WHATUKUHU-WAKAINGA(i=past tense,beside;whatukuhu=kidney;wakainga=distant home)、「(腎臓に相当する)水源地(瀬田川が流れ出す琵琶湖)の・傍らの・遠いところを住居とした(王)」(「ワツクフ」のH音が脱落して「ワツク」と、「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)(古典篇(その七)の211F15磐衝別命の項を参照してください。)

  「イ・パチ・ワカイ(ン)ガ」、I-PATI-WAKAINGA(i=past tense,beside;pati=try to obtain by coaxing,flattery,shallow,ooze,splash;wakainga=distant home)、「(権力者に)追従・した・遠いところを住居とした(王)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」となった)

  「イ・ワ・コリ・ワカイ(ン)ガ」、I-WHA-KORI-WAKAINGA(i=past tense,beside;wah=be disclosed,get abroad;kori=move,wriggle,bestir oneself;wakainga=distant home)、「奮起して行動したことを・世に明らかに・した・遠いところを住居とした(王)」

  「マワ・カケ」、MAWA-KAKE(mawa,mawawa=cracked,split,slack;kake=ascend,climb upon,be superior to)、「割れ目(逆境)から・立ち上がった(再起した。王)」または「マハ・カカイ」、MAHA-KAKAI(maha=satisfied,depressed,many,abundant;kakai=conspire,take counsel)、「多くの・策略を巡らした(王)」(「マハ」が「マワ」と、「カカイ」のAI音がE音に変化して「カケ」となった)

  「アカ・パチ」、AKA-PATI(aka=yearning,scrape away;pati=try to obtain by coaxing,flattery,shallow,ooze,splash)、「(権力者に)熱心に・追従した(王)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」となった)

  「オ・パチ」、O-PATI(o=the...of,belonging to;pati=try to obtain by coaxing,flattery,shallow,ooze,splash)、「(権力者に)追従・した(王)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」となった)

の転訛と解します。

 

226E1手白香(たしらか)皇女・衾田(ふすまだ)墓

 継体紀元年3月条は即位後に立てた皇后を224A億計(おけ)尊(224仁賢天皇)と224E1春日大娘(かすがのおほいらつめ)皇女の第3子、手白香(たしらか)皇女(或本は224F4樟氷(くすひ)皇女を第三子、224F3手白香(たしらか)皇女を第四子とします)とし、記は億祁(おけ)命と春日大娘女(かすがのおほいらつめ)の第4子、手白髪(たしらが)郎女とします。

 「たしらか」は、『延喜主計式』の「多志羅加」など水を入れる大きな容器の名とする説があります。

 皇后は、後宮に関することを取り仕切り、226F3天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊(229欽明天皇)(記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命)を生んだとします。

 なお、『延喜諸陵寮式』は手白香皇女の墓を衾田(ふすまだ)墓(在大和国山辺郡)と記します。

 この墓は明治初期に奈良県天理市の大和(おおやまと)古墳群の西殿塚古墳(全長約220メートル)に比定されましたが、発掘の結果3世紀後半と推定され、真の衾田墓は時代が一致する西殿塚の西北にある西山塚古墳(全長約120メートル)とする説があります。この西山塚古墳は、後期古墳でありながら後円部が高く、前方部が低いという特異な形を持ち(この形は後出の墓名の解釈結果と一致します)、息子の欽明天皇陵ではないかとされる橿原市の見瀬丸山古墳と墳形がきわめてよく似ていることが指摘されています。

  左:西山塚古墳         右:墳丘側面概略図

 この「たしらか」、「ふすまだ」は、

  「タ・チ・ラカ」、TA-TI-LAKA(ta=the...of,dash,beat,lay;ti=throw,cast,overcome;(Hawaii)laka=tame,domesticated,gentle,attracted to)、「魅力が・溢れる(振りまく)・女性(皇女)」

 (なお、『延喜式』の「多志羅加(たしらか)」も同じ語源で、「そつと・(水を)注ぐもの」と解します。雑楽篇(その二)の1049たしらか(多志良加。甕)の項を参照してください。)(以上「たしらか」については、古典篇(その十)の224F3手白香(たしらか)皇女の項を再掲しました。)

  「フ・ツマタ」、HU-TUMATA(hu=hill,promontory;tumata=set on fire,burn)、「(甕[=多志羅加(たしらか)。手白香(たしらか)皇女にかけてある]が)火に懸けてあるような・岡(墳墓)」(「ツマタ」が「スマダ」となった)(この解釈からは、平らな壇(かまど)の上に甕に擬される(周囲に直立した擁壁を持ち、軽く膨らんだ蓋を載せたような)円墳が載った形状が想像されます。この形状は、真の衾田墓とされる西山塚古墳にそっくりと考えられます。)

の転訛と解します。

 

226E2目子(めのこ)媛

 紀は8人の妃を納れたとし、最初の妃は尾張連草香(くさか)の女、目子(めのこ)媛(亦の名は色部(しこぶ))で、226F1勾大兄(まがりのおほえ)皇子(廣國排武金日(ひろくにをしたけかなひ)尊。227安閑天皇)と226F2檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子(武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊。228宣化天皇)の2人を生んだとします。

 記は3人目の妃として尾張連等の祖、凡(おほし)連の妹、目子(めのこ)郎女が廣國押建金日(ひろくにをしたけかなひ)命と建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命の二人を生んだとします。

 この「めのこ」、「しこぶ」、「くさか」、「おほし」は、

  「メノ・コ」、MENO-KO(meno,whakamenomeno=show off,make a display;ko=addressing to males and females)、「際だって目立つている・女性(媛)」

  「チコ・プ」、TIKO-PU(tiko=stand out,protrude,settled upon;pu=tribe,skilled person,wise one,lie in a heap)、「図抜けている・賢い(才色兼備の。媛)」

  「ク・タカ」、KU-TAKA(ku=silent;taka=heap,lie in a heap)、「静かな・高いところに居る(高貴な身分の。首長)」

  「オホ・チ」、OHO-TI(oho=spring up,wake up,arise;ti=throw,cast,overcome)、「すっくと・立っている(首長)」

の転訛と解します。

 

226E3稚子(わかこ)媛

 紀は2番目の妃を三尾(みを)角折(つのをり)君の妹の稚子(わかこ)媛とし、226F4大(おほ)郎皇子と226F5出雲(いづも)皇女の2人を生んだとします。

 記は最初の妃を三尾(みを)君等の祖、若(わか)比売とし、大(おほ)郎子と出雲(いづも)郎女を生んだとします。

 この「わかこ」、「つのをり」は、

  「ウアカハ・コ」、UAKAHA-KO(uakaha=vigorous,difficult;ko=addressing to males and females)、「活発な・女性(媛)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

  「ツノウ・オリ」、TUNOU-ORI(tunou=nod the head,sign of assent;ori=cause to wave to and fro,sway,move about)、「あっちにもこっちにも・同意する(八方美人の。首長)」

の転訛と解します。(「三尾(みを)」については前出の226C1彦主人(ひこうし)王の項を参照してください。)

 

226E4廣(ひろ)媛

 紀は3番目の妃を坂田(さかた)大跨(おほまた)君の女の廣(ひろ)媛とし、226F6神前(かむさき)皇女、226F7茨田(まむた)皇女および226F8馬来田(うまぐた)皇女の3人を生んだとします。

 記は5番目の妃を坂田(さかた)大俣(おほまた)王の女、黒(くろ)比売とし、神前(かむざき)郎女、田(た)郎女(茨田郎女とする異本があります)、白坂活日子(しらさかのいくひこ)郎女、野(の)郎女(亦の名長目比売。小野郎女とする異本があります)の4人を生んだとします。

 この「ひろ」、「くろ」、「さかた」、「おほまた」は、

  「ヒラウ」、HIRAU(entangle,trip up,pull down anything by engaging it in a forked stick,be caught)、「(結婚に)支障があった(婚期が遅れた。媛)」または「ヒロ」、HILO((Hawaii)to twist,spin,first night of the new moon)、「(新月の最初の晩のように暗黒が終わって)やっと明るくなった(媛)」

  「クロ」、KULO((Hawaii)to wait a long time,to stand long)、「長い間待ち続けた(婚期が遅れた。媛)」

  「タカ・タ」、TAKA-TA(taka=heap,lie in a heap,fall off,fall away;ta=dash,beat,lay)、「(伊吹山の)麓に・位置している(地域)」

  「オホ・マタ」、OHO-MATA(oho=spring up,wake up,arise;mata=particle adding little force,just,face,eye,point)、「すっくと立って・(あたりを)睥睨している(首長)」

の転訛と解します。

 

226E5麻績(をみ)娘子

 紀は4番目の妃を息長(おきなが)眞手(まて)王の女の麻績(をみ)娘子とし、226F9豆角(ささげ)皇女を生んだとします。

 記は4番目の妃を息長(おきなが)眞手(まて)王の女の麻組(をくみ)郎女とし、佐佐宜(ささげ)郎女を生んだとします。

 この「をみ」、「をくみ」、「まて」は、

  「アウミヒ」、AUMIHI(sigh for,greet,welcome,applied to first two wives in a polygamous marriage)、「尊敬される(妻。多妻のうち第一夫人)」(AU音がO音に変化し、H音が脱落して「オミ」となった)

  「アウ・ク・ミヒ」、AU-KU-MIHI(au=sea,firm,intense;ku=silent;mihi=sigh for,greet,admire)、「しっかりした・口数の少ない・尊敬される(妻)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「マテ」、MATE(dead,sick,injured,subsided)、「病身の(首長)」

の転訛と解します。(「息長(おきなが)」については、古典篇(その八)の214E2息長足(おきながたらし)姫尊の項の息長の地名解釈を参照してください。)

 

226E6關(せき)媛

 紀は5番目の妃を茨田(まむた)連小望(をもち)の女の關(せき)媛とし、226F10茨田大(まむたのおほ)郎女皇女、226F11白坂活日(しらさかいくひ)姫皇女および226F12小野稚(をののわか)郎皇女の3人を生んだとします。

 記には關(せき)媛の記載がなく、白坂活日(しらさかいくひ)姫皇女および小野稚(をののわか)郎皇女は226E4黒(くろ)比売が生んだとします。

 この「せき」、「をもち」は、

  「テ・エキ」、TE-EKI(te=the;eki=high,lofty)、「実に・高貴な(媛)」(「テ」のE音と「エキ」の語頭のE音が連結して「テキ」から「セキ」となった)

  「オ・モチ」、O-MOTI(o=the...of,belonging to;moti=consumed,scarce,surfeited)、「飽食して・いる(首長)」

の転訛と解します。

 

226E7倭(やまと)媛

 紀は6番目の妃を三尾(みを)君堅威(かたひ)の女の倭(やまと)媛とし、226F13大(おほ)娘皇女、226F14椀子(まろこ)皇子、226F15耳(みみ)皇子および226F16赤(あか)姫皇女を生んだとします。

 記は6番目の妃を三尾(みを)君加多夫(かたぶ)の女の倭(やまと)比売とし、大(おほ)郎女、丸高(まろこ)王、耳(みみ)王および赤(あか)比売郎女を生んだとします。

 この「やまと」、「かたひ」、「かたぶ」は、

  「イア・マタウ」、IA-MATAU(ia=indeed,current;matau=know,understand,feel certain of)、「実に・(何でも)よく知っている(媛)」(「マタウ」のAU音がO音に変化して「マト」となった)

  「カタ・ヒ」、KATA-HI(kata=laugh,opening of shellfish;hi=raise,rise)、「よく笑う・高貴な(首長)」

  「カタ・プ」、KATA-PU(kata=laugh,opening of shellfish;pu=tribe,bunch,heap,wise one,origin)、「よく笑う・賢者(首長)」

の転訛と解します。(「三尾(みを)」については前出の226C1彦主人(ひこうし)王の項を参照してください。)

 

226E8夷(はえ)媛

 紀は7番目の妃を和珥(わに)臣河内(かふち)の女の夷(はえ)媛とし、226F17稚綾(わかや)姫皇女、226F18圓(つぶら)娘皇女および226F19厚(あつ)皇子を生んだとします。

 記は7番目の妃を阿倍(あべ)の波延(はえ)比売とし、若屋(わかや)郎女、都夫良(つぶら)郎女および阿豆(あづ)王を生んだとします。

 この「はえ」、「かふち」、「あべ」は、

  「ハエ」、HAE(slit,tear,cherish envy)、「嫉妬深い(媛)」

  「カフ・チ」、KAHU-TI(kahu=hawk,harrier,chief,kite,surface,garment;ti=throw,cast,overcome)、「鷹で・狩りをする(首長)」

  「アペ」、APAI(front wall of a house)、「(家の正面に立つ家長として)家事を取り仕切る(媛)」

の転訛と解します。(「和珥(わに)」については、古典篇(その六)の209E3姥津(ははつ)媛の項を参照してください。)

 

226E9廣(ひろ)媛

 紀は8番目の妃を根(ね)王の女の廣(ひろ)媛とし、226F20兔(うさぎ)皇子および226F21中(なかつ)皇子を生んだとします。226E4廣(ひろ)媛と同名です。

 記には記載がありません。

 この「ひろ」、「ね」は、

  「ヒラウ」、HIRAU(entangle,trip up,pull down anything by engaging it in a forked stick,be caught)、「(結婚に)支障があった(婚期が遅れた。媛)」または「ヒロ」、HILO((Hawaii)to twist,spin,first night of the new moon)、「(新月の最初の晩のように暗黒が終わって)やっと明るくなった(媛)」

  「ネヘ」、NEHE(a form of address to an old person)、「年老いた(王)」(H音が脱落して「ネ」となった)

の転訛と解します。

 

226F1勾大兄(まがりのおほえ)皇子(227安閑天皇)

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E2目子(めのこ)媛の第1子、勾大兄(まがりのおほえ)皇子とし、後に227安閑天皇となって諡号を廣國排武金日(ひろくにをしたけかなひ)尊とされます。

 記は袁本杼(をほど)命と目子(めのこ)郎女の第1子、廣國押建金日(ひろくにをしたけかなひ)命とします。

 この「まがりのおほえ」、「ひろくにをしたけかなひ」は、

  「マ(ン)ガリ・ノホ・オホ・ヘイ」、MANGARI-NOHO-OHO-HEI(mangari=luck,fortune;noho=sit,settle;oho=spring up,wake up,arise;hei=go towards)、「幸運に・恵まれている(兄弟の中で最初に皇位に就いた。または内外で大きな事件が無かつた)・すっくと立って・(弟達の)前を進む(皇子)」(「マ(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「マガリ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」と、「ヘイ」のH音が脱落して「エイ」から「エ」となった)

  「ヒロウ・クニ・オチ・タケカ・ナヒ」、HIROU-KUNI-OTI-TAKE-KANA-HI(hirou=rake,net for dredging shellfish;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;oti=finished;takeka=slovenly of weaving;(Hawaii)nahi=some,few,little)、「滅亡した(支配者が居なくなった)・居住地(屯倉)を・(熊手で)かき集めた・(自らの家庭を治めることについては)少々・だらしがなかった(尊)」(「ヒロウ」のOU音がO音に変化して「ヒロ」と、「コチ」のK音が脱落して「オチ」となった)

の転訛と解します。

 

226F2檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子(228宣化天皇)

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E2目子(めのこ)媛の第2子、檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子とし、後に228宣化天皇となって諡号を武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊とされます。

 記は袁本杼(をほど)命と目子(めのこ)郎女の第2子、建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命とします。

 この「ひのくまのたかた」、「たけをひろくにをしたて」は、

  「ヒ・ノホ・クマ・ノ・タカ・タ」、HI-NOHO-KUMA-NO-TAKA-TA(hi=raise,rise;noho=sit,settle;(Hawaii)kuma=cracking of the skin between fingers and toes;no=of;taka=heap,lie in a heap;ta=dash,beat,lay)、「(奈良盆地よりも)高い場所に・ある・(手足の指の間のような)丘陵の尾根の谷間・の・高い場所に・住む(尊)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「タケオ・ヒロウ・クニ・オチ・タタイ」、TAKEO-HIROU-KUNI-OTI-TATAI(takeo=wearisome,trying,tedious;hirou=rake,net for dredging shellfish;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;oti=finished;tatai=measure,arrange,adorn,plan,tactics)、「権謀術数を駆使して・滅亡させた(支配者が居なくなった)・国(居住地。屯倉)を・(熊手で)かき集めるのに・飽き飽きした(尊)」(「ヒロウ」のOU音がO音に変化して「ヒロ」と、「コチ」のK音が脱落して「オチ」と、「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

の転訛と解します。

 

226F3天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊(229欽明天皇)

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E1手白香(たしらか)皇女の子、天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊(後の229欽明天皇)とします。

 記は袁本杼(をほど)命と手白髪(たしらが)郎女の子、天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命とします。

 この「あめくにおしはらきひろには」、「はるき」は、

  「アマイ・クニ・オチ・ハラキ・ヒロウ・ニワ」、AMAI-KUNI-OTI-HARAKI-HIROU-NIWHA(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;oti=finished;haraki=preposterous,extraordinary;hirou=rake,net for dredging shellfish;niwha=resolute,fierce,bravery,rage)、「(その功績が)燦然と光り輝いている(天皇で)・滅亡した・国(任那)を・異常なことに・武力で強引に・(熊手で掻き集めるように)動かそうとした(再興しようとした。尊)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「ヒロウ」のOU音がO音に変化して「ヒロ」となった)

  「ハルキ」、HARUKI(=harukiruki=extremely heavy,extreme depression)、「(大和朝廷にとって負担が過重な)とんでもないことに」

の転訛と解します。

 

226F4大(おほ)郎皇子

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E3稚子(わかこ)媛の第1子、大(おほ)郎皇子とします。

 記は袁本杼(をほど)命と若(わか)比売の第1子、大(おほ)郎子とします。

 この「おほ」は、

  「オホ」、OHO(spring up,wake up,arise)、「すっくと立つていた(皇子)」

の転訛と解します。

 

226F5出雲(いづも)皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E3稚子(わかこ)の第2子、出雲(いづも)皇女とします。

 記は袁本杼(をほど)命と若(わか)比売の第2子、出雲(いづも)郎女とします。

 この「いづも」は、

  「イ・ツモウ」、I-TUMOU(i=past tense,beside;tumou=fixed,constant,continuous)、「意志が堅固・だった(皇女)」(「ツモウ」のOU音がO音に変化して「ツモ」から「ヅモ」となった)

の転訛と解します。

 

226F6神前(かむさき)皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E4廣(ひろ)媛の第1子、神前(かむさき)皇女とします。紀は皇女は227G舊市高屋丘(ふるいちのたかやのをか)陵(安閑天皇陵)に皇后とともに葬られたとします。河村秀根『書紀集解』は皇女は異母兄である安閑天皇の妃であったかとします。

 記は袁本杼(をほど)命と黒(くろ)比売の第1子、神前(かむざき)皇女とします。

 この「かむさき」は、

  「カム・タキ」、KAMU-TAKI(kamu=eat,munch,close of the hand,take the pigment of the skin in tatooing;taki=take to one side,track,stick in(takitaki=tatooing on the calf of the leg))、「(安閑天皇に)随従して・(手を合わせた)尊敬した(献身的に仕えた。皇女)」

の転訛と解します。

 

226F7茨田(まむた)皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E4廣(ひろ)媛の第2子、茨田(まむた)皇女とします。

 記は袁本杼(をほど)命と黒(くろ)比売の第2子、田(た)郎女(茨田郎女とする異本があります)とします。

 この「まむた」は、

  「マヌ・タ」、MANU-TA(manu=float,overflow,person held in high esteem,kite;ta=dash,beat,lay)、「高い評価を・得た(皇女)」

の転訛と解します。

 

226F8馬来田(うまぐた)皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E4廣(ひろ)媛の第3子、馬来田(うまぐた)皇女とします。

 記には記載がありません。

 この「うまぐた」は、

  「ウマ・クタ」、UMA-KUTA(uma=bosom,chest;kuta=encumbrance)、「貧弱な・胸をした(皇女)」

の転訛と解します。

 

226F9豆角(ささげ)皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E5麻績(をみ)娘子の子、豆角(ささげ)皇女とし、「伊勢大神の祠(まつり)に侍した(伊勢神宮の斎宮として奉仕した)」とします。

 記は袁本杼(をほど)命と麻組(をくみ)郎女の子、佐佐宜(ささげ)郎女とし、「伊勢神宮を拝(いつ)きたもうた」とします。

 この「ささげ」は、

  「タ・タハ・(ン)ガイ」、TA-TAHA-NGAI(ta=dash,beat,lay;taha=side,edge,to indicate proximity;ngai=tribe,clan)、「(伊勢皇大神宮の天照大神の)そば近くに・仕える・部族に属する(斎宮として奉仕する。皇女)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となり、「タ・タ」が「ササ」と、「(ン)ガイ」のNG音がG音に、AI音がE音に変化して「ゲ」なった)

の転訛と解します。

 

226F10茨田大(まむたのおほ)郎皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E6關(せき)媛の第1子、茨田大(まむたのおほ)郎皇女とします。

 記には記載がありません。

 この「まむたのおほ」は、

  「マヌ・タ・ノ・オホ」、MANU-TA-NO-OHO(manu=float,overflow,person held in high esteem,kite;ta=dash,beat,lay;no=of;oho=spring up,wake up,arise)、「高い評価を・得た・すっくと立っている(媛)」

の転訛と解します。

 

226F11白坂活日(しらさかいくひ)姫皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E6關(せき)媛の第2子、白坂活日(しらさかいくひ)姫皇女とします。

 記は袁本杼(をほど)命と226E4黒(くろ)比売の第3子、白坂活日子(しらさかのいくひこ)郎女とします。

 この「しらさかいくひ」は、

  「チラ・タカ・ヒク・ヒ」、TIRAHA-TAKA-IKU-HI(tiraha=bundle,slow,face upwards;taka=heap,lie in a heap;hiku=tip of a leaf,eaves of a house;hi=raise,rise)、「見上げるように・高い・家の軒の先に・登る(皇女)」(「ヒク」のH音が脱落して「イク」となった)

の転訛と解します。

 

226F12小野稚(をののわか)郎皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E6關(せき)媛の第3子、小野稚(をののわか)郎皇女(亦の名長石(ながいは)姫)とします。

 記は袁本杼(をほど)命と226E4黒(くろ)比売の第4子、野(の(の))郎女(亦の名長目(ながめ)比売。小野郎女とする異本があります)

 この「をののわか」、「ながいは」、「のの」、「ながめ」は、

  「オ・ナウナウ・ウアカハ」、O-NAUNAU-UAKAHA(o=the...of,belonging to;naunau=angry;uakaha=vigorous,difficult)、「(朝廷の中の規制に対して)怒っていた・活発な(皇女)」(「ナウナウ」のAU音がO音に変化して「ノノ」と、「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

  「ナウナウ」、NAUNAU(angry)、「(朝廷の中の規制に対して)怒っていた(皇女)」(「ナウナウ」のAU音がO音に変化して「ノノ」となった)

  「ナ・(ン)ガ・イ・ワ」、NA-NGA-I-WHA(na=belonging to;nga=satisfied,breathe;i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad)、「(朝廷の)外へ・出て・満足・した(皇女)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ナガ」となった)

  「ナ・(ン)ガ・メハ」、NA-NGA-MEHA(na=belonging to;nga=satisfied,breathe;meha=apart,separate)、「(朝廷から)離れて・満足・した(皇女)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ナガ」と、「メハ」のH音が脱落して「メ」となった)

の転訛と解します。

 

226F13大(おほ)娘皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E7倭(やまと)媛の第1子、大(おほ)娘皇女とします。

 記は袁本杼(をほど)命と倭(やまと)比売の第1子、大(おほ)郎女とします。

 この「おほ」は、

  「オホ」、OHO(spring up,wake up,arise)、「すっくと立っている(媛)」

の転訛と解します。

 

226F14椀子(まろこ)皇子

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E7倭(やまと)媛の第2子、椀子(まろこ)皇子とし、三国(みくに)公の祖であるとします。

 記は袁本杼(をほど)命と倭(やまと)比売の第2子、丸高(まろこ)王とします。

 なお、継体紀7年12月条の詔に226F3勾大兄(まがりのおほえ)皇子(後の227安閑天皇)を指して「摩呂古(まろこ)」と、同8年正月条の詔にも「麻呂古(まろこ)」と呼び、宣化紀元年3月条は228F4上殖葉(かみつうゑは)皇子の亦の名を「椀子(まろこ)」とし、欽明紀2年3月条は堅塩(きたし)媛の第5子を229F10椀子(まろこ)皇子とし、敏達紀4年正月条は230F1押坂彦人大兄(おしさかのひこひとのおほえ)皇子の亦の名を「麻呂古(まろこ)皇子」とし、大化2年3月条に椀子(まろこ)連の記載があるなど一種の愛称から固有名詞となったものがあります。

 この「まろこ」は、

  「マロ・コ」、MARO-KO(maro=stretched out,hard,headstrong,a sort of kilt or apron worn by males and females;ko=addressing to males and females)、「(儀式などで着用する高貴な身分であることを示す前掛け=化粧廻し(相撲取りの化粧廻しはこの風習の遺制と思われます)を付けた)礼装をした・男子(愛称)」

の転訛と解します。

 なお、上記の「まろこ」は「椀(まり)」の古形が「まろ」であったとする(岩波日本古典文学大系本)ことに拠りますが、「まり」であった可能性もあり、この場合は「マリ・コ」、MARI-KO(mari=fortunate,lucky of good omen;ko=addressing to males and females)、「幸せの予感がする(幸せを呼ぶ)・男子(愛称)」の転訛と解されます。

 

226F15耳(みみ)皇子

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E7倭(やまと)媛の第3子、耳(みみ)皇子とします。

 記は袁本杼(をほど)命と倭(やまと)比売の第3子、耳(みみ)王とします。

 この「みみ」は、

  「ミヒミヒ」、MIHIMIHI(frequentative of mihi(=greet,admire))、「非常に尊敬される(皇子)」(H音が脱落して「ミミ」となった)

の転訛と解します。

 

226F16赤(あか)姫皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E7倭(やまと)媛の第4子、赤(あか)姫皇女とします。

 記は袁本杼(をほど)命と倭(やまと)比売の第4子、赤(あか)比売郎女とします。

 この「あか」は、

  「ア・カ」、A-KA(a=the...of,belonging to;ka=take fire,be lighted,burn)、「(火が燃えているように)赤い・顔をした(媛)」

の転訛と解します。

 

226F17稚綾(わかや)姫皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E8夷(はえ)媛の第1子、稚綾(わかや)姫皇女とします。

 記は袁本杼(をほど)命と波延(はえ)比売の第1子、若屋(わかや)郎女とします。

 この「わかや」は、

  「ウアカハ・イア」、UAKAHA-IA(uakaha=vigorous,difficult;ia=indeed,current)、「実に・元気な(媛)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

の転訛と解します。

 

226F18圓(つぶら)娘皇女

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E8夷(はえ)媛の第2子、圓(つぶら)娘皇女とします。

 記は袁本杼(をほど)命と波延(はえ)比売の第2子、都夫良(つぶら)郎女とします。

 この「つぶら」は、

  「ツプラ(ン)ガ」、TUPURANGA(verbal noun of tupu=grow,issue,be firmly fixed)、「意志が強固な(皇女)」(語尾のNGA音が脱落して「ツブラ」となった)

の転訛と解します。

 

226F19厚(あつ)皇子

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E8夷(はえ)媛の第3子、厚(あつ)皇子とします。

 記は袁本杼(をほど)命と波延(はえ)比売の第3子、阿豆(あづ)王とします。

 この「あつ」は、

  「ア・ツ」、A-TU(a=the...of,belonging to;tu=fight with,energetic)、「精力的に・行動する(皇子)」

の転訛と解します。

 

226F20兔(うさぎ)皇子

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E9廣(ひろ)媛の第1子、兔(うさぎ)皇子とし、酒人(さかひと)公の祖であるとします。

 記には記載がありません。

 この「うさぎ」は、

  「ウタ・ア(ン)ギ」、UTA-ANGI(uta=th land,the inland;angi=free without hindrance,move freely,float)、「(内陸の)山野を・自由に走り回る(皇子)」

の転訛と解します。

 

226F21中(なかつ)皇子

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E9廣(ひろ)媛の第2子、中(なかつ)皇子とし、坂田(さかた)公の祖であるとします。

 記には記載がありません。

 この「なかつ」は、

  「ナカ・ツ」、NAKA-TU((Hawaii)naka=to crack open,cracked and peeling,to quiver,shake;tu=stand,settle)、「割れて開けた場所(谷)に・住む(皇子)」

の転訛と解します。

 

226G藍野(あゐの)陵

 紀は陵を藍野(あゐの)陵(『延喜式』は「在摂津国嶋上郡」と、『陵墓要覧』は所在地を大阪府茨木市大字太田の通称茶臼山古墳とします)、記は「三島(みしま)の藍(あゐ)の御陵」とします。

 しかし、この太田茶臼山古墳(全長286メートル。墳長226メートル。一重周濠)は、嶋下郡に属すること、藍野の名称から安威(あい)川流域にこだわって比定した経緯があること、出土物等の時代が合わないこと等が早くから指摘され、嶋上郡に属し、時代も適合し、全体規模も大きい高槻市郡家の今城(いましろ)塚古墳(全長350メートル。墳長190メートル。二重周濠)が真の継体陵であるとの説が有力です。

 なお、継体紀25年2月条は天皇は82歳で崩じたとし、記は43歳で崩じたとします。

 また、継体紀25年12月条の分注は、奇怪にも、天皇の崩御は28年との説もあるが『百済本記』の辛亥年(継体25年)に日本の天皇及び太子・皇子倶に崩薨したとの記事によったものであるとしています。安閑紀は継体25年(辛亥年)に継体天皇が崩御の直前に安閑天皇に譲位したとしながら、その歳は甲寅年である(2年の空白がある)とし、記は継体の崩年を丁未年(継体21年か)とするなど紀年が混乱しています。

 これは、天皇が仁賢天皇の皇女の手白香皇女を皇后に迎えながら即位後20年も大和に入ることができなかったこと、朝鮮経営を巡っての路線の対立から磐井の乱が起きていること、天皇の崩御後手白香皇后が生んだ天國排開廣庭尊が欽明天皇に即位する前に尾張系の目子媛が生んだ年長の兄2人が安閑天皇、宣化天皇として即位していることなどを考えあわせると朝廷を取り巻く豪族間で大きな抗争があった可能性があり、226B4磐余玉穂(いはれのたまほ)宮の名の解釈もこれを裏付けているものかも知れません。

 この「あゐの」は、

  「アウウイ・ノホ」、AUWHI-NOHO(auwhi=sad,dejected;noho=sit,settle)、「(その治世の中で大和や九州を完全に勢力下におくことができなかった)失望(または落胆のうちに崩じた天皇)が・葬られている(陵)」(「アウウイ」のWH音が脱落して「アウイ」から「アヰ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 (なお、「アヰノ」でなく、「アイノ」であれば、「アイ・ノホ」、AI-NOHO(ai=procreate,beget;noho=sit,settle)、「子供を生んでいる川(下流が分流して淀川に注いでいる安威(あい)川)の流域に・位置している(陵)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)という解釈も可能ですが、この解釈は太田茶臼山古墳には適合しますが、真の継体陵の可能性が高い今城塚古墳は芥(あくた)川流域にあるところから合致しません。)

 

226H1大伴金村(かなむら)大連・物部麁鹿火(あらかひ)大連・許勢男人(こせのをひと)大臣

 継体紀元年正月条は、大伴金村(かなむら)大連が226H2倭彦(やまとひこ)王が行方不明となったので天皇位を継ぐのは男大迹(をほど)王がよいといい、物部麁鹿火(あらかひ)大連・許勢男人(こせのをひと)大臣等がこれに賛同して招請することとなったと伝えます。天皇が即位すると、従前通り大伴金村が大連に、物部麁鹿火が大連に、許勢男人が大臣に任命されました。

 この「こせのをひと」は、

  「コテ・ノ・オ・ピト」、KOTE-NO-O-PITO(kote=squeeze out,a form of incantation for bewitching;no=of;o=the...of,belonging to;pito=at first,end,extremity,navel,offering to the god)、「(人を呪う)呪術に長けている部族・の・第一人者で・ある(首長)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)(「許勢(こせ)」については、古典篇(その六)の201H14居勢祝(こせのはふり)の項を参照してください。)

の転訛と解します。

(「大伴金村大連」については、古典篇(その十)の225H2大伴金村連の項を、「物部麁鹿火大連」については、古典篇(その十)の225H1物部大連麁鹿火の項を参照してください。)

 

226H2倭彦(やまとひこ)王

 継体即位前紀は、225武烈天皇が崩じて子がなかったので、大伴金村(かなむら)大連等が丹波国桑田郡にいた214仲哀天皇の5世の孫、倭彦(やまとひこ)王を迎えに行ったところ、迎えの軍勢を見た倭彦王は恐れて顔面蒼白となり、山壑(やまたに)に遁走して行方知れずとなったと伝えます。

 この「やまとひこ」は、

  「イア・マト・ヒコ」、IA-MATO-HIKO(ia=indeed,current;mato=deep swamp,deep valley;hiko=move at random or irregularly,flash as lightning)、「実に・深い谷間に・突然入り込んでしまった(まま消息を絶った。王)」

の転訛と解します。

 

226H3河内馬飼首(おびと)荒籠(あらこ)

 大伴金村大連等が226H2倭彦(やまとひこ)王の擁立に失敗した後、越前三国にいた男大迹(をほど)尊を招請しますが、尊はその真意を疑って皇位に就こうとせず、その間に旧知の226H3河内馬飼首(おびと)荒籠(あらこ)が使いを派遣して真意を告げたので、尊は疑いを解き、荒籠に感謝して樟葉(くすは)宮に移ります。

 この「あらこ」、「おびと」は、

  「ア・ラコ」、A-RAKO(a=the...of,belonging to;rako,rakorako=expose,uncover)、「(大伴金村大連等の真意を)明らかに・した(首長)」

  「オ・ピト」、O-PITO(o=the...of,belonging to;pito=at first,end,extremity,navel,offering to the god)、「(部族の)第一人者(または臍のような中心)で・ある(人。首長)」

の転訛と解します。

 

226H4穂積臣押山(おしやま)

 継体紀6年4月条に穂積臣押山(おしやま)を百済に派遣したとあり、同年12月条には多利国守として百済王の願いを容れて任那国の4県を百済に割譲すべきであると上奏し、大伴金村大連がこれに同調して天皇に奏上して割譲を決定した(これに物部麁鹿火大連と大兄皇子が反対した)ため、「大伴大連と穂積臣押山は百済から賄賂を受けた」と噂され、23年3月条には下多利国守として百済王の願いを容れて加羅国の多沙津を百済に割譲すべきであると上奏したとあります。

 この「おしやま」は、

  「オチ・イア・マ」、OTI-IA-MA(oti=finished;ia=indeed,current;ma=white,pale,clear)、「(悪い噂を流されて)後で・実に・顔面蒼白となった(人)」

の転訛と解します。

(「穂積(ほづみ)」については、古典篇(その八)の212H6弟橘(をとたちばな)比売命の項の穂積氏忍山(おしやま)宿禰の解釈を参照してください。)

 

226H5伴跛(はへ)国

 継体紀7年6月条に百済から伴跛(はへ)国(本彼。慶尚北道星州付近。任那北部の代表的勢力とされます)が百済の土地である己文(こもん)を侵略するので戻してほしいと請願があり、同年11月条に己文・滞沙を百済に賜ったとあり、同月に伴跛国が己文の地を賜りたいと請願があったが却下し、8年3月条に伴跛が城を築いて日本との戦いに備え、新羅に侵攻して暴虐の限りを尽くしたとあり、9年4月条に物部連の水軍が帯沙江で伴跛に攻撃され、命からがら逃げ出したとあります。

 [注:朝鮮半島の地名、人名については、その言語の系統が不明ですので、この稿では原則として解釈の対象とはしないこととしますが、一部半島南部の地名等で、いわゆる「倭」の領域内であったか、その領域の近辺で、「倭」語、すなわち縄文語または縄文語と極めて近い言語で呼称されている可能性が高いものや、明らかに縄文語で呼称されたと考えられるものについては、一部例外としてポリネシア語による解釈を”仮に”試みることとします。]

 この「はへ」は、

  「ハハエ」、HAHAE(=hae=slit,tear,cherish envy,ill-feeling,cause pain,be conspicuous,fear)、「(すさまじい)恐怖(を与える。国)」(AE音がE音に変化して「ハヘ」となった)

の転訛と解します。

 

226H6近江毛野(けな)臣

 継体紀21年6月条は近江毛野(けな)臣が6万人の軍勢を率いて任那に向かい、新羅に侵略された土地を任那に回復しようとしたところ、かねてから反逆心を抱いていた筑紫國造磐井(いはゐ)に新羅が賄賂を贈って毛野臣の軍勢の進軍を妨害させたとあります。

 また、23年3月是月条は磐井の乱の終了後に近江毛野臣が安羅に使いして、天皇の意志を伝えて新羅と百済の間を調整しようとしましたが不調に終わり、24年9月条は任那の使いが毛野臣が任地で怠けてでたらめな行政を行って混乱を起こしていると告げたので、天皇は毛野臣を召還しようとしますが、命に従わなかったとし、同年是歳条は226H10目頬子(めづらこ)の召喚によって帰る途中対馬で病のため死んだとします。

 この「けな」は、

  「ケナ」、KENA((Hawaii)quenched,weary as from heavy toil,grieved and distressed,to command,summon,send on business,demon)、「使者の役を命じられた(臣)」または「重い任務に疲れ果てた(臣)」または「(任地から)召還された(臣)」

の転訛と解します。

 

226H7筑紫國造磐井(いはゐ)・筑紫君葛子(くずこ)

 継体紀21年6月条は近江毛野(けな)臣が6万人の軍勢をっつて任那に向かい、新羅に侵略された土地を任那に回復しようとしたところ、かねてから反逆心を抱いていた筑紫國造磐井(いはゐ)に新羅が賄賂を贈って毛野臣の軍勢の進軍を妨害させたとあり、同年8月条は物部大連麁鹿火(あらかひ)を磐井討伐の大将軍に任命し、21年11月条は麁鹿火と磐井が筑紫の御井(みゐ)郡で激突し、遂に磐井を斬ったとあります。

 記は物部荒甲(あらかひ)の大連、大伴の金村の連二人を遣わして筑紫君石井(いはゐ)を殺したとし、『筑後国風土記逸文』は筑紫君石井は官軍の勢いを知って豊前国上膳(かみつみけ)縣に逃れ、南の山(豊前国南境の求菩提(くぼて)山(782メートル)・犬ケ岳(1,131メートル)とされます)に隠れて行方知れずとなったとし、上妻(かをつま)縣に生前に造成した墓墳に石人、石馬等を配した衙頭があることを記し、八女市吉田の岩戸山古墳がそれに一致するとされています。

 なお、継体紀22年12月条は筑紫君葛子(くずこ)が糟屋(かすや)屯倉を献上して死罪を免れることを願ったとあります。

 この「いはゐ」、「くずこ」は、

  「イ・ワイ」、I-WHAI(i=past tense,beside;whai=sting-ray,cat's-cradle,play at cat's-cradle)、「綾取りを・した(ように地位・境遇が一変した。人物。首長)」

  「ク・ツコウ」、KU-TUKOU(ku=silent;tukou=dress timber with an adze)、「黙って(反抗せずに)・(材木を斧で削るように)領地の一部を朝廷に屯倉として献上した(首長)」

の転訛と解します。

 (「筑紫の御井(みゐ)郡」については地名篇(その十八)の福岡県の(22)御井郡の項を、「豊前国上膳(かみつみけ)縣・求菩提(くぼて)山・犬ケ岳」については地名篇(その十八)の福岡県の(34)上毛(こうげ)郡の項を、「上妻(かをつま)縣・岩戸山古墳」については地名篇(その十八)の福岡県の(24)上妻(こうつま)郡の項を、「糟屋(かすや)屯倉」については地名篇(その十八)の福岡県の(7)糟屋郡の項を参照してください。)

 

226H8物部伊勢連父根(ちちね)・吉士老(きしのおきな)

 継体紀23年3月是月条は百済に多沙津を与えるために物部伊勢連父根(ちちね)・吉士老(きしのおきな)を派遣しましたが、加羅王が多沙津はもともと加羅に与えられたものであるとして反対したため、その面前で与えることを避け、のちに下役を通じて百済に与えたので、加羅はこれを恨んで新羅と通ずるようになったとします。

 この「ちちね」、「きしのおきな」は、

  「チチ・ネイ」、TITI-NEI(titi=peg,adorn by sticking feathers,go astray;nei=to denote proximity,to indicate continuance of action)、「(使者として)東奔西走を・続ける(者)」

  「キヒ・チ・ノ・オ・キナイ」、KIHI-TI-NO-O-KINAI(kihi=cut off,strip of branches etc.;ti=throw,cast,overcome;no=of;o=the...of,belonging to;(Hawaii)kinai=to quench or extinguish as fire,to put out,suppress,to continue,persist)、「うち捨てられたような・小氏族・の・やがて消えて行く・者(老人)」(「キヒ」のH音が脱落して「キ」と、「キナイ」の語尾のI音が脱落して「キナ」となった)

の転訛と解します。

 

226H9河内馬飼首御狩(みかり)

 継体紀23年4月是月条は天皇が任那王の話をよく聞いて任那と新羅両国を和解させるようにと近江毛野臣に命じます。毛野臣は百済・新羅の国王を呼びますが、いずれも使いを寄越したので、毛野臣は怒って天皇の勅を伝えようとせず、新羅の大臣が三千の兵を率いてやってきて三月待つても逢おうとしなかったとします。この間新羅の兵と遭遇した毛野臣の従者河内馬飼首御狩(みかり)が遠くから兵を殴るまねをしたのを他の兵に見られて毛野臣は新羅の大臣を殺すつもりではないかと勘ぐられ、新羅軍は四つの村を略奪し、村人をすべて捕虜として本国に連れ帰り、これは毛野臣の過ちであると世上の噂になったとします。

 また、24年9月条は任那の使いが毛野臣が任地で怠けてでたらめな行政を行って混乱を起こしていると告げたので、天皇は毛野臣を召還しようとしますが、毛野臣は命に従わず、従者河内馬飼首御狩をひそかに京に遣わして「天皇の命を果たさずに帰ることは恥ずかしい、命を果たした上で帰って謝罪するのでそれまで待っていただきたい」と奏上させたとします。

 この「みかり」は、

  「ミヒ・カリ」、MIHI-KARI(mihi=greet,admire;kari=dig,wound,rush along violently)、「傷(新羅による侵掠)を作った(原因となった)・挨拶(振る舞い)をした(首長)」または「乱暴な(天皇の召還命令に反した)・挨拶をした(口上を述べた。首長)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

226H10調吉士(つきのきし)・目頬子(めづらこ)

 継体紀24年9月条は、毛野臣が天皇の召還命令に従わず、従者河内馬飼首御狩をひそかに京に遣わして「天皇の命を果たさずに帰ることは恥ずかしい、命を果たした上で帰って謝罪するのでそれまで待っていただきたい」と奏上させた後、天皇の使者である調吉士(つきのきし)が自分よりも早く帰国してありのままを報告したならば自分の罪が重くなるといい、調吉士の帰国を妨げるために軍勢を率いて伊斯枳牟羅(いしきむら)城を守らせたとあります。この間任那王阿利斯等(ありしと)は任那復興の約束を守ろうとしない毛野臣を見限り、新羅と百済に使いを出して毛野臣を攻めさせるという事件があります。

 調吉士は同年10月に任那から帰国し、毛野臣の行状を報告したので、目頬子(めづらこ)を派遣して帰国させることとしたとします。

 同年是歳条は毛野臣が帰国の途中対馬で病死したとします。その妻が遺骸を近江へ運ぶとき「笛吹き上る」と歌を詠み、また、目頬子が任那に来たとき、そこの日本人が「むかさくる(壱岐の渡り)」と歌を贈ったと伝えます。

 この「つきのきし」、「ふえふき」、「めづらこ」、「むかさくる」は、

  「ツキノ・キヒ・チ」、TUKINO-KIHI-TI(tukino=ill-treated,use with violence,distressed in trouble;kihi=cut off,strip of branches etc.;ti=throw,cast,overcome)、「(毛野臣の不信行為によって朝命を果たすことができず)苦労した・うち捨てられたような・小氏族(の長)」(「キヒ」のH音が脱落して「キ」となった)

  「フヘ・フキ」、HUHE-HUKI(huhe=wearied,exhausted,ashamed;huki=transfix,spit,avenge death)、「(天皇の命を果たすことができなかった)恥ずかしさのあまり・死んでしまった(夫が故郷に帰って行く)」

  「メ・ツラハ・コ」、ME-TURAHA-KO(me=like,as if like;turaha=keep away,keep clear,be separated,wide,startled,frightened;ko=addressing to males and females)、「清らかに(私心がないように)・見える・男子」(「ツラハ」のH音が脱落して「ツラ」となった)

  「ムカ・タクル」、MUKA-TAKURU(muka=prepared fibre of flax,the way by which a god communicates with the medium;takuru=thud,thump,knock)、「織り糸を・砧で打つような(波が襲う。壱岐海峡)」または「(神である天皇の)意志を伝えるための道中を・胸をどきどきさせながら(通過する。壱岐海峡)」

の転訛と解します。

トップページ 古典篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

 

 

[227安閑天皇]

 

227A廣國排武金日(ひろくにをしたけかなひ)尊

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E2目子(めのこ)媛の第1子、226F1勾大兄(まがりのおほえ)皇子とし、後に227安閑天皇となって諡号を廣國排武金日(ひろくにをしたけかなひ)尊とされます。

 記は袁本杼(をほど)命と目子(めのこ)郎女の第1子、廣國押建金日(ひろくにをしたけかなひ)命とします。

 紀は継体天皇が崩御の日に安閑天皇に皇位を譲ったとあり、譲位の最初の例としますが、記紀の紀年には混乱があります。(前出226G藍野(あゐの)陵の項を参照してください。)

 朝鮮半島に関する記事が継体紀には非常に多かったのに反し、安閑紀には治世が短かったこともありますが殆ど見えず、屯倉(みやけ)設置に関する記事だけが目立ちます。

 この「まがりのおほえ」、「ひろくにをしたけかなひ」は、

  「マ(ン)ガリ・ノホ・オホ・ヘイ」、MANGARI-NOHO-OHO-HEI(mangari=luck,fortune;noho=sit,settle;oho=spring up,wake up,arise;hei=go towards)、「幸運に・恵まれている(兄弟の中で最初に皇位に就いた。または内外で大きな事件が無かった)・すっくと立って・(弟達の)前を進む(皇子)」(「マ(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「マガリ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」と、「ヘイ」のH音が脱落して「エイ」から「エ」となった)

  「ヒロウ・クニ・オチ・タケカ・ナヒ」、HIROU-KUNI-OTI-TAKEKA-NAHI(hirou=rake,net for dredging shellfish;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;oti=finished;takeka=slovenly of weaving;(Hawaii)nahi=some,few,little)、「滅亡した(支配者が居なくなった)・居住地(屯倉)を・(熊手で)かき集めた・(自らの家庭を治めることについては)少々・だらしがなかった(尊)」(「ヒロウ」のOU音がO音に変化して「ヒロ」ととなった)

の転訛と解します。

 

227B勾金橋(まがりのかなはし)宮

 紀は都を大倭(やまと)国の勾金橋(まがりのかなはし。現奈良県橿原市曲川町(旧金橋村曲川))に遷して宮号としたとし、記も勾(まがり)の金箸(かなはし)宮とします。

 この「まがりのかなはし」は、

  「マ(ン)ガ・リ・ノ・カ・ナ・パチ」、MANGA-RI-NO-KA-NA-PATI(manga=branch of a tree or river etc.;ri=protect,screen,bind;no=of;ka=take fire,be lighted,burn;na=belonging to;pati=shallow,shoal,ooze,splash,break wind)、「丘陵の尾根が・(天然の)衝立となって・いる・風を遮っている・ような・居住地(宮)」(「マ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「マガ」と、「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」から「ハシ」となった)

  または「マ(ン)ガリ・ノホ・カナパ・チ」、MANGARI-NOHO-KANAPA-TI(mangari=luck,fortune;noho=sit,settle;kanapa=bright,gleaming,conspicuous from colour;ti=throw,cast,overcome)、「幸運に・恵まれている(天皇が住む)・光り輝いて・(見る人を)圧倒する(宮)」(「マ(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「マガリ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」と、「カナパ」のP音がF音を経てH音に変化して「カナハ」となった)

の転訛と解します。

 

227C1男大迹(をほど)尊

 父は226A男大迹(をほど)尊の項を参照してください。

 

227C2目子(めのこ)媛

 母は226E2目子(めのこ)媛の項を参照してください。

 

227D1檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子から227D20中(なかつ)皇子まで

 弟妹は、226F2檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子(228宣化天皇)から226F21中(なかつ)皇子までの項を参照してください。

 

227E1春日山田(やまだ)皇女

 紀は皇后を224仁賢天皇の皇女、224F8春日山田(やまだ)皇女(亦の名山田赤見(やまだのあかみ)皇女)とし、記には記載がありません。皇后に関しては、継体紀7年9月条、8年正月条にも見えています。子はありません。

 この「かすが」、「やまだ」、「あかみ」は、

  「カツア・(ン)ガ」、KATUA-NGA(katua=adult,main fence,main portion of anything;nga=satisfied,breathe)、「(大人のように)落ち着きがあって・満足している(悠揚として迫らない。皇女)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」から「カス」と、「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

  「イア・マタ」、IA-MATA(ia=indeed,current;mata=face,eye,deep awamp,medium of communication of spirit,spell)、「実に・神霊の啓示を受けることができる(皇女)」

  「アカ・ミヒ」、AKA-MIHI(aka=yearning,affection,clean off,=anga=driving force,thing driven;mihi=greet,admire)、「尊崇すべき・(何かに)熱中する(皇女)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

227E2紗手(さて)媛

 紀は妃の第一を226H1許勢男人(こせのをひと)大臣の女、紗手(さて)媛とし、記には記載がありません。子はありません。

 この「さて」は、

  「タ・アテ」、TA-ATE(ta=the...of,dash,beat,lay;ate=liver,heart,spirit,high feeling)、「優しい心を・持っていた(媛)」(「タ」のA音と「アテ」の語頭のA音が連結して「タテ」から「サテ」となった)

の転訛と解します。

 

227E3香香有(かかり)媛

 紀は妃の第二を227E2紗手(さて)媛の妹、香香有(かかり)媛とし、記には記載がありません。子はありません。

 この「かかり」は、

  「カカリ」、KAKARI(be urgent,be importunate,wrestle,quarrel,fight,battle)、「うるさくつきまとう(媛)」

の転訛と解します。

 

227E4宅(やか)媛

 紀は妃の第三を物部木蓮子(いたび)大連の女、宅(やか)媛とし、記には記載がありません。子はありません。

 この「やか」、「いたび」は、

  「イア・アカ」、IA-AKA(ia=indeed,current;aka=yearning,affection,clean off)、「実に・(何かに)熱中する(媛)」(「イア」のA音と「アカ」の語頭のA音が連結して「ヤカ」となった)

  「イ・タピ」、I-TAPI(i=past tense,beside;tapi=apply as dressings to a wound,patch,mend)、「(人の)面倒を見・た(首長)」又は「イタ・ピ」、ITA-PI(ita=tight,fast,compact;pi=eye)、「小さな・眼の(首長)」

の転訛と解します。

 

227G舊市高屋丘(ふるいちのたかやのをか)陵

 紀は陵を河内の舊市高屋丘(ふるいちのたかやのをか)陵(『延喜式』は古市高屋丘(ふるいちのたかやのをか)陵、在河内国古市郡と、『陵墓要覧』は所在地を大阪府南河内郡古市町(現羽曳野市)大字古市字城)とし、記は陵は河内の古市高屋村にありとします。

 紀は皇后227E1春日山田(やまだ)皇女と天皇の妹226F6神前皇女を合葬したとし、『延喜式』は皇后は古市高屋(ふるいちのたかや)墓に葬られたとします。御陵は石川の左岸の独立丘陵で墳長121メートルの前方後円墳です。

 この「たかやのをか」は、

  「タカ・イア・ノ・アウカハ」、TAKA-IA-NO-AUKAHA(taka=heap,lie in a heap;ia=indeed,current;no=of;aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe)、「実に・(こんもりと)高い・塁壁を巡らしたような(陵)」(「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

の転訛と解します。

 (「古市」については、地名篇(その四)の大阪府の(15)羽曳野市のb古市の項を参照してください。)

 

227H1内膳卿膳(かしはで)臣大(おほ)麻呂・伊甚(いじみ)国造稚子(わくご)直

 安閑紀元年4月条は、内膳卿膳(かしはで)臣大(おほ)麻呂が勅により使を伊甚(いじみ)へ派遣して真珠を探させましたが、伊甚国造稚子(わくご)直は期限までに京に到着できなかったので、膳臣大麻呂が怒り、これを恐れた伊甚国造稚子直が後宮に逃げ込み、皇后が驚いて倒れるという騒ぎがあり、稚子直が伊甚(いじみ)屯倉を献上して罪を贖ったと記します。

 この「おほ」、「わくご」は、

  「オホ」、OHO(spring up,wake up,arise)、「すっくと立っている(姿勢の正しい。人)」

  「ウア・クフ・コ」、UA-KUHU-KO(ua=expostulation,back of the neck;kuhu=thrust in,insert;ko=adressing to males and females)、「(後宮に入ってはならないと)忠告されていた(のに)・奥へ入り込んだ・男子」(「ウア」が「ワ」と、「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)

の転訛と解します。

 (「膳(かしはで)」については古典篇(その二)の2「オオクニヌシ」神話の真実の(7)国譲りの項の末尾を、「伊甚(いじみ)」については地名篇(その十)の(18)夷隅(いすみ)郡の項を参照してください。)

 

227H2大河内(おほしかふち)直味張(あぢはり)・黒梭(くろひ)・雌雉(きじ)田・狭井(さゐ)田

 安閑紀元年7月条は、皇后の名を屯倉に残すために勅使を派遣し、大河内(おほしかふち)直味張(あぢはり)(亦の名黒梭(くろひ))に対し肥沃な雌雉(きじ)田を献上するよう促しましたが、これは痩せた田であると偽つて献上しませんでした。

 同年閏12月条は、その偽りが露見して郡司を解任されたので、春秋に人夫を供出し、大伴大連に狭井(さゐ)田を差し出して許しを乞うたとあります。

 この「あぢはり」、「くろひ」、「きじ」、「さゐ」は、

  「ア・チパ・リ」、A-TIPA-RI(a=the...of,belonging to;tipa=dried up,broad,turn aside,escape;ri=screen,protect,bind)、「実に・乾燥した(高いところにある水害を受けない良い)土地に・執着した(手放すのを惜しんだ。首長)」(「チパ」のP音がF音を経てH音に変化して「チハ」から「ヂハ」となった)

  「クロ・ヒ」、KULO-HI((Hawaii)kulo=to wait a long time,to stand long;hi=raise,rise)、「(田を献上するのを)長い期間遅らせた・身分の高い(首長)」

  「キ・チヒ」、KI-TIHI(ki=full,very;tihi=summit,top,lie in a heap)、「非常に・高いところにある(水害を受けない良い場所にある。田。)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「ヂ」となった)

  「タウイ」、TAWHI(hold,hold back,suppress feelings etc.,checked)、「保留してあった(田)」(WH音がW音に変化して「タヰ」から「サヰ」となった)

の転訛と解します。

 (「大河内(おほしかふち)」については、地名篇(その四)の大阪府の(7)河内国の項を参照してください。)

 

227H3三嶋(みしま)縣主飯粒(いひぼ)・竹村(たかふ)・鳥樹(とりき)

 安閑紀元年閏12月条は、天皇が三嶋(みしま)に行幸し、随行した大伴大連に命じて良田がないかと縣主飯粒(いひぼ)に質したところ、縣主飯粒が喜んで竹村(たかふ)の地40町を献上したので、献上を惜しんだ227H2大河内直味張の郡司職を解任したとあります。なお、飯粒はその子鳥樹(とりき)を大伴大連の少年従者に献じました。

 この「いひぼ」、「たかふ」、「とりき」は、

  「イヒ・ポウ」、IHI-POU(ihi=split,separate,power,rank;pou=post,support,fix,elevate upon poles)、「格(評価)を・上げた(縣主)」

  「タカ・フ」、TAKA-HU(taka=heap,lie in a heap;hu=hill,promontory)、「高いところにある・丘(の土地)」

  「トリキ」、TORIKI(small)、「小さい(少年)」

の転訛と解します。

 (「三嶋(みしま)」については地名篇(その四)の大阪府の(4)三島郡の項を参照してください。)

 

227H4廬城(いほき)部連枳呂喩(きこゆ)・幡(はた)媛・物部大連尾輿(をこし)

 安閑紀元年閏12月是月条は、廬城(いほき)部連枳呂喩(きこゆ)の女の幡(はた)媛が物部大連尾輿(をこし)の首飾りを盗んで、皇后に献上したことが露見したので、枳呂喩が幡媛を采女の召使に献上し、さらに安芸国の廬城部屯倉を献上して罪を贖ったとします。

 また、物部大連尾輿も事件が自分に関係していることから連座を恐れて大和・伊勢・筑紫3国の部民の一部を献上しました。

 この「はた」、「をこし」は、

  「パタ」、PATA(drop of water,seed,cause,occasion,advantage)、「(盗みの)報いを受けた(媛)」(P音がF音を経てH音に変化して「ハタ」となった)

  「オ・コチ」、O-KOTI(o=the...of,belonging to;koti=divide,cut off)、「(盗みの罪とは)無関係で・あった(首長)」

の転訛と解します。

 (「廬城(いほき)部連枳呂喩(きこゆ)」については古典篇(その十)の221H1廬城(いほき)部連枳呂喩(きこゆ)の項を参照してください。)

 

227H5武蔵国造笠原(かさはら)直使主(おみ)・小杵(をき)・上毛君小熊(をくま)

 安閑紀元年閏12月是月条は、武蔵国造笠原(かさはら)直使主(おみ)と同族の小杵(をき)は、長年にわたって武蔵国造の地位を争っていましたが、性格の激しい小杵が上毛君小熊(をくま)に助けを求めて使主を殺そうとしたので、使主は逃げて朝廷に訴え出たので、朝廷の裁断により使主が国造となり、小杵は殺され、使主は武蔵国の4屯倉を献上しました。

 この「かさはら」、「おみ」、「をき」、「をくま」は、

  「カタ・パラ」、KATA-PARA(kata=opening of shellfish;para=cut down bush etc.,clear)、「貝が口を開けているような場所の・茂みを切り開いたような(地域。そこに住む部族)」(「パラ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

  「オミ」、OMI((Hawaii)to wither,droop,to burn weakly)、「弱気になった(殺されそうになって逃げ出して京に訴え出た。首長)」

  「オキ」、OKI((Hawaii)to stop,finish,end,extraordinary,cut)、「(朝廷の裁断によって)終わった(殺された。首長)」または「アウキ」、AUKI(old,of long standing)、「(武蔵国造に就任するのを)長い間待たされた(首長)」(AU音がO音に変化して「オキ」となった)

  「オ・クマ」、O-KUMA(o=the...of,belonging to;(Hawaii)kuma=cracking of the skin between fingers and toes)、「山の尾根の谷間に・住む(首長)」

の転訛と解します。

 

227H6櫻井田部(たべ)連・縣犬飼(いぬかひ)連・難波吉士(なにはのきし)

 安閑紀2年9月条は、櫻井田部(たべ)連、縣犬飼(いぬかひ)連、難波吉士(なにはのきし)等に屯倉の税について所掌させたとします。

 この「たべ」、「いぬかひ」、「なにはのきし」は、

  「タ・パイ」、TA-PAI(ta=the..of,belonging to,dash,beat,lay;pai,papai=patch as clothes)、「(土地を)打つ(耕すことを業とする)・区画された(集団)」(「パイ」のAI音がE音に変化して「ペ」となった)

  「イヌ・カヒ」、INU-KAHI(inu=drink;kahi=a fresh-water bivalve mollusc,chief,wedge)、「水を飲む(水を利用する)・くさび(水を配分する堰を管理する。部族)」

  「ナ・ニワ・ノ・キヒ・チ」、NA-NIWHA-NO-KIHI-TI(na=belonging to;niwha=resolute,bold,fierce,bravery;no=of;kihi=cut off,destroy completely,strip of branches;ti=throw,cast,overcome)、「見捨てられた(名もない)・小部族に・属する・勇敢な・戦士」

の転訛と解します。

 

 

[228宣化天皇]

 

228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E2目子(めのこ)媛の第2子、226F2檜隈高田(ひのくまのたかた)皇子とし、後に228宣化天皇となって諡号を武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊とされます。

 記は袁本杼(をほど)命と目子(めのこ)郎女の第2子、建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命とします。

 朝鮮半島に関する記事が継体紀には非常に多かったのに反し、安閑紀と同様、宣化紀にも治世が短かったこともありますが僅かしか見えず、また安閑紀のような屯倉(みやけ)の新設ではなく、その再編成に関する記事が目立っています。

 この「ひのくまのたかた」、「たけをひろくにをしたて」は、

  「ヒ・ノホ・クマ・ノ・タカ・タ」、HI-NOHO-KUMA-NO-TAKA-TA(hi=raise,rise;noho=sit,settle;(Hawaii)kuma=cracking of the skin between fingers and toes;no=of;taka=heap,lie in a heap;ta=dash,beat,lay)、「(奈良盆地よりも)高い場所に・ある・(手足の指の間のような)丘陵の尾根の谷間・の・高い場所に・住む(尊)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「タケオ・ヒロウ・クニ・オチ・タタイ」、TAKEO-HIROU-KUNI-OTI-TATAI(takeo=wearisome,trying,tedious;hirou=rake,net for dredging shellfish;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;oti=finished;tatai=measure,arrange,adorn,plan,tactics)、「権謀術数を駆使して・滅亡させた(支配者が居なくなった)・国(居住地。屯倉)を・(熊手で)かき集めるのに・飽き飽きした(尊)」(「ヒロウ」のOU音がO音に変化して「ヒロ」と、「コチ」のK音が脱落して「オチ」と、「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」となった)

の転訛と解します。

 

228B檜隈(ひのくま)廬入野(いほりの)宮

 紀は宮を檜隈(ひのくま。大和国高市郡檜隈(ひのくま)郷(現高市郡明日香村)とされます)の廬入野(いほりの)に遷して宮号としたとし、記も檜隈(ひのくま)の廬入野(いほりの)宮とします。

 この「ひのくま」、「いほりの」は、

  「ヒ・ノホ・クマ」、HI-NOHO-KUMA(hi=raise,rise;noho=sit,settle;(Hawaii)kuma=cracking of the skin between fingers and toes)、「(奈良盆地よりも)高い場所に・ある・(手足の指の間のような)丘陵の尾根の谷間(の地域)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「イホ・リノ」、IHO-RINO(iho=heart,object of reliance,umbilical cord,lock of hair;rino=twisted cord,eddy,circle)、「心が・絡み合っている(迷っている。天皇の住む宮)」または「イホレイ・ノホ」、IHOREI-NOHO(ihorei=a chief of established authority;noho=sit,settle)、「確立した権威の長(天皇)が・住む(宮)」(「イホレイ」のEI音がI音に変化して「イホリ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

228C1男大迹(をほど)尊

 父は226A男大迹(をほど)尊の項を参照してください。

 

228C2目子(めのこ)媛

 母は226E2目子(めのこ)媛の項を参照してください。

 

228D1勾大兄(まがりのおほえ)皇子から227D20中(なかつ)皇子まで

 兄弟姉妹は226F1勾大兄(まがりのおほえ)皇子から226D21中(なかつ)皇子までの項を参照してください。

 

228E1橘仲(たちばなのなかつ)皇女

 紀には皇后として前の正妃であった224A億計(おけ)尊と224E1春日大娘(かすがのおほいらつめ)皇女の第5子、224F5橘(たちばな)皇女がみえます。仁賢記には見えませんが、宣化記には妃として意祁天皇御子橘之中(たちばなのなかつ)比売命がみえます。飯田武郷『日本書紀通釈』は仁賢記の財(たから)郎女(224F2朝嬬(あさづま)皇女)かとします。

 紀は皇后は228F1石(いし)姫皇女、228F2小石(こいし)姫皇女、228F3倉稚綾(くらのわかや)姫皇女および228F4上殖葉(かみつうゑは)皇子の4人を生んだとし、記は石(いし)比売命、小石(をいし)比売命および倉(くら)の若江(わかえ)王の3人を生んだとします。

 この「たちばなのなかつ」は、

  「タ・チパ・ナ・ノ・ナ・カツア」、TA-TIPA-NA-NO-NA-KATUA(ta=the,dash,beat,lay;tipa=turn aside,escape;na=satisfied,belonging to;no=of;na=belonging to;katua=adult,stockade or main fence of a fort distinguished from the outside and the inside)、「(何らかの理由で朝廷の内部から)身を・逃げ出して・ホッとしていた・(朝廷の内部の柵と外部の柵の)間に属する場所(朝廷の外)に・住んでいた(皇女)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」となった)

の転訛と解します。

 

228E2大河内(おほしかふち)稚子(わくご)媛

 紀は前の庶妃を大河内(おほしかふち)稚子(わくご)媛とし、記は妃を川内(かふち)若子(わくご)比売とします。

 紀は228F5火焔(ほのほ)皇子を生んだとし、記は火穂(ほのほ)王および恵波(ゑは)王(228F4上殖葉(かみつうゑは)皇子)の2人を生んだとします。

 この「わくご」は、

  「ウアカハ・コ」、UAKAHA-KO(uakaha=vigorous,difficult;ko=adressing to males and females)、「元気な・女性(皇女)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

の転訛と解します。

 (「大河内(おほしかふち)」、「川内(かふち)」については地名篇(その四)の大阪府の(7)河内国の項を参照してください。)

 

228F1石(いし)姫皇女

 紀は228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊と228E1橘仲(たちばなのなかつ)皇女の第1子、石(いし)姫皇女とし、記は建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命と橘之中(たちばなのなかつ)比売命の第1子、石(いし)比売命とします。

 この「いし」は、

  「イチ」、ITI(small,unimportant)、「小さな(皇女)」

の転訛と解します。

 

228F2小石(こいし)姫皇女

 紀は228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊と228E1橘仲(たちばなのなかつ)皇女の第2子、小石(こいし)姫皇女とし、記は建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命と橘之中(たちばなのなかつ)比売命の第2子、小石(をいし)比売命とします。

 この「こいし」、「をいし」は、

  「コイチ」、KOITI(little finger or toe,fingers or toes)、「小さな(白魚のような)指を持つ(皇女)」

  「オイチ」、OITI(=koiti=little finger or toe,fingers or toes)、「小さな(白魚のような)指を持つ(皇女)(「コイチ」のK音が脱落して「オイチ」となった)

の転訛と解します。

 

228F3倉稚綾(くらのわかや)姫皇女

 紀は228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊と228E1橘仲(たちばなのなかつ)皇女の第3子、倉稚綾(くらのわかや)姫皇女とし、記は建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命と橘之中(たちばなのなかつ)比売命の第3子、倉(くら)の若江(わかえ)王とします。

 この「くらのわかや」、「くらのわかえ」は、

  「クラ・ノ・ウアカハ・イア」、KURA-NO-UAKAHA-IA(kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure;no=of;uakaha=vigorous,difficult;ia=indeed,current)、「(赤い鳥毛の飾りを付けて)美しく着飾って・いる・実に・活発な(皇女)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

  「クラ・ノ・ウアカハ・ウエ」、KURA-NO-UAKAHA-UE(kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure;no=of;uakaha=vigorous,difficult;ue=push,shove,shake)、「(赤い鳥毛の飾りを付けて)美しく着飾って・いる・元気が・溢れ出てくる(皇子)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」と、「ウエ」が「ヱ」となった)

の転訛と解します。

 

228F4上殖葉(かみつうゑは)皇子

 紀は228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊と228E1橘仲(たちばなのなかつ)皇女の第4子、上殖葉(かみつうゑは)皇子(亦の名椀子(まろこ))とし、記は建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命と228E2川内(かふち)若子(わくご)比売命の第2子、恵波(ゑは)王とします。

 紀は丹比(たぢひ)公および偉那(ゐな)公の祖と、記は韋那(ゐな)君および多治比(たぢひ)君の祖とします。

 この「かみつうゑは」、「ゑは」は、

  「カミ・ツ・ウエハ」、KAMI-TU-UEHA(kami=eat;tu=stand,settle;ueha=prop,support)、「食事に・援助を・必要とした(皇子)」

  「ウエハ」、UEHA(prop,support)、「(食事に)援助(を必要とした。皇子)」(「ウエハ」が「ヱハ」となった)

の転訛と解します。

 (「椀子(まろこ)」については前出226F14椀子(まろこ)皇子の項を、「丹比(たぢひ)」については地名篇(その四)の大阪府の(13)丹比郡の項を、「偉那(ゐな)」については地名篇(その四)の兵庫県の(1)川辺郡のb猪名(いな)川の項を参照してください。)

 

228F5火焔(ほのほ)皇子

 紀は228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊と228E2大河内(おほしかふち)稚子(わくご)媛の第1子、火焔(ほのほ)皇子とし、記は建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命と川内(かふち)若子(わくご)比売命の第1子、火穂(ほのほ)王とします。

 紀は皇子を椎田(しひだ)君の祖と、記は志比陀(しひだ)君の祖とします。

 この「ほのほ」、「しひだ」は、

  「ホノ・ハウ」、HONO-HAU(hono=splice,join,add,be on the point of,go on;hau=eager,seek,famous,vitality of man,project,excess)、「元気が・凝集している(皇子)」(「ハウ」のAU音がO音に変化して「ホ」となった)

  「チヒ・タ」、TIHI-TA(tihi=summit,top,lie in a heap;ta=dash.beat.lay)、「(山の)頂上に・住む(部族)」

の転訛と解します。

 

228G身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうへ)陵

 紀は陵を大倭(やまと)国の身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかのうへ)陵とします。『延喜式』は在大和国高市郡と、『陵墓要覧』は所在地を奈良県高市郡畝傍町大字鳥屋字見三才(みさんざい)(現橿原市鳥屋町)とします。記には記載がありません。

 なお、紀は皇后およびその幼児を合葬したとします。

 陵は、船付山から派生する細長い丘陵の先端部にあり、墳長138メートルの前方後円墳で、通称「ミサンザイ」古墳と呼ばれています。古墳の被葬者の年代と出土物の年代が合致しないとする説があります。

 この「むさ」、「つきさかのうへ」、「みさんざい」は、

  「ム・ウタ」、MU-UTA(mu=silent;uta=the land,the inland,put persons or goods on board a canoe etc.)、「静かな・(内陸の)河港(場所)」(「ム」のU音と「ウタ」の語頭のU音が連結して「ムタ」から「ムサ」となった)

  「ツキ・タカ・ウエ」、TUKI-TAKA-UE(tuki=pound,beat,attack;taka=heap,lie in a heap;ue=push,shake,an incantation recited upon the roof of a house)、「(土を)突き固めて・高く積み上げた・(その上で)呪文を唱えながら作業を行なった(陵)」

  「ミヒ・タヌ・タイ」、MIHI-TANU-TAI(mihi=lament;tanu=bury,lie buried;tai=perform certain ceremoniesto remove TAPU)、「嘆き悲しんで・埋葬した・穢れを除く特別な儀式を行なった(陵)」(「タヌ」が「タン」から「サン」となった)または「ミヒ・タ(ン)ガ・タイ」、MIHI-TANGA-TAI(mihi=lament;tanga=be assembled,row,division;tai=perform certain ceremoniesto remove TAPU)、「嘆き悲しんで・穢れを除く特別な儀式を・繰り返し行なった(陵)」(「タ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タナ」から「サン」となった)(地名篇(その四)の大阪府の(14)藤井寺市のd岡ミサンザイ古墳の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

228H1蘇我稲目(そがのいなめ)宿禰・阿倍大(あへのおほ)麻呂臣

 宣化紀元年2月条は従前通り大伴金村および物部麁鹿火を大連に任命し(「大伴金村」については古典篇(その十)の225H2大伴金村連の項を、「物部麁鹿火」については古典篇(その十)の225H1物部大連麁鹿火の項を参照してください。)、蘇我稲目(そがのいなめ)宿禰を大臣(おほおみ)とし、阿倍大(あへのおほ)麻呂臣を大夫(まえつきみ)としたとします。

 この「そが」、「いなめ」、「あへ」、「おほ」は、

  「ト(ン)ガ」、TONGA(restrained,suppressed,secret,south,sunset)、「秘密の(出自を持つ。部族)」または「(やがて)抑圧される(落日のように衰える。部族)」(NG音がG音に変化して「トガ」から「ソガ」となった)

  「イナ・マイ」、INA-MAI((Hawaii)ina=let's go;mai=hither,towards)、「どんどん・前進する(将軍)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「アヘイ」、AHEI(able,possible,collar-bone,a method of holding the spear against the collar-bone as a guard)、「(仕事が抜群に)できる(部族)」(語尾のI音が脱落して「アヘ」となった)または「アパイ」、APAI(front wall of a house)、「家(部族)の前面に立つ(部族を代表する。部族)」(AI音がE音に変化して「アペ」から「アベ」となった)

  「オホ」、OHO(spring up,wake up,arise)、「すっくと立っている(姿勢の正しい。首長)」

の転訛と解します。

 (「大臣(おほおみ)」および「大夫(まへつきみ)」については、古典篇(その八)の213H武内宿禰の項の「大臣(おほおみ)」および「棟梁臣(むねはりのまへつきみ)」の解釈を参照してください。)

 

228H2大伴磐(いは)・狭手彦(さでひこ)

 宣化紀2年10月条は、新羅が任那に侵攻したので、天皇は大伴金村大連に命じて、その子磐(いは)と狭手彦(さでひこ)を派遣して任那を助けさせましたが、磐は筑紫に止まって後方を固め、狭手彦は半島に渡って任那を鎮め、また百済を救ったとします。

 狭手彦については、欽明紀23年8月条に高麗を破ったと見え、『三代実録』貞観3年8月19日条にも金村の三男が宣化・欽明両朝に再度渡海して功を立てたとあり、狭手彦の出発に際して佐用(さよ)姫が領巾(ひれ)を振って別離を嘆いたという伝説が『万葉集』(871〜875)や『肥前国風土記』松浦郡の領巾振(ひれふり)岳条(佐用姫でなく弟日姫子(おとひひめこ)とあります)に見えます。

 この「いは」、「さでひこ」、「さよ」、「おとひひめこ」は、

  「イ・ワ」、I-WHA(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad)、「(筑紫の地で能力を)発揮・した(武将)」または「イ・ワ」、I-WA(i=past tense,beside;wa=definite space,area,be far advanced)、「(筑紫という)特別の土地の・そば(で任務を果たした。武将)」

  「タタイ・ヒコ」、TATAI-HIKO(tatai=measure,arrange,set in order,adorn;hiko=move at random or irregularly,shine)、「(朝鮮半島を)歴戦して・秩序をもたらした(武将)」(「タタイ」のAI音がE音に変化して「タテ」から「サデ」となった)

  「タイ・オ」、TAI(taitai=perform certain ceremonies to remove tapu etc.)-O(find room,be capable of being contained or enclosed,get in implying difficulty or reluctance)、「(褶(ひれ)を振る)呪術を行って・(狭手彦の魂を)呼び戻そうとした(媛)」(「タイ」と「オ」が連結して「タヨ」から「サヨ」となった)

  「アウト・ヒヒ・メコ」、AUTO(trailing behind)-HIHI(a cape with strings of flax hanging loose,any long slender appendages)-MEKO(withhold,refuse to give)、「(狭手彦を)追いかけて・褶(ひれ)を振って・(魂を)呼び戻そうとした(媛)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

の転訛と解します。

 

 

[229欽明天皇]

 

229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊

 紀は226A男大迹(をほど)尊と226E1手白香(たしらか)皇女の子、226F3天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊とします。

 記は袁本杼(をほど)命と手白髪(たしらが)郎女の子、天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命とします。

 紀は228宣化天皇の崩御に伴って即位したとしますが、226継体天皇の崩御に伴って即位し、安閑・宣化天皇と並立していたと解する説があります。

 欽明紀には朝鮮半島関係の記事が多いのが特徴で、日本の半島経営の拠点であった任那が滅び、百済の協力の下に任那の再興に力を注いでいます。また、その治世中に仏教が公伝し、受け入れの可否を巡って蘇我稲目と物部尾輿等が激しく対立しました。

 この「あめくにおしはらきひろには」、「はるき」は、

  「アマイ・クニ・オチ・ハラキ・ヒロウ・ニワ」、AMAI-KUNI-OTI-HARAKI-HIROU-NIWHA(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;oti=finished;haraki=preposterous,extraordinary;hirou=rake,net for dredging shellfish;niwha=resolute,fierce,bravery,rage)、「(その功績が)燦然と光り輝いている・滅亡した・国(任那)を・異常なことに・武力で強引に・(熊手で掻き集めるように)動かそうとした(再興しようとした。尊)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「ヒロウ」のOU音がO音に変化して「ヒロ」となった)

  「ハルキ」、HARUKI(=harukiruki=extremely heavy,extreme depression)、「(大和朝廷にとって負担が過重な)とんでもないことに」

の転訛と解します。

 

229B1磯城嶋(しきしま)金刺(かなさし)宮

 欽明紀元年7月条は都を倭国の磯城(しき)郡の磯城嶋(しきしま。現奈良県櫻井市金屋付近とされます)に遷し、磯城嶋(しきしま)金刺(かなさし)宮と号したとし、記は師木島(しきしま)の大宮とします。

 この「しきしま」、「かなさし」は、

  「チキ・チマ」、TIKI-TIMA(tiki=a post to mark a place which was TAPU;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「禁忌の場所であることを示す杭が立っている(神聖な)場所(地域)の・鍬で掘ったような(水路がある。場所)」

  「カネ・タチカ」、KANE-TATIKA(kane=head;tatika=coastline)、「(湖沼の)岸に・頭(を突き出しているような場所にある。宮)」(「タチカ」の語尾の「カ」が脱落して「タチ」から「サシとなった)または「カネ・タハ・チ」、KANE-TAHA-TI(kane=head;taha=side,edge,border;ti=throw,cast,overcome)、「頭を・(湖沼の)岸に・放り出している(ような場所にある。宮)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」から「サ」となった)

の転訛と解します。

 

229B2難波祝津(はふりつ)宮

 欽明紀元年9月条に天皇が難波祝津(はふりつ)宮に行幸したとあります。所在地は摂津国河辺郡難波村(現尼崎市難波本町)とする説、西成郡難波村(現大阪市浪速区)とする説があります。

 この「はふりつ」は、

  「ハ・プリ・ツ」、HA-PURI-TU(ha=breath,taste,sound;puri=hold in the hand,sacred,one instructed in esoteric lore;tu=stand,settle)、「(特別の)秘密の呪文を・唱える声が・する(または祝(はふり)が・そこに居る。宮)」(「プリ」のP音がF音を経てH音に変化して「フリ」となった)

 (『釈日本紀』十三に引く天書には「元年九月己卯、行幸難波、庚辰、進幸祝津宮、遣使祀住江神、賜民爵及帛各有差、初将征新羅」とあります。大嘗祭およびその翌年に行われる八十島(やそしま)祭がいつごろから行われたか不明ですが、行幸の時期である元年9月は宣化天皇の崩御が宣化紀に記す4年2月であれば(欽明紀は4年10月とします)大嘗祭の翌年であり、この行幸の際に八十島祭がそのために設けられた臨時の宮である祝津宮で行われた可能性があります。「はふり」については雑楽篇の317はふり(祝)の項を参照してください。)

  または「ハプ・リツア」、HAPU-RITUA(hapu=pregnant,section of a large tribe;ritua=be divided,be separated)、「大きな部族(専用の建物)が・分かれている(宮)」(「ハプ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハフ」と、「リツア」の語尾のA音が脱落して「リツ」となった)

の転訛と解します。

 

229B3樟勾(くすのまがり)宮

 欽明紀14年7月条に天皇が樟勾(くすのまがり)宮に行幸したとあります。「勾(まがり)」は奈良県橿原市曲川の地とする説があります。なお、次の(3)の解釈によれば、奈良県吉野郡大淀町比曽の世尊寺(欽明紀14年5月条には吉野寺とあります)の地である可能性もあります。

 この「くすのまがり」は、

  (1)「ク・ウツ・ノ・マ(ン)ガ・リ」、KU-UTU-NO-MANGA-RI(ku=silent;utu=dip up water,dip into for the purpose;no=of;manga=branch of a tree or stream;ri=screen,protect,bind)、「静かな・水の上(水辺)にあって・川の支流が・集まっている(または天然の濠となっている)・場所にある(建物。宮)」(「ク」のU音と「ウツ」の語頭のU音が連結して「クツ」から「クス」と、「マ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「マガ」となった)

  (2)または「ク・ウツ・ナウマイ・(ン)ガリ」、KU-UTU-NAUMAI-NGARI(ku=silent;utu=dip up water,dip into for the purpose;naumai=come,guest;ngari=annoyance,greatness,power)、「静かな・水の上(水辺)にある・巨大な・賓客を迎える(建物。宮)」(「ク」のU音と「ウツ」の語頭のU音が連結して「クツ」から「クス」と、「ナウマイ」のAU音がO音に変化し、語尾のI音が脱落して「ノマ」と、「(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「ガリ」となった)

  (3)または「ク・ウツ・ノ・マ(ン)ガリ」、KU-UTU-NO-MANGARI(ku=silent;utu=dip up water,dip into for the purpose;no=of;mangari=luck,fortune)、「幸運を呼ぶ・海から引き上げられたもの(=樟。その樟から造られた仏像)を・静かに安置して・ある(建物。宮)」(「ク」のU音と「ウツ」の語頭のU音が連結して「クツ」から「クス」と、「マ(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「マガリ」となった)

の転訛と解します。

 

229B4泊瀬柴籬(はつせのしばかき)宮

 欽明紀31年4月条に天皇が泊瀬柴籬(はつせのしばかき)宮に行幸したとあります。

 この「しばかき」は、

  「チパ・カキヒ」、TIPA-KAKIHI(tipa=dried up,broad,large;kakihi=limpet,rock-oyster)、「大きな・岩牡蠣のような(盛り上がった丘。そこにある宮)」(「カキヒ」のH音が脱落して「カキ」となった)

の転訛と解します。

(「はつせ」については古典篇(その十)の221B泊瀬朝倉宮の項を参照してください。)

 

229C1男大迹(をほど)尊

 父は226A男大迹(をほど)尊の項を参照してください。

 

229C2手白香(たしらか)皇女

 母は226E1手白香(たしらか)皇女の項を参照してください。

 

229D1勾大兄(まがりのおほえ)皇子から227D20中(なかつ)皇子まで

 兄弟姉妹は226F1勾大兄(まがりのおほえ)皇子から226D21中(なかつ)皇子までの項を参照してください。

 

229E1石(いし)姫皇女

 紀は皇后を228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊と228E1橘仲(たちばなのなかつ)皇女の第1子、228F1石(いし)姫皇女とし、記は第一の妃を建小廣國押楯(たけをひろくにをしたて)命と橘之中(たちばなのなかつ)比売命の第1子、石(いし)比売命とします。

 紀は皇后は229F1箭田珠勝大兄(やたのたまかつのおほえ)皇子、229F2譯語田渟中倉太珠敷(をさたのぬなくらのふとたましき)尊(230A敏達天皇)および229F3笠縫(かさぬひ)皇女(亦の名狭田毛(さたけ)皇女)の3人を生んだとし、記は八田(やた)王、沼名倉太玉敷(ぬなくらふとたましき)命および笠縫(かさぬひ)王の3人を生んだとします。

 この「いし」は、

  「イチ」、ITI(small,unimportant)、「小さな(皇女)」

の転訛と解します。

 

229E2稚綾(わかあや)姫皇女

 紀は第一の妃を皇后の妹稚綾(わかあや)姫皇女(228F3倉稚綾(くらのわかや)姫皇女か)とし、229F4石上(いそのかみ)皇子を生んだとします。

 また、記は第二の妃を228F2小石(こいし)比売命とし、上(かみ)王を生んだとします。

 『古事記伝』は稚綾(わかあや)姫皇女を228F2小石(こいし)姫皇女の誤りとします。

 この「わかあや」、「こいし」は、

  「ウアカハ・イア」、UAKAHA-IA(kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure;no=of;uakaha=vigorous,difficult;ia=indeed,current)、「実に・活発な(皇女)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカア」となり、「イア」と連結して「ワカアヤ」となった)

  「コイチ」、KOITI(little finger or toe,fingers or toes)、「小さな(白魚のような)指を持つ(皇女)」

の転訛と解します。

 

229E3日影(ひかげ)皇女

 紀は第二の妃を皇后の妹の日影(ひかげ)皇女(宣化紀には見えません)とし、229F5倉(くら)皇子を生んだとします。

 記は第三の妃を春日の日爪(ひつま)臣の女の229E6糠子(ぬかご)郎女とし、229F24春日山田(やまだ)郎女、229F25麻呂古(まろこ)王(『古事記伝』は229F10椀子(まろこ)皇子とします)および229F5宗我(そが)の倉(くら)王を生んだとします。

 この「ひかげ」は、

  「ヒカ・(ン)ガエ」、HIKA-NGAE(hika=girl,rub violently,kindle fire by friction;ngae=wheeze)、「しゃがれ声の・媛」

の転訛と解します。

 

229E4堅鹽(きたし)媛

 紀は第三の妃を228H1蘇我大臣稲目(そがのいなめ)宿禰の女の堅鹽(きたし)媛とし、229F6大兄(おほえ)皇子(橘豊日(たちばなのとよひ)尊。231A用明天皇)、229F7磐隈(いはくま)皇女(亦の名夢(いめ)皇女)、229F8臘嘴鳥(あとり)皇子、229F9豊御食炊屋(とよみけかしきや)姫尊(233A推古天皇)、229F10椀子(まろこ)皇子、229F11大宅(おほやけ)皇女、229F12石上部(いそのかみべ)皇子、229F13山背(やましろ)皇子、229F14大伴(おほとも)皇女、229F15櫻井(さくらゐ)皇子、229F16肩野(かたの)皇女、229F17橘本稚(たちばなのもとのわか)皇子および229F18舎人(とねり)皇女の13人を生んだとします。

 また、記は第四の妃を宗我(そが)の稲目(いなめ)宿禰大臣の女の岐多斯(きたし)比売とし、橘豊日(たちばなのとよひ)命、石隈(いはくま)王、足取(あとり)王、豊御気炊屋(とよみけかしきや)比売命、麻呂古(まろこ)王、大宅(おほやけ)王、伊美賀古(いみがこ)王、山代(やましろ)王、大伴(おほとも)王、櫻井(さくらゐ)の玄(ゆみはり)王、麻奴(まぬ)王、橘本之若子(たちばなのもとのわくご)王および泥杼(ねど)王の13人をを生んだとします。

 この「きたし」は、

  「キタ・チヒ」、KITA-TIHI(kita=tightly,fast,compact,tightly clenched;tihi=summit,top,topknot of hair,lie in a heap)、「小柄で・高貴な(媛)」(「チヒ」のH音が脱落して「チ」から「シ」となった)

  または「キタ・アチ」、KITA-ATI(kita=tightly,fast,compact,tightly clenched;ati=descendant)、「(大勢の)子供達を・しっかりと抱きかかえていた(養育した。媛)」(「キタ」の語尾のA音と「アチ」の語頭のA音が連結して「キタチ」から「キタシ」となった)

の転訛と解します。 

 

229E5小姉(をあね)君

 紀は第四の妃を229E4堅鹽(きたし)媛の妹の小姉(をあね)君とし、229F19茨城(うまらき)皇子、229F20葛城(かづらき)皇子、229F21泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇女、229F22泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇子(亦の名天香子(あまつかこ)皇子、住迹(すみと)皇子)および229F23泊瀬部(はつせべ)皇子(232A崇峻天皇)の5人を生んだ(一書は第1子を茨城皇子、第2子を泥部穴穂部皇女、第3子を泥部穴穂部皇子(亦の名住迹皇子)、第4子葛城皇子、第5子を泊瀬部皇子とし、また一書は第1子を茨城皇子、第2子を住迹皇子、第3子を泥部穴穂部皇女、第4子泥部穴穂部皇子(亦の名天香子皇子)、第5子を泊瀬部皇子とします)とします。

 記は第五の妃を岐多斯(きたし)比売の姨(をば)の小兄(をえ)比売とし、馬木(うまき)王、葛城(かづらき)王、間人穴太部(はしひとのあなほべ)王、三枝部穴太部(さきくさべのあなほべ)王(亦の名須売伊呂杼(すめいろど))および長谷部若雀(はつせべのわかさざき)命を生んだとします。

 この「をあね」、「をえ」は、

  「アウア・ネイ」、AUA-NEI(aua=far advanced,far on(in point of distance),at a great height or depth;nei,neinei=stretched forwards)、「非常に・高貴な(媛)」(「アウア」のAU音がO音に変化して「オア」となった)

  「ホヘ」、HOHE(active,strong)、「活発な(媛)」(H音が脱落して「オエ」となった)

の転訛と解します。 

 

229E6糠子(あらこ)

 紀は第五の妃を春日の日抓(ひつめ)臣の女の糠子(あらこ)とし、229F24春日山田(やまだ)皇女および229F25橘(たちばな)麻呂皇子の2人を生んだとします。

 記は第三の妃を春日の日爪(ひつま)臣の女の229E6糠子(ぬかご)郎女とし、229F24春日山田(やまだ)郎女、229F25麻呂古(まろこ)王(『古事記伝』は229F10椀子(まろこ)皇子の誤りとします)および229F5宗我(そが)の倉(くら)王の3人を生んだとします。

 この「あらこ」、「ぬかご」は、

  「アラ・コ」、ARA-KO(ara=way,rise,awake,have the eyes open;ko=addressing to males and females)、「眼を大きく見開いている・媛」

  「ヌカ・コ」、NUKA-KO((Hawaii)nuka=large,plump;ko=addressing to males and females)、「大柄の(または肥った)・媛」

の転訛と解します。

 

229F1箭田珠勝大兄(やたのたまかつのおほえ)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E1石(いし)姫皇女の第1子、箭田珠勝大兄(やたのたまかつのおほえ)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と石(いし)比売命の第1子、八田(やた)王とします。

 皇子は、欽明13年4月に早世します。

 この「やた」、「たまかつ」、「おほえ」は、

  「イア・アタ」、IA-ATA(ia=indeed,current;ata=gently,clearly,openly,deliverately)、「実に・穏やかな(皇子)」(「イア」のA音と「アタ」の語頭のA音が連結して「ヤタ」となった)

  「タマ・カツア」、TAMA-KATUA(tama=son,eldest son,child;katua=full-grown,adult)、「成人となった・最年長の子(皇子)」(「カツア」の語尾の「ア」が脱落して「カツ」となった)

  「オホ・ヘイ」、OHO-HEI(oho=spring up,wake up,arise;hei=go towards,turn towards,be requited)、「すっくと立っている・(兄弟の先頭に立って)進んで行く(皇子)」(「ヘイ」のH音が脱落して「エイ」から「エ」となった)

の転訛と解します。

 

229F2譯語田渟中倉太珠敷(をさたのぬなくらのふとたましき)尊(230敏達天皇)

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E1石(いし)姫皇女の第2子、譯語田渟中倉太珠敷(をさたのぬなくらのふとたましき)尊とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と石(いし)比売命の第2子、沼名倉太玉敷(ぬなくらふとたましき)命とします。

 この「をさた」、「ぬなくら」、「ふとたましき」は、

  「オ・タタ」、O-TATA(o=the...of,belonging to;tata=dash down,beat down,strike repeatedly)、「繰り返し(洪水の)被害を受けた・(平らな)土地(地域。そこに住んだ尊)」または「(欽明天皇に続き)再び・(仏法をないがしろにした)罰を蒙った(志半ばで病死した。尊)」

  「ヌナ・クラ」、NUNA-KURA((Hawaii)nuna=luna=high,above,foreman,boss,leader;kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure)、「赤い鳥毛で飾った(美しく装った)・指導者(天皇)」

  「フトイ・タマ・チキ」、HUTOI-TAMA-TIKI(hutoi=stunt,growing weakly,dishevelled;tama=son,eldest son,child;tiki=fetch,proceed to do anything,go for a purpose)、「(自分の)子供を・率いる(皇太子として次の天皇とする)ことを・ためらった(天皇)」(「フトイ」の語尾のI音が脱落して「フト」となった)

の転訛と解します。

 

229F3笠縫(かさぬひ)皇女

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E1石(いし)姫皇女の第3子、笠縫(かさぬひ)皇女(亦の名狭田毛(さたけ)皇女)とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と石(いし)比売命の第3子、笠縫(かさぬひ)王とします。

 この「かさぬひ」、「さたけ」は、

  「カタ・ヌイ」、KATA-NUI(kata=opening of shellfish,laugh;nui=large,many)、「よく・笑う(媛)」

  「タ・タケ」、TA-TAKE(ta=the...of,dash,beat,lay;take=absent oneself,crooked,base,stump)、「実に・しっかりした(媛)」

の転訛と解します。

 

229F4石上(いそのかみ)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と228F3倉稚綾(くらのわかや)姫皇女の子、石上(いそのかみ)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と228F2小石(こいし)比売命の子、上(かみ)王とします。

 この「いそのかみ」、「かみ」は、

  「イト・ノ・カハ・ミヒ」、ITO-NO-KAHA-MIHI(ito=object of revenge,trophy of an army;no=of;kaha=strong,persistency,rope,noose;mihi=greet,admire)、「(欽明天皇から得た)戦利品のような(宝)物・の・強くて・尊敬される(皇子)」(「カハ・ミヒ」のH音が脱落して「カ・ミ」となった)

  「カハ・ミヒ」、KAHA-MIHI(kaha=strong,persistency,rope,noose;mihi=greet,admire)、「強くて・尊敬される(皇子)」(「カハ・ミヒ」のH音が脱落して「カ・ミ」となった)

の転訛と解します。

 

229F5倉(くら)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E3日影(ひかげ)皇女の子、倉(くら)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と229E6糠子(ぬかご)郎女の第3子、宗我(そが)の倉(くら)王とします。

 この「くら」、「そが」は、

  「クラ」、KURA(red,ornamented with feathers,precious,treasure)、「(赤い鳥毛の飾りを付けて)美しく着飾っている(皇子)」

  「ト(ン)ガ」、TONGA(restrained,suppressed,secret,south,sunset)、「秘密の(出自を持つ。皇子)」(NG音がG音に変化して「トガ」から「ソガ」となった)

の転訛と解します。 

 

229F6大兄(おほえ)皇子(231用明天皇)

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第1子、大兄(おほえ)皇子(後の231A用明天皇。橘豊日(たちばなのとよひ)尊)とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第1子、橘豊日(たちばなのとよひ)命とします。

 この「おほえ」、「たちばなのとよひ」は、

  「オホ・ヘイ」、OHO-HEI(oho=spring up,wake up,arise;hei=go towards,turn towards,be requited)、「すっくと立っている・(兄弟の先頭に立って)進んで行く(皇子)」(「ヘイ」のH音が脱落して「エイ」から「エ」となった)

  「タハ・チ・パナ・ノ・トイ・アウヒ」、TAHA-TI-PANA-NO-TOI-AUHI(taha=side,edge,pass on one side;ti=throw,cast,overcome;pana=thrust or drive away,expel,cause to come or go forth in any way;no=of;toi=tip,summit,origin;auhi=be humpered,be hindered,be distressed(ohi=grow,be vigorous(applied chiefly to childhood)))、「(仏教を)追放するかどうかの・瀬戸際に・立たされ・た・極めて・苦悩した(または幼少のころは大変元気であった。天皇)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」と、「トイ」のI音と「アウヒ」のAU音がO音に変化して「オヒ」となったその語頭のO音が連結して「トヨヒ」となった)

の転訛と解します。 

 

229F7磐隈(いはくま)皇女

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第2子、磐隈(いはくま)皇女(亦の名夢(いめ)皇女)とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第2子、石隈(いはくま)王とします。

 紀は皇女は初め伊勢の斎宮となりましたが、異母弟の229F19茨城(うまらき)皇子に犯されたため、解任されたとします。

 この「いはくま」、「いめ」は、

  「イ・ハク・マ」、I-HAKU-MA(i=past tense,beside;haku=complain of,find fault with;ma=white,clear)、「(異母弟の茨城皇子に犯されたため斎宮として)欠格であることが判明・して・(顔面が)蒼白となった(皇女)」

  「イ・マイ」、I-MAI(i=past tense,beside;mai=become quiet)、「(斎宮として欠格であることが明らかとなったため)静かに(口数が少なく)・なった(皇女)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。 

 

229F8臘嘴鳥(あとり)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第3子、臘嘴鳥(あとり)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第3子、足取(あとり)王とします。

 この「あとり」は、

  「アト・リ」、ATO-RI(ato=thatch,enclose in a fence etc.;ri=screen,protect,bind)、「垣根(の中)で・保護されていた(皇子)」

の転訛と解します。 

 

229F9豊御食炊屋(とよみけかしきや)姫尊(233推古天皇)

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第4子、豊御食炊屋(とよみけかしきや)姫尊(推古即位前紀は幼名を額田部(ぬかたべ)皇女とします)とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第4子、豊御気炊屋(とよみけかしきや)比売命とします。

 皇女は230敏達天皇の皇后となり、232崇峻天皇の後233推古天皇となります。

 この「とよみけかしきや」、「ぬかたべ」は、

  「トイ・イオ・ミヒ・ケ・カチ・キ・イア」、TOI-IO-MIHI-KE-KATI-KI-IA(toi=move quickly,encourage;io=muscle,tough,obstinate;mihi=greet,admire,sigh for;ke=strange,different;kati=leave off,be left in statu quo,block up,shut of a passage;ki=full,very;ia=indeed,current)、「疲れを知らずに・敏速に行動した(政務に精励した)・(夫の死を)嘆いて・変わったことに・何と・実に・(皇太子も後継者も定めずに)現状のまま放置した(天皇)」(「トイ」のI音と「アウ」のAU音がO音に変化したそのO音が連結して「トヨ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「ヌカ・タパエ」、NUKA-TAPAE(nuka=deceive,dupe;tapae=lay one on another,present,invest)、「嘘を・言う(相手を後継者として考えているかのように思わせる、気を持たせる。皇女)」(「タパエ」のAE音がE音に変化して「タペ」から「タベ」となった)

の転訛と解します。 

 

229F10椀子(まろこ)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第5子、椀子(まろこ)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第5子、麻呂古(まろこ)王とします。

 この「まろこ」については前出226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。

 

229F11大宅(おほやけ)皇女

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第6子、大宅(おほやけ)皇女とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第6子、大宅(おほやけ)王とします。

 この「おほやけ」は、

  「オホ・イア・ケ」、OHO-IA-KE(oho=spring up,wake up,arise;ia=indeed,current;ke=strange,different)、「すっくと立っている・実に・変わった(皇女)」

の転訛と解します。 

 

229F12石上部(いそのかみべ)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第7子、石上部(いそのかみべ)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第7子、伊美賀古(いみがこ)王とします。

 この「いそのかみべ」、「いみがこ」は、

  「イト・ノ・カハ・ミヒ・パイ」、ITO-NO-KAHA-MIHI-PAI(ito=object of revenge,trophy of an army;no=of;kaha=strong,persistency,rope,noose;mihi=greet,admire;pai=good,excellent,suitable,handsome)、「(欽明天皇から得た)戦利品のような(宝)物・の・強くて・尊敬される・美男子の(皇子)」(「カハ・ミヒ」のH音が脱落して「カ・ミ」と、「パイ」のAI音がE音に変化して「ペ」から「ベ」となった)

  「イ・ミヒ・(ン)ガカウ」、I-MIHI-NGAKAU(i=past tense,beside;mihi=greet,admire;ngakau=vitalis,heart,desire,spirit)、「尊敬・された・活気に溢れている(皇子)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「(ン)ガカウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ガコ」となった)

の転訛と解します。

 

229F13山背(やましろ)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第8子、山背(やましろ)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第8子、山代(やましろ)王とします。

 この「やましろ」は、

  「イア・マチロ」、IA-MATIRO(ia=indeed,current;matiro=look longingly at,beg for food)、「実に・(何かを)求めている(皇子)」

の転訛と解します。 

 

229F14大伴(おほとも)皇女

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第9子、大伴(おほとも)皇女とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第9子、大伴(おほとも)王とします。

 この「おほとも」は、

  「オホ・トマウ」、OHO-TOMAU(oho=spring up,wake up,arise;tomau=steadfast)、「不動の姿勢で・すっくと立っている(皇女)」(「トマウ」のAU音がO音に変化して「トモ」となった)

の転訛と解します。 

 

229F15櫻井(さくらゐ)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第10子、櫻井(さくらゐ)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第10子、櫻井(さくらゐ)の玄(ゆみはり)王とします。

 この「さくらゐ」、「ゆみはり」は、

  「タク・ラヰ」、TAKU-RAWHI(taku=edge,gunwale,hollow,skirt,threaten behind one's back;rawhi=grasp,seize,hold firmly,surround)、「(母親の)着物の裾に・しがみついている(皇子)」

  「イフ・ミ・パリ」、IHU-MI-PARI(ihu=nose;mi=urine,river;pari=flowing of the tide,flow over)、「鼻・水を・垂らしている(皇子)」(「イフ」のH音が脱落して「イウ」から「ユ」と、「パリ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハリ」となった)

の転訛と解します。 

 

229F16肩野(かたの)皇女

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第11子、肩野(かたの)皇女とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第11子、麻奴(まぬ)王とします。

 この「かたの」、「まぬ」は、

  「カタ・ノホ」、KATA-NOHU(kata=opening of shellfish,laugh;noho=sit,stay,settle)、「しょっちゅう・笑っている(皇女)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「マヌ」、MANU(bird,person held in high esteem,float)、「高い評価を得ている(皇子)」

の転訛と解します。 

 

229F17橘本稚(たちばなのもとのわか)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第12子、橘本稚(たちばなのもとのわか)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第12子、橘本之若子(たちばなのもとのわくご)王とします。

 この「たちばなのもとのわか」、「わくご」は、

  「タハ・チ・パナ・ノ・モト・ノ・ウアカハ」、TAHA-TI-PANA-NO-MOTO-NO-UAKAHA(taha=side,edge,pass on one side;ti=throw,cast,overcome;pana=thrust or drive away,expel,cause to come or go forth in any way;no=of;moto=strike with the fist;uakaha=vigorous,difficult)、「(仏教を)追放するかどうかの・瀬戸際に・立たされ・た・(反対派を)制裁し・た・元気の良い(皇子)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」と、「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

  「ウアカハ・コ」、UAKAHA-KO(uakaha=vigorous,difficult;ko=addressing to males and females)、「元気の良い・男子(皇子)」

の転訛と解します。 

 

229F18舎人(とねり)皇女

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E4堅鹽(きたし)媛の第13子、舎人(とねり)皇女とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と岐多斯(きたし)比売の第13子、泥杼(ねど)王とします。

 この「とねり」、「ねど」は、

  「ト・(ン)ゲリ」、TO-NGERI(to=the...of,drag,open or shut a door or a window;ngeri=look fierce or savage)、「乱暴に・戸を開閉する(皇女)」(「(ン)ゲリ」のNG音がN音に変化して「ネリ」となった)

  「(ン)ゲ・ト」、NGE-TO(nge=noise,screech;to=the...of,drag,open or shut a door or a window)、「音を立てて・戸を開閉する(皇女)」

の転訛と解します。

 

229F19茨城(うまらき)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E5小姉(をあね)君の第1子、茨城(うまらき)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と小兄(をえ)比売の第1子、馬木(うまき)王とします。

 紀は皇子が伊勢の斎宮となった異母姉の229F7磐隈(いはくま)皇女を犯したと伝えます。

 この「うまらき」、「うまき」は、

  「ウマラハ・キ」、UMARAHA-KI(umaraha=extended,wide,bewildered;ki=full,very)、「行動が・常軌を逸脱している(皇子)」(「ウマラハ」のH音が脱落して「ウマラ」となった)

  「ウマ(ン)ガ・キ」、UMANGA-KI(umanga=pursuit,occupation,business;ki=full,very)、「(その行う)仕事が・桁が外れている(皇子)」(「ウマ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ウマ」となった)

の転訛と解します。

 

229F20葛城(かづらき)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E5小姉(をあね)君の第2子、葛城(かづらき)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と小兄(をえ)比売の第2子、葛城(かづらき)王とします。

 この「かづらき」は、

  「カツア・ラ(ン)ギ」、KATUA-RANGI(katua=stockade,main portion of anything;rangi=sky,heaven,tower or elevated platform used for purposes of attack or defence of a stockade)、「空にそびえる・砦のような(高い地域。そこに住む皇子)」

の転訛と解します。

 

229F21泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇女

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E5小姉(をあね)君の第3子、泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇女とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と小兄(をえ)比売の第3子、間人穴太部(はしひとのあなほべ)王とします。

皇女は、231用明天皇の皇后となり、231F1厩戸(うまやと)皇子、231F2来目(くめ)皇子、231F3殖栗(ゑくり)皇子および231F4茨田(まむた)皇子を生み、天皇の崩御後231F5田目(ため)皇子に嫁ぎます。

 この「はしひとのあなほべ」は、

  「パチ・ピト・ノ・ア・ナホ・パイ」、PATI-PITO-NO-A-NAHO-PAI(pati=try to obtain by coaxing,flattery;pito=end,extremity,at first;no=of;a=the...of,belonging to;naho=hasty,quick in speech or motion;pai=excellent,suitable,good-looking)、「最初は・チヤホヤされ・た・行動に慎重を欠い・た・美貌の(皇女)」(「パチ・ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ・ヒト」から「ハシ・ヒト」と、「パイ」のAI音がE音に変化して「ペ」から「ベ」となった)

の転訛と解します。

 

229F22泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E5小姉(をあね)君の第4子、泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)皇子(亦の名天香子(あまつかこ)皇子、住迹(すみと)皇子)とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と小兄(をえ)比売の第4子、三枝部穴太部(さきくさべのあなほべ)王(亦の名須売伊呂杼(すめいろど))とします。

 敏達紀14年8月条は皇子が敏達天皇の崩後皇位を望んだとし、用明紀元年5月条は皇子が炊屋姫皇后を犯そうとして三輪君逆に止められたのを恨んで三輪君逆を殺し、同2年4月には豊国法師を連れて朝廷に入る騒ぎを起こし、用明天皇の崩後の同2年6月には遂に蘇我馬子に殺されます。

 この「はしひとのあなほべ」、「あまつかこ」、「すみと」、「さきくさべ」、「すめいろど」は、

  「パチ・ピト・ノ・ア・ナホ・ぺ」、PATI-PITO-NO-A-NAHO-PE(pati=try to obtain by coaxing,flattery;pito=end,extremity,at first;no=of;a=the...of,belonging to;naho=hasty,quick in speech or motion;pe=crushed,soft)、「最初は・チヤホヤされ・た・行動に慎重を欠い・た・(最後に)抹殺された(皇子)」(「パチ・ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ・ヒト」から「ハシ・ヒト」となった)

  「アマイ・ツ・カカウ」、AMAI-TU-KAKAU(amai=swell on the sea,giddy,dizzy;tu=fight with,energetic;kakau=swim)、「きらきらと(目立って)・精力的に・泳ぎ廻った(皇位を得ようと活動した。皇子)」(「アマイ」の語尾のI音が脱落して「アマ」と、「カカウ」のAU音がO音に変化して「カコ」となった)

  「ツ・ミト」、TU-MITO(tu=fight with,energetic;mito=pout)、「激しく・(口を尖らせて)文句を言った(皇子)」

  「タキ・クタ・ペ」、TAKI-KUTA-PAI(taki=stick in;kuta=a rush;pai=good,excellent,suitable,handsome)、「(地面に)棒を突き立てた(ような一本の直立した軸の先に花が咲く)・草(百合)の・ように美しい(または「三枝」の名にふさわしい「部」に関係のある。皇子)」

  「ツ・マイ・イロ・アウト」、TU-MAI-IRO-AUTO(tu=fight with,energetic;mai=sour,fermented,become quiet;iro=submissive as result of punishment;auto=trailing behind,slow,protract)、「激しく・感情を爆発させて・(遂に)罪に服した・(天皇の)弟(皇子)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」と、「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となり、「イロ」と連結して「イロト」から「イロド」となった)(「いろど」については、雑楽篇の302いろどの項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

229F23泊瀬部(はつせべ)皇子(232崇峻天皇)

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E5小姉(をあね)君の第5子、泊瀬部(はつせべ)皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と小兄(をえ)比売の第5子、長谷部若雀(はつせべのわかさざき)命とします。

 皇子は231用明天皇の崩御後232崇峻天皇となりますが、蘇我馬子に殺害されます。

 この「はつせべ」、「わかさざき」は、

  「パツ・テ・ペ」、PATU-TE-PE(patu=screen,wall,edge,strike,kill;te=crack,emphasis;pe=crushed,soft)、「(穴穂部皇子や物部氏を)殺し・まくって・(挙げ句の果てに自分も)抹殺された(天皇)」

  「ウアカハ・タタキ」、UAKAHA-TATAKI(uakaha=vigorous,difficult;tataki=take to one side,take food from the fire,viscous,glairy)、「元気が良い・(対抗馬が居なくなった)頃合いを見計らって皇位に就いた(天皇)」(「ウアカハ」のH音が脱落して「ワカ」となった)

の転訛と解します。

 (「はつせ」については古典篇(その十)の221A雄略天皇の項を、「さざき」については古典篇(その八)の216A仁徳天皇の項を参照してください。)

 

229F24春日山田(かすがのやまだ)皇女

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E6糠子(あらこ)の第1子、春日山田(やまだ)皇女とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と糠子(ぬかご)郎女の第1子、春日山田(やまだ)郎女とします。

 この「かすがのやまだ」については、227E1春日山田(やまだ)皇女の項を参照してください。

 

229F25橘(たちばな)麻呂皇子

 紀は229A天國排開廣庭(あめくにおしはらきひろには)尊と229E6糠子(あらこ)の第2子、橘(たちばな)麻呂皇子とし、記は天國押波流岐廣庭(あめくにおしはるきひろには)命と糠子(ぬかご)郎女の第2子、麻呂古(まろこ)王(『古事記伝』は229F10椀子(まろこ)皇子の誤りとします)とします。

 この「たちばな」は、

  「タハ・チ・パナ」、TAHA-TI-PANA-MARO(taha=side,edge,pass on one side;ti=throw,cast,overcome;pana=thrust or drive away,expel,cause to come or go forth in any way)、「(仏教を)追放するかどうかの・瀬戸際に・立たされた(皇子)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」となった)

の転訛と解します。

(「まろ」については前出226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

229G檜隈坂合(ひのくまのさかひ)陵

 紀は陵を檜隈坂合(ひのくまのさかひ)陵(『延喜式』は所在地を大和国高市郡と、『陵墓要覧』は奈良県高市郡明日香村大字平田とします)とし、記には記載がありません。

 この現欽明天皇陵とされる平田梅(むめ)山古墳(全長140メートル)は欽明天皇陵ではなく、橿原市の見瀬丸山古墳(全長318メートル)が欽明紀32年5月条に「河内の古市に殯(もがり)す」と、推古紀20年2月条に「皇大夫人堅塩媛を檜隈大陵に改葬す」とあり、その位置や規模などから欽明天皇陵にふさわしいとする説があり、他方推古紀28年10月条に「砂礫を檜隈陵の上に葺く」とあるのに平田梅山古墳には葺石があるが見瀬丸山古墳にはないことなどからこれを疑問視する説も有力で、見瀬丸山古墳は蘇我稲目墓とする説もあります。

 この「ひのくまのさかひ」は、

  「ヒ・ノホ・クマ・ノ・タカヒ」、HI-NOHO-KUMA-NO-TAKAHI(hi=raise,rise;noho=sit,settle;(Hawaii)kuma=cracking of the skin between fingers and toes;no=of;takahi=trample,tread,plunder,perform a ceremony)、「(指の間のような)山の尾根の間の・高いところに・在る・土を積んでは踏み固めて造成した(陵)」(「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

229H1秦大津父(はだのおほつち)

 欽明即位前紀に天皇が幼少の頃「秦大津父(はだのおほつち)という人を寵愛すれば成人後必ず皇位に就くだろう」と夢見があり、秦大津父を山背国紀郡深草里で発見して話を聞くと、「伊勢の山中で二匹の狼が激しく咬み合っていたのに遭遇し、咬み合いを止めるよう熱心に説得して共に命を助けて放逐した」と答えたので、厚遇したとあります。この説話は安閑・宣化朝と欽明朝の並立と和解を象徴したものと解する説があります。

 この「おほつち」は、

  「オホ・ツ・ウチ」、OHO-TU-UTI(oho=spring up,wake up,arise;tu=stand,settle,fight with,energetic;uti=bite)、「(二匹の狼が)激しく・咬み合っていた(のに遭遇して)・びっくりして飛び上がった(人)」(「ツ」のU音と「ウチ」の語頭のU音が連結して「ツチ」となった)

  または「オ・ホツ・チ」、O-HOTU-TI(o=the...of;hotu=sob,desire eagerly,chafe with animosity;ti=throw,cast,overcome)、「(二匹の狼が咬み合いを止めるよう)熱心に説得して・(共に命を助けて)放逐した・人」

の転訛と解します。

 (「はだ(はた。秦)」については古典篇(その十)の221H12秦酒公の項を参照してください。)

 

229H2青海夫人(あをみのおほとじ)勾子(まがりこ)

 欽明紀元年9月条は、任那を滅亡させた原因となった百済への4縣割譲の責任を感じて引きこもった225H2(226H1)大伴大連金村を青海夫人(あをみのおほとじ)勾子(まがりこ)を見舞いに派遣し、その罪は問わなかったとします。

 この「あおみ」、「おほとじ」、「まがりこ」は、

  「ア・アウミヒ」、A-AUMIHI(a=the...of;aumihi=greet,admire,applied to first two wives in a polygamous marriage)、「第一夫人・である(女子)」(「アウミヒ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オミ」となった)

  「オ・ホト・チ」、O-HOTO-TI(o=the...of;hoto=begin,start,join;ti=throw,cast,overcome)、「(家事の開始の)号令を・下す(女子)」

  「マ(ン)ガリ・コ」、MANGARI-KO(mangari=luck,fortune;ko=addressing to malea and females)、「運の良い・女子」(NG音がG音に変化して「マガリ」となった)

の転訛と解します。

 

229H3津守(つもり)連己麻奴跪(こまなこ)・阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)

 欽明紀2年7月条は新羅が任那復興を妨げるよう安羅の日本府の河内直(『百済本記』はこれを加不至(かふち)費直、阿賢移那斯(あけえなし)、佐魯麻都(さろまつ)等とします。)と通じたとし、同4年12月条は日本が百済に派遣した津守(つもり)連(『百済本記』はその名を己麻奴跪(こまなこ)とします。)が河内直(『百済本記』は河内直・移那斯(えなし)・麻都(まつ)とします。)に対し新羅と通じたその行動を指弾したとあります。

 この「つもり」、「こまなこ」、「あけえなし」、「さろまつ」は、

  「ツ・モリ」、TU-MORI(tu=fight with,energetic;mori=fondle,caress)、「精力的に・(任那復興のために)面倒をみた(首長)」

  「コマ・ナコ」、KOMA-NAKO(koma=pale,whitish;nako=have much in the thoughts)、「あれこれと思い悩んで・蒼白となった(人)」または「コ・マナコ」、KO-MANAKO(ko=addressing to malea and females;manako=like,set one's heart on on,longing,anxiety)、「心配事がある・男子」

  「アケ・ヘ(ン)ガ・チ」、AKE-HENGA-TI(ake=indicating immediate continuation in time,intensifying;henga=circumstance etc. of erring;ti=throw,cast,overcome)、「とても・心配な事が・降りかかっている(人)」(「ヘ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がN音に変化して「エナ」となった)

  「タロ・マ・アツ」、TARO-MA-ATU(taro=denoting the lapse of a short time,presently,by and by;ma-atu=go,come)、「(新羅と)短期間で(急いで)・行き来する(人)」(「マ」のA音と「アツ」の語頭のA音が連結して「マツ」となった)

の転訛と解します。

 

229H4膳臣巴提使(はすひ)

 欽明紀6年11月条は同年3月に百済に派遣された膳臣巴提使(はすひ)が帰還して、百済の浜で虎に襲われて子供を失ったが、その虎を探して報復して殺した旨報告があったと記します。

 この「はすひ」は、

  「ハ・ツヒ」、HA-TUHI(ha=what!;tuhi=conjure,invoke with proper ceremonies)、「なんと・魔法を使った(かのように子供を食った虎を探し出して殺した。臣)」

の転訛と解します。

 

229H5中臣(なかとみ)連鎌子(かまこ)・溝辺(いけへ)直

 欽明紀13年10月条は百済の聖明王が仏像、経などを献上したので、天皇が仏教導入の可否を諸臣に諮問したところ、物部大連尾輿・中臣(なかとみ)連鎌子(かまこ)が強硬に反対し、蘇我大臣稲目が賛成したので、試みに稲目に仏像等を預けて礼拝させることとしたが、その後疫病が流行し収まらなかったので、仏像を堀江に捨て、寺を焼いたとあります。

 欽明紀14年5月条は河内国泉郡の茅渟(ちぬ)海に光が満ち楽音が響いているとの報告があったので、溝辺(いけへ)直を派遣したところ、樟木を発見したので、これから仏像2体を造ったとあります。

 この「なかとみ」、「かまこ」、「いけへ」は、

  「ナ・カツア・アウミヒ」、NA-KATUA-AUMIHI(na=belonging to;katua=adult,stockade or main fence of a fort distinguished from the outside and from the inside;aumihi=greet,admire,applied to first two wives in a polygamous marriage)、「(柵を巡らした)集落の外側の柵と内側の柵の間に・居る(=神と人との間に居る。祭祀を司る)・尊敬すべき(臣。部族)」(「カツア」の語尾のA音が脱落して「カツ」と、「アウミヒ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オミ」となり、「ナカツオミ」から「ナカトミ」となった)

  「カマ・コ」、KAMA-KO(kama=eager;ko=addressing to malea and females)、「(仏教を排斥することに)熱心だった・男子」

  「イケ・ヘ」、IKE-HE(ike=high,lofty;he=wrong,erring,troublous,difficulty,fail)、「漂流物を・(持ち上げた)拾い上げた(直)」

の転訛と解します。

 

229H6馬飼首歌依(うたより)・逢(あふ)臣讃岐(さぬき)・守石(もりし)・名瀬氷(なせひ)

 欽明紀23年6月是月条は馬飼首歌依(うたより)の妻の逢(あふ)臣讃岐(さぬき)の鞍の下掛布は皇后の物であると告発があり、刑吏が歌依を捕らえ拷問にかけたところ「無実だ。もし事実なら天災が起こるだろう」と言って死に、まもなく朝廷に火事が起こったので、刑吏がその子の守石(もりし)と名瀬氷(なせひ)を火に投じようとしたところ、守石の生母が命乞いをしたので神社に奉仕する賤民としたとあります。

 この「うたより」、「あふ」、「さぬき」、「もりし」、「なせひ」は、

  「ウタ・イ・オリ」、UTA-I-ORI(uta=put persons or goods on board a canoe etc.;i=past tense,beside;ori=bad weather or wind,prey of disease,a place where people have been carried off by the disease)、「(殺されるときに)災いを・もたらしてやると・言い残した(首)」

  「アフ」、AHU(heap,sacred mound used in certain rites,tend,foster)、「養育する(臣。育ての母(継母))」

  「タ・(ン)グ・キ」、TA-NGU-KI(ta=the...of,dash,beat,lay;ngu=ghost,silent,speechless,greedy)、「(継子が殺されようとしているのに)全く・一言も・しゃべらなかった(継母)」(「(ン)グ」のNG音がN音に変化して「ヌ」となった)

  「モリ・イチ」、MORI-ITI(mori=mean,person of no account,fondle,caress;iti=small)、「(弟よりも)小さくて・可愛い(兄)」(「モリ」の語尾のI音と「イチ」の語頭のI音が連結して「モリチ」から「モリシ」となった)

  「テイナ・ヒ」、TEINA-HI(teina,taina=younger brother of a male,younger sister of a female,cousin of the same sex in a younger branch of the family;hi=raise,rise)、「(兄よりも)背の高い・弟」(「テイナ」が「ナテ」から「ナセ」となった)

(古語の「なせ(汝兄)」は「親愛の情をもって男性を呼ぶ語」(『岩波古語辞典』)で「ナ・タイ」、NA-TAI(na=belonging to,indicating parentage or descent,not;tai=the sea,tide,a term of address to males and females(tei,teitei=high,tall))、「(主として血縁関係にある男女に対する)呼びかけの語」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テイ」から「セ」となった)と解することができます。

 また古語の「せな(夫。兄)」は(1)「夫や兄など男性を女から親しんでいう語」、(2)「(近世、関東などで)兄」(『岩波古語辞典』)で、もともとは「テイナ」、TEINA(younger brother of a male,younger sister of a female,cousin of the same sex in a younger branch of the family)=TEI-NA(tei=high,tall;na=not)、「弟(または妹、年少の従兄弟・従姉妹)」(「テイナ」が「セナ」となった)であったのが、「タイ・ナ」、TAI-NA(tai=the sea,tide,a term of address to males and females(tei,teitei=high,tall);na=belonging to,indicating parentage or descent,not)、「(主として血縁関係にある男女に対する)呼びかけの語」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テイ」から「セ」となった)の語が慣用されるようになったと解することができます。)

の転訛と解します。

 

229H7紀男(を)麻呂宿禰・河邊(かはへ)臣瓊缶(にへ)・薦集部(こもつめべ)首登弥(とみ)・倭国造手(て)彦・坂本臣甘美(うまし)媛・調吉士(つきのきし)伊企儺(いきな)・大葉(おほば)子

 欽明紀23年7月是月条は百済応援のために紀男(を)麻呂宿禰大将軍を派遣しましたが、別の場所から出発した副将の河邊(かはへ)臣瓊缶(にへ)が百済と打ち合わせのために派遣した薦集部(こもつめべ)首登弥(とみ)が作戦計画書を紛失し、それが敵の手に渡るという不祥事が発生します。戦闘は当初日本軍が優勢で紀男(を)麻呂宿禰が慢心を戒めたにもかかわらず、河邊臣瓊缶が敵を深追いして負け、倭国造手(て)彦は軍を見捨てて逃げ出しました。河邊臣瓊缶は、ともに捕虜となったその妾の坂本臣甘美(うまし)媛を敵将に与えて助命されますが、捕虜となった調吉士(つきのきし)伊企儺(いきな)とその妻大葉(おほば)子は最後まてその節を曲げなかったとあります。

 この「を」、「かはへ」、「にへ」、「こもつめべ」、「とみ」、「てひこ」、「うまし」、「いきな」、「おほば」は、

  「アウ」、AU(sea,tide,firm,intense)、「しっかりした(堅実な。将軍)」(AU音がO音に変化して「オ」となった)

  「カワ・ヘ」、KAWA-HE(kawa=unpleasant to the taste,bitter,charmed;he=wrong,erring,troublous,difficulty,fail)、「(部下が作戦計画書を紛失してそれが敵の手に渡ったり、敵を深追いして戦いに負けるという)苦い・失敗をした(臣。将軍)」

  「ヌイ・ヘ」、NUI-HE(nui=large,many;he=wrong,erring,troublous,difficulty,fail)、「(部下が作戦計画書を紛失してそれが敵の手に渡ったり、敵を深追いして戦いに負けるという)重大な・失敗を犯した(将軍)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

  「コモ・ツメ・パエ」、KOMO-TUME-PAI(komo=thrust in,put in,insert;tume=slow,dilatory;pae=horizen,region,lie across,be laid to the charge of anyone)、「ゆっくりと・中へ入って行く(使いをする。習性をもつ)・(人の使役に充てられた)部族」(「パエ」のAE音がE音に変化して「ペ」から「ベ」となった)

  「ト・ミ」、TO-MI(set as the sun,dive;mi=stream,river)、「(責任を感じて)川に・身を投げた(首長)」

  「テ・ヒコ」、TE-HIKO(te=crack;hiko=move at random or irregularly)、「急に・(軍隊から)離脱した(首長)」

  「ウ・マテ」、U-MATE(u=be fixed,be firm,reach its limit;mate=dead,sick,injured,damaged)、「(夫に見捨てられて)とことん・傷ついた(女性)」(「マテ」のE音がI音に変化して「マチ」から「マシ」となった)

  「イ・キヒ・ナ」、I-KIHI-NA(i=past tense,beside;kihi=cut off,destroy completely;na=not)、「(どんなに痛めつけられても)信念を曲げることが・無か・った(勇士)」(「キヒ」のH音が脱落して「キ」と なった)

  「オホ・パコ」、OHO-PAKO(oho=spring up,wake up,arise;pako=make a loud sudden sound or report)、「すっくと立って・大きな声で叫んだ(妻)」

の転訛と解します。

 (「調吉士(つきのきし)」については前出226H10調吉士(つきのきし)の項を参照してください。)

 

229H8美女(をみな)媛・吾田子(あたこ)

 欽明紀23年8月条は大将軍228H2大伴連狭手(さで)彦が高麗を征伐し、多くの財宝を得て帰還し、美女媛(をみなひめ)とその召使の吾田子(あたこ)を蘇我稲目に贈ったとします。

 この「をみなひめ」、「あたこ」は、

  「アウミヒ・ナヒ・マイ」、AUMIHI-NAHI-MAI(aumihi=greet,admire,applied to first two wives in a polygamous marriage;(Hawaii)nahi=thin,few;mai=clothing,dance)、「尊敬される・痩せて・着飾っている(媛)」(「アウミヒ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オミ」と、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

  「アタ・コ」、ATA-KO(ata=gently,clearly,openly,deliberately;ko=addressing to males or females)、「しとやかな・女性」

の転訛と解します。

 

229H9江渟(えぬ)臣裙代(もしろ)・東漢氏直糠児(あらこ)・葛城直難波(なにわ)

 欽明紀31年4月条は江渟(えぬ)臣裙代(もしろ)(通説は、江渟(えぬ)臣を加賀国江渟(えぬま)郡地方の豪族江沼(えぬま)臣と解しています。)が上京して、高麗の使者の船が難破して漂着したが郡司がこれを隠匿していると報告したとあり、同是月条は東漢氏直糠児(あらこ)、葛城直難波(なにわ)に対して山城国相楽郡に館を建てて高麗の使者を迎えるよう準備を命じたとあります。

 この「えぬ(えぬま)」、「もしろ」は、

  「ヘ・ヌイ」、HE-NUI(he=wrong,erring,troublous,difficulty,fail;nui=large,many)、「大きな・不正(がある。地域。そこに住む部族)」または「ヘ・ヌマ(ン)ガ」、HE-NUMANGA(he=wrong,erring,troublous,difficulty,fail;numanga=disappearance)、「不都合なことに・(砂丘の拡大や川が運ぶ土砂の堆積によって潟が)消滅して行く(地域。そこに住む部族)」(「ヘ」のH音が脱落して「エ」と、「ヌマ(ン)ガ」のNGA音が脱落して「ヌマ」となった)(地名篇(その十五)の石川県の(2)江沼郡の項を参照してください。)

  「マウ・チロ」、MAU-TIRO(mau=bring,carry;tiro=look)、「見たことを・持ってきた(注進した。臣)」(「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)

  「アラ・コ」、ARA-KO(ara=way,path;ko=a wooden inplement for digging)、「道路を・工事する(ことを命じられた。人)」

  「ヌヌイ・ワ」、NUNUI-WA(nui,nunui=large,many;wa=definite space,area)、「広い・場所(施設を造営することを命じられた。人)」(「ヌヌイ」が「ナニ」となった)

の転訛と解します。

 

229H10膳臣傾子(かたぶこ)・許勢臣猿(さる)・吉士赤鳩(あかはと)・東漢坂上直子麻呂(こまろ)・錦部首大石(おほいし)

 欽明紀31年5月条は、膳臣傾子(かたぶこ)を越国に派遣して高麗の使者を接待したところ、使者が道君に対し「汝が天皇ではないことが判明した。だまし取った貢物を返せ。」と言ったので貢物を返させたとし、同7月是月条は許勢臣猿(さる)、吉士赤鳩(あかはと)に命じて飾り船を難波津から近江へ運び、使者を山城国相楽郡の館に迎え入れ、東漢坂上直子麻呂(こまろ)、錦部首大石(おほいし)を護衛に付けたとあります。

 この「かたぶこ」、「さる」、「あかはと」、「こまろ」、「おほいし」は、

  「カタ・プ・コ」、KATA-PU-KO(kata=laugh,opening of shellfish;pu=tribe,bunch,heap,wise one,origin;ko=addressing to males or females)、「よく笑う・賢い・男子(首長)」または「カタ・プコ」、KATA-PUKO(kata=opening of shellfish,laugh;(Hawaii)puko=driven away)、「笑って・(高麗の使者を京へ)押し出した(首長)」

  「タル」、TARU(painful,acute)、「(船を運ぶのに)難渋した(臣)」

  「アカ・パト」、AKA-PATO(aka=anga=driving force,thing driven etc.;pato=crack,break,maul)、「割れ目(谷)を・(船を)押して通った(臣)」(「パト」のP音がF音を経てH音に変化して「ハト」となった)

  「コマロヒ」、KOMAROHI(strong)、「強い(戦士)」(H音が脱落して「コマロ」となった)

  「オ・ハウ・イチ」、O-HAU-ITI(o=the...of;hau=vitality of man;iti=small)、「活力に溢れた・小さい(戦士)」(「ハウ」のAU音がO音に変化して「ホ」となった)

の転訛と解します。

 (「許勢(こせ)臣については前出226H1許勢男人大臣の項を参照してください。)

 

229H11坂田耳子(みみこ)郎君

 欽明紀32年3月紀は坂田耳子(みみこ)郎君を新羅に派遣して任那が滅亡した理由を質問させたとあります。

 この「みみこ」は、

  「ミヒミヒ・コ」、MIHIMIHI-KO(mihi=greet,admire(mihimihi=frequentative of mihi);ko=addressing to males or females)、「(使者として)挨拶に習熟している・男子(君)」(「ミヒミヒ」のH音が脱落して「ミミ」となった)

の転訛と解します。

229H12筑紫国造鞍橋(くらじ)君

 欽明紀15年12月条は、百済聖明王が函山城を攻略しようと親征しますが、新羅軍の逆襲で落命し、王子余昌も包囲されます。このとき筑紫国造が弓の名手で、新羅軍の勇士を射殺し、その矢の鋭さは鞍の前後橋を射抜き、鎧の首に達するほどで、雨あられと矢を射って包囲軍を後退させ、余昌等を助けました。余昌は、国造が包囲軍を射却したことを賞賛して尊び名付けて「鞍橋(くらじ)君」といったとします。(この「くらじ」は、「くらはし」の転とする説があります。)

 この「くらじ」は、

  「クラ・チ」、KURA-TI(kura=chief,man of prowess;ti=throw,overcome)、「(敵を)蹴散らした・勇者」

の転訛と解します。

トップページ 古典篇一覧 この篇のトップ 語 句 索 引

<修正経緯> 

1 平成15年9月1日

 226A,226C2,226F1,226F2,226F3の項の一部、227Aの項の一部、228Aの項の一部および229Aの項の一部を修正しました。

2 平成15年10月10日

 228A武小廣國排楯(たけをひろくにをしたて)尊の解釈を一部修正しました。

3 平成17年6月1日

 226F2,226F12,229H4の項の一部を修正しました。

4 平成17年8月1日 

 226E1の項の解説を一部補充しました。

5 平成18年10月10日

 229H12筑紫国造鞍橋君の項を追加しました。

6 平成19年1月1日

 228H2の項の佐用姫および弟日姫子の解釈を修正しました。

7 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<修正経緯>の新設、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

8 平成19年10月15日

 226E1の項の多志羅加および衾田墓の解釈を一部修正しました。

古典篇(その十一)終わり

 
U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
 このHPの内容をそのまま、または編集してファイル、電子出版または出版物として
許可なく販売することを禁じます。
Copyright(c)1998-2007 Masayuki Inoue All right reserved