古典篇(その十五)

(平成15-10-10書込み。26-4-1最終修正)(テキスト約33頁)


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<古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その九)>

  ー文武天皇から聖武天皇までー

   目 次

 

[242文武天皇]

 

 242A天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(倭根子豊祖父(やまとねことよおほぢ)天皇)242B藤原(ふぢはら)宮242C1草壁(くさかべ)皇子尊242C2阿倍(阿閇。あへ)皇女(243元明天皇)242D1氷高(ひだか)皇女(244元正天皇)242D2吉備(きび)内親王242E1宮(みや)子娘242E2竈門(かまど)娘242E3刀子(とね)娘242F首(おびと)皇子(245聖武天皇)242G檜隈安古(あこ)山陵242H1役君(えのきみ)小角(をづの)・韓国(からくに)連広足(ひろたり)242H2佐伯宿禰麻呂(まろ)・佐味朝臣賀佐(かさ)麻呂242H3粟田朝臣眞人(まひと)・下毛野朝臣古(こ)麻呂・土部宿禰甥(をひ)・坂合部宿禰唐(もろこし)・白猪史骨(ほね)・黄文連備(そなふ)・田辺史百枝(ももえ)・道君首名(おびとな)・狭井宿禰尺(さか)麻呂・鍛造大角(おほすみ)・額田部連林(はやし)・田辺史首名(おびとな)・山口伊美伎大(おほ)麻呂・調伊美伎老人(おきな)242H4高橋朝臣笠間(かさま)・坂合部宿禰大分(おほきだ)・許勢朝臣祖父(おほぢ)・鴨朝臣吉備(きび)麻呂・掃守宿禰阿賀流(あかる)・錦部連道(みち)麻呂・白猪史阿麻留(あまる)・山於億良(やまのへのおくら)242H5凡海宿禰麁鎌(あらかま)・大伴宿禰御行(みゆき)・三田首五瀬(いつせ)・家部宮道(やかべのみやぢ)242H6藤原朝臣房前(ふささき)・多治比眞人三宅(みやけ)麻呂・高向朝臣大足(おほたり)・波多眞人余射(よざ)・穂積朝臣老(おゆ)・小野朝臣馬養(うまかひ)・大伴宿禰大沼田(おほぬた)242H7波多朝臣広足(ひろたり)・額田首人足(ひとたり)242H8幡文造通(とほる)

 

[243元明天皇]

 

 243A日本根子天津御代豊国成(やまとねこあまつみしろとよくになり)姫天皇243B1藤原(ふぢはら)宮243B2平城(へいぜい)宮(寧楽(なら)宮)243B3岡田(をかだ)離宮・甕原(みかはら)離宮243C1天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(238天智天皇)243C2姪(めひ)娘243D1大田(おほた)皇女から243D13伊賀(いが)皇子まで243F1氷高(ひだか)皇女(244元正天皇)243F2天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇)243F3吉備(きび)内親王243G椎(なら)山陵・奈保(なほ)山東陵243H1阿倍朝臣宿奈(すくな)麻呂・巨勢朝臣麻呂(まろ)・多治比眞人池守(いけもり)・中臣朝臣人足(ひとたり)・小野朝臣広人(ひろひと)・坂上忌寸忍熊(おしくま)243H2柿本(かきのもと)朝臣佐留(さる)・柿本朝臣人(ひと)麻呂243H3佐伯宿禰石湯(いはゆ)・紀朝臣諸人(もろひと)243H4道君首名(おびとな)243H5鞍作磨心(くらつくりのとごころ)243H6紀朝臣清人(きよひと)・三宅臣藤(ふぢ)麻呂243H7笠朝臣麻呂(まろ)・門部連御立(みたち)・山口忌寸兄人(えひと)・伊福部君荒当(あらまさ)243H8大倭忌寸果安(はたやす)・奈良許知(こち)麻呂・四比信紗(しひのしなさ)

 

[244元正天皇]

 

 244A日本根子高瑞浄足(やまとねこたかみづきよたらし)姫天皇244B1平城(へいぜい)宮(寧楽(なら)宮)244B2難波(なには)宮・和泉(いづみ)宮・竹原井(たかはらゐ)頓宮・不破(ふは)行宮244C1草壁(くさかべ)皇子尊244C2阿倍(阿閇。あへ)皇女(243元明天皇)244D1天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇)および244D2吉備(きび)内親王244G1佐保(さほ)山陵244G2奈保(なほ)山陵244H1邑良志別(おらしべつ)君宇蘇弥奈(うそみな)・須賀(すが)君古麻比留(こまひる)244H2多治比眞人県守(あがたもり)・阿倍朝臣安(やす)麻呂・藤原朝臣馬養(宇合。うまかひ)・大伴宿禰山守(やまもり)・吉備朝臣真備(まきび)・阿倍朝臣仲(なか)麻呂・僧玄肪(ぐゑんぼう)244H3行基(ぎょうき)244H4白猪史広成(ひろなり)244H5藤原朝臣武智(むち)麻呂244H6陽侯(やこ)史麻呂(まろ)・大伴宿禰旅人(たびと)・笠朝臣御室(みむろ)・巨勢朝臣真人(まひと)244H7丈部路忌寸石勝(いはかつ)・秦犬(いぬ)麻呂・祖父(おほぢ)麻呂・安頭(あづ)麻呂・乙(おと)麻呂244H8上毛野朝臣広人(ひろひと)・下毛野朝臣石代(いはしろ)・阿倍朝臣駿河(するが)244H9鍛冶造大隅(おほすみ)・越智直広江(ひろえ)・背奈公行文(かうぶん)・調忌寸古麻呂(こまろ)244H10津史主治(すぢ)麻呂244H11満誓(まんせい)

 

[245聖武天皇]

 

 245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(勝宝感神聖武皇帝)245B1恭仁(くに)宮245B2紫香楽(しがらき)宮(甲賀(かふか)宮)245B3難波(なには)宮245B4芳野(よしの)宮・玉垣勾(たまかきのまがり)頓宮・玉津島(たまつしま)頓宮・所石(とろし)頓宮・甕原(みかはら)離宮・竹原井(たかはらゐ)頓宮・堀越(ほりこし)頓宮・安保(あほ)頓宮・河口(かはくち)頓宮・赤坂(あかさか)頓宮・不破(ふは)頓宮・石原(いしはら)宮・薬師(やくし)寺宮245C1天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇)245C2宮(みや)子娘245E1藤原光明(こうみよう)子245E2県犬養宿禰広刀自(ひろとじ)245E3広岡(ひろをか)朝臣古那可智(こなかち)245E4海上(うなかみ)女王245E5矢代(やしろ)女王245F1阿倍(あへ)内親王(246孝謙天皇・248称徳天皇)245F2基(き。もとゐ)王245F3井上(ゐのうへ)内親王(光仁天皇皇后)245F4不破(ふは)内親王245F5安積(あさか)親王245G佐保(さほ)山陵245H1長屋(ながや)王245H2佐伯宿禰児屋(こや)麻呂・高橋朝臣安(やす)麻呂・小野朝臣牛養(うしかひ)245H3土師宿禰豊(とよ)麻呂245H4息長真人臣足(おみたり)245H5羽林(うりむ)連兄(え)麻呂・川原史石庭(いはには)245H6漆部造君足(きみたり)・中臣宮処連東人(あづまひと)・大伴宿禰子虫(こむし)245H7佐味朝臣虫(むし)麻呂・津嶋朝臣家道(いへみち)・紀朝臣佐比物(さひもち)245H8石川朝臣石足(いはたり)・大伴宿禰道足(みちたり)・巨勢朝臣宿奈(すくな)麻呂245H9膳夫(かしはで)王・桑田(くはた)王・葛城(かづらぎ)王・鈎取(かぎとり)王・上毛野朝臣宿奈(すくな)麻呂・鈴鹿(すずか)王245H10ははとひ・うむがしき245H11吉田連宜(よろし)・大津連首(おびと)・御立連清道(きよみち)・難波連吉成(よしなり)・山口忌寸田主(たぬし)・私部首石村(いはむら)・志斐連三田次(みたすき)・粟田朝臣馬養(うまかひ)・播磨直乙安(をとやす)・陽胡史真身(まみ)・秦朝元(てうげん)・文元貞(げんてい)245H12角朝臣家主(やかぬし)245H13多治比真人広成(ひろなり)・中臣朝臣名代(なしろ)245H14巨曽部朝臣津嶋(つしま)・佐伯宿禰東人(あづまひと)245H15健児(こんでい。ちからひと)・儲士(ぢょし。まうけひと)・選士(せんし)245H16阿倍朝臣継(つぎ)麻呂・壬生使主宇太(うだ)麻呂・大蔵忌寸麻呂(まろ)・大伴宿禰三中(みなか)245H17大野朝臣東人(あづまひと)・藤原朝臣麻呂(まろ)・佐伯宿禰豊人(とよひと)・坂本朝臣宇頭麻佐(うづまさ)245H18遠田君雄人(をひと)・和我君計安塁(けあるい)・大伴宿禰美濃(みの)麻呂・日下部宿禰大(おほ)麻呂・紀朝臣武良士(むらじ)・田辺史難波(なには)245H19平群朝臣広成(ひろなり)245H20大伴宿禰犬養(いぬかひ)・紀朝臣必登(ひと)245H21藤原朝臣広嗣(ひろつぐ)・紀朝臣飯(いひ)麻呂・佐伯宿禰常人(つねひと)・阿倍朝臣虫(むし)麻呂245H22小長谷常人(つねひと)・凡河内田道(たみち)・三田塩籠(しほこ)・額田部広(ひろ)麻呂・若田勢(せ)麻呂・膳東人(あづまひと)・勇山伎美(きみ)麻呂・伯豊石(とよいは)・豊国秋山(あきやま)・紀乎(を)麻呂・囎唹君多理志佐(たりしさ)・藤原綱手(つなて)・多胡古(こ)麻呂・阿倍朝臣黒(くろ)麻呂・藤原菅成(すがなり)245H23橘(たちばな)宿禰諸兄(もろえ)245H24塩屋連吉(きち)麻呂・大養徳宿禰小東人(をあづまひと)245H25巨勢朝臣奈弖(なで)麻呂・民忌寸大楫(おほかぢ)245H26河俣連人(ひと)麻呂・礪波臣志留志(しるし)・物部連族子嶋(こしま)・田可臣眞束(まつか)・大友国(くに)麻呂・漆部伊波(いは)・石上部君諸弟(もろと)・生江臣安久多(あくた)・凡直鎌足(かまたり)245H27石川朝臣年足(としたり)・阿倍朝臣小嶋(こしま)・布勢朝臣宅主(やかぬし)245H28百済王敬福(きょうふく)245H29佐伯宿禰全成(またなり)・大野朝臣横刀(たち)・余足人(よのたるひと)・丈部大(おほ)麻呂・朱牟須売(しゅのむすめ)・丸子連宮(みや)麻呂・戸浄山(じゃうせん)・日下部深淵(ふかふち)

<修正経緯>

 

  <古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その九)>

ー文武天皇から聖武天皇までー

 

 [ここでは神武天皇の部を201とし、その中で和風諡号は201A(別名または幼名は201A2~)、宮都は201B、父母は201C1~2、兄弟姉妹は201D1~、后妃は201E1~、皇子は201F1~、陵は201G、治世中特筆すべき人名等は201H1~として整理番号を付し、以下同様に<その一>では201神武天皇から209開化天皇まで、<その二>では210崇神天皇・211垂仁天皇を、<その三>では212景行天皇から219允恭天皇まで、<その四>では220安康天皇から225武烈天皇まで、<その五>では226継体天皇から229欽明天皇まで、<その六>では230敏達天皇から233推古天皇まで、<その七>では234舒明天皇から237斉明天皇まで、<その八>では238天智天皇から241持統天皇まで、<その九>では242文武天皇から245聖武天皇まで、<その十>では246孝謙天皇から250桓武天皇まで(『続日本紀』については主要な事項のみに限ります)を順次解説する予定です。

 表記は原則として『古事記』、『日本書紀』(以上岩波日本古典文学大系本)および『続日本紀』(岩波新日本古典文学大系本)によります。本文中001〜199の神名は、古典篇(その五)<『古事記』の神名>により、名義は主として岩波日本古典文学大系本または岩波新日本古典文学大系本の注および『古事記』(新潮日本古典集成、校注西宮一民、昭和54年)の付録「神名の釈義」によります。

 ポリネシア語による解釈は、原則としてマオリ語により、ハワイ語による場合は注記を付します。]

 

 

[242文武天皇]

 

242A天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(倭根子豊祖父(やまとねことよおほぢ)天皇)

 天皇は240天武天皇の子の240F1草壁(くさかべ)皇子尊と238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女(243元明天皇)の第2子の241H8軽(珂瑠。かる)皇子です。

 天武天皇12年に生まれ、持統天皇3年に7歳で父を失い、持統天皇の庇護の下に成長し、高市皇子の死去に伴い、持統天皇11年に立太子し、同年15歳で譲位をうけて文武天皇となりました。

 治世中には持統太上天皇の後見、藤原不比等の協力があり、大宝元年に大宝律令が完成し、30年余中断していた遣唐使の派遣が再開され、慶雲年間には頻繁に官制の改革を行ない、また薩摩・多禰の征討など南方地域に勢力を広めています。続紀はその資質を「寛仁にして博く経史に渉し、射芸をよくした」とします。

 慶雲3年11月に天皇は健康を害し母に譲位しようとしますが拒絶され、同4年6月に25歳で崩御、11月条は、倭根子豊祖父(やまとねことよおほぢ)天皇と諡した(続紀巻第1から3までの巻首および元明即位前紀には天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇と記します)とします。

 この国風諡号の「やまとねこ」は、「ねこ」は「大地に伸びて樹木をささえる根」の意で「やまとねこ」は「やまとの国の中心となって支えるもの」の意、「まむね」の「ま(真)」は「本物」、「むね(宗)」は「胸・棟と同根で、筋の通った最高のもの」で「(文武)が皇統の嫡系であること」の意、「とよおほぢ」の「とよ(豊)」は美称、「おほぢ」はその資質が「寛仁」で「若くして長老の風格があった」ことによるかとされます。

 また、漢風諡号の「文武」は、「博く経史に渉し、射芸をよくした」ことによるものかとされます。

 この「あまのまむねとよおほぢ」、「やまとねことよおほぢ」、「かる」は、

  「ア・マノ・マハ・ムフ・ネイ・トイ・イオ・オホ・チ」、A-MANO-MAHA-MUHU-NEI-TOI-IO-OHO-TI(a=the...of,belonging to;mano=heart,thousand,host;maha=many,abundance;muhu=grope,feel after,push one's way through bushes;nei,neinei=stretch forward,reaching out,wagging;toi=move quickly,encourage,incite;io=muscle ,tough,obstinate;oho=spring up,wake up,arise;ti=throw,casy,overcome)、「手を伸ばして・どこまでも・周囲を手探りで進むような・気持ちで・あった(天皇で)・(若年で皇位に放り込まれて)就けられて・びっくりして立ち上がって・疲れを知らずに・駆け抜けた(天皇)」(「マハ・ムフ」のH音が脱落して「マ・ム」と、「トイ」のI音と「イオ」の語頭のI音が連結して「トヨ」となった)

  「イア・マト・ネイ・コ・トイ・イオ・オホ・チ」、IA-MATO-NEI-KO-TOI-IO-OHO-TI(ia=indeed,current;mato=deep swamp,deep valley;(Hawaii)nei=to rumble as an earthquake,sighing as of the wind;ko=addressing to males and girls;toi=move quickly,encourage,incite;io=muscle ,tough,obstinate;oho=spring up,wake up,arise;ti=throw,cast,overcome)、「実に・深い湿地がある(大和国)の・(世の中を揺るがす)騒ぎを引き起こした(年少で天皇位に就いた)・(年少で皇位に)就けられて・びっくりして立ち上がって・疲れを知らずに・駆け抜けた(天皇)」(「トイ」のI音と「イオ」の語頭のI音が連結して「トヨ」となった)

  「カル」、KARU(rags,spongy matter enclosing the seeds of a gourd,snare,eye,head)、「(スポンジのように)軟らかい(弱い性格の。皇子)」(雑楽篇の301の(3)いろもの項を参照してください。)

の転訛と解します。

 

242B藤原(ふぢはら)宮

 宮は241B2藤原(ふぢはら)宮の項を参照してください。

 

242C1草壁(くさかべ)皇子尊

 父は240F1草壁(くさかべ)皇子尊の項を参照してください。

 

242C2阿倍(阿閇。あへ)皇女

 母は238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女(のちの243元明天皇)の項を参照してください。

 

242D1氷高(ひだか)皇女

 姉は240F1草壁(くさかべ)皇子尊と238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女の第1子の氷高(ひだか)皇女(のちの244元正天皇)です。(240H14氷高(ひだか)皇女の項を参照してください。)

 

242D2吉備(きび)内親王

 妹は240F1草壁(くさかべ)皇子尊と238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女(のちの243元明天皇)の第3子の吉備(きび)内親王です。245H2長屋王の妻となり、霊亀元年2月にはその子女が皇族の待遇を受ける(長屋王は皇孫でその子は三世王となるが、蔭位等で皇孫(二世王)の扱いを受ける)こととなり、自らも神亀元年2月に三品から二品へ昇叙しますが、天平元年2月の長屋王の変に連座して夫、子の245H5膳夫王、桑田王、葛木王、鈎取王とともに自ら縊死し、長屋王とともに生駒山に葬られました。

 この「きび」は、

  「キ・ピ」、KI-PI(ki=full,very;pi=young of birds,eye,slight,)、「眼が・(パッチリと)大きい(内親王)」

  または「キピ」、KIPI((Hawaii)rebelion,revolt)、「(夫の長屋王と違い、自らの境遇に)不満を持っていた(内親王)」(最近長屋王邸跡から吉備内親王の名を記した木簡が出土したと報道されました。これによると吉備内親王の名は生前の名であったことになり、「キピ」は「(夫長屋王とともに)謀反を企てた(内親王)」と解釈するのは無理であることから、上記のように「不満をもっていた」と解しました。)

の転訛と解します。

 

242E1宮(みや)子娘

 文武天皇元年8月条は、241H2藤原朝臣不比等(ふひと)と賀茂(かも)比売の子の宮(みや)子娘を夫人としたとします。大宝元年に242F首(おびと)皇子(のちの245聖武天皇)を生んだとします。

 神亀元年2月聖武天皇の即位に伴い「大夫人」と称されることとなり、3月にこれを改め「皇太夫人」となります。孝謙天皇の即位ののち皇太后となり、さらに太皇太后となります。

 続紀天平勝宝6年7月条は太皇太后が没したとし、同8月条は「千尋葛藤高知天宮(ちひろのふぢたかしらすあめのみや)姫之尊」と諡し、佐保山陵に火葬したとします。『延喜式』は、陵を「佐保山西陵、平城朝太皇大后藤原氏、在大和国添上郡」とします。

 この「みや」、「ちひろのふぢたかしらすあめのみや」、「かも」は、

  「ミヒ・イア」、MIHI-IA(mihi=greet,admire;ia=indeed,current)、「実に・尊敬すべき(娘)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「チヒ・ロ(ン)ゴ・フチ・タカ・チラツ・アマイ・ノ・ミヒ・イア」、TIHI-RONGO-HUTI-TAKA-TIRATU-AMAI-NO-MIHI-IA(tihi=summit,top,lie in a heap;rongo=hear,feel,obey,report,fame;huti=hoist,fish(v.);taka=heap,lie in a heap;tiratu=mast of a canoe etc.;amai=swell on the sea,giddy,dizzy;no=of;mihi=greet,admire;ia=indeed,current)、「最高の・名声を得た・(朝廷の)大黒柱を・高く・引き上げて据えた・燦然と輝く・実に・尊敬すべき(姫)」(「ロ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「ロノ」と、「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」となった)

  「カ・マウ」、KA-MAU(ka=take fire,be ighted,burn;mau=carry,fixrd,continuing,caught,remaining in position)、「(火)台所を・しっかりと守つた(姫)」

の転訛と解します。

 

242E2竈門(かまど)娘

 文武天皇元年8月条は、紀朝臣竈門(かまど)娘を妃(嬪か)としたとします。なお、和銅6年11月に(藤原氏の策謀により)嬪号を剥奪されました。

 この「かまど」は、

  「カ・マト」、KA-MATO(ka=take fire,be lighted,burn;mato,matomato=deep,growing vigorously,of pleasing appearance)、「(火に照らされた)明るい・楽しそうな顔をした(快活な。娘)」

の転訛と解します。

 

242E3刀子(とね)娘

 文武天皇元年8月条は、石川朝臣刀子(とね)娘を妃(嬪か)としたとします。なお、和銅6年11月に(藤原氏の策謀により)嬪号を剥奪されました。

 この「とね」は、

  「トネ」、TONE(projection,knob)、「(才色ともに)抜きん出た(娘)」

の転訛と解します。

 

242F首(おびと)皇子

 242A天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇と242E1宮(みや)子娘の子の首(おびと)皇子で、のちに245聖武天皇となります。

 この「おびと」は、

  「オ・ピト」、O-PITO(o=the...of,belonging to;pito=end,extremity,navel,offering to the god)、「(文武天皇と宮子夫人の嫡出の男子に皇統を伝えたいという関係者の願いを一身に背負って生まれてきた)最後の(望みの綱であった。皇子)」

  または「オピ・ト」、OPI-TO(opi=terrified;to=drag,carry the weapon at the trail)、「恐ろしい・(刀を携えて闊歩する)戦士のような(強権を振るう。皇子)」

の転訛と解します。

 

242G檜隈安古(あこ)山陵

 慶雲4年11月条は、陵を「檜隈安古(あこ)山陵」としますが、『延喜式』は「檜隈安古(あこ)岡上陵(九条家本は安古を「安占(やすうら)」とします。)、藤原宮御宇文武天皇、在大和国高市郡」とします。『陵墓要覧』は所在地を高松塚古墳の南、奈良県高市郡明日香村大字栗原とします。

 なお、江戸時代から長い間高松塚古墳が文武天皇陵とみられていましたが、明治になってから旧栗原村に字「アンドク」と呼ぶ所があり、御園村に伝わる水帳に「アンコウ山」と記されているところから、「安古(あこ)」が「あんこう」となつたとして文武天皇陵に比定されたものです。かつてはここに「ヂョウセン山」と呼ぶ古墳があり、その南面に羨門が露出していましたが、住民が墓坑の石を採って開墾して畑としていたようです。

 この「あこ」は、

  「アコ」、AKO(split,have a tendency to split)、「離れた(独立の。岡。その岡にある陵)」

の転訛と解します。

 なお、「アコ」が「アンコウ」に転訛したかどうかについては疑問が残り、「アコ」は「アカウ」、AKAU(shore,coast,bank of stream,reef)、「(川)岸(にある。岡)」(AU音がO音に変化して「アコ」となった)である可能性は否定できないと考えます。(ちなみに「アンコウ」は「アナ・コウ」、ANA-KOU(ana=cave;kou=knob,stump)、「(墓)穴のある・丘」と、「ヂョウセン」は「チホウ・テ(ン)ガ」、TIHOU-TENGA(tihou=an implement for cultivating;tenga=Adam's apple,goitre)、「(鍬で崩して)耕した・出っ張り(丘)」の転訛と解します。)

 

242H1役君(えのきみ)小角(をづの)・韓国(からくに)連広足(ひろたり)

 文武天皇3年5月条は、役(えの)君小角(をづの)が伊豆嶋に流されたとします。小角は初め葛城山で呪術をよくして賞賛され、韓国(からくに)連広足(ひろたり)(神亀の頃の呪禁師、天平4年10月に典薬頭)の師で、「鬼神を使って水を汲ませ薪を集めさせ、命令に従わないときは呪文を唱えて縛り上げる」と伝えられ、のちに讒言されて僧尼令にいう妖惑の罪に問われて流罪になったとしますが、『霊異記』、『本朝神仙伝』等は謀反の罪とします。

 この「えのきみ」、「をづの」、「からくに」は、

  「エノ・キミ」、ENO-KIMI((Hawaii)eno=wild,untamed,fearful of people;kimi=seek,look for)、「恐ろしい・何かを求めて修行する(行者)」

  「オ・ツヌ」、O-TUNU(o=the...of,belonging to;tunu=roast,inspire with fear)、「実に・(呪文を唱えて)恐怖させて(鬼神を)操る(術を駆使する。行者)」

  「カラク・ヌイ」、KALAKU-NUI((Hawaii)kalaku=to proclaim,to release as evil by prayer,chilled,shivering;nui=large,many)、「呪文を唱えて鬼神を・(自在に)操る(ことができる。連)」(「ヌイ」が「ニ」となった)

の転訛と解します。(「(韓国連)広足(ひろたり)」については古典篇(その十四)の240H12佐伯連広足(ひろたり)の項を参照してください。)

 

242H2佐伯宿禰麻呂(まろ)・佐味朝臣賀佐(かさ)麻呂

 文武天皇4年5月条は、佐伯宿禰麻呂(まろ)を遣新羅大使と、佐味朝臣賀佐(かさ)麻呂を小使としたとします。

 この「かさ」は、

  「カタ」、KATA(laugh,opening of shellfish)、「(良く)笑う(朝臣)」

の転訛と解します。(「佐伯宿禰麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

242H3粟田朝臣眞人(まひと)・下毛野朝臣古(こ)麻呂・土部宿禰甥(をひ)・坂合部宿禰唐(もろこし)・白猪史骨(ほね)・黄文連備(そなふ)・田辺史百枝(ももえ)・道君首名(おびとな)・狭井宿禰尺(さか)麻呂・鍛造大角(おほすみ)・額田部連林(はやし)・田辺史首名(おびとな)・山口伊美伎大(おほ)麻呂・調伊美伎老人(おきな)

 文武天皇4年6月条は、240F14刑部(をさかべ)親王、241H2藤原朝臣不比等(ふひと)、粟田朝臣眞人(まひと)、下毛野朝臣古(こ)麻呂、237H9伊岐連博得(はかとこ)、241H3伊余部連馬養(うまかひ)、薩弘格(さつこうかく)(持統紀5年9月条に大唐の人で音博士としてみえます)、土部宿禰甥(をひ)、坂合部宿禰唐(もろこし)、白猪史骨(ほね)、黄文連備(そなふ)、田辺史百枝(ももえ)、道君首名(おびとな)、狭井宿禰尺(さか)麻呂、鍛造大角(おほすみ)、額田部連林(はやし)、田辺史首名(おびとな)、山口伊美伎大(おほ)麻呂、調伊美伎老人(おきな)等に命じて律令の編纂に当たらせたとします。

 なお、大宝元年8月条は、大略は浄御原令に準じた律令の編纂が完成したとします。

 この「こ」、「をひ」、「もろこし」、「ほね」、「そなふ」、「おびとな」、「さか」、「おほすみ」、「はやし」、「おほ」は、

  「コ」、KO(a wooden implement for cultivating the soil)、「(掘り棒で耕作をするように丹念に律令編纂の)作業をした(朝臣)」または「コア」、KOA(glad,joyful)、「(持統紀3年10月条にみえる下毛野朝臣子(こ)麻呂が奴婢600人を解放したいと願い出て許されたことを)喜んだ(朝臣)」(語尾のA音が脱落して「コ」となった)

  「オヒ」、OHI(grow,be vigorous applied to chiefly to childhood)、「元気が良い(宿禰)」(天武紀13年12月条に新羅経由で帰国した唐へ派遣された留学生の土師宿禰甥(をひ)としてみえます。)

  「マウル・コチ」、MAURU-KOTI(mauru=north-west,west,quieted,eased,allayed;koti=cut in two,divide)、「西の方に・離れた(場所(唐)。そこに居た宿禰)」(「マウル」のAU音がO音に変化し、語尾のU音がO音に変化して「モロ」となった)

  「ホネ」、HONE(plunder,acquire wrongfully)、「(遣唐使とともに帰国する正規の方法によらず)不正規(の帰国)を望んだ(史)」(天武紀13年12月条に新羅経由で帰国した唐へ派遣された留学生の白猪史宝然(ほね)としてみえます。)

  「ト・ナフ」、TO-NAHU(to=the...of,the one of,drag,carry the weapon at the trail;nahu=well executed)、「しっかりと仕事を・した(連)」

  「オピ・トナ」、OPI-TONA(opi=terrified;tona=excrescence,wart,corn etc.)、「(見るからに)恐ろしげな・瘤(がある。君または史)」

  「タカ」、TAKA(heap,lie in a heap)、「高い境地に居る(お高くとまっている。宿禰)」

  「オ・ホツ・ミイ」、O-HOTU-MII(o=the...of,belonging to;hotu=the moom on the 15th day,sob,desire eagerly;(Hawaii)clasp,good-looking)、「満月の月の・ような・整った容貌の(造)」

  「パ・イア・チ」、PA-IA-TI(pa=stockade;ia=indeed,current;ti=throw,cast,overcome)、「(集落の木柵のような)歯が・すっかり・(打倒された)抜けてしまった(連)」(「パ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハ」となった)

  「オホ」、OHO(spring up,wake up,arise)、「すっくと立っている(忌寸)」または「(急に律令編纂を命じられて)びっくりして飛び上がった(忌寸)」

の転訛と解します。(「粟田朝臣眞人(まひと)」については古典篇(その十四)の240H15真人の項を、「田辺史百枝(ももえ)」については古典篇(その十四)の238H1河辺百枝(ももへ)の項を、「調伊美伎老人(おきな)」については古典篇(その十四)の240H7坂上勅老(おきな)の項を参照してください。)

 

242H4高橋朝臣笠間(かさま)・坂合部宿禰大分(おほきだ)・許勢朝臣祖父(おほぢ)・鴨朝臣吉備(きび)麻呂・掃守宿禰阿賀流(あかる)・錦部連道(みち)麻呂・白猪史阿麻留(あまる)・山於億良(やまのへのおくら)

 大宝元年正月条は、242H3粟田朝臣眞人(まひと)を遣唐執節使に任じ、高橋朝臣笠間(かさま)を大使と、坂合部宿禰大分(おほきだ)を副使と、許勢朝臣祖父(おほぢ)を大位と、鴨朝臣吉備(きび)麻呂を中位と、掃守宿禰阿賀流(あかる)を小位と、錦部連道(みち)麻呂を大録と、白猪史阿麻留(あまる)と山於億良(やまのへのおくら)を小録としたとします。

 この「かさま」、「おほきだ」、「おほぢ」、「きび」、「あかる」、「みち」、「あまる」、「やまのへのおくら」は、

  「カタ・マ」、KATA-MA(kata=laugh,opening of shellfish;ma=white,clear)、「(良く)笑う・清らかな(朝臣)」

  「オホ・キタ」、OHO-KITA(oho=spring up,wake up,arise;kita=chirp,stridulation of the cicada,tightly,fast,compact)、「すっくと立っている・小柄な(宿禰)」または「すっくと立っている・かん高い声でしゃべる(宿禰)」

  「オ・ポチ」、O-POTI(o=the...of,belonging to;poti=angle,corner)、「(腰が)曲がって・いる(朝臣)」(「ポチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ホチ」となった)

  「キ・ピ」、KI-PI(ki=full,very;pi=young of birds,eye,slight,)、「眼が・大きい(朝臣)」

  「アカ・ル」、AKA-RU(aka=anga=driving force,thing driven etc.;ru=shake,agitate,scatter)、「元気が・溢れ出している(宿禰)」

  「ミチ」、MITI(lick,lick up,backwash)、「唇を嘗める(癖がある。連)」

  「アマル」、AMARU(of dignified aspect)、「威厳のある顔をした(史)」

  「イア・マ・ノペ・ノ・オ・クラ」、IA-MA-NOPE-NO-O-KURA(ia=indeed,ma=white,clear;nope=constricted;no=of;o=the...of,belonging to;kura=red,oenamented with feathers,precious,treasure)、「実に・清らかな場所(山)の・(締め付けられたところ)襞(ひだ)に(住む)・素晴らしい・(作歌の)才能を持つ(人物)」

の転訛と解します。

 

242H5凡海宿禰麁鎌(あらかま)・大伴宿禰御行(みゆき)・三田首五瀬(いつせ)・家部宮道(やかべのみやぢ)

 大宝元年3月15日条は、240H17凡海宿禰麁鎌(あらかま)を陸奥国に遣わして金の採掘をさせたとします(成功したとの記事は見えません)。

 同月21日条は、対馬嶋が金を献上したとし、改元して大宝元年としたとします。

 同年8月条は、さきに右大臣240H12大伴宿禰御行(みゆき)が大倭国忍海郡の三田首五瀬(いつせ)を対馬に派遣して黄金の採掘、冶金を行わせ、それが成功して改元となったことを賞して三田首五瀬、対馬嶋司、郡司、金を発見した家部宮道(やかべのみやぢ)に官位と物を賜い、大伴宿禰御行の子には封戸を賜ったとしますが、同分注は年代暦によれば後に五瀬の詐欺であったことが判明したとします。

 この「いつせ」、「やかべのみやぢ」は、

  「イ・ツタイ」、I-TUTAI(i=past tense,beside;tutai=watch,spy,scout)、「(対馬嶋に金があるかどうかを)探る・仕事をした(首)」または「(対馬嶋で金を採掘する鉱山師を)手配・した(首)」(「ツタイ」のAI音がE音に変化して「ツテ」から「ツセ」となった)

  「イア・カペ・ノ・ミ・イア・チ」、IA-KAPE-NO-MI-IA-TI(ia=indeed,current;kape=pass by,reject,pick out,stick for moving or stirring anything;no=of;mi=urine,to void urine,stream;ti=throw,cast,overcome)、「実に・(棒で鉱石を)採掘する(職業)・で・(金の発見が詐欺であったことが露見して)実に・罰を受けて・(功績を)水に流した(水泡と帰した。鉱山師)」

の転訛と解します。(「凡海宿禰麁鎌(あらかま)」については古典篇(その十四)の240H17大海宿禰蒭蒲(あらかま)の項を、「大伴宿禰御行(みゆき)」については古典篇(その十四)の240H12大伴連御行(みゆき)の項を参照してください。)

 

242H6藤原朝臣房前(ふささき)・多治比眞人三宅(みやけ)麻呂・高向朝臣大足(おほたり)・波多眞人余射(よざ)・穂積朝臣老(おゆ)・小野朝臣馬養(うまかひ)・大伴宿禰大沼田(おほぬた)

 大宝3年正月条は、巡察使として藤原朝臣房前(ふささき)(不比等の第2子)を東海道に、多治比眞人三宅(みやけ)麻呂を東山道に、高向朝臣大足(おほたり)北陸道に、波多眞人余射(よざ)を山陰道に、穂積朝臣老(おゆ)を山陽道に、小野朝臣馬養(うまかひ)を南海道に、大伴宿禰大沼田(おほぬた)を西海道に派遣したとします。

 この「ふささき」、「みやけ」、「おほたり」、「よざ」、「おゆ」、「おほぬた」は、

  「フ・タタキ」、HU-TATAKI(hu=hill,promontory;tataki=gannet,racy)、「際だって・きびきびしている(朝臣)」

  「ミイ・アケ」、MII-AKE((Hawaii)mii=clasp,good-looking;ake=indicating immediate continuation in time,intensifing the force of some words)、「非常に・整った容貌の(真人)」

  「オホ・タリ」、OHO-TARI(oho=spring up,be awake,arise;tari=carry,bring,urge,incite)、「すっくと立っている・(人を刺激する)仕事をせき立てる(朝臣)」

  「イオ・タ」、IO-TA(io=muscle,line,spur,lock of hair;ta=dash,beat,lay)、「(大きな)髷を・結っている(真人)」

  「オイ・ウ」、OI-U(oi=shout,shudder,move continuously,agitate;u=be firm,be fixed,reach its limit)、「ぶるぶる・(身体を)震わしている(朝臣)」

  「オホ・ヌイ・タ」、OHO-NUI-TA(oho=wake up,be awake;nui=large,many;ta=dash,beat,lay)、「すっくと立つている・大きな・存在(感を示す。宿禰)」

の転訛と解します。(「小野朝臣馬養(うまかひ)」については古典篇(その十三)の236H1大伴長徳(ながとこ)連馬飼(うまかひ)・犬上健部(たけべ)君の項を参照してください。)

 

242H7波多朝臣広足(ひろたり)・額田首人足(ひとたり)

 大宝3年9月条は、波多朝臣広足(ひろたり)を遣新羅大使としたとします。(同年10月条に遣新羅使波多朝臣広足・額田人足(ひとたり)に衾・衣を賜ったとあるところから、額田人足が副使であったと考えられます。)

 この「ひとたり」は、

  「ピト・タリ」、PITO-TARI(pito=end,extremity,navel;tari=carry,bring,urge,incite)、「人々の頂点に立っている・(人を刺激する)仕事をせき立てる(朝臣)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。(「波多朝臣広足(ひろたり)」については古典篇(その十四)の240H12佐伯連廣足(ひろたり)の項を参照してください。)

 

242H8幡文造通(とほる)

 慶雲元年10月条は、幡文通(はたのあやのとほる)を遣新羅大使とし、造の姓を与えたとします。

 この「とほる」は、

  「ト・ホル」、TO-HORU(to=the...of,the one of,drag,carry the weapon at the trail;horu=red ochre,grunt,yell in accompaniment to the war dance,rankle,roar of the sea)、「雄叫びをあげる・(刀を携えて闊歩する)戦士(造)」

の転訛と解します。 

 

 

[243元明天皇]

 

243A日本根子天津御代豊国成(やまとねこあまつみしろとよくになり)姫天皇

 天皇は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(天智天皇)と238E3姪(めひ)娘の第2子、238F5阿陪(阿閇。あへ)皇女です。

 240F1草壁皇子の妃となり、241H8軽(珂瑠。かる)皇子(242文武天皇)、240H4氷高(ひだか)皇女(244元正天皇)および242D2吉備(きび)内親王を生みます。

 慶雲3年11月文武天皇は病床につき母への譲位を希望しましたが堅く辞退し、翌4年6月文武天皇の崩御の際の遺詔によって47歳で即位し、243元明天皇となります。

 翌5年1月には武蔵国から熟銅が発見されるという祥瑞があり、和銅と改元されます。

 天皇は律令体制の整備につとめ、和銅3年3月都を平城京に遷します。同5年『古事記』が撰上されます。

 霊亀元年9月天皇は老い(55歳)と疲労を理由に譲位し、皇太子が若年であるため、氷高皇女が皇位を継ぎます。

 太上天皇は養老5年12月に61歳で崩御します。なお、養老5年10月条は、太上天皇が自らの諡号を「其国其郡朝廷馭宇天皇」とするよう遺詔したとあります(後出243G椎(なら)山陵・奈保(なほ)山東陵の項を参照してください)。続紀に記される「日本根子天津御代豊国成(やまとねこあまつみしろとよくになり)姫天皇」の国風諡号がどのように撰進されたかは不明です。

 この国風諡号の「やまとねこ」は、「ねこ」は大地に伸びて樹木をささえる根」の意で「やまとねこ」は「やまとの国の中心となって支えるもの」の意、「あまつみしろとよくになりひめ」は「天から与えられた御代に豊かな国を作り上げた女性」の意とされます。

 この「やまとねこあまつみしろとよくになり」、「あへ」は、

  「イア・マト・ネイ・コ・アマ・ツ・ミ・チロ・トイ・イオ・ク・ヌイ・(ン)ガリ」、IA-MATO-NEI-KO-AMA-TU-MI-TIRO-TOI-IO-KU-NUI-NGARI(ia=indeed,current;mato=deep swamp,deep valley;(Hawaii)nei=to rumble as an earthquake,sighing as of the wind;ko=addressing to males and girls;ama=thwart of a canoe,outrigger of a canoe;tu=stand,settle;mi=stream,river;tiro=look,survey,examine;toi=move quickly,encourage,incite;io=muscle,tough,obstinate;ku=silent;nui=large,many;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「実に・深い湿地がある(大和国の)・(世の中を揺るがす)騒ぎを引き起こした(不改常典を掲げて遺詔により皇后ではないのに(皇太子妃・先帝の生母として)即位し、首皇子を天皇とすべく行動し、平城京に遷都した)・船の舳先に・陣取って・水の流れ(世の中の動き)を・観察していた・疲れを知らずに・駆け抜けた・寡黙だが・強い・力をもっていた(姫)」(「トイ」のI音と「アウ」のAU音がO音に変化した「オ」が連結して「トヨ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「アヘイ」、AHEI(able,possible within one's power)、「(何でもできる)能力がある(皇女)」(語尾のI音が脱落して「アヘ」となった)

の転訛と解します。

 なお、慶雲4年11月の即位の宣命は、天智天皇が立てた不改常典の法にに従って、文武天皇の遺詔によって皇位を継ぐものであり、「親王を始めて王臣・百官人等の浄き明き心を以て弥務(いやつと)めに弥結(いやしま)りに阿奈奈比(あななひ)奉り輔佐(たす)け奉らむ事に依りて、此の食国天下の政事は、平けく長く在らむ」と述べています。

 この「阿奈奈比(あななひ)」は、「タスク」に近い(岩波大系本注)とする説がありますが、これは、

  「アナナ・ヒ」、ANANA-HI(anana=expressing admiration etc.;hi=make a hissing noise,raise,rise)、「(天皇を高い地位に引き上げて)崇め・尊敬する」

の転訛と解します。

 

243B1藤原(ふぢはら)宮

 当初の宮は241B2藤原(ふぢはら)宮の項を参照してください。

 

243B2平城(へいぜい)宮(寧楽(なら)宮)

 浄御原令体制から大宝律令体制への発展にともなう行政機構の膨張に対処するため、すでに文武天皇存命中の慶雲4年2月に諸王臣五位以上による遷都の協議が行われていましたが、和銅元年2月条は(藤原宮から)平城(へいぜい)の地へ宮都を遷すべき詔が出されたとします。

 新都への移転は、和銅3年3月条に「始めて都を平城(なら)に遷す」とあります。(『万葉集』(78)の題詞に「和銅三年庚戌春二月、従藤原宮遷于寧楽(なら)宮時、御輿停長屋原、廻望古郷御作歌」とあります。)

 この「へいぜい」、「なら」および「(寧楽(なら)の枕詞の)あをによし」は、

  「ヘイ・タイ」、HEI-TAI(hei=at,in,with of place,go towards,turn towards;tai=the other side)、「(ここではない)ずっと・向こうの(土地。その地域に造営された宮都)」(「タイ」のAI音がEI音に変化して「テイ」から「ゼイ」となった)

  「ナ・ラハ」、NA-RAHA(na=satisfied,belonging to;raha=open,extended)、「ゆったりとした・開けている(土地。その地域に造営された宮都)」(「ラハ」のH音が脱落して「ラ」となった)

  「ア・オニ・イオ・チ」、A-ONI-IO-TI(a=the...of;oni=move,wriggle;io=muscle,line,spur;ti=throw,cast,overcome)、「静かに・蛇行する・(紐のような)川が・(放り出されて)流れている(地域。奈良の地域)」または「アホ・ヌイ・イオ・チ」、AHO-NUI-IO-TI(aho=open space,string,radiant light;nui=large,many;io=muscle,line,spur;ti=throw,cast,overcome)、「大きく・開けた(土地で)・(紐のような)川が・(放り出されて)流れている(地域。奈良の地域)」(「アホ」のH音が脱落して「アオ」と、「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」となった)

の転訛と解します。

 

243B3岡田(をかだ)離宮・甕原(みかはら)離宮

 和銅元年9月条は、山背国相楽郡の岡田(をかだ)離宮に行幸したとします。岡田離宮は、郷名が残っていないため不詳ですが、甕原離宮の近辺ではなかったかとする説があります。

 同6年6月条(および同7年閏2月条、霊亀元年3月条、同年7月条)は、甕原(みかはら)離宮に行幸したとします。甕原離宮は、山背国相楽郡に置かれた離宮で、木津川の左岸、相楽郡加茂町法花寺野のあたりかとされます。

 この「をかだ」、「みかはら」は、

  「アウカハ・タ」、AUKAHA-TA(aukaha=lash the bulwark to the body of a canoe;ta=dash,beat,lay)、「(カヌーの舷側板のような)塁壁に・囲まれた(土地。そこにある離宮)」(「アウカハ」のAU音がO音に変化し、H音が脱落して「オカ」となった)

  「ミカ・ハラ」、MIKA-HARA((Hawaii)mika=to press,crush;hara,harahara=abundance)、「粉々になった(砂礫に覆われた)・広大な(土地。そこにある離宮)」

の転訛と解します。

 

243C1天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(238天智天皇)

 父は238A天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇(238天智天皇)の項を参照してください。

 

243C2姪(めひ)娘

 母は238E3姪(めひ)娘の項を参照してください。

 

243D1大田(おほた)皇女から243D13伊賀(いが)皇子まで

 兄弟姉妹は238F1大田(おほた)皇女から238F14伊賀(いが)皇子までの項を参照してください。

 

243F1氷高(ひだか)皇女

 240F1草壁(くさかべ)皇子尊と238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女の第1子は、氷高(ひだか)皇女(のちの244元正天皇)は、242D1氷高(ひだか)皇女(のちの244元正天皇)の項を参照してください。

 

243F2天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇)

 240F1草壁(くさかべ)皇子尊と238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女の第2子は、242A天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇。軽(珂瑠。かる)皇子)の項を参照してください。

 

243F3吉備(きび)内親王

 240F1草壁(くさかべ)皇子尊と238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女の第3子は、242D2吉備(きび)内親王の項を参照してください。

 

243G椎(なら)山陵・奈保(なほ)山東陵

 養老5年12月条は、7日に崩御した太上天皇を遺詔によつて喪の儀(もがり)を行わずに13日に大和国添上郡椎(なら)山陵に葬ったとし、『延喜式』は陵を「奈保(なほ)山東陵、平城宮御宇元明天皇、在大和国添上郡」と、『陵墓要覧』は所在地を奈良市奈良坂町とします。『今昔物語』に定恵が陵の地を占定する説話が見えます。

 なお、養老5年10月条は、太上天皇が自らの諡号を「其国其郡朝廷馭宇天皇」とし、陵には「剋字之碑」を立てるべきことを遺詔したとあり、江戸時代に発見された瑪瑙石の陵碑には遺詔のとおり「大倭国添上郡平城之宮馭宇八州太上天皇之陵」と刻まれていた(『東大寺要録』)といいます。

 この「なほ」は、

  「ナホ」、NAHO(hasty or quick in speech or action)、「(埋葬を)急いだ(崩御から埋葬まで僅か6日であった。山陵)」

の転訛と解します。(「椎(なら)」については前出243B2寧楽(なら)宮の項を参照してください。)

 

243H1阿倍朝臣宿奈(すくな)麻呂・巨勢朝臣麻呂(まろ)・多治比眞人池守(いけもり)・中臣朝臣人足(ひとたり)・小野朝臣広人(ひろひと)・坂上忌寸忍熊(おしくま)

 和銅元年3月条は、241H1中臣朝臣意美(おみ)麻呂を神祇伯に、240H17石上朝臣麻呂(まろ)を左大臣に、241H2藤原朝臣不比等(ふひと)を右大臣に、240H17大伴宿禰安(やす)麻呂を大納言に、241H7小野朝臣毛野(けの)、阿倍朝臣宿奈(すくな)麻呂および巨勢朝臣麻呂(まろ)を中納言にそれぞれ任じたとします(ほかにも多くの官職の任免が行なわれていますが、略します)。

 なお、平城宮を建設する造宮卿に241H3大伴宿禰手拍(たうち)を任じています。

 さらに、同年9月条は平城京を建設する造平城京司長官に阿倍朝臣宿奈(すくな)麻呂および多治比眞人池守(いけもり)を、次官に中臣朝臣人足(ひとたり)、小野朝臣広人(ひろひと)、242H6小野朝臣馬養(うまかひ)等を、大匠(おほたくみ)に坂上忌寸忍熊(おしくま)を任じています。

 この「いけもり」、「ひろひと」、「おほたくみ」、「おしくま」は、

  「イケ・マウリ」、IKE-MAURI(ike=high,lofty;mauri=life principle,source of the emotions,talisman)、「身分の高い(または背が高い)・信念を持っている(真人)」(「マウリ」のAU音がO音に変化して「モリ」となった)

  「ヒ・ロウ・ピト」、HI-ROU-PITO(hi=raise,rise;rou=a long stick used to reach anything,reach or procure by means of a pole,dredge for shellsish,draw out contents of a narrow vessel;pito=end,extremity,navel)、「立ち上がって・(障碍を)根こそぎに解決した・頂点に立つ(朝臣)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)または「ヒラウ・ピト」、HIRAU-PITO(hirau=entangle,pull down,anything by engaging it in a forked stick,be entangled;pito=end,extremity,navel)、「(難局に直面して)困惑した・頂点に立つ(朝臣)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「オホ・タ・ハク・ミ」、OHO-TA-HAKU-MI(oho=spring up,be awake,arise;ta=the;haku=complain,find fault with;mi=urine,to void urine)、「すっくと立っている・(仕事についての)不満を・空(から)にした(非の打ち所がない。完璧な仕事をする)・工人(匠)」(「ハク」のH音が脱落して「ク」となった)

  「オチ・クママ」、OTI-KUMU(oti=finished,gone or come for good;kumama=desire,long for)、「願い通りに・終わった(思い通りに・平城宮を建設した。忌寸)」(「クママ」の反復語尾が脱落して「クマ」となった)

の転訛と解します。(「阿倍朝臣宿奈(すくな)麻呂」については古典篇(その十四)の240H7佐味君宿那(少)(すくな)麻呂の項を、「巨勢朝臣麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を、「中臣朝臣人足(ひとたり)」については前出242H7額田首人足(ひとたり)の項を参照してください。)

 

243H2柿本(かきのもと)朝臣佐留(さる)・柿本朝臣人(ひと)麻呂

 和銅元年4月条は、柿本(かきのもと)朝臣佐留(さる)が死亡したとします。柿本(かきのもと)朝臣はもと臣姓で天武13年11月に朝臣となつています。『姓氏録』大和皇別に大春日臣と同祖で天足彦国押人命の後とし、敏達天皇の世に家の門に柿の樹が植えられていたので柿本臣となったと記します。

 後に歌聖と崇められる万葉の歌人柿本朝臣人(ひと)麻呂はこの一族とされますが、万葉集に収められた歌以外に史料がなく、生没年不詳で、多くの謎に包まれています。

 この「かきのもと」、「さる」、「ひと」は、

  「カ・ハキ・ノ・マウ・ト」、KA-HAKI-NO-MAU-TO(ka=take fire,be lighted,burn;haki=expressing disgust,reviling;no=of;mau=fixed,continuing,established,caught;to=drag,haul,open or shut a door or window)、「(真っ赤に燃える火のように)赤い色をした・(食べると渋くて)嫌になる(果実。柿(かき))・が・(出入りする)門(の脇)に・植えてある(氏族)」(「カ」のA音と、「ハキ」のH音が脱落した語頭のA音が連結して「カキ」と、「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)

  「タル」、TARU(shake,overcome,painful,acute,thing,sometimes with an idea of disparagement or unpleasantness involved)、「(困難な職務の遂行に)奮闘した(朝臣)」(古典篇(その十一)の229H10許勢臣猿(さる)の項を参照してください。)

  「ピト」、PITO(end,extremity,navel)、「(歌人の)頂点に達した(朝臣)」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

【注】 梅原猛『水底の歌』は、鴨山五首(万葉集巻2、2-223〜227)をヒントに、柿本朝臣人麻呂は、@罪を得て石見の国に流され、A水死刑になった、B朝廷にあったときは高位にあったが、流刑時に剥奪された、C佐留と人麻呂は同一人と思われる、D「鴨山」、「石川」の地名は実存したなどの主張を行っています。これらは、当時の律令制にかんがみ、また、縄文語による解釈と併せ考えると、すべて梅原氏の妄想であって誤りであると考えられます。

 @、Aについては、一旦流刑となった者が後に死刑になるなどは律令制では通常考えられないことです。とくに、律では死刑の種類は、絞と斬に限られており、「重石を付けて海底に沈められた」「水死刑」はおよそあり得ないことです。
 梅原氏は、(223)歌の題詞「自ら傷みて」(従来「自ら悲しんで」の意と解されている)は、「有間皇子の自ら傷みて松の枝を結びし歌二首(2-141・142)」の例を引き合わせ、かつ、(224・225)歌に「鴨山」、「岩根しまける」、「石川」、「貝に交じりて」とあることなどから、罪を得ての水死刑を主張されますが、これらの語の意味は、
 題詞(223)の「傷み」は、「イ・タミ」、I(past tense)-TAMI(press down,smother,completed in weaving)、「(自らの)一生を締めくく・った(ふりかえって総括した)」と、
 「鴨山の」は、「カモ・イア・マノ」、KAMO(eye,close or finish off a pttern in taniko weaving)-IA(indeed)-MANO(heart,thousand)、「実に・壮大な(心の働き)歌作の業を・終える(ときに当たって。死に臨んで)」(「イア」が「ヤ」となった)と(地名ではない)、
 「岩根しまける」は、「イ・ワ(ン)ガイ・チ・マケ・ル」、I(past tense)-WHANGAI(feed,propitiate,invoke a god)-TI(throw,cast)-MAKE(=ma ake=go,come)-RU(shake,agitate)、「神に供物を・捧げ・て・勇んで・出発する」(「ワ(ン)ガイ」のNG音がN音に、AI音がE音に変化して「ワネ」と、「チ」が「シ」となった)と(「岩を枕に伏している」は誤り)、  「(我を)かも」は、「カハ・マウ」、KAHA(strong,persistency)-MAU(fixed,continuing)、「(自分が)このような強い気持ちを・ずっと持ち続けている(こと)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)と解されます。
 従って、この(223)歌は「実に壮大な歌作の業を終えるにあたって、神に捧げ物を済ませて勇んで出発する強い気持をずっと持ち続けている私なのに、それとは知らずに、妻は今も待ち続けていることであろうか。」と言う石見の地で恐らくは病床に臥し死期を悟って詠んだ実に堂々たる強い意志を表明した辞世です。「横死」は誤解です。
 (224)歌の「今日今日」は、「キオ・キオ」、KIO((Hawaii)word used in reply to a question one does not care to answer)、「(問いかけても)まともな・返事を返さない」(「キオ」が「キョウ」となった)と、
 「石川」は、「イ・チカ・ワ」、I(past tense,beside)-TIKA(direct,just,right,correct)-WA(definite place,area,be far advanced)、「遠く離れた・(夫が)本来(落ち着くはずの)・場所(あの世)」(「チカ」が「シカ」となった)と、
 「貝(狹。かひ)」は、「カヒ」、KAHI(bivalve mollusc,a species of whale or large purpolse,chief)、「(部族の)長老たち」と、
 (225)歌の「(逢ひ)かつましじ」は、「カ・ツ・マチチ」、KA(to denote the commencement of a new action or condition)-TU(stand,settle)-MATITI(split,crack,stretched out as of limbs)、「(逢うには)あまりにも遠くに・いる・ことだ」(「マチチ」が「マシジ」となった)と解されます。
 したがってこの(224)歌は「 私が待っているあなたは問いかけてもまともな返事を返さないで、遠く離れた死者が落ち着くというあの空の上で、部族の長老たちと一緒にいるというではありませんか。」と、(225)歌は「直接のお逢いは難しいでしょう。遠く離れた死者が本来落ち着くはずのあの空の上に雲よ立ち渡りなさい。それを見てあの方を偲びましょう。」の意と解されます。

 B、Cについては、人麻呂が朝廷の官人であったことはまず疑いのないことでしょうが、高位にあった証拠はまったくありません。(223)歌題詞に「柿本朝臣人麻呂の、石見国に在りて死に臨みし時・・・」と「死」という律令用語(喪葬令)が使われていることから、人麻呂の身分は六位以下であったと考えられ、Cの佐留同一人説は否定されます。「石見国に在りし時」を石見国の国庁の官人と解するならば、万葉集中に人麻呂の肩書が皆無であることから、国庁の国司(かみ)から目(さかん)までの四等官にもあたらない、その下の「史生」として赴任していた可能性が高いと考えられます。
 万葉集の研究者には人麻呂を宮廷歌人と規定する向きが多いのですが、官位令を始め延喜式のどこにも「宮廷歌人」に相当する職務はありません。通常の業務の傍ら、私的に多くの朝廷賛歌、皇族の挽歌を詠むのに相応しい職場としては中務省の左右大舎人寮があり、式部式年労任官条に「凡そ大舎人は、労二十年を限りとなし、毎年一人を諸国史生に任ぜよ」とあります。そして、人麻呂の作歌で制作年の明らかなものは注記から天武天皇9(680)年および草壁皇子没時(689年)の挽歌から明日香皇女没時(700年)の挽歌までとされますので、正にこの規定によって二十年の大舎人勤務を経て石見国史生に出世した可能性が極めて高いと考えられます。そして(2-131)歌題詞の「柿本朝臣人麻呂の、石見国より妻を別れて上り来たりし時」は、四度使のいずれかで京へ上った時であり、(2-220)歌の「讃岐の狭岑島」はその石見と京との往復の途次の歌であると推測されます。

243H3佐伯宿禰石湯(いはゆ)・紀朝臣諸人(もろひと)

 和銅2年3月条は、243H1巨勢朝臣麻呂(まろ)を陸奥鎮東将軍とし、佐伯宿禰石湯(いはゆ)を征越後蝦夷将軍、紀朝臣諸人(もろひと)を副将軍に任じたとします。

 この「いはゆ」、「もろひと」は、

  「イ・ワ・イ・ウ」、I-WHA-I-U(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;u=be firm,be fixed,reach the land,reach its limit)、「内陸の最奥の地に到達・したことを・明らかに・した(宿禰)」

  「モ・ロ・ピト」、MO-RO-PITO(mo=for,for the use of,against;ro=roto=inside;pito=end,extremity,navel)、「内陸(の蝦夷)に・対して(征討に関して)は・第一人者(である。朝臣)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

 

243H4道君首名(おびとな)

 和銅5年9月条は、242H3道君首名(おびとな)を遣新羅大使としたとします。

 

243H5鞍作磨心(くらつくりのとごころ)

 和銅6年11月条は、鞍作磨心(くらつくりのとごころ)は能工異才で一人群を抜いており、錦・綾の織物に熟達していたのを賞し、その子孫を良戸に編入し、柏原村主(すぐり)の姓を与えたとします。

 この「くらつくり」、「とごころ」、「すぐり」は、

  「クラ・ツク・リ」、KURA-TUKU-RI(kura=red,ornamented with feathers,precious,treasure,knowlege of charm and other valuable lore;tuku=let go,leave,allow,send,present;ri=screen,protect,bind)、「錦や綾の織物(などの財宝についての知識・技術)を・(後の人に)伝え・結んだ(断絶しないようにした。人)」

  「トコ・コロ」、TOKO-KORO(toko=pole,stilt,propel with a pole,support with a pole,push or force to a distance;koro=old man,father)、「杖を突いている・老人」

  「ツ(ン)グ・リ」、TUNGU-RI(tungu=kindle;ri=screen,protect,bind)、「灯りを灯している(集落・村を)・保護する(集落・村の長)」

の転訛と解します。

 

243H6紀朝臣清人(きよひと)・三宅臣藤(ふぢ)麻呂

 和銅7年2月条は、従六位上紀朝臣清人(きよひと)、正八位下三宅臣藤(ふぢ)麻呂に国史を編修させたとします。(この国史の編集は、天武紀10年3月に始まった帝紀及び上古諸事の記定作業における天皇を中心とする支配層の一体性を強調する天武朝の史書編纂の理念が、このころ中国の国家体制を理想として律令体制の強化を目指していた当時の政治理念にそぐわなくなっていたため、日本の国家統治の沿革を朝鮮への支配を含めて体系的に記述するための作業が始まったものと解する説があります。)

 この「きよひと」、「ふぢ」は、

  「キオ・ピト」、KIO-PITO((Hawaii)kio=projection,protuberance;pito=end,extremity,navel)、「(学殖が)抜きん出ていることでは・頂点に達していた(朝臣)」(「キオ」が「キヨ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「フチ」、HUTI(hoist,fish(v.))、「(正八位下という低い身分でありながら重要な職務に)引き上げられた(臣)」

の転訛と解します。

 

243H7笠朝臣麻呂(まろ)・門部連御立(みたち)・山口忌寸兄人(えひと)・伊福部君荒当(あらまさ)

 和銅7年閏2月条は、美濃守笠朝臣麻呂(まろ)、少掾門部連御立(みたち)、大目山口忌寸兄人(えひと)、匠(たくみ)伊福部君荒当(あらまさ)に和銅6年7月条にみえる吉蘇路開通の褒賞を与えたとします。

 この「みたち」、「えひと」、「あらまさ」は、

  「ミヒ・タハ・チ」、MIHI-TAHA-TI(mihi=greet,admire;taha=side,edge,pass on one side;ti=throw,cast,overcome)、「(上官である美濃守に)敬意を払い・その傍らに・控えている(少掾)」(「ミヒ」・「タハ」のH音が脱落して「ミ」・「タ」となった)

  「エヒ・ト」、EHI-TO(ehi=well!;to=drag,carry the weapon at the trail)、「良い・(刀を携えて闊歩する)戦士(大目)」

  「アラ・マタ」、ARA-MATA(ara=way,path;mata=heap,layer)、「道を・(敷く)作る人(匠)」

の転訛と解します。(「麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を、「匠(たくみ)」については前出243H1坂上忌寸忍熊(おしくま)の項の「大匠(おほたくみ)」の解釈を参照してください。)

 

243H8大倭忌寸果安(はたやす)・奈良許知(こち)麻呂・四比信紗(しひのしなさ)

 和銅7年11月条は、大和国添下郡の大倭忌寸果安(はたやす)は父母に孝行で、飢えや病に苦しむ人があれば自分の食料を分け、看病したので近隣の人々は悉く恩義に感じて親のように敬愛したとし、添上郡の奈良許知(こち)麻呂は父の後妻にうとんじられて父の家から遠ざけられたにもかかわらず恨むことなく孝養を尽くしたとし、有智郡の四比信紗(しひのしなさ)は氏直果安の妻で舅姑に仕えて孝行で夫の死後も妾の子も含め8人の幼子を分け隔てなく養育したとして孝子として終身課役を免除されたとします。

 この「はたやす」、「こち」、「しひのしなさ」は、

  「パタ・イ・アツ」、PATA-I-ATU(pata=prepare food;i=past tense,beside;atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action)、「(弱者に)食事を与え・続け・た(忌寸)」(「パタ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハタ」となった)

  「コチ」、KOTI(cut in two,divide,cut off)、「(父の家から切り離された)遠ざけられた(麻呂)」

  「チヒ・ノ・チナ・タ」、TIHI-NO-TINA-TA(tihi=summit,top,lie in a heap;no=of;tina=fixed,firm,satisfied,exhausted;ta=dash,beat,lay)、「最高・の・(子供達に)満足を・与えた(未亡人)」

の転訛と解します。

 

[244元正天皇]

 

244A日本根子高瑞浄足(やまとねこたかみづきよたらし)姫天皇

 天皇は240F1草壁(くさかべ)皇子尊と238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女の第1子の氷高(ひたか)皇女(亦の名新家(にひのみ)皇女)です。

 続紀は天皇を生まれながら寛大で憐れみ深く、もの静かで若く美しいとし、また沈着で思慮深く、言動は礼儀にかなっているとします。天皇は先帝の譲位をすんなりと受けて36歳で即位し、霊亀と改元し、国家の隆昌は民を富ましむことにありとして国司に農業指導を命じ、養老6年には良田百万町歩開墾計画が出され、翌7年には開墾促進のために三世一身法が発せられました。

 この間養老3年には首皇太子が朝政に参画し、舎人親王と新田部親王に皇太子を補佐させ、4年に不比等が没すると、舎人親王を知太上官事に任じ、5年に長屋王を右大臣に任命しています。

 神亀元年治世9年で皇太子に譲位し、天平20年に崩御しました(『東大寺要録』には「(天平)二十年戊子飯高(いひたか)太上天皇崩、年六十九」とあります)。

 国風諡号の日本根子高瑞浄足(やまとねこたかみづきよたらし)姫天皇がどのように撰進されたかは不明です。

 この「やまとねこ」は、「ねこ」は大地に伸びて樹木をささえる根」の意で「やまとねこ」は「やまとの国の中心となって支えるもの」の意とされます。

 この「やまとねこたかみづきよたらし」、「ひたか」、「いひたか」、「にひのみ」は、

  「イア・マト・ネイ・コ・タカ・ミヒ・ツ・キオ・タラチ」、IA-MATO-NEI-KO-TAKA-MIHI-TU-KIO-TARA-TI(ia=indeed,current;mato=deep swamp,deep valley;(Hawaii)nei=to rumble as an earthquake,sighing as of the wind;ko=addressing to males and girls;taka=heap,lie in a heap,prepare;mihi=greet,admire,sigh for;tu=stand,settle;(Hawaii)kio=projection,protuberance;tarati=spurt,splash)、「実に・深い湿地がある(大和国の)・(世の中を揺るがす)騒ぎを引き起こした(皇后・皇太子妃ではないのに前例なしに天皇位についた)・高い地位にあって・尊崇すべきものが・あった・突出して・全力を奮るった(姫)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「キオ」が「キヨ」となった)

  「ヒ・タカ」、HI-TAKA(hi=raise,rise;taka=heap,lie in a heap,prepare)、「(天皇という)高い地位へ・引き上げられた(皇女)」または「(首皇子へ皇位を引き渡す)準備のために・高い地位に就いた(皇女)」

  「イヒ・タカ」、IHI-TAKA(ihi=split,separate,ray of the sun,power,authority,charm;taka=heap,lie in a heap,prepare)、「光り輝く・高い地位に就いた(天皇)」

  「ヌイ・ヒノ(ン)ガ・ミヒ」、NUI-HINONGA-MIHI(nui=large,many;hinonga=doing,undertaking;mihi=greet,admire)、「大きな・(天皇として立派な業績を上げ、さらに皇位を皇太子に伝えるという)仕事をやってのけた・尊敬すべき(皇女)」(「ヌイ」のUI音がI音に変化して「ニ」と、「ヒノ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ヒノ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

244B1平城(へいぜい)宮(寧楽(なら)宮)

 宮は243B2平城(へいぜい)宮(寧楽(なら)宮)の項を参照してください。

 

244B2難波(なには)宮・和泉(いづみ)宮・竹原井(たかはらゐ)頓宮・不破(ふは)行宮

 養老元年2月条は、天皇が237B4難波(なには)宮に行幸し、そこから和泉(いづみ)宮に至り、さらに竹原井(たかはらゐ)頓宮を経由して帰京したとします。竹原井頓宮は、大和国と河内国を結ぶ竜田道の中間の河内側の景勝地(大阪府柏原市大字青谷の大和川が屈曲して流れる高台付近)につくられた頓宮とされます。

 同年9月条は、天皇が240B4不破(ふは)行宮に行幸し、醴泉(「養老(ようろう)の瀧」とされます)を訪ねたとします。

 同3年2月条は、天皇が和泉(いづみ)宮に行幸したとします。

 この「たかはらゐ」、「ようろう」は、

  「タカ・ハラ・ウイ」、TAKA-HARA-UI(taka=heap,lie in a heap,prepare;hara,harahara=abundance;ui=disentangle,relax or loosen a noose)、「(ほどけた輪縄のような)蛇行する川(大和川のほとり)の・突出した・高台(の地。そこに造営された頓宮)」(「ウイ」が「ヰ」となった)

の転訛と解します。(「和泉(いづみ)」については地名篇(その四)の大阪府の(18)和泉国の項を、「養老(ようろう)の瀧」については地名篇(その十七)の岐阜県の(2)多藝郡のb養老(ようろう)の瀧の項を参照してください。)

 

244C1草壁(くさかべ)皇子尊

 父は240F1草壁(くさかべ)皇子尊の項を参照してください。

 

244C2阿倍(阿閇。あへ)皇女(243元明天皇)

 母は243A日本根子天津御代豊国成(やまとねこあまつみしろとよくになり)姫天皇(元明天皇。238F5阿倍(阿閇。あへ)皇女)の項を参照してください。

 

244D1天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇)および244D2吉備(きび)内親王

 弟妹は242A天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇。241H8軽(かる)皇子)の項および242D2吉備(きび)内親王の項を参照してください。

 

244G1佐保(さほ)山陵

 天平20年4月21日条は、元正太上天皇が69歳で崩御したとし、京の諸寺で読経を行い、28日に佐保(さほ)山陵で火葬に付したとします。

 なお、陵は天平勝宝2年10月に244G2奈保(なほ)山陵(『延喜式』は奈保(なほ)山西陵)に改葬されており、改葬前の陵の所在地は不明ですが、現在の佐保山南陵(聖武天皇陵)、佐保山東陵(光明皇后陵)、佐保山西陵(文武天皇夫人藤原宮子陵)の所在から、これらの近辺(奈良市法連町)にあったかとされます。

 この「さほ」は、

  「タホ」、TAHO(yielding,weak)、「弱い(崩れやすい。山。その山陵)」

の転訛と解します。

 

244G2奈保(なほ)山陵

 天平勝宝2年10月条は、元正太上天皇を奈保(なほ)山陵に改葬したとします。

 『延喜式』は陵を「奈保(なほ)山西陵、平城宮御宇浄足姫天皇、在大和国添上郡」と、『陵墓要覧』は所在地を奈良市奈良坂町とします。なお、奈保山東陵は母の元明天皇陵です。

 この「奈保(なほ)山陵」については前出243G椎(なら)山陵・奈保(なほ)山東陵の項を参照してください。

 

244H1邑良志別(おらしべつ)君宇蘇弥奈(うそみな)・須賀(すが)君古麻比留(こまひる)

 霊亀元年11月条は、陸奥の蝦夷の邑良志別(おらしべつ)君宇蘇弥奈(うそみな)が「親族が死亡して残った子孫数人が常に異族に征服される脅威におびえているので、香河村に郡家を建て、編戸の民として平穏に暮らせるようにして欲しい」と願い出、また同じく蝦夷の須賀(すが)君古麻比留(こまひる)が「先祖からずつと昆布を貢納してきたが、国府と遠く往来に難渋するので、閉村に郡家を建て、同じ百姓として親族とともに永く貢納できるようにして欲しい」と願い出があったので、共にこれを許したとします。

 この「おらしべつ」、「うそみな」、「すが」、「こまひる」は、

  「オラ・チパエ・ツ」、ORA-TIPAE-TU(ora=alive,well in health,safe,survive,recover;tipae=lie to one side,lie across;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(どちらか)一方の側に・立って・生き延びてきた(部族の君)」(「チパエ」のAE音がE音に変化して「チペ」から「シベ」となった)

  「ウト・ミ・ナ」、UTO-MINA(uto=revenge,object of one's revenge,sworn enemy;mina=desire,feel inclination for)、「(親族を殺害した異族に対し)復讐を・望んでいる(君)」

  「ツ(ン)ガ」、TUNGA(circumstance of standing,site,foundation)、「居住地(そこに住む部族の君)」(NG音がG音に変化して「ツガ」から「スガ」となった)

  「コマ・ヒ・ル」、KOMA-HI-RU(koma=pale,whitish,a kind of stone,spark;hi=raise,rise;ru=shake,agitate,scatter,earthquake)、「蒼い顔をした・背の高い・ぶるぶる震えている(君)」

の転訛と解します。

 

244H2多治比眞人県守(あがたもり)・阿倍朝臣安(やす)麻呂・藤原朝臣馬養(宇合。うまかひ)・大伴宿禰山守(やまもり)・吉備朝臣真備(まきび)・阿倍朝臣仲(なか)麻呂・僧玄肪(ぐゑんぼう)

 霊亀2年8月条は、多治比眞人県守(あがたもり)を遣唐押使、阿倍朝臣安(やす)麻呂を大使、藤原朝臣馬養(宇合。うまかひ)を副使としたとし、同9月条は大伴宿禰山守(やまもり)を代えて遣唐大使としたとします。

 なお、この遣唐使一行には留学生の吉備朝臣真備(まきび)、阿倍朝臣仲(なか)麻呂、留学僧玄肪(ぐゑんぼう。肪は正しくは日扁)などが含まれ、真備と玄肪は次の遣唐使とともに天平6年に帰国します。

 また、養老2年12月条は、今回の遣唐使がほぼ欠亡なく帰国したとし、大宝元年正月に任命された大使(副使から昇格)の242H4坂合部宿禰大分も15年ぶりに一緒に帰国したとします。

 この「あがたもり」、「やまもり」、「まきび」、「なか」、「げんぼう」は、

  「ア(ン)ガ・タ・マウリ」、ANGA-TA-MAURI(anga=face or move in a certain direction,turn to doing anything,aspect;ta=dash,beat,lay;mauri=life principle,source of the emotions,talisman)、「(難局から逃げずに)直面して取り組むという・信念を・持っている(真人)」(「ア(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「アガ」と、「マウリ」のAU音がO音に変化して「モリ」となった)

  「イア・マ・マウリ」、IA-MA-MAURI(ia=indeed,current;ma=white,clear;mauri=life principle,source of the emotions,talisman)、「実に・清らかな・信念(を持っている。宿禰)」(「マウリ」のAU音がO音に変化して「モリ」となった)

  「マキ・ピ」、MAKI-PI(maki=a pefix giving the force that an action is done spontaneously on impulse or for one's own benefit,invalid,sore;pi=flow of the tide,soaked,source of a stream,origin,take no notice of,eye)、「時の流れ(環境)に・応じて行動する(身を任せる。朝臣)」

  「ナ・カ」、NA-KA(na=satisfied,belonging to,indicating parentage or descent;ka=take fire,be lighted,burn)、「(燃えるような)情熱を・注いだ(朝臣)」

  「(ン)ゲ(ン)ゲ・ポウ」、NGENGE-POU(ngenge=fat,weary,weariness;pou=post,pole,support,teacher,elevate upon poles,a form of address to an aged person)、「肥っている・高い地位に登った(または仏教を説いた。僧)」(「(ン)ゲ(ン)ゲ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ゲネ」から「ゲン」となった)

の転訛と解します。(「阿倍朝臣安(やす)麻呂」については古典篇(その十四)の240H5山辺君安(やす)麻呂の項を、「藤原朝臣馬養(うまかひ)」については古典篇(その十四)の241H3伊余部連馬飼(うまかひ)の項を参照してください。)

 

244H3行基(ぎょうき)

 養老元年4月条は、僧行基(ぎょうき)を小僧と呼んで百姓を妖惑していると指弾しています。

 しかし、天平3年8月条は、法師と呼んで随従する在俗の高齢の信者が出家することを認め、同15年10月条は行基が弟子を率いて聖武天皇の紫香楽での大仏造営事業に参加したとし、同17年正月条は行基を大僧正としたとし、天平勝宝元年2月条は豊桜彦天皇(聖武天皇)がことのほか敬重した大僧正が80歳で遷化して世の人は行基菩薩と名付けたと伝えます。

 この「ぎょうき」は、

  「キオ・ウキ」、KIO-UKI((Hawaii)kio=projection,protuberance;uki=distant times,past or future)、「過去から未来まで(長い期間にわたって)・(比べる者がいないほど)傑出した(僧侶)」

の転訛と解します。

 

244H4白猪史広成(ひろなり)

 養老2年3月条は、242H6小野朝臣馬養(うまかひ)を遣新羅大使としたとします。

 同3年閏7月条は、白猪史広成(ひろなり)を遣新羅使としたとします。(この遣使の目的は不明ですが、この年に新羅が唐に朝貢したこと(『三国史記』)と関連する外交折衝かとする説があります(岩波大系本注)。)

 この「ひろなり」は、

  「ヒ・ロウ・(ン)ガリ」、HI-ROU-PITO(hi=raise,rise;rou=a long stick used to reach anything,reach or procure by means of a pole,dredge for shellsish,draw out contents of a narrow vessel;pito=end,extremity,navel)、「高い地位に任じられて(または立ち上がって)・障碍(困難)を・根こそぎに解決した(史)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  または「ヒラウ・(ン)ガリ」、HIRAU-NGARI(hirau=entangle,pull down,anything by engaging it in a forked stick,be entangled;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「難局に遭遇して・困惑した(史)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。(「小野朝臣馬養(うまかひ)」については古典篇(その十四)の241H3伊余部連馬飼(うまかひ)の項を参照してください。)

 

244H5藤原朝臣武智(むち)麻呂

 養老3年正月条は、皇太子の先導役を式部卿藤原朝臣武智(むち)麻呂と前月に唐から帰国した244H2多治比眞人県守(あがたもり)が勤めたとします。

  この「むち」は、

  「ム・ウチ」、MU-UTI(mu=silent;uti=bite(utiuti=annoy,worry,fuss))、「黙って・心配する(朝臣)」(「ム」のU音と「ウチ」の語頭のU音が連結して「ムチ」となった)

の転訛と解します。

 

244H6陽侯(やこ)史麻呂(まろ)・大伴宿禰旅人(たびと)・笠朝臣御室(みむろ)・巨勢朝臣真人(まひと)

 養老4年2月条は、太宰府から隼人が反乱を起こして大隅国守陽侯(やこ)史麻呂(まろ)を殺したと報告があり、同年3月条は、大伴宿禰旅人(たびと)を征隼人持節大将軍と、笠朝臣御室(みむろ)と巨勢朝臣真人(まひと)を副将軍としたとします。

 なお、同年8月条は、藤原不比等の重病にともない大伴宿禰旅人に帰京命令の勅が出されています(同月壬午(2日)条と癸未(3日)条の間に壬辰(12日)条としてこの帰京命令の勅が記されており、これを錯簡として、不比等の死亡(3日)の後に旅人の本官である議政官たる中納言の職務を行わせるために帰京命令を発したとする説がありますが、下記の解釈によれば順序は誤りがなく、「壬辰(12日)」の表記が誤りということになります)。

 この「やこ」、「たびと」、「みむろ」、「まひと」は、

  「イ・アコ」、I-AKO(i=past tense,beside;ako=learn,teach,advice)、「(推古紀10年10月条にみえる陽胡史の祖玉陳が百済僧観勒から暦法を)学習・した(史)」

  「タピ・ト」、TAPI-TO(tapi=apply as dressings to a wound,patch,repair,find fault with;to=drag,carry the weapon at the trail)、「傷病を癒す(ことに長けている)・(刀を携えて闊歩する)武人(宿禰)」

  「ミイ・ムフ・ロ」、MII-MUHU-RO((Hawaii)mii=clasp,good-looking;muhu=grope,push one's way through bushes;ro=roto=inside)、「(隼人征伐の任務に)しがみついて・内陸の地の・茂みをかき分けて進む(朝臣)」(「ミイ」の反復語尾が脱落して「ミ」と、「ムフ」のH音が脱落して「ム」となった)

  「マピ・ト」、MAPI-TO(mapi=flow,ooze;to=drag,carry the weapon at the trail)、「(隼人征伐のために)流浪する・(刀を携えて闊歩する)武人(朝臣)」

の転訛と解します。(「陽侯史麻呂(まろ)」の「麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

244H7丈部路忌寸石勝(いはかつ)・秦犬(いぬ)麻呂・祖父(おほぢ)麻呂・安頭(あづ)麻呂・乙(おと)麻呂

 養老4年6月条は、塗部司令史の丈部路忌寸石勝(いはかつ)と直丁の秦犬(いぬ)麻呂が官の漆を盗んだことが発覚し、共に流罪となりましたが、石勝の3人の男児祖父(おほぢ)麻呂、安頭(あづ)麻呂および乙(おと)麻呂が我々を官奴として父の罪を贖つて欲しいと上陳したので、天皇はその孝心を賞して願いを聞き届けたとします。

 なお、翌7月条は祖父麻呂等3人を免じて良民に復帰させたとします。

 この「いはかつ」、「いぬ」、「おほぢ」、「あづ」は、

  「イ・ハカ・ツ」、I-HAKA-TU(i=past tense,beside;haka=dance,sing;tu=stand,settle,fight with,energetic)、「(自分だけでなく子供達も早々と免されたので)踊り・狂っ・た(喜んだ。忌寸)」

  「イヌ」、INU(drink)、「(官の漆を)飲み込んだ(盗んだ。麻呂)」

  「オホ・チ」、OHO-TI(oho=spring up,wake up,arise;ti=throw,cast,overcome)、「(父が罪を犯したと聞いて)びっくりして飛び上がって・(父の罪を贖うために自分の身を)投げ出した(男児)」

  「アツ」、ATU(to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action,implying a forward preliminary motion)、「(兄と同じく自分の身を)前方へ(投げ出した。男児)」

の転訛と解します。(「乙(おと)麻呂」については古典篇(その六)の201H9弟猾(おとうかし)の項を参照してください。)

 

244H8上毛野朝臣広人(ひろひと)・下毛野朝臣石代(いはしろ)・阿倍朝臣駿河(するが)

 養老4年9月条は、陸奥国から蝦夷が反乱を起こして按察使の上毛野朝臣広人(ひろひと)を殺したと報告があったので、244H2多治比真人県守(あがたもり)を持節征夷将軍と、下毛野朝臣石代(いはしろ)を副将軍と、阿倍朝臣駿河(するが)を持節鎮荻将軍としたとします。

 この「いはしろ」、「するが」は、

  「イ・ワ・チロ」、I-WHA-TIRO(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;tiro=look)、「(形成を)見ている(だけという)ことが・明らかに・なった(朝臣)」

  「ツ・ル(ン)ガ」、TU-RUNGA(tu=stand,settle,fight with,energetic;runga=the top,the upper part,upwards,above,south)、「勇敢に戦う・人の上に立つ(朝臣)」

の転訛と解します。(「上毛野朝臣広人(ひろひと)」については前出243H1小野朝臣広人(ひろひと)の項を参照してください。)

 

244H9鍛冶造大隅(おほすみ)・越智直広江(ひろえ)・背奈公行文(かうぶん)・調忌寸古麻呂(こまろ)

 養老5年正月条は、学業優秀で師範たるべき者を褒賞し、明経第一の博士として鍛冶造大隅(おほすみ)と越智直広江(ひろえ)に、第二の博士として背奈公行文(かうぶん)と調忌寸古麻呂(こまろ)など諸分野の者39名に褒美を与えたとします。

 この「おほすみ」、「ひろえ」、「かうぶん」、「こまろ」は、

  「オ・ホツ・ミイ」、O-HOTU-MII(o=the...of,belonging to;hotu=sob,desire eagerly;(Hawaii)mii=clasp,good-looking)、「ひたすら・(学問の道を)追求した・人(造)」

  「ヒ・ロウ・エ」、HI-ROU-E(hi=raise,rise;rou=a long stick used to reach anytjing,reach or procure by means of a pole,dredge for shellfish;e=to denote action in progress or temporary condition,to give emphasis etc.)、「背の高い・徹底的に・(学問の道を)追求した(直)」

  「カウ・プ(ン)ガ」、KAU-PUNGA(kau=swim,wade,alone,stalk;punga=reason,cause,origin)、「(物事の)本質を・あれこれと探る(公)」(「カウ」のAU音がOU音に変化して「コウ」と、「プ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「プナ」から「ブン」となった)

  「カウ・マロ」、KAU-MARO(kau=swim,wade,alone,only,stalk;maro=stretch out,stiff,hard,unyielding)、「まったく・頑固な(学問のことでは妥協しない。忌寸)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

の転訛と解します。

 

244H10津史主治(すぢ)麻呂

 養老6年閏4月条は、下津史主治(すぢ)麻呂を遣新羅使としたとします。(この遣使の目的は不明ですが、前年の太上天皇の崩御を伝える使かとする説があります。)

 この「すぢ」は、

  「ツ・ウチウチ」、TU-UTIUTI(tu=stand,settle;utiuti=annoy,worry,fuss,ado)、「不安を・抱えていた(史)」(「ツ」のU音と「ウチウチ」の反復語尾が脱落した「ウチ」の語頭のU音が連結して「ツチ」から「スヂ」となった)

の転訛と解します。

 

244H11満誓(まんせい)

 養老7年2月条は、僧満誓(まんせい)(俗名笠朝臣麻呂(まろ)。養老5年5月条に太上天皇の病気平癒のために出家を願って許されたとあります。)を筑紫に遣わして元明天皇の父天智天皇発願の寺である観世音寺を造らせたとします。

 この「まんせい」は、

  「マナ・テイ」、MANA-TEI(mana=authority,influence,prestige,psychic force,having influence or power;tei,teitei=high,lofty,summit,top)、「最高の・霊力を持っている(僧)」(「マナ」が「マン」となった)

の転訛と解します。

 
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[245聖武天皇]

 

245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(勝宝感神聖武皇帝)(聖武天皇)

 242A天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(天武天皇)と242E1宮(みや)子娘(藤原夫人)の子の242F首(おびと)皇子です。

 天皇は大宝元年に生まれ、7歳のとき父文武天皇が崩御、中継ぎとして祖母の243元明天皇、伯母の244元正天皇が相次いで即位します。和銅7年14歳で立太子、16歳で245E1藤原光明子を娶り、神亀元年2月24歳で禅譲を受けて即位します。

 この月に発した母の藤原夫人を「大夫人」と称する勅を、翌月245H1長屋王の公式令に反するとの意見によって撤回します。神亀4年閏9月に皇子(245F2基王)が生まれ、翌月立太子しますが、翌年9月に夭折します。ほぼ同時期に245E2県犬養宿禰広刀自(ひろとじ)が245F5安積(あさか)皇子を生み、これが皇太子となることに危機感を抱いた241H2藤原不比等が藤原夫人(光明子)を皇后に、245F1阿倍内親王を皇太子とするため、その障碍となる長屋王の排除を画策したためか、翌天平元年2月長屋王が謀反を企てているとの訴えがあり、長屋王は自殺に追い込まれます。同年8月藤原夫人(光明子)を皇后とします。

 天平7年ごろにはしきりに災害、異変が起こり、同9年には藤原四卿ほか高官が相次いで死亡し、皇后の異父兄の245H23橘諸兄が朝政を執り、翌10年阿倍内親王が立太子します。同12年9月245H21藤原広嗣の乱が勃発し、まもなく鎮圧されますが、同年10月に天皇は突然関東に行幸し、伊勢国、美濃国、近江国、恭仁京、紫香楽京、難波京と目まぐるしく遷都、行幸を繰り返し、この間諸国国分寺の建立や廬舎那仏造建の詔を発します。同21年4月東大寺に行幸して自らを「三宝の奴」と称し、天平感宝と改元し、7月に皇太子に譲位し、天平勝宝8年5月56歳で崩御します。

 続紀神亀元年2月条分注は、「天平勝宝8歳(5月)の(孝謙天皇の)勅により(太上天皇は出家して仏に帰したからということで)諡号を奉らなかったが、宝字2年(8月)に至って(淳仁天皇の)勅によりこの諡号(天璽国押開豊桜彦天皇)を奉つた」とします。なお、宝字2年8月の勅はあわせて尊号(勝宝感神聖武皇帝)を奉っています。

 この「天璽」は「天つ神が皇位に就くべく命じたところの」の意、「国押開」は「力強く統治する」の意、「豊桜彦」は美称、「勝宝感神」は「陸奥からの産金」、「聖武」は「広嗣の乱などの平定」を指すものとされます。

 この「あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ」、「おびと」は、

  「アマイ・チ・ルツ・クニ・オチ・ハラキ・トイ・アウ・タクルア・ヒコ」、AMAI-TI-RUTU-KUNI-KOTI-HARAKI-TOI-AU-TAKURUA-HIKO(amai=swell in the sea,giddy,dizzy;ti=throw,cast,overcome;rutu=clash,dash down,be agitated with anger,storm;(Hawaii)kuni=to burn,kindle;koti=cut in two,divide,separate;haraki=preposterous,rxtraordinary;toi=move quickly,encourage,incite;au=rapid,whirlpool,firm,intense;takurua=winter;hiko=move at random or irregularly,flash,shine)、「燦然と光り輝いている(天皇で)・(藤原広嗣の)争乱を・鎮圧した・国の灯を・消して(都を離れて)・異常なことに・つむじ風のように・駆け抜けて・冬の時期に・(東国へ)あてもない旅に出た(天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「ルツ」が「ルス」から「ルシ」と、「トイ」のI音と「アウ」のAU音が変化したO音が連結して「トヨ」となった)

  「オ・ピト」、O-PITO(o=the...of,belonging to;pito=end,extremity,navel,offering to the god)、「(文武天皇と宮子夫人の嫡出の男子に皇統を伝えたいという関係者の願いを一身に背負って生まれてきた)最後の(望みの綱であった。皇子)」または「オピ・ト」、OPI-TO(opi=terrified;to=drag,carry the weapon at the trail)、「恐ろしい・(刀を携えて闊歩する)戦士のような(強権を振るう。皇子)」

の転訛と解します。

 

245B1恭仁(くに)宮

 天平12年10月245H21藤原広嗣の乱の最中に平城京を離れた聖武天皇は、伊勢国、美濃国、近江国を巡りますが、同年12月6日条は、245H23橘宿禰諸兄(もろえ)が天皇に先行して遷都を準備するため、山背国相楽郡恭仁(くに)郷を整備したとし、同15日条は天皇が恭仁宮に行幸して、そこを都としたとします。この地は、現京都府相楽郡加茂町、木津町、山崎町にまたがる地域で、橘諸兄の本拠地であったとみられます(天平12年5月条に右大臣橘諸兄の相楽別業(現京都府綴喜郡井手村所在)への行幸記事がみえます)。

 翌年11月21日の勅はこの京を「大養徳恭仁(やまとくに)大宮」と名付けています。

 なお、この宮は天平12年12月以降あたふたと造営が続けられましたが、同14年8月に紫香楽宮の造宮卿・造離宮司が任命されてその造営が開始され、翌15年12月に平城宮の大極殿の移築が完了したことに伴って恭仁宮の造作が停止され、翌16年2月26日には難波宮を皇都とする勅が出されて廃都となりました。

 この「くに」は、

  「クニ」、KUNI((Hawaii)to burn,blaze,kindle,to pursue at full speed)、「光り輝く(宮)」または「(大慌てで造った)急ごしらえの(宮)」

の転訛と解します。

245B2紫香楽(しがらき)宮(甲賀(かふか)宮)

 天平14年8月に245B1恭仁(くに)宮の造営と並行して紫香楽宮の造宮卿に智努(ちぬ)王、造離宮司に高岡連河内(かふち)等4人が任命されて近江国甲賀郡紫香楽村に紫香楽(しがらき)宮の造営が開始されました。

 翌15年10月に長期滞在中の紫香楽宮において金銅の廬舎那仏造営の詔が出されます。翌16年2月26日には難波宮を皇都とする勅が出されますが、天皇はその直前(2月24日)から紫香楽宮に行幸したまま動こうとせず、11月には甲賀寺に廬舎那仏の像の体骨柱を立て、翌17年正月には元旦朝賀の儀式を取りやめ、「新京に遷り」、「大楯・槍を立て」、「垣がなく帷帳を巡らした」未完成の紫香楽宮で元旦の節会の宴を催したとします。紫香楽宮への遷都の勅は続紀にみえません。

 すでに前年4月に宮の西北の山で山火事が出ていましたが、4月に宮の周辺で山火事が頻発し(遷都・大仏造営に反対する勢力の策謀とする説があります)、地震の頻発もあって、遂に甲賀(かふか)宮(天平16年11月条からは紫香楽宮に代わって甲賀宮と呼称されます)を放棄し、同17年5月には平城京に遷都します。

 この「しがらき」、「かふか」は、

  「チ(ン)ガ・ラキ」、TINGA-RAKI(tinga=likely;raki=north,dry,dried up,green leaves etc. on which the food is laid in a native oven)、「(天然の蒸し焼き穴のような)盆地の中の(食物を載せる)緑の葉(草原)・のような(土地。そこに造営された京)」(「チ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「チガ」から「シガ」となった)

  「カフ・カ」、KAHU-KA(kahu=hawk,chief,kite for flying,surface,garment,stillborn infant;ka=take fire,be lighted,burn)、「死産した子のような(ついに都として定着する(または世の人に受け入れられる)ことがなかった)・(灯が灯る集落)宮(その都)」または「火葬にされた(山火事に遭った)・死産した子(のような。宮。都)」

の転訛と解します。

 なお、地名の「甲賀(かふか。こうか)」については地名篇(その三)の滋賀県の(18)甲賀(こうか)郡の項を参照してください。

245B3難波(なには)宮

 天皇は、孝徳天皇の236B1難波長柄豊碕宮が朱鳥元年1月に全焼したのち一部が再建されたものと思われる難波(なには)宮に神亀2年10月に行幸し、翌3年10月再び難波宮に行幸して式部卿藤原宇合(うまかひ)を知造難波宮事に任じ、大規模な造営に着手し、天平6年ごろ完成して宅地を班給したようです。

 天平16年2月26日には(恭仁宮を廃して)難波宮を皇都とする勅が出され、難波宮に「大楯・槍を立て」ましたが、翌17年正月には新京(245B2紫香楽(しがらき)宮)に遷り、同年5月には平城京に遷都しています。

 「難波(なには)宮」については古典篇(その十三)の236B1難波長柄豊碕宮の項を参照してください。)

 

245B4芳野(よしの)宮・玉垣勾(たまかきのまがり)頓宮・玉津島(たまつしま)頓宮・所石(とろし)頓宮・甕原(みかはら)離宮・竹原井(たかはらゐ)頓宮・堀越(ほりこし)頓宮・安保(あほ)頓宮・河口(かはくち)頓宮・赤坂(あかさか)頓宮・不破(ふは)頓宮・石原(いしはら)宮・薬師(やくし)寺宮

 神亀元年3月条は、天皇が芳野(よしの)宮に行幸したとします。同年10月条は、紀伊国に行幸し、那賀郡玉垣勾(たまかきのまがり)頓宮に至り、海部郡玉津島(たまつしま)頓宮に至り、さらに和泉国所石(とろし)頓宮に至ったとします。

 同4年5月条は、243B3甕原(みかはら)離宮に行幸したとします。

 天平6年3月条は、難波宮行幸の途次、244B2竹原井(たかはらゐ)頓宮に宿泊したとします。

 同12年10月条は、東国行幸の途次、大倭国山辺郡堀越(ほりこし)頓宮、伊賀国伊賀郡安保(あほ)頓宮、伊勢国一志郡河口(かはくち)頓宮、伊勢国鈴鹿郡赤坂(あかさか)頓宮、美濃国不破郡不破(ふは)頓宮を経たとします。

 同15年正月条は、石原(いしはら)宮で正月の宴を催したとします。

 天平勝宝元年閏5月条は、天皇が薬師(やくし)寺宮に遷御したとします(この時点ですでに実質的に譲位していたとする説があります)。

 この「たまかきのまがり」、「とろし」、「ほりこし」、「かはくち」、「あかさか」、「いしはら」は、

  「タマ(ン)ガキノ・マ(ン)ガリ」、TAMANGAKINO-MANGARI(tamangakino=dredge for bivalve mollusc;mangari=luck,fortune)、「貝が(熊手で浚うと)・豊富に採れる(幸運な場所。そこの頓宮)」(「タマ(ン)ガキノ」のNG音がG音に変化して「タマガキノ」と、「マ(ン)ガリ」のNG音がG音に変化して「マガリ」となった)

  「トロチ」、TOROTI(spurt out,exude of a steady stream)、「(川の流れが)噴出する(河口の場所。そこの頓宮)」

  「ホリ・コチ」、HORI-KOTI(hori=cut,slit,be gone by,false;koti=cut in two,divide,separate)、「(大地を川が)掘り割って・二分している(場所。そこの頓宮)」

  「カハ・クチ」、KAHA-KUTI(kaha=rope,noose,edge;kuti=contract,pinch)、「(輪縄のような)蛇行する川が・狭まっている(河口の場所。そこの頓宮)」

  「アカ・タカ」、AKA-TAKA(aka=clean off,scrape away;taka=fall off,fall away)、「拭ったように(滑らかな)・(高台から)落ち込む(坂の場所。そこの頓宮)」

  「イチ・パラ」、ITI-PARA(iti=small,unimportant;para=a flake of stone,sediment,dust)、「小さな・砂礫(の原。そこの宮)()」(「パラ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

の転訛と解します。(「芳野(よしの)宮」については古典篇(その八)の215B2吉野宮の項を、「玉津島(たまつしま)頓宮」については地名篇(その五)の和歌山県の(11)のc玉津島(たまつしま)の項を、「安保(あほ)頓宮」については地名篇(その三)の三重県の(12)青山町の項を、「不破(ふは)頓宮」については古典篇(その十四)の240B1不破宮の項を参照してください。)

 

245C1天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇)

 父は242A天之眞宗豊祖父(あまのまむねとよおほぢ)天皇(242文武天皇)の項を参照してください。

 

245C2宮(みや)子娘

 母は242E1宮(みや)子娘の項を参照してください。

 

245E1藤原光明(こうみよう)子

 続紀は夫人を241H2藤原不比等と県犬養橘宿禰三千代(みちよ)の子の光明(こうみよう)子(出家前の名は安宿(あすかべ)媛)とします。

 大宝元年に生まれ、幼いころから聡明の誉れが高く、霊亀2年に16歳で首皇子の妃となり、養老2年に245F1阿倍(あへ)皇女(246孝謙天皇)を、神亀4年に245F2基(き)王(夭折)を生みます。天平元年皇后となり、聖武天皇を補佐して仏教に深く帰依し、皇后宮職を設置して施薬院、悲田院を付置し、天平勝宝元年皇太后となると紫微中台を設けて甥の藤原仲麻呂を長官として朝政を主管し、淳仁天皇のとき百官から天平応真仁正皇太后の尊号を受け、天平宝字4年60歳で崩じ、聖武天皇と並んで佐保山東陵に葬られました。

 この「こうみょう」、「あすかべ」、「みちよ」は、

  「コウ・ミイ・アウ」、KOU-MII-AU(kou=knob,protuberance,good;(Hawaii)mii=clasp,good-looking;au=sea,firm,intense,certainly)、「飛び抜けて・まことに・美しい(女性)」(「アウ」のAU音がOU音に変化して「オウ」となった)

  「アツ・カペ」、ATU-KAPE(atu=to indicate a direction or motion onwards,to indicate reciprocated action;kape=pass by,reject,pick out,move with the point of a stick,eyebrow)、「(あれも嫌これも嫌と)拒絶を・繰り返す(明確な意志をもっていた。媛)」

  「ミチ・イオ」、MITI-IO(miti=lick,undertow of surf,dried up;io=muscle,line,spur,lock of hair,tough)、「たゆまずに・足下を洗う(基礎を固めて念願を実現する。内命婦)」

の転訛と解します。

 

245E2県犬養宿禰広刀自(ひろとじ)

 続紀は夫人を県犬養宿禰唐(もろこし)の女の広刀自(ひろとじ)とし、245F3井上(ゐのうへ)皇女(光仁天皇皇后)、245H4不破(ふは)皇女、245H5安積(あさか)皇子を生み、天平宝字6年に没しています。

 この「ひろとじ」は、

  「ヒラウ・トフ・チ」、HIRAU-TOHU-TI(hirau=entangled,pull down anything by engaging it in a forked stick;tohu=mark,point out,show,look towards;ti=throw,cast,overcome)、「(生んだ子の不祥事や夭折に)困惑した・(家事について)指示を・出す(者。刀自)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「トフ」のH音が脱落して「ト」となった)

の転訛と解します。(「県犬養宿禰唐(もろこし)」については前出242H3坂合部宿禰唐(もろこし)の項を参照してください。)

 

245E3広岡(ひろをか)朝臣古那可智(こなかち)

 続紀は夫人を橘朝臣佐為(さゐ)の女の古那可智(こなかち)とします。子の記録はありません。天平宝字元年閏8月の勅によつて他の橘朝臣姓4人とともに広岡(ひろをか)朝臣の姓を賜っています(この「広岡(ひろをか)」は地名かとされますが不詳です)。天平宝字3年7月条は、夫人広岡朝臣古那可智が薨去したとします。

 この「こなかち」、「さゐ」、「ひろをか」は、

  「コナカ・チ」、KONAKA-TI(konaka=kona=to diffuse,spread abroad(konakona=smell,give out odour,affection);ti=throw,cast,overcome)、「良い香りを・漂わせる(娘)」

  「タヰ」、TAWHI(hold,suppress feelings)、「感情を押し殺している(表に出さない。朝臣)」

  「ヒラウ・オカ」、HIRAU-OKA(hirau=entangled,pull down anything by engaging it in a forked stick;oka=prick,any sharp weapon used for stabbing or piercing,branch line of descent)、「(何らかの罰として(朝臣姓から宿禰姓に))地位を引き下げられた・一族」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」となった)(この「広岡」姓を賜った5人のうち、こののち続紀に広岡朝臣として名が記録されるのは古那可智(死亡時)だけで、他の者はすべて橘宿禰として叙位され、さらに(古那可智の死亡後)ふたたび朝臣に改姓しています。)

の転訛と解します。

245E4海上(うなかみ)女王

 神亀元年2月条は、聖武天皇の即位に際し249D5海上(うなかみ)女王(『紹運録』は海上王を249C1志紀皇子の子として記し、続紀養老7年正月条は従四位下に叙されたとします)が従三位に叙されたとします。この叙位は、『万葉集』相聞歌(530-531)から聖武天皇夫人として遇されたものかと解されています。

 この「うなかみ」は、

  「フナ・カミ」、HUNA-KAMI(huna=conceal,destroy,unnoticed;kami=eat)、「(征服された。聖武天皇と)情を交わしたことを・隠した(垣根に標(しめ)を結って他人の来訪を禁じた(『万葉集』530-531)。女王)」(「フナ」のH音が脱落して「ウナ」となった)

の転訛と解します。

 

245E5矢代(やしろ)女王

 天平宝字2年12月条は、「先帝の寵愛を承けながら志を改めた(他の男性と関係をもつた)」故をもつて、矢代(やしろ)女王の位記を破棄したとします。

 この「やしろ(やしろの)」は、

  「イア・チ・ロ(ン)ゴ」、IA-TI-RONGO(ia=indeed,current;ti=throw,cast,overcome;rongo=apprehend by the senses except sight(hear,feel,smell,taste),obey,report,peace after war)、「実に・風聞によって・貶められた(女王)」(「ロ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「ロノ」となった)

の転訛と解します。

 

245F1阿倍(あへ)内親王(246孝謙天皇・248称徳天皇)

 続紀は245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(聖武天皇)と245E1藤原光明(こうみよう)子の第1子の阿倍(あへ)内親王とします。

 養老3年に出生、245F2基(き。もとゐ)王が夭折したため、天平10年正月21歳で皇女として初の皇太子に立てられ、天平勝宝元年7月に32歳で即位して246孝謙天皇となり、天平宝字2年8月淳仁天皇に譲位、同8年10月47歳で重祚して248称徳天皇となり、神護景雲4年8月53歳で崩御します。

 この「あへ」は、

  「アヘイ」、AHEI(able,possible within one's power)、「(何でもできる)能力がある(皇女)」(語尾のI音が脱落して「アヘ」となった)

の転訛と解します。

 

245F2基(き。もとゐ)王

 神亀4年閏9月条は、皇子出生を伝え、同年11月に立太子、翌5年9月に薨去し、那富(なふ)山(奈保山)に葬られました。現奈良市法連町大黒ケ芝にある芝地が墓所と伝えられます。

 『紹運録』は夫人245E1藤原光明子所生の皇子で基(き。もとゐ)王とします。なお、基王は某王のあやまりとする説があります。 

 この「き」または「もとゐ」は、

  「キヒ」、KIHI(indistict of sound,barely audible,cut off,strip of branches)、「微かな泣き声(しか立てられない、生命力の弱い。皇子)」(H音が脱落して「キ」となった)

  「モ・トイ」、MO-TOI(mo=for,for the benefit of;toi=tip,summit,finger,move quickly,encourage)、「生まれたことで・(藤原氏を)元気づけた(皇子)」または「早く駆け抜ける・ために生まれてきた(夭折した。皇子)」

の転訛と解します。

 

245F3井上(ゐのうへ)内親王(光仁天皇皇后)

 続紀は245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(聖武天皇)と245E2県犬養宿禰広刀自(ひろとじ)の第1子の井上(ゐのうへ)皇女とします。

 内親王は、養老5年に5歳で斎内親王に卜定され、11歳から約20年伊勢神宮の斎宮として奉仕したのち、天智天皇の皇子238F13施基(しき)皇子(追尊して春日宮天皇)の子白壁(しらかべ)王の妃となりました。神護景雲4年8月248称徳天皇が崩御されて天武天皇の血統が絶えると、白壁王が皇太子に立てられ、道鏡が左遷され、同年10月(改元して宝亀元年)白壁王が即位して249光仁天皇となるに及んで同年11月皇后となり、その子の249F1他戸(おさべ)皇子も翌宝亀2年1月皇太子となりました。しかし、翌宝亀3年3月、「巫蠱(ふこ。「巫」はみこ、「蠱」はまじないによって人を呪うこと)に座した」という理由で皇后の位を剥奪され、さらに同年5月、他戸皇子も皇太子を廃されます。翌宝亀4年1月、光仁天皇と249E2高野新笠の間に生まれた249F2山部親王(後の250桓武天皇)が皇太子に立てられます。同年10月、天皇の同母姉難波内親王が没したのは、井上内親王の厭魅(えんみ。まじないで人を呪うこと)によるものとされ、井上内親王と他戸皇子は吉野に幽閉され、宝亀6年4月27日、井上内親王と他戸皇子は吉野で同時に死去します。続紀は二人の死の原因について何も記していませんが、山部親王を擁立した藤原百川らによって毒殺されたものとする説があります。その後宝亀8年12月に山部皇太子が病気になり、百川が必死で看病しますが、宝亀10年7月百川は皇太子の身代わりのように死亡し、井上内親王と他戸皇子の怨霊の祟りという噂が流れました。

 その墓は宝亀8年12月に改葬され、延暦19年7月には皇后位を回復し、墓を山陵と称することとされました(『延喜式』は「宇智陵、皇后井上内親王、在大和国宇智郡、兆域東西十町南北七町、守戸一烟」とします)。(古典篇(その一)の2の(4)井上皇后と他戸皇子の悲劇の項から(6)「おさべ」ほか関係者の名の意味までの項を参照してください。)

 この「ゐのうへ」は、

  「イノイ・ウエ」、INOI-UE(inoi=pray,prayer;ue=push,affect by anincantation)、「祈祷者(巫女)に・祈祷を行わせた(または祈祷(まじない)によって効験を顕した。皇后)」

の転訛と解します。

 

245F4不破(ふは)内親王

 続紀は245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(聖武天皇)と245E2県犬養宿禰広刀自(ひろとじ)の第2子の不破(ふは)内親王とします。

 内親王は、240F8新田部皇子の子の塩焼王の妻となりますが、神護景雲3年5月条に先年親王の名を削つたが、悪事が止まず、重ねて不敬があったので、廚(くりや)真人廚女(くりやめ)の名を賜り京外に追放処分に処せられ、さらに同月氷上塩焼との間の子の志計志麻呂を皇位につけるため、称徳天皇を厭魅した県犬養姉女の陰謀に加わったので遠島に処せられたとあります。

 のち宝亀3年12月に親王に復しましたが、延暦元年閏正月、塩焼との子の川継の謀反に坐して淡路国に配流、同14年12月和泉国に移配されました。

 この「ふは」、「くりやめ」は、

  「フ・ワ」、HU-WHA(hu=resound,noise,be rumoured,silent,quiet,desire,hill;wha=be disclosed,get abroad)、「(悪い)噂が・明るみに出た(皇女)」

  「クリ・イア・マイ」、KURI-IA-MAI(kuri=dog,any quadruped(kurikuri=fusty,evill-smelling);ia=indeed,current;mai=clothing,dance)、「実に・(四つ足の)動物にような・女」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となった)

の転訛と解します。

 

245F5安積(あさか)親王

 続紀は245A天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)天皇(聖武天皇)と245E2県犬養宿禰広刀自(ひろとじ)の第3子の安積(あさか)親王とします。

 親王は、235F2基(き。もとゐ)王と同じころ(神亀4年か)出生しましたが、皇太子となることはなく、天平16年閏正月に天皇の難波宮行幸に随行する途中、脚の病で櫻井頓宮から恭仁宮へ帰京した直後に、17歳で薨去したとします。

 この「あさか」は、

  「ア・タカ」、A-TAKA(a=the...of,belonging to;taka=fall off,fall away)、「(皇太子になる資格があったのに)引きずり下ろ・された(皇子)」

  または「アタ・カハ」、ATA-KAHA(ata=how horrible!;kaha=strong,strength,rope,noose,edge)、「何と恐ろしい・力(によって抹殺された。皇子)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。

 

245G佐保(さほ)山陵

 天平勝宝8歳5月条は、聖武太上天皇が崩御して佐保(さほ)山陵に葬ったとします。『延喜式』は陵を「佐保(さほ)山南陵、平城宮御宇勝宝感神聖武天皇、在大和国添上郡」とし、『陵墓要覧』は所在地を奈良市法蓮町とします。(なお、佐保山東陵は光明皇后陵、佐保山西陵は聖武天皇母宮子の陵です。)

 この「さほ」は、

  「タホ」、TAHO(yielding,weak)、「弱い(崩れやすい。山。その山陵)」

の転訛と解します。

 

245H1長屋(ながや)王

 神亀元年3月条は、左大臣長屋(ながや)王が神亀元年2月に聖武天皇が即位に伴って発した母の藤原夫人を「大夫人」と称する勅が公式令に定める「皇大夫人」の称号に違反するとの意見を上申したので撤回したとします。

 このことが245E1光明子を皇后に立てようとしていた藤原氏からその反対の中心人物と目され、天平元年2月10日の245H6漆部造君足(きみたり)等による長屋王謀反の密告となり、ただちに王に対する尋問があり、12日には早くも自尽を命ぜられるという悲劇となりました。

 長屋王は、240天武天皇の孫、240F13高市皇子と238F4御名部皇女の子で、240F1草壁皇子と243元明天皇の子の242D2吉備(きび)内親王を妃とし、養老2年に大納言、藤原不比等の没後養老5年に右大臣、聖武天皇の即位に伴い左大臣となり、その子は皇族待遇の叙位を受けていました。

 この「ながや」は、

  「ナ・(ン)ガ・イア」、NA-NGA-IA(na=belonging to,to indicate parentage or descent,satisfied,content;nga=satisfied,breathe;ia=indeed,current)、「実に・(現在の境遇に)満足して・いた(王)」

の転訛と解します。

 

245H2佐伯宿禰児屋(こや)麻呂・高橋朝臣安(やす)麻呂・小野朝臣牛養(うしかひ)

 神亀元年3月条は、陸奥国から蝦夷が反乱を起こして大掾佐伯宿禰児屋(こや)麻呂を殺した旨の報告があったとし、翌4月条は、式部卿244H2藤原朝臣宇合(うまかひ)を持節大将軍とし、宮内大輔高橋朝臣安(やす)麻呂を副将軍として蝦夷征伐に向かわせたとします。

 また、同年5月条は小野朝臣牛養(うしかひ)を鎮狄として出羽の蝦狄を鎮めさせたとします。

 この「こや」、「やす」、「うしかひ」は、

  「コイア」、KOIA(expressing assent,it is so,interrogatively expressing surprise)、「よし分かった(または「そのようにせよ」を口癖にしていた。宿禰)」

  「イア・ツ」、IA-TU(ia=indeed,current;tu=fight with,energetic)、「実に・勇猛な(朝臣)」

  「ウチ・カヒ」、UTI-KAHI(uti=bite;kahi=bivalve mollusc,a species of whale or large porpolis,chief)、「噛みつく(攻撃的な)・首長(または鯨か大きいイルカのように身体の大きな。朝臣)」

の転訛と解します。

 

245H3土師宿禰豊(とよ)麻呂

 神亀元年8月条は、土師宿禰豊(とよ)麻呂を遣新羅大使としたとします。

 この「とよ」は、

  「トイ・アウ」、TOI-AU(toi=tip,summit,finger,orogin,move quickly,encourage,incite;au=sea,rapid,whirlpool,firm,intense,certainly)、「機敏に・着実に(行動する。宿禰)」(「トイ」の語尾のI音が「アウ」のAU音がO音に変化した「オ」と連結して「トヨ」なった)

の転訛と解します。

 

245H4息長真人臣足(おみたり)

 神亀元年10月条は、息長真人臣足(おみたり)を出雲按察使に任じた際、不当な蓄財が目に余るほどであったので、その行状を憎み、位禄を剥奪したとします。

 この「おみたり」は、

  「オ・フミ・タリ」、O-HUMI-TARI(o=the...of,belonging to;humi=abundance,abundant;tari=carry,bring,urge,incite)、「(出雲から財物を)大量に・運んで・きた(真人)」(「フミ」のH音が脱落して「ウミ」から「ミ」となった)

の転訛と解します。

 

245H5羽林(うりむ)連兄(え)麻呂・川原史石庭(いはには)

 神亀4年12月条は、去る2月に七道へ派遣された国司の勤務状況の査察報告があり、最も甚だしく法を犯した丹後守羽林(うりむ)連兄(え)麻呂を流罪に、周防目川原史石庭(いはには)を除名処分としたとします。

 この「うりむ」、「え」、「いはには」は、

  「ウリ・ム」、URI-MU(uri=dark,deep in colour;mu=silent)、「(根性が)暗く・陰鬱な(連)」

  「ヘ」、HE(wrong,mistaken,in trouble or difficulty,troublous)、「悪い(ことをした。連)」(H音が脱落して「エ」となった)

  「イ・ワ・ニワ」、I-WHA-NIWHA(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;niwha=resolute,fierce,bravery,rage)、「暴虐なことが・明るみに・出た(史)」

の転訛と解します。

 

245H6漆部造君足(きみたり)・中臣宮処連東人(あづまひと)・大伴宿禰子虫(こむし)

 天平元年2月10日条は、漆部造君足(きみたり)と中臣宮処連東人(あづまひと)が245H1長屋王がひそかに左道を学んで国家を傾けようとしていると密告し、事件の終了後に官位、褒賞を授けられたとします。

 なお、天平10年7月条は、大伴宿禰子虫(こむし)が長屋王を誣告した中臣宮処連東人を斬り殺したとし、長屋王事件が誣告によるものであったと認めています。

 この「きみたり」、「あづまひと」、「こむし」は、

  「キミ・タリ」、KIMI-TARI(kimi=seek,look for;tari=cary,bring,urge,incite)、「(謀反の証拠を)探すことを・(中臣宮処連東人に)そそのかした(造)」

  「アツ・マハ・ピト」、ATU-MAHA-PITO(atu=to indicate a direction or motion towards,to indicate reciprocated action;maha=satisfied,depressed,resigned,many;pito=end,extremity,at first)、「(大伴宿禰子虫に責められて)最初に・観念・した(真実を白状した。連)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「コモウ・チ」、KOMOU-TI(komou=cover a fire with ashes or earth to keep it smouldering;ti=throw,cast,overcome)、「埋め火(人々が忘れかけていた事件)を・掻き熾こした(真相を世に示した。宿禰)」(「コモウ」のOU音がU音に変化して「コム」となった)または「コムツ」、KOMUTU(surprise,intercept)、「(使者を途中で捕らえるように逃げ回っていた)犯人を捕らえた(そして殺した。宿禰)」(語尾のU音がI音に変化して「コムチ」から「コムシ」となった)

  または「コ・ムツ」、KO-MUTU(ko=an implement for digging;mutu=finished,brought to the end)、「(すでに終わった)過去の事件を・掘り返した(宿禰)」(「ムツ」のU音がI音に変化して「ムチ」から「ムシ」となった)

の転訛と解します。

 

245H7佐味朝臣虫(むし)麻呂・津嶋朝臣家道(いへみち)・紀朝臣佐比物(さひもち)

 天平元年2月10日条は、密告を受けた朝廷は三関を固関し、式部卿244H2藤原朝臣宇合(うまかひ)、衛門佐佐味朝臣虫(むし)麻呂、左衛士佐津嶋朝臣家道(いへみち)、右衛士佐紀朝臣佐比物(さひもち)等を派遣して六衛の兵で長屋王の宅を包囲したとします。

 この「いへみち」、「さひもち」は、

  「イ・ヘミ・チ」、I-HEMI-TI(i=past tense,beside;hemi,hemihemi=back of the head(toki hemihemi=a method of adzing timber face hewn off in small chips leaving tool marks close together);ti=throw,cast,overcome)、「斧を自在に使う術に・熟達・している(朝臣)」

  「タヒ・モチ」、TAHI-MOTI(tahi=one,single,sweep,trim timber with a axe,a wooden implement for cultivating;moti=consumed,scarce,surfeited)、「(槍鉋で)木を削ることに・(嫌というほど経験した)熟達した(朝臣)」

の転訛と解します。(「佐味朝臣虫(むし)麻呂」については古典篇(その十四)の240H17穂積朝臣虫(むし)麻呂の項を参照してください。)

 

245H8石川朝臣石足(いはたり)・大伴宿禰道足(みちたり)・巨勢朝臣宿奈(すくな)麻呂

 天平元年2月11日条は、大宰大貳244H2多治比真人県守(あがたもり)、左大弁石川朝臣石足(いはたり)、弾正尹大伴宿禰道足(みちたり)を権の参議に任じ、240F6舎人(とねり)親王、240F8新田部(にひたべ)親王、大納言243H1多治比真人池守(いけもり)、中納言244H5藤原武智(むち)麻呂、右中弁245H2小野朝臣牛養(うしかひ)、少納言巨勢朝臣宿奈(すくな)麻呂等を長屋王の宅に派遣してその罪を窮問したとします。

 この「いはたり」、「みちたり」は、

  「イ・ワ・タリ」、I-WHA-TARI(i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad;tari=cary,bring,urge,incite)、「鋭く追求したことを・(世に)明らかに・した(朝臣)」

  「ミチ・タリ」、MITI-TARI(miti=lick,undertow of surf;tari=cary,bring,urge,incite)、「唇を嘗めながら(咽喉を涸らして)・鋭く追求した(宿禰)」

の転訛と解します。(「巨勢朝臣宿奈(すくな)麻呂」については古典篇(その十四)の240H7佐味君宿那(すくな)麻呂の項を参照してください。)

 

245H9膳夫(かしはで)王・桑田(くはた)王・葛城(かづらぎ)王・鈎取(かぎとり)王・上毛野朝臣宿奈(すくな)麻呂・鈴鹿(すずか)王

 天平元年2月12日条は、245H1長屋(ながや)王を自尽させたととし、その妻242D2吉備(きび)内親王とその生んだ男子の膳夫(かしはで)王、桑田(くはた)王、葛木(かづらき)王、鈎取(かぎとり)王等も同様に自ら首をくくったとします。

 翌13日条は、長屋王と吉備内親王の遺骸を生駒山に葬らせたとし、吉備内親王は罪が無いので喪葬令により葬儀を行ってよいが鼓吹は禁止する、長屋王は罪人であるが葬儀をいやしくすることのないようにとの勅があったとします。

 同月17日条は、上毛野朝臣宿奈(すくな)麻呂等7人が長屋王と交わっていたとして流罪に処せられ、翌18日条は、長屋王の弟鈴鹿(すずか)王、姉妹、子孫と妾等の縁座すべきものはすべて赦すとの勅が出されたとします。

 この「かしはで」、「くはた」、「かづらき」、「かぎとり」は、

  「カチ・ハテア」、KATI-HATEA(kati=bit,nip,leave off,block up;hatea=faded,decolourised,whitened)、「(首を)締めて・(顔が)白くなった(王)」(「ハテア」の語尾のA音が脱落して「ハテ」から「ハデ」となった)

  「ク・ハタイ」、KU-HATAI(ku=silent;hatai=mild weather)、「(首を締めて)静かに・穏やかな(顔になった。王)」(「ハタイ」の語尾のI音が脱落して「ハタ」となった)

  「カハ・ツラキ」、KAHA-TURAKI(kaha=rope,strong;turaki=throw or push down from an upright position,overthrow)、「(首に)縄を掛けて・高い所から落とされた(王)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)

  「カ(ン)ギア・トリ」、KANGIA-TORI(kangia=take fire,be lighted,burn;tori=cut)、「(長屋王の血統を伝える希望の)灯を・消した(死んだ。王)」(「カ(ン)ギア」のNG音がG音に変化し、語尾のA音が脱落して「カギ」となった)

  「ツ・ツカ」、TU-TUKA(tu=stand,settle,fight with,energetic;tuka,tukatuka=start up,proceed forward)、「精力的に・前進した(積極的に行動した。王)」

の転訛と解します。(「上毛野朝臣宿奈(すくな)麻呂」については古典篇(その十四)の240H7佐味君宿那(すくな)麻呂の項を参照してください。)

 

245H10ははとひ・うむがしき

 天平元年8月10日条は、245E1藤原夫人(光明(こうみょう)子)を皇后に立てたとし、同月24日の勅は、藤原光明(こうみょう)子を皇后とすることの理由を縷々説明しています。この宣命体の勅の文言の中の「ははとひ」の意味は不詳ですが、「うやうやしく」、「丁寧に」などの意かと、「うむがしき」は「よろこばしいこと」の意かとされます。

 この「ははとひ」、「うむがしき」は、

  「ハハ・トヒ」、HAHA-TOHI(haha=savoury,desolate,seek,search,procure;tohi=pile up,cut,separate,boil by means of hot stones placed in water)、「(良い)評判を積み重ねて」

  「ウム・(ン)ガ・チキ」、UMU-NGA-TIKI(umu=earth-oven;nga=satisfied,breathe;tiki=fetch,proceed to do something,go for a purpose)、「満足できる・料理(食事の支度)を・キチンと整える」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

の転訛と解します。

 

245H11吉田連宜(よろし)・大津連首(おびと)・御立連清道(きよみち)・難波連吉成(よしなり)・山口忌寸田主(たぬし)・私部首石村(いはむら)・志斐連三田次(みたすき)・粟田朝臣馬養(うまかひ)・播磨直乙安(をとやす)・陽胡史真身(まみ)・秦朝元(てうげん)・文元貞(げんてい)

 天平2年3月条は、勧学のため医術の吉田連宜(よろし)、占術の大津連首(おびと)、医術の御立連清道(きよみち)、陰陽の難波連吉成(よしなり)、算術の山口忌寸田主(たぬし)、同じく私部首石村(いはむら)、同じく志斐連三田次(みたすき)に、また通訳の養成のために粟田朝臣馬養(うまかひ)、播磨直乙安(をとやす)、陽胡史真身(まみ)、秦朝元(てうげん)、文元貞(げんてい)に弟子に学習をさせるように詔したとします。

 この「おびと」、「きよみち」、「よしなり」、「たぬし」、「いはむら」、「みたすき」、「をとやす」、「まみ」、「てうげん」、「げんてい」は、

  「オ・ピト」、O-PITO(o=the...of,belonging to;pito=end,extremity,navel)、「(医者として)最高・に属する(連)」

  「キオ・ミチ」、KIO-MITI((Hawaii)kio=projection,to protorude;miti=lick,undertow of surf)、「(薬種を)嘗める(薬効を確かめる)・(医術に)卓越している(連)」

  「イ・オチ・(ン)ガリ」、I-OTI-NGARI(i=past tense,beside;oti=finished,gone or come for good;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「(呪術によつて物事の)良い結果を・もたらす・力を持つ(連)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「タハ・ヌイ・チ」、TAHA-NUI-TI(taha=side,portion,pass on one side;nui=large,many;ti=throw,cast,overcome)、「多くの・(部分)数を・(征服した)自在に操った(忌寸)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」と、「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

  「イ・ワ・ムラ」、I-WHA-MURA(i=past tense;wha=be disclosed,get abroad;mura=blaze,flame)、「(才能の)輝きを・明らかに示した(首)」

  「ミヒ・タツ・キ」、MIHI-TATU-KI(mihi=greet,admire;tatu=reach the bottom,be at ease,consent;ki=full,very)、「尊敬すべき・(学殖が)十分に・極限に達している(連)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)

  「アウト・イア・ツ」、AUTO-IA-TU(auto=trailing behind,slow,protract;ia=indeed,current;tu=fight with,energetic)、「実に・熱心に・(弟子の後見をする)指導する(直)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)

  「マハ・アミ」、MAHA-AMI(maha=satisfied,depressed,many,abundance;ami=gather,collect)、「(知識を)たくさん・集めている(史)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となり、その語尾のA音と「アミ」の語頭のA音が連結して「マミ」となった)

  「チオホ・(ン)ゲ(ン)ゲ」、TIOHO-NGENGE(tioho=apprehensive;ngenge=fat,weary,weariness)、「肥った・心配性の(師匠)」(「チオホ」のH音が脱落して「チオオ」から「チョウ」と、「(ン)ゲ(ン)ゲ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ゲネ」から「ゲン」となった)

  「(ン)ゲ(ン)ゲ・テイ」、NGENGE-TEI(ngenge=fat,weary,weariness;tei=high,lofty,summit)、「肥って・背が高い(師匠)」(「(ン)ゲ(ン)ゲ」の最初のNG音がG音に、次のNG音がN音に変化して「ゲネ」から「ゲン」となった)

の転訛と解します。(「吉田連宜(よろし)」については古典篇(その十三)の236H17岡君宜(よろし)の項を、「粟田朝臣馬養(うまかひ)」については古典篇(その十四)の241H3伊余部連馬養(うまかひ)の項を参照してください。)

 

245H12角朝臣家主(やかぬし)

 天平4年正月条は、角朝臣家主(やかぬし)を遣新羅使としたとします。

 この「やかぬし」は、

  「イア・カ・ヌイ・チ」、IA-KA-NUI-TI(ia=indeed,current;ka=take fire,be lighted,burn;nui=many,large;ti=throw,cast,overcome)、「実に・(火のように燃えている)情熱を・しきりに・発散している(朝臣)」(「ヌイ」の語尾のI音が脱落して「ヌ」となった)

の転訛と解します。

 

245H13多治比真人広成(ひろなり)・中臣朝臣名代(なしろ)

 天平4年8月条は、多治比真人広成(ひろなり)を遣唐大使とし、中臣朝臣名代(なしろ)を副使としたとします。

 この「なしろ」は、

  「ナチ・ロ」、NATI-RO(nati=pinch oe contract,restrain;ro=roto=inside)、「(遣唐使一行の)内部を・厳重に統制した(朝臣)」

の転訛と解します。(「多治比真人広成(ひろなり)」については前出244H4白猪史広成(ひろなり)の項を参照してください。)

 

245H14巨曽部朝臣津嶋(つしま)・佐伯宿禰東人(あづまひと)

 天平4年8月条は、242H6藤原朝臣房前(ふささき)を東海・東山二道節度使に、244H2多治比真人県守(あがたもり)を山陰道節度使に、244H2藤原朝臣宇合(うまかひ)を西海道節度使に、巨曽部朝臣津嶋(つしま)を山陰道節度使判官に、佐伯宿禰東人(あづまひと)を西海道節度使判官に任じたとします。

 この「つしま」は、

  「ツ・ウチ・マハ」、TU-UTI-MAHA(tu=stand,settle,fight with,energetic;uti=bite;maha=many,abundance)、「激しく・徹底的に・噛みついた(苦情を述べた。朝臣)」(「ツ」のU音と「ウチ」の語頭のU音が連結して「ツチ」から「ツシ」と、「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

の転訛と解します。(「佐伯宿禰東人(あづまひと)」については古典篇(その十三)の236H2三輪栗隈君東人(あづまひと)の項を参照してください。)

 

245H15健児(こんでい。ちからひと)・儲士(ぢょし。まうけひと)・選士(せんし)

 天平6年4月条は、諸道の節度使を停止し、健児(こんでい)、儲士(ぢょし)、選士(せんし)に田租と雑徭の半分を免じたとします。

 これらは、いずれも節度使の設置とともに置かれたとみられる在地の有力者・富裕農民による武力(岩波大系本注)と考えられ、健児については紀の訓に「ちからひと」とあり(皇極紀元年7月条、天智紀2年8月条)、儲士については「健児となるべき儲人(まうけひと)」(兵士中の武芸に秀でた者)の意とする説があります。選士は、「兵士の中から武芸に秀でた者を選抜したもの」の意で「漢字で合成した語」のようにも見えますが、この名称だけが異質ということは解せませんので、以下ポリネシア語で解釈を試みてみることとします。

 この「こんでい」、「ちからひと」、「ぢょし」、「まうけひと」、「せんし」は、

  「コナ・タイ」、KONA-TAI(kona=to diffuse,spread abroad;tai=the sea,tide,wave,anger,violence)、「(僻地に)分散して置かれた・勇猛な(戦士)」(「コナ」が「コン」と、「タイ」のAI音がEI音に変化して「テイ」から「デイとなった)

  「チ・カラ・ピト」、TI-KARA-PITO(ti=throw,cast,overcome;kara=secret plan,a request for assistance in war either verbal or material;pito=end,extremity,at first)、「戦いの援助を・する・最高の(戦士)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「チホイ・チ」、TIHOI-TI(tihoi=diverge,go to a distance,wander,noisy,refractory;ti=throw,cast,overcome)、「僻地に・放り出された(分散して置かれた。戦士)」(「チホイ」のH音とI音が脱落して「チオ」から「ヂョとなった)

  「マウ・ケ・ピト」、MAU-KE-PITO(mau=carry,take up,fixed,continuing,caught;ke=different,strange,in or to a different place,in a different character;pito=end,extremity,at first)、「他国に・配置された・最高の(戦士)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「テナ・チ」、TENA-TI(tena=encourage,urge forward;ti=throw,cast,overcome)、「激励されて・配置された(戦士)」(「テナ」が「テン」から「セン」となった)

の転訛と解します。

 

245H16阿倍朝臣継(つぎ)麻呂・壬生使主宇太(うだ)麻呂・大蔵忌寸麻呂(まろ)・大伴宿禰三中(みなか)

 天平8年2月条は、阿倍朝臣継(つぎ)麻呂を遣新羅大使としたとします。

 翌9年正月条は、遣新羅大使阿倍朝臣継麻呂は帰国の途中津嶋で死去し、遣新羅使壬生使主宇太(うだ)麻呂、少判官大蔵忌寸麻呂(まろ)が京へ入り、副使大伴宿禰三中(みなか)は病のため京へ入れなかったとし、翌2月条は今回の新羅の対応は常の礼を失するものであったと報告したとします。

 なお、この遣新羅使一行が詠んだ歌が『万葉集』に145首収録されており、それによると難波からの出発が遅れて6月になったばかりか、途中の天候不順でさらに遅れ、壱岐で雪連宅満(卜部かとされます)が病死するなどご難続きで、対馬を出帆して新羅に向かったのがすでに秋遅くであったようです。

 この「つぎ」、「うだ」、「みなか」は、

  「ツ(ン)ギ」、TUNGI(set a light to,kindle,burn)、「(沈み勝ちな一行の心に)灯を灯した(元気づけた。朝臣)」(NG音がG音に変化して「ツギ」となった)

  「ウタ」、UTA(the land,the inland)、「内陸(京の地へ入った。使主)」

  「ミナカ」、MINAKA(desire)、「(入京を)願っていた(が病で果たさなかった。宿禰)」

の転訛と解します。(「大蔵忌寸麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

245H17大野朝臣東人(あづまひと)・藤原朝臣麻呂(まろ)・佐伯宿禰豊人(とよひと)・坂本朝臣宇頭麻佐(うづまさ)

 天平9年正月条は、陸奥按察使大野朝臣東人(あづまひと)が陸奥国から出羽柵に至る直路を開くため男勝村を征伐したいとの上申があったので、持節大使の兵部卿藤原朝臣麻呂(まろ)、副使の佐伯宿禰豊人(とよひと)、常陸守坂本朝臣宇頭麻佐(うづまさ)等を陸奥国に派遣したとします。

 この「とよひと」、「うづまさ」は、

  「トイ・アウ・ピト」、TOI-AU-PITO(toi=move quickly,encourage,incite;au=rapid,whirlpool,firm,intense;pito=end,extremity,at first)、「つむじ風のように・駆け抜けたことでは・一番の(宿禰)」(「トイ」のI音と、「アウ」のAU音が変化したO音が連結して「トヨ」となった)

  「ウツ・マタ」、UTU-MATA(utu=return for anything,make response,dip up water;mata=deep swamp,face,eye)、「反応(感情)が・顔に出る(朝臣)」または「湿地に・はまった(湿地の傍らの玉造柵に駐留した(次項を参照してください)。朝臣)」

の転訛と解します。(「大野朝臣東人(あづまひと)」については古典篇(その十三)の236H2三輪栗隈君東人(あづまひと)の項を、「藤原朝臣麻呂(まろ)」については古典篇(その十一)の226F14椀子(まろこ)皇子の項を参照してください。)

 

245H18遠田君雄人(をひと)・和我君計安塁(けあるい)・大伴宿禰美濃(みの)麻呂・日下部宿禰大(おほ)麻呂・紀朝臣武良士(むらじ)・田辺史難波(なには)

 天平9年4月条は、245H17藤原朝臣麻呂(まろ)から245H17大野朝臣東人(あづまひと)と相談して遠田君雄人(をひと)を海道に派遣し、和我君計安塁(けあるい)を山道に派遣して夷狄を鎮撫させ、245H17坂本朝臣宇頭麻佐(うづまさ)には玉造柵を守らせ、判官大伴宿禰美濃(みの)麻呂には新田柵を守らせ、国大掾日下部宿禰大(おほ)麻呂には牡鹿柵を守らせ、大野朝臣東人は判官紀朝臣武良士(むらじ)、出羽国守田辺史難波(なには)等を率いて賊の地に入りましたが今年は雪が多く城郭をつくることができないので、来年再び攻勢をかけたいとの報告があったとします。

 この「をひと」、「けあるい」、「みの」、「なには」は、

  「アウヒ・ト」、AUHI-TO(auhi=be hampered,be distressed,grief,anxiety;to=drag)、「心配を・引きずつていた(君)」(「アウヒ」のAU音がO音に変化して「オヒ」となった)

  「ケア・ルイ」、KEA-RUI(kea=false,lie;rui=shake,shake down as fruits from a tree,cause to fall in drops,scatter,sow)、「嘘を・言い触らした(君)」

  「ミ(ン)ゴ」、MINGO(curled,wrinkled)、「(顔に)皺がある(宿禰)」(NG音がN音に変化して「ミノ」となった)

  「ナ・ニワ」、NA-NIWHA(na=by,indicating parentage or descent,belonging to;niwha=resolute,fierce,bravery,rage)、「勇猛な・家系に属する(史)」

の転訛と解します。(「日下部宿禰大(おほ)麻呂」については古典篇(その十一)の226F4大(おほ)郎皇子の項を、「紀朝臣武良士(むらじ)」については古典篇(その十四)の240H13倭馬飼部造連(むらじ)の項を参照してください。)

 

245H19平群朝臣広成(ひろなり)

 天平11年11月条は、天平5年に出発した遣唐使判官平群朝臣広成(ひろなり)が渤海使とともに入京して、唐からの帰途暴風に遭って漂着した崑崙国に抑留され、生き残った4人が漸く脱出して唐に至り、在唐の学生阿倍仲麻呂の援助により唐の天子の許可を得て、渤海国を経由して帰国したと報告したとします。(「平群朝臣広成(ひろなり)」については前出244H4白猪史広成(ひろなり)の項を参照してください。)

 

245H20大伴宿禰犬養(いぬかひ)・紀朝臣必登(ひと)

 天平12年正月条は、大伴宿禰犬養(いぬかひ)を遣渤海大使としたとします。

 同年3月条は、紀朝臣必登(ひと)を遣新羅大使としたとします。

 この「いぬかひ」は、

  「イ・ヌイ・カヒ」、I-NUI-KAHI(i=past tense,beside,ferment,be stirred of the feelings;nui=large,many;kahi=bivalve mollusc,a species of whale or large porpoisemchief)、「自尊心が・強い・大柄な(イルカのような。宿禰)」(「ヌイ」のUI音がU音に変化して「ヌ」となった)

の転訛と解します。(「紀朝臣必登(ひと)」については古典篇(その十四)の238H11巨勢人(ひと)臣の項を参照してください。)

 

245H21藤原朝臣広嗣(ひろつぐ)・紀朝臣飯(いひ)麻呂・佐伯宿禰常人(つねひと)・阿倍朝臣虫(むし)麻呂

 天平12年8月条は、大宰少貳藤原朝臣広嗣(ひろつぐ)が上表して天災地異の原因は時の政治にあると批判し、244H2僧正玄肪(ぐゑんぼう)と右衛士督244H2下道朝臣真備(まきび)を除くべきだとしたとします。

 翌9月条は、広嗣が遂に挙兵したので、245H17大野朝臣東人(あづまひと)を大将軍とし、紀朝臣飯(いひ)麻呂を副将軍とし、さらに佐伯宿禰常人(つねひと)、阿倍朝臣虫(むし)麻呂を勅使として派遣したとします。

 この「ひろつぐ」、「いひ」、「つねひと」は、

  「ヒラウ・ツ(ン)グ」、HIRAU-TUNGU(hirau=entangle,pull down anything by engaging it in a forked stick,be caught;tungu=kindle)、「(高く掲げた)灯(理想の政治)を・引き下ろされた(朝臣)」(「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「ツ(ン)グ」のNG音がG音に変化して「ツグ」となった)

  「イヒ」、IHI(power,authority,spell,split,separate,shudder,coward)、「力(がある。または大将軍と分かれて行動した。朝臣)」

  「ツ・ネイ・ピト」、TU-NEI-PITO(tu=stand,settle,fight with,energetic;nei=to denote proximity to or connection with the speaker,to indicate continuance of action;pito=end,extremity,at first)、「精力的に・行動する・究極の(人物。宿禰)」(「ツネイ」の語尾のI音が脱落して「ツネ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)または「ツネヘ・ピト」、TUNEHE-PITO(tunehe=quail,be alarmed;pito=end,extremity,at first)、「(反乱軍追討の命を受けて)最初は・尻込みした(宿禰)」(「ツネヘ」のH音が脱落して「ツネ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。(「阿倍朝臣虫(むし)麻呂」については古典篇(その十四)の240H17穂積朝臣虫(むし)麻呂の項を参照してください。)

 

245H22小長谷常人(つねひと)・凡河内田道(たみち)・三田塩籠(しほこ)・額田部広(ひろ)麻呂・若田勢(せ)麻呂・膳東人(あづまひと)・勇山伎美(きみ)麻呂・佐伯豊石(とよいは)・豊国秋山(あきやま)・紀乎(を)麻呂・囎唹君多理志佐(たりしさ)・藤原綱手(つなて)・多胡古(こ)麻呂・阿倍朝臣黒(くろ)麻呂・藤原菅成(すがなり)

 天平12年9月24日条は、大将軍の報告として豊前国京都郡鎮長大宰史生小長谷常人(つねひと)と企救郡板櫃鎮小長凡河内田道(たみち)を殺したが、大長三田塩籠(しほこ)は逃げられた、京都郡以北の営兵1767人を捕虜とした、21日には長門国豊浦郡少領額田部広(ひろ)麻呂に関門海峡を渡らせ、22日には勅使を渡らせて板櫃宮の鎮撫をおこなわせることとしたとします。

 翌25日条大将軍の報告として、豊前国京都郡大領若田勢(せ)麻呂、仲津郡擬少領膳東人(あづまひと)、下毛郡擬少領勇山伎美(きみ)麻呂、築城郡擬領佐伯豊石(とよいは)が兵を率いて帰順した、また豊前国百姓豊国秋山(あきやま)は逃げた三田塩籠を殺し、上毛郡擬大領紀乎(を)麻呂等3人は共に賊の首4級を斬つたとします。

 同10月9日条は大将軍の報告として、板櫃河の東西に両軍が布陣して戦い、広嗣軍は撤退した、降伏した隼人囎唹君多理志佐(たりしさ)によれば豊後道から合流予定の藤原綱手(つなて)、田河道から合流予定の多胡古(こ)麻呂は到着しなかったとします。

 同月29日の大将軍の報告は、23日に阿倍朝臣黒(くろ)麻呂が広嗣を値嘉島で捕らえたとし、朝廷は法に照らして処断して報告せよと命じます。

 同11月5日条は、大将軍の報告として、今月1日に広嗣とその弟綱手を斬ったとし、菅成(すがなり。綱手の子の菅継の幼名かとする説があります)ほか従者は太宰府に監禁したとします。

 この「たみち」、「しほこ」、「ひろ」、「せ」、「あづまひと」、「きみ」、「とよいは」、「あきやま」、「を」、「たりしさ」、「つなて」、「こ」、「くろ」、「すがなり」は、

  「タ・ミチ」、TA-MITI(ta=the...of,dash,beat,lay;miti=lick,undertow of surf)、「(号令で咽喉を涸らして)唇を嘗めながら・突進する(小長)」

  「チホコ」、TIHOKO(stretch out)、「(追っ手の手の届く範囲を越えた)逃げ延びた(大長)」

  「ヒロウ」、HIROU(rake,net for dredging shellfish)、「(底引き網を曳くように)賊軍の残党を根こそぎに掃討する(少領)」

  「タイ」、TAI(the sea,tide,wave,anger,violence)、「凶暴な(大領)」(AI音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

  「アツ・マハ・ピト」、ATU-MAHA-PITO(atu=to indicate a direction or motion towards,to indicate reciprocated action;maha=satisfied,depressed,resigned,many;pito=end,extremity,at first)、「最後に・遂に・意気消沈した(連)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「キミ」、KIMI(seek,look for)、「(逃げ場を)探していた(少領)」

  「トイ・アウ・イ・ワ」、TOI-AU-I-WHA(toi=move quickly,encourage,incite;au=sea,rapid,whirlpool,firm,certainly;i=past tense,beside;wha=be disclosed,get abroad)、「つむじ風のように・駆け抜けたことを・世に明らかに・した(擬領)」(「トイ」の語尾のI音と「アウ」のAU音が変化したO音と連結して「トヨ」となった)

  「アキ・イア・マハ」、AKI-IA-MAHA(aki=dash,beat,abut on;ia=indeed,current;maha=satisfied,depressed,many,abundance)、「実に・突進して(三田塩籠を殺して)・満足した(百姓)」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)

  「アウ」、AU(sea,rapid,whirlpool,firm,certainly)、「(つむじ風のように)敏速に行動した(大領)」(AU音がO音に変化して「オ」となった)

  「タリ・チタハ」、TARI-TITAHA(tari=carry,bring,urge,incite;titaha=lean to one side,decline as the sun,pass on one side,turning to one side)、「一方(広嗣軍)の側に附くことを・強制された(君)」(「チタハ」のH音が脱落して「チタ」から「シサ」となった)

  「ツ(ン)ガ・アテ」、TUNGA-ATE(tunga=a grub found in decayed wood,eacayed tooth,rotten,wound;ate=liver,the seat of affection,heart,spirit)、「傷ついた・精神(の持ち主。朝臣)」(「ツ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ツナ」となり、その語尾のA音と「アテ」の語頭のA音が連結して「ツナテ」となった)

  「カウ」、KAU(swim,wade)、「あちこちと(寄り道しながら行軍する。将軍)」

  「クロ」、KULO((Hawaii)to wait a long time)、「(広嗣を捕らえようと)長い間手ぐすね引いていた(朝臣)」

  「ツ(ン)ガ・(ン)ガリ」、TUNGA-NGARI(tunga=a grub found in decayed wood,eacayed tooth,rotten,wound;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「傷ついた・(広嗣等の決起に難色を示した)邪魔をした(従者)」(「ツ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ツガ」から「スガ」と、「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

の転訛と解します。(「小長谷常人(つねひと)」については前出245H21佐伯宿禰常人(つねひと)の項を参照してください。)

 

245H23橘(たちばな)宿禰諸兄(もろえ)

 天平12年12月6日条は、右大臣橘宿禰諸兄(もろえ)が天皇に先行して遷都を準備するため、山背国相楽郡恭仁(くに)郷を整備したとし、同15日条は天皇が245B1恭仁宮に行幸して、そこを都としたとします。

 この「たちばな」、「もろえ」は、

  「タ・チパ・ナ」、TA-TIPA-NA(ta=the...of,dash,beat,lay;tipa=dried up,turn aside,escape;na=satisfied,breathe,belonging to)、「(危険を知って朝廷から)身を・逃げ出して・安心した(人=諸兄。その一族)」(天平宝字元年6月条の諸兄の子の橘奈良麻呂の乱の前段に、去る天平勝宝7歳11月の聖武天皇の病気の際に諸兄が酒を飲んで無礼(反乱)の言があつたことを聞きながら天皇は咎めようとしなかったことを後で知った諸兄が同8歳2月に致仕したとあります。)

  「モロ・エ」、MOLO-E((Hawaii)molo=to turn,twist,to interweave,to tie securely;e=to denote action in progress or temporary condition,by)、「(藤原四卿が急逝し藤原仲麻呂が台頭するまでの)一時期において・(聖武天皇に)密着していた(宿禰)」

の転訛と解します。

 

245H24塩屋連吉(きち)麻呂・大養徳宿禰小東人(をあづまひと)

 天平13年正月条は、245H21藤原広嗣に加担して捕らわれた者で死罪に処せられたものは26人、没官は5人、流罪は47人、徒罪は32人、杖罪は177人で、245H13中臣朝臣名代(なしろ)、塩屋連吉(きち)麻呂、大養徳宿禰小東人(をあづまひと)等34人を太宰府に派遣して裁判を行わせたとします。

 この「きち」、「をあづまひと」は、

  「キヒ・チ」、KIHI-TI(kihi=cut off,destroy completely,strip of branches etc.;ti=throw,cast,overcome)、「(首を)斬る(判決を)・言い渡した(連)」

  「アウ・アツ・マハ・ピト」、AU-ATU-MAHA-PITO(au=firm,intense;atu=to indicate a direction or motion towards,to indicate reciprocated action;maha=satisfied,depressed,resigned,many;pito=end,extremity,at first)、「集中して(裁判を行って)・最後に・遂に・満足した(連)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」と、「マハ」のH音が脱落して「マ」と、「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

の転訛と解します。

 

245H25巨勢朝臣奈弖(なで)麻呂・民忌寸大楫(おほかぢ)

 天平13年4月条は、巨勢朝臣奈弖(なで)麻呂、244H2藤原朝臣仲(なか)麻呂、民忌寸大楫(おほかぢ)、245H11陽侯史真身(まみ)等を派遣して河内国と摂津国との係争がある河堤を検査したとします。

 この「なで」、「おほかぢ」は、

  「ナ・アテ」、NA-ATE(na=satisfied,belonging to,indicating parentage or descent;ate=liver,the seat of affection,heart,spirit)、「満足している(優しい)・精神(の持主。朝臣)」(「ナ」のA音と「アテ」の語頭のA音が連結して「ナテ」から「ナデ」となった)

  「オホ・カチ」、OHO-KATI(oho=spring up,wake up,arise;kati=leave off,block up,closed of a passage,barrier,bite)、「噛み付かれて(異議を申し立てられて)・びっくりして跳び上がった(忌寸)」

の転訛と解します。

 

245H26河俣連人(ひと)麻呂・礪波臣志留志(しるし)・物部連族子嶋(こしま)・田可臣眞束(まつか)・大友国(くに)麻呂・漆部伊波(いは)・石上部君諸弟(もろと)・生江臣安久多(あくた)・凡直鎌足(かまたり)

 天平19年9月条は、東大寺廬舎那仏へ智識(財物や労力)を献じた河内国の人河俣連人(ひと)麻呂、越中国の人礪波臣志留志(しるし)に位階を授けたとします。この礪波臣志留志は、このとき外従五位下となり、後神護景雲元年3月越中員外介、また東大寺に墾田百町を献じた功により従五位上に昇叙、以後越中の東大寺田の維持検校にあたり、宝亀10年2月伊賀守に任じられています。

 また、翌20年2月条は、(東大寺廬舎那仏へ)智識を献じた物部連族子嶋(こしま)、田可臣眞束(まつか)、大友国(くに)麻呂、漆部伊波(いは)に位階を授けたとします。

 さらに、天平勝宝元年5月条は、上野国碓氷郡の人石上部君諸弟(もろと)、尾張国山田郡の人生江臣安久多(あくた)、伊豫国宇和郡の人凡直鎌足(かまたり)等がそれぞれの国の国分寺に知識を献上したので位階を授けたとします。

 この「ひと」、「しるし」、「こしま」、「まつか」、「くに」、「いは」、「もろと」、「あくた」、「かまたり」は、

  「ピト」、PITO(end,extremity,at first)、「最初に(東大寺廬舎那仏へ智識を献じた。連)」

  「チ・ルヒ(チ・ルシ)」、TI-LUHI(ti=throw,cast;(Hawaii)luhi=(PPN)lusi=weary,laborious,a person tended and raised with devoted care)、「(東大寺領荘園の管理に)心血を・注いだ(大きな貢献を・した。臣)」(「ルシ」の語尾のS音がハワイ語ではH音に変化して「ルヒ」となった)

  「コチ・マ」、KOTI-MA(koti=cut in two,divide,separate;ma=white,clear)、「(物部連から)分かれた(物部連族姓の)・清らかな(人)」

  「マ・ツカハ」、MA-TUKAHA(ma=white,clear;tukaha=strenuous,vigorous,headstrong,hasty,passionate)、「清らかで・(信仰に)熱心な(臣)」(「ツカハ」のH音が脱落して「ツカ」となった)

  「ク・ヌイ」、KU-NUI(ku=silent;nui=large,many)、「非常に・寡黙な(人)」

  「イ・ハ」、I-HA(i=past tense,beside;ha=breathe,taste,flavour,hesitate in speaking)、「(良い)評判に・なった(人)」

  「モロト」、MOROTO(sunken inward,sunk in)、「(仏教に)深く帰依した(君)」または「モロ・ト」、MOLO-TO((Hawaii)molo=to turn,twist,to interweave,to tie securely;to=drag)、「(仏教に)しっかりと結ばれて(信心して)・引っ張られた(のめり込む。君)」

  「アク・タ」、AKU-TA(aku=delay,scrape out,cleanse;ta=dash,beat,lay)、「清浄な・(場所に)居る(住む。臣)」

  「カマ・タリ」、KAMA-TARI(kama=eager;tari=carry,bring,urge,incite)、「熱心に・(国分寺へ知識を)運んだ(直)」

の転訛と解します。

 

245H27石川朝臣年足(としたり)・阿倍朝臣小嶋(こしま)・布勢朝臣宅主(やかぬし)

 天平19年11月条は、諸国の国分寺の造営を推進するため、石川朝臣年足(としたり)、阿倍朝臣小嶋(こしま)、布勢朝臣宅主(やかぬし)等を派遣して国司、郡司を督促させたとします。

 この「としたり」、「こしま」、「やかぬし」は、

  「トチ・タリ」、TOTI-TARI(toti=limp,halt;tari=carry,urge,incite)、「びっこを引く(国分寺の造営が遅延している)のを・急き立てた(督促した。朝臣)」

  「カウ・チマ」、KAU-TIMA(kau=wade,swim;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「(諸国を)渡り歩いて・(鍬で耕すように)丹念に督促した(朝臣)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

  「イ・アカ・ヌイ・チ」、I-AKA-NUI-TI(i=past tense,beside;aka=clean off,scrape away,driving force;nui=large,many;ti=throw,cast,overcome)、「多数の(国々を)・従わせて・綺麗に・した(国分寺を造らない国を無くした。朝臣)」

の転訛と解します。

 

245H28百済王敬福(きょうふく)

 天平勝宝元年4月条は、陸奥守百済王敬福(きょうふく)が黄金九百両を献上したとします(この陸奥国の産金により東大寺大仏の鍍金が可能となり、天平21年を改めて天平感宝元年と改元され、同年7月孝謙天皇即位により再び天平勝宝と改元されました)。

 この「きょうふく」は、

  「キオ・プク」、KIO-PUKU((Hawaii)kio=projection,protuberance;puku=swelling,abdomen,seat of passion,secretly,as an intensive)、「非常に・傑出した(王)」(「プク」のP音がF音を経てH音に変化して「フク」となった)

の転訛と解します。

 

245H29佐伯宿禰全成(またなり)・大野朝臣横刀(たち)・余足人(よのたるひと)・丈部大(おほ)麻呂・朱牟須売(しゅのむすめ)・丸子連宮(みや)麻呂・戸浄山(じゃうせん)・日下部深淵(ふかふち)

 天平勝宝元年閏5月条は、陸奥国の産金に功労があった国介佐伯宿禰全成(またなり)、鎮守判官大野朝臣横刀(たち)、大掾余足人(よのたるひと)、金を発見した上総国の人丈部大(おほ)麻呂、左京の人朱牟須売(しゅのむすめ)、私度の沙弥小田郡の人丸子連宮(みや)麻呂、金を精錬した左京の人戸浄山(じゃうせん)、金を産出した山の神主日下部深淵(ふかふち)に官位を授けたとします。

 この「またなり」、「たち」、「よのたるひと」、「おほ」、「しゅのむすめ」、「みや」、「じゃうせん」、「ふかふち」は、

  「マタ・(ン)ガリ」、MATA-NGARI(mata=heap,deep swamp,just,face,eye,edge;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、「多少の(かなりの)・力を持っている(宿禰)」(「(ン)ガリ」のNG音がN音に変化して「ナリ」となった)

  「タハ・アチ」、TAHA-ATI(taha=side,edge,pass on one side;ati=descendant,clan)、「(側を通る)見回りをする・役目の(朝臣)」(「タハ」のH音が脱落し、その語尾のA音と「アチ」の語頭のA音が連結して「タアチ」から「タチ」となった)

  「イオ・ノ・タル・ピト」、IO-NO-TARU-PITO(io=muscle,line,spur,lock of hair,tough;no=of;taru=shake,overcome,painful,thing;pito=end,extremity,at first)、「強固な(精神)・の・苦労した・一番の(大掾)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)

  「オホ」、OHO(start up,awake,arise)、「(金を発見して)びっくりして飛び上がった(人)」

  「チウ・ノ・ムツ・メ」、TIU-NO-MUTU-ME(tiu=soar,wander,swing;no=of;mutu=brought to an end,completed;me=if,as if like)、「諸国放浪・の・(旅が)終わった・ような(人)」

  「ミヒ・イア」、MIHI-IA(mihi=greet,admire;ia=indeed,current)、「まことに・尊敬すべき(私度僧)」

  「チホウ・テナ」、TIHOU-TENA(tihou=an implement for cultivating;tena=encourage,urge forward)、「鍬(鶴嘴)で・掘り進んだ(人)」

  「プカ・フチ」、PUKA-HUTI(puka=eager,jealous,impatient;huti=hoist,fish(v.))、「熱心に・(掘った金鉱を)引き揚げた(神主)」(「プカ」のP音がF音を経てH音に変化して「フカ」となった)

の転訛と解します。

 

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<修正経緯>

1 平成17年8月1日

 242G檜隈安古山陵の解釈を修正し、245H22の項の見出しに藤原菅成の名が欠落していたのを補充しました。

2 平成18年4月1日

 243B2平城宮の項の寧楽(なら)の解釈を一部修正しました。 

3 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

4 平成19年7月1日

 242A文武天皇、243A元明天皇、244A元正天皇の項の一部(ヤマトネコの解釈)を修正しました。

5 平成19年10月15日

 245H26礪波臣志留志の解釈を修正しました。

6 平成20年5月1日

 242H1役君小角の項に韓国連の解釈を追加しました。

7 平成26年4月1日

 243H2柿本朝臣佐留・柿本朝臣人麻呂の項を修正し、注に人麻呂の官人履歴の推定を記載しました。

[おことわり] 次回(平成15年12月1日)は、<古典篇(その十六)古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名(その十)>とし、できれば孝謙天皇から桓武天皇(延暦10年12月条)までを解説し、『続日本紀』を終えるとともに、これ以降は朝廷の内外ともに急速に漢風化し、正史から縄文語が姿を消して行きますので、これで「古代天皇の諡号・宮都・父母兄弟・后妃・皇子名」シリーズを終わりたいと考えています。

 なお、桓武天皇以降についても、仁明天皇まで(正史に記録されているのは淳和天皇まで)断続的に国風諡号が記録されていますので、この国風諡号のみ<古典篇(その十六)>の末尾に附記するか、または「古代天皇国風諡号一覧表」の形で別篇とするかを検討中です。

  

古典篇(その十五)終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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