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リレー提言-1 フォルクローレの真の市民権の確立のために
いまこそ望まれる"おみやげフォルクローレ"からの脱却    竹村 淳

 日本でのフォルクローレに対する関心や人気は相変わらず根強いものがあるが、かなり前から人気のあったヨーロッパでは飽きられつつあるという。
 たしかにヨーロッパにおけるフォルクローレ浸透の歴史は長い。巨人アタウアルパ・ユパンキが初めてパリに渡ったのは1948年のことで、4年間も滞在したが、その間にエディット・ピアフのサポートを受けてリサイタルもおこなった。ぼくが初めてフォルクローレなる音楽に接したのは、まだ高校生だった1955年か56年のことで、フランス映画『わが青春のマリアンヌ』を奈良で観たとき、アルゼンチンからやってきた純朴な青年が画面に現れるシーンに、ユパンキの自作自演で「夜は明けそめる」が流れ、その未知の音楽にぼくはたちまち魅せられてしまった。大学に入って東京で生活するようになり、初めて求めたレコードがユパンキの「牛車に揺られて」が入ったドーナツ盤だったのも、映画で彼を知っていたからだと思う。
 その後、ぼくの音楽嗜好は変化し、フォルクローレとは疎遠になっていたが、またどっぷりの状態に戻ったのは1973年2月にNHKテレビでいまは亡きアルゼンチンのおしどりデュエット、クリスティーナとウーゴの演唱にふれたときだった。その番組の影響で、70年代は日本に爆発的なフォルクローレ・ブームが訪れ、いまでは信じられないほど多量のレコードがリリースされ、それらを手に入れて聴いてはまた深みにはまっていった。
 いっぽうヨーロッパでは、ユパンキの後を受けて、若き日のエルネスト・カブールらがヨーロッパで展開したロス・ハイラスの活動に刺激され、在欧の南米人ミュージシャンたちがロス・インカスを結成して活動。彼らの演唱をたまたま聴いてポール・サイモンがほれこみ、サイモンとガーファンクルで「コンドルは飛んでいく」を録音して世界的にヒットさせたことは有名な話である。
 だが、そのあたりから後の大問題の芽がふくらみ始める。フォルクローレは本来それぞれの風土のなかで生まれ、育まれ、その地域の人びととの深い絆に結ばれて成立していた音楽である。それを演唱してメシのタネにするという発想はまるでなく、神に収穫を祈願したり感謝するためやカーニバルの祭事として演唱され、また彼ら自身のふだんの楽しみとして奏でられたはずである。ところが、旧大陸で未知の音楽への関心が高まるにつれ、そうしたバックグラウンドとは関係なく、なにがしかの金品目当てにフォルクローレないしはフォルクローレもどきの音楽を演唱する連中が現れてきたのだ。
 むろん特定地域の音楽文化を他国の人に紹介する、まともな興行もあったろう。だが、その一方で適当な民族の民俗衣装を身にまとい、ケーナやサンポーニャ、それにチャランゴといった旧大陸人には目新しく異国情緒満点の楽器を駆使して、しかるべき伝承曲やそれらしき楽曲を奏でてみせてメシ代を稼ぐ手合いがバッコしてくる。ブラジルには観光客相手にサンバなどを唄って踊って見せる安っぽい民俗音楽ショーが多いが、そんな“おみやげサンバ”のフォルクローレ版である“おみやげフォルクローレ”のグループがお客におもねりながらフォルクローレの定番曲を演唱して聞かせるわけである。日本でも駅前でそんな連中を見かけるが、概して音楽的には低レベル、所詮は見せ物の域をでないのが大半である。ヨーロッパでは、そうした“おみやげフォルクローレ”が飽きられ始めたわけで、当然といえば当然のことである。しかし、まともなグループのフォルクローレ公演にも人が集まらなくなり、アルバムの売れ行きも以前ほどかんばしくない状態になってきたのは大問題である。日本人は同じモンゴロイドの血を引くせいか、この国でのフォルクローレ熱はまだまだ高いが、いまヨーロッパで起こっている事態は他人事ではない。外見ではなく、どうにかしてクラシックやジャズのように音楽そのもので感動をよび、ジャンルとしてフォルクローレの真の市民権を確立することが日本のフォルクロリスタや関係者の急務だと声を大にして言いたいのだが、どうだろうか。


リレー提言-2
ファンに感銘を与える「新しい音楽」への模索    エルネスト河本
“フォルクローレ”という音楽がジャズやクラシックのようなひとつのジャンルとして市民権を得るにはどうしたら良いのか?我々フォルクローレ演奏家としても、とても難しい課題である。日本におけるフォルクローレの歴史を語るうえで、前回竹村氏が書いていた1970年代の第一次ブームが重要なポイントとなっている。「コンドルは飛んで行く」のヒットがきっかけとなり、各社から日本盤のアルバムが数多くリリースされ、アルゼンチンを中心にアーティストたちも、次々と来日し、コンサートも盛況だった。
 それが今ではどうだろうか?新しいCDの発売はほんの少しで、ファンの望んでいるようなアルバムは輸入品に頼らなければならない。トップ・アーティストたちが来日してもチケットを売るのは大変な苦労であるとはいえフォルクローレ・ファンが減ったのではない。逆に増えているのだ。にもかかわらず観客を動員できない。残念なことである。
 フォルクローレが一音楽ジャンルとして定着しにくい理由のひとつに「民族音楽」という枠の中だけで認識されているという問題がある。たしかにフォルクローレには、土着のものもあれば、古い歴史の中から生まれてきたものもあり、民族音楽として定義付けることができる。けれども、はたしてアンデスの先住民たちがケーナやチャランゴを使って、美しいアンサンブルを演奏できるのかとなると、答えはノーである。特にボリビアでは、土着のフォルクローレはムシカ・アウトクトナとしてはっきり区別されていて、専門のプロ集団も存在するが、もともと日本でいえば「〜〜囃子保存会」のようなもので、コンサート会場で聴く音楽ではない。これらは宗教的な背景もあり、かなりマニアックなもので市民権を得るには色が濃すぎる。チャランゴのマエストロ、エルネスト・カブールが提唱したネオ・フォルクローレは、ケーナ、チャランゴの音楽、すなわちフォルクローレであって、やはり民族音楽以外のものではない。最近では、これらの楽器を使ったフュージョン・バンドなども誕生している。しかし部分的にはおもしろいものもあるが、まだ中途半端で完成度に欠けている。
 また、別の観点から見てみると、外国人に弱い日本人という問題もある。前回竹村氏が書いていた“駅前フォルクローレ”が良い例で、日本人の多くは、ポンチョを着たペルー人がボリビア音楽を演奏しても(ペルー人がペルーの音楽をではないのだ!)本物だと信じてしまう。彼らにとっては、日本人である我々が、いくら良いボリビア音楽を演奏してもニセものなのである。これこそまさに竹村氏のいう“おみやげフォルクローレ”が増える要因になっているわけだ。真の音楽ファンは、日本人の演奏でもちゃんと入場料を払って聴きにきてくれて、どの国の演奏家であろうと自分の感性で善し悪しや好みを判断してくれる。このようなファンを増やしていくことが大切だと痛感する。
 我々をふくめ、日本で活躍するフォルクローレのアーティストは「民族色」で好まれるのではなく、それぞれの楽器の音色を充分に生かして「新しい音楽」を作り出すことが必要とされるのではないだろうか?
 だが、そのためには国内で活躍するプロのアーティストの数が少なすぎる。ジャズにしろ何にしろ、ジャンルとして市民権を得ている音楽界には、日本人のプロ・アーティストもたくさん存在し、様ざまなタイプの演奏家がしのぎをけずっている。フォルクローレ界の現状としては、数少ない我々が頑張って、良い音楽を紹介し、後に続くアーティストが育っていけるようにしていく以外に方法はないのかもしれない。
 私自身の演奏としては、「新しい音楽」への糸口がまだはっきりと見つかってはいない。しかし、ケーナという笛をひとつの「ソロ楽器」として、人に感銘を与えるような音楽ができれば、その第一歩になるのではないかと考えている。何のジャンルかわからない音楽になるよりは、私自身が感銘を受けたようなボリビアの味わいを大切にした音楽を表現していくことが、日本のファンに感銘を与えることにつながると信じている。

リレー提言-3
 
“演奏家の自覚と責任”                    木下 尊惇
 私はフォルクローレが音楽として世の中に認知されるためには、フォルクローレ演奏家の自覚がまず第一だと考えます。プロ、アマ問わず、また上手い下手関係なく、人前で演奏すると言うことは、ただそれだけで、つねにある種の責任を負っているのだという自覚が必要だと思うのです
 1960年代アンデスの民族楽器を中心としたアンサンブル“アンデス音楽フォルクローレ”は、単なる娯楽音楽としてではなく、アンデスの音楽を旧大陸に紹介するという大義名分を背負って、大西洋を渡ってゆきました。民族文化の紹介というコンセプトによって再編成された、新しいタイプの音楽ユニットだったのです。それがかの地ヨーロッパで大ヒット。その熱風はサイモンとガーファンクルの「コンドルは飛んで行く」という副産物などを生みながら、南米大陸へと凱旋帰国。そして“アンデス音楽フォルクローレ”は一音楽ジャンルとしての地位を手に入れたのです。
70年代から80年代にかけて、ボリビアはまさにアンデス・フォルクローレのメッカでした。数多くのフォルクローレ・コンフントが独自の音楽スタイルを模索して、それぞれの特徴をぶつけ合っていました。そしてその中のいくつかは欧米諸国に渡り、日本に上陸し、さらに多様化したアンデス・フォルクローレを世界中に紹介し続けたのです。文化を紹介するという観点から見れば、フォルクローレは世界的に成功した音楽でしょう。しかし、大切なことを置き忘れてきてしまったような気がしてならないのです。フォルクローレが音楽であるということ・・・ フォルクローレが文化を紹介する媒体に徹して来たために、フォルクローレ自身が音楽であるということを、多くのフォルクローレの演奏家たちが忘れてしまっていたのではないでしょうか?もちろんそれは、既成のフォルクローレに音楽的価値がないなどと言うものでは、決してありません。フォルクローレには、他のどのジャンルの音楽に優るとも劣らない、素晴らしい音楽性があるのです。その上フォルクローレには、民族性という大きな魅力が味方をしています。
 民族的にも地理的にも複雑なボリビアでは、各地民俗芸能の特色を取り上げるだけでも、そのバリエーションはほとんど無尽蔵です。各地で使われる数々の民族楽器はエキゾチックで、その音色も個性的かつ魅力的。メロディーラインはちょっと哀愁を帯びて、そのリズムは複雑そうにみえて、実はノリやすい・・・。これらの要素は、文化を紹介するという立場にある音楽使節的フォルクローレと非常に相性が良く、これまでに、実に多くの民俗芸能がフォルクローレとして舞台の上で消化されてきました。
 またポピュラー音楽としてのフォルクローレも、そのマーケットがボリビア国内で大きく見直され、数々のスターを生み出し、レコード各社も売れる演奏家を求めてそのアンテナを張り巡らすようになりました。売れることを最大の関心事にしたプレーヤー達も時代の流れに敏感になり、表面的スタイルを変化させながら流行を乗り切ってきたのです。
 文化の紹介と売れる音楽・・・ この相反するようなふたつのコンセプトが上手い具合に相乗して、アンデス・フォルクローレというジャンルは、現在の骨格を形成してきたように思われます。民族衣装を身にまとい、民族楽器で「コンドルは飛んで行く」を演奏する音楽・・・ という認識は、良くも悪くも、40年もの年月をかけて演奏家たち自身が築き上げてきたものだと、私は理解しています。
そこで私は提案したいのです。フォルクローレの原点に立ち返り、そしてこれからのフォルクローレ音楽が担うべき役割を、音楽を提供する側が真剣に考えることを。スタイルだとか、メロディーだとか、そんな表出的なことではなく、舞台芸術としてのフォルクローレを根本から見直す必要性を感じるのです。そこから新たなコンセプトが生まれ形となれば、フォルクローレへの音楽的評価は自然について来るものだと信じます。
 今こそ「フォルクローレ」とは何かを、演奏家たちが自覚と責任を持って考え、それを真剣に実践してゆくことが、フォルクローレを未来に繋ぐ方法、と私は考えます。


注)実際にフォルクローレという言葉はとても幅広い意味で使われていますが、ここでは舞台にのせ るパフォーマンスという意味に限定して使わせていただきました。


 
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