春ある国に生まれ来て-10》
ことことと鍋が踊る音を、ゾロはぼんやりと聞いていた。久しぶりに使われた台所は、湯気やガスの火でほんのり温かくなっている。
スーパーで「何が食べたいか」と訊かれたから、少し考えて「ブロッコリーのきんぴら」と答えたら、サンジは変な顔をした。
できないならいい、と言うと「できるけど……変わったリクエスト」だと笑った。
和食が好きなのか、に始まって、肉と魚はどっちが好きか、焼いたのと煮付けたのではどっちが好きか、味は薄口がいいのか濃口がいいのか、嫌いなものはあるか、アレルギーは、米はあるのか、家に残ってる調味料は、と山のような質問が降ってきた。
その一方で、カートにどんどんと品物を放り込んでいく。
レジの前に並んだ頃には、一食分とは思えない量の買い物になった。
酒コーナーの前で、ビールを買おうとするゾロと「怪我人のくせに」と止めるサンジの間でちょっとしたいざこざがあり、さらにレジではどっちが支払うかでしばしもめ、レジの後ろでもワリカンにするのしないので言い合いをした。
結局、ビールは一本、支払いはワリカン、というのを妥協点にして、二つづつのポリ袋を両手にぶらさげて帰ってきた。

しばらく休業状態だったらしい台所は、閑散としていたけれども、その分綺麗に片づけられている。
台所の隅に、初心者向けの料理の本が何冊か差してあって、表紙やページの隅に、油や調味料の跡がついていた。
手に取るだけで開くページは、二人の好みのメニューが載っているのだろう。
買ってきた品物を冷蔵庫にしまっていたゾロが、気づいてぱっと顔を赤らめた。
「り……料理、あんましたことなくて……何回やっても分量とか、ちゃんと覚えられねェんだ。難しいのはできねェし……」
「ずっとお前が作ってたの?」
一生懸命料理をしている姿が自然に浮かんできて、微笑みそうになる。
「魚さばくのはミホークが上手かったから、任せてたけど……あいつが作ると、何か知らねェけど、すっごく時間がかかんだよ。朝飯の後から作りはじめて、でき上がったらもう夕飯前だったりとか」
──一体、どんな料理を作るのだろうか。メニューを訊いてみたい気もするが、「野菜炒め」などと聞かされたら目まいがしそうなので、深く追及するのはやめておいた。
調理器具や調味料の大体の位置を教えてもらって、準備にとりかかる。
手伝いを申し出ようかどうしようかと迷ってる風のゾロに、先回りして「休んでな」と伝えた。
コーヒーまで出されては、どっちが客だかわからない。

サンジの手際はそれはそれは鮮やかで、プロなのだから当たり前なのかもしれないが、ともかくゾロの出る幕は確かにないように思われた。
何かの音楽に沿っているかのような動きをぼんやり見つめながら、コーヒーを手に取る。柔らかな湯気と香気がゾロのあごをくすぐった。
中身は安物の豆なのに、温められたカップに入ると香りさえ違う気がする。
それとも、と、ゾロは少しばかり戸惑いながら考えた。違うのは自分の気持ちの方なのだろうか。
誰かが──サンジが側にいる時間は思いがけず温かく、何を今さらと思う理性とは裏腹に、ゾロはこの時間が少しでも長く続くことをひっそりと願っていた。

実を言えば、それはサンジも同じことで。
忙しなく手を動かしながらも、「いつ帰るんだ」と問われることを、内心で恐れていた。そう言われれば、「これが終わったら」とでも答えるより他はなく、そのことに怯えて料理の手順が無駄に丁寧になっている自分に笑い出しそうだ。
このまま、有耶無耶になって、帰れなくなってしまえばいいのに、とサンジは半ば真剣に思った。
友達でなくてもいい。
例えば、今日街で知り合ったばかりの相手だったとしても、今の二人の関係よりは100倍親しくする理由があるだろう。
父親の恋人だった男の怪我を心配し、飯を食わせ、それでも足りずにもっと側ににいたいと願う理由など、どんな無理を重ねても建前にすらならない。
いっそ、帰れと言われるより先に、自分で言ってしまおうかと半ば決心して、サンジは帰りの交通手段を問うべく、口を開きかけた。

「──あのさ、例えばさ……」
仮定の話だと前置きするあたりが我ながら未練がましい。
だが、何を考えていたのか、上の空だったらしいゾロは、サンジに声をかけられた拍子に、持っていたカップを取り落とした。
「あ……っ」
「おい……っ」
サンジが目をむく。
まだ充分温かいコーヒーが入ったままのそれは、重力に従ってゾロのひざ元へ落ちた。
「つっ」
「大丈夫か!?」
「……悪い、コーヒー……」
「そんなのいいから!それより火傷してねェ?」
「ああ、そんな熱くねェから」
少しじんとするが、火傷をするような温度ではなかった。
「こっちはやっとくから、着替えてこいよ」
テーブルふきんを手にそういうサンジと、すっかり茶色に染まってしまったジーンズを見比べて、ゾロはため息をつきつつ立ち上がった。
「悪い、頼む」
家の奥へと消えた背中は、初めに感じたよりも随分と小さく見えた。

「こんにちはー」

床の汚れをせっせとキッチンペーパーでぬぐっていたら(ぞうきんが見当たらなかったので)、玄関の方から元気な声が聞こえた。
聞き覚えのある声だ。
「くいなちゃん?」
顔を出したのがサンジなので、くいなは驚いたようだ。手に、小さな風呂敷で包んだ皿らしきものを抱えていた。
「……サンジさん。あれ?先生は?」
「あー、今着替えてる。コーヒーこぼしちゃって」
「そうなの?ゾロ先生って、ときどきそういうことするんだよね」
そう言った口調は、この年ごろの少女らしく、少しばかり大人ぶっている。
「そうなんだ。そんな風には見えないけど」
「うん、そうなの。剣を持ってるときは、もう怖いくらいなんだけど、普段はね、ときどきぽやっとしてるのよ。いつも通る道でも間違えて変なとこ歩いてたりするの」
「本当?それは知らなかったなー」
サンジが笑ったので、くいなも気が楽になったようだ。
あのね、と手にした皿を差し出した。
「これ、草もちなの。ママ……うちの母が作ったんだけど、ゾロ先生、草もち好きだから、おすそ分けです」
風呂敷をとると、白い皿の上に山とつまれた草もちが出てきた。緑のままと、黄な粉の衣で黄色くそまったもちが皿を二分している。中にはいった餡も手作りだよと、くいなが言った。
「わあ、作りたて?すごいね」
あざやかな緑色のもちから、よもぎの香りがする。よもぎもこの辺でとれたのかと問えば、川べりにいくらでも生えているのだとくいなは答えた。
「男の人二人分だから、って母がどんどんつみあげちゃって……。あの、サンジさんは草もち大丈夫ですか」
「うん、大丈夫。甘いもの好きなんだ。ありがとう」
それから、ふと思いついて訊ねてみた。
「……あのひとも好きだったのかな。この間亡くなった……」
「おじさん?うん、好きだったよ。黄な粉のが好きでね、いつもおひげが黄色くなっちゃうの」
それがおかしいと子供たちが笑えば、ミホークは至極真剣な顔でそうか、と答え、子供たちの指し示すままにティッシュでヒゲの先をぬぐい取っていた。
いつもいかつい顔をしていたから最初は怖かったけれど、別に怒っているというわけではなくて、ゾロを訪ねて遊びに行けば、2回に1回くらいは顔を出して、みんなが騒ぐ様子を見ていたという。
それは自分の知らない父の姿で、少しばかり意外な感じを受けながら、サンジはくいなの話を聞いていた。
一度道場に来たこともあって、そのときのコウシロウや師範代の対応を見れば、『おじさん』もまた剣の道では名のあるひとなのだろうということは、簡単に推察できた。ただ、彼が剣を持つところは一度も見たことがなく、だんだん姿を見かけなくなって、入院したという話に驚いた矢先に亡くなったのだ、というようなことを、くいなは話してくれた。
「……あのね、サンジさん。訊いてもいいかな?」
「え?うん、何?」
くいなに何かを訊ねられる理由が思い当たらない。それでもサンジが承諾すると、くいなは手にした風呂敷をひっぱったり折りたたんだりしながらしばらくためらったあと、決心したように顔を上げた。
「あの……先生はサンジさんと一緒に行っちゃうの?」
「え?」
質問の意味がわからなくて、おうむ返しに問い返した。
「行っちゃう?」
「…………パパと先生が話してるの、聞いちゃったの。た、立ち聞きはいけないって思ったんだけど」
少し視線を落としたのは、その行為を恥じたからだろう。けれど、そのときの会話の内容は、彼女にとって聞き捨てならないものだった。
「おじさんが亡くなったし、ゾロ先生、このうちを処分してここから出て行くつもりだって」
「!」
サンジは軽く眉をあげた。あからさまな驚きを表さずにすんだのは、くいなの内心を思いやったからに過ぎない。
そんな話は聞いてない、と思う。もちろん、ゾロが話さなくてはいけない理由はないのだが、そんな大事なことを黙っていなくてもいいだろう、といささか理不尽な怒りさえ込めてサンジは思った。
「──ゾロがそう言ったの?」
「……うん、そうしようかと思ってる、って言ってた。パパは引き止めてたけど、でも、ゾロ先生が本気で決めたことなら、パパは反対したりしないんだ」
ゾロだけではなく、どんな小さな子供でも、相手が本気で決めたことに頭ごなしに反対するようなコウシロウではない。だから、くいなは心配でたまらないのだ。
「お願い、先生を連れていかないで。みんな、先生が大好きなの。もっと色んなことを教えてほしいの」
真摯な瞳で見つめられ、サンジは答えに窮した。
ゾロを動かすのは自分ではない。
もう、ここにはいない人間なのに。
「……大丈夫。誰もゾロを連れていったりしないよ」
「本当?」
くいなの表情がぱっと明るくなる。
「うん」
「約束してくれる?」
そういって差し出された小指の意味を、もちろんサンジは知っている。
普通に考えれば、ひどく無責任なことだったが、それは、逆にサンジにささやかな理由を与えた。
ゆびきりげんまん、と細い指を絡めてきた少女は、肩の荷が下りたという顔をして、風呂敷をポケットにつっこんだ。
一緒に夕ごはんをどう、と誘ったが、あのあと騒ぎが収まらなかった問題児軍団が、師範の家に押しかけたのだという。
「今も、みんな来たいっていうのを無理やり残してきたの。早く帰らなくちゃ」
本当にありがとう、先生によろしく、と飛びきり鮮やかな笑顔を残して、くいなは庭を駆けていった。
その小さな後姿が消えたのとほぼ同時に、いぶかしげなゾロの声がした。
「サンジ?そんなところで何してんだ?誰か来たのか?」
「ゾロ」
「……ああ、くいな?」
サンジが手にした皿を見て、ゾロは自分で答えを見つけたようだ。
なんだこれ、すげェ量、と屈託なく笑った。
「ゾロ」
「ん?」
「頼みがあるんだけど」
「………何だ?」
「今晩、ここに泊めてくれ」

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