春ある国に生まれ来て-8》
「──全く、本当にバカなガキだね」
さも呆れたという口調でそう行ったのは、白衣の恐ろしく似合わない、ファンキーな格好をした女医だった。
キッチュなミニTにヘソピ、紫のカラージーンズ、額にはとどめのサングラス、とまるで女子高生だ。
そして、その正体は、と言えば。
「……おばあちゃん」
「情けない面してるんじゃないよ、チョッパー」
──『チョッパーの祖母』だというのだから恐れ入る。
何が恐ろしいと言って、絶対に無理のあるそのファッションが、不思議にぴたりとハマっているところだろう。
泣きながら自分を呼びに来た孫をぴしゃりと叱っておいて、白衣に袖を通しながら出てきたくれはを見たとき、サンジは状況も忘れてぽかんと口を開けたものだった。
「今日は休診日だよ。アタシに時間外労働をさせるなんざ、いい度胸だよ。──ほら、手をどけな」
さっきから一言の反論もなく座っていた患者は、言われるままに顔を上げ、傷口を押さえた手を離した。
まだ止まりきらない紅い筋が、たらたらと細く左の頬を流れていく。
痛々しい様子に、サンジは顔を歪めた。
仕事柄、流血沙汰には縁が深いが、頭部の傷というのはインパクトが大きい。それに、傷口が目に近いのが気になっていた。
けれど、医者は何の感慨もないらしく、無造作に傷口に触れた。
「──ふん、何だ、まぶたを切っただけだね。眼球は無事、と。十兵衛になりそこなっちまったね、剣豪」
人の悪い笑顔を浮かべるくれはに、患者は──ゾロは、初めてイヤそうな声を出した。
「……それはジョークか?皮肉か?」
「皮肉に決まってるさね。目、閉じてなよ」
傷口を消毒する手つきには優しさは感じられなかったが、的確だった。
「何があったんだい?」
「……ちょっと手が滑った」
それは、一瞬のできごとだった。
それまで互角に打ちあっていたゾロと、師範代の剣先がぶれた。
理由はわからない。
ゾロが言うように、手が滑ったのかも知れない。
端で見ていたサンジには、ゾロが自分から切っ先に飛び込んだかに思えた。
師範代の持つ剣がゾロの顔面をかすめた、と思った次の瞬間に、ぱっと朱の華が散った。
風景も、人々も、全てがセピアがかった古い写真のような視界の中で、そこだけがインクを落としたように鮮やかだった。
子供たちは悲鳴を上げたが、師範を始め、大人たちはさすがに落ち着いたもので、すぐにチョッパーを伴って診療所へ向かうように告げた。
何のことはなく、チョッパーの祖母が主だという診療所は、道場の裏手にあった。

「どうせ怪我するのなら、いっそ本物の刃にしておきな。切り傷じゃない方が厄介だよ」
とても医者とは思えないセリフを吐いて、手早く傷を縫っていく。
「痛ェ」
「当たり前さ。痛くなくなるのはこれからだよ。言っとくけど、打撲もあるからね。明日からしばらくは、アイシャドウをつけて歩く羽目になるよ」
ぽんぽんと歯切れのいい祖母の言葉に、サンジと、半泣きだったチョッパーは顔を見合わせてくすりと笑った。
「チョッパー!ガーゼ!」
「はいっ!」
チョッパーはびくりと飛び上がると、ガーゼの入ったガラスの器を差し出した。
真っ白で清潔なガーゼは、傷口ごと、ゾロの左目をほとんど覆ってしまった。
「明後日、ガーゼの交換に来な。それまで取るんじゃないよ」
「これ、いらねェ。取ってくれ」
「イヤ何言ってんだ、おめェ!」
思わず絶妙のタイミングでツッコんでしまったサンジだったが、本人は何を言われたのかわからない、という表情で振り返った。
「何?」
「『何』、じゃねェよ。今、取るなって言われたとこだろうがよ」
「これじゃ運転できねェだろ」
「はあ!?」
(運転て!)
呑気すぎるゾロの言葉に、何言ってるんだ、と悲鳴のような声を上げる。
「運転なんかすんなよ!」
「だってお前を送ってかねェと」
真っすぐな、あどけないとすら言えそうな目を向けられて、サンジは絶句した。
この、男は。
一体、何を。
「お前、何言って……。そんな──そんなことはいいんだよ。そうだろ?だって……」
「そこの稲穂頭の言う通りだよ。医者の言うことが聞けない耳なら、今すぐそぎ落としてやろうか?ん?」
そう言いながら、くれははものすごく自然なしぐさでメスを取った。
(……目、目が笑ってねェし!)
稲穂頭、と呼ばれたことも気にならないほど、彼女の目が本気モードで怖い。
大体、メスというのはその辺りに転がっているものなのだろうか。
生まれつき頑健な性質で、病院なんて、ハシカかおたふく風邪の時くらいしか記憶にないけれど、診察室の机に常備されてるものではないような気がする。
「なあ、ゾロ、オレのことはどうにでもなるからさ、言うこと聞いとけよ。な」
とりなすようにそう言ったのは、ゾロに負担をかけたくない気持ち半分、早々にこの場を辞したい気持ち半分である。
サンジの隣では、チョッパーが一緒に青くなっている。
ゾロは、くれはとサンジの様子を交互に見やって、少し申し訳なさそうにうなずいた。
「悪ィ。……ども、お世話になりました」
のそりと頭を下げて、ゾロが立ち上がった。
「待ちな」
「あ?」
びくりと振り返ったのは、当人ではなく付添人たちの方で。
おどおどと自分を見上げるチョッパーを、くれはは手を振って部屋の外へ追いやった。
ぱたぱたと軽い足音が、ためらいがちに遠ざかるのを待って、医者はひどく怖い顔でゾロを見た。
「お前、今朝何を食べたか言ってみな」
「……何?」
「朝飯だよ。何を食べた?」
「…………今朝は、食ってねェ」
「じゃあ、昨日の夜は?昼は?」
たたみかけるように問われて、ゾロはきゅっと唇を結んだ。
答えたくない、と暗に主張する患者を、けれども医者は見逃してやるつもりはないらしかった。
「わかりやすく言ってやろうか。お前、最後に食事を摂ったのはいつなんだい?」
そんな薄い血の色をして、2日や3日は食べてないんだろう、と言われ、ゾロはしぶしぶと口を開いた。
「一昨日、の昼……」
「ここ2日だけじゃないね?ここのところ、ずっとそんなペースの食事を続けてたんだろう。そんなんじゃ、足下だってふらつくよ、この馬鹿」
馬鹿馬鹿、と容赦ない評価を下しながら、ゾロの眉間をぴしりと弾いた。
若作りの医者は視力の衰えもないらしく、見事に急所をクリティカルヒットだ。
「痛ェ……」
「似合いもしないことするんじゃないよ。後を追うつもりじゃないんだろう」
後を追う、という言葉にぎょっとする。
「お前……」
向けられたサンジの視線に、ゾロはバツが悪そうな顔をして、「違ェよ」と小声で答えた。
「──まだ、生活のペースが戻らねェんだ。なんか……いつ、何を食ったらいいのか、よくわかんねェ……」
さらされた右目だけが、ぽかりと開いて空を見ている。
まるで、自分の孤独を哀しむすべすらわからずに途方にくれる、幼い子供のように。
「ゾロ」
あの家は広すぎて、過去の気配に満ち過ぎている。
丁度、古くなって糖度の増した酒のように、ゆるゆるとゾロを侵食していく。

──それはきっと、甘美な誘惑なのだ。

その気持ちは、理解できると思う。
サンジとて、母親を亡くしたときに多少なりとも同じような感覚を味わった。
あの時は、自分にとって大切なひとの時間が止まったのに、己の時間が止まらないのがひどく不思議だったし、そうできないことが薄情な気さえした。
けれど、過去を生きるにはまだ自分たちの経た時間は少なく、身体は温かく、生命活動は正しく行われている。
どれほど打ちひしがれていようと、時間が来れば腹が減り、疲れれば眠り、そうやって少しずつ、普段の生活を取り戻していくのだ。
ゾロは、今、そのきっかけを見失っている。
あの、独りには広すぎる家で、ただボンヤリと時間を過ごすゾロを思うと、つきりと心臓が縮んだ。
筋張ったゾロの手首にそっと手を這わせてみる。
親指の腹に、規則正しい脈動が伝わって来て、そのことにわずかばかり安堵した。
「サンジ?」
おとなしく腕を預けながらも、ゾロが困ったようにサンジを呼んだ。
それには答えず、サンジは医師の方を振り返った。
「先生、オレが責任持ってこいつに食わせます」
は?、と間抜けな返事をしたのはゾロで、当のくれはは
「おや、そうかい。じゃ、頼んだよ」
とあっさりうなずいて、器具の片づけを始めた。
「行こう、ゾロ」
「え、でも、サンジ……」
展開についていけないゾロは、腕を引張られながら、サンジとくれはを見比べた。
「しっかり食わせてもらいな。──いいかい?ちゃんと食べて、ちゃんと寝るんだ。お前みたいなタイプは、まず身体が動かないと、頭だって動きゃしないんだからね」
フルで働いたって大したことないんだから、とトドメの一言をくれて、ファンキーな医者はとっとと二人を追いだした。

外へ出ると、初春の風が緩やかに流れていた。
汗をかいたままの身体では、それを心地良いと感じる余裕はない。
体熱を奪われて、ゾロはぶるりと震えた。
ただ、縫ったばかりの傷口と、サンジに捕まれた左腕だけがずきずきと熱い。
心臓と同じリズムを刻むそれは、少しずつ早くなっていくようで、ゾロは戸惑いを覚えずにはいられなかった。
堅い横顔を見せたまま、サンジはこちらを見ようともせず、そっと引き抜こうとした腕は、引き止めるように強く握られた。
「サンジ」
「……………」
「────サンジ」
手を、と呟いたゾロの声を、サンジは聞こえないふりでやり過ごした。

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