〈3〉
ハイ、スウィーティ、なんて甘ったるい声で呼びかけるのが似合うのは、たいがいが夜、それも週末だと思う。恋人同士がこれから甘い時間を過ごそう、というときにこそふさわしいのであって、いくら休日とは言え、よく晴れた日の午前八時には、あまりそぐっているとは言えない。クリスマスまで後二日、町中が赤と白、緑と金色に彩られて、クリスマスソングがそこかしこから聞こえてくるような朗らかさではなおさらだ。
……のはずなのだけれど。
話題の映画も、朝一番の回なら空いているから、と、早々に待ちあわせていた二人に向かってかけられた声は、まさしくそんな『夜用』の呼びかけだった。
振り向いたのは二人同時で、反応したのはジャレッドだ。ジェンセンにとっては見知らぬ顔だったから、何も言わずにその相手と恋人の顔とを見比べた。
ジャレッドは心底驚いているようで、くるんと目を見開いて、まじまじと相手の顔を確認している。
「ア……アレック? え、ウソ、ホントに?」
「ほんとだよ。何でそんな驚くんだ? 死んだと思ってたわけじゃないんだろ?」
「そんなことは思ってないよ。ただ、あんまり久しぶりだから。──何でここに?」
「たまたま。一晩中遊んでさあ帰ろうと思ったら、見覚えのあるでっかいヤツがいたから」
変わらないな、お前、相変わらずいい身体! と、アレックはけらけらと明るく笑いながら、ジャレッドの胸のあたりをばしばし叩いた。その馴れ馴れしい仕草に、ジェンセンの胸の裡がチリッと音をたてた。ただの友達には見えないと、そのときすでに気づいていたからかもしれない。ジャレッドは困った顔で曖昧な笑顔を浮かべている。誰、と気軽に訊くこともできなくて、ジェンセンはぽつんとそこに立っていた。
「アレック」
「たまには店に顔出せよ。チャドの奴は時々見かけるぜ」
「あ、うん、最近はあんまりああいうとこ行かなくなっちゃって」
「ははァ……やっぱ基本的に真面目ちゃんだよな、お前」
それから彼は、今ようやく隣に立つジェンセンに気が付いた、とばかりに目を向けた。
「h'm?」
頭の先から足の先までを辿った視線は、あからさまに彼を値踏みするものだったから、ジェンセンはすこしだけ眉をひそめた。礼儀、というものに、あまり重きをおかないタチであるらしい。年の頃は、ジェンセン自身と同じくらいか。しかし、ジェンセンよりもずっとラフな服装を見ると、もしかしてジャレッドと同じ年くらいなのかもしれない。大学の同級生とか。まだアルコールの抜けきっていない吐息は、彼が夜通し遊んでいたことの証だろう。
ゆったりと細められた眼は機嫌のいい、けれども危険な大型の肉食動物を連想させた。それも間違いなく猫科だ。トラ、とかライオン、とか。夏草色の虹彩には、ジェンセンに対する揶揄と、どこか挑発的な色合いが浮かんでいた。
「なるほどね」
「……何ですか」
そんなふうな態度をとられては、どうしても対するほうも身構える。人見知りな分、誰にでもそつなく振舞うジェンセンにしては、硬い声が出たのも無理はなかった。何だろう、そこはかとなく敵愾心を感じる。間違いなく初対面なのに、どうして。
しかし、アレックはからりと表情を変え、ジェンセンから視線をはずすと、にこりと笑ってジャレッドを見上げた。その横顔に、ジェンセンは軽く息を飲む。
──似てる。
特にどこが、というほどではないけれど、そう思って引き比べてみれば、ちょっとした表情や仕草、それに声質、髪の色、体格までが、見慣れた姿に重なる。──鏡の中の、自分と。
ジェンセンが気づいたことにアレックも気づいたのだろう、すいと流れた視線が、「Sure」と言っている気がした。心臓がドキドキして、手足が冷える。ざらりと砂をかんだような嫌な感じを味わった。
彼は、ジャレッドの──何だ? どうして、自分たちは似て見える?
「仲良く朝帰り? ……なわけないか」
そんな清潔そうなカッコしてちゃな、とアレックは、大きな目を見開いて、おどけてみせた。
「俺たちの一日はこれから始まるんだよ。……アレックの夜はまだ続いてるみたいだけど?」
ジャレッドが、呆れ半分、笑い半分、みたいな顔をしたが、アレックはまるで堪えたふうもなく、ちらりと唇を舐めて、「ホットな夜だった」とそれこそ熱に浮かされたみたいな声で囁いた。そういう行為をストレートに連想させる言い方にいたたまれなくなって、ジェンセンはうっすらと赤くなった顔をうつむけた。
「わ、何、かーわいー。彼ってそういう人なんだ?」
「アレック」
からかい半分にジェンセンを覗き込もうとするアレックの前に立ち、ジャレッドがたしなめるように名前を呼んだ。アレックは元々悪戯っ気なタチで、こうしたささいないたずらはしょっちゅうだ。彼の友達ならみんな、一度や二度はターゲットになっている。おかげでケンカ別れしたカップルも幾つかあるけれど、アレック自身にはまるきり──とは言えないにせよ、ほとんど──悪気があるわけではないし、逆に付き合いの深くなったカップルもいるから、結局は自分たち次第、ということだ。
ただ、いかんせん、ジェンセンには関係のないことだから、ジャレッドは、彼を巻き込んで欲しくはなかった。
今、大切にしたいのは誰なのか、とはっきり行動でしめしたジャレッドに、アレックはむしろ機嫌を良くしたようで、そうか、やっぱり彼なんだ、と、見とれるくらい完璧な笑顔でそう言った。
「デートの邪魔して悪かったよ。ほんとに、偶然見かけたから、ちょっと懐かしかっただけなんだ」
ごめんな、とジェンセンに片手を挙げて見せたアレックは、首もとのマフラーを巻きなおすと、それきり振り返りもせずに、朝の雑踏に消えていった。
颯爽とした歩き姿のアレックがいなくなった後、そこに残されたのは、やや呆然としたまま置き去られた感のある二人と、どうしようもなく気まずい雰囲気だった。
──どうしよう、この空気。
「…………あの、せんせ、」
「時間」
「え?」
「映画の時間。急がないと上映が始まる」
「あ、うん、…………」
でも、と言いかけた言葉はジェンセンの背中にさえぎられた。
お……怒ってる……のかな……やっぱり。
おどおどと後をついて歩きながら、ジャレッドは、ジェンセンのふよふよ揺れるつむじの毛を見下ろした。あんまり朝に強くないジェンセンだから、身支度も半分寝ぼけ眼だったのかもしれない。そこだけ微妙に寝癖が残っている。
ほんの十五分ほど前にその姿を見たときは、可愛いなあ、とただ幸せだったのに、まさかにこんなサプライズが待っているとは思わなかった。
当然の帰結として、その日のデートはさんざんだった。
当たり前だろうけれど、二人とも、映画の内容なんかほとんど頭に入らなかった。ジャレッドはジェンセンの顔色をずっと窺っていて、ポップコーンを食べるのも忘れるほどだったし、ジェンセンは意地になって前を向いていたから、それを指摘してやることもできなかった。
それでも、二時間を超える間じっとしていれば、冷静に考える時間もある(映画の製作に関わったひと達には申し訳ないが)。
映画館を出たら、どこか、落ち着けるところで今朝の件について話し合おう、と二人して思っていた。
ジャレッドは、訊かれたことには全部正直に答えるつもりだったし、ジェンセンは、彼らの関係が自分の想像通りだったとしても、過去のことになっているのなら、どうこう言うつもりはないんだ、ということを伝えたいと思った。
だがしかし、恋愛の神さまはこういうとき、たいがい意地悪な悪戯をすることになっている。
シアターを出て、ジェンセンが携帯の電源を入れた途端、休日出勤している同僚から泣き言の電話がかかってきた。曰く、チームのうち二人がインフルエンザでダウンした、出てこられたら却って迷惑だから自宅待機させているが、仕事の納期は待ってくれない、一時間二時間、いやいや半時間でもいいからヘルプに来られないか、と。
「あー、でも……」
「頼むよー、片っ端から電話かけてんだけど、皆つかまらないんだ。一時間! 一時間だけでいいから!」
ジェンセンは困った顔でジャレッドを見た。一時間でいい、と言ってはいるが、絶対それでは終わらないとわかっている。けれど、この同僚がこんなに食い下がってくることは珍しく、それだけ切羽詰っているということだ。
「……いいよ、先生。行ってあげて? 大変なんでしょ」
「──悪い」
行くよ、と電波の向こうにいる相手に告げれば「恩に着るようぅ〜〜〜」とほとんどマジ泣きの声が返って来た。これは長引く。間違いなく。
「……ジャレ、今日はもう、夜までかかると思うから……」
「あ、うん、わかった。俺、このまま帰るから。無理しないでね?」
「ん。──またな」
じゃあね、と手を挙げたものの、立ち去りがたくてジャレッドはジェンセンの姿が見えなくなるまでそこに立っていた。
仕方のないことだとわかっているのに、今二人の間にある物理的な距離が寂しくて、ジャレッドは広い肩を丸めると、しょぼしょぼとした足取りで自宅への道のりを歩き始めた。
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