夏恋。2 〜冬の二人〜 6
   〈5〉

 ジャレッドと気まずい別れ方をした翌日はクリスマスイブだった。明日、休暇をとる社員が多いので、勢い前日は翌日の分の仕事も終えようとして残業になる。それでも、明日には明日の仕事がどんどん入ってきて、運悪く残された社員は毎年てんてこ舞いだ。
 来年こそはクリスマス休暇組に、と不運な仲間たちが固く誓っている中、ジェンセンだけは、ひっきりなしにかかる電話や積みあがる書類をこなしながら、昨日に続いて、今日も忙しくて良かったと心の底でホッとしていた。目先の仕事を片付けることに集中していれば、少なくともその間だけは余計なことを考えずにすむ。
 あれは、誰だったんだろう、とか、ジャレッドとはどういう関係なのか、とか、そういったことを。
 自分によく似た、でも全然違う誰か。アレック、と言った。ずいぶんと親しげな態度だった。
 どういった関係かだなんて──本当は考えるまでもない。昔の恋人に決まっている。ジャレッドだってもう二十歳なのだから、付き合った相手の一人や二人や三人くらいはいてもおかしくないし、今の自分たちの関係を思えば、そのうち一人が男だったところで驚くことでもない。久しぶり、と言う言葉に嘘は感じなかったし、そもそも、二股をかけられるような質の悪い器用さを持ち合わせているジャレッドではないと知っている。
 なのに、こんなにも胸がざわつく。
 理由の一つは、嫉妬だ。……そうだ、自分に嘘をついても仕方がない。まぎれもない彼らの親しさに疎外感を感じ、自分の知らないジャレッドを知るアレックをうらやんだ。これが独占欲でなくて何だ。二人が話している間中、ジャレッドが振り向くのを待っていたのに、いざそうされると腹が立ち、そんなことを思った自分がイヤになった。
 二つ目は不安。彼と自分がどうにも相似形だから。似ていないと思う端から、彼と自分の類似点を見つけてしまう。双眸の色。髪の色。背の高さ。声質。案じるほどには似ていないのか、考えるよりも似ているのか。だとしたら、ジャレッドにとってのオリジナルはどちらだろう。もし、自分たちに似たもう一人の誰かが現れたら、ジャレッドはどうするだろう。
 くだらないことだと本当はわかっている。こんな心配をするのは、ジャレッドに対してもアレックに対しても失礼だ。
 それでも疑心暗鬼になるのは、要するに自分自身に原因があるからだ、とジェンセンは自戒した。
 セックスのことはさておいても、ジャレッドに思われるばかりで、ちゃんと言葉や態度を返していたかどうか、自信が持てない。そうしていたつもりでいて、でもやっぱり照れくささが先に立って、言わなかったことやしなかったことがたくさんある気がする。
 だから、こんなふうにイライラするばかりで、ちゃんと不安と向き合えない。自分がこんな態度では、ジャレッドもどうしていいかわからないだろう。気になるならきちんと話を聞けばいい。ジャレッドは、隠し事なんかしないで話してくれるはずだ。それくらい、ちゃんと信頼している。
 昼休みに確認した携帯に、ジャレッドから「明日、行ってもいい?」と短いメールが来ていた。クリスマスの夜を一緒に過ごそう、とそれは最初からの約束で、なのにわざわざこんな連絡を寄越すのは、ジェンセンの怒りを心配しているからだろう。
 もう怒ってはいなかった。でも自分の気持ちを丁寧にメールできるほどジェンセンの心は落ち着いていなかったし、仕事はもっと慌ただしかったので、いい、と短い返信だけをして携帯を閉じた。楽しみにしてる、とそんなひと言さえ添えなかったことを後悔して、続けざまにもう一通送信する。俺も、と笑顔の絵文字がついた返信が来て、ほんのちょっとだけ安心した。

   ***

 翌日の社内は、昨日の半分くらいの人口密度しかなく、なのに仕事は一丁前にやって来て、二日続き、ジェンセンにとっては三日続きの慌ただしさだ。しかし、夜には恋人とデートの約束がある、とにこにこしている若い社員や、ネットで買った子ども用のプレゼントを「間に合った〜」と言いながら受け取る家族持ちの社員、ランチの時間に、コンビニで買って来た小さなケーキを食べ比べている女性たちなどがいて、クリスマス気分は社内にまで浸透している。
 そんな中、ジェンセンは、昨夜よく眠れなかった目をしょぼつかせながら、休憩もろくに取らずにパソコンの画面をにらみつけていた。時間があると、どうしてもつい、考え事をしてしまうからだ。楽しみにしてる、といったのは嘘ではなかったけれど、どんな顔で何を言えばいいのか決めかねている。アレックのことを聞きたいのか聞きたくないのかさえわからない。
 そうして、しゃかりきになったジェンセンは、知らぬ間に他人の仕事まで引き受けていて、定時はもちろん、残業組も半数以上が帰宅した時点で、まだ新しい書類に手を伸ばそうとしていた。
「アクレス、ちょっと」
 こっち手伝って、とジェンセンを呼びつけたのは、隣の課の主任だった。ローレン・コーハン。ジェンセンより四年先輩で、同期の中では出世頭だ。有能で弁が立ち、ルックスも完璧。男女を問わず、彼女を慕う部下は多い。やや奔放なところがあるので、上司の評価は人による。だが、彼女を疎ましがるような相手は、たいがい、他の人間にも好かれない。
 隣の課、と言っても、部屋自体が同じの上に仕事での連携も多いので、どちらの部署の人間も、名刺の肩書き以外はほとんど差異を感じていない。当然、ジェンセンにとっても、彼女は直接の上司とさして変らないし、彼女のほうも、自分の部下と同じ感覚でいるはずだった。
 また新しい仕事だろうか、これじゃ今日中には帰れないかも、などと考えながら彼女の後をついていく。しかし、彼女がジェンセンを差し招いたのは、無人の会議室の中だった。当然中は冷え切っている。しかしローレンは寒がる様子も見せずに、行儀悪くテーブルの上に腰を降ろした。長い脚をこれ見よがしに組んで、書類ケースから、女性向けらしい華奢な煙草の箱を取り出した。
 彼女が何をしたいのかさっぱりわからないジェンセンは、入り口近くに突っ立ったまま、とりあえず、わかっている点について、一言申し添えておくことにした。
「社内は全面禁煙ですよ」
「知ってるわ。これは景気付け」
「何の?」
「これから、言いにくいことを言わなきゃいけないから」
「はあ」
 もちろん、それはジェンセンに対して、ということだろう。しかし、ジェンセンのほうには心当たりがないので、際立った反応ができない。解雇、という言葉が反射的に浮かんだが、いくらなんでも、それなら直属の上司の仕事だろうし、突然一方的に 馘首 くび にされるほど、どうしようもないミスをした覚えもないし。
「仕事は関係ないわ。そうじゃなくて、アンタこんな日のこんな時間にこんなところで何してんの、って話よ」
「……はあ」
 こんなところって。社長が聞いたら泣くんじゃなかろうか。しかも、何してる、だなんて、真面目に仕事をしている部下に対して言う言葉か。
「ケンカでもしたの? それで意地になってんの?」
「……すいません、話が見えません」
「今日は何の日?」
「……クリスマス?」
「よくできました。だったらわかるでしょ。どうしてこんな日に他人の仕事引き受けてまで残業してんの、って言ってんの。あたしはね、毎年のことだけど、お誘いが多すぎて、ひとつ選ぶのが面倒だから仕事してんのよ。どうせどこ行ったって混雑してるんだし、部屋にこもってヤってるだけならクリスマスにこだわる必要ないんだしね。でも、あんたは違うでしょ」
 さらっと大胆なことを口にした上司は、ふー、と細く煙を吐き出して、まっすぐにジェンセンの目をとらえた。意志の強そうな瞳は、持ち主の気質をそのまま映し出している。言わなくていいかと思ったんだけど、とローレンは前置きしてから静かに口を開いた。
「去年の夏からこっちのあんたは、ずいぶんひどいありさまだったわね。何があったか知らないけど、青い顔しちゃって、まるで子うさぎみたいにびくびくしてた。……特に男といるのがダメだった。なるべく二人きりになろうとしなかったし、背中を向けるのも怖がってた。──そうでしょ」
 さっとジェンセンの顔から血の気がひいた。顔色が青くなるのが自分でもわかる。貧血を起こしそうになって、とっさに壁に手をついた。足の先までが一瞬で冷たくなった。
「主……」
「あ、何も言わなくていいわ。あんたから、何かを聞き出したいわけじゃないの。それに、心配なら言ってあげるけど、気づいてたのはたぶんあたしだけ。他の人間は知らないはずよ。頑張ってたもんね、アクレス」
 だからあたしも口出ししなかったの、とローレンはいたわるような笑みを浮かべた。大変だったでしょ、という言葉はありきたりだったが、そこに込められた心情は、通りいっぺんのものではなかった。そこにあったのは間違いなく連帯感だ。大きな仕事をやりとげたチームのような。──あるいは、ともに同じ悲劇を乗り越えた仲間のような。
 どうして彼女だけが気づいたのか、ということ。ジェンセンは、まさか、と思いながらもその意味を悟った。
「──何があったかなんて、訊くつもりはないわ。正直、聞きたくないの。その代わり、あたしのことも訊かないで。わかるでしょ、そういうことよ」
 強く、したたかな女性だ、と思っていた。強烈な個性は華やかで、常に彼女の人生には光が当たっているような気にさせる。それだけの力を持つひとだと。
 その彼女がほのめかした自分の傷痕にジェンセンは一瞬動揺し、けれど、それを語ることのできる彼女の強靱さに素直に畏敬の念を抱いた。
「主任」
「心配してたのよ、これでもね。一人で立ち直るのはなかなか難しいことだし……、時間が経つにつれ、外から見た感じは普通になっていったけど、危なっかしいと思ってた」
 準備のいいローレンは、携帯灰皿に吸い終わった煙草を押し付けた。箱も灰皿もそれを持つ彼女の指先も、ぜんぶが淡い桜色だ。ジャレッドなら、きれいだね、と誉めた後で、桜餅のことを連想する。絶対する。そう思ったらおかしくなって、ジェンセンはほんのり微笑んだ。
「何よ、にやにやしちゃって。誰のこと考えてるの」
「え」
「今年の夏以降、あんたはずいぶん明るくなった。何かいいことあったんでしょ。彼女ができたとか、──彼氏ができたとか」
「は、」
 それは、まるで無防備なところへの不意打ちだったので、ジェンセンはうっかりとりつくろうのも忘れて目を開いた。
「あら図星」
「や、そうじゃなくて……」
「いいのよ、そこは。男だろうが女だろうが、別にどうでもね。あんまりでれでれしてるのも見苦しいけど、それでも幸せならまあ、そのほうがいいと思うのよ。なのに、こんな日にとろとろいつまでも残業してる部下を、上司が心配するのは当たり前でしょ」
「……それは……」
「あんたは頭がいいし。性格も悪くないし、顔もイケてる。身体は……知らないけど」
 何を言われるものか、と困惑しながら、ジェンセンはそこに立っていた。
「あ、言っとくけど、口説いてるわけじゃないからね。調子に乗らないで」
「乗ってません」
「何で乗らないのよ」
「……何言ってるかわかりませんよ」
「普通は調子に乗るのよ。あたしみたいな美人に誉められたらね。しかもクリスマスよ。今夜のお誘いか、なんて鼻の下伸ばすのよ。でも、あんたはしないでしょ。欲が薄いのかしら。でもね、」
 どうしても欲しいものなら、執着することも必要なのよ、とローレンは言った。
「みっともなくしがみついて、泣いてみることも大事なの。それでダメでも、やれるだけのことはしたって思えるでしょ。あと、そこまでさせて気が変わらないなんて最低ね、って自分に言い訳できるしね」
「主任もそんなことをしたことが?」
「あるわよ。もっとも、十代の頃だけど。恥ずかしいことは若いうちにやっとくべきね」
 ふっと凄みのある笑顔を見せて、ローレンは艶めいた色を乗せた爪先で、ジェンセンのネクタイを引っ張った。
「今日はもう帰んなさい。明日はちゃんと休暇とってる? そう、それならいいけど。何でケンカしてるのか知らないけど、さっさと仲直りしてしまいなさい。大事な相手ならね」
 待ってくれるひとがいるうちが華よ、とローレンは言った。
 ──その通り。彼女は正しい。
 ジェンセンはぺこりとひとつ頭を下げると、彼女の忠告に従うことにした。
 アクレスもう終わり? いいなあ、メリークリスマス、とまだ仕事が終わらない社員たちの、やや恨めしげな声に送られて、会社を飛び出す。この時間だと電車の本数はまばらで、一本逃すと次までが長い。待ち時間を厭うたジェンセンは運良く通りかかったタクシーを捕まえた。
   
2010.12.25