夏恋。 5
 先生、どうしたのかなあ、と食器の汚れを落としながら、ジャレッドは夕方突然やって来たジェンセンのことを考えた。顔を見に来ただけだから、と平気そうに言っていたが、その行動自体がおかしい、とは気付いていないようだった。
 店に来てよ、と誘ったのはジャレッドのほうだったから、彼が訪ねて来てくれたのは嬉しいけれど、コーヒーを楽しむためでもなければ、ジャレッドの働く姿をひやかしてやろう、という感じでもなかった。それより、何だかひどく傷ついたような目をしていて、ジャレッドは心配せずにはいられない。
 どうかな、後で会いに行ってみようか。それこそ、顔を見るだけ。ジャレッドの勘違いで、何だよこんな時間に、などと、彼が時々見せる幼い表情で、きょとんと見返してくれれば安心できる。バカだななんて笑われてもかまわない、ジェンセンに屈託がないとわかるなら、それくらい。
 そうだそうしよう、と行動の決断をしてしまうと、ジャレッドは精一杯の早さで皿洗いを片づけた。
「ジム、お皿洗ったよ」
 店内の掃除をしているはずのジムに声をかける。いつもなら「おう、ご苦労さん」と返ってくる声が、今日はしんと静まったままだ。
「ジム?」
 ひょい、と厨房から顔をのぞかせた。誰もいない。外だろうか。明日遅くか、明後日に日付が変わるころに、嵐が来る、とニュースで言っていた。古い建物だから、あちこち補強しておかないと、と昼間、ジムが言っていたのを思い出した。
 勝手口から外をのぞくと、案の定、そこにジムのシルエットを見つけた。
 ジム、と呼びかけようとして、彼が一人でないことに気付く。よく見えないが女のひとだ。とっさにデートかな、なんて思ったのは、ジムが長らく男やもめだと聞いていたからだ。
 しかし、ややヒステリックな甲高い声は、とても恋人との逢瀬を楽しんでいるようではなかったし、何より、聞き覚えのある客のものだった。
 そのおばさん(ジャレッドから見ればおばさん、の年齢だ。正確に言うなら、『おばあさん』一歩手前、というところである。もちろん、ジムはそんな失礼なこと言わないが)はこのお店の常連らしい。何か、資産家の未亡人だとか何とか聞いてるけれど、他人に対して全般的に批判的なひとなので、正直、ジャレッドは好きではない。テーブルで話していることも、他人への不平不満ばかりだ。何故ああして他人を貶めないと安心できないのだろう、と耳にするたびにジャレッドは不愉快になる。
「だからね、私としては、あんなひとを、お店に出入りさせるのはどうかと思いますよ」
 ほら、また誰かのことを意地悪に言う。
 誰だよ、あんなひとって。そんな見下したみたいな口調で言われるほどひどい客なんか、この店にはいないのに。あんたこそ出入りするのやめたら、と、決して口にはできない不平を腹の中で呟いた。
「マダム、私にとっては、お客様は誰でも同じですよ。他人に迷惑をかけるような人間は別としてね」
「だって、あれでしょう、男同士の心中の生き残りだって言うじゃないの。別に、差別するつもりはないけど……ちょっとねえ。周りのひとだって気になるでしょう」
 差別するつもりはない、と言いながら、彼女の口調は侮蔑を充分に含んでいた。それと同時に存在するのは、確かな愉悦。彼女は他人の不幸が楽しくてたまらない人間だ。その傷口に親切顔で塩をすり込むのが娯楽だと思っている。
 いつか、そのすましかえった顔いっぱいに生クリームの乗ったケーキをぶつけてやりたいと思いながらも、ジャレッドは不穏な胸騒ぎを感じた。
 彼女の言ってるのは、一体誰のことだ?
「……それは、彼にとって公平な意見とは言えませんね。二人が恋愛関係にあったかどうかはただの噂で、真実は、誰も知りやしないんですからね。それに、亡くなったひとは、最初から一人で湖に行って身を投げたんですよ、心中じゃない」
「それだって、恋愛のもつれが原因なんでしょ、いやらしい。今年も同じコテージを借りてるんですってよ。私のお友達が見かけたのよ。よくそんなこと出来るものね、って言いましたわ。自分のせいで人一人殺しておいて、よく平気でいられる……」
「マダム」
 ジムは手厳しい調子で相手をさえぎった。普段、人の良い笑顔ばかりを見せている店主が、こんなにはっきりと怒りを表すのは珍しい。
「そういった話は聞きたくありませんな。他人への飛語中傷は、あまり上等な趣味とは言えないと思いますがね」
「中傷じゃありませんわ、忠告です。あなたはご存じないんでしょうからね。いいですか、その男のところに、おたくのアルバイトが出入りしてますのよ。そんなバイトを雇っていては、お店の品ってものが疑われましてよ」
「それも『あなたのお友達』が見たんですか」
 はあ、とこれ見よがし名ため息をついて、ジムは、まっすぐに相手を見返した。
「ご忠告いたみ入りますな。しかし、これだけははっきり言っておきますよ。私は、正当な理由なしに他人を自分の店から追い出したりしませんし、よく働くバイトを馘にするつもりもありません」
 失礼、ときびすを返したジムは、内心でずいぶん腹を立てていたので、ドアを開けた途端、当のアルバイトと鉢合わせして、彼らしくもなく、ややうろたえた顔をした。
「ジム」
「ジャレ坊……いたのか」
「今のって、誰のこと?」
「……落ち着け」
「落ち着いてる。ねえ、今のオバサンが言ってたのって、誰のこと?」
 誰のことか、など本当は訊ねるまでもない。どう聞いたって、あれはジャレッドとジェンセンのことだ。けれど、そうなると、彼女の言ってたことが気にかかる。
 男同士の心中とか……去年、湖で自殺したひとって……そうだ、珍しく言い捨てるような口調で、「ひとが自殺するのは、風景のせいじゃないだろう」なんて言っていたけど、あれは。
「ジムも知ってたの? その、俺の言う先生が、そのひとだってこと」
「──同一人物だっていう確信はなかったよ。だから、お前に聞かさずにすむなら、そうしたかったんだけどな、俺は」
 やれやれあのおばはんはトラブルメーカーだ、と頭を振り振り、ジムはジャレッドを店の中へとうながした。他人に聞かれるかもしれない状況で話すような内容ではなかったからだ。
「あらかじめ言っておくが、俺が本当に知ってることは何もない。興味本位とか、当てこすりの噂話ばっかりだ」
 そこをわかっておけよ、と前置きして、ジムはぽつぽつと話をはじめた。
 去年の夏、そこの湖で一人の男が死んだ。自殺だった。まだ二十四歳の青年だったが、在学中に立ち上げた自分の会社の社長で、ずいぶんと金回りは良かったらしい。
「一週間かそこらの予定でそこのコテージを借りてな、友達と二人で避暑に来てたそうだ」
「友達って……先生のこと?」
「そうらしい。俺は会ってないから知らんがな。三日目か四日目に、彼は一足先に帰った。コテージを借りてた男が湖に飛び込んだのは、その翌日の夜だった。──そうなると、他人てのは色々つまらない気を回したがるものだ」
「心中って話は? どこから出たの」
「遺書が残ってた。その中にな、そういう……まあ、恋愛感情めいたことが書かれてたそうだ」
 言っておくが、本当にこれは噂話だぞ、とジムは何度も念を押した。
「俺くらいの年齢になれば、いかにも真実めいた噂話が、実は何から何まで嘘だった、ってことがどれくらい多いかってことがわかってる。面白半分に、そういう話を流すやっかいな輩がいるってこともな。あとそれから、人間の品性ってのが、金では磨かれないらしいってことも、だ」
 それは、あのオバサンに対するあからさまな当てこすりだったから、ジャレッドはちょっと笑った。
「俺は、お前の『先生』を知らない。と同時に、去年の事件の関係者だった青年のことも知らない。だが、お前があれだけ慕ってるってことは、お前の『先生』はいい奴なんだろうと思ってる。もし、彼が例の事件の青年と同一人物だとしたら、彼もきっといい奴なんだろう、と思う。なあ、ジャレ坊、今さら外野の言うことになんか、惑わされる必要があるか?」
 そういうジムの表情には、心配そうな色が浮かんでいて、ジャレッドは、ようやくここで彼が何を案じていたかに気がついた。こういった噂──ジェンセンがゲイかもしれない、という──を聞いて、ジャレッドが、彼を厭うのではないか、とそう気を回していたらしい。
 ……そんなこと、絶対にあるはずないのに。
 それよりむしろ、ジャレッドとしては、ジェンセンの気持ちのほうが気になった。
 そういえば、あのコテージを「安く借りられた」と言っていた。たぶん、そういう事情があったからだろう。そこで人が死んだわけではなくても、あまり気持ちのいいものではあるまい、とそれは想像に難くない。でも、その事件にジェンセンが関係していたなら、一年後、同じ場所にやって来たりするだろうか。思い出したくもない、というのが普通の反応じゃないのか。
 もしかすると、ジェンセンも、死んだひとのことを思ってたとか──彼の自殺の理由は、ジェンセンには関わりがないことで、だから、その死を悼むために、今年もやってきたとか──。
「ジム、俺ちょっと」
「ジャレ坊?」
「先生に会ってくる、ね!」
 おい、と呼び止める声を背中で聞いて、ジャレッドは夜道を駆け出した。


 忙しないチャイムの音に、ドアを開ける前から、ジェンセンには予感があった。嵐は、ジェンセンにとって良くないものを運んで来る。一年前からそうなった。
 開けた扉の向こうには、夜を背景に息を切らしたジャレッドがいた。
「……先生……」
 先生、ともう一度繰り返して、ジャレッドはそれきり言葉を探しているようだった。言いたいことのためか、聞きたいことのためか。
 どちらにしても、それはジャレッドにとって心地良いものではないらしい。
「……何か、聞いたんだな。俺のこと」
 誰から。昼間、ジェンセンを見ていた女性の誰かか、バイト先のオーナーか、まるきり関係のない人間からか。
「せんせ、」
「もう、ここには来ないほうがいいな」
「先生」
 俺と会ってるとお前も何か言われるだろう、と、ジェンセンは言った。それが、ただただ優しく諭すような声だったから、ジャレッドのためだけに作られた声だったから、ジャレッドは不意に泣きたくなった。
「先生」
「そんな顔すんなよ。俺のせいで、イヤなこと言われたんだったらごめんな」
「違う、先生、そうじゃなくて」
 夕方、あんな傷ついた顔してたのは、何か言われたから?
 去年死んだっていうひとは、何をして先生を傷つけたの。
 先生は、そのひとのこと好きだったの。
 どうして俺に会いに来てくれたの。
 聞きたいことはいくらもあって、けれどどれも形にはならなかった。どう訊けばジェンセンを傷つけずにいられるかがわからなかったからだ。
 黙り込むジャレッドに、ジェンセンは何を思ったのか「気にすんなよ」と気遣うように微笑んだ。
「おやすみ、ジャレッド。──お前と会えて、楽しかったぜ」
「先生、待って!」
 留めようとした手の先で、ドアが閉まった。もう一度チャイムを鳴らしたが、閉ざされたそれが二度と開かれることはなかった。


 とぼとぼと歩いて帰ってきたジャレッドに、ジムは察するところがあったらしく、何も言わずに彼の背中をぽん、と叩いた。
   
2010.8.23