夏恋。 6
   〈4〉

 翌日のニュースの話題は、来たるべき嵐のことについて持ちきりだった。ずいぶん大型のそれは、この地方一体を正味で突っ切る予定でいるらしい。風雨の激しさやそれによって引き起こされうる洪水や、緩んだ地盤の崩壊の危険性について、アナウンサーがもっともらしい顔で何度も注意を促していた。
 ジムの店も、今日と明日は臨時休業だ。電気は午後も早々に点かなくなった。携帯電話も通じない。たぶん、近くの中継基地で何か支障が出たのだろう。水道が止まってないのが幸いだ。ガスもプロパンだから大丈夫。とは言え、不便なことに変わりはないが。
 店を守るための補強用材木を抱えて、ジムとジャレッドは、レインコートをはためかせながら、店の四方をぐるぐる見て回った。ジャレッドの身長と力がおおいに役立ち、ジムはご苦労さん、と彼の助力をねぎらった。ひと息ついてコーヒーでも、と思ったが、ジャレッドは腰も下ろさず、ジム、ジム、まだやることあるかな、もうないかな、とせわしなく訊いてきた。もうない、と言って欲しいのが丸分かりだ。
「何だ、何か企んでるのか」
「人聞き悪いこと言わないでよ。先生のところに行こうと思って。先生一人だからね、手伝うことあるかもしんないし」
「ジャレ坊」
「悪いけど、セイディとハーリー頼んでもいい? 雷が怖くて、部屋に閉じこもってるから」
「いや、それはいいがな、ジャレ坊」
 昨日はあれほど打ちひしがれた様子で帰ってきたというのに、ジャレッドはまだ彼に関わる気でいるのだろうか。それとも、知らない間に仲直りしたのか。
「何?」
「それは、その、彼の希望なのか? お前に来て欲しいっていう、」
 ううん、とジャレッドはあっけらかんとしたものだ。
「もう会わないほうがいいって言われた。でも、そんなのいちいち聞いてらんない。それは先生の意見であって、俺の意見じゃないし。──それに」
「それに?」
「先生、きっと寂しいよ」
 一人でこんな嵐の夜を過ごすのは。
 ね、と優しく目を細めるジャレッドに、ジムは、自分の勘違いに気がついた。慕っている相手がゲイかもしれないことにショックを受けているのかとばかり思っていたのだけれど。
 そういえば、家庭教師に再会した、とうっとりと表情を緩めていたのを思い出す。てっきり女性だと思ったのは、ジャレッドがあんまり嬉しそうだったからだった。
「ジャレ坊、お前、彼のことが、その」
「うん、好き」
「…………」
 ふぅむ、と唸ったきり、ジムは口ひげを撫でている。
「いいひとなんだよ。とても、いいひとなんだ。優しくて……優しいし……えっと……、きれいなひとで、あっ、それって顔のことじゃなくて、いや、顔もきれいなんだけども、何て言うの、気持ちがきれいなひとで、ええと、」
「わかった、わかった。別に俺に向かって言い訳することはない。俺はお前の親じゃないしな」
 お前の人生に責任は持たなくていい、まったくもってそれは幸いだ、とジムはわざとらしくため息をついた。
「ジム」
「まあでも、何だ、ジャレッド、俺はな」
 ジムは片頬を歪めていたずらっ子みたいに笑うと、お前のひとを見る目は、なかなか大したもんだと思ってるよ、と、そんな言葉で励ましてくれたのだった。

   ***

 嵐は激しい。ほんのすこし歩いただけで、ジャレッドはもう頭からプールにつかったみたいに水浸しになっていた。いつもは二十分の道のりも、暴風雨に遮られながらでは、簡単にはいかない。結局いつもの倍近い時間をかけることになり、たどりつく頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
 ジェンセンの借りているコテージも真っ暗だ。やっぱり、ここも電気が止まってるらしい。当然チャイムも鳴らないから、ジャレッドは力にまかせて、ドンドンとドアを叩いた。お上品なノックでは、雨風の音にかき消されて中まで届きはしないだろう。
「先生! 先生、いないの? 開けてよ、せーんーせーいー!」
 来るなと言われたことを忘れたわけではなかったが、ジェンセンはきっとドアを開けてくれるだろう、とジャレッドは確信していた。たとえケンカ別れをした相手であろうと、こんな嵐の中に人間ひとり放っておけるほど、ジェンセンは冷酷ではないからだ。
 怒られるか、呆れられるかしたとしても、嵐がおさまるまでは、ジャレッドを追い返すこともないはずだ。その間に、昨日の誤解を解ければいい、と、そう思っていたのだけれど。
「……ジャ……ジャレッド……? ほ、んとに……?」
 細くドアが開いたと思ったら、そんなかぼそいような声が聞こえてきてびっくりした。
「先生、ど……どうかした? 何かあったの?」
 最初に想像したのは、病気だ。一人で風邪でもひいて、弱ってしまったのかもしれない。事実、懐中電灯に照らされた彼は、白い光のせいもあるだろうけれど、ずいぶん顔色が悪く見えた。
「ジャレッド?」
 しつこいくらいに確認をとる。どう見たって、ジャレッド以外の何者でもないと思うんだけど。
「うん、俺だよ。この天気でしょ、何か手伝うことあるんじゃないかと思って来てみました」
「バカ、危ないだろ」
 顔をしかめてジャレッドを叱ったジェンセンは、ようやくちょっといつもの彼に戻った気がした。
 ざあざあと、葉擦れの音が腹に響く。闇夜の中でも影の濃さに違いがあるようで、木々が身をもむようにしなっているのが目に映った。雨粒は痛いほどで、そんな中を歩いてやってきた教え子は、レインコートなど役にも立ってないように全身ずぶぬれでそこに立っていた。
 笑顔ばかりが、普段通りだ。
 はあ、とため息をついて、ジェンセンはドアを押し開けた。とりあえず、この嵐が終わるまでは、彼を外に放り出すわけにはいかない。
 幸い、水道とガスが生きているから風呂は使える。ともかく身体を温めてこい、と、着替えと一緒に大きな身体をバスルームに押し込んだ。
 ほかほかと湯気などたてながら、ジャレッドが出てきたのは、十分ほど後のことだ。持ってきた衣類の中で、一番大きなTシャツとハーフパンツを貸してやったのだが、どっちもかなりきちきちに見える。伸びたらごめんね、と謝られて、むかつく、と高い位置にある頭をはたいてやった。
「暗いところで風呂入るのって、けっこう怖いね。鏡とかガラスとかつっこんだらどうしようかって思ったよ」
 頭を拭き拭き、そんなことを言い、ぐるりと部屋の中を見回した。
「ここって、シャッターがついてたんだね。全然気付かなくて……。手伝うことって何もなかった?」
 ジムのとこは、そういうのないから、窓に板を打ち付けたりして、そういうのしたの初めてだから、ちょっと珍しくて面白かったよ、まあ実際に被害が出たら面白いどころじゃないけど、とジャレッドは、キャンプを喜ぶ子どものような顔で言った。けれど、ジェンセンは彼に付き合って微笑むこともできない。
「お前……何で来た? もう会わないって言ったし……俺の、噂とか……誰か話したろ……?」
 嘘と真実をとりまぜた中傷が広まっているのは知っている。ジェンセン自身は何ら恥じるところはないが、誰もが被害者に同情的だとは限らない。外聞が悪いと思われるのも無理はない、と自嘲気味に考えた。
「聞いたけど。それが何?」
「何、って……」
「だって俺、先生から直接何も言われてないもん。誰が何言ったって、関係ないよ。違うの」
 部屋の中にあるのは、懐中電灯が二つと、ロウソクが一本。とても隅々まで照らし出すことはできないけれど、お互いの表情くらいは見分けられる。
 ジャレッドは、ひどく真剣な顔をしていて、かたくなな真っすぐさのまま、ジェンセンに視線を向けていた。揺るがない双眸は、こんな夜には黒曜の色をして、まるでそこに秘密を映し出すような気がして、ジェンセンは内心でひるんだ。
 怖い。裡に傷を持つものに、彼の無垢さは武器に等しい。
 ジャレッドが来るまで、ジェンセンは暗闇におびえていた。こんな嵐の夜はダメだ。どうしたって、あの日を思い出す。
 いつもなら家中の明かりをつけて、鍵という鍵を確認して、救いを求めるために携帯電話を手元に置いて、そうしてようよう眠りにつくことが出来るのだけれど、それでも、まどかな夢を結ぶにはほど遠い。浅い眠りの中で、ささいな物音にも飛び起きて、辺りを見回し、鼓動が落ち着くのを待って、また横になる。そんなことを一晩中繰り返して、何度も何度も。
 そうして、寝不足の目を擦りながら、やっとの思いで朝を迎えているというのに、今日はまだ明るいうちから電気が切れた。大慌てでコテージを探したら、懐中電灯とロウソクが数本ちゃんと常備されていたので、すこしだけ安心した。
 ここへ──この場所へ来てみようと思ったのは、そう決意したのは、過去におびやかされる自分が嫌だったからだ。何もない、誰もいない暗闇に子どものように怯え竦むことに嫌気がさしたからだ。
 もう彼はいない、誰も自分を傷つけはしない、そうと確信するために。
 だから残った。けれど、大丈夫、大丈夫、と言葉は重ねる分だけ、真実味を失う気がした。もともとぶ厚い雲に遮られていた陽の光は、いつもよりもずっと早く、夜に覇権を譲り渡した。
 刻一刻と濃くなる暗闇と、悲鳴のような風の音と、窓を叩く雨粒の音、ざわざわと不吉にうなる木々の音、そのどれもがジェンセンを追い詰める。
 ──あの日も、外は嵐だった。はっきりした記憶は少ないのに、荒れ狂っていた天候のことを、こんなにも鮮明に覚えている。
 日常から逸脱したのは、建物の外側ばかりではなかった。
 突然の変遷と、一方的な暴力。暴力、というのが、肉体をのみ傷つけるものではないと、ジェンセンは初めて知った。自由意志を封じられ拘束されること、奪われることの恐怖と、屈服させられることへの恥辱、怒りと悲哀。そして、疑問。
 どうして、彼が。どうして、自分が。どれほど繰り返しても答えは出ないと知っていて、気がつくとまた同じことを考える。
 本当は、ジャレッドが来る寸前まで、逃げ出そうかと思っていた。雨に濡れても、風に煽られても、飛んできたものにぶつかってもいい、ここで一晩、ひとりで過ごすなんて耐えられない、と、半ばパニックを起こしかけていた。
 息さえ詰めていたことに気づいたのは、先生、と、まるでこんな夜には不似合いな明るい声が響いたからだ。
「……昨日、先生が帰れって言ったのも、そのせいだよね。俺が噂話信じて、先生のこと嫌になるとか思った? それとも、そういう噂話のある相手と付き合ったらダメだって、俺のこと心配したから?」
 それってどっちも違ってる、とジャレッドはきっぱり言った。
「先生が、俺のこと嫌いになって帰れって言ったんだったら、それは──すごく悲しいけど──しょうがないと思うけど。先生のことをろくに知らない、どこかの誰かが言ったことより、俺は先生の言葉が聞きたいよ」
「ジャレッド……」
   
2010.8.23