夏恋。 7
 この一年、自分とこんなふうに真っ直ぐ向き合おうとした人間はいなかった。多かれ少なかれ事情を知る人間は、ジェンセンを壊れやすいもののように、いたわりを持って扱おうとしたし、事情を知らない相手には、ジェンセンのほうが口を閉ざした。
 とても誰かに話せるだなんて思わなかった。医者や警察に話すのでさえ、どんなに辛かっただろう。
 ひく、と咽喉がひきつった。みっともない。
 それはジャレッドの耳にも届いたらしく、あ、あの、と声が上ずった。
「あ、や、……ごめん、言いたくない、よね。それなら、言わなくてもいいよ、無理はしないで。──でも、もし、言ったほうが楽になるなら、ちゃんと聞くから」
 どっちでも、先生のしたいように。
 ──ただ、優しさで俺を遠ざけるのはやめて。お前のためだよ、と言いながら、切り捨ててしまわないで。
「ジャレ……」
「──ここで、初めて会った日ね。先生が立ってるのに、最初気がつかなくて……まるで、突然そこに現れたように見えて、もしかして、人間じゃないんじゃないか、なんて、ほんの一瞬だけどね、そんなふうに思ったんだ」
 何故かな、ひどく儚く見えた。消えてしまいやしないかと心配になるほどに。
「……幽霊にでも見えたか」
「んん、そうじゃなくてもっとね、何か神聖なもの」
 妖精とかかなあ、と大真面目に呟くので、ジェンセンはさっきまでの恐怖も忘れて、盛大に吹き出した。
「何で笑うの!」
「そこは笑うところだろ」
「感動してよ」
「できるか」
 二十代も半ばの男をつかまえて何を言い出すやら。優秀なはずの頭は大丈夫だろうか、と半ば本気で心配して、まじまじと顔をのぞきこんだら、ジャレッドは、ぱっと顔を赤らめて横を向いた。
「 ──え、」
 何だ、今のジャレッド。
 しまった、と思ったときにはもう遅かった。だって、そんな、触れ合いそうなほど近くに顔を寄せられたら、どうしたって表情に出る。ジェンセンは知らないけれど、自分はもう、ずっと長い間、彼に恋しているのに。
 でもきっとそれは、今のジェンセンには重荷でしかない。今だって、ほら、そんなに傷ついた顔をして。
「ジャレッド……」
「え、あ、あの、違……、いや違わないけど、でも別にそういうんじゃなくて、そうじゃなくて、」
「お前、まで?」
 その一瞬によぎった恐怖は、本能的なものだった。とっさに後じさってジャレッドと距離を取る。せわしなく左右を見たのは、逃げ道を探したからだ。
 ジャレッドは、そんな反応に素直に傷ついた顔をして、それでも、懸命に首を振った。
 言葉は、彼に届くだろうか。
「違う、お願いだから先生、そんな顔しないで。俺は、先生を傷つけたりしないよ。絶対、そんなことしない」
「でも、」
「先生」
 言い募ろうとして、けれどジェンセンが子どもみたいに──そうするしかできない幼い子どもみたいに──いやいやと首を振るのを見て、ジャレッドは、しおしおとうなだれた。
 彼を怖がらせるつもりなんかなかった。傷つけるつもりはもっと。
 去年の事件の折り、ジェンセンがどんな辛い経験をしたのかはわからない。でも想像はつく。
 きっとひどいこと、ただの暴力だけじゃなくて──もっと性的な、そういう何か。
 一緒に旅行に来るくらいなら、きっと親しい相手だったろうし、当然、信用もしていただろう。
 事件そのものもだけれど、そういう相手に裏切られたことは、きっと彼の中で大きな傷跡になっていると思う。
「──ごめんなさい。今日は、帰るね」
 ゆっくり、絶対にジェンセンをおびやかさないように慎重に立ち上がる。ジェンセンは、壁にはりつくみたいにして、ジャレッドの動きに目を向けていた。
 あんなふうに警戒されるのは、とても辛いけど。
「これだけは信じて。本当に、先生を困らせるつもりはないんだ。俺は先生のこと好きだけど、先生が嫌なことは何もしたくない」
 心も、身体も、傷つけるようなことは何一つ。
 でも、今、彼を怯えさせてしまった。ジャレッドとしては、実に不本意なことに。
 ごめんね、ともう一度謝って、ジャレッドはさっき脱いだ服に着替えようと、バスルームに足を向けた。
「………………ま、」
 待て、と、引き止める声は、シャッターの揺れる音にかきけされそうなほどちいさかった。けれども、ちゃんと聞き取ったジャレッドは、おどおどとうかがうような視線を戻した。
「か、……帰るなんて、無茶だ。外はこんな嵐だぞ。いくらお前だって」
 飛ばされたりとか、どこかに落ちたりとか、それで流されたりとか、何かにぶつかったりとか、一番平穏な選択肢でも、ずぶぬれになって風邪をひく、とか、危険はいくらでもある。それこそ、本物のゴジラででもなければ。
「大丈夫、だよ。本格的に上陸するのは夜中だって言ってたし、まだ」
 心配してくれる、そのことだけで充分に嬉しい。
「……いいから、俺こそ大丈夫だから、ここにいろよ」
「……でも、……だって、怖いでしょ……?」
 自分に好意を抱いてる相手と二人っきりで。
 どうしたって、体力的にも体格的にもジャレッドのほうが有利だし。
 しかし、そういうジャレッドの気遣いは、かえって年上のプライドを傷つけたらしい。
「こ、だ、……誰がお前なんか!」
 怖くなんかあるか、中坊のときから知ってるんだ、誰が勉強を教えてやったと思ってるんだ、ちょっと図体が大きくなったくらいで、大人ぶんなよ、クソガキ!
 地団太を踏みそうな勢いでそんなふうに怒鳴るジェンセンは、確かに今一瞬、恐怖なんか忘れたようだった。
 けれど。
「な……何だよ、そうやって怒鳴るのは、怖いからじゃん!」
「怖くない!」
「嘘だ。だって、俺、俺だって痴漢くらい遭ったことあるもん、トイレでさ、何か刺青いっぱいしたオッサンにケツつかまれて、すげーびっくりして、しばらく一人でトイレ行けなかったんだぞ! それくらいでも怖かったのに!」
 別にたいしたことをされたわけじゃない、通りすがり、スキンヘッドに刺青、レザーづくしの格好、という、ある意味とてもわかりやすいオッサン(に見えた。太ってたし)にジーンズの上から尻をつかまれた。びっくりして声もなく飛び上がったジャレッドに、ニタリと嫌な感じの笑顔を向けてきたが、それ以上何かをしたり言ったりしようとはしなかった。もっとも、すぐにジャレッドはトイレを飛び出してしまったので、本当のところはわからないが。
 後から思えば、そんな奴、便所の床を舐めさせてやればよかったのだが(やろうと思えばできたはずだ)、そのときはあまりに驚いたので、そこまで頭がまわらなかった。反射的に拳が出るほど、ジャレッドの生活は暴力に馴染んではいなかったので。
 そうして、そんなふうに剥き出しの欲を見せつけられたのが不快で、その後しばらくは、誰かと一緒じゃないと、トイレに行きたくなかったし、日常的にそういう怖さを抱えて暮らしているなんてすごい、と女性全般を尊敬したりもした。
 たとえ下心見え見えでも、一応手順を踏んでナンパしてくるのと、あんなふうにいきなり触れてくるのとでは全然感じ方が違うのだと思い知った。つきつめれば、身体だけがあればいいということ、お前の心なんかいらない、と、そう言われたに等しいということ、それが怖さや不快感の元なのだ、と思う。
「──お前……そんな、痴漢とか……自慢げに言うことじゃないだろ……?」
「じ、自慢してるんじゃなくて──そんなこと自慢しやしないよ、そうじゃなくてさ、だから」
 だから、もし今、ジェンセンがジャレッドのことをそんなふうに考えているのだとしたら、ジャレッドがジェンセンの外側だけを欲しがっているように思われていたら、それはすごく哀しいことだ、とジャレッドは思う。
 そうじゃない、ということを証明するために、嵐の中へ飛び出してもいいくらいに、哀しいことだ。
「──俺は、先生のこと好きだから、大切なんだよ。……すごく、大切なんだ」
「……ジャレ、」
 好きです、とジャレッドは常の彼にはふさわしくないような静かな声音で繰り返した。押し付けではなく、ただその真摯さばかりを伝えるように。
 ──好きなんだ、と、彼も言った。力づくでジェンセンを征服しながら、好きだ、愛してると繰り返した。ジェンセンから選択の余地をすべて奪っておいて、美しいのはただ口先ばかり。それが何かの免罪符になると思っていたならお笑い草だ。そんな言葉は薄っぺらくて、何一つジェンセンの中には残らなかった。
 なのに、ジャレッドの言葉はふわふわと落ちて、ゆっくりとジェンセンの胸の裡に沈んでいく。
 どうして。
「ごめんなさい。俺、先生を困らせてるよね」
「──まあ、な」
 困っている。でもたぶんそれは、ジャレッドが思っているような理由とは、すこし違う。
 ひとまず、出て行くことは思いとどまったようだが、部屋の隅でクッションを抱えてうずくまるジャレッドは、まるで彼のほうこそジェンセンを警戒しているかのようだった。何もしない、というアピールであるらしい。灯の充分でない今は、丸まったシルエットが本物の犬みたいに見えた。
「──なあ、ジャレ、お前は、いつから俺のこと、その……」
 ためらい含みの質問に、けれど答えは明確だった。
「ずっと前」
「……ずっと前」
 揺るぎない声、けれど表情まではわからない。何もそこまで遠くにいることはないのに。
「先生が、家庭教師してくれてた頃から、ずっとだよ」
   
2010.8.23