初めて会ったとき、男のひとなのに、きれいな顔のひとだなあ、と思ったのは確かで、でも当然ながら、それは恋ではなかった。好きになったのはもっと後。ジェンセンがどういうひとかを知ってからだ。
「あー、と、その……俺、覚えてないけど……、何かあったか?」
何か。恋愛に発展するような。
「別に、ドラマみたいなことは何もないよ。そうじゃなくて、」
一週間のうち数時間、それを三回。そうして顔を合わせて、彼から学んで、合間で雑談もして、ときには夕食も共にした。と言っても、もちろん、デートなどではなくて家族の食事、ということだけど。
「いいひとだ、って思った。尊敬に価するひと。優しいし、ね、花火大会のときのこと、覚えてる?」
「……お前が食い物の屋台、片っ端から制覇してたことしか覚えてないけど」
「もー……それはいいよ、そうじゃなくてさ……子どもがいたでしょ。四歳か、五歳くらいの男の子。ひとりで金魚すくいかヨーヨーすくいか、なんかそんなことして遊んでて。俺は何も思わなかったけど、先生がさ『あの子、迷子じゃないよなあ?』って心配そうに言ってたんだよ」
人込みはすごかった。そうした遊びに気を取られて親からはぐれる、というのは、子どもが迷子になる典型的なパターンだから、ジェンセンの心配も無理はないのだけど。
「そのあとちょっとね、二分くらいかな、先生、その子の親が現れるまで立ち止まって見てた。お母さんに手をひかれるその子見て、ホッした顔してさ。優しいねえ、って言ったら、そういうわけじゃない、って怒ってたけど」
照れてたよね、可愛い、と余計なことを言い添えて、ジャレッドが、やわらかな思い出にそっと微笑む気配がした。
「覚えてない」
「うん、そうかも」
彼にとっては、記憶するほどでもない出来事。ごく当たり前に感じ、ごく当たり前に行動しているだけだからだ。
「俺はねえ、それが当たり前な先生が好きなんだよ」
ずうっと好き、と、抱え込んだクッションにあごを乗せて、ジャレッドは甘ったるく囁いた。
「……そんなのお前、……言わなかった。全然言わなかったじゃないか」
最後の日も、今までありがとうございました、と礼儀正しく頭を下げられた。メールのやりとりはしても、会いたいだとか、そんなことは言われたことはない。
「そんなの!」
言えるわけないじゃん、とジャレッドは恨めしげに唇を尖らせた。
「たった十五の子どもの言うことなんか信じてくれる? 『高校に行って、きれいな女の子を見たら気も変わるさ』とか言って適当にあしらわなかったって言えるのかよ」
「う、」
痛いところをつかれて、ジェンセンは言葉につまる。言えない。きっとジャレッドが言った通りの台詞を言い聞かせたことだろう。
でも、十五歳の少年の言うことをいちいち真に受けるのも、かなりどうか、と思われるわけで。
「まあね、自分でもわかってたからね。ちゃんと学校出てさ、仕事始めて、そしたら、言おうって思ってた」
「……待て。それじゃお前は、大学出るまで待つつもりだったのか?」
一体何年だ。──七年。どれだけ気の長い話なのか。感心するより先に、ジェンセンは盛大に呆れた。光源氏かお前は。いや、ちょっとこの例えはおかしいが。
「その間に、俺が結婚したりしてたらどうするつもりだったんだよ」
「大泣きするつもりだった」
「それだけ?」
「他に出来ることないもん」
先生の結婚式で、おめでとうございます、きれいな花嫁さんだね、お幸せにね、なんて適当なことを言いまくった挙句、家に帰って一人で泣くんだ、そんなの簡単に想像できるよ、と、ジャレッドは、すでに泣いてるみたいに潤んだ声でそう言った。
「……………………、」
何事かを言おうとして、しかし、言えることもなくジェンセンは開きかけた口を閉じた。すん、と鼻をすするような音がするのは、もしかして本当に泣いているのか。
賢い生徒だ、と認識していたが、想像外のところがバカだったとは、と新しい発見にため息をつく。未だ、確定どころか予感さえない未来を想像して泣くくらいなら、他にできることがあるだろうに。
今この状況ですら、好きです、と言う以外の行動を選べないジャレッドがおかしい。可愛いんだか、可哀想なのだか、判断は微妙だが。
「ジャレッド」
とんとん、と自分の隣の床を叩いた。
二人して部屋の端と端で座り込んでいることはない。
「ヤダ」
「何で」
「先生の結婚式に泣かないですむように、他の手をうちたくなるかも知れないから」
こんな暗闇の中で二人きり、いっときの激情は去って、雰囲気も落ち着いてしまった。隣にいたりしたら、触れずにいられる自信はない。
「じゃあ、俺が行く」
「え、」
すたすた歩いて、ジャレッドの隣にどん、と腰を降ろした。ジャレッドは、ぎゃー、とゴジラに襲われたような悲鳴を上げた。逃げ出そうとするのを、Tシャツをつかんで引き止めた。
「何だよ、その態度!」
「だって!」
もう先生、自分がどんなカッコしてるかわかってるの、いや普通のカッコだけども、俺には充分刺激的なの、あのさ、俺もいつまでも十五歳じゃないんだよね、もうハタチなんだよね、若い男なの、好きな人にそんなふうに寄って来られて平気なほど枯れてないの、男同士なんだから、そこは気配りしてくれてもいいでしょ!
「……お前」
よくまあそれだけのことを一息で言えるものだ、と見当違いなところに感心した。
「……もう、ねえ、先生、あんまり俺の理性に期待しないで……。先生が俺のこと好きで、そんな態度とってくれてるなら、据え膳だと思って、喜んでいただいちゃうけど、違うでしょ。……俺、……あの人と、おんなじになりたくないもん」
名前も知らないひと。なのに、自分とジェンセンの間に立ちはだかるひと。
嫌いだ。
大っ嫌い。
生きてれば、それこそ便所の床を舐めさせてやるのに。
自分で蒸し返したくせに、自分で傷ついているらしいジャレッドに、ジェンセンはそのもさもさした頭をかきまぜてやった。
お前みたいに先回り先回りで萎れられたら、俺は傷つく暇もないじゃないか。
「…………何を、聞いてる?」
どんな噂を。
「──詳しくは……。ジムから聞いただけだし、ジムは、こういう噂話を鵜呑みにするのは良くないって言うから」
「……そう、」
まだ会ったことのない、話に聞くばかりのオーナーを想像した。良くない話だと知っているだろうに、ジャレッドを留めなかったのか。その手が作り出す菓子と同様、彼の信念も、どっしり一本筋が通っているらしい。
「一年前、ここに先生と来たひとがいるって。そのひとは、あの湖で自殺したって。そんで、──遺書が残ってたって」
「どんな内容か、言ってた」
「……あの、自殺したひとは、先生のこと好きだったとか、そういうことが書かれてたって……」
「──そんないいモンじゃなかったけど」
警察からコピーを見せられた。便箋三枚にのたうつような文字で、文法も何もめちゃくちゃな状態で書かれていたのは、混乱と後悔と、ジェンセンに対する、恐ろしいほどの情動と執着だった。どうしても、どうしても、彼を手に入れたかった、と書かれていた。
「俺って、鈍いのな」
そんなことを思われてたなんて、全然知らなかった。二つ年上の彼は、サークルの先輩で、頼りがいのあるひとだ、と後輩たちから慕われていた。面倒を見てもらった記憶はあるが、自分だけが特別扱いされている、と思ったことはなかった。
「ここに誘われたのも、一緒に行く予定だった友人が、急に都合が悪くなったから、代わりにどうか、って話で……楽しかったよ、釣りしたりさ、泳いだり、あと何してたかな……ああそう、乗馬も」
三日目の夜だった。……それとも、四日目だったろうか。嵐が来るというので、食料を買い込んで、窓という窓を閉め切って、キャンプみたいな気分で酒盛りを始めた。途中で電気が切れたけれど、これも雰囲気があっていい、と言いながらろうそくを灯して飲み続けていた。何も変わることはない、外が嵐だというだけで、それまでと同じ夜。
そう、思っていたのに。
「それから……何があったのか……、よく、わからない……」
ジェンセンは、言いにくそうに片手で口元を覆った。今も、正しくは思い出せない。強いアルコールのせいだったろうか、それとも──何か、普通は口にすることもない、薬の類であったか……せめてそうではなかったと思いたいけれども。
「とにかく、いつの間にか眠ってた。眠ってて、次に気がついたら、身体が動かなくて、それで、」
大きな黒い影が自分の上にいるのが見えた。
とっさに思ったのは、強盗だった。
「あんな嵐の夜に、どこの強盗が仕事に出るんだって話なんだけど、そのときは、それしか思いつかなかった。だって、まさか」
「うん、わかる」
俺だってきっとそう思うよ、とジャレッドは急いで割って入った。
「……変な話だけど、その一瞬は、妙に冷静だった。金出せ、とか言うのかな、財布どこやったっけ、とか、そんなこと考えてたんだぜ。……まあ、武器を突きつけられたりしてなかったせいもあると思うけどさ。こっちは二人いるし、とか、無意識に考えてたんだと思う。──それが、そうじゃないってわかって、欲しいのは金じゃないんだ、ってわかって、パニックになったのは……そのときだと思う」
とっさに押しのけようとした手は、錘をつけられたみたいに重かった。押さえつけられたせいでなく、その気だるさから思うように動かせない身体に焦りが募った。
彼、の名前を呼んだと思う。
そこにいるはずの。
そのとき思いつく、それは最良の手段だったはずなのに。
「部屋の中は暗かったけど、ろうそくが一本だけ残ってた。それが揺れて、そいつの、顔が」
見知らぬ他人ではない人間の顔、が。
「先生、もういいから。ね、無理しないで」
絶望の瞬間を思い出したように、両手に顔を埋めてしまったジェンセンに、ジャレッドは必死で語りかけた。
もういいよ、思いださなくていいよ、辛い思いをして欲しくないよ。
「…………うん、」
ひどい夜だった。嵐は外ではなく、内側で荒れ狂っていた。
ジェンセンが気を失ったのはそれほど長い時間の後ではなく、けれど、たぶんそれは、その夜にもたらされた、唯一の幸いだったと思う。
「朝になって、気がついたときには、誰もいなかった。ていっても、探したわけじゃないけどな」
ただ、この場所から逃げ出したかった。シャワーを浴びて最低限汚れを落とすと、荷造りもせずに飛び出した。
「家までたどり着けたのが奇跡みたいなもんだったよ。帰って、ベッドの中でずっと震えてた。どこにも行けなかったし、誰にも会えなかった。携帯の電源も切ってあった。だから、警察が来るまで知らなかった」
ジェンセンがそこを出て行ったその日、その夜に、彼があの湖で自殺したということを。
覚悟の死、とはいえなかったようだ。事実、残された遺書は、彼の神経がどれほど混乱していたか、という証明のようだった。
「……警察のひとに聞いたんだけど」
「うん」
「彼の家って、すごく厳格なクリスチャンなんだって。だから、同性愛とか、絶対認められないんだってさ。事件が事件だし、挙句に、自殺だろ? 父親なんか、息子の死を悲しむより先に、恥さらしなことを、って言ったらしい」
そんなふうに教えられていたから、余計に同性に恋をした自分自身が許せなかったのか。
「……同情してるの?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
許せる、と思ったことはない。憎んでいるか、と言われれば、迷いなくうなずく。
ただ、彼には彼の理由があったのかと──そう思うこともある、というだけのことだ。
「俺は同情しないよ」
「ジャレッド」
「彼は卑怯者だ」
好きだよ、とひと言口にするだけで、今とは違った未来があったはずなのに、少なくとも、こんなふうに二人ともをダメにする以外の方法があったはずなのに、その勇気が持てないで、一人で勝手に思いつめて、一方的にジェンセンを傷つけた挙句、一人で逃げ出した。ジェンセンからも、家族からも、世間からも非難されることが怖かったから。
「どんな理由があったところで、他人を傷つけてもいいことにはならないんだから」
そう言った声は震えていた。ぽとり、と床に滴が落ちる。それがジャレッドの涙だと知って、ジェンセンは、とうに自分よりも広くなった肩を抱いてやった。
「……馬鹿ジャレ、何でお前が泣くんだ」
「だって」
ジャレッドの世界はとてもシンプルだ。美しいものを美しいと誉め、旨いものを旨いと喜び、哀しいときは哀しいとしおれる。
それは彼の未成熟の証ではなく、満ち足りていることの証明だ。無論、不足しているもの、手に入れなければならないものは、たくさんある。ジャレッドのすごいところは、それを欲しいと迷いなく言える強さを持っていることだ、とジェンセンは考える。彼は、欠けているものを怖れない。ゆえに彼は満ち足りている。
ジェンセンはそういうジャレッドが好きだった。今も彼は変わらない。
「俺は、無くしたもののことばかり考えてる」
あるいは戻らない時間のことばかりを。
「俺が埋めてあげる。先生の無くしたところ。そのまんまにはならないけど、かたちは違っちゃうかもだけど、でも、頑張るから」
「ジャレッド」
「俺は、先生を傷つけたりしない」
「ジャレッド……」
「ほんとに、」
どう言えば伝わるだろう。こんなにも彼を大事に思っていることを。どんな言葉ならわかってもらえるだろう。どれほどか、彼に恋しているということを。
もっと大人になれば、と思っていた。まだたった十五だったころには。
でも、五年経っても変わらない。こんなふうに泣きながらじゃなく、ちゃんと伝えたいことがあるのに。自分はもう、あの頃の彼よりは大人になったのに、いつまでも追いつけない気がする。
「……馬鹿だな、ジャレッド、お前、」
お前が慰めてくれて、嬉しいと思ってるよ。お前の優しい気持ちが嬉しいと思ってる。心無い視線に傷ついたときも、お前がいてくれるだけで、救われた気がしたよ。
「先生」
ジャレッドがゆるゆると顔をあげた。苦笑しながら、まだ目じりに残る涙を爪の先で弾いてやる。
それから、ジェンセンは、近づく二人の距離に合わせるようにそっと目を閉じて、ジャレッドからのキスを受け止めた。
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