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  ■ 七章 ■

 ──ニューヨークへ向かう、就航したばかりのハイテク旅客機がハイジャックに。
 何気なくテレビをつけたら、緊急のアラームの後、そんな速報が画面の上部を流れていった。
「え?」
 ちょうどコーヒーを淹れようとしていたブラッドは、サーバーを手にしたまま、彫像のように固まってしまった。
 たった今、自分が目にしたものを反芻する。就航したてのハイテク機。
 とっさに思い浮かべたのは、当然、E─474機のことだ。
 動けないブラッドの前で、テロップは、再び、画面を右から左へと走り抜けた。
 ブラッドは、反射的に時計を見た。ニューヨークは夕方の時間帯だ。リッチは、今日、現地時間十九時にベルリン発ニューヨーク行きのシップに乗っている。ベルリンとの時差は六時間。つまり、今まさに彼は、ニューヨークに向かう機体を操縦している最中、ということになる。もっとも、当地の天候は荒れ気味だったようだから、定刻通りに出発したかどうかはわからないが、仮に二時間遅れだったとしても、今ごろは三万フィートの上空にいるはずだ。
「……まさか、な」
 まさか、そんなはずは、と首を振る。
 確かに、就航したばかりの旅客機と言うなら、E─474の可能性が高いが、それにしたって、今この瞬間に、一体何機のシップが世界の空を飛んでいると思う、とブラッドは自問した。そのうち、エルジン社の最新機種を導入している航空会社はAALTO社一つではないし、そのAALTO社も、現時点で三機のE─474を保持している。
 必ずしも、リッチの乗ったシップとは限るまい、と己に言い聞かせながら、ブラッドはテレビのリモコンを取り上げた。
 9・11以来、この国は、ハイジャック事件には敏感だ。三つ目のチャンネルで、慌しげなニュースキャスターの顔と、飛行機の写真が映った局に行き当たった。
 ──間違いない。E─474だ。
 そして、見慣れた楕円形のマーク。ブラッドにとって飽きるほどに馴染んだそれは、AALTO社のロゴだった。
 すう、と全身の血が足元に落ちた。
「本日、アルト航空ベルリン発ニューヨーク行き9583便が何者かにハイジャックされたとの報告が、乗務員から入りました。犯人は複数で、機内に爆弾が仕掛けられた模様です。犯人のうち一名が乗務員と接触、彼らはアルト社に対して、指定口座への五千万ドルの振込みと、小型ジェット機を要求しており……」
 後の言葉は聞こえなかった。
 ブラッドの脳裏に、9・11の画像が鮮明に甦る。ツインタワーに激突し、爆発炎上する飛行機。あのテロ事件は、無数と言っていいほどの犠牲者を出したけれど、その、一番最初の被害者になったのは、パイロットたちだった。シップを掌握するためには、必ずコックピットが狙われる。それでも、犯人達の要求が、金や仲間の解放である場合は彼らの生命が即座におびやかされる危険は少ないが、もしも、あのときのように自爆テロが目的だとしたら。
 ──一番最初に言うべきことを言ってないんじゃないのか。
 こんな時に、ジョージに言われたことを思い出した。何を、と、それはとぼけたわけではなかったが、後から気付いた。気付いたけれども、知らない顔を決め込んだ。
 言わない、と決めていたからだ。
 でも。
 もしも、と、考えることすら恐ろしい現実が薄い刃のように首筋に当てられた気がした。
 言っておくべきだった。そうせねばならなかった。一体何にこだわっていたのか、と過去の自分を罵った。
 どうか、無事で。
 乱暴にサーバーを置くと、ブラッドはキッチンを飛びだした。ジャケットと財布、車の鍵。後は携帯電話だけをポケットに突っ込んで、慌ただしく部屋を後にした。

***

 リッチは深い疲労感に襲われて、椅子に座ったまま、うっかりうとうとしそうになった。
 制服を着替えるのも面倒で、厳格な機長らしくなく、ネクタイを弛めただけの姿で深呼吸をする。昨夜、共にグース・ベイの軍用空港で夜を明かした乗客たちは、無事それぞれの目的地についただろうか。
 おおむねの事情はFBIや警察から報せがあったのだろうけれど、リッチは、駆けつけてきたAALTO航空の責任者たちと共に本社に帰って、もう一度詳しく事情を説明せねばならなかった。FAのフィオナはさすがに限界らしいので、すでに帰宅させてある。リッチもあとは帰るばかりなのだが、ここへ来て、心労がピークに達した。
 まったく、何て事件だっただろう。
 テロリスト対策、ハイジャック対策、と外部に厳しく目を向けておきながら、犯人がわかってみれば、エアマーシャルとキャビンクルーだったとは。
 AALTO本社は、上から下への大騒動だ。その余波は、航空会社全般に及んでいる。リッチも、当分の間、渦中にいることになるだろう。彼に非があるわけではなかったが、結果として数名の乗客が軽傷を負い、旅客機が一機大破した。リッチはキャプテンとして、その責を負わねばならないからだ。
 娘を探して、と必死に訴えていたミズ・プラットを思い出す。彼女にも申し訳ないことをした。機内の安全を遵守すべき人間として、彼女のとった手段を肯定するわけにはいかないが──重傷者が出なかったのは、ただ運が良かっただけだ。下手をすれば、死者さえ出ていたかも知れないのだから──、それでも、彼女の勇気と行動力は敬服に値すると思う。
 そもそも、自分がちゃんと彼女の話を信じていれば、と反省する。
 あの時、提示された情報からでは、あの対応で間違ってはいなかった、と、リッチの理性は知っているけれど。
 彼なら、あんな時、どうしただろうか、と、もう長く会ってない元同僚の顔を思い出した。
「リッチキャプ、ちょっといいかな」
 声をかけられて、リッチは慌てて目を開いた。ドアの隙間から顔をのぞかせているのは、人事部長だ。
「あ……、すみません」
「いやいや、大丈夫かい?」
 疲れただろ、とねぎらわれ、お互い様でしょう、とリッチは答えた。
「あなたこそ、お疲れじゃないですか」
「うーん、まあね、しばらくは、嵐の中にいるようなもんだろうね。でも、ああいうエアマーシャルを雇用した責任は、うちの部署にあるからなあ」
 しょうがないよ、と潔く笑ってジョージは頭をかいた。
「君たちクルーにも迷惑をかけてしまった。申し訳なかったね」
「いいえ。彼の犯罪性に気付かなかったのは、私も同じですし」
「うん……。まともな男に見えたと、採用担当は口をそろえて言うんだよ。事実、今までの実績は立派なもんだったし。どこかで道を間違えたんだろうなあ……」
「ステファニーも、頼りになるベテランスタッフでした。あんな事件に関与するとは思えなかった」
「そうか……恋人に引きずられたのかねえ」
 ステファニーも、そういう意味では被害者かもしれんね、とジョージは静かに言った。
「ところで、マークス、君、この事件で我が社に愛想をつかしてないだろうね?」
「は?」
「身内から火事を出したようなもんだからなあ。信頼を取り戻すまで、全社あげての努力が求められる。こんなときに、有能なキャプテンに辞められると、我が社としては大変に痛手だからね」
 そうならないように、ぜひとも引き止めておけ、と上層部から言われてるんだ、ほら、俺にも立場ってもんがあるからさ、残っててもらいたいんだよなあ、とジョージはわざとらしい哀れっぽさで両手を広げて見せた。
「……ああ、いえ、辞めるつもりなんて、全然ありませんよ」
 そんなことは、考えてもみなかった。
 今回の事件だって、リッチがこうむった実質の被害は特にない。もちろん、これからの裁判に出頭せねばならないし、事件の中でのリッチの責任がはっきり決められるまでは待機になるけれど、それさえ終れば、また空に戻ることができる。
「結局、君も、空に魅入られた人間なんだなあ」
 呆れたように笑っているのは、そうして、空から離れられない人間をたくさん、側で見てきたからだろうか。
「──そうかもしれません」
 うっすらとリッチは笑みを浮かべ、眠さに熱を持ったまぶたを開いたり閉じたりした。
 ま、とにかく今日は退社してゆっくり休みたまえ、とジョージはいたわるようにリッチの肩を叩いた。
「表は記者が見張ってる。駐車場に迎えを呼んでおいたから」
「あ……はい、どうもありがとうございます」
 いつもは着替えを済ませてから出て行くのだけれど、さすがに今日は面倒で、コートを羽織るだけにした。クルーバッグを手に、ジョージの後をついていく。
 タクシーを呼んでくれて、本当によかった、とジョージの気遣いに感謝する。自分で運転するなんて、今は絶対にできそうになかった。


 室内型でも、やはりパーキングというのは、寒々としたところだ。スーツ姿のジョージは、「寒い、寒い」と両腕を擦りながら、一渡り、車の列を見渡した。
「あ、いたいた。あれ、あれが君のお迎え」
「あ、どうも」
 リッチの目はタクシーを探していたのだけれど、期待したものは見つからず、代わりに、目の前に突っ込んできたグレイの車に息を飲んだ。一歩後じさったところに、ブレーキの音と、ドアが開閉する音、そして遠慮ない大きさで呼ばれる自分の名前が、ほとんど同じくらいのタイミングで耳に飛び込んできた。
「マーク!」
「……は?」
 運転席から飛び出して来たのは、こんなところにいるはずのない人だったから、リッチは驚いて、やや間抜けな声をあげた。
 何故ここに、彼が。
「え、……ブラッド、ど……」
 どうして、と言いかけた言葉は、ブラッドのコートに吸い込まれて消えた。駆け寄った彼に抱きしめられたと気づいたのは、一、二秒経ってからだった。
「──良かった、あんた、無事で……ほんと良かった……」
「ちょ……ブラッド、あの、待て……とに、とにかく、落ち着いて……」
 腕の中であわあわと言葉を探して、リッチはとりあえず距離を置こうとした。すぐ隣には、ジョージがいるのだ。これが『友情のハグ』だと思われてるうちに冷静になってもらいたい。けれど、ブラッドはぎゅうぎゅうと力を込めるばかりで、リッチは途方にくれてしまった。
 そもそも、一体、どうして彼がここにいるのだろう?
 横から助け舟を出してくれたのは、ジョージだ。
「テレビで、ハイジャックのニュースを見てね、真っ青になって私のところに駆けつけて来たんだよ。こっちもてんてこ舞いだってのに、『マークはどうした、マークは無事か』ってそればっか。仮にもパイロットなら乗客の心配もしろっていうんだ」
「…………」
 地上に降りてからは、テレビカメラや、そのクルー達が雲霞のように集っているのは目にしたが、そうか、上空にいるときから既にニュースだったのか、と、リッチは今さらながらに気がついた。
「ニューファンドランドに行くって言うのを必死で押しとどめて、ここで待ってるように言っておいたんだよ」
「え? じゃあ、あのときからずっと!?」
 あれは、もう十数時間も前の話のはずだ。
 違う、とようやくブラッドが、すこしだけ手の力を緩めた。リッチは、はふ、と大きく息をした。
「ここにいたわけじゃねえよ。近くのホテルで待機してた」
「それにしたって……」
 また、どうして、と眉をひそめ、リッチは体温を確かめるように、ブラッドの頬に手を当てた。
「疲れただろう?」
「……あんたが言うか」
 自分の何倍、何十倍も疲労しているに違いない相手に気遣われて、ブラッドはがくりと肩を落とした。ときどき、幼いほどに天然なのは、リッチの特徴ではあったけれど。
 顔を合わせるのは何ヶ月ぶりだろう。変わったところを探しだそうとするように、まじまじとお互いを検分していると、脇から呆れを含んだ声がかかった。
「じゃあな、ブラッド。後はまかせたぞ。俺は仕事に戻る」
 ここは長居する場所じゃない、とジョージは思った。──色々な意味で、だ。頼まれてもしたくない感じだ。
「あ、どうもありがとう、ジョージ」
 リッチは礼儀正しく礼を言ったが、その身体をブラッドの腕に囲われたままなのが、構図としては、絶対的におかしい。たぶん、そのことに気付かないほど、疲れてるんだろう、とジョージは思った。そうでありますように、という願いもあったが。
「乗って」
 送るから、とブラッドが助手席のドアを開けた。ありがとう、と素直にうなずいて、シートに乗り込む。ぐったりと身体を投げ出したリッチは、温まっていた車内の空気と、リクライニングの角度に誘われて、もうそれだけで眠ってしまいそうになった。
「いいよ、寝ちゃえば」
 しきりにまばたきを繰り返すリッチに、ブラッドは笑いを含んだ声でそう言った。
「ああ……ごめん……」
 ほんと、もう、限界だ、と呟いた声もゆめうつつだ。
 目を閉じると途端に睡魔が襲ってきた。
 ブラッドが運転する車に乗るのも、久しぶりだ、とちらりと考えた。
 眠りに引き込まれる瞬間、何かの違和感を感じた気がしたけれど、その理由を思いつく前に、リッチは意識を手放した。

***

 夢の中で、リッチはあのシップの中にいた。
 五百名以上の乗客を収容できるはずの巨大な密室の中、リッチは一人きりで何かを探し回っていた。
 二階デッキのコックピットルームから、ファーストクラス、ラウンジ、ビジネスクラスを抜け、エコノミーキャビンへ。クローゼットやトイレ、クルーの休憩室、ああもちろん、貨物室も見て回らなくては。
 幾度もシュミレーションを繰り返し、実際の運航もすでに経験している。この機体のことなら、文字通り隅から隅まで知っているはずだ。
 それなのに、今は、まるで見知らぬ場所のように思えた。気持ちばかりが焦るのに、探しものは見つけられない。
 早く見つけなくては、早く、と、一つ一つのドアやカーテンを乱暴に開け放していく。きちんと片付けられたキャビンが、逆に苛立たしさを増長した。どこまでも続くかに見える座席の列を見ながら、リッチは、自分は一体誰を探しているのか、と考えた。
 あの娘だろうか。燃え盛る飛行機から、ミズ・プラットが抱きかかえて出てきた少女。
 それとも彼女たちか。リッチ自身の、大切な三人の娘。
 いや、違う。
 あの少女は、ミズ・プラットが抱きしめていた。
 娘たちは、母親の元にいる。
 では、一体誰を探して。
 誰か。
 ──誰か。
 わからない、でも見つけなくてはならない。
 大切な。
 大切な──?
 がくん、と足元が揺れた。中にいるはずのリッチは、けれど同時に(夢特有の理不尽さで)外から、シップの様子を知ることができた。電子機器室で、爆発が起きたのだ。それは、リッチが実際に目にした光景でもあった。
 前方下部から噴き出した炎と、頭を垂れるように前のめりに崩れた、E─474の巨大な機体。めまぐるしい光を放つ緊急車両の回転灯、サイレン、人々の怒号、足音、ゆがんだ鉄板、そして──黒いアスファルトを染める、血の色。
 違う、そんなものは、見なかった。ジュリアもその母親も無事だったし、カーソンは……カーソンの遺体は、人間と見分けるのも難しいほど炭化していた、と聞いた。
 だから、リッチは、ただ想像しただけだ。
 E─474の中の出来事ではなく、あの日パリで起こった、あの、事故のことを。
 何度も、何度も考えた。そのときの〈彼〉の痛みを共有しようとでもするかのように。
 〈彼〉から奪ってしまったもののこと、〈彼〉が欲しがったもののこと、〈彼〉から与えられたもののことも。
 そして、聞けなかった言葉と言わなかった言葉を悔やんだ。
 こんなふうに見失ってしまうなら、伝えておくべきだった。そうすれば、少なくとも、今後悔しなくてもすんだのに。
 探していたのは。

「ブラッド!」

 ──叫んだ声で目が覚めた。
 目を開いて見れば、そこはエアジェットの中などではなく、見慣れたブラッドの寝室だった。ブラッドの心配そうな顔が、視界に逆さまに映った。
「……ド……」
「マーク……? うなされてたけど……」
 大丈夫? と、訊ねられ、リッチは、花が開くようにゆっくりと微笑した。
 大丈夫。
「見つけた」
「マー……」
 良かった、と手を伸ばして、温かな身体を抱きしめた。
 ブラッドは、想う相手のそんな仕草に、今さらのように大いに戸惑いを見せ、その困惑した表情に、リッチは、はは、と久しぶりに声を上げて笑った。


 シャワーを浴びて、ようやくすっきりした頭で改めて時間を確認すれば、なんと十二時間も眠っていたことが分かった。もうすっかり夜だ。
「信じられない」
 子どもみたいだ。
「疲れてたんだよ」
 カップを差し出しながら、ブラッドは労りを込めて言った。
 ブラッドは一度、リッチを自宅まで送っては行ったのだけれど、どう声をかけても目を覚まさないので、自分の部屋へ戻ってきたのだ。
「あんたんちの鍵が、どこにあるかわかんなくて」
「ああ……すまなかった」
 ちょっと赤くなって、目を逸らし、リッチは口元を撫でた。
「腹も減ってねえ? ファーストフードでいいならデリバリーできるし……簡単なものなら作るよ」
「うん、ありがとう。今は、そんなでもない」
 寝起きなのもあるし、長時間、胃に何も入れてないので、逆にそれほど欲求を感じていない。ああ、現実こそが長い夢みたいな出来事だった、とベルリンからの道程を思い返した。
 ふと手の中を見下ろすと、コーヒーだと思ったカップの中身は、陶器と同じ白い液体で満たされていた。
 ミルクだ。
「…………あ、は、」
 まろやかな匂いにブラッドの気遣いを感じる。やっぱり、子どもだ。リッチののどの奥から、温かな笑い声が音符のようにこぼれ落ちた。
「マーク?」
「いや、懐かしいと思っただけ。ホットミルクなんて、もう何年も飲んでないから」
「たまにはいいよ。胃に優しい」
「うん」
 まだくすくすと笑いながら、リッチは一息にカップを空けた。ミルクははちみつの甘さに、ほんの少しアルコールの風味が混じっていたじんわりと温もりが指の先まで広がっていく。顔を上げると、じっとこちらを見ているブラッドと眼があった。
「……久しぶり」
「……うん」
 会いたかった、と言葉は素直にこぼれ出た。リッチは、ちょっと驚いたように目を開き、一度カップに視線を落としてから、はにかんだような声で「私も」と言った。
 そうだ、会いたかったのだ、と、今さらながらに気がついた。
 話したいことも、聞きたいこともたくさんあって、どこから始めればいいのか迷うほどだ。
「ブラッド、君、どうしてあの便に乗ってるのが私だと知ってたんだ?」
 リッチはシフトを知らせていない。知らせたくなかったのではなく、そうと請われなかったからだ。
 リッチが、移行訓練に明け暮れている間、ブラッドからは、メールの一通、電話の一本もなかった。それが彼の意志なら、尊重すべきだと思った。
「あー、えっと、ジョージに聞いた」
 だから、リッチが無事試験に合格したことも、474の就航第一便の機長に選ばれたことも、その後のシフトも、全部知っている。旧友は、「直接本人に訊けば」と、必ずひと言添えながらも、色々な情報を流してくれた。もっとも、守秘しなくてはならないような重大事項は何もなかったのだけれど。
「……ごめん、勝手に」
「それはいいけど」
 リッチもやっぱり、直接訊けばいいのに、と思ったけれど、言葉にはしなかった。
 そうしたいだけの理由があったのだろうと思ったからだ。
「じゃあ、君は?」
「俺が、何?」
「君は、この半年、どうしてた?」
 こんなにも長く連絡を取らなかったのは、ずいぶんと久しぶりで──というより、出会ってから初めてかもしれない──一体どんなふうに暮らしていたのか、それを知りたい、と言った。
 ブラッドは「メールも電話もしたかったし、会いたかったんだぜ、ほんとは」と唇をとがらせた。じゃあそうすれば良かった、とは言わなかった。そうしたかったのも、そうしなかったのも、自分も同じだ、と気がついたからだ。
 自分たちは、今まで、ずいぶんと色々なものを取りこぼしてきたらしい。
 責めたわけじゃない、ごめん、とリッチは静かに口元をほころばせた。
「それで?」
「うん、まあ、何してたかって言うと、あれだけど……」
 ブラッドは、落ち着きなく指先を遊ばせ、うなだれた首筋を短い爪先でひっかいた。
「ブラッド?」
 挙動不審な友人に、リッチはいぶかしげに眉を寄せる。そんな、言いにくいことをしていたのだろうか。
「いや、べつに胡散臭いことしてたわけじゃねえよ。つまり、その…………リハビリセンターに行ってた」
「え」
 リハビリセンター、と、リッチは、口の中でブラッドの言葉を反芻した。
 そして、同時に、眠りに落ちる寸前に感じた、違和感の正体を思い出した。
 あのとき。
 あのパーキングで会ったとき、そういえば、ブラッドは杖を使っていなかった。車を降りたときも、乗るときも、一連の動作はよどみなく滑らかだった。
 そうだ、考えてみれば、眠りこけた自分をここまで運んでくるのだって、杖をつきながらでは不可能だろう。
 そんな重要なことに気づかなかったなんて、とリッチは自分に呆れた。
「え、と、じゃあ…………え?」
 待って、それってつまり、とようやく事の意味を理解し、リッチは鋭く息を吸い込んだ。
 くるくると顔色を変えるリッチに、ブラッドは、神妙にしていたのもつかの間、は、とうっかり笑い声をもらした。
「笑いごとじゃないだろう」
「だって、あんたおかしいんだもん」
「おかしくない」
 否、やっぱりおかしいだろうか。心臓が痛くて、呼吸をするのも苦しい気がする。
 だって、歩けるだなんて。ブラッドが。あんなふうに背中を傾がせながら、杖に頼ってではなく。
 これが寝過ぎた自分の見た、都合のいい夢だったらどうしようか、と思った。
「た──立ってみて」
「え?」
「立ちなさい、と言ってるんだ」
 Stund up! と厳しい声が飛んできた。まるで訓練時の教官のようだ。
 反射的に立ち上がったブラッドを、リッチはまじまじと上から下まで検分した。何の支えがなくとも、その身体は揺らぎもしない。
「歩いて、みて」
 今度は、「歩け」、と命令される前に、ブラッドはその足を踏み出した。
 ゆっくりとではあるけれども、たじろがない確かな歩みで、部屋を横切っていく。リビングの扉まで行ったところで、ブラッドはくるりと振り向いた。
「次は、教官? 外へ出てランニングでも?」
「ば……」
 馬鹿だな、とリッチは顔を歪めた。笑おうとしたのに、泣きそうな表情になった。
「マーク」
「……ああ、悪い……その、嬉しくてさ。良かった。君が……」
 諦めてなくて。
 君は正しいよ、ジョージ。
 さすが、伊達に付き合いが長いわけじゃない。
「走ったりも……できるのか?」
「さすがに、フルマラソンは無理だけどな。他のスポーツも、ごく普通に楽しむ程度なら」
 そうか、とリッチはうなずいた。ややうつむき加減なのは、昂ぶった感情を抑えようとしてのことだろうか。
 良かった、ほんとに、と喜びばかりを口にする想い人はあまりに無邪気で、毒気を抜かれてしまう。今頃何を、何故もっと早くに、と、そう責められて当然だと言うのに。
 どうしようか、実はまだ、話は半分なんだ、と告げれば、やわらかな陽射しのような笑顔のひとは、どんな顔をするだろう。
 今の今まで、さほど感じてはいなかった罪悪感が、突然に成長して胸を噛んだ。悪意はなかった。けれど、無心でもなかった。すくなくとも、こんなふうに、無条件に喜んでもらうには、邪心があった。
 ブラッドはひとつ息を吐くと、神父に告解する罪人のようにうなだれ、思い切るように息を吐いた。
「あのさ、……あんたがつっこんで訊いて来なかったから、言わなかったんだけど」
「何?」
 小首を傾げたリッチに、ブラッドは目を合わせることもできない。秘密になんてするんじゃなかった。彼が、どんなにか自分を心配してくれていることをわかってはいたはずなのに。
「確かにリハビリしてんだけど、歩けるようになったんだけど、それって」
 もっとずっと前からなんだ、とブラッドはそれはそれは決まり悪げに告白した。
「────え?」
 ぽかん、と口をあけて、リッチはブラッドを見つめた。
 前から?
「──前からって?」
「だから、ほんとは、リハビリ……やってたんだ。あ、退院してすぐはやってなかったけど。でも、一ヵ月後くらいからは、ずっと」
「…………な…………」
 何だって、と問い返すことも忘れ、リッチは、懸命に今の言葉を咀嚼しようと頭を働かせた。混乱で、眩暈がしそうだ。眠りすぎたのだろうか。
 だって、それなら、つまり。
「あ──歩けた?」
「……うん」
「ずっと?」
「完全に杖が取れたのは、三ヶ月くらい前だけど、それ以前も」
 部屋の中歩くくらいなら、杖なしでも大丈夫だった、と隠していた事実を語った。
 どう頑張ったってコックピットに戻れないんだったら、努力なんかしない、と自棄を起こしていたのは本当だ。でも、最初の激情が去ってしまうと、中学生みたいなヒステリーを続けていくのは難しかった。そんな自分を滑稽だと思う程度の客観性と、そうしてベッドで丸まっていたところで、世界は変らず回っていくのだと理解する程度の経験値は持っていたからだ。
 何より、そうして内側にばかり篭って自己憐憫にひたるのは、ブラッドの性格にはそぐわなかった。
 リッチに話さなかったのは、畏れていたからだ。
 時折、ごく慎重なタイミングで、リハビリは、と訊ねられた。別に、と冷たい口調を装えば、それ以上のことは訊かれなかった。案じてくれていたのも、彼を傷つけていたのも、よくわかっていたけれど。
「え、でも君、ずっと……あれ、それじゃ……」
 何故、と、おろおろしていた機長は、充分な時間をかけて、ようよう自分の置かれた状況を納得した。
「だ……だまされてたのか、私は?」
「──まあ、結果としては、そうなる」
 だましたかったわけではない。
 けれど、大丈夫だと告げれば、リッチが離れていってしまうのではないかと、それに怯えた。リッチの意思など、毛ほども考慮しないで無理強いした関係だったから、理由がなくなれば、傍にいてもらえるはずがないからだ。
 ごめん、と、ブラッドは、首を垂れたまま、深い後悔を滲ませて、謝罪の言葉を口にした。
「謝る。だましてたことも、あんたを傷つけたことも、全部。俺……」
 どういうことだ、と怒り出すかと思ったリッチは、口元を覆うと、思慮深い双眸をしてしばらく黙り込んだ後、悪戯を見つけた大人のような顔でブラッドを見た。
「……言い訳は?」
「言い訳?」
「理由を、説明してはくれないのか?」
 どうして、と、それは、ブラッドにとっては、あまりに根本的な問いかけだ。
「理由、なんて、そんなの……」
 そんなものは、たった一つしかない。
 伝えておけば良かったと、後悔した言葉も。
「あんたが好きだったから。ずっと、──あんたが、AALTOに来たときからだよ。あ……」
 愛してるんだ。
 それは、ひどくたどたどしい言い方だったけれど、長い間、しまい込まれていた言葉は、変わらぬみずみずしさでもって、胸の裡を満たした。一方的な愛情は、何の免罪符にもならないかもしれないけれど、こうして伝えることができて良かった、と思った。
「ブラッド」
 情実のこもった告白に、リッチは途方にくれて、軽く唇を噛んだ。
 そんなことが理由だというなら、自分たちのしていることは、喜劇に似ている気がする。なのに、笑い出せないところが、末期だ。
「馬鹿だな……君、」
 そんなことは。
「とっくに、知ってた」
「え……」
「知ってた。気付いてたよ、ブラッド」
 そうでなければ、いつまでもこうして彼の元へなど、来るはずもないのに。
「でも、勘違いかな、とも思ってた。図々しすぎるようにも思えたし」
「そんな……ことは」
 伝わってしまったことに気付いていない者と、伝えられないのに気付いてしまった者は、ようやく真正面から眼を合わせて話をできるようになった。
「あの」
 薄く緊張しているらしいブラッドに、リッチは笑った。初めて一緒のシップに搭乗したときですら、こんな殊勝な様子は見せなかったはずだ。
「笑うとこかよ」
「だって、変じゃないか」
 だまされていたはずなのに、少しも腹立たしくない。ただ、君が、そうして元気になって良かった、と思うばかりだ。
「ジョージが喜ぶ。うちの娘も」
 みんな、君を心配して、愛してるから。
「──あんたは」
 どうなんだよ、と今さら、そんなことを訊いて来る。けれど、考えてみればリッチのほうも、はっきり言葉に出して伝えたことは一度もなかった。
「私も嬉しい」
 嬉しいだけか、とブラッドは当然ながら食い下がった。リッチは心の裡を確かめるように睫毛を伏せ、二呼吸ほどの後、君が好きだ、とかすれた声で、静かに告げた。



 穏やかな口付けから始まる行為に、ブラッドもリッチも、少しばかりの戸惑いを感じ、お互いの眸の中に同じ想いを見て取って、今さらのように照れた。
 そうして、腕を絡め、脚を割って、隙間なく抱き合った。
 愛情を持って振舞うこと、それを表すことにためらわずにいられること。相手が、それを受け入れてくれること。
 そうして始まるセックスに、二人して溺れた。穏やかに触れ合って、傷つけるようなことは、言葉でも仕草でも一切したくなかったし、しなかった。それなのに、快楽は深く、激しく、何度求め合っても、まだ足りない気がした。
 両脚を抱え上げるようにして、リッチの後ろを犯していく。すでに何度も擦られた腸壁は熱を持っていて、ブラッドの雄を熱く締め付けた。
 中には、自分の放ったものが残っていて、突き上げるたびに、聞くに堪えないような水音を立てた。
「あ、……う……っ……」
 胸を喘がせながら、リッチは、短い嬌声を上げ続けた。喉が腫れぼったく感じるし、関節のあちこちがひしゃげているような気さえする。涙も、流れっぱなしだ。
 明日は、ひどいことになるだろう、とほんのわずかに残った理性が警告を出したが、それでも、離れたいとは思わなかった。
 伸ばした腕で、ブラッドの肩をつかんだ。彼の身体には、左足のみならず、いたるところにあのときの痕跡が残っている。あの事故の大きさを改めて思い知る気がした。
 傷口にそっと触れると、気持ち悪いか、と訊ねられた。心配そうな顔がおかしかったので、全然、と笑って答えた。
 ブラッドが生きていて良かった、と、ただそのことを感謝した。


 ようやく身体を離した頃には、二人とも疲労困憊で、夢うつつにシャワーを浴びた後、ベッドに倒れこむようにして数時間まどろんだ。懸念したよりも目覚めは爽快で、二人は、顔を見合わせて、おはよう、と笑った。こんな、当たり前の朝の光景さえ、今までには存在しない時間だった、とそんなことに気がつく。
 ちゅ、と触れ合わせるだけのキスをして、してから、その甘やかさに、二人してはにかんだ。新婚でもあるまいし、と思ったが、口に出すのも恥ずかしかったので、黙っていた。
 昨夜の激しさはみじんもなく、ただ、お互いの温もりを分かち合うように抱き合った。
 そうして、またすぐにでも眠れてしまいそうな穏やかさの中で、あのさ、とブラッドが睦言の続きのように囁いた。
「……俺、会社へ戻ろうと思う」
「え?」
「もう、コックピットにはいられないけど……パーサーとして戻らないかって、ずっと誘われてたんだ」
 リッチは驚いて顔を上げた。
「キャビン・クルーとして?」
「うん」
 誰に、だなんて、そんなことは訊かなくてもわかった。
 二人共通の友人である、あの人事部長に決まっている。
「今さら、訓練受けなおすのもな、とは思ったんだけど……。あいつ、『教官になって、FAの卵に囲まれたいならそれでもいいぞ』、なんて言うんだぜ」
 それも、妥当な選択ではあろうし、(ジョージの言い様はともかく)意義のあることではあるけれど。
「やっぱさ。空にいたいっつーか」
 どうかな、あんたはどう思う、と訊かれ、リッチは懸命に言葉を探した。
 胸がどきどきして、手足が冷たくなる。恐れではなく、高揚感がもたらす心的反応だ。
 ブラッドが。
 戻ってくるなんて。
 想像もしなかった。
 どうしよう、嬉しい、と子どものように率直に思った。
「き……君には向いてると思う。コミュニケーション能力も高いし、リーダーシップもあるし、判断も、冷静で的確だ」
 乗客へのサービスとコミュニケーション、安全なフライトのための機内サービス業務の知識、刻々と変化する状況に対する臨機応変の適応力、FAたちの調整・管理・業務配分。パーサーは、キャビンで起こるすべての出来事への対応と、責任を担っており、その役割の重要さから〈客室の機長〉とさえ呼ばれている。
 ああそうだ、まったくそれは、ブラッドに相応しい仕事であると思う。よく見てるだろう、と自慢気な顔をしている人事部長の笑顔を想像した。
「あんたがそう言ってくれるなら、自信持つよ。自分じゃ操縦桿を握れなくてもさ」
「……うん」
「あんたの操縦するシップで、一緒に飛べたら、って」
「……うん」
「頑張るからさ」
「……うん」
 君が帰ってくるのを、待ってる。
 熱くなった目元をごまかすように、強く目を閉じた。
 すでに昨日泣きはらした瞼では、あまり意味はなさそうだった。

 
2013.10.16再録