片道切符
─3─

「……帰れない?」
 例の書類をくしゃくしゃに握りこんで、しょんぼりと肩を落としているショーンの姿に、ブラッドはとにかく何か言わねば、と焦って、寝癖のついた頭のてっぺんをほりほりと掻いた。
 別れてから、まだ二十四時間も経ってない。
 今日は変な体験をしたなあ、と思いながら眠りについたブラッドは、まだ薄闇が残るほどの早朝に、「ウィリアム、ウィリアム」というか細い声で起こされた。
 ブラッドの家系の男子はウィリアムだらけなので、それぞれに呼び分けがされていて、だから最初はそれが自分を呼んでいるのだとは気づかなかった。そもそも、まだまだ起きる時間ではなかったのだから、思いっきり夢の中だった。何度か名前を呼ばれ、最後に焦れたのかこめかみの辺りの髪を、ぎゅっ、とばかりに引っ張られて、ようやく目が覚めたのだ。
「…………?」
 何かがひっかかったのか、と開き切らない目のまま、手探りで側頭部のあたりに触れると、何か温かくてちいさなものが手のひらに収まった。驚いて飛び起きると、半べそみたいな顔をした例の神様がそこにいた、というわけだ。

 とにかく話を聞くよ、と、ベッドを抜け出したブラッドは、昨日と同じように二人分のコーヒーを淹れた。ちょこんとテーブルの上に座ったショーンは、いまだ途方に暮れてはいたが、すこしは落ち着いたようだ。ピッチャーを両手に抱えて、昨日の出来事をぽつりぽつりと話し始めた。
 実はここから歩いて十五分(もちろん、人間の足でだ)ほどのところに住んでいる「ウィリアム・ブレイディ・ピット氏」は、御年七十一歳、実にブラッドの三倍近い人生経験を積んだご老人だった。余裕のある暮らしをしているようで、「ここの三倍くらいあるフラット」に住んでいた、とショーンは言った。神様だけあって、実に正直だ。ここだって、独りで住む分には充分過ぎるくらい広いんだぜ、と内心だけで抗弁しておく。
 W・B・ピット氏の願い事というのは、遠い地に住む、娘と孫に会いたい、という、ありふれた、けれど当人には切実なものだった。
 というのは、ピット氏が掌中の珠として育てた一人娘は、(ピット氏の判断によると)とても彼女を幸せにすることなどできそうにない、無名のピアニストと恋に落ち、父親の反対に合うと、さっさと家を出て、その男と一緒になってしまったのだ。二年間の音信不通の後、幸せに暮らしていること、娘が生まれたこと、家を出たことは後悔していないけれど、その際父親に向かってぶつけたきつい言葉の数々については反省していること、などを綴った手紙がピット氏のもとに届いた。
 生憎とピット氏は意固地な性質で、その内容にほだされはしたものの、自分からも和解を求めるようなことはできず、その手紙は引出しの奥にしまわれた。それがもう一年近く前の話だ。
 その間、娘に連絡をとってみようか、手紙を書いてみようか、と思わなかったと言えば嘘になるが、まあ今日でなくても、来週なら、来月こそ、と理由をつけては先延ばしにしていた。
 そうしてある日突然、脳卒中の発作を起こした。命はとりとめたが、言語中枢と左半身に麻痺が残った。
 病気自体は不幸な出来事だったが、これは娘たちと連絡をとるのにいいきっかけになると思われた。しかし、事情を知る人たちが、そう勧めるのとは裏腹に、ピット氏はますます頑なになった。
 今、娘を呼んだりしたら、自分にはそのつもりがなくても、病後の世話をして欲しいからだと思われるだろう、と考えたからだ。
「……頑固だな」
「わたしもそう思う。人間というのは、時々わからないことをする」
 遺言状を書き換えたりする時間があるなら、素直に電話の一本もかけてみればいいのに、とショーンは眉を寄せた。
「でも、結局あんたが会わせてやったんだろ?」
 頑迷ではあるけれど、悪人ではない彼のために。
 だが、フォローのつもりだった言葉は、却ってショーンを傷つけたらしい。しおしおと、カップの中に頭を突っ込みそうなほどうなだれたショーンは、かろうじて聞き取れるか聞き取れないかの小声で否定の言葉を口にした。
「何もしてない」
「え、でも」
 彼はそのために人間界へやってきたのではなかったか。
「私は何もしてない。彼のところへ行ったら、もう彼女と子どもは、彼の側にいた」
 彼女は、数年ぶりに会う父親の枕元に座り、不自由な左の手を両手で包み込んで、とりとめもないことを次々にしゃべっていた。その合間合間に時折はさまる、「バカねえ」という言葉も、まなざしも、かつて二人の間にあっただろう剣呑さはどこにもなく、ただ穏やかなばかりだ。母親の後ろには、三つくらいの少女がいて、生まれて始めてみる「おじいちゃん」に、照れたような微笑を見せていた。
 ピット氏は、しかつめらしい表情を作ろうと苦心しているようだったが、骨の目立つ右手で、何度も何度も乱暴に目元をぬぐっていたので、彼の努力はまるきり報われてはいなかった。
「……それって、良かったんじゃないの?」
「良かったんだ。いいことだ。本来、私の力なんか介在せずに、そういう結果になるほうが、人間のためには望ましいんだ。……ただ、」
「あ」
 そうか、そこへつながるのか、とようやく気づいた。
「願い事を叶えられなかったから、帰れねえの?」
「わ、わからない。こんなの、初めてで……」
「いつもは? どんなふうにして帰んの?」
「願い事を叶えたら、自動的にチケットが送られてくる」
「……へえ……………………チケット……」
 何のチケットだ。バスや地下鉄や飛行機じゃないのは確かだと思うが。
 いや、彼らの世界のシステムについては深く考えまい、とブラッドは首を振った。ファンタジーと 現実世界が妙に入り混じっているようで、理解しようとすると混乱する。
「あんたの方から、向こうに……えーと、派遣元っての? そこに連絡する方法はないの」
「あるけど、通じない。最初に間違った場所に出たから、エラーが出たのかも……」
「ああいうアクシデントも、珍しいんだ?」
「…………」
 たっぷり一分は黙り込んでから、ショーンはぷく、とほっぺたを膨らませ「普通はあり得ない」と拗ねた声で言った。
 
2013.11.27再録