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「じゃあ、俺出かけるけど……大丈夫?」
朝から何度も繰り返した言葉を、いまだにしつこく口にするから、ショーンはぷつんぷつんと茹で過ぎのパスタみたいにひんぱんにキレる。ブラッドのほうは、ショーンの癇癪をまるきり意に介してないから、余計に腹立たしい。
「子どもじゃないんだ! この世界のこともわかってる。すくなくとも、何をしちゃいけないかくらいはな!」
「そりゃそうだろうけど……ほんとに一緒にいかねえ?」
「い・か・な・い!」
これ以上がたがた言うなら、頭の上でコップをひっくり返してやろうと〈力〉を集中する。何をされるかはわからなかっただろうが、迫力だけは伝わったらしく、ブラッドは何度か振り返りながらも、それ以上言い募ることはしないで、おとなしく仕事に出て行った。
まったく、子ども扱いして! と、憤懣やるかたなく、ショーンはリビングのソファに飛び込んだ。三人用の標準サイズだが、ショーンにとっては果てのない平原にも感じられる。低いテーブルの上には、テレビのリモコンと、電話の子機がそろえてあった。何かあったら電話して、出られなくても後からかけ直すから、と、やっぱりショーンを年端もいかない子ども扱いをしたブラッドが置いていったものだ。さすがに、電話の使い方を知っているか、とは訊かれなかった。訊かれてたら、反射的に噛みついていたかも知れない。
そんなものを使わなくても、ショーンは一瞬でブラッドの元へ飛ぶことができるのだが、最初が最初だったので、信用されてないのだ。腹立たしいことに。
だが、親切ではある。こんな得体のしれない存在に対しても、彼は誠実だ。大体、ブラッドには何の関係もないというのに。
長らく存在してきたが、初めてのイレギュラーな出来事に動揺して──そうだ、認めるのも癪だが、自分は動揺していたのだ──直前に迷い込んだ青年の元へ返ってしまった。すかすかと平和な眠りを貪っているブラッドを見たら無性に寂しくなって、無理矢理に起こすような真似をした。まだあたりは暗い頃だ。
眠りは足りていないだろうに、ブラッドはショーンのためにコーヒーを淹れ、ショーンの話を聞いてくれた。そうして、ようやく自分の行動を恥じるくらいには落ち着いたショーンが、いとまを告げると、帰れないんなら、しばらくうちにいたら、と言った。
いっとき、この世界にいることになったところで、ショーンたちは別に困らない。食べるものも眠るところも、本来、彼らには必要ないからだ。長らく人間と関わっていると、すこしずつ様々な趣味嗜好を覚えもするが、なければ困るようなものではなかった。
ショーンがそう言うと、ブラッドは、ああうん、そういうんじゃなくて、とちょっと口ごもってから、「帰るあてのないときに、馴れない場所で一人だと、心細いだろ」と柔らかな声で言った。
「とりあえず、二、三日様子を見たら? もしかすると、明日にでもそのチケットってのが送られてくるかもしれないし。もう一人くらいなら、何とか住めるよ、大体あんたそのサイズだしさ」
ハムスターみたいなもんじゃん、とはさすがに口にしなかった。悪気はなくとも、間違いなく怒るはずだ。
「…………」
ショーンは、自らやっかいを受け入れようというブラッドの真意を推し量ろうとした。人間が善良なばかりの生物だなんて、これっぽっちも思っていない。むしろ、彼らの悪意や欲深さについては、よっぽど赤裸々に知っている。
けれど、目の前で返事を待つ青年からは、珍しい便利そうな生物だから捕まえておこう、というようなさもしい考えはまるきり感じられなかった。彼は、本当にショーンのことを思って自宅への滞在を提案しているらしい。
底抜けのお人好し、というふうではないが、基本的に善人なのだろう。
黙り込んだショーンに、いや、無理に引き止めてんじゃないけど、と慌てたように付け足すところなど、間違いなく。
別に、一人でも困りはしないのだけれど。別に、心細いとか、そんなわけでもないのだけれど。
「…………じゃあ、……ちょっとだけ……」
そうして、ショーンはブラッドの家の居候になった。
ソファの上で行儀悪く大の字になって、ショーンはぼんやりと天井を見上げた。あるじのいない部屋は、しんと静まり返っている。
彼の仕事は俳優だと言う。有名なのかと訊くと、最近はちょっと知られてきたかもしれない、と笑った。帰りは夜になると言った。本当は、彼が一緒に行かないか、と誘ってくれたのは、ショーンに留守番をさせるのが心配だったからではなく、一人ぼっちの時間の長さを慮ってくれたからだとわかっている。
「つまんなくねえ?」
「テレビでも見てる」
「え」
テレビなんか見るの、と驚いたブラッドに、ビールを飲みながらサッカー観戦するのが好きだ、と答えた。よほど意外だったのだろう、ブラッドは目を剥くほど驚き、しばしの沈黙の後で、派手に吹き出した。
神様がビール片手にサッカー鑑賞なんて、とひとしきり笑ってから、ケーブルテレビのスポーツチャンネルについてと、冷蔵庫に入ったバドワイザーのことを教えてくれた。
とりあえず、まだ正午も回らないうちからビールというのも気がひけたので、テレビのスイッチだけを入れる。途端に賑やかな音がほとばしり出た。ここのスピーカーはずいぶん品質がいいようだ。画面も大きい。ぽつぽつとチャンネルを切り替えるうちに、サッカー中継に行き当たった。
考えてみれば、こんなふうにのんびりテレビを見るなんて、ずいぶんと久しぶりだ。人間の発明した娯楽の中では汎用性の高さといい、手軽さといい、よく出来たものだと思うが(だから、あっという間に各家庭に広がったんだろう)、それを見るためだけに人間界に出てくるほど依存してはいないからだ。
なのに、まさかこんな先の見えない状況で、一日テレビに向き合うことになるとは思わなかった。
わあわあという応援席の喧騒をバックに、淡々と実況しているアナウンサーの声を聞きながら、ショーンは所在のなさにみじろいだ。
ブラッドは、どことなく「彼」を思い出させる。外見も、年齢も、立場も、何一つ似てはいないのに。
「彼」は、ショーンに「ショーン」という名前をくれた少年だ。ショーンは、これまでにも便宜上、あるいは親愛の情を込めて、人間用に幾つかの名前を持って来たけれど、ここ三十年ほどはずっと、少年にもらった「ショーン」で通している。ショーンにサッカーの面白さを語ってくれたのも彼だ。
少年は、イギリス北部の地方都市に住んでいて、あの国の子どもらしく、サッカーなら何でも好きだったけれど、ことに地元のサッカーチームを熱烈に応援していた。あいにく、強豪チームとはいかなかったので、知名度は低い。案の定、ブラッドも知らなかった。けれど少年は一生懸命だったし、その情熱は、いつしかショーンにも伝染した。
画面の中で走り回っている人間たちが何をしているのか、まったく知らなかったショーンに、彼は飽くことなく、ひとつひとつ解説を加え、ルールを説明し、選手の顔と名前を教え込んだ。わずらわしがるどころか、こんなに面白ことは初めてだ、と満面の笑みで。ショーンが知識を吸収するたびに、少年は年上の教師のような顔で「よくできました」と大袈裟なまでに褒め称えたものだ。
けれど、それほどこの球技に詳しいと言うのに、少年は一度も本物のプレイを見たことがなかった。自分でボールを蹴ったこともなかった。外で走り回った経験すらない。
少年は、生まれつきの病気のせいで、無菌室の外には出て行けない身体だったからだ。
だから、ショーンは彼の側にいた。
──いつでも一緒にいてくれる友達。
それが、彼の願い事だった。
ショーンが新しく与えられた名前に馴染み、サッカーのルールをすっかり覚え、贔屓のチームの選手どころかスタッフの名前まで全部、そらで言えるようになった頃、少年はいなくなった。役目を終えたショーンは、帰りのチケットが水浸しになるほど涙を流し続けた。
今なら助かる病気だったかもしれない。けれど、彼は正しく生をまっとうした。自分自身を可哀想だなんて一度も言いはしなかった。だから、ショーンも少年の死を悲しみはするが、哀れみはしない。
そうして、今でもショーンはサッカーが好きだ。
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