■ For a white night -2
花束を持って現れた友人の息子に、グローリーはすこし目を見開いた。
年ごろらしく、繊細で、傷つきやすく、それを知られまいと必要以上に排他的になっている少年が、一人で自分の見舞いに来るとは思わなかったからだ。
とはいえ、彼の本質は、優しくて真面目なのだとグローリーにはわかっている。
豪華とは言えないけれど、たぶん、彼の精一杯であろう花束に、にこりと目を緩ませた。
もう、声を出すことはできない。
機械による平坦な音声は気に入らなかったが、意志疎通をしようと思えば是非もなかった。
「ありがとう。きれいだわ」
「……何が好きかわからなかったから」
ぶっきらぼうに少年は言い、母さんの好きな花、と小さくつけたした。
掛け違って、きしんでいた歯車は、大きな代償を必要としたが、ようやく、おさまるところへおさまったようだ。
伝えてくれたのは、カイルである。
うちに、家出少年がいてね、で始まった話は、裁判中に思いがけず露見されたジョージーの過去の話につながっていた。
ジョージーの負った傷の深さ。
ブラッドの負わされた、傷の大きさ。
たまらないわ、とグローリーは眼で訴え、彼女の夫は、静かにうなずいて、わかるよ、と言葉にせずに伝えてきた。
「あの子に何をしてあげたの?」
カイルは、ブラッドはジョージーのところへ帰ったよ、とそれしか語らないけれど、まさかに追い出したはずはないのだから、二人の間に何がしかのやり取りがあったのは確かなはずだ。
「──特別なことは何も。すこし話をして……時計をひとつ、ね」
あげちゃったよ、とカイルは照れくさそうに笑った。そんなふうに、わかりやすい形で好意をあらわしたことを面はゆく思っているのかもしれない。
「喜んでくれたみたい?」
「さあ……わからない。別に、売り飛ばしてもいいんだよ。もう、あれは彼のものだから」
あらまあ。
そんなことされたくないくせに、と悪戯っぽく笑ってやった。意図は正しく通じたようで、カイルはちょっとだけ顔を伏せて、うなじのあたりをかいた。
その拍子に開いた襟元から、小さな痣が見えて、グローリーはどきりとする。
今のは何だったのか、と確認する前に、それは分厚い生地の向こうに隠れた。
「……何か、してほしいことは?」
「キス」
「何だ、急に」
「急にしたくなったの。いいでしょ、してよ。できるうちに」
できるうちに、は、最近のグローリーの口癖だ。けっして投げやりになっているわけではなくて、ただの事実だと思っているから、口調は明るい。カイルは、一瞬だけ寂しげな眼をして、希望通り、妻の唇にくちづけた。
柔らかく触れ合った瞬間に、行儀悪く片目を開ける。間近に見たそれは、やっぱりどうしても、キスマークに見えた。
(うーん)
カイルが帰った後で、グローリーは、気持ち的に腕組みをしているつもりになって、そっけない白の天井をにらんだ。
カイルは気づいていない。首の後ろあたりだから、鏡の前でうんと顔をひねらないと見つからないだろう。
妻の入院中に、夫が浮気をする。
よくある話ではある。
あるが、しかし、あのカイルが、そんなことをするだろうか、とグローリーはそのことに悩んでいる。
(……しないと思うんだけど)
むしろ、それができるくらいなら、グローリーの心残りは、ほとんど解消される、と言ってもいいくらいなのだが。
幸か不幸か子どももいないわけで、遺してゆくのが心配なのは、夫のカイルだけである。
病いを受け入れ、正面から立ち向かうグローリーの強さを、みんなが賞賛する。
けれど、彼女とても、最初からそうだったわけではないし、今もきっと、カイルがいなければ、ずいぶんとみっともないことをしたのではないか、と思う。
だいたい、八十や九十にならないうちに〈余命〉を聞かされて、平然としていられる人間がいるはずがない。
三つ目にかかった病院で、ようやく病名が判明した。けれど、それを聞かされても、どんな病気なのかちっともピンとこなくて、いざ、その意味するところを知ったあとは、怒り狂って、大暴れもした。
──そう、あれは「怒り」だ。
何故、私がこんな目に、という。
そうして、怒って怒って怒って怒って涙が出るまで怒りつくして、彼女が平静を取り戻すまで、カイルは辛抱強く待っていてくれた。じわじわと身体の機能を失いながら、でも確実に死に向かう妻を側で見ていることがどんなに辛いことか、ということに思い至ったのは、そのときだった。
大切なひと。
自分の、男を見る目の確かさに、グローリーは満足する。
私がいなくなっても、ちゃんと人生を楽しんで欲しい。いずれは、あっちで会えるはず。私は、ちょっと先に行くだけ。向こうでちゃんと待っててあげるから、慌てなくてもいい。
(んー、でも、心当たりもないわねえ)
やっぱり気のせいかしら、と思いながら、いつのまにか眠っていた。
ブラッドが見舞いにやってきたのは、その翌日のことである。
うーん、と再びグローリーは内心で腕組みをした。
これは、完全に予想外だったわ、と思いながら。
かける言葉もみつからないらしく、ブラッドは居心地悪げにベッドの足元のほうに立っている。けれど、「じゃあ」とも言い出さずに、懸命に何ごとかを考えているらしい。
ブラッドは、何かを知りたくてここへ来たのだと思った。
何を?
グローリーとブラッドのエリアを共有するものは二つしかない。彼の母親か、彼女の夫、だ。
そんな思い詰めた眼をして。
若いのね、とグローリーはすこし笑った。彼の持っている、長い未来を思う。
「……カイルは」
はっとしたようにブラッドが目を開いた。グローリーは、ことさらゆっくりと、言い聞かせるように言葉を繋いだ。
「カイルは、強いわ。でも、寂しいとダメね。一日中、時計と向かい合ってる」
「……あれは、寂しいから?」
好きだからだと思っていた。
「もちろん、好きよ。動かなくなった時計が、もう一度、動き出すのが、好きなの」
私も時計だったら良かったんだけど、とグローリーは陽気に笑った。
ブラッドは、彼のほうが傷ついた顔で黙り込んでいる。
大丈夫よ、と、言った顔は落ち着いていて、これでは、どちらが病人かわからない。
まだ、彼にはわからないのだ。死を受け入れること、そうしてもいいと思えるほどに、満たされた人生を送る、ということ。
あたりまえね、たぶん、彼の人生はまだ始まってもいないんだもの。
「……どうして、そんなふうに静かにいられるの。あなたも……カイルも」
「幸せだったからよ。今もね。いろいろなことに感謝をしてる。こうして、あなたが来てくれたこともね、ブラッド」
「……グローリー」
ああ、ばれてるんだ、とブラッドはいたたまれない気持ちになった。ひとりでに頬が熱を持つ。けれど、逃げ出してはいけない。
彼女の目はまっすぐで、嘘やごまかしを許さない厳しさがある。けれどそれは、正面から向かえば、どんな現実だろうと受け入れてくれる潔さでもあった。
「俺……カイルが、好きだ」
声は思ったよりも震えなかった。好きなんだ、ともう一度繰り返すと、グローリーは「わかるわ」と微笑した。
「こんなこと……言おうと思って来たんじゃないんだけど……」
「聞かせてもらってよかったわ」
「怒らねぇの」
「そうねえ」
レイプだったの、と真顔で聞かれ、ブラッドはもうごまかしようもなく真っ赤になると、ぶんぶんと首を横に振った。
「でしょうね。まあ、無理よね」
もしそうなら、絶対に許さないけど、と上げた眉の端で訴えた。それはちゃんと伝わったらしく、ブラッドは「違うよ」ともう一度強く主張した。
「私は、もう、死ぬのは怖くないの。幸い、と言うのか……、私には子どももいないし。一番の心残りは、カイルだったの。でも、それも心配しなくて良さそうね」
「こころのこり」
「当然でしょ?」
大切な人だもの、と、グローリーは言った。
「カイルを、お願い。頼んだわ」
私が逝ってしまったら。
「お……だって……俺なんか……ガキだし……」
カイルの、三分の一しか、生きてない。何もわからない。何も知らない。
知らないということを知ったのすら、ごく最近のことだ。
「…………」
上掛けに投げ出されたグローリーの手が、ぱたん、ぱたん、と跳ねた。
催促されていることを知って、ブラッドはおずおずと近寄ると、彼女の手をとった。
男たちに混じって炭鉱で働いていた彼女の手は、荒れていて、骨ばっていて、温かかった。母親の手も、いつかこんなふうになるんだろうか。
ノイズ交じりの彼女の〈声〉を聞き逃すまいと、ブラッドは真剣な顔をした。
「心を」
「……うん」
「添わせてくれる誰かが、何よりの、支え」
今の自分にとって、カイルがそうであるように。哀しみや苦悩は、理解されたかどうかではなく、理解しようとしてくれるひとがいることで、救われる。
「年齢も、経験も」
関係ないのよ、と、尊敬すべき強さを備えた女性は言った。
それから、彼女は。
医者の制止には耳を貸さず、動かない身体で法廷に行き、最後の仕事を立派に務めた後で、静かに息を引き取った。
ありがとう、とそれが最期の言葉になった。
***
ブラッドの腕の中で、カイルはぴくりとも動かない。
まるで、彼の世界に閉じこもっている。
こういうときは、そっとしておくのがいいのだろうか。きっとそうだ。でも。
今、側を離れたら、二度とカイルはこちらへ出てきてくれないのではないか。ブラッドにはおよびもつかない世界へ行ってしまうのではないか。
この手を離したら、取り返しのつかないところへ。
そんな恐怖に背中を押されて、ブラッドは、カイルを呼び戻そうと必死になった。
どこにもいかないで。
まだ。
「グローリーが」
「……彼女が?」
「あんたは、さみしいとダメだって。一日時計をいじってるって」
「………」
「だから、あんたから目を離すなって、言われたから」
代わりのつもりなんかじゃないけど。
他に、どうすればいいのかもわからない。
カイルの肩に、額を押し付けて「側にいさせて」とささやいた。
ぽたり、と甲の上に雫が落ちた。
ブラッドがそのことに気づくと同時に、ぱたぱたといくつもの粒が弾け、カイルは喉の奥を震わせた。
ブラッドの腕にも、じわりと涙が染み込んでいく。
ああ、こんなふうに。彼女のために、静かに泣くんだな、と胸の痛みと一緒に思った。
「だ……誰も、彼女の代わりになんかなれない」
「……うん」
「愛してたんだ」
「……うん」
わかってるよ、と繰り返し、ブラッドは、震える肩を抱きしめた。
もっと、あんたが楽になるようなことをしてあげられたらいいんだけど。
ごめん、俺、ほんとに子どもだから。
それでも、こうして初めて涙を見せたカイルが、彼は独りぼっちではないと、そのことだけをわかってくれればいいのに、とそれだけを強く願った。
【END】
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