HOT BLOODED2
イタケ王の陣屋の周りには誰もいなかった。
衛士の一人も、である。
パトロクロスは不思議に思ったが、考えてみれば自分は「普通の王」がどういうものなのか、全然知らないのである。この暑さで、兵士たちが皆、涼を求めて出払ってるのかも知れないし、常時近衛兵を立てておく方が大仰なのであって、本来はこういうものなのかも知れない。
ただ、これでは訪いを取り次いでもらうわけにもいかず、パトロクロスは恐る恐る入り口を覗き込んだ。薄暗い天幕の中には織の粗い敷物や幾つもの木箱、水差し、使いさしの蝋燭といった物の他に、幾枚もの地図や筆記用具が散らばっている。
留守かな、と思いながら一応声をかけてみる。
「……オデュッセウス殿? あのう、いらっしゃいますか?」
陣屋の奥、もう一枚張り巡らされた布の向こうで、確かに人の気配がした。
「誰だ? というか、誰でもいいんだが──」
「あの、パトロクロスです。えーと、誰もいないんですけど……」
「パトロクロス!? ちょうどいい、助けてくれ!」
切羽詰ったような声は確かにオデュッセウスのもので、尋常でない内容にパトロクロスは緊張した。
「オデュッセウス殿? どうかしましたか?」
失礼、と断って、ずかずかと陣屋の中へ入っていく。
一国の王に対して失礼かも知れなかったが、当の本人が助けを求めているのだから構わないだろう。
自軍の中のこととて、短剣の一つも身に帯びていなかったが、パトロクロスは油断のない足運びで、垂れ幕に手をかけた。その辺、若年兵とは言えどギリシア一の勇将の愛弟子のことだけはある。
不意の自体にも対応できるように心構えをして、ぱっとカーテンをめくりあげ……青年は真っ赤な顔で布を戻した。
「ご、ごめんなさい!」
そこにいたのは、陣屋の主オデュッセウスと、パトロクロスの探し人だった。
ただし、アキレスの方は腰衣一枚、オデュッセウスはキトンの肩紐を解かれて、上半身裸にさせられた上、背中ぺったりと獅子にのしかかられているのである。
それは、誰がどうみても情人同士の行為の最中で、ゆえにパトロクロスが慌てたのも無理はなかった。
もっとも、彼の従兄は多情な 性質 たち で、過去にそういった現場に鉢合わせたことは何度かあった。だが、大概は奔放な商家の娘や有閑夫人、神殿の遊び女と言った面倒も後腐れもない女達が相手だったので、同性で、年上で、一国一城の主たる王まで守備範囲内だとは今の今まで知らなかった。
「違う、パトロクロス!」
「何か用なのか、パトロクロス」
同時に呼びかけられて、二、三歩後じさったパトロクロスは、逃げ出すのをやめた。
どちらの声も、ちっとも艶めいた色を含んでいなかったからである。
「あのう……」
お邪魔じゃないんですか、とも訊けず、どちらかが何かを言ってくれるのを待った。
「パトロクロス、誤解だ! いいから入ってきて、このアホライオンを引き剥がしてくれ!」
切羽詰ったオデュッセウスの声に、パトロクロスはもう一度垂れ幕に手をかけた。
アホライオン、とは彼の従兄のことだろう。
引き剥がせ、というからには、オデュッセウスにとっては今の状況は合意の上ではない、ということである。
合意でないならそれは犯罪ではなかろうか。
犯罪は──まずい。
一国の王を強姦する罪がどれくらいの重さかは知らないが、「ごめん」で済まされることはないだろう。
否、一国の王でなくとも、それで済まされることではないが。
「アキレス」
従兄の犯罪を止めようと、パトロクロスはもう一度しきりの布をまくり上げた。
そこはオデュッセウスの寝台なのだろう。柔らかそうな毛皮が何枚も敷き詰められて、その上に麻布が広がっている。ただ、ここにも幾枚もの羊皮紙や何かを書き留めたらしい石板の類があちらこちらに置いてあった。
余人にはわかりかねるそれらの品物の持ち主は、と言えば──自分の寝台の真ん中で獅子に襲われていた。
かろうじて腰の辺りにひっかかったキトン以外は何も身につけていない状態で押さえ込まれて、オデュッセウスはじたばたともがいている。
アキレスは、その武勇談から想像されるような巨漢ではないし、奇蹟のように鍛えられた体躯には無駄な脂肪など全くついていない。しかし、だからこそ彼の身体は重いのだ。しかも無敵の腕力を誇る。気の毒だが、どう足掻いたところでオデュッセウスに勝ち目はなかった。
「アキレス、やめろよ。そういうことは合意じゃないと」
しかつめらしく諭そうとする従弟に、アキレスは心外な、という顔をした。
「別に俺はオデュッセウスを犯そうと思ってるんじゃないぞ」
「あ、そうなの?」
その答えは意外で、少なからずパトロクロスは驚いた。彼は、従兄の武勇を疑ったことはなかったが、その下半身については少しも信用していないのである。
「じゃあ、この暑いのに何やってんのさ」
「こうしてると涼しい」
ぺったりと他人にくっついておきながら、アキレスは平然と言った。
「私は暑い! どけ、馬鹿! どーぶつ!」
「オデュッセウスは体温が低い。だからくっついてると涼しいんだ」
「私が低いんじゃなくてお前が高いんだ、アキレス! 子供か、君は!」
そういえば、とパトロクロスは彼の従兄が冬でも手足が温かいのを思いだした。多分、恐ろしく新陳代謝が活発なのだ。
(どーぶつ……)
オデュッセウスの、悪口なんだか何なんだかわからない評価は、しかしとても適切な気がして、パトロクロスは笑い出しそうになった。
「パトロクロス! のんきに見てないで助けてくれ!」
オデュッセウスは、背中の『どーぶつ』をどかそうと孤軍奮闘していた。
しかし『どーぶつ』の方はそこをどく気は全く無いらしく、綺麗に隆起した胸をオデュッセウスの背中にぺたりとひっつけて彼の肩にあごを乗せ、寝そべっていた。
いくらオデュッセウスの体温が低かったとしても、そこまですると絶対に暑いと思う。
結局アキレスは彼にくっついていたいだけなんじゃないか、と賢明なパトロクロスは思った。
「……アキレス。オデュッセウス殿は嫌がってるみたいだから……」
やんわりと口を挟んだパトロクロスの意見は二人に反論された。
「みたいじゃなくて、あからさまに嫌なんだ、アキレス!」
「嫌がるなんておかしい。誘ったのはあんただろう、オデュッセウス」
「誘ったとか言うな! 私は次の出撃の話をしたかっただけだ!」
ばんばん、とオデュッセウスが床を叩く。その手に地図が握られていることに、パトロクロスはやっと気付いた。
どうやら、オデュッセウスは他の王に比べて遥かに勤勉な性質らしい。
この休戦期間を利用して、もう次の出撃のときの作戦を考えていたのだろう。
アキレスのところへ話を持ってきたのは、何より彼の戦闘力の高さを買っているからだろうが、きっと他に話を聞いてくれそうな人間がいなかったんだろうな、とパトロクロスは思った。皆この暑さにやられてそれどころじゃないのである。
(──で、こんなことになったんだ)
飛んで火にいる夏の虫というか──ちょっと違うような気もするが──ともかくオデュッセウスは戦略の話をするどころか、こうやって獅子に懐かれて身動きがとれなくなっているのである。
「すればいいだろう」
なんでもないことのようにアキレスは言った。
「何だって?」
「その、出撃の話とやらをすればいいだろう。俺はちゃんと聞くぞ」
「じゃあ退け!」
「嫌だ」
簡潔だが断固とした口調でアキレスは言った。
「嫌だって……お前なあ……」
可動範囲いっぱいまで首をひねって、アキレスを見上げると、オデュッセウスは呆れた声で言った。
子供や動物のわがままなら厳しく叱って、時には少々の体罰も使ってしつけるものだ。しかし、大人で勇者で『どーぶつ』のわがままにはどう対応したらいいのだろうか。
多分、猛獣用の鞭を使ったところで、この獅子を意のままにすることなどできはしないのだ。
「──くそっ、テティス様は立派な女性だが、君の育て方だけは間違ってる!」
オデュッセウスが遠くピティアの夫人に向かって恨みがましく呟くと、パトロクロスが場違いなフォローを入れた。
「違うんですよ、オデュッセウス殿。アキレスは、伯母様のおっしゃることはきくんです」
そうなのである。これで、アキレスは母親を大事にしている。彼女の前では「借りてきた獅子」くらいにはおとなしいのだ。というより、優しげな風情でありながら、がっちりと彼の襟首を押さえつけているあたり、やはり獅子の母だけのことはある、ということなのだった。
「……ああもう」
ぐったりと脱力して、オデュッセウスは寝台に突っ伏した。おそらく彼の脳裏には、本来彼が背負うべきでない責務がぐるぐると回っているのだろう。
バカンス仕様のギリシア軍の面倒を見るのもミュケナイ王の御機嫌結びも猛獣の手綱取りも、本来はイタケごとき小国の王の仕事ではない。仕事ではないが、現実にそれは彼の双肩に課された重荷だったし、彼でなくてはこなせなかったし、それを投げ出せるほどイタケの王は無責任でも要領よくもなかった。
「もういい。わかった。そのままでいいから話を聞け」
諦めたのか腹をくくったのか、オデュッセウスは背中にアキレスを貼り付けたまま、握り締めていた地図を開いた。
パトロクロスもそっと首を伸ばしてのぞき込む。そこには、地形や建物の他に後から書き添えたと思われる数字がびっしりと並んでいた。
その数値はオデュッセウスが自ら書き込んだものらしく、たとえばイリオスの城壁の高さだとか、城砦の奥行きだとか、海岸からの距離だとか、そこへ通じる幾本もの道、その距離、そういった地理風土に関するものだった。イリオス内部を記した地図らしきものまである。
いつの間に、と驚くパトロクロスに、地の利を得ておかなくては戦略のたてようがないよ、とオデュッセウスは笑った。──その背中にはアキレスを張り付かせたままだったが。
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