話の時間的順序としては前作より前。
黒井ミサはごく普通の高校生。 ごく普通に両親が海外出張していて、ごく普通に一人暮らししていて、ごく普通に友達をうちに呼んでビールかっくらったりしていた。
ただ一つ普通でなかったのは、本人も知らなかったことに魔女だったのである。
自分でも気づいていないミサの魔力を狙って、100年前の魔物・キリエが現代に黄泉返り、次々と人間の身体を乗り移りながらミサを追う。
対するは、それを阻止する使命を受けて100年前からキリエを追い続けてきた謎の男・サイガ。
前作と続き、今回もミサはほとんど魔術を使わない。 というか、ミサはほとんど圧倒的に最強の魔女らしいので、まともに正面から魔術と魔術の戦いになるとあっという間にケリがついてしまって話にならない。
というわけで、魔力にいまだ目覚めていないミサに代わってサイガがキリエと戦うことで話は進んでいく。
果たしてこの悪夢のような戦いの中でミサは生き延びることができるか?
前作もそうだったけど、音響効果が良いと思う。
やたら音響に頼っているわけではなくて、むしろ使わなくて済むところは極力使わないような。 それだけに音響が使われているところでは効果的な印象。
SFX はさほど優れているとは思えない。 特にスプラッタなところでは作り物っぽくて迫力に欠けるシーンもある。 しかし全体としては効果音や BGM
がうまく補って、なんかちょっとこう緊迫感がある。
制作には円谷映像も名を連ねている。
円谷には「ウルトラマン」の焼き直しばっかりやらずにこういうのをもっとがんばって欲しいなぁ。
今回は前作みたく一方的にやられっぱなしじゃなくて一応は魔術合戦っぽかった。
しかしラストではミサの必殺技が飛び出してしまう。 この「スペシウム光線文化」はどうにかならんのか。
主役なんだから最後にいいとこを見せるのはいいとしよう。
しかし、話の構造はあくまでキリエ対サイガの駆け引きなので、当然その決着が映画のクライマックスでなくてはならないはずだ。 ミサが圧倒的な魔力で敵をぶっとばしてしまうのはそういう意味ではおまけでしかない。
あえて派手な場面にするなら、ミサの想いを表現するとか今後の人生を暗示するとかいう演出にすべきだったのでは。
あとは吉野公佳の演技力がもうちょっと。
敵はやられてもやられても人間の身体を乗り換えながら生き延びる化け物、というのは「ヒドゥン」と同じ。 パクリ?
しかし「ヒドゥン」だって円谷の「ウルトラマン」第一話のパクリみたいな話(悪い宇宙人を追いかけて良い宇宙人が地球にやってきて、そのまま地球人になりすましてしまう)なので、お互い様とも言える。
パクリのうまさは「ヒドゥン」の方がはるかに上だけど。
以下、無理矢理だけど「ヒドゥン」との比較。
エコエコアザラクII | ヒドゥン | |
---|---|---|
主役 | 魔術師と魔女(の卵)のコンビ | 宇宙人と地球人のコンビ |
敵 | 人間から人間へと乗り移る | 人間から人間へと乗り移る |
敵との関係 | 敵に追われる | 敵を追う |
ルール | 「結界の外で魔術を使うと敵に見つかる」 「魔術・魔力を使うには呪文が必要」 ぐらいで、しかもちょっと曖昧 |
「特殊な銃でなければ敵は倒せない」 「その銃は人体には通用しない」 「敵は定期的に身体を替えねばならない」 が明示される |
敵を倒す画面 | そこがクライマックス | 一応クライマックス、割とあっさり |
「ヒドゥン」では「エコエコアザラクII」よりも明確に戦いのルールが提示されていて、あたかもそのルールにのっとったゲームのように話が進んでいく。
敵を倒す場面が意外にあっさりしているのは、この時点では実はゲームはすでに終わっているからだ。
話の組み立て方がうまいと思う。
「エコエコアザラクII」では結局ルールとはほとんど無関係にミサの魔力がキリエを凌駕してしまうというオチ(+αもあるけど)のため、その場面だけ何だか浮いてしまった気がする。
まぁでも、観終わった後こうやっていろいろ遊べるというのはやっぱり面白い映画だったのかな。
1997-07-16