「いくじなし」
〜お題もの「恋にありがちな20の出来事」から「会いたくて堪らない」より〜
――いくじなし。
そう言われたのはいつのことだっただろうか。
僕が憶えているのは、頬の痛みと涙を溜めた蒼い瞳だった。
いくじなし。
その言葉を投げつけられ頬を張られたのだった。
確かに僕はいくじなしだ。
いつまでたっても、いつでもそう。
おそらく僕の基本形はいくじなしなのだろう。
でも。
僕のそばに君がいて、そして一緒にいることで君が傷つくとしたら。
君を傷つけたくないと誰よりも強く願っている僕なのに、そんな僕と一緒にいるからこそ傷ついてしまうとしたら。
僕自身が君を傷つけてしまっているのだとしたら。
君は僕と一緒にいないほうがいい。
君が傷つくのを見るのが怖い。だから離れていよう。
そう言うことはいくじなしになるのだろうか。
最近、街を歩いていると色々な「いくじなし」に出会う。
――そんなことも決められないの。駄目ねぇ。いくじなし。
――あら、こんなのが怖いの。いくじなしねぇ。
――駄目よ逃げたら。いくじなしなんだから。
大抵、言っているのは女性で言われているのは男性だ。
おそらく、男性という種類はいくじなしに出来ているのだろう。
――ジョーのばか、いくじなし。
あの時――そんな場合ではなかったし、そう言ったらもっと殴られていただろうけれど――僕は、そんな君が綺麗だと思った。
意志の強そうな唇。紅潮した頬。いっけん、華奢で折れてしまいそうな優しく儚げな女性なのに、実は誰よりも芯が強い。
みんな精神的に君に守られているなんて、君自身は知らないだろうね。
そして、誰よりも僕が君に依存しているだなんて君が知ったら、またいくじなしと言われそうだけど。
でも知っているかい?
僕にそれを言っていいのは、君だけだってことを。
いくら僕がいくじなしでも、他の女性にそう言うことを許せるほど心が広くはないんだ。
僕にそう言ってもいいのはフランソワーズだけだ。
そうやって叱ってくれて、怒ってくれて、そして――抱き締めてくれるのはフランソワーズがいい。
僕は街を歩きながら、今まで何回くらいフランソワーズにいくじなしと言われたのか思い出していた。
――いくじなし。ジョーのばか。
酷い言われようだけど、でもそれは僕が憎くて言っているんじゃない。
根底には僕に対する優しい気持ちがある――と、思いたいけれど本当のところはよくわからない。
わからないけれど、ともかく僕はフランソワーズにそう言われても嫌ではないということが重要だった。
雑踏に溢れるいくじなしと言う声。
でもどれもフランソワーズの声じゃないし、僕に対しての言葉でもない。
それは、それぞれがそれぞれの愛すべきパートナーに対する愛情を示す言葉だった。
僕は携帯電話を取り出すとリダイヤルした。
そう――街にあふれる幾つもの「いくじなし」に背を押されて、やっとボタンを押すことができたのだ。
携帯電話を握り締めて出てきたものの、番号を呼び出しボタンを押しワンコール鳴る前に切る、という動作を繰り返してきたのだ。
どうしても電話回線を繋げる勇気が出なかった。
別に緊急の用事ではないし、召集がかかったわけでもないのだ。電話をかける大義名分がない。
いや、もちろん、僕とフランソワーズの間にそんな大層な理由など要らない。
でも、僕が電話をしたいという理由が理由なだけになかなか電話をかけることができずにいた。
でもやっと、僕は雑踏に溢れる「いくじなし」の声に踏み出すことができたのだった。
だって僕は、いくじなしだから。
「――もしもし、フランソワーズ?・・・うん。別に用はないんだけど」
用はないんだけど。
君と最後に会ってから、どのくらい経ったか知ってるかい?
僕が何度君を思い出したと思う?
「うん。そっちがいま夜なのは知ってるよ。眠っていたのもね」
だったらどうして電話したのか、って?
「それは――なんとなく、かな」
適当に言ったら、遠いパリで君が笑ったのが聞こえた。耳に心地良い響きだった。
きっと次の言葉はいくじなしねだろう。君はなんでもお見通しなのだから。
僕は電話を握り締めじっと待った。
そう言われたら、今すぐパリへ行こうと思いながら。