|     ジョーと一緒に夜空を見るのは特に珍しいことではない。   今日は中秋の名月ということで、ジョーと一緒にバルコニーに出てお月様を見ている。いま、ジョーは日本グランプリの真っ最中で忙しいはずなのに、ただお月見をするというだけで帰ってきている。明日はレースなのに大丈夫なのだろうか。
 そんな不安な顔をしていたのだろう、ジョーが私の頬をつんとつついた。
 「何考えてるんだい?」 ジョーを見ると、促すように微笑んだ。 「・・・明日のレースのこと」「明日のレース?なんで君がそんなこと」
 「だって。・・・わざわざギルモア邸に来るなんて」
 「――別に大したことじゃないよ」
 「大したことない、って・・・」
 鈴鹿とこことどのくらい離れていると思ってるの。ただ月見をするためだけに帰ってくるなんて、正気の沙汰ではない。
 「よくスタッフが許してくれたわね?」「ん・・・まあね」
 それ以上その話題を続ける気はないようで、ジョーは私から月に視線を移した。   こうして並んで月を見ているなんて、去年の私なら信じられなかっただろう。あの頃は、ジョーが隣にいるだけでドキドキしたし、月にいるウサギを探すのに一生懸命になって、頬と頬がくっつきそうになって、それも凄く恥ずかしかった。
 すぐ顔が熱くなっちゃって、暗闇だからジョーに見えなくて良かったとほっとしたんだったっけ。
   「うん?何?」 ジョーがふとこちらを見る。さっきから私が黙ったままなのが気になったようだった。
 「ううん。なんでもないわ」 だって、今はこうして――手を繋いで月を見ているのだから。ジョーが教えてくれた「恋人繋ぎ」で。
 ジョーのてのひらが熱いけれど、その熱さはもしかしたら私のほうだったかもしれない。同じ熱さ。どちらが熱いのかわからない。
 でも私はそれが嬉しかった。
 去年は――何度も諦めようと思って、でも諦められなくて、好きで好きで苦しくて、彼は私のことなんかただの仲間としか思ってないと――そう、思っていた。せいぜい、いいとこいって妹だろうと。 でも、今年は。 「――フランソワーズ。月にいるウサギ、見えるかい?」 不意にジョーが呟く。視線は月に向けたまま。 「ええ。あそこでしょ?」 指差した先を覗き込むようにジョーが頬を寄せる。くっつきそうで、くっつかない。 「どこ?」「だから、あそこが耳で・・・」
 去年と同じような会話になった。視線も去年と同じように、一緒に月を見つめている。私は、ジョーも私と同じように去年のことを思い出したのかしらとちょっとだけ嬉しくなったけれど、その反面、私たちって何て変わり映えしないのだろうと落ち込んだ。
 私が悪いのか。 それとも、ジョーなのか。 同じパターンを繰り返すというのはお互いに進歩がないということになる。 ――そんなの、イヤ。だって今は、去年みたいに不安になったりなんかしていない。
 私はジョーが好きで、ジョーも私を好き。だからこうして一緒にいるのが嬉しい。
 だから。 頬を寄せるジョー。その頬に、私はそっと唇をつけた。ジョーが一瞬、驚いた瞳を向けたけれど、私は構わずキスをした。わざとちゅっと音をたてて。
 「フランソワーズ」「うふっ。だってほっぺが近くにあったんだもの」
 「君は近くにあるものは何でもキスするのかい?」
 「ん・・・そうねぇ。・・・そうかもしれないわ」
 ジョーはこちらをじっと見ている。黒い瞳が金色になる。 「ヤダ、そんなに見ないで」 金色になるということは――暗闇でも彼の瞳は私の表情もなにもかもしっかり捉えているということだ。もちろん、私の目も金色だろう。私はジョーほどには調節ができないから、暗くなると自然とこうなってしまう。
 それは003としての特性だけど、やっぱりこうしてジョーにしみじみと見つめられるのは嫌だった。私が普通の女の子ではないと彼に見せ付けているようで。
 だから、思わず眼を伏せた。彼に光る瞳が見えないように。
 「・・・フランソワーズ」 恋人繋ぎをしていた指が解かれ、その手が私の肩を抱いた。 「僕だって目の前にあるものにはキスせずにはいられないよ」 そう囁くように言うと、私の顎をそっと持ち上げて唇を重ねてきた。もう・・・真似するなんてズルイわ。
 でも、怒ってないから、ジョーのキスを受け容れる。
 ――お月様。 去年は、ジョーの気持ちがわからなくて、月にいるウサギさんに問いかけてみたんだった。でも・・・今年は。
 お月様。 お願いよ。あなたは日々姿を変えるけれど、どうかジョーの気持ちは変えないで。私の気持ちも変えないで。
 このままずっと一緒にいたいの。
 こうしてずっと近くにいたいの。
 お月様には、ウサギがずっと居るのと同じように。変わらずにいたいの。
 「――どうかした?」 ジョーがくちびるを離しておでことおでこをくっつける。 「・・・ううん。ちょっとお月様に」「ふうん。また何かお願いでもしてたのかい?まったく、君はそういう乙女なところがあるよなあ」
 「だって乙女だもの」
 「そうやって膨れるところは子供だけど」
 「もうっ、私は子供じゃないわ」
 「はいはい、そうでした」
 くすくす笑う声は、闇にゆっくりと溶けてゆく。 「でも本当に――何をお願いしてたんだい?」「内緒」
 「――あのさ。そういうのは僕にお願いしてくれたほうが確実だと思うんだけど」
 「ジョーに?」
 「うん」
 「ジョーにお願いするの?」
 「うん。フランソワーズのお願いだったら、絶対に叶える自信がある」
 ――本当かしら。でも言ったらきっと、困るわよ? 気持ちを変えないで、って。 ずっと一緒にいて、って。 でも。そんな不確かな未来を保証できるはずもないから、私は結局黙ったままだった。
 「ほら。フランソワーズ?」「・・・ううん。いい」
 「言ってみろって」
 「いいの、もう」
 「僕には叶えられないと思ってるだろ。見くびってもらっちゃ困るな。僕を誰だと思ってるんだい?」
 ――そんなに言うなら、言ってみる? でも、一緒に居るのが――気持ちを変えないでいるのが「009としてのミッション」のように思われても嬉しくない。そんな風に叶うのなら要らない。
 義務や義理で一緒にいてもらうのなんて、全然嬉しくない。
 「大体、姿を変える月なんてものに何かを願うこと自体、納得いかないね。月は移り気だと言われているの、知ってるかい」「それは月に対してあんまりじゃない?姿を変えているように見えるだけで、本当は変わってないのに。移り気なんてかわいそうよ」
 「フン。かわいそうなもんか。本当はやっぱり移り気なのかもしれないじゃないか。そんなものに何かを願ったところで、姿形が変わった頃には君の願いなど忘れてしまってるさ」
 「・・・そうかしら」
 「そうさ。僕と違ってね」
  ジョーは変わらない。
 
 私も変わらない。
 ずっとずっと一緒にいる。 「・・・やっぱりジョーにお願いするのがいいみたい」
 「うん?――だろう?」
 「ええ」
 「では願いをきいてあげよう。言ってごらん?」
 「ううん。もういいの」
 「いいってことないだろ」
 「ううん。本当にいいの。だって、私の願いはもう――」
 叶ったから。         旧ゼロトップへ |