「雨宿り」

 

 

やっぱり傘を持ってくるんだった。


ナインは空を見上げ、車のなかに置いてきてしまった傘に思いを馳せた。

――まったく、009ともあろう者が。

耐え難いミスである。
先を読む力もないのかと自分を責め、気分は地底まで落ち込んだ。


デートの途中だった。

紫陽花が綺麗なのよとスリーが言ったので、じゃあ行こうかと立ち寄った公園。
そんなに広くないし、すぐ戻るだろうとナインは傘を持たなかった。
が、案に相違して雨粒はぱらりと落ち、あっというまに周囲をグレイに染めた。

息せききって飛び込んだ四阿。

なかなかやまない雨に、隣のスリーが薄着だったことを思い出し、ナインは唇を噛んだ。
上着を貸そうにも雨に濡れてしまってできない。

まったく、自分はなんて馬鹿なんだろう、どうして梅雨の時期に傘を持たずに出てくるなんて愚を犯したのだろう。そうだ、ひとっぱしり行って傘を取ってこよう。そうすればスリーは濡れなくてすむ。ついでにタオルと暖かい飲み物とそれから・・・


「ねえ、ジョー」


ナインが今にも走り出そうとした時、隣のスリーがのんびりと呼び掛けた。


「見て。紫陽花がとっても綺麗」


指差す先に目を遣ると、確かに紫陽花は綺麗だった。
特に四阿の周りにはたくさん植わっており、ちょっとした花園といった風情である。
しかしナインは、スリーにそれを指摘されるまで全く気付いていなかった。周囲の花など目に入っていなかった。ずっと――自分を責めて、この失策をどうしたものかと考えあぐねていたのだから。


「雨が降って得しちゃった」


嬉しそうに言う。


「だって、雨が降らなかったらこっちの方には来なかったもの」

ね?と、ちいさく首を傾げてナインのほうを見た。


「・・・ああ、そうだね」


――雨が降って得しちゃった、か・・・

ナインは額に拳を押し付け、ぎゅっと目をつむった。


「ジョー?どうかした?」
「いや・・・なんでもないよ」


雨に降られたのはマイナスじゃない。

考え方次第だ。

悔やんでばかりいた自分の、あまりに狭量な考え方にナインは軽く自己嫌悪に陥った。
自分は周囲の花すら目に入らずにいたのに、彼女はこの状況を楽しむ心の余裕があった。

――たかが、雨宿りである。
傘を持たずにいて雨に降られただけの話である。

しかしナインには、周囲に目を配る心の余裕すら無かった。
もちろんそれは、隣にスリーがいたからであり、薄着の彼女を雨に濡らしてしまったことで風邪をひかせてしまうのではないか、現にいま、寒くて凍えそうになっているんじゃないかと心配してのことであった。

――しかし、それにしても限度がある。
自分の意識の裡に沈み込んで、周りがまったく目に入らなかったとなると――問題である。
反省してもいい、ただそれは今ではない。
しかも後悔などはしても仕方がないではないか。
スリーを大事に思うあまり、周囲や――彼女さえ見えなくなっていたとなると本末転倒ですらある。

たかが雨宿りではあるが、ナインはこの一事が万事のような気がした。

スリーはいつでも光を見い出せる。なのに、自分は。


「ジョー?」
「うん?」

スリーはじっとナインの横顔を見つめ、そうしてにっこり笑った。

「・・・ううん。なんでもない」


スリーには、いまナインが何を考えているのか想像できた。

――責任感の強いひとだから。
だからきっと、雨に濡れることになったのを反省し悔やんで、そしてどうにかしようと思っている。

でもね、ジョー。

一緒に雨に濡れるなら、それもいいと思わない?

雨の音と土の匂い。紫陽花が綺麗で、そして・・・

いまここには二人しかいないのだから。

 

 

 

 

「止まないなあ」

30分経っただろうか?いや、少なくとも1時間は経っているはずである。
もっとも、ふたりとも腕時計を見て時間を確認しようとは思っていなかったから、どちらでもよかったけれど。

「止まないわね」

別に急いでいる旅ではない。ただのドライブデートなのだ。思いついて、そこへ行く。それだけのデート。
どこへ行くかではなく、二人で一緒に行くというほうが重要なのである。従って、雨に降り込められた公園の四阿でも、こうして静かに紫陽花を見ているというのは立派にデートであった。

だから、気にしない。

もし時間を気にするとすれば、それはやはりスリーが薄着であるという事実であろうか。

ナインは、スリーが寒くないと言ってもあまり信じていなかった。
きっとやせ我慢をしているに決まってる。
だからどうにかして――どうにかして暖めようと思うのだけど、いったいどうすれば効果的なのか答えがみつからない。
これが冬であれば、コートの中にくるんでしまえばいい。
いや、今だってジャケットが濡れていなければそうしていただろう。
けれど、濡れた重いジャケットを肩に羽織らせても仕方がない。

小さく息をついた。


「なあに?どうかしたの、ジョー」


耳聡いスリーである。ジョーの小さなため息にすぐに反応した。
雨の音に紛れて聞こえないだろうと思っていたナインは内心舌打ちをした。

「なんでもないよ」
「そう?」
「ああ」

疑わしげな蒼い瞳。じっと見つめるそれをかわす術はあるのだろうか。

「・・・二人っきりね」
「そうだな」

静かだった。
聞こえるのは、屋根にあたる雨の音。

「誰もいないわ」
「雨が降ってる公園にわざわざ来る人もいないさ」
「そうね」

そして、じっと見つめる蒼い瞳。

「え、と・・・フランソワーズ?」

目を逸らすことができない。

「なあに?」
「いや、」

僕に何か用があるのだろうか。
しかし、スリーは黙ったままただじっと見つめているだけである。


蒼い瞳。


空の色。

海の色。


紫陽花の・・・色。

 

視界の端に見える鮮やかな青は紫陽花の色のはずである。がしかし、スリーの瞳を見つめているうちに、ナインはその蒼い色が紫陽花なのか彼女の瞳なのか、あるいは彼女の瞳に写った紫陽花の青なのかわからなくなった。
境界がひどく曖昧になっているような気がする。

スリーが少し笑ったようだった。

そして――蒼い色が見えなくなった。

ナインの好きな蒼。それが今は遮断されている。瞼によって。


やっぱり紫陽花の色じゃなくて瞳の色だ。
そう思って、なんだか可笑しくなってちょっと笑った。

――当たり前だ。僕のフランソワーズなのだから。

だからナインはそっと唇を合わせていた。確かめるように。

 

 

 


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