「SAKURA 2」
「僕は本当は死んでいたんだよ」
さらりと言われたので、初めは冗談かと思った。でも。
「そうしたら、こうして桜を見るなんてことも――なかっただろうなぁ」
ジョーの瞳はまっすぐに桜を見つめていた。真剣な横顔。
「――僕はね、フランソワーズ」
桜を見つめたままジョーは言う。
「君に、お別れの言葉も言ったんだよ」
声もない私。ジョーは桜から目を離し、まっすぐに私を見つめた。黒い瞳。
少しだけ寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。
「さようなら、フランソワーズ・・・って」
何故、急にこんな話をしたのか、自分でもわからない。
ただ、無性に――誰かに言いたくなった。ずっと誰にも言わずにいた事を。
本当に死を覚悟した事など何度もあると思っていたけれど、実際に「本当に終わりだ」と実感したのは、あの時が初めてだったように思う。
怖くはなかった。ただ、酷く寒かった事だけ憶えている。もう誰にも会えないんだなぁ・・・と。
所詮、人間なんてひとりで生まれてひとりで死んでゆくものだとわかってはいても、それでもひとりこうして死に赴くのは凄く寒かった。
誰かにそばにいて欲しいというのではなく。
僕の、この死を誰か知っててくれと。憶えていてくれと――そう願った。
自分が確かに存在していた証拠なんてどこにもない。けれど、記憶の中に残れば「生きていた」ということになる。
誰にも知られず生まれて生きて、そして誰にも知られず死んでゆくなど存在していなかったも同然だ。
僕は、僕が今まで出会った全ての人が、僕のことを少しでも憶えていてくれたらいいと、憶えていて欲しいと、そう願っていた。
忘れられたくない。
僕はここにいる。
去年は手をつないでここから桜を見ていた。
今年も同じ。
違うのは――自分の気持ちが相手に通じていること。
私がジョーを大切に思っている事をジョーは知っていてくれて、ジョーが私を大事に思ってくれていることを私は知っている。
お互いがお互いを大切に大事に思っていて、それをちゃんとわかっている。
去年はそれがわからなくて不安だったけれど、それを伝えるのも怖かった。
だけど今年は違う。
私が好きなのはジョー。ジョーが好きなのは私。
そう信じられる。
だから。
私はつないだ手を少し――引いた。
「ジョー?」
こちらを見る黒い瞳に正面から向き合う。逸らさない。
怒っているみたいな、泣いているみたいな、どうしていいのかわからない顔のジョー。
彼がこんな顔もするなんて、少し前までは知らなかった。
だって、ジョーはいつも自信満々で元気いっぱいで。悩んだり落ち込んだり挫けたり・・・そういうものとは無縁だと思っていたから。
私はジョーの手を握る指に力を入れる。
最近知った、指と指を絡める手のつなぎ方。最初は照れてドキドキしたけれど、今はこうしている方が落ち着くから不思議。
ジョーのてのひらが温かい。
ジョーが、どうして急にこんな話をしたのかはわからない。
でも、彼がずっと言わなかったこと、言えずにいたことを話してくれたのが嬉しかった。
私はもっとジョーのことを知りたい。
こうして指を絡めて手をつながなければ、お互いのてのひらの温かさを感じることもなかったのと同じように、触れ合わなければわからない事は
きっとたくさんあるのだろう。
だから私はもっと――ジョーの心に触れたい。
僕はフランソワーズに何か答えを求めているのだろうか。
じっと僕を見つめる彼女をただ見つめ返し、僕は静かに待っていた。
彼女の唇が何か――言葉を紡ぎ出すのを。
――怒って欲しいのだろうか。何を言ってるのよジョー、って。
それとも――辛かったね、って、同調して欲しいのだろうか。
――あるいは。
あるいは、彼女は何も答えはしないのかもしれない。
ただ事実を述べた僕に頷くだけで。受けて流すだけなのかもしれない。
それでも良かった。
さようなら、フランソワーズ。そう言った事を伝える事ができたのだから。
そう・・・僕はこうして簡単に、君に別れを告げることもできるんだ。
「ジョーと一緒にいると驚くことばかりね」
「――そうかな」
「そうよっ!カレシに、僕は本当は死んでいたんだよ、って言われた時の上手な返事の仕方なんて、どこの悩み相談にも載ってないわ」
「・・・相談してみれば」
「そうね。してみようかしら」
「結果は報告してくれ。僕も知りたい」
「あら、ダメよ」
「ダメ?」
「ええ」
「なぜ」
「だって、秘密の相談だもの。答える本人に言ったら意味がないでしょう?」
「・・・そうかな」
「そうよ」
少し頬を膨らませているフランソワーズと、それを面白がっているかのようなジョー。
先刻の、ジョーの話を「冗談」として流してしまうのは簡単だった。
けれど。
「――さようなら、フランソワーズ、・・・か」
フランソワーズはジョーの言葉を復唱する。少し俯いて。
そうして一瞬後、ぱっと顔を上げると、様子を見守っていたジョーを見つめ明るく言った。
「それから?」
「――え?」
「だって、それだけじゃないでしょう?他には何て言ったの?」
「えっ・・・。・・・みんなさようなら、って」
「そうじゃなくて」
んもう、とじれったそうに言って、フランソワーズは期待をこめてジョーを見る。
「・・・そうじゃなくて、その・・・私に「さようなら」以外に何も言ってくれなかったの?」
「――え」
――それは。
勿論、そんな事はなかったから、ジョーは焦った。繋いだてのひらが汗で湿ってくる。
手を離そうとしても、フランソワーズはそれを許してはくれなかった。
「・・・別に」
何も言わなかったよと言いかけ、フランソワーズの表情に戸惑う。
「何?」
「・・・ううん」
ジョーはきっと寂しかったはずだ、とフランソワーズは思う。
ひとりで死に赴く時、寂しく思わないわけがない。
だからきっと、自分の名を呼び、他の仲間を思い――
けれどもジョーは何も言わない。
いつものように、まっすぐの瞳で。
「・・・助かって良かった」
それだけ言うと、フランソワーズは俯いて、手を繋いだ方のジョーの肩に静かにもたれた。繋いだてのひらだけが熱い。
「――うん。そうだね」
ジョーもそれだけ言って、後は再び桜に目をやった。
あの時のことを思い出すのは、おそらく今日が最後だろう。
自分はいま、間違いなくここに居る。寂しくなどないのだから。
「・・・ジョー?」
しばらくしてフランソワーズが問う。
「何?」
「・・・ううん。いい」
「何だよ?」
「うん・・・」
――これからも、こうして普段は話さない事も話してね。少しずつでいいから。時々でいいから。
「・・・フランソワーズ?」
「うん・・・本当に、何でもないから」
そして、ジョーの手を握る指に力をこめる。ほんの少しだけ。
ジョーもフランソワーズの手を握り締める。少しだけ、彼女より強く。
どうして今日、こんな話をしてしまったのか、ジョーにはやっぱりわからなかった。
だけど、握った手の温かさと肩に感じる重みが幸せで。
目の前の桜と空の蒼が綺麗で。
――ふと、泣きたくなったからなのかもしれない。
――僕は。
もしかしたら、ずっと誰にも言わずに――言えずにきたものを、彼女にも見てもらいたかったのかもしれない。
どうして欲しいのか、ではなく。
ただ――知っていて欲しかった。フランソワーズには。自分のことを。
だから。
はらはらと舞う桜の花びらが少しだけ滲んでも、たまにはいいだろう。
こんな時くらいは。