「約束」

 

 

ジョーはあんなこと言ってたけど、絶対本心じゃないわ。

雲海を見つめながら回想していた。
今朝、ジョーが言っていたことを。

『一週間後にまた会うっていうのはどう?』

一週間後とはつまり、グランプリ第2戦である。ジョーが言うのは、それを観に来ない?という意味だった。

――そんなの、無理って知ってるくせに。

ちゃんと、バレエの公演があり練習で忙しくなると伝えたはずなのに、どうやらすっかり忘れ去られているようだった。もちろん、フランソワーズの公演があると言っても、シーズン中のジョーが観に来るわけもなく――しかも地方公演となれば、彼にとって全く何にも関係がない話なのだった。だから忘れるのも無理がなく、そもそも気に留めてもらえたのかどうかすら怪しい。

まぁ、いいわ。今は第2戦のことで頭がいっぱいだもの。
それに、きっと今頃はもう既に――

私のことなんて忘れているわ。

ちょっと寂しいけれど、それでいいと自分を慰めた。

だって。
恋人に逢えないだけでメソメソするひとなんてイヤだもの。
仕事のときは、仕事のことだけ考えていて欲しいし・・・そんなジョーじゃなくちゃ好きにはならないわ。

大体、どんなに近くにいても――彼の腕のなかにいてさえ――彼が「009」の時は、自分の存在など忘れられているのだ。もちろん、任務中はそんな甘い雰囲気になどなりようがなかったし、009は任務の完遂だけしか考えない。
目の前に彼女がいても、その手で抱き締めていても。
頭のなかはそれ以外のこと――どうすれば全員が無傷で戻れるかだけを考え、そうするために出来る事全てをシミュレーションしているのだった。
だから、「彼に忘れられる事」には慣れている。大したことではないのだ。

私も頭を切り替えなくちゃ。

来るべき公演のことを考える。
久しぶりの大きな公演シリーズだった。何しろ、全国数箇所で行うのだ。
彼女の所属しているバレエ団は、実はけっこう有名なダンサーが所属する中堅どころなのだった。

――だから、ごめんね、ジョー。
たぶん今頃はそんな話をしたことも忘れていると思うけど・・・

来週のレースは、やっぱり観に行けないわ。

 

***

 

えぇと、いつって言ってたっけ・・・?

車に揺られながら、フランソワーズとの会話を思い出してみる。

確かバレエの公演があるって言ってたよな?

彼女の横顔や、彼女の髪や、彼女の蒼い瞳は簡単に思い出せるのに、何をいつ話していたのか、となるとかなり怪しかった。何しろ、彼女と一緒に居る時は彼女ばかり見てしまい、何を話していたのかなんて実はさっぱり憶えていないことの方が多いのだった。

移動中の車の中で、頭の中の記憶を順番に引っ張り出してみる。

えー・・・・っと・・・・

確か、第2戦と第3戦の間だったような・・・

けれども、思い出したところで観に行けるわけがないこともわかっていた。
それに、実はジョーはもっと積極的に「行きたくない」のであるし。

――そうだよなあ。俺がバレエを観たって、誰がフランソワーズなのかわかる自信もないし。
絶対、寝るだろうし。

それに例え、フランソワーズがどの役の誰なのかがわかっても。

・・・だって、どこかの野郎と踊っているんだろう?ソイツばかり見つめてさ。

想像するだけで胸がむかつくのだった。

大体、勝手に人のカノジョの腰やら腕やら触りやがって――あの密着度はなんなんだっ

以前、一度だけ観た舞台を思い出してしまう。
いたたまれず、すぐに席を立ったのだった。

フランソワーズに言ったら笑われるけどさ、やなモンはやなんだよ。

役の上でのことであり、全ては「演技」だとわかってはいる。けれども、わかっていても嫌なものは嫌なのだった。
だから、観に行かない。
それはフランソワーズも承知の上で、彼が来なくても気にしなくはなっていた――ように見えた。

でも・・・
本当は観に来てほしいのだろうか。

以前、そんなようなことも言われたような気もする。(「きみの姿を見たくない」
そして、何か約束していたような気もした。
が、憶えていなかった。

まぁ、いいや。
とりあえずは――

次の第2戦に頭を切り替えた。

 


 

レッスンが始まった。

それはもう、普段よりも厳しく課題も多かった。
練習量もそれに伴い増えていくわけであり、フランソワーズも含め団員は居残ってレッスンしていくのが常となっていた。

今日も遅くなった。

ジョーがいない時は、うんと遅くならない限りは電車で帰る。
かなり遅くなった時だけは――邸にいる誰かが迎えに来ることになっていた。
が、その連絡をするのも何だか申し訳がなく、大抵は電車とバスを使うようにしていた。
なにしろ、いま邸にいる者といえば、ピュンマとジェロニモだけだったのだ。
ジェットは自分のレースで遠征中。
アルベルトは自国での仕事のため、帰省している。
張大人はお店、グレートは舞台。
残っているのはSEのふたり、ピュンマとジェロニモだった。
けれども、4月からのプログラム変更やメンテナンスが重なり――ふたりとも、帰宅できた時は殆ど部屋で死んでいるのだった。
そこを推して迎えに来て貰うというのは非常に言い辛く、したがって今ではどんなに遅くなっても自力で帰るようにしていた。

いつもの、ジョーとの待ち合わせ場所の近くにある公園に寄り道した。
遅い時間だったけれども、夜桜のライトアップには間に合った。
ここは住宅街が近く、普段は静かな公園だったが、この時期だけは近くの人々が花見に繰り出しており、昼夜を問わず賑やかだった。

そこをひとり、歩く。

練習後の疲れた身体に、微かな風が心地良い。

――ジョーと一緒に見たかったな。

風に舞う花びらを目で追いながら思う。
レーサーである彼は、毎年この時期には日本にいない。だから、実は一度も一緒に桜を見た事がなかった。

こんなに綺麗なのに。

ひとりで見ているのが勿体なかった。
というよりも、ふたりで一緒に見たかった。そして、思い出を共有したかった。

だって、私たちは――来年も、その先も、こうしていられるかどうかわからないから。

当たり前に思い描く未来が自分たちには無い。
だからこそ「いま」この時を大切にしていくしかなかった。
しかし、だからといってお互いを束縛しあう生き方は選ばなかった。
ずっとふたりでいるという選択肢はあったけれども――お互いが相手に寄りかかりそれを許容するというのは、どちらかがダメになった時にひとりでは立っていられない。
それでは駄目なのだ。
お互いを尊重するからこそ生まれる信頼。そして愛情。
それこそが何よりも大切だった。
だから、ふたりはお互いにそれぞれのやりたい事、過ごし方を束縛しないことを選んだ。
それは、ずうっと一緒に居られるわけではなかったし、実際、寂しくて仕方なくなることも多かったが、いま彼が彼女が自分の一度は失われた夢に向かって頑張っていることが、自分も頑張る原動力になっていた。

――ううん。ダメよフランソワーズ。忘れちゃ、ダメ。
お互いに頑張る、って決めたんだから。ジョーも今頃頑張ってるんだから。

先週末の彼のレースを思い出す。
グランプリ第2戦。
予選アタックで思うようにタイムが残せず、結局、グリッドは後方になった。
けれども本戦ではピットインのタイミングやタイヤの選択もうまくいき、彼本来の走りも出来た。
その結果、3位という成績を残すことができた。

ジョーは最後の最後まで決して諦めなかった。
だから、今度は私が頑張るの。ジョーが頑張ったんだから、私だって。

表彰台とその後のインタビュー映像を思い出す。

彼の声。
彼の、褐色の瞳。

次の第3戦までは約2週間空いているけれども、マシンのセッティングやテスト等で自由になる時間はないという話だった。
だから、帰国するのは無理。
そのまま調整に入るという。

それも仕方のないことだった。
シーズンインしてしまえば、結局は――フランソワーズが会いに行かない限り、会えないのだ。

満開の桜。
舞う、花びら。

けれどもいつしか彼女の目には――それらは映っていたものの――何も見えていなかった。

思い浮かぶのは褐色の瞳で優しく笑う彼の顔だった。
先週会ったばかりなのに、もう会いたかった。

・・・もうっ。しっかりしなくちゃ。

いまここに、彼はいない。