「約束」
レッスンが始まった。 それはもう、普段よりも厳しく課題も多かった。 今日も遅くなった。 ジョーがいない時は、うんと遅くならない限りは電車で帰る。 いつもの、ジョーとの待ち合わせ場所の近くにある公園に寄り道した。 そこをひとり、歩く。 練習後の疲れた身体に、微かな風が心地良い。 ――ジョーと一緒に見たかったな。 風に舞う花びらを目で追いながら思う。 こんなに綺麗なのに。 ひとりで見ているのが勿体なかった。 だって、私たちは――来年も、その先も、こうしていられるかどうかわからないから。 当たり前に思い描く未来が自分たちには無い。 ――ううん。ダメよフランソワーズ。忘れちゃ、ダメ。 先週末の彼のレースを思い出す。 ジョーは最後の最後まで決して諦めなかった。 表彰台とその後のインタビュー映像を思い出す。 彼の声。 次の第3戦までは約2週間空いているけれども、マシンのセッティングやテスト等で自由になる時間はないという話だった。 それも仕方のないことだった。 満開の桜。 けれどもいつしか彼女の目には――それらは映っていたものの――何も見えていなかった。 思い浮かぶのは褐色の瞳で優しく笑う彼の顔だった。 ・・・もうっ。しっかりしなくちゃ。 いまここに、彼はいない。
練習量もそれに伴い増えていくわけであり、フランソワーズも含め団員は居残ってレッスンしていくのが常となっていた。
かなり遅くなった時だけは――邸にいる誰かが迎えに来ることになっていた。
が、その連絡をするのも何だか申し訳がなく、大抵は電車とバスを使うようにしていた。
なにしろ、いま邸にいる者といえば、ピュンマとジェロニモだけだったのだ。
ジェットは自分のレースで遠征中。
アルベルトは自国での仕事のため、帰省している。
張大人はお店、グレートは舞台。
残っているのはSEのふたり、ピュンマとジェロニモだった。
けれども、4月からのプログラム変更やメンテナンスが重なり――ふたりとも、帰宅できた時は殆ど部屋で死んでいるのだった。
そこを推して迎えに来て貰うというのは非常に言い辛く、したがって今ではどんなに遅くなっても自力で帰るようにしていた。
遅い時間だったけれども、夜桜のライトアップには間に合った。
ここは住宅街が近く、普段は静かな公園だったが、この時期だけは近くの人々が花見に繰り出しており、昼夜を問わず賑やかだった。
レーサーである彼は、毎年この時期には日本にいない。だから、実は一度も一緒に桜を見た事がなかった。
というよりも、ふたりで一緒に見たかった。そして、思い出を共有したかった。
だからこそ「いま」この時を大切にしていくしかなかった。
しかし、だからといってお互いを束縛しあう生き方は選ばなかった。
ずっとふたりでいるという選択肢はあったけれども――お互いが相手に寄りかかりそれを許容するというのは、どちらかがダメになった時にひとりでは立っていられない。
それでは駄目なのだ。
お互いを尊重するからこそ生まれる信頼。そして愛情。
それこそが何よりも大切だった。
だから、ふたりはお互いにそれぞれのやりたい事、過ごし方を束縛しないことを選んだ。
それは、ずうっと一緒に居られるわけではなかったし、実際、寂しくて仕方なくなることも多かったが、いま彼が彼女が自分の一度は失われた夢に向かって頑張っていることが、自分も頑張る原動力になっていた。
お互いに頑張る、って決めたんだから。ジョーも今頃頑張ってるんだから。
グランプリ第2戦。
予選アタックで思うようにタイムが残せず、結局、グリッドは後方になった。
けれども本戦ではピットインのタイミングやタイヤの選択もうまくいき、彼本来の走りも出来た。
その結果、3位という成績を残すことができた。
だから、今度は私が頑張るの。ジョーが頑張ったんだから、私だって。
彼の、褐色の瞳。
だから、帰国するのは無理。
そのまま調整に入るという。
シーズンインしてしまえば、結局は――フランソワーズが会いに行かない限り、会えないのだ。
舞う、花びら。
先週会ったばかりなのに、もう会いたかった。