あまりにも(裏)な更新日記4               あまりにも1へ   あまりにも2へ   あまりにも3へ

 

9月3日

 新学期になって、街に学生の姿が増え、電車も混んできた。「新学期ざまぁみろ」と嫌な人ぶりを方々でさりげなくアピールしながら、電車が混むならずうっと夏休みでも良いのに、と思ったり。よく考えると、子供達の中には宿題の提出期限さえ忘れれば、夏休み終了大歓迎、という人もいるやもしれず、それはそれで良いことだとは思うけど、よく考えると誰もが1ヶ月くらい休んでもいいんじゃないかな、という気もする。休みがあったところで何をするわけでもないひがみかも、と心のどこかで感じつつ、1ヶ月くらい本だけ読んで暮らすのもいいなぁ、と本気で思う。そんな幸せなことになれば内容も盛りだくさんになるであろう 「読み週記」を更新。

8月27日

 チック・コリアの「スペイン」という曲にはまってもう2ヶ月くらいになると思う。その間に友人が手に入れた音源により、今このPCには20種類以上のバージョンのスペインがあるが、いくら聞いても聞き飽きない。毎日10回くらいは聞いて、ピアノでも弾いて、週末のバンドの練習でも2回くらいやってまだ飽きないのだから相当の物だ。どうも一夏越せそうな勢い。
 ふとしたきっかけで、このページの存在について考えてしまった。表と併せて、たばこの吸い殻ほどにも役に立たない物をこれだけ膨大に垂れ流し続けることにどんな意味があるのか、という点についてはいろんな人が考えそうなのであえて触れないが、時折のぞきに来てくれている貴重な奇特な友人や、俺から話を聞いて見てくれる人もいる。感謝の念とともに申し訳ない気持ち。彼らの好意にすがるようにして何とか食いつないでいる自分を振り返りつつ、そんな殊勝な感想は一晩寝れば忘れるんだこんちくしょう、と誰にぶつけてるのかよくわからない怒りとともに 「読み週記」を更新。

8月20日

 最近、いつも仕事に行くときには首からメモリースティックを下げて音楽を聴いている。電車の中だけでなく、10分くらいの道を歩いている時間を苦痛に感じてしまうので、音楽を聴きながら出勤できるのは幸せだ。ところが、今日はなぜかそれを忘れてしまい、その事に電車を乗り換えてから気がついた。それまでの間気付かないのも不思議だが、そういえば今日は珍しく、立ちながらでも頑張って本を読もうとしていたのは、そういう理由だったのだ。音楽を聴くことで本を読む分の脳味噌が減っているのかと思うとちょっと複雑な気持ち。どちらも俺にとっては水と同じくらい大事なんだけどなぁ、と贅沢な気持ちで述懐しつつ 「読み週記」を更新。

8月14日

 またもや月曜から飲みに行ってしまったので 「読み週記」の更新が一日遅れに。飲みに行って楽しい仲間と酒を飲むのだから文句はないが、全員翌日が休みの中で「じゃ、明日仕事頑張ってねー」と分かれるのはやや寂しい。

8月6日

 「原爆忌」だ。最近読んだ本だか聞いた話だか忘れてしまったが、ある人の母親の話で、広島へ行く切符を買おうと思ったが売り切れてしまい、近所の知り合いの人が「譲ってあげようか」と言ってくれたらしい。結局その人は広島へ行き、帰らぬ人となった。彼女の電車が広島についた30分後くらいに原爆が投下されたらしい。ある人の母親は、「譲ってもらえば良かった」と言っているらしい。
 広島、長崎の原爆について書かれた本は数多い。中学校の地理の先生に借りて読んだ、原爆を投下し、その事がきっかけで精神病院に入院してそこで無くなったパイロットとの往復書簡を思い出す。つい最近も、原爆投下側の人に関する本が出版されていたと思う。多くの犠牲がなければ学び得ぬものがあり、その学んだものすら、あっという間に忘れ去られてしまう人間の性質について考えたことのない人は少ないと思う。そのことについていろいろな意見や考えを主張して、語り合うことや子供達に教えることにも意義があるだろう。だが、様々な資料や人々の証言など、厳然たる事実や、人々や体験した「想い」になるべく直に触れることの方がよほど効果があるような気がする。自分がより認識を深めたり、それを共感し会ったりして人々と気持ちを交わしたり、相手の反応を確認するために、または単なる自己顕示欲のために、人々は多くの言葉を尽くし、活動をする。募金や政治活動もちろんあるし、様々な訴えがあることだろう。それらが、実際に起きた事実よりも何かを主張してしまうことが無いように祈る。
  「読み週記」を更新。先週更新日記を忘れたことに衝撃を受ける。

7月23日

 高まる気持ちのまま、「読み週記」を更新。今週はパソコンが再びぶち壊れたり、なんだかいろいろあった週なのだが、そんなことはむしろどうでもよくなってしまった。

7月16日

 更新した「読み週記」に書いたように、クーラーを導入した。日々の生活に新しいアイテムが導入される、というのはちょっとした幸せだ。実はこのたび、中学時代から使い続けている財布を新しくすることを決意して、注文した物がもうじき届くことになっている。ほんの些細なことではあるけど、結構今から楽しみで仕方がない。なんの変哲もない普通の財布なんだけど、今から人々に見せびらかしたくて仕方がない自分が居る。そんなもの見せられても面白くも何ともないと思うけど。第一、なにかポリシーがあって、「○○の財布なんだー」というのは話題としてアリな気がするけど、新しい財布である、という以外にナンの価値もなく、他人にとってはどうしようもなくどうでもいいことなので、今からその時のことを想像して気後れしている。でもきっとやるんだろうなぁ。

7月9日

 今日、帰りに電車で、高校の時の後輩に偶然出会った。どうもこの、心の準備が出来ていない状況で人にあう、というシチュエーションが苦手なのだが、最近は会って嬉しい人なら気にならなくなったので良かった。出会ったのが女の子なので、どことなく緊張してしまったが、別にそんなに緊張する必要なんか無いよなぁ。なんでかなぁ、と一人考える、「読み週記」の更新。

 

月2日

 まだ梅雨も明けたか明けてないのかよくわからないが、とにかく暑くなってきた。どうも暑いとクーラーの利いた部屋から出たくなくなるし、行動も抑制されてしまう。日本全国で全ての人の行動が抑制されるならば、それで丁度バランスも取れよう物だけど、そうでもないのが困りもの。夏が苦手な人はその分寒い冬に活躍する、とかならいいけど、暑いのも寒いのも眠いのも空腹なのも苦手な人間はどうすればいいのか。むしろこのだらけ具合をどうすればいいのか。
 非生産的な思考に逃げつつ「読み週記」更新。

6月26日

 やたらと忙しい週末が終わった。むしろ週末から今週はじめに向けて飲む会が続き、胃と肝臓がへたばってしまったので、今日は流行の休肝日、と思っていたのにやっぱりビールを飲んでしまった。この暑い時期にビールを飲まない方がおかしい。
 そんなわけで、週末に友人の結婚式があった。新郎の方は古い付き合いの親友だが、新婦の方もやはり友人。見慣れている姿であったのだが、花嫁衣装でハレの舞台に立った彼女は確かに綺麗だった。結婚式なので、「花嫁が綺麗だった」というのは定番で、馬子にも衣装とはいう物の、しょせんは素材が大事、と思っていたが、彼女の場合元が綺麗な女性であるだけでなく、一段と素敵になっていたのに驚いた。結婚の力と言うよりも、女性の尽きせぬ魅力の神秘によるものだと思う。そんなわけで、女優達の魅力の話をまくらにした「読み週記」を更新。

6月18日

 なんだか知らぬが、今日はやけに眠い。家に帰ってきてパソコンを立ち上げ、「読み週記」を更新しようとしたのに、ちょっと休憩、と思ってテレビの前に寝ころんだ瞬間にすやすやと眠りについてしまった。こういうときは体の要求に従って素直に寝るのが良いとも思ったけど、俺の場合、体の要求に従うと一生なにもせぬまま終わってしまうことが確実なので、その辺のバランスを取るのが非常に難しい。

6月12日

 先週末、休みを取って連休になったのに、結局忙しくて十分に休めず、「読み週記」の更新も一日遅れてしまった。休めないのに仕事をするのはしゃくなので、今日の午後も休みを取り、映画を見に行くことに。最近はほとんどの映画は自宅でテレビで見られるようになってしまい、ますます映画館に行く必要がないような気がしてしまったのだが、ここ数年、なぜか妙に映画に行きたくなる時期がある。これが不思議な物で、高い金を出して劇場で映画を見るとなると、映画の内容はもちろん、観覧中の環境にも贅沢になる。早く言えば、込んでいる映画館で隅っこの方から見てるのは嫌だし、暑すぎたり寒すぎたり、画面が見え辛かったりするのも嫌になる。だから映画を見に行くなら平日がいいと思ってしまう。
 最近の映画館はイスの横にカップホルダーがついていて、これがまことにありがたい。これだって、隣に人がいるとなんとなく遠慮して使いにくいし(肘掛けも同様だけど)、やっぱり空いている時がよい。今日行った映画館では、映画が始まるまで何度も座る席を変えているお兄さんがいて、「ああ、その気持ちはよくわかる」と暗がりの中で妙に納得してしまった。皆それぞれに色んなこだわりがありそうで面白い。

6月4日

 そんなわけで、今日更新の「読み週記」は全く内容がない。とにかく毎週更新するのだ、という意外に意味がないような気がするが、特に誰の役に立つわけでもないのでアリとする。
 日本はいま、コンフェデレーションズカップの真っ最中だ。ドーハ以降、日本代表への愛着が今ひとつなのは、サッカーの内容もさることながら、今ひとつ選手達に感情移入できるような気持ちを感じられなくなってしまった事も、理由の一つだと思う。ラモス、カズ、柱谷といった、なんだかわからないがテンションを高揚させられるような選手が姿を消し、今ひとつ乗り切れずにいる。自分と同じくらいの「クールな世代」が中心となって、クールで恰好いいのは良いけど、今ひとつ馬鹿っぽさに欠ける感じが不満だった。そんな中、中山だけに期待を寄せつつ見てたけど、今回の代表はほとんどメンバーは今まで通りなのに、久々に面白い試合を見るように思う。特に先日のカメルーン戦は面白かった。内容もよかったが、あれだけの内容はやはり気持ちが伴っているように見えるからだ。クールな選手の美技を見るのも良いし、優れたテクニックと創造性がもたらすサッカーも面白い。でも、自分の国の代表に期待するのは、やっぱり熱くなれるようなハートなんだ、と思う。

5月28日

 知人のホームページがリニューアルに取り組んでいる。それなりに面白いページだと思うけど、いかんせん、テキスト自体が売りの部分が大きくて、不利が否めない部分が見え隠れ。自分のページを振り返って、あまりにテキストだらけでなんの色気もないのにウンザリする。所詮俺の力ではこれが限界さ、とずいぶん意識が低い自分にびっくり。個人HPはピンきりというけれど、存続できてしまう事に問題があるのかもしれない。害にはならない、と思うけど。あいかわらずテキストオンリーの「読み週記」を更新。

5月21日

 世の中には大量の読者がいて、大量に書店があり、大量に店員がいる。その店員の多くは多分本が好きな人であろうし、彼らも別の場所で書店のお客になっている。当たり前のこの世界がいつか崩壊することもあり得ると考えると寂しくなる。本は電子情報になり、パソコンのモニターで読む物になる、という予想は今のところ可能性を感じさせるまでで、実際には本に勝る形態はないと自分では信じているし、おそらくそれはしばらくの間真実でもあり得るだろう。だがその世界は、やはり大量の「本を読む」人達の存在によって成り立っている世界であって、書店業界が今のように不況になれば、そもそもの出版のレベルから、その世界の存続が怪しくなってくる。図書館があろうと貸本屋があろうと、文庫が人気の媒体になろうと、本の文化は生き残ってきた。だがそれがいつまで続くのか。時折書店を歩きながら不安になることがある。更新した「読み週記」はあくまで「本」として読んだもののみを記している。これが無くなったら自分は終わりではないかと思う。

5月14日

 前々回まで色々と書いていた更新日記も再び短くなってしまった。これくらい波があるのも良いけど、もう一度根本から人生を見つめ直す必要があるなぁ、とここ5年くらい思い続けている。それってもうダメなんじゃ・・・とちょっと思いながら「読み週記」を更新。

5月7日

 そんなわけでゴールデンウィークも終了。次のG.W.まであと360日近い日々が続く。次に思う存分本を読む生活ができるのはいつのことだろう、と非生産的な夢想に身を委ねつつ「読み週記」を更新。みなさんの連休はいかがでしたか?

4月23日

 更新した「読み週記」の続き。仲間を求める人間の根本的な欲求についての話だ。
 この間NHKの教育テレビで、この間のゲームショーで行われた、「テレビゲームの未来を考える」というシンポジウムを見ていて感じたことがある。現代の若者、子供にとって、テレビゲームというのは相当に基本的な物になっている。ネットに接続されて新しいゲームの時代が来たとか、テレビゲームは文化であるか、というような議論が行われたんだけど、それはともかく、その中の一人の人の発言が気になった。
 言葉は全然覚えていないんだけど、その人はゲームがネットにつながったこともあって、もはや学校に行かなくても様々なコミュニケーションが図れるし、学ぶことが出来る。これからの時代の子供はそれによって様々な未来を手にすることが出来る、というような事を言っていて、そんな未来は嫌だな、と思ったのだ。確実にコンピューターにと電話回線(あるいはそれに変わる技術)を介したコミュニケーションの持つ意味合いは大きくなるし、人々の日常のコミュニケーションにおけるその割合も増加していくだろう。そうなったとき、もはやメールやチャットの持つコミュニケーションの意味合いは大きく変わって行かざるをえない。
 人間同士のつきあいで、メールってのはかなり不自然な物であるような気がする。もちろん便利だし俺も相当利用しているけど、あくまでも補助的なツールであると思いたい。例えば、ラブレターを送るのは、直接面と向かって気持ちを伝えるのが難しいから手紙を介するわけで、最終的にはそれを使って顔をつきあわせ、実際に向き合う関係を作りたいと思ったりするのだ。もちろん違う場合もあると思うけど、手紙だけで完結できる場合は、テレビの向こうの人へのファンの気持ち、とか、理想のあこがれの人への気持ちを伝えるわけで、より現実的でない対象への手紙になることが多いと思う。
 ところが、このごろどうも、メールがより現実的なコミュニケーションツールとして認識されて来つつあるように感じるのだ。「そんなことはない。結局は直接的な関係が意義を持つのだ」と信じたいけど、そうでない人達が今後でてきてもおかしくないのだ。
 そんな時代が嫌だな、と感じたり漠然と不安を感じるのは、それが自分の仲間ではない人達のように思えるからではないかと思うのだ。人が仲間を求めるのは、そうでない人は仲間でないからであって、そうでない人達は、色んな意味で脅威となりうる。そこにはもっと生物学的な不安なんかがあって、安全を求める人間の基本的な欲求を脅かすのではないかと思うのだ。だからこそ、異質なコミュニケーションを現実的にとらえる人類の出現に不快感(=不安)を覚えるし、そういうものに批判的にもなる。でもそれは、流行く時代の中で、当然の変化なのではないかとも思うのだ。例えそれが人類にとってマイナスであったとしても、そもそも自分が死んだあとの人類にとってプラスかマイナスか、ということがどれほど重要なのかもわからない。その点が未だに解決できずにいるジレンマとして自分の中にあるからだ。
 コミュニケーション、コミュニケーションツールというのは、大分前から俺にとって重要なテーマになっている。それがテーマとなった根底にも、同じような欲求や不安があるのかもしれない。

4月16日

 仕事がらなのか、このところ半年ばかり言葉についてさらに考えるようになった。「言葉」というのは考えれば考えるほど不思議なツールで、ただの道具として人間から乖離していないところが不思議。文字にして書かれた瞬間に人から離れて一人歩きを始めるんだけど、それまではそれを発した人物とは不可分のものになっている。面と向かっていればその人の表情や仕草とその意味内容が深く関係してくるし、顔が見えなくても、声の調子や言葉の選び方ひとつからして意味を持ってくる。こんな風にして、キーボードにたたきつけるようにして言葉を羅列しながら、自分の行為の神聖さと冒涜の二律背反に心打たれる。
 なにやら哲学的になりながら「読み週記」を更新。このところさらに理屈っぽくなったのかな。

4月9日

 つい先日、ふとしたことで「素晴らしい」という言葉を素になって使った。なんだか大仰な表現でもある気がしたし、自分で言ってからすぐに「素晴らしい」なんて表現はあまりそぐわないかも、と思ったが、一緒にいた人がやはり「素晴らしい」と受けてくれた御陰で、なんだかしっくり行ったんじゃないかと思い直した。口をついて出てきた言葉で、自分でもなぜその言葉を選択したのかよくわからなかったが、普段気軽にその言葉を使うときとは気の持ちようがちょっと違った気がしたので、敢えてそれを大事にしたくもなった。受けてくれた人がどう感じていたかは、はっきりとはわからないけど、あれはあれで正しかったのだと思う。「素晴らしい」ってそういう意味なんだ。
 とわけのわからないことをつぶやきつつ、「読み週記」を更新。

4月2日

 更新した「読み週記」にも書いたけど、新年度である。前にも書いたような気がするんだけど、日本は新年と新年度が近くてなんだかよくわからない。どちらも区切りとして忘年会をしたり年度納め会をしたり、結局エンジョイしちゃうんだけど、統一して欲しいなぁ、という想いと、それはそれで良いか、という想いが共存している。

3月26日

 このところ、週末をエンジョイしすぎ。なんだか恐ろしい勢いで深夜を消費していて、本を読むヒマが無いどころか、睡眠時間にも不都合が生じている。たまった有給を一気に消化したい誘惑があるが、とりあえず今年度はもう無理。大量に繰越になるんだけどどうしよう。
 深く悩みつつ「読み週記」を更新。久々に小説を書きたい熱が再燃。ここには載せないけど。

3月22日

 更新がずいぶん遅れてしまった。週頭が忙しかったこともあるけど、なんとなく先送りにしてしまっている自分に気付き、愕然。心の甘えがこのところどんどん進行しているような気がしてならない。こんな事をしてる場合ではないんですけど。がらにもなく若さがあるんだかないんだかわからない反省をしつつ「読み週記」をようやく更新する。

3月12日

 発作的にB・B・キングのアルバムを購入。これが実にいい。ブルース最高、と訴えつつ、夜中にまでそれが頭に染みついて離れないので、別の曲を聴いてから寝るようになった。麻薬的な音楽である。ブルージーな気分で「読み週記」を更新。

3月5日

 最近身の回りでボードゲームやカードゲームが流行っている。この流行は恐ろしい物で、確実に仲間達の命を削っているのがわかるのだ。恐ろしい恐ろしい、と心の中で思いながらも、新しいゲームに没入していく自分たちの姿を省みつつ「読み週記」を更新。

2月26日

 先日、ある友人に本を薦めた。「何か面白い本ない?」って俺に聞いてくれる人はあまりいないので、喜んで大量に薦めてしまった。大量さ加減にも反省するけど、それよりも、手を出さずにいるジャンルがあまりにも多い事に改めて愕然とする。もっといろいろ読まなきゃ、と思うけど、なんで読まなきゃいけないのかは不明である。ちょっとした自戒を込めながら相も変わらず「読み週記」を更新。

2月19日

 どうも慢性的に寝不足。夏から秋にかけ、冬から春にかけて寝不足だ。一体何時間寝ればいいのか見当がつかない。山積した仕事を横目でも見ずに、布団の誘惑と戦いながら「読み週記」を更新。

2月16日

 週頭は祝日だったので更新はおやすみ。その変わり、間違いを発見してもらったので「読み週記」を訂正。読んでくれる人がいるというのはありがたいことだよね。

2月5日

 自分が年を取ったと思うことが最近よくある。NHKの連ドラの主人公の生まれ年を見て、さらに年の生まれが今何歳であるのか、という現実を知ったときに、衝撃を覚えることもその一つ。人間は常に他人を通して自分を知るのだ。
 もう一つ思うのが、親である人々が自分と大して年が違わない事がある、という現実に直面したときだ。今日更新した「読み週記」に出てくるある母親を見かけたときに「このバカモンが!」とひっぱたいてやりたくなったのも、彼女の年が自分と大して違わないらしい、つまり、世代というか、社会における年齢的な分布から言って、自分が彼女とほぼ同じカテゴリーに入ることから感じた憤りに気付いたのだ。子供の頃にそんな母親を見て、後からけっ飛ばしてやろうかと思ったことはあるけど、正面から対峙する自分を意識したのは初めてではないかと思う。恐ろしいことだ。色んな物から目をそらせる時代は過ぎていった。

1月29日

 毎週「読み週記」を更新するたびに思うのだが、俺の部屋の今年のカレンダーは不便だ。いつも月曜から日曜までの日付で区切っているんだけど、なんと日曜祝日は各月の動物の絵が描いてあるだけなのだ。
 なかなか人を食ったような作りだと思うが、不便だと思う反面、実に気に入っている。休みの日は「何日」とかでなく、休みの日なのだ。日付は関係なく、ただ休みの日である、というだけでいい。そう主張しているかのようなカレンダーが部屋にあるだけで、なにか余裕を感じてしまう。人々よ、休みは休め。

1月26日

 いや、「フリップだよ」だって。こんなことで良いのか、俺。「短編小説群」を三度修正。しかもほとんど変わっていない。何というか、何もいわない。本当は「フルッツ」だったとしてももう直さないからな。ついでに「読み週記」上の、雑誌名、版元名を訂正。協力感謝。

1月25日

わけあって夜更かし。そしてメールで教えてもらったので、急遽手直し。「短編小説群」のこの間載せた話。「フラップ」だよな。「ふた」じゃなくて。

1月22日

 やけに自省的な締め方に向かいそうになりながら逃げに走っている「読み週記」を更新。ここに来てようやくこのコーナーを続けている意味が見えてきたように思う。ただの読書記録(でも良いと思うけど)から違う物に変貌しつつあるのではないか、という胸の内に漂わせつつ、心の余裕のなさからあえて先送りにしてしまった。何のことなのか読んでいる人にはさっぱりわからないかもしれないけど、ただの読書記録から、プラスアルファの意味を持ったものに変わり行く過程で、読書記録そのものの質が向上していけばいいなぁ、ということをぼんやりと考えつつあることだけを感じ取ってくれるとありがたい。

1月15日

 すごい、今年に入ってもう3回目の更新だ。珍しいハイペースかと思いきや、単に今日更新した「読み週記」の更新が2週刊お休みだっただけのことなので、大して変わらない。まあいいか。
 日に日に冬将軍も本気に磨きを掛け、キーボードを打つ指も凍えてミスタッチが多い。更新も大変なのだ。

1月9日

 「短編小説群」の誤字等を訂正。こういうのはあまり多くを語らぬが吉。

1月8日

 新世紀最初の更新は、読み週記ではなく「短編小説群」。読み週記は今週もお休みである。最近書いた『おハヤヤ様』を載せた。実は最近PHSを手に入れた。番号を知りたい人には特別に教えてあげたい気もするんだけど、実はこのPHSはただのダミーで実際は使えないので教えられない。俺も知らないもん。貰い物だから。
 そんなわけでさっぱり評判の良くない新しい(古い)PHSを記念して、電話がらみの短編を書き上げる。今年もよろしくお願いいたします。

 

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