地名篇(その九)

<幻の富士山神話ー地名をポリネシア語で解釈するー>
(平成12-10-31書込み。19-2-15最終修正)(テキスト約9頁)


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目 次<幻の富士山神話ー地名をポリネシア語で解釈するー>

  第1 まえがき

     地名等のポリネシア語による解釈ポリネシア語と日本語の関係解釈結果

  第2 幻の富士山神話

    「富士山」の語源富士山釣り上げ神話富士山周辺の「あし」地名「ふじ」地名のいろいろ

 第3 富士山の周辺の地名

    駿河国沼津田子ノ浦由比有度山登呂宇津ノ谷峠焼津

<修正経緯>


[おことわり]

この篇は、私が清水ロータリークラブ例会(平成12年10月31日静岡県清水市ホテル・サンルートにて開催)で「幻の富士山神話 ー地名をポリネシア語で解釈するー」と題して行った小講演の際会員に配布した資料をホームページ用に編集したものです。

 ここに盛り込まれた内容の大半は、すでに入門篇(その二)地名篇(その一)および地名篇(その八)などに発表したものを要約したものですが、その中の「足柄山」の解釈を改め、さらに「金時山」の解釈を新たに付加することによって、「富士山釣り上げ神話」を一層整合性、かつ一貫性をもった解釈に一新することができたと考えています。

  なお、ここで示した解釈は、その後の検討によって他の篇において修正したものがありますが、それに応じて本篇に修正を加えることはごく一部を除き行っておりませんので、お含みおきください。

<幻の富士山神話 ー地名をポリネシア語で解釈するー>

第1 まえがき

1 地名等のポリネシア語による解釈

 日本の古い地名や、記紀、風土記の中の地名・語彙には、現在我々が使用している日本語では意味不明のものが数多く存在します。

 これらの意味不明の地名や語彙は、縄文語(原日本語)の語彙であり、これらは縄文語と語源を同じくし、かつ、その後他系統の言語との交流が少なく、比較的に古い姿を今に止めているポリネシア語によってその意味が正しく解釈されると考えられます。

2 ポリネシア語と日本語との関係

 原日本人である縄文人は、南方系の古モンゴロイドであり、弥生人は古モンゴロイドが北方で寒冷適応したのち大陸または朝鮮半島から日本列島に渡来したもので、両者が混血して現在の日本人が成立したとの有力説があります。

 また、日本語の基層に南方語(オーストロネシア語)が入っていることはほぼ定説といってよいでしょう。さらに縄文人の言語と、現在の日本語の語順、文法と基本語彙をもつ弥生人の言語が融合して現在の日本語が形成されたとの説が有力です。

他方、東部オーストロネシア語(ポリネシア語)を話すポリネシア族はモンゴロイドであり、その祖先は、雲南から出て中国南部からインドシナ半島の海岸部に居住していましたが、紀元前数千年ごろ居住地を離れ、東へ移動して現在の地域に定着したとする説が有力です。

 以上の説からしますと、このポリネシア族の祖先と言語を同じくする民族が、中国南部から北へ向かい、おそくとも縄文時代中期から後期には日本列島へ渡来して各地に居住していた可能性が高いと考えられます。

 そこで、日本の古い地名や語彙を原ポリネシア語を介して、それに対応する現代ポリネシア語(とくにマオリ語)を探る方法によって解釈しますと、極めて多くの注目すべき結果を得ることができました。

3 解釈結果

 @古い地名についてはその地形を表現したものが多いのは勿論ですが、縄文人の思考を反映して擬人化による特異な表現や、祖先の神や英雄の事績による命名もかなり存在します。A記紀・風土記の神名・人名・地名等、B律令制下の古い国名、C魏志倭人伝の地名・官職名など、またD日本各地の民俗語彙の意味およびその本来の趣旨が判明することによって新たな視野が開けます。

 さらに、E日本語の表現に不可欠の畳語(反復語。南方語の特徴)の本来の意味が判明し、F各地に残されている方言もその本来の意味が多く発見できることは、原ポリネシア語が日本語の基盤の一つであることを証明しているといえましょう。

   

第2 幻の富士山神話

1 「富士(ふじ)山」の語源

 日本一の高峰(3,776メートル)であり、日本を代表する名山、また霊峰としての富士山の山名は、古来、富士山のほか、不二山、不尽山、布士山、福慈山などとも書かれています。

 その語源については、@ホデ(火出)の転、

Aケフリ(煙)シゲシの略、

Bフジナ(吹息穴)の略、

Cアイヌ語で「老婆、火の神」の意の「フチ」、

Dアイヌ語で噴火するという意味の「プッシュ」、

Eマレー語で素晴らしいという意味の「プジ」、

などの説があります。

 この「ふじ」は、マオリ語の

  「フチ、HUTI(pull up,fish(v))、(神が海中から)釣り上げた(山)」

が濁音化したものと解します(以下原則としてマオリ語で解釈します)。

 日本語でも古くは「ふち」であったと考えられ、このことは静岡県富士宮市にある富士山本宮浅間神社の北約6百メートルのところに、浅間神社よりも古い式内社で「富知(ふち)神社」という富士山の山の神を祀る神社があり、古くから地元の人の尊崇を集めてきたこと、日本各地の「ふじ」地名が同様の意味で地形に適合して解釈できることからも確かであると考えます。

2 富士山釣り上げ神話

 ポリネシア神話によれば、人間に火をもたらした「マウイ」という有名な英雄神が、その祖母が亡くなったとき、祖母の顎の骨を取って釣り針とし、海中から火山島を釣り上げたといいます。この島釣り神話は、ポリネシア族だけではなく、広くメラネシアやミクロネシアの諸民族にも広がっています。

 そしてこの「島釣り神話」は、『古事記』、『日本書紀』のイザナギ、イザナミの二神がアメノヌボコで海をかき回して引き上げ、矛(ほこ)の先から滴り落ちた海水が固まってオノゴロ島となったという「国生み神話」と同じ系統に属する「陸地創造神話」であると神話学者は述べています(大林太良『日本神話の起源』角川選書、1973年。吉田敦彦『日本神話の源流』講談社現代新書、1976年)。

 この「富士山」の名をつけた民族は、神がどのようにして富士山を釣り上げたかについて、見事なまでにまとまった詩情あふれる気宇壮大な物語を作り上げていたと思われます。残念なことに、この「出雲国引き神話」にも匹敵するであろう「富士山釣り上げ神話」は現在僅かな断片しか残されていませんが、富士山周辺の地名にはその物語があったことを窺わせる地名が多数残っています。

 昔から富士山の周辺に「あし」地名があることが注目されてきました。「愛鷹(あしたか)山」、「芦(あし)ノ湖」、「足柄(あしがら)山」や富士川の支流の「芦(あし)川」がそれです。さらに「金時(きんとき)山」、「篭坂(かごさか)峠」、「御坂(みさか)山」、「酒勾(さかわ)川」などを含めた地名は、「富士山釣り上げ神話」の構成要素として、ポリネシア語で解釈できます。

3 富士山周辺の「あし」地名

(1) 愛鷹(あしたか)山

 富士山の南にある愛鷹山( 1,188メートル)の「あしたか」は、

  「アチ・タカ、ATI-TAKA(ati=descendant;taka=fasten a fish-hook to a line,fall down)、釣り針を引っかけた(または落とした)痕跡」

の転訛と解します。

 この山は、神が最初に釣り針を引っかけて途中まで引き上げたのですが、足柄山の怪物の妨害によって釣り糸を切られて「落とし」ましたが、その怪物を退治し、再び「釣り上げ」を試みて成功したもので、最初に釣り針を引っかけた「痕跡」の土地の高まりだったと推測されます。

(2) 芦(あし)ノ湖

 富士山を釣り上げるのに使った釣り針は、神が富士山の隣にある箱根火山からもぎとった巨大なJ字形の岩石で、その痕跡が「古芦ノ湖」(現在の仙石原一帯と芦ノ湖をあわせた地帯に昔あった湖)であったと考えられます。

 地質学の研究成果によりますと、箱根火山は、これまで二度にわたってカルデラが形成されていますが、まずその中を流れる早川が2万8千年前におきた神山(かみやま。1,438メートル )の噴火によつて堰き止められ、現在の芦ノ湖の四倍の面積をもつ「古芦ノ湖」(古仙石原湖)ができました。

 その後古芦ノ湖は、しだいに排水され、湿原化していきましたが、約3千年前の神山の水蒸気爆発によつて二分され、早川の上流部にふたたび水が溜って現在の芦ノ湖が、下流部に仙石原が現出したといいます(小学館『日本地名大百科』1996年)。

 したがって、原ポリネシア語を話す南方系の民族が黒潮に乗って日本列島に到達したのが縄文海進期ないし縄文時代後期のはじめごろとしますと、彼らが目にした古芦ノ湖は、J字形をした、正に釣り針の形をした湖であつたはずです。

 この芦ノ湖の「あし」は、

  「アチ、ATI(descendant)、(釣り針をもぎとった)痕跡」

の転訛と解します。

(3) 足柄(あしがら)山と金時(きんとき)山

 箱根火山と丹沢山地の間を足柄山地といい、古くは足柄峠付近を足柄山と呼んでいました。その南に箱根外輪山の最高峰の金時山(1,213メートル)があり、西の乙女峠まで平らな尾根が続き、南面は急崖、北面は緩傾斜となっています。 

 この「あしがら」は、

  「アチ・(ン)ガララ、ATI-NGARARA(ati=descendant;ngarara=reptile(ngara=snarl))、怪物の(死骸の)痕跡」の転訛(「(ン)ガララ」の反復語尾の「ラ」が脱落した)、

  「きんとき」は、「キノ・トキ、KINO-TOKI(kino=bad,ugly;toki=axe)、悪い(悪意を持つ)斧」の転訛と解します。

 神が富士山を釣り上げようとしたとき、怪物が妨害して斧で釣り糸を断ち切り、神の怒りに触れて殺された怪物の死骸が足柄山に、その斧が金時山になったものです。「鉞(まさかり)かついだ金太郎」の伝説は、この富士山釣り上げ神話の断片の記憶が変化したものではないでしょうか。

[注]1 「あしがら」には、「あしがり」という別名があったようです(『万葉集』巻14。3368〜3370)。この「あしがり」は、

  「アチ・(ン)ガリ、ATI-NGARI(ati=descendant;ngari=annoyance,disturbance,greatness,power)、(怪物が)妨害をした跡」、

の転訛と解します。この別名も、上記の「あしがら」とほぼ同じ意味なのです。

(「足柄山」の従前の解釈については、地名篇(その一)の2の(3)のb「足柄山」の項を参照してください。)

[注]2 「悪い(悪意を持つ)斧(のような山。金時山)」のような擬人法による表現は、すべての自然に生命を認める古代人の思想に基づく普遍的な表現です。

[注]3 「鉞(まさかり)かついだ金太郎」の童話のもととなった伝説は、足柄山に住む山姥が雷神と通じて怪童を産み育て(『新編相模国風土記稿』によれば、出生地は公時(金時)山とされます。また、鉞は雷神の武器の象徴とされています。)、怪童が源頼光に見い出され、坂田公時(金時)となって源頼光の郎党の四天王の一人となり、酒呑童子の退治等に活躍するというもので、『御伽草子』、謡曲『大江山』や、謡曲『羅生門』、『平家物語』、『今昔物語集』などにも登場します。

 この「山姥説話」、「怪童説話」は、遠く古代の信仰の流れを汲む「雷神信仰」ないし「怪物信仰」や「処女懐胎説話」に源を発しているもので、「富士山釣り上げ神話」の断片の記憶が変形したものと考えられます。

[注]4 「金時山」は、江戸時代からの呼称で、古くは「猪鼻(いのはな)岳」であったという説がありますが、「坂田金時(さかたのきんとき)」伝説からみても、古くから「公時(きんとき)山(金時山)」、「猪鼻岳」の山名があったと考えられます。

 この「さかた」、「いのはな」は、

  「タカ・タ、TAKA-TA(taka=heap,lie in a heap;ta=dash,lay)、高い山に居る(または高い山を走り回っている)(金時山で生まれた人間)」

  「イノ・ハナ、INO-HANA(ino=momo=descendant;hana=whakahana=hold up weapons)、武器(斧)を振り上げた跡((昔富士山を釣り上げる糸を切った)斧の山)」 の転訛と解します。

(4) 酒匂(さかわ)

 富士山東麓の水を集める鮎沢川と、丹沢山地西部の河内川が合流して酒匂(さかわ)川となり、丹沢山地と箱根火山との間に酒匂渓谷を刻み、足柄(または酒匂)平野を南流して相模湾に注いでいます。

 その河口左岸には小田原市酒匂の地名が残っています。

 この「さかわ」は、

  「タカ・ワ、TAKA-WA(taka=fasten fishing hook;wa=place)、釣り針を結んだ場所」

の転訛と解します。

(5) 篭坂(かごさか)峠

 富士山の東の小富士から下ったところに、御殿場市から山中湖へ抜ける国道138号線の篭坂(かごさか)峠があります。

 この「かごさか」は、

  「カコア・タカ、KAKOA-TAKA(kakoa=full of hard fibres;taka=fall down)、大量の釣糸が落ちたところ」

の転訛と解します。

(6) 御坂(みさか)山地

 富士山の北、山梨県内に御坂(みさか)山(1,596メートル )を中心とする御坂山地が東西に長く横たわっています。御坂山とその東の黒岳の間の峠が御坂で、笹子峠とともに甲府盆地に入る重要な峠でしたが、その名の由来は、@日本武尊がこの坂を越えて甲斐国に入ったから、A「見坂」または「美坂」で眺めのよい坂、美景の見られる坂だからと言う説があります。ここは、富士山の好展望地として知られており、峠には太宰治が『富岳百景』を執筆したことで有名な天下茶屋があり、その一節”富士には、月見草がよく似合ふ”を刻んだ文学碑が立てられています。

 この「ミサカ」は、

  「ミハ・タカ、MIHA-TAKA(miha=shoots of fern;taka=fall down)、(釣り竿に使った)羊歯の若枝が落ちた(山になったところ)」

の転訛(「ハ」音が脱落した)と解します。

(7) 芦川(あしかわ)

 御坂山地の中央を横断して、東から西に向かって流れ、笛吹川に合流する芦川があり、芦川渓谷を形成しています。

 この「あしかわ」は、

  「アチ・カハ、ATI-KAHA(ati=descendant;kaha=rope,lashings of the attaching-side of a canoe)、(釣り竿=御坂山地に)結びつけた釣り糸の跡(の川)」

の転訛と解します。

4 「ふじ」地名のいろいろ

(1) 藤井寺(ふじいでら)市

 大阪府の南東部に藤井寺市があります。市名は、市の西部にある葛井寺は、百済系の渡来人葛井連(ふじいのむらじ)一族が氏寺として創建した名刹葛井(ふじい)寺に由来しています。

 市の地域は、大和川と石川の合流点の南西部に位置しており、羽曳野(はびきの)丘陵北端部を占めています。丘陵末端部は古くから開け、羽曳野市にかけて巨大な前方後円墳が密集する古市古墳群をはじめ遺跡が多い地域です。難波と飛鳥を結ぶ古代の幹線道路の大津道(長尾街道)と、生駒山麓を南北に通ずる東高野街道の会合点にあたる国府(こう)には河内国府が置かれていました。

 この地域に古く「ふじい」という地名がつけられ、そこに住んだ氏族に葛井連(ふじいのむらじ)の名が付されたと思われます。

 この「ふじい」は、

  「フチ・ヰ、HUTI-WI(huti=pull up,fish(v);wi=tussock grass)、持ち上げられた(高みにある)草むらのある場所」

の転訛(「フチ」が濁音化した)と解します。

(2) 藤戸(ふじと)の渡り

 「鬼平犯科帳」の中村吉右衛門丈は平成10年5月、ユネスコの世界遺産に指定されている広島の厳島神社で、創作舞踊劇「昇竜哀別瀬戸内(のぼるりゅうわかれのせとうち)藤戸」を奉納しています。

 これは謡曲「藤戸」を歌舞伎にしたもので、『平家物語』にでてくる源平の藤戸の合戦で先陣の功をたてた佐々木盛綱に息子を殺された母の恨み、悲しみを色濃く描いたものです。「藤戸」は、『古事記』の国生み神話に「吉備の児島」としてでてくる現在の岡山県の児島半島がかつては島であり、本土と地続きではなく、狭い水道で隔てられていた時代に、その水道のなかでただ一カ所、「河の瀬のやうなるところ」(『平家物語』巻第十、岩波書店、日本古典文学大系)があって人馬が歩いて渡ることができた場所の地名です。

 この「ふじと」も、

  「フチ・ト、HUTI-TO(huti=pull up,fish(v);to=be pregnant)、川底が持ち上げられているところを妊(はら)んでいる(浅瀬を内蔵している)場所」

の転訛と解します。

(3) 伏木(ふしき)

 伏木は、富山県の北西部、小矢部(おやべ)川の河口にある港町で、もとは射水郡伏木町でしたが、現在は高岡市に編入されています。この小矢部川の左岸の高台には、奈良時代に越中守大伴家持も赴任した越中国衙(こくが)や国分寺が置かれました。

 この「ふしき」は、

  「フチ・キ、HUTI-KI(huti=pull up,fish(v);ki=full,very)、非常に高く持ち上げられた場所」

の転訛(原ポリネシア語のT音が日本語に入ってS音に変化した)と解します。

(4) 藤原(ふじわら)岳

 鈴鹿山脈の北部に全山石灰岩からなる藤原岳(1,130メートル )があり、頂上は平らでカルスト地形を呈しています。

 この「ふじわら」は、

  「フチ・ワラ、HUTI-WHARA(huti=pull up,fish(v);whara=be struck,be pressed)、高くて(山頂が)押し潰されている(山)」

の転訛と解します。

   

第3 富士山の周辺の地名

1 駿河(するが)国

 駿河国は、東海道十五国の一つで、古くは須流加、珠流河、州流河、薦河、尖河、尖蛾、仙河などとも書きました。

 その語源は、

@富士川の流れが川辺をゆする河(『駿河名義』)、

A尖川(するとかわ。『諸国名義考』)、

B滑所(しると。沼沢)の転(『駿河国新風土記』)、

C州寄処(すよか)で波が押し寄せる国(同上)

などの諸説がありますが、定説はありません。

 この「スルガ」は、

「ツ・ル(ン)ガ、TU-RUNGA(tu=stand;runga=south)、(富士山の)南に位置する(地域)」

の転訛(T音がS音に変化した)と解します。

 また、越前国敦賀(つるが)も、同じ語源で、「(越の国の)南(端)に位置する(場所)」と解します。『和名抄』は敦賀郡を「都留我(つるが)」と訓じています。越の国は、4〜5世紀には加賀・能登をふくめた越前の地域でしたが、6世紀には越中の地域が含まれるようになり、7世紀には越後の地域まで拡大されたとされます。

 なお、駿河国の「するが」は、インドネシア語の「SURGA、楽園、天国」が語源ではないかという説(茂在寅男『古代日本の航海術』小学館創造選書、1979年)があります。マレー語でも「SYURGA,SORGA、heaven、天国」ですが、この語はサンスクリット語源とされています(MALAY-ENGLISH/ENGLISH-MALAY DICTIONARY,A.E.Coope,HIPPOCRENE BOOKS,New York,1993)。マレー語、インドネシア語にこのサンスクリット語が入った時期は不明ですが、現代マオリ語や現代ハワイ語にこの語に相当する語が見あたらないことからみて、原ポリネシア語が西部オーストロネシア地域に拡散した時点(紀元前4千年ないし2千5百年前)よりも、かなり後になつてマレー語、インドネシア語に入ったものと考えられます。

(注) 地名は、通常そこに住む住民がその言語で付けるものですから、ある地域の地名はその言語によってセットで解釈できなければならないと考えます。地名の一つだけをある言語で解釈しても、それが必ず正しいとは言えないのです。

2 沼津(ぬまづ)

 駿河湾北東部の商工業都市、沼津市の地は、『和名抄』の駿河郡玉造郷に比定されます。狩野川にかかる黒瀬橋の南には、式内社玉造神社があります。また、黒瀬橋とJR沼津駅の中間にある日枝神社の参道入り口には、古代に玉の研磨に用いたという石が立てられています。

 沼津の地名は、狩野川河口近くの「沼沢地」からきた地名と通常解されています。

 富士山と駿河湾の海岸との間に、ほぼ並行して、あるいは交錯して何本もの道路や鉄道が走っていますが、このうち東海道新幹線とほぼ同じルートを通る県道22号線は、富士市(本吉原)から富士山の山麓に沿って、沼津、三島の中心地は通過せず、沼津の北から御殿場へと向っています。この路は、おそらく、縄文海進時代に当時の駿河湾の海岸に沿ってつくられた路で、平安時代の初期に箱根路が開かれるまで、駿河と伊豆、相模を結ぶ主要道であった足柄路に通じていた路ではないかと思われます。

 これは推測ですが、縄文海進時代の駿河と伊豆との陸上交通は、この道路の途中、三島の北西あたりから分岐して、三島を経由して伊豆半島中央部に至るルートが幹線だったのではないでしょうか。そして海進時代が終わった後、本吉原から元吉原を経て、前進した海岸沿いに、沼津、三島を経由して伊豆半島中央部にいたる脇道ができたのではないでしょうか。このより平坦で、距離の短いルートが、やがて平安時代の初期に箱根路が開かれると、鎌倉時代にかけて次第に主要道化して東海道となり、江戸時代を迎えることとなったものと思われます。

このように考えますと、沼津を通る旧東海道は、いわば最古の足柄道の裏道、脇道として成立したものと思われます。

 沼津の「ぬまづ」は、

  「ヌムア・ツア、NUMUA-TUA(numua=pass by;tua=back)、(本道の)後ろ側を通る(場所)」

の転訛と解します。この地名は、縄文海進が終わった後、裏道ができたころに命名されたものと考えられます。

 なお、第二の仮説として、この「裏道」は、足柄路の裏道ではなく、古東海道の裏道を指すものであった可能性もあります。

3 田子(たご)ノ浦

 田子ノ浦は、広義では沼津市の狩野川河口から富士市の富士川河口の吹上ノ浜にかけての「平滑な」海岸をいい、狭義では吹上ノ浜から東の潤(うるい)川河口付近までをいいます。歌枕としては、富士川河口西方の蒲原、由比あたりの海岸を指します。この海岸は、富士山と三保の松原を展望する東海道随一の景勝地です。

この「たご」については、@富士山への玄関、A製塩用の塩汲み桶という説があります。

 この「タゴ」は、広義の意味の海岸では、

  「タコ、TAKO(peeled off,loose)、皮をむいたように滑らかな(海岸)」

の転訛と解します。

 また、狭義の意味の歌枕の蒲原・由比海岸は、

  「タカウ、TAKAU(steep)、嶮しい(崖が迫っている海岸)」

の転訛(AU音がO音に変化して「タコ」となり、濁音化した)と解します。

 なお、前者の広義の「田子ノ浦」の後背地は、かつては浮島の点在する池沼地帯で、「浮島ケ原」とも、「富士沼」とも呼ばれていました。水鳥の羽音に驚いた平維盛の軍勢が総崩れとなった治承4(1180)年10月の源平富士川の合戦の舞台です。この「浮島」が、

  「タコ、TAKO(loose)、(地盤が固定されていない)浮島」

と呼ばれ、その名称が池沼地帯の名称から海岸の名称に転じた可能性もあります。

4 由比(ゆい)

 庵原郡由比町の名は、近世の東海道由比(ゆひ)宿に由来します。蒲原から由比にかけては、急峻な崖が駿河湾に迫り、海岸の狭い場所を街道が通っています。

 この「ゆい」は、

@共同作業の「結(ゆい)」で、鎌倉由比ヶ浜など と同じく漁民の共同作業に由来するという説、

A風や波でゆりあげられた土地であるとする説、

B井泉の豊かな土地であるとする説があります。

 この「ゆい」は、

  「イ・ウヒ、I-UWHI(i=beside;uwhi=uwhiuwhi=sprinkle)、(波が海岸の岩に砕けて)水しぶきをあげる海岸のそば」

の転訛(「イ・ウヒ」が「ユヒ」となり、「ユイ」となった)と解します。

 また、鎌倉の由比ヶ浜は、広義では稲村ケ崎から飯島ケ崎までの海岸、狭義では稲村ケ崎から滑川までの海岸を指すといわれています。この「ユイ」も同じ語源で、「水しぶきをあげる」稲村ケ崎とそれに続く海岸を指す地名と解します。

 なお、共同作業の「結い」の「ゆい」は、

  「イ・ウイ、I-UI(i=past time,by,by reason of;ui=disentangle,ask)、(労働の貸し借りを清算する面倒を)一挙に解決するためのもの(仕組み)」

の転訛と解します。

5 有度(うど)山

清水市と静岡市にまたがってドーム状丘陵の有度山があります。その頂上は平坦で、富士山や三保の松原の好展望地で、日本武尊にあやかって日本平(にほんだいら)と呼ばれています。その南側は海食崖で、徳川家康を祀る東照宮がある久能(くのう)山の独立峰が屹立しています。その海岸沿いの急傾斜地の根古屋(ねこや)地区では、石垣イチゴの栽培が盛んです。

この有度山の「うど」は、

  「ウ・タウ、U-TAU(u=breast of a female;tau=beautiful)、美しい婦人の胸(のような山)」

の転訛と解します。

 また、久能山の「くのう」、根古屋の「ねこや」は、それぞれ

  「ク・(ン)ガウ」、KU-NGAU(ku=silent;ngau=bite,attack)、「(海側を)喰いちぎられた静かな(山)」の転訛(「(ン)ガウ」のNG音がN音に変化して「クナウ」から「クノウ」となった)、

  「ネコ・イア、NEKO-IA(neko=nekoneko=fancy border of a cloak;ia=indeed)、本当に縁(へり)を飾っている(場所)」の転訛と解します。

6 登呂(とろ)

 静岡市の南部、安倍川扇状地の末端に、弥生時代中期から末期にかけての水田跡、住居跡等の遺構で有名な登呂遺跡があります。

 この「とろ」は、@「泥」の意味で、沼沢地名とする説と、A吉野・熊野国立公園の「瀞八丁(どろはっちょう)」のように「流れが緩い、澱む」場所を指すとする説がありますが、この場所は通常水はけの良い扇状地の上にあり、弥生時代に沼沢化していたかどうかは甚だ疑問です。

 この「とろ」は、

  「トロ、TORO(stretch forth,extend)、(海または下流に向かって)広がっている(場所)」

の意と解します。

7 宇津ノ谷(うつのや)峠

 静岡市と志太郡岡部町の間に宇津ノ谷峠があります。標高はわずか180メートルですが、旧東海道の丸子(まりこ)宿と岡部宿の間の難所で、奈良時代には海岸沿いの「日本坂越え」、平安中期以後は国道1号線のやや南の「蔦の細道」から「宇津ノ谷峠越え」へと変遷したといわれています。「蔦の細道」は河竹黙阿弥の世話物『蔦紅葉宇都谷峠』の舞台です。

 この「うつのや」は、

  「ウツ・ノイ・イア、UTU-NOI-IA(utu=spur of a hill,front part of a house;noi=elevated,on high,errected;ia=indeed)、実に高い屋根の庇(ひさし)のような(嶮しい峠)」

の転訛(「ノイ」のI音と「イア」のI音が連結して「ノヤ」となった)と解します。

8 焼津(やいづ)

 焼津は、『日本書紀』の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の際、賊に火で攻められ、「向かい火をつけて」難を免れ、「天叢雲(あめのむらくも)剣で草を薙ぎはらい」、「賊を焚いて滅ぼした」という伝説にちなむ地名とされています。『古事記』では焼津を相武(さがむ)国としています。

 この「やいづ」は、

  「イ・アウィ・ツ、I-AWHI-TU(i=past time,beside;awhi=embrace;tu=stand,settle)、(賊軍に、または野火に)包囲されて止まっていた場所のそば」

の転訛と解します。

 また、天叢雲剣は、『古事記』によりますとスサノオノミコトがヤマタノオロチを退治した際、オロチの尾から「都牟刈(つむがり)の大刀」を得たとあり、「是は草那藝(くさなぎ)の大刀なり」と説明されています。『日本書紀』は「此所謂草薙剣なり」とし、一書に「本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇居る上に、常に雲有り。故以て名づくるか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。」とあります。

 この「つむがり」、「くさなぎ」、「むらくも」は、

  「ツム・(ン)ガリ、TUMU-NGARI(tumu=go against the wind;ngari=disturbance,power)、向かい風を起こす力(を持つ剣)」、

  「クタ・ナキ、KUTA-NAKI(kuta=encumbrance;naki=glide)、邪魔物を薙ぎ倒す(剣)」、

  「ムラ・クモウ、MURA-KUMOU(mura=flame;kumou=komou=cover a fire with ashes or earth to keep it smouldering)、炎を(灰等で覆って)鎮める(剣)」

の転訛と解します。

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<修正経緯>

1 [おことわり]に記しましたように、これは発表の記録ですので、その後解釈に修正があっても、原則として、その都度修正を加えることはしておりません。

2 平成14年9月15日

 第3の7宇津ノ谷峠の解釈を一部修正しました。

3 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

   

地名篇(その九)終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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