古典篇(その九)

(平成14-11-1書込。19-2-15最終修正)(テキスト約9頁)


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 <森鴎外『帝謚考』から古代の天皇像を探る>

目 次

第1 はじめに

 1 森鴎外『帝謚考』の成立

 2 『帝謚考』の構成と内容

 3 『帝謚考』が謚号の意味の断定を避けた理由

 4 漢風謚および国風謚の意味を解明する必要性

第2 『帝謚考』上篇

 1 「天皇追號ノ種類」

 2 「漢風謚」

 3 「本朝ノ漢風謚」

 4 「国風謚」

 5 「謚ノ停廃」

 6 「院號及後號」

 7 「天皇號」

第3 下篇

 1 神武天皇

 2 孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇

 3 崇神天皇

 4 応神天皇

 5 継体天皇

 6 持統天皇

<修正経緯> 

<森鴎外『帝謚考』から古代の天皇像を探る>

 第1 はじめに

 

1 森鴎外『帝謚考』の成立

 

 文豪森鴎外の作品に数々の歴史小説があることは良く知られていますが、歴代天皇の謚号の由来、出典について考証した『帝謚考』および同じく元号の出典について考証した『元號考』があることはあまり知られていません。

 鴎外森林太郎は、大正6(1917)年宮内省図書頭(ずしょのかみ。図書寮長官。図書寮は、平安時代以来の職制で国史の編纂、朝廷の書籍、仏経、仏像などを司り、のちに山陵、御大喪などを司る諸陵寮と合併して現在の宮内庁書陵部となっている。)に就任し、当時図書寮の中で懸案となっていた『帝謚考』および『元號考』を編修することを決定しました。『帝謚考』は大正8年脱稿、同10年に図書寮から限定100部で印刷して関係官庁等に配布し、引き続き『元號考』の編修に当たりましたが、ついに未完のまま鴎外は同11年に病没しました。

 この『帝諡考』および『元號考』(図書寮編修官吉田増藏訂補)は、その後宮内大臣の許可を得て岩波書店『鴎外全集』の中に収められました。

 

2 『帝謚考』の構成と内容

 

『帝謚考』は、上篇、下篇に分かれています。上篇は「第一 天皇追號ノ種類」から「第七 天皇號」までの文語体で書かれた総論で、下篇は神武天皇から明治天皇までの謚号の出典等を天皇別にまとめた各論です。下篇では、神武天皇から桓武天皇までを漢風謚号とし、漢籍などのうちの漢風謚号に関係があると思われる部分を列挙していますが、局部的抜粋(すべて原文(白文)のまま)の羅列に止まり、かつ、どの出典が最も可能性が高いのかの論考は示さず、終始注意深く謚号の意味の断定を避け、国風謚号についても生前の尊号か葬後の追号かの判断を下しているにすぎません。

 この出典は、図書寮の編修官たちが長年にわたって調査蓄積していたものを材料として鴎外が取捨選択したもののようで、これから漢風謚号の意味を正確に読みとるためには、一つ一つの原典にあたってどのような場面でどのような経緯のもとにその文言が使われているか、歴史上の人物についてはその事績との関係等を総合的に判断する必要があります。この場合、この出典の記載はたとえば「史記正義、謚法、・・・」のような極めて簡潔な引用に止まっているために、「史記正義」が世に史記の三注と称される裴因・司馬貞・張守節の三家の注釈書のうち「唐の張守節の著した注釈書の通称」であることなどの専門的知識がなければなりませんし、またどの底本を用いているかの記載がないので、原典にあたることができないおそれもあります。

 したがって古代史を研究しようとする者にとって上篇はある程度参考とすることができますが、下篇については相当な漢籍・中国古代史の広汎な知識と漢文(白文)読解力がないと漢風謚号の意味を理解することは至難です。また、ある謚号の意味は通常一つではないことから、史書の記述と謚法を対比することによって謚号の概括的な意味を推定することはできても、撰謚の真実の理由の解明および出典の特定は極めて困難です。これがこれまで『帝謚考』上篇を参考としても、下篇の研究に取り組もうとする史学者がほとんどいなかった理由でしょう。

 

3 『帝謚考』が謚号の意味の断定を避けた理由

 

 鴎外が謚号の意味の断定を避け、原則として資料を羅列するに止めたのは、出典を特定することが極めて困難であることと、編修中に皇室がその存立の前提とする「万世一系の天皇」が架空の事実にすぎないことがいくつかの謚号中に明白となっていることに気付いたためではないかと考えます。

 

4 漢風謚および国風謚の意味を解明する必要性

 

 これまで漢風謚を研究の対象とする史学者がいなかったのは、出典を特定し、証明する(史料を提示する)ことが困難であった、すなわち証明がなければ推論にすぎず、学術論文として学会に認められないため、研究の対象にはなり得なかったためでしょう。

 しかし、歴史は「人間の営みの記録」であり、古今東西の「感情の動物」であり、「学習しない動物」であるなど極めて多面的な人間の生きた活動の実体を理解するためには、史書に記録された人名や、謚号に込められた意味を理解することが必須の要件でなけれならないと考えます。目前の論文の数だけを競う研究者は別として、歴史を真に理解しょうとする者は、人名、謚号にその人の事績、毀誉褒貶が要約されて付与されている限り、その意味を理解しなければ、真の意味での人間の生きた活動の実体を理解することはできません。もちろん、記紀の天皇はすべて実在ではありませんが、その伝承は伝承としてその内容を正確に理解することが、我が国の歴史を理解することの第一歩でなければなりません。

幸いに漢風謚には「謚法解」があり、『帝謚考』があって、古人が歴代天皇をどのように評価していたかが概括的ではあるが解明できるはずです。また、国風謚についても、これまで意味が分からなかっただけで、単なる符号、符丁であるはずがないことは古今東西の神話や史書に明らかです。記紀中には、神名、人名、天皇名などをはじめ、日本語では意味の分からない言葉が数多く残っています。漢籍に膨大な史書の「注」や「謚法解」があるのに、日本においてこれに対応するものが少ないこと、「謚法解」にいたっては無きに等しいことは、まことに不可解です。記紀の完全な解釈ができていないのに、不完全な解釈を前提とする推論だけで天皇の実在・不在を結論づけるのは誤りです(後出神武天皇の項の「ハツクニシラス」の解釈を参照してください)。

 漢籍や中国古代史の知識も僅かで、漢文の読解力も極めて乏しい小生ですが、浅学非才をかえりみずに、あえて記紀や『帝謚考』を小生なりに読み、縄文語と同根と考えられるポリネシア語による天皇名の解釈と対比することによって、以下のように古代の天皇像がおぼろげながら見えてくると考えます。
 

 

第2 『帝謚考』上篇
 

1 「天皇追號ノ種類」

 「謚」を定義して「天皇崩後ノ追號ニシテ美刺ノ意義ヲ有スル者」、すなわち「毀誉褒貶」の意味をもつものに限り、この意味をもたないものは単なる「追號」であるとします。

 「謚」の種類として「漢風謚、漢様謚又徳號」と「国風謚、国語謚又微號」、「倭名(国風謚)」の区別があり、「持統」は「漢風謚」、「大倭根子天広野姫尊」は「国風謚」であるとします。

2 「漢風謚」

 「漢風謚ハ支那周代ニ始マリシ者ノ如シ」とし、殷以前に謚があったと「白虎通」などが唱えるが堯・舜などはやはり生前の号であろうとします。

 「謚ノ美刺ノ意義ハ謚法ヲ標準トス」、謚の付け方には古くから一定のルールがあり、「謚法ノ今ニ伝ハレル者ハ所謂周書ノ載スル所ヲ以テ最古トス」とし、周書はいまだに争いの多い書として漢書芸文志、汲家書、隋書経籍志、旧唐書芸文志、宋書芸文志、新唐書芸文志等について縷々解説を行い、「周書ハ晋ノ杜預ノ取ル所トナリテ春秋釈例ニ納レラレ此ヨリ春秋謚法ノ称アリ唐ノ張守節又之ヲ史記正義ニ附載ス」と述べています。図書寮および鴎外は、この周書および史記正義注の謚法を最も重んじたかのようです。

3 「本朝ノ漢風謚」

 「公式令ハ平出ノ例ヲ列挙シタル中ニ天皇謚ト書セリ」、「(令)義解ニ云ク謂謚者、累生時之行迹、為死後之称號、即経緯天地為文、撥乱反正為武類也」とあります。「累生時之行迹」の出典は「曽子問註」であるから、令義解によれば「諡ハ漢風謚ナリ」と断じています。

 なお、令の旧文はすでに亡失しており、この「天皇謚」の文が近江令にはなく、大宝令または養老令に追加されたものか、延暦(延喜の誤りか)年間に追加されたものか不明で、伴信友は養老令に加えられたものとしても漢風謚が撰定されるはるか以前のことで疑問があるとします。

 「漢風謚ヲ上リシ始ハ或ハ文武或ハ聖武ト云フ」が、文武から始まるとする伴信友の説はすこぶる傾聴すべきものがあるがいまだ断定はできず、聖武が始めと考えてもよいとします。

 漢風謚の撰謚者は、『釈日本紀』に「私記曰、神武等謚名者淡海御船奉勅撰也」とあり、『続日本紀』に記事はないが、淡海三船以外には考えられないとします。なお、神武から文武まで42代は淡海公藤原不比等であるとする説(この説によるときは、元明から桓武までを淡海三船とする)は、伴信友の説に従い否定しています。

 また、撰謚の時期は、「大日本史ノ修史例ニ三船撰謚、蓋在孝謙之末、桓武之始乎ト云ヘリ」とし、「修史例ノ説従フヘキニ似タリ」とします(『日本書紀下』岩波日本古典文学大系、補注3−二は「それでは少しおおまかに過ぎる」と批判しています)。文武の謚号がすでにあったものであれば三船はそれに依り、聖武は以前に上られていた追号(勝宝感神聖武皇帝)を略したものであるとします。

 桓武に至って漢風謚は絶え、仁明(深草)、文徳、光孝、崇徳院、安徳、顕徳院(後鳥羽)、順徳院、仲恭、称光院、明正院、霊元院などの例外(この中には漢風謚と断定できないものもある)をはさんで、幕末の光格、仁孝、孝明の3帝において復活し、明治に至って再び絶えたとします。

4 「国風謚」

 国風謚はいつ始まったかわからないとします。紀の「神倭磐余彦天皇」を本朝様謚とする説がありますが、「紀ノ古語稱之曰ノ文及紀一書ノ狭野者少時野號也、後撥平天下、奄有八洲故復加號曰神倭磐余彦尊ノ文」中の少時に対する後復加號の語等を考えると神倭磐余彦尊は生前の尊号であり、この後の12帝の国風尊号も謚号とは考えられないとします。

 神功皇后に至って紀に「気長足姫尊」が葬後の追号との記載があり、これが国風謚の始めといってもよいかも知れないとします。応神以下紀の25帝の国風尊号は謚号ということはできないとします。

 持統に至って「続紀ニ始テ誄謚ヲ載」せ、これまでこの「大倭根子天広野姫尊」が国風謚の始めとされてきたとします。この後の誄謚の記録は、続紀に文武、聖武、光仁、桓武があり、続後紀に淳和があります。また、平城の謚は日本紀略、類聚国史に、仁明の謚は皇胤紹運録、一代要記等に見えます。国風謚で明らかなものは、この持統以下の7帝のみであるとします。

5 「謚ノ停廃」

 桓武の後謚の中絶したのは仏教の影響によるものであるとします。

 (元明の謚号に関する詔、嵯峨天皇の遺詔等については、省略)

6 「院號及後號」

 天皇の崩後に院と称するのは太上天皇の尊号を辞退して院と称したに始まり、ひいて崩後に及んだものであるとします。

 謚のない天皇の追号には、在所(宮)号、陵地号、寺号があります。また、遺詔による追号、古帝の二号を併せたもの、後一条院にはじまる後を冠した後号(漢風謚には付さない)があります。

7 「天皇號」

 追号に天皇というのは唐制に例があるとします(唐書高宗紀、上元元年八月壬辰、皇帝稱天皇、皇后稱天后。顔竣始学篇、天皇、地皇、人皇)。

 儀制令に「天子、天皇、皇帝ノ三稱ヲ列挙シテ天皇詔書所稱」とあります。
 

 

第3 下篇


1 神武天皇

 (1)「神武」の意義を解釈するための参考となるべき文献ないし用例として、「易、繋辞伝」をはじめとして「周書、謚法」、「史記正義、謚法」など6件、「前漢書、叙伝」をはじめとして史書、経書から15件、詩、詔書、上表などから21件、その他紀、令義解等から3件、合計45件が列挙されています。最後に「神倭磐余彦尊」は、第2の4「国風謚」では生前の尊号としましたが、この名だけからは「按スルニ號謚ヲ弁別スヘキ徴証ナシ」とします。

 上記の第一分類のうち、「易、繋辞伝」は「古之聡明叡知、神武不殺者夫」(第11章第2節)を示します。これは、易筮の性能を説き、特別の能力を有する聖人のみがその性能を完全に発揮・利用できると説く条で、その例として挙げられている能力です。この「聡明」とは、耳目が何者にも覆われないで、よく聞こえ、よく見えること、「叡知」とは、心に疑い惑うことがないこと、「神武」とは計り知れない武勇、「不殺」とは天下を威服して征伐、刑殺の力を用いない、民が自ずから帰服する意で、聖人の偉大さを賞賛する文言です(鈴木由次郎『易経下』集英社全釈漢文大系第10巻、昭和49年)。

 また、「周書、謚法」は「一人無名曰神、又剛彊直理曰武、威彊叡徳曰武、克定禍乱曰武、刑民克服曰武、大志多窮曰武」と、「史記正義、謚法」は「民無能名曰神、又剛彊直理曰武、威強敵徳曰武、克定禍乱曰武、刑民克服曰武、夸志多窮曰武」とします。このうちの「武」については、第四分類の「令義解」に「撥乱反正為武」とあるので、「撥乱反正」(世の中の乱れを鎮め、天下を平定する)と解するべきでしょう。さらに、この「撥乱反正」は、第二分類の「晋書苻堅伝」の中に「陛下神武撥乱」と、「宋書呉喜伝」に「聖主以神武撥乱」と、第三分類の「峩康移蜀檄」の中に「撥乱反正」と見えます。

 これらによれば、「神武」とは一般の人智・能力を越えた優れた力を持つ者で、その人間離れした才能、とくに計り知れない武勇を発揮して天下を平定して帝王の座についた者を指すこととなります。第二分類の史書・経書や第三分類の諸書にみえる「神武」も、漢の高祖を初めとして、人智とは思われない卓抜した智略と武力によって前王朝を倒して新王朝を創始した帝王か、または在世中に卓越した武力によって領土を大きく拡張した帝王の評語として用いられているようです。

 したがって、漢風謚の謚法に従い、また漢籍の用例によっても、「神」とは神道にいういわゆる「神」ではないことは明らかで、記紀を貫く天地創造神の直系の子孫が「現人神」として代々絶えることなく大八洲を統治するという「万世一系」思想を否定するものであり、これが大正6年という内外ともに多事多難の時代に宮内省図書頭の地位に就いた鴎外をして謚号の意味の断定を避けさせた理由の一つであろうと考えます。

 

 (2)国風謚の紀の「神日本磐余彦火火出見天皇」の「神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)」については、「神聖な、大和国の磐余の男性」の意などとする説がありますが、これはマオリ語(マオリ語ですでに失われた単語で兄弟語であるハワイ語に残る単語についてはハワイ語により、その旨を注記します。以下マオリ語またはハワイ語による旨は略します)の

  「カム・イア・マト・イ・ハレ・ヒコ」、KAMU-IA-MATO-I-HARE-HIKO(kamu=eat;ia=indeed,current;mato=deep swamp;i=past tense,beside;hare=come,go;hiko=move at random or irregularly)、「実に・深い沼地がある地域(大和の国)を・征服した・各地を遍歴して・(磐余の地に)やって・来た(尊)」(古典篇(その六)の201A神日本磐余彦の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 また、紀が諱(いみな。実名)と記す「彦火火出見(ひこほほでみ)」については、祖父の天津日高日子穂穂出見命と同じで、この名義は「立派な(または日の御子である)、多くの稲穂が出る神霊」とする説がありますが、これは

  「ヒコ・ホホ・テ・ミヒ」、HIKO-HOHO-TE-MIHI(hiko=move at random or irregularly;hoho=prominent;te=the,emphasis,crack;mihi=greet,admire,sigh for)、「(新天地を求めて)各地を遍歴した・卓越した・特に・尊敬すべき(または(安芸・吉備国に長期間滞在したことを)嘆いた。尊)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)(古典篇(その六)の201A2彦火火出見の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 紀の一書が記す年少の時の名である狭野(さの)尊は、「サ」は神稲、「ノ」は野原の意とする説がありますが、これは

  「タ(ン)ゴ」、TANGO(take up,acquire,remove)、「(何かを)求めた(または何かを求めて移動した。じっとして居られない。尊)」(NG音がN音に変化して「タノ」から「サノ」となった)(古典篇(その六)の201A3狭野尊の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 さらに、紀が「古語稱之曰、於畝傍橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天原、而始馭天下(はつくにしらす)之天皇」と記す「はつくにしらす」は、「初めて国を(統一して)統治した(天皇)」と解する説がありますが、これは

  「ハ・ツクヌイ・チラツ」、HA-TUKUNUI-TIRATU(ha=what!;tukunui=large,main body of an army;tiratu=mast of a canoe)、「何と・偉大な・カヌーのマストのような(強い指導力と行動力によって国を推進した。天皇)」(古典篇(その一)の1の(3)「ハツクニシラス」の意味の項を参照してください。)

の転訛と解します。

2 孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇・孝元天皇

 (1)紀は、綏靖天皇から開化天皇まで全く事績を記さず、欠史八代といわれていますが、その中で最も不審なのは孝安天皇に関する記事です。先代の孝昭天皇は、懿徳天皇22年に18歳で立太子し、同34年に天皇崩御、翌年30歳で即位、83年に113歳で崩御されています。孝安天皇は孝昭天皇の第2子で孝昭天皇68年(98歳)のときに立太子(20歳)とあります(孝昭天皇78歳のときに誕生したことになります)。したがって孝安天皇は36歳で即位しますが、孝安天皇26年(61歳)に至って漸く皇后を立て、同38年(73歳)に至って漸く父孝昭天皇の葬儀を行っています。そして同76年(111歳)のときに皇太子(26歳)を立て、同102年に137歳で崩御されます。

 立后の遅れは別としても、先帝の葬儀が崩御の38年後というのはあまりにも異常で、その前後の綏靖天皇時1年6月、安寧天皇時1年5月、懿徳天皇時8月、孝昭天皇時1年1月、孝霊天皇時8月、孝元天皇時6年7月、開化天皇時4年4月と比較しても、やはり葬儀を行うことができなかった一大事が天皇家に生じていたと考えざるを得ません。

 そしてこの間の事情は、孝霊天皇、孝元天皇に至る漢風謚の意味と、国風謚のマオリ語による解釈を突き合わせることによって隠された歴史の真実を明らかにすることができるのです。

 (2)そこで孝昭天皇から孝元天皇までの国風謚のマオリ語解釈を見てみましよう。

 a 孝昭天皇の「観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)尊」は、

  「ミヒ・マ・アツ・ヒコ・カエア・チネイ」、MIHI-MA-ATU-HIKO-KAEA-TINEI(mihi=greet,admire,sigh for;ma=go;atu=forwards;hiko=move at random or irregularly;kaea=wander,leader of a flight of parrots;tinei=put out,quench,destroy,kill)、「後悔した・ひたすら・前進する・各地を遍歴した者で・(渡り鳥の先頭に立つ鳥のような)指導者を・殺した(尊)」(「マ」のA音と「アツ」の語頭のA音が連結して「マツ」と、「カエア」のEA音がE音に変化して「カエ」となった)(古典篇(その六)の205A観松彦香殖稲尊の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 鴎外は、この謚号を「按スルニ號謚ヲ弁別スヘキ徴証ナシ」としますが、上記の解釈によれば、これは明らかに死後の謚号であり、直情径行型で、壮年時には大いに外征し勢力範囲を拡張したが、高齢になっても独裁者であり続け、晩年には諫言を呈する身内や外戚、協力的な周辺豪族の首長をも容赦なく殺戮し、恨みを買って死後直ちに反乱が起こり、そのため孝安天皇は天皇位に就くことなく居住地を追われたと推測されます。

 b 孝安天皇の「日本足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひと)尊」は、

  「イア・マト・タラチ・ヒコ・クニ・オチ・ピト」、IA-MATO-TARATI-HIKO-KUNI-OTI-PITO(ia=indeed;mato=deep swamp;tarati=spurt,splash;hiko=move at random or irregularly;(Hawaii)kuni=(Maori)tungi=set a light to,kindle,burn;oti=finished;pito=end,extremity,at first)、「実に・深い沼地がある地域(大和の地)の・全力を奮った・(大和の地を追われて)各地を遍歴した者で・最初に・集落の火を・消した(国を亡ぼした。尊)」(古典篇(その六)の206A日本足彦国押人尊の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 鴎外は、この謚号を「按スルニ號謚ヲ弁別スヘキ徴証ナシ」としますが、上記の解釈によれば、これは明らかに死後の謚号であり、孝安天皇は天皇位に就くことなく居住地を追われたと考えられます。

 記の謚号の「大倭帯日子国押人(おおやまとたらしひこくにおしひと)命」の語頭の「大(おお)」は、「偉大な」ではなく「オホ、OHO(wake up,arise)、(国を亡ぼして)びっくりして跳び上がった」の意味と解します。(古典篇(その六)の206A日本足彦国押人尊の項を参照してください。)

 また、記紀ともに天皇の兄を「天足彦国押人(あめたらしひこくにおしひと)尊」としますが、この「天(あめ)」は「アマイ、AMAI(giddy,dizzy)、きらきらした(浮ついた性格の。命)」と解され、父の死後兄が天皇位を継ごうとしたが果たさず、弟も挽回できずに居住地を追われたとも考えられます。(古典篇(その六)の205F1天足彦国押人尊の項を参照してください。)

 なお、綏靖天皇から孝昭天皇までの后妃の出身地は、一部を除き大和の中ではほぼ磯城(しき)に限られていたのが、孝安・孝霊天皇に至って磯城に十市(といち)が加わるのは、磯城の中の居住地を追われ、十市に蟄居したことを示すものとも推測されます。
 

 c 孝霊天皇の「大日本根子彦太瓊(おおやまとねこひこふとに)尊」は、

  「オホ・イア・マト・ネコ・ヒコ・フ・ト・ヌイ」、OHO-IA-MATO-NEKO-HIKO-HU-TO-NUI(oho=wake up,arise(ohooho=of great value,needing care);ia=indeed;mato=deep swamp;neko=a cloak;hiko=move at random or irregularly;hu=desire;to=be pregnant;nui=large,many)、「すっくと立っている・実に・深い沼地がある地域(大和の地)の・(外套のような)代表である・各地を遍歴した・大きな・(大和朝廷の支配領域を拡大する)望みを・(内心に)持っていた(尊)」(古典篇(その六)の207A大日本根子彦太瓊尊の項を参照してください。)

の転訛と解します。>

 鴎外は、この謚号を「按スルニ號謚ヲ弁別スヘキ徴証ナシ」としますが、上記の解釈によれば、これは明らかに死後の謚号であり、孝霊天皇は天皇家の再興を夢見て大いに奮励努力したが、遂に初志を達成することなく崩じたと考えられます。

 d 孝元天皇の「大日本根子彦国牽(おおやまとねこひこくにくる)尊」は、

  「オホ・イア・マト・ネコ・ヒコ・クニ・クル」、OHO-IA-MATO-NEKO-HIKO-KUNI-KURU(oho=wake up,arise(ohooho=of great value,needing care);ia=indeed;mato=deep swamp,deep valley;neko=a cloak;hiko=move at random or irregularly;(Hawaii)kuni=(Maori)tungi=set a light to,kindle,burn;kuru=strike with the fist)、「すっくと立っている・実に・深い沼地がある地域(大和国)の・(外套のような)代表である・各地を遍歴して・(周縁の)国を・拳骨で殴った(武力で平定した。尊)」(古典篇(その六)の208A大日本根子彦国牽尊の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 鴎外は、この謚号を「按スルニ號謚ヲ弁別スヘキ徴証ナシ」としますが、上記の解釈によれば、これは明らかに死後の謚号であり、孝元天皇は先帝の遺志を継いで大和とその周辺を平定し、再び天皇位を回復した、天皇家再興の祖ともいうべき天皇であったと考えられます。

 

 (3) そこで下篇を見てみましょう。

 a 孝昭天皇については、「周書、謚法」、「史記正義、謚法」ともほぼ同じで、「五宗安之曰孝」などと、また「聖聞周達曰昭」などとしています。

 これによれば、五代の先祖の祭祀を怠ることがなく、かつ、その評判が天下にあまねく知れ渡っている天皇に対する謚号と解することができます。マオリ語解釈の前半とも合致します。

 b 孝安天皇については、「周書、謚法」、「史記正義、謚法」ともほぼ同じで、「五宗安之曰孝」などと、また「好和不争曰安」としています。

 これによれば、五代の先祖の祭祀を怠ることがなく、かつ、和を好み、争いを避けた天皇に対する謚号で、争いを避けた結果、天皇位を追われることとなったと解することができます。これもマオリ語解釈と合致します。

 c 孝霊天皇については、「周書、謚法」、「史記正義、謚法」ともほぼ同じで、「五宗安之曰孝」などと、また「死而志成曰霊」などとしています。

 これによれば、五代の先祖の祭祀を怠ることがなく、かつ、(天皇家の再興の)志を生前には達成することがなかったが、死後その志を達成した天皇に対する謚号と解することができます。これもマオリ語解釈と合致します。

 d 孝元天皇については、「周書、謚法」、「史記正義、謚法」ともほぼ同じで、「五宗安之曰孝」などと、また「行義説民曰元」、「始建国都曰元」などとしています。

 これによれば、五代の先祖の祭祀を怠ることがなく、かつ、正義を行い他を説得して天下を治め、始めて国の都を建てた天皇に対する謚号で、廃絶していた天皇位を再興したと解することができます。これもマオリ語解釈と合致します。

 

3 崇神天皇
 

 (1)崇神天皇については、「周書、謚法」、「史記正義、謚法」ともほぼ同じで、「神」についてのみ「一人無名曰神」、「民無能名曰神」とし、「崇」については記していません。なお、崇神紀には「識性聰敏、幼好雄略、天皇既壮、寛博謹慎、崇重神祇」とあります。

 謚号は、崇神紀の「崇重神祇」の約とも考えられますが、謚法によって謚号が付されたと考えるかぎり、「崇」は神祇および神官(大田田根子)を崇め尊んで災害を鎮め、「神」は一般の人智・能力を越えた優れた力・才能を発揮した(天下の平定と農業の開発を進めた)意で、この事績のある天皇に対する謚号と解することができます。

 したがって、「神武」と同様に「神」とは神道にいういわゆる「神」ではないことは明らかで、かつ、崇神紀6年条に先祖であるはずの「天照大神と共に住むのが不安で、(天照大神を天皇の大殿の内から)倭の笠縫邑へ出して祀った」とあることからしますと、崇神天皇は先帝と血のつながりはなく、皇統は断絶して一新したと解すべきでしょう。

 なお、同5年条にみえる疫病の蔓延は、外国から持ち込まれた新しい疫病がそれまで免疫のなかった日本列島の原住民に大きな被害を与えたものとする考えも、上記の血統の断絶を裏付けるものです。

 (2)崇神天皇の国風謚の「御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇」は、

  「ミヒ・マキ・イリ・ヒコ・イノイ・ウエ」、MIHI-MAKI-IRI-HIKO-INOI-UE(mihi=greet,admire,sigh for;maki=invalid,sore;iri=be elevated on something,be published,a spell to influence or attract or render visible one at a distance;hiko=move at random or irregularly;inoi=beg,pray,prayer;ue=push,shake,affect by an incantation)、「疫病の蔓延(病人)を・悲しんで・夢占いをした・各地を遍歴した者で・巫覡に・神を祭らせた(尊)」(古典篇(その七)の210A1御間城入彦五十瓊殖尊の項を参照してください。)

の転訛と解します。

 この中の「ヒコ。各地を遍歴した者」の中に、他の地域から侵入して皇統を簒奪したという事実が込められている可能性があります。この場合の他の地域としては、その皇后が大彦命の娘とされていること、大彦命が活躍し、その子孫が国造等として定着した地に北陸から東国が多いこと、妃が紀伊国、尾張国の出身であることなどからすると、北陸または東海から侵入したものかと考えられます。

 また、同10年9月条の武埴安(たけはにやす)彦の謀反は、その名のポリネシア語による解釈(「タケ・ハニ・イア・ツ・ヒ・コ」、TAKE-HANI-IA-TU-HI-KO(take=stump,base of a hill,origin,chief;hani=a carved weapon used mainly by chiefs,speak ill of,disparage;ia=indeed;tu=stand,settle;hi=raise,rise;ko=addressing to males and females)、「堂々とした・(王しか持てない)特別の武器を・実に・持っていた・高貴な・男子(命)」または「堂々とした・本当に・悪人と謗られて・いる・高貴な・男子(命)」)からしますと、大和朝廷の正統な後継者である武埴安彦が征服者(王権の簒奪者)に対して挑んだ抗争であった可能性があります。(208E3埴安(ハニヤス)姫の項および208F6武埴安(タケハニヤス)彦命の項を参照してください。)

 さらに、この「埴安(はにやす)」は、神武即位前紀己未年2月条に、前年9月に天香具山の埴土を取つて八十平瓮(やそひらか)を造って神に祈り、遂に大和を平定したその土を取った場所を「埴安(はにやす)」と名付けたとあり、現在もと高市郡香具山村に埴安(はにやす)池の地名として残りますが、この「はにやす」は、「ハ(ン)ギ・イア・ツ」、HANGI-IA-TU(hangi=earth-oven;ia=indeed;tu=stand,srttle)、「(蒸焼き穴のような、土を取った跡の)穴が・本当に・在る(場所。そこにある池)」または「(蒸し焼き穴のような)竪穴(式の住居)に・実に・住んでいる(人。土着の民族)」(「ハ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「ハニ」となった)と解することができ、これも崇神天皇が外部から渡来して大和を征服したことを物語るものです。

 なお、紀は神武天皇と同じく「御肇国(はつくにしらす)天皇」の称号を奉つています。いずれも天皇の事績からみて尊号としてふさわしいものであり、これを「始めて国を統治した」と誤解して神武天皇を架空の存在とすることは誤りです。(古典篇(その一)の1の(3)「ハツクニシラス」の意味の項および古典篇(その七)の210A2御肇国天皇の項を参照してください。)

 

4 応神天皇

 

(1)応神天皇については、「周書、謚法」、「史記正義、謚法」ともほぼ同じで、「神」についてのみ「一人無名曰神」、「民無能名曰神」とし、「応」については記していません。

 史書の用例では、「前漢書、成帝紀、建始二年春正月詔」に「朕親餝躬郊祀上帝、皇天報応、神光並見」などとあります。また、応神紀に「幼而聰達、玄監深遠、動容進止、聖表有異」とあり、この「動容進止、聖表有異」は「東観漢紀、孝章皇帝紀巻二」が出典で、「動作進退に不思議にも聖帝のきざしがある」意とされます。これは天皇の出生およびその後の皇位に就くまでの間における数々の神秘的な事件や、神功皇后摂政前紀13年2月条に角鹿の笥飯大神を拝したとあります(記にはその際気比大神と御名を交換したとあります)ことなどを指しているものでしょう。

 これらによれば、「応」とは「(神功皇后が神託を尊重して三韓征伐を行ったことまたは譽田別皇子が角鹿の笥飯大神を拝したことなどに)天が報い応じて聖帝の兆しを表し、「神」は一般の人智・能力を越えた優れた力・才能を発揮した(対外的には百済・新羅等を従わせ、文物・技術者の移住を促進し、対内的には蝦夷の平定と農業の開発を進めた)意で、この事績のある天皇に対する謚号と解することができます。

 したがって、「神武」と同様に「神」とは神道にいういわゆる「神」ではないことは明らかで、かつ、記紀における応神天皇の出生までの不明確な経緯、兄達による応神天皇の即位に反対する動きなどからすると、応神天皇は先帝と血のつながりはなく、皇統は断絶して一新したと推測するに十分な理由があります。

 

(2)応神天皇の国風謚の「譽田(ほむた)天皇」もしくは「譽田別(ほむたわけ)皇子」、または記の「大鞆和気(おおともわけ)命」は、

  「ハウムム・タ」、HAUMUMU-TA(haumumu=silent;ta=dash,beat,lay)、「静かに(何の前触れも無く)・急に(生まれて)舞台へ躍り出た(天皇)」(「ハウムム」のAU音がO音に変化し、反復語尾の「ム」が脱落して「ホム」となった)

  「ハウムム・タ・ワカイ(ン)ガ」、HAUMUMU-TA-WAKAINGA(haumumu=silent;ta=dash,beat,lay;wakainga=distant home)、「静かに(何の前触れも無く)・急に(生まれて舞台へ)躍り出た・遠いところを住居としていた(皇子)」(「ハウムム」のAU音がO音に変化し、反復語尾の「ム」が脱落して「ホム」と、「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)

  「オホ・トモ・ワカイ(ン)ガ」、OHO-TOMO-WAKAINGA(oho=be awake,arise;tomo=passin,enter,begin,assault;wakainga=distant home)、「急に立ち上がって・(反乱軍を)急襲した(または舞台へ躍り出た)・遠いところを住居としていた(命)」(「ワカイ(ン)ガ」のAI音がE音に変化し、語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)

の転訛と解します。(古典篇(その八)の215A譽田別尊の項を参照してください。)

> この国風謚は、生前の呼称と考えられ、急に舞台に躍り出たという表現でその出生が謎に包まれていることを暗示しており、皇統は断絶して一新したと推測することができます。

 なお、この「ホムタ」に関しては記紀ともに生まれたとき腕が鞆(とも。ほむた。弓を射るときに左腕に結びつける弦受けの保護具)のようであったからとしますが、本居宣長『古事記伝』は上古に鞆を「ホムタ」といった例はないとします。

 

5 継体天皇

 

 (1)継体天皇については、「謚法」には対応するものがなく、第二分類で9項目、第三分類で8項目、第四分類で十五項目の用例が示されています。このうち歴史書では「史記、外戚世家」の「自古受命帝王及継体守文之君、非獨内徳茂也、蓋亦有外戚之助焉」の注に「師古曰、継体謂嗣位也」とあり、「三王世家」に「武王継体、周公輔成王」とあります。「薛瑩漢紀」に「雖夏啓周成継体持統、無以加焉」とあります。

 夏の啓は禹の子で、はじめ禹はそれまでの前例に従い賢者益に禅譲しようとしましたが益が辞退したので啓が世襲し、周の成王は殷の紂王を滅ぼした武王の子で、武王の弟周公旦が年少の成王を補佐してよく周王室の基礎を盤石としたことで有名です。これによれば、天皇位を継ぎ、周囲の補佐によつてかろうじて皇統を伝えた天皇に対する謚号と解することができます。この場合、周公旦に相当する者は大伴金村大連、河内馬飼首荒籠等でしょう。

 また、継体紀24年2月条の詔に「及乎継体之君、欲立中興之功者、曷嘗不頼賢哲之謨謀乎(継体の君に及びて中興之功を立てむとするときには、いづれか嘗(むかし)より賢哲(さか)しき謨謀(はかりこと)に頼らざらむ)」(出典『芸文類聚』治政部)とあり、すでに紀の編集者がこのような趣旨の下に継体天皇の事績を総括して編纂を行っており、これを淡海三船が尊重して謚号としたことが容易に推測できます。なお、持統天皇の謚号についても、同様に解することができます。

 したがって、漢風謚の解釈として、継体には位を嗣ぐという意味しかないから、皇統は断絶したと断定することは誤りです。

 ただし、応神天皇五世の孫とする伝承は、記紀に系図が示されておらず、『中宮記』には系図があるものの、ホムタワケ(応神天皇)ではなくホムツワケ(垂仁天皇の皇子)の五世の孫としています。ホムタワケとホムツワケを同一視する説もありますが、名前の解釈からみて同一視することは誤りで、皇統は明らかに断絶したと解すべきでしょう。(古典篇(その七)の211F1誉津別命の項および古典篇(その八)の215A誉田別尊の項を参照してください。)

 

 (2)継体天皇の国風謚の「男大迹(をほど)尊」は、鴎外は「按スルニ生前ノ號ナルカ如シ」としますが、これは

  「ワウ・ホト」、WHAU-HOTO(whau,whawhau=tie;hoto=begin,start,be suspicious,dislike)、「(大伴金村大連が派遣した使者の招請の真意に対する)疑念に・縛られていた(王)」または「(皇統を)繋ぎ止め・(新王朝を)創始した(天皇)」(「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」となった)

の転訛と解します。(ポリネシア語名には、しばしば同じ言葉に二つ以上の意味が込められることがあります。)

 

6 持統天皇

 

 (1)持統天皇についても、継体天皇と同様、「謚法」には対応するものがなく、第二分類で2項目、第三分類で3項目の用例が示されています。このうち史書では「薛瑩漢紀」に「明帝及臨萬機、以身率禮、恭奉遺業、一以貫之、雖夏啓周成継体持統、無以加焉」とあります。

 この明帝は、後漢の初代光武帝を継ぎ、遺訓を遵守した二代明帝かと思われ、その皇后はベトナム遠征で偉勲を建てた馬援将軍の娘でしたが、光武帝の遺訓であった外戚の要職登用を避けることを忠実に守ったばかりか、雲台に建国に功労があった武将28名の像を掲げるのに際して父の像を入れることも固辞した名皇后と伝えられます。この用例は、明帝のみならず馬皇后をも頭に置いているのではなかろうかと考えます。これによれば、先帝の遺志を継ぎ、皇統を継ぐために自ら中継ぎの皇位に就いた(当初は草壁皇子に継がせようとしましたが、夭折したのでその子珂瑠皇子に継がせ文武天皇とした)天皇に対する謚号と解することができます。

 

 (2)持統天皇の国風謚の紀の「高天原広野(たかまのはらひろの)姫天皇」、続紀の「大倭根子天之広野(おおやまとねこあめのひろの)日女尊」および年少のときの名の「鵜野讃良(うののさらら)皇女」は、

  「タカムア・ノ・ハラ・ヒラウ・ノホ」、TAKAMUA-NO-HARA-HIRAU-NOHO(takamua=fire,front;no=of;hara=a stick bent at the top used as a sign that a chief had died at the place;hirau=be caught,be entangled;noho=sit,settle)、「氏族の首長の墳墓・の・前に・(皇位を継ぐべき皇子が幼少であることに)困惑して・座っていた(皇后。天皇)」(「タカムア」のUA音がA音に変化して「タカマ」と、「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「オホ・イア・マト・ネコ・アマイ・ノ・ヒラウ・ノホ」、OHO-IA-MATO-NEKO-AMAI-NO-HIRAU-NOHO(oho=wake up,arise(ohooho=of great value,needing care);ia=indeed;ma=white,clean;tau=cometo rest,be suitable,beautifull;neko,nekoneko=fancy border of a cloak;amai=giddy,dizzy;no=of;hirau=be caught,be entangled;noho=sit,settle)、「偉大な・実に・深い沼地がある地域(大和の地)の・周縁の・きらきらと輝く(美貌の)・(皇位を継ぐべき皇子が幼少であることに)困惑して・(墓の前に)座つていた(皇后。天皇)」(「アマイ」のAI音がE音に変化して「アメ」と、「ヒラウ」のAU音がO音に変化して「ヒロ」と、「ノホ」のH音が脱落して「ノ」となった)

  「ウ・(ン)ガウ・ノ・タ・ララ」、U-NGAU-NO-TA-RARA(u=breast of a female;ngau=bite,hurt,attack;no=of;ta=the...of,dash,beat,lay;rara=twig,small branch)、「乳房(胸)が・(囓られて)無い・小枝のように痩せて・いる(皇女)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)(「鵜野讃良」は、欽明紀23年7月条にみえる河内国更荒(さらら)郡鵜野(うの)邑の地名にちなむとする説があります。)

の転訛と解します。

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<修正経緯>

1 平成15年9月1日

 第3の天皇の国風謚について全般的に再検討し、古典篇の修正と合わせ一部修正を行いました。

2 平成19年2月15日

インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

 

 

古典篇(その九)終り



U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
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(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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