子供部屋
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

11月29日

 

帰りがすっかり遅くなったジョーは、ギルモア邸の前でタクシーを降りた後邸を見つめ小さく息をついた。
しんと静まり返った邸。どこの窓からも灯りは見えない。何しろ、夜中の3時なのだ。
いくら仕事とはいえ、こんな時間に帰るなんて同居人が多数居る中では迷惑極まりないだろうと思うものの、かといって誰もいない自分の自宅マンションに帰るのはあまりにも味気なくてイヤだった。そのほうが気兼ねしなくていいだろうと思う反面、何しろそこにはフランソワーズがいないのだ。これはジョーにとって大きなポイントだった。

一回深呼吸をすると、ジョーは音もなく玄関に向かい静かに鍵を開けた。

耳を打つような静けさがジョーを襲う。
およそ誰も起きてなどいないだろう。玄関灯が申し訳程度に灯っている以外は全て闇に呑まれていた。
彼らにとって、暗闇というのはさほど不便ではなかったから、電気代の節約のため夜中に点灯したままということは殆ど無かった。

静かに靴を脱ぎ、静かにスリッパを履き――音も無く階段を昇りかけたところで、ジョーは危うくその階段から転げ落ちるところだった。

「なっ・・・!」

階段の真上からこちらをじっと見つめる金色に光る瞳。
獣のようなその光は一瞬だけ煌くとすぐに消えた。

「お帰りなさい」
「た、ただいま」

フランソワーズだった。
てっきり就寝しているものと思っていただけに、意外だった。

「そんなに驚くことじゃないでしょ?」

言いながらひっそりと階段を下り、ジョーの腕を取った。

「いや・・・まさか起きてると思わなかったから」
「あら、起きてちゃ駄目だった?」
「そんなことないよ」

ジョーはシャツの襟元に指をかけて引っ張り、ネクタイを緩めた。

「でも、眠いだろう?」
「そうね。――でも、待っていたかったから」
「・・・そうか」

ジョーの頬が緩む。誰かが自分の帰りを待っていてくれるというのは、何度経験してもやっぱり嬉しい。
おそらく人によっては迷惑だったり、鬱陶しいと思ったりもするのだろう。けれどもジョーは、過去に一度もそういう鬱陶しいくらいの愛情や親切を経験したことがなかったから、迷惑だなんて思ったこともなかった。むしろ、何度経験しても嬉しかった。早く「鬱陶しいなあ、寝ててくれよ」なんて思う自分にも出会ってみたかった。

「――ところで、今日は何の集まりだったの?」
「うん?言わなかったっけ?納会だって」
「――納会」
「うん。打ち上げとは違って、日本のスタッフとの食事会さ」
「飲み会の間違いでしょ?」
「まぁ、そうとも言う」
「で、その口紅はいったい何事?」
「えっ?」

あまりにもにこやかに会話を進めるフランソワーズに、ジョーは全く無防備だった。

「素敵な色ねぇ。今季の流行色よ、確か」
「え、そんなの――」
「私はまだ持ってないのよ、この色」

自室に入って上着を脱いだ途端の出来事だった。
ジョーの肩のあたりを指先でつついてフランソワーズはにっこり笑んだ。

「どうしてついたのかしら?」
「え。し――」

知らないよ。

という間をフランソワーズは与えなかった。

「変よねぇ。今日は「そういう集まり」じゃないはずでしょ?」

ジョーは苦虫を噛み潰したかのように――実際に噛み潰したことはなかったので、本当はどういう表情になるのか知らないが――顔を歪めた。

「あのさ。フランソワーズ。これはね」
「薄着の女の子たちがいるお店?」
「・・・違うよ」
「あら、いま一瞬間があったわ」
「違うって。そんなところは行ってない」
「・・・本当は飲み会じゃなかったりして」
「えっ?」
「浮気。――とか」

本気で言ったわけではないだろうが、あまりにも悪い冗談だった。
ジョーの頬が引き締まり、眼光鋭くフランソワーズを見据えた。

「フランソワーズ。本気で言ってるのか」

二の腕を凄い力で掴まれ、フランソワーズは顔を歪めた。

「やだ、冗談よ」
「悪い冗談だ」
「そうね。ごめんなさい」

ジョーの腕が緩む。が、続くフランソワーズの言葉に再びジョーはうちのめされた。

「でも――だったらどうしてこんなところに口紅がつくの?私、見当違いのことを言ってるわけじゃないと思うんだけど」
「・・・」

ジョーは乱暴に腕を離すと、フランソワーズに背を向けてネクタイを外し、シャツを脱いだ。
黙々と着替えるその背中を見つめ、フランソワーズは小さく首をかしげた。

「・・・ジョー?」
「・・・」
「まさか本当に女の子?」
「・・・」

ジョーは着替える手を休めない。

「じゃあ、・・・男の子?」

ジョーの耳がぴくりと動く。

「まさかと思うけど、もしかして・・・ジョーの元チームメイトの」
「言うな」
「でも」
「正解だから言うな」
「どうして?」
「・・・」
「いいじゃない。美人だもの――彼」
「いいから」
「もてるのねぇ。ジョーは」

しみじみと言った途端、振り向いたジョーに抱き締められた。

「――女にも男にも」

ジョーの元チームメイトのドライバーである「彼」は、今は「彼女」であった。

「・・・だから言いたくなかったんだよっ・・・」
「ふふっ。この口紅素敵ね、って伝えて頂戴」
「やだね」

 


 

11月24日

 

フランソワーズはすこぶる不機嫌だった。

 

***

 

「・・・フランソワーズ。ちょっといいかな」

ドアの外からジョーがおそるおそるといった感じで声をかける。

「イヤ!」
「いやあ、でもさ・・・」
「イヤったら、イヤ!」
「うーん・・・でもワケくらい教えてくれてもいいんじゃないかな。何しろ階下は大変なコトになってるんだし」
「・・・」

フランソワーズはベッドの上に身体を起こし、じっとドアのほうを見つめた。ドアの向こうには所在なげに立っている恋人の姿があった。

「フランソワーズ」
「・・・怒らない?」
「怒らないよ。・・・怒ってないし」

それは本当なのだろうかとしばらくジョーの顔をじっと観察したあと、フランソワーズは立ち上がってドアを開けた。

「みんな悪気はないんだよ」
「・・・そう」
「本当だよ?それに――悪かった、って反省してるし」
「ジョーも?」
「え。僕?」

自分を指差すジョーに、フランソワーズはこっくりと頷いた。

「何で僕が反省――」

言いかけたジョーは、しかし、見つめる冷たい蒼い瞳に言葉を続けられず、中途半端に黙ることとなった。

「――わかった。何も言わないよ。ともかく、・・・入ってもいい?」

細く開けられたドア。半分だけ見える恋人の顔。
フランソワーズは身体を引くと、ジョーを部屋の中へ招き入れた。

 

***

 

「あの話はやめて、って言ってたのに!」
「うん、そうだね」
「二度としたくもないし、聞きたくもないのよ?」
「うん。僕もそうだよ」
「なのに、・・・ひどいわ!」
「そうだね」
「何よ、もう!」

ジョーは一言も反論せず、フランソワーズを抱き締めた。が、いつもならこれで収まるはずの嵐も今日は規模が違うようで一向に収まる気配をみせなかった。

「私とジョーの間では、ちゃんと納得して終わった話よね?」
「うん。もちろん」
「なのに、どうして今頃言われなきゃいけないの」
「うん――それは迂闊だった、ってみんな反省してる」
「忘れてるなら忘れてるままでいてくれればいいのに」
「そうだね」
「なのに、――何よ、もうっ!あんなにびくびくして探るように見なくてもいいじゃない!」
「あれは、彼らなりに気を遣ったんだよ。・・・たぶん」
「気を遣ったですって!?だったらどうして私が「耐え忍ぶ恋人」になっちゃうのよ!失礼にもほどがあるわ!大体ね、私がもし「耐え忍ぶ恋人」だとしたら、いい?ジョー。あなたのことをなーんにも信じてないってことになるのよ、わかってる!?」
「え。あ。うん」
「私が信じてないわけないでしょう、だって私があなたを信じなかったら誰が信じるっていうの!」

ジョーは、それはあんまりだろうと思ったものの反論すれば倍になって返ってくることがわかっていたので、不本意ながら聞き流した。

「それを「耐え忍ぶ」だなんて!耐え忍んでなんかいないわ!怒ってたのよ!」
「・・・そうだったね」

確かに、他人から見れば耐え忍んでいるように見えたのかもしれない。が、しかし、実際はどうだったのかを知っているジョーとしては――むしろ、他人から「耐え忍ぶ恋人」に思われていたほうが彼女の印象はよいままなのではないだろうかとも思うのであった。
何しろ、その後のフランソワーズはジョーにとってものすごく怖かったのだ。
その日の彼と彼女の行動全てを逐一報告させ、不明な点は明らかになるまで追求し――ジョーが少しでも言葉に詰まると容赦しなかった。
そして、更に後日。彼と彼女がとった行動全てを自分とジョーできっちり再現させたのだ。
それはジョーにとって、――浮気ではないとお互いにわかっていたから、罰というのは憚られるのだが――きつい罰ゲームとなった。

「公園でスケボーもしたし、海辺で鬼ごっこもしたわよね?」
「・・・そうだね」
「ディスコでジョーの変な踊りも見せてもらったし」

ジョーは思い出したくないのか口をへの字にした。

「缶ジュースを握りつぶすワザも披露してもらったわ」

エコな彼女にしては、思い切ったものである。まさかこれも再現させられるとは思っていなかった。

「ねっ!?耐え忍んでなんかいないでしょう!」
「・・・そうだったね」
「耐え忍んでなんかいないもん!やきもちやいてたんだから!」

浮気ではなかった――のだ。
だったら何だったのかというと――勘違い。間違えた恋。ただ「自分以外の何者かになりたかった二人がたまたま一緒に過ごしただけ」の話。恋ではなかったし、もちろん愛でもなかった。ただの、同志。それだけのことだったのだ。
だから、彼の恋人であるフランソワーズが「耐え忍ぶ」わけはなかったし、実際に耐え忍んでなどはいなかったのである。その証拠に、みんなが彼女を腫れ物に触るように扱う中、勇敢にもからかったグレートに怒ったのだった。

「でもさフランソワーズ。・・・みんなは僕達のことを知っているわけじゃなかったから」
「それはそうだけど」

ジョーの言葉に微かに頬を染めて、フランソワーズは彼の肩におでこをくっつけた。

「・・・それだって、あなたが悪いのよ。恥ずかしいから、って」
「だってからかわれるだろう?」
「私は平気だったのに」
「嘘だね。君だって恥ずかしいわって言ってたじゃないか」
「・・・あなたに合わせたの」
「なんだよそれ。酷いなぁ。結局、僕が悪者かい?」
「そうよ」

あの日の夜のことを誰も知らない。
パーティから戻ってきたジョーが帰ったのは、フランソワーズの部屋だということを。
以前から、ふたりはそういう関係なのだということを。

「――ともかく!いったい誰が観ようって言い出したのか知らないけど、もうイヤよ?」
「うん」
「絶対絶対、観ないし上映だってさせないわ!」
「そうだね」
「ヘップバーンが可愛いのはそう思うけれど、でもあの映画だけはイヤ!」
「うん――」

やっと嵐が収まってきたとジョーはほっとしながら、胸の中の恋人をしっかりと抱き締めた。
後で階下のみんなにちゃんと言わなければと思いながら。

そう――「ローマの休日」はもう観るな、と。
特にフランソワーズの前では。

 

***
新ゼロ「王女」ものは「ローマの休日」がモトネタなのは御存知ですよね???
当サイトの補完SSではちょっぴり「耐え忍ぶ」系になってしまいましたが、結論はSSに書いた通りです。
アニメ放送を捻じ曲げて申し訳ないですが、私はあれは決して「浮気」とは思いたくないのでこうなりました。
たまには「暴風域のお嬢さん」であってもいいかな?と・・・思います。


 

11月22日      悲しい恋と破れる恋?

 

「破れる恋と悲しい恋。ジョーはどっちが好き?」
「は?」
「は?じゃなくて、どっちが好き?」
「・・・何が」
「だから。破れる恋と悲しい恋、よ」

ジョーはじっと目の前の空間を見つめた。いったいフランソワーズは急に何を言い出したのだろうかと思いながら。疑問はふたつ。なぜ突然こんな話を始めたのかと、二者択一の内容である。
ひとつめの答えはすぐに見つかった。彼女が突然こういう問いを放つことは決して珍しくは無かったのである。
だから、もうひとつの疑問に考えを集中させた。
破れる恋と悲しい恋。どっちが好きなのか。
とはいえ、それってどちらも悲惨なのではないかと思ったので、フランソワーズが選択肢を間違えているのだろうという結論しか出てこなかった。

「あのさ、フランソワーズ」
「なあに?」
「それって・・・破れる恋と破れない恋、もしくは悲しい恋と幸せな恋、の間違いじゃないのかな」
「間違いじゃないわ。破れる恋と悲しい恋のどっちが好きか、って」
「あ、そう・・・」

間違っていないというからには、答えを出さなくてはならない。が、しかし、フランソワーズのこの手の質問は危険なのだ。過去の経験でじゅうぶんすぎるくらい学習している。従って、ジョーの導き出した答えはこれ以外にはないというものだった。

「どっちも好きじゃないよ」

言い切って、フランソワーズの反応を待つ。
そう。彼女が二者択一をせまった時、ミッションならともかく、普段の生活の中であればどちらも選んではいけないのだ。特に彼女がジョーに「どう答えて欲しいのか」が解らない時は。ジョーがよくよく考えて、誠意をもってどちらかを選んだとしても、フランソワーズは100%気に入らないのだから。

「ええっ、何よそれ」

無断でジョーの腕の中に収まっていたフランソワーズは、彼の答えに頬を膨らませた。

「答えになってないわ」
「そう?」
「そうよ。・・・もうっ。ジョーに訊いた私がばかだったわ」

よし、いいぞ。

諦めて質問を引っ込めたフランソワーズに、ジョーは心の中でガッツポーズをとっていた。
今度からはこう答えよう。そうすればきっと二度と質問しようなんて思わないだろうから。

「で?いったい何」
「・・・ん。あのね。成就しないなら、どちらのほうがマシか、っていう話」
「マシ?」
「そう・・・」
「・・・ふうん。フランソワーズはどっちがいいわけ」
「私?私はね、・・・悲しい恋のほうがまだマシかしら」
「あ、そ」

どうしてなのだろうか――と思ったものの、ジョーはその問いを飲み込んだ。いつの間にかフランソワーズのペースになっていたのに気がついたのだ。このまま会話を続ければ、延々と妙な質問に関するレクチャーに変わってしまう。
しかし、ジョーの思惑とは全く関係なく、フランソワーズは勝手に喋り出していた。

「そうね、例えば――」

 

***

 

「好きだって言ってるのに、どうして信じてくれないの?」

フランソワーズは目の前のジョーに向かって言葉を投げかけた。

「嘘で好きだなんて言うわけないでしょう?そんなこともわからないの?」
「そんなことないよ。でも・・・」

対するジョーは、既に彼女の視線から逃れるように前髪の奥に引っ込んでいる。俯き加減のその顔からはどんな表情をしているのか全くわからない。

「・・・そんなの、誰にだって言えることなんだろう?」
「何よそれ」
「君はフランスのひとだし。・・・ちょっと好きになったら簡単に誰にでも言えるんじゃないのか」
「ひどいわ」
「そうかな。日本人の僕にはわからないよ」

その言い方にフランソワーズはかちんときた。

「また人種差別発言?いい加減にして頂戴。何よ、自分は日本人だからわからないってそればっかり!問題なのはどこの国の人かじゃないでしょう?ジョー個人の話をしているのに」
「・・・僕のことなんてどうでもいいじゃないか」
「どうしてそう言うの?どうして・・・信じてくれないの」
「君は僕のことなんか好きじゃないって知ってるからさ」
「――何よ、それ!」
「わかるよ。女の人が自分のことを好きかどうかくらい。見ればわかる」
「だったら」
「だから・・・君は僕のことなんか好きじゃないってわかるんだ。君は誤解しているだけだ。同情を愛情だと思い込んで」
「・・・何よそれ。・・・どうしてわかってくれないのよ」

 

***

 

「ほら、悲しいでしょう?これが悲恋よ。悲しい恋」

自慢げに言うフランソワーズにジョーは小さくため息をついた。
だって、これって・・・

 

***

 

「話ってなに?」

ジョーは窓辺で海を見ているフランソワーズの背中に問いかけた。
すると彼女はゆっくりと振り向いて言った。

「別れて欲しいの。私、もうアナタと一緒にいるの、疲れちゃった」

・・・フランソワーズ?

「だから、もうやめたいの。・・・終わりにしましょう。私たち」

ジョーは自分の頬をつねってみたが、痛くなかった。ということは、やっぱり夢だという結論に達した。
そうでなかったら、フランソワーズがこんな事を言うわけがない。
そう、夢なのだ。
・・・夢。

「わかった・・・今までありがとう。フランソワーズ」

夢だとわかったなら、話は簡単だった。このあとどんな流れになるにせよ、カッコつけてみたっていいだろう。
何しろ夢なのだ。だったら、物分りの良い恋人を演じてみるのも悪くは無い。現実ならばこんなこと絶対にできないのだから。
にっこり笑って言ったジョーに、けれどもフランソワーズは信じられないと言いたげに目を見開いた。そして、みるみるうちにその瞳に涙の粒が盛り上がった。

「どうして・・・」
「えっ?」
「どうしてイヤだって言ってくれないの」
「だって別れたいんだろう?」
「だけど」
「君がそう言うなら仕方ないじゃないか」

 

***

 

「やだわ、思い出しただけで泣けちゃうわ」

目尻を拭うフランソワーズにジョーは嫌そうに顔を歪めた。

「あのね、フランソワーズ」
「なあに?」

そんなジョーに気付いているのかいないのか、わざとらしく鼻をすすってフランソワーズは彼を見つめた。

「これが破れる恋よ。可哀相な私」

ジョーは喉の奥で小さくけっと言った。

「ふん。何が可哀相な私、だ。この場合可哀相なのは間違いなく僕だ」
「あら、違うでしょう?きっと内心はそう思っているから簡単にこんな言葉が出てきちゃうのよ」
「・・・あのね」
「あーあ、なんて可哀相な私。悲しい恋も破れる恋もどっちも――」

ジョーはなんだかもうメンドクサクなって、フランソワーズを抱き締めると唇を重ねていた。

「――ん。ジョーったら」
「もういいじゃないか。どっちも経験したんだから」
「・・・そうだけど」

そうなのだ。実はフランソワーズの言う「例え話」は全て実話だったのだ。

「いいかい、フランソワーズ」

ジョーの声音が険しくなって、フランソワーズは彼の膝の上で居住まいを正した。

「僕たちはどちらも経験しているし、それを踏み越えてここまで来ているんだ。だから、どっちが好きかなんて質問は二度としないでくれ」
「・・・ハイ」
「もう一度経験するなんて、僕はゴメンだね。君はいいの?平気なのかい?」
「ううん、そんなわけないわ!」
「だったらもう二度といわないこと。いいね?」
「・・・ハイ」
「大体、どこからそんな質問が出てきたんだ」

ジョーをちらりと上目遣いで見つめ、フランソワーズは背後に置いていた雑誌を取り出した。
それは彼女の愛読している月刊ファッション誌であった。が、ジョーにとってそれは鬼門であった。

その後、半年間その雑誌の講読禁止を言い渡されたフランソワーズであった。

 

***
「悲しい恋」のほうは特にどのお話というのはありませんが、敢えて言うなら「諦めと期待」「同情じゃない」あたり。
「同情じゃない」の詳細は
ジョーの誕生日の頃になります。
「破れる恋」は「
セプテンバーバレンタイン」でした。
ちなみに「セプテンバー・バレンタイン」のラストは
補完ものSS第23話の「一瞬の未来〜未来視」と繋がります。


 

11月8日

 

一緒にいる、ってこういう意味じゃなかったのに。

フランソワーズはこの一週間の事を思うたび繰り返し自分に問うていた。

そうよね?普通は「一緒にいる」ってそういう意味じゃないわよね?

もちろん、答えはイエスである。
自分で自分に問うあたり、それは絶対に確かな事実であった。
が、それは自分自身だけのものであり、相手にとっては違ったようだった。

いつも一緒。

フランソワーズが思い描くそれは、例えば同じ場所に出かけたり、一緒に映画を観たり、ごはんを食べる時間を共有したり――そういうものだった。
が、しかし。
ジョーが思い描いていたのはそんなものではなかった。いやというほど知らされた。

「ん。駄目だよ、フランソワーズ。ずっと一緒だろ?」
「・・・そうだけど。でもこれってそういう意味じゃないんじゃないかしら」
「はは、やだなぁ。そういう意味に決まってるだろ」

邪気の無い笑顔を向けられ、フランソワーズはいったん浮かせた腰を元に戻した。
そうしてジョーの言うところの「ずっと一緒」を続けるために、彼の手を握り直した。

指と指を絡める恋人繋ぎ。

彼の言う「ずっと一緒」とは「ずっと身体が触れ合っていること」だったのだ。
だから、同じ空間にいてもそれだけでは満足せず、常にどこか――フランソワーズとくっついていないと駄目だというのだ。
それは意味が違う、と何度訴えても駄目だった。払っても払ってもべたべた追ってくる手と腕。それに絡めとられる自分を何度くもの巣にかかった虫に例えたことだろうか。あるいはアリジゴクに。
それでも最初は嬉しかった。それは確かだった。が、それも度を越すまでだった。

「ジョー。これじゃなんにもできないわ」
「んー?いいんじゃない?休暇中なんだし、なんにもしなくても」

自分にもたれるジョーが重い。特に肩に乗っているジョーの頭が。

「・・・ジョー。重い」
「うん?・・・大丈夫。君は力もち・・・いてっ」
「それは言わない約束でしょう?大体、あれは火事場のバカ力っていってね、非常事態だからこそ出た力なのよ」
「非常事態?」
「そうよ。すっかりヨワヨワのあなたをどうにかしなくちゃいけなかったし」
「ヨワヨワって・・・一緒に死のうって縁起でもないことを言ったのは君じゃないか」
「いいでしょ。嘘でも言ってくれればいいじゃない。うん、って。なのにかっこつけてヨロヨロ行くから地雷なんて踏むのよ」
「踏んでないよ。君が助けてくれたじゃないか」
「本当ね。全く、手がかかるったらありゃしないわ!」
「じゃあ、放っておけばよかったじゃないか」
「放っておけないから、困ってるんでしょ!」

ちょっと身体を起こしたジョー。その隙に、フランソワーズは自分の身体を彼から引き出すのに成功していた。

「僕のこと放っておけない?」
「ええ」
「ふうん」
「放っておいて欲しいの?」
「まさか」
「そうかしら。勝手に作戦変更して単独行動とったり、あなたからは放っておいてくれオーラが満載よ」
「放っておいてくれオーラ?」
「そう。それだけなら簡単に放っておくのに、その上、でもほんとは構って欲しいオーラが隠れているんだから手に負えないというかメンドクサイというか」
「なんだよそれ」

そんな妙なオーラ持ってないぞ、と鼻白むジョーにフランソワーズは続ける。

「つまり、やっぱり放っておけない、ってことよ」

途端に笑顔になったジョーに、再びフランソワーズは胸の裡でため息をつく。

――だから、「一緒にいる」って意味はそうじゃなくてっ・・・

ジョーの腕に絡めとられる自分。
でもそれは、不快ではないのは間違いなかった。

 

 

***
「大森林」と「父さんを追え」ネタでした。


 

11月1日

 

「わあっ・・・綺麗ねぇ。トワイライトレースだなんて知らなかったわ」

コースを見回し、うっとりするフランソワーズに隣のジョーはほっと息をついた。
強引にこちらへ来させてしまったことがずっと気になっていたのだ。しかも、フランソワーズと再会してからというもの、自分は――

「ジョー?こんな綺麗なところを走れるなんて幸せね」
「うん。そうだね」

まっすぐこちらを見つめる蒼い瞳。

――フランソワーズはいったいどう思っているのだろうか。

気になるけれど、訊けずにいた。もしも自分が思うとおりのサイアクな答えを言われてしまったら、きっと深い自己嫌悪の海に沈むだろうことは明らかだったから。
だから、ずるいと思いつつ成り行きに任せた。

全ては僕の弱さのせい、だ。

「・・・ジョー?」

ふっと目を伏せたジョーに怪訝そうな瞳を向け、フランソワーズは首を傾げた。

「どうかした?こっちに来てから、なんだかいつもと違うみたいだけど・・・」

いつもと違う。とは、ずいぶん控えめな表現だなと思いつつジョーは笑みを頬に貼り付けた。

「・・・初めてのサーキットだからかな。ちょっと緊張してるみたいだ」
「そう?・・・なら、いいけど・・・」

 

***

 

フランソワーズを強引に自分の元へ来させ、そして――彼女に溺れた。
彼女の意志と無関係に、甘えて甘えて甘え倒した。ホテルの部屋から一歩も出さなかったこともある。
いくらレースとレースの合間とはいえ、そんなことはただの堕落だった。しかし、そうわかっていてもジョー自身どうしようもなかったのだ。
緊張が続いた後の反動だろうか。
チャンピオンレースから外れ、ある意味ほっとしたからだろうか。
それとも、ただしばらく離れていたから、だから――だろうか。
あるいは。
これは一番考えたくなかったけれど――ただの八つ当たりだろうか。
頑張ってきたのに届かなかった。自分の無力を知らされた。自分は何の価値もない。誰も――自分を必要としていない。そんな負の感情に支配された。そして、自分にとって綺麗で輝く存在の彼女を堕としてみたかった。
彼女が自分と同じくらい堕ちて、初めて一緒にいることが許される。そんな風に思った。
だから、孤高で輝く存在のままのフランソワーズでは駄目なのだ。そんな彼女は自分には遠すぎる。地面を這いつくばって生きている自分にはとても届かない。そこへたどり着くことさえできないのだ。だったら彼女にここまで来てもらうしかないではないか。
フランソワーズが、本当に僕を好きだというなら、――来てくれないわけがない。
勝手にそう信じた。

そして実際にフランソワーズはここへやって来て、そして――堕ちてくれたのだ。

しかし。
それを喜んでいいはずなのに、ジョーは更に深く落ち込んだ。
何故なら、堕ちてもなお、フランソワーズは綺麗で輝く存在だったから。
闇で蠢く自分とは違う。それをいやというほど知らされた。だから、半ばやけになって、意地になって、フランソワーズを堕とした。
けれどもフランソワーズは何も言わなかった。何も言わず、いつもの彼女以外の何者でもなかった。
それがまた気に入らなくて、ジョーは更に八つ当たりをするのだけれど、それでも彼女は変わらない。
変わらないから、ジョーは更に更に落ち込んで、自己嫌悪の海に沈むのだった。

その繰り返しの毎日だった。
だから、「なんだかいつもと違う」というのは控えめすぎる表現だった。
いつもと違うなんてもんじゃない。そんなはずがない。

僕は――フランソワーズの知らない僕になってしまった。

昔の自分。
彼女と出会う前の自分。

二度と戻らないはずの自分に戻ってしまった。

誰かにそばに居て欲しくて、かといってずっと一緒に居られるのは迷惑で。ただ自分が堕落するに任せ、綺麗なものを自分と同じように汚したかった。
子供っぽい感情。
ただの、弱くてワガママで自分勝手な。

そんな自分はもう見たくなかったのに。

 

***

 

「ジョー?」

隣で静かになったままのジョーが気になって、その腕にそっと触れた。
が、触れただけなのにジョーの身体が電気に触れたみたいに揺れた。

「・・・ほんと、緊張してるのね」

気付かないふり。
全部、彼の言う「はじめてのサーキットだから」に便乗してしまう。
そういうことでいい。

ジョーの横顔はどこか苦しそうな――とはいえ、見ようによっては本当に緊張しているようにも思われた。
こうやって感情を隠すのはうまいのね。と、フランソワーズは一抹の寂しさを覚えていた。
彼のなかには、まだまだ彼が言うところの「闇」の部分がたくさんある。そして彼はそれを見せてはくれない。
おそらく、見せたら――見られたら、誰もが自分を置いて去って行ってしまうだろうと思っているのだろう。
だから、出さない。
彼にとって大切なひとには余計に見せたくない部分のはずであり、だからこそ厳重にしまってあるのだ。
しまってあった――はずだった。
だから今回、フランソワーズにそれを見せたのは彼としても不本意なのであろう。従って、本当は取り繕うべきだったのだ。どんな言い訳をつけても、別の意味に転換してしまうべきだった。
しかし彼はそうしなかった。

フランソワーズはそこにこそ意味があると思っていた。
いつもなら、おそらく冗談めかして誤魔化してしまうだろうことを隠さなかったジョー。
それはいったいどういうことなのか。

ジョーが落ち込んでおり、自己嫌悪に浸っているのはわかっていた。そして、もしも自分が「気にしてないわ」と言ったら、彼の気持ちは軽くなるどころではなく、更に深く落ち込んでしまうのであろうということも。
だから。
気付かないふりを続けていた。どう応えればいいのか、考える時間が必要だった。

いつもは見せないジョーの心。
それを今回はストレートにぶつけてきたジョー。

彼は――いったい、自分に何を求めているのだろう?

 

***

 

「うん。自分で思っているより緊張しているんだなぁ。神経過敏すぎるよね」

ははと笑ってみせた。
まさか、フランソワーズに触れられたせいとは言えない。
妙に空々しい乾いた声だとは思ったけれど。

 

***

 

あ。

わかった。

・・・ような気がする。

 

ジョーの乾いた声を聞いて、答えが見えたような気がした。
いったい彼は何を求めているのか。

何に――怯えているのか。

 

そう――怯えていたのだ。ジョーはずっと。

 

***

 

「ねぇ、ジョー。レースが終わったら何をしましょうか」
「えっ?」

ジョーに触れた手を引っ込めて、フランソワーズは空を見ながら明るく言った。
眼前にはサーキットが広がっている。数時間後にはレースが始まるから、いまこうしていられるのはあと数分。

「レースが・・・終わった、ら?」
「ええ。だってジョーったら、ブラジルグランプリが終わってもずっとレースのことばっかり考えていたでしょう?もちろん、まだシーズンが終わったわけじゃないからしょうがないけど。でも、今日でそれも終わるんだから、後の予定も考えてみてもいいかなって思うの」
「・・・そんなの、まだいいよ。レースだって残ってるんだし」
「そう?じゃあ、私が勝手に決めちゃうわよ?」
「・・・いまそれどころじゃないんだ」
「それどころでいいのよ」

フランソワーズはジョーの顔を覗きこんだ。

「いいのよ。別のことを考えたって」
「そんなわけにいかないよ。――来季のシートだって決まってないんだし」
「そうね。そんな顔で走ってたら、みんなそっぽ向くわね」

顔を強張らせ、ふいっと目を背けるジョーの頬に手をかける。

「駄目。ちゃんとこっちを見て」

それでも目は逸らしたままだ。

「ジョー。こっち向くの。ちゃんと」
「・・・」

強い声で言われ、のろのろと彼女に目を向ける。

「見て。ちゃんと」
「・・・」
「もっとちゃんと見るの」

煌く蒼い瞳。その双眸がジョーを射る。

「まっすぐ見ないから忘れちゃうのよ。・・・駄目でしょう。自分の味方を忘れちゃったら」
「・・・味方?」
「そうよ。ちゃんといるのに、ちゃんと見ないんだもの。ジョーじゃなくちゃ駄目、っていう人は周りにたくさんいるんだから」
「・・・たくさんなんていないよ」
「人数じゃないでしょう?数がいないと駄目なの?」
「・・・」
「私ひとりじゃ足りない?」
「・・・そんなこと」
「でもね、残念でした。私ひとりじゃないんだから。ジョーじゃなくちゃ嫌だって言う人はジョーが思っているより多いのよ」
「・・・そうかな」
「そうよ」
「・・・そう、かな」
「そうよ」

褐色の瞳が揺れる。

「ね?ちゃんとまっすぐ前を見れば、きっと思い出すわ」
「・・・そうかな」
「そうよ。走るの、好きなんでしょう?」
「・・・たぶん」
「たぶんじゃないでしょう。好きでしょう」
「・・・うん」
「ね?走っているうちにきっとわかるはずよ。ちゃんと――」

あなたは独りじゃないってことが。

「――だから、あなたが走っている間に私が考えておくわね?これからの予定」

レースが終わってもあなたは独りにならない。

「だって、ずっと一緒にいるんだもの」

ね?

 

 

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