地名篇(その十一)

(平成13-4-15書込み。25-2-1最終修正)(テキスト約42頁)


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  目 次 <関東地方の地名(その四)>

13B 東京都の地名(東京都市部、郡部、島嶼部)

 西東京市保谷田無・谷戸武蔵野市三鷹市井の頭公園・牟礼(むれ)・大沢調布市・布田・染地・国領深大寺・佐須・飛田給狛江市和泉・岩戸・猪方(いのがた)清瀬市・清戸・柳瀬・野塩東村山市・久米川・恩多・廻田東久留米市・黒目川・前沢・南沢・柳窪小平市国分寺市・恋ケ窪・多喜窪国立市・谷保(やほ)小金井市・峡田(はけた)・貫井(ぬくい)府中市・分倍河原(ぶばいがわら)・是政(これまさ)稲城市・矢野口・坂浜・平尾多摩市・関戸・乞田(こつた)・鶴牧・連光寺東大和市・高木・奈良橋・蔵敷(ぞうしき)・芋窪武蔵村山市・三ツ木・残堀川・空堀川羽村市・小作(おざく)・五ノ神青梅市軍畑(いくさばた)・駒木・河辺(かべ)・小曽木(おそぎ)・成木・塩船あきる野市小川・草花・菅生福生市・熊川村立川市・柴崎・砂川・向(むこう)昭島市・福島村・拝島村日野市・百草(もぐさ)・高幡(たかはた)・豊田・平山八王子市上野町・廿里(とどり)・野猿峠・松木町・鑓水(やりみず)高尾山・大垂水(おおたるみ)峠・小仏峠・景信(かげのぶ)山陣馬高原・案下(あんげ)・恩方町田市・相之原・森野・成瀬・鶴間図師(ずし)・広袴・能ケ谷・金井

瑞穂町・箱根ケ崎村日の出町・平井村・大久野(おおぐの)村奥多摩町・氷川・古里(こり)・小河内・雲取山・日原(にっぱら)/桧原(ひのはら)村・秋川・人里(へんぼり)・笛吹(うずしき)

伊豆国伊豆諸島大島・三原山・波浮(はぶ)港・千波(せんば)崎新島・式根島神津(こうづ)島・天上山三宅島・雄(お)山・阿古(あこ)御蔵島八丈島・沖ノ島・凸部(とんぶ)小笠原諸島・父島・二見湾・コペペ海岸

14 神奈川県の地名

 橘樹(たちはな)郡川崎市・久地(くじ)・溝の口・小杉・稲毛・平間登戸・生田・麻生(あさお)・柿生(かきお)・王禅寺久良岐(くらき)郡都筑(つづき)郡横浜市鶴見・日吉・綱島・矢向(やこう)・小机(こづくえ)・師岡(もろおか)・駒岡・獅子ケ谷(ししがやつ)・寺尾・生麦・子安神奈川・青木町・権現山・袖ヶ浦・帷子(かたびら)川横浜・州乾(しゅうかん)湊・野毛・本牧・根岸・磯子・保土ヶ谷金沢・乙艫(おっとも)・平潟湾・六浦(むつうら)・内川入江

相模国鎌倉郡鎌倉市・谷(やつ)・名越・巨福呂(こぶくろ)坂・亀ガ谷坂・化粧(けわい)坂・極楽寺坂・滑川・由比ヶ浜・和賀江島・稲村ケ崎瀬谷・柏尾(かしお)川・戸塚・田谷の瑜伽(ゆか)洞・大船)・七里ケ浜・小動(こゆるぎ)崎・江ノ島御浦(みうら)郡横須賀市・追浜(おっぱま)・走水・観音崎・浦賀・久里浜・平作(ひらさく)川・衣笠山逗子市・池子(いけご)・披露山三浦市・城ケ島・下浦・油壷・小網代(こあじろ)湾・初声(はつせ)葉山町・鎧摺(あぶずる)港高座(たかくら)郡相模原市・鳩川・橋本・淵野辺座間市・伊参(いさま)・大和市・鶴間・海老名市・綾瀬市・目久尻(めくじり)川・蓼川・比留(ひる)川・引地(ひきぢ)川寒川町・藤沢市・鵠沼・辻堂・茅ヶ崎市津久井郡藤野町・道志川・与瀬・寸沢嵐(すあらし)蛭ケ岳・丹沢山・塔ノ岳・鍋割山・桧洞丸(ひのきぼらまる)・大室山・加入道(かにゅうどう)山・畦ケ丸(あぜがまる)山・菰釣(こもつるし)山愛甲(あいこう)郡愛川町・中津・八菅(はすげ)・清川村・宮ケ瀬・煤ケ谷(すすがや)厚木市・依知(えち)・飯山大住(おおすみ)郡伊勢原市・大山・阿夫利(あふり)神社・比々多(ひびた)神社・日向(ひなた)秦野市・渋沢・水無川・葛葉川・鶴巻温泉平塚市・須賀(すか)・馬入(ばにゅう)余綾(よろぎ)郡・大磯・鴫立沢(しぎたつさわ)・川匂(かわわ)足柄郡山北町・河内(かわうち)川・世附(よづく)川・玄倉(くろくら)川・都夫良野(つぶらの)・洒水(しゃすい)の滝・松田町・寄(やどろぎ)村・大井町南足柄市・明神ケ岳・金時山・矢倉沢小田原市・酒匂(さかわ)川・狩川・早川・曽我・風祭(かざまつり)・入生田(いりうだ)・根府川・真鶴町・湯河原町・土肥(どひ)の湯・こごみの湯・小梅の湯箱根町・芦ノ湖・仙石原・神山・駒ケ岳・乙女峠・姥子(うばこ)温泉・強羅温泉・須雲(すくも)川

<修正経緯>

<関東地方の地名(その四)>



13B 東京都の地名(東京都市部、郡部、島嶼部)



 東京都市部及び郡部は、おおむねもと武蔵国多摩郡(地名篇(その十)の13A東京都の(26)多摩郡の項を参照して下さい。)に、島嶼部はもと伊豆国に属しました。

 

(1)西東京(にしとうきよう)市

 

 西東京市は、保谷市と田無市が平成13年1月21日に合併して成立した市で、武蔵野台地の上に位置し、北は東久留米市と埼玉県新座市、東は練馬区、南は武蔵野市、西は小平市に囲まれています。

 

a 保谷(ほうや)

 保谷地区は、西東京市の東部、旧保谷市の地区です。地名は、永禄元(1558)年に保谷出雲守らの開拓により始まったことによるとされます。戦国期には「保屋」とあります。もと埼玉県新座郡上(下)保谷村、後に同県北足立郡に属しましたが、明治40(1907)年東京府北多摩郡に編入されました。地区の中央部に白子川、南端に石神井川が流れます。

 この「ほうや」は、マオリ語の

  「ホウ・イア」、HOU-IA(hou=enter,force downwards or under;ia=current,indeed)、「土地を掘り下げる川(の流れる土地)」

  または「ホイ・イア」、HOI-IA(hoi=lobe of the ear;ia=current,indeed)、「実に耳たぶのような(地形の土地)」(「ホイ」の「イ」と「イア」の「イ」が連結・短縮して「ホヤ」となった。白子川の水源がある田無地区を半ば囲むように田無地区の北部と南部に細長く土地が突き出ている地形からの表現でしょう)

の転訛と解します。

 

b 田無(たなし)・谷戸(やと)

 田無地区は、西東京市の西部の地区で、旧田無市です。

 田無は、水利の便が悪く、元禄期に野火止用水から田無用水に分水するまでは水田を営めない地区で、その地名は

(1)通常「田が無い」からとされますが、

(2)山梨が山の在るところを意味するのと同じく「田が在るところ」の意、

(3)「タナシ」は「田をナス(生す)」の意、

(4)「田をナラス(均す)」の意、

(5)田無の最も古い集落で、唯一白子川の水源となっている湧き水がある谷戸(やと)地区の湧水が棚瀬(たなせ)状であることからの転などとする説があります。

 この「たなし」、「やと」は、マオリ語の

  「タ・ナチ」、TA-NATI(ta=the,dash,beat,lay;nati=pinch,contract)、「(台地に)挟まれて浸食された(白子川の源流の場所)」

  「イア・ト」、IA-TO(ia=current,rushing stream;to=drag,be pregnant,wet,the...of)、「水の流れがある(場所)または水が滲み出す(場所)」

の転訛と解します。

 

(2)武蔵野(むさしの)市

 

 武蔵野市は、武蔵野台地の上に位置し、北は西東京市、東は練馬区、杉並区、南は三鷹市、西は小金井市に囲まれています。市名は、「武蔵国の野」からです。市内の主要な地名には、江戸時代に命名されたものが多く、特記すべきものは見あたりません。

 

(3)三鷹(みたか)市

 

a 三鷹市

 三鷹市は、武蔵野台地の上に位置し、北は武蔵野市、東は杉並区、世田谷区、南は調布市、西は小金井市、府中市に囲まれています。市は、明治22(1889)年に牟礼(むれ)、上・下連雀、井口新田など10ケ村が合併して神奈川県北多摩郡三鷹村となり、明治26年に東京府編入、昭和15年三鷹町、昭和25年に市制を施行しました。

 市名は、(1)江戸時代に将軍家などの御鷹場が三カ所あつたから、

(2)御鷹場の碑が三本あったから、

(3)俗に御鷹場(みたかば)村と呼ばれていたから、

(4)かつて世田谷、府中、野方三領に属する鷹場村であつたからなどの説があります。

 

b 井の頭(いのかしら)公園・牟礼(むれ)・大沢(おおさわ)

 市の北東には、神田上水の水源となつている井の頭池があり、その地名は周辺でたびたび鷹狩を行った徳川家光の命名によると伝えられます。

 井の頭池と神田上水の南に旧牟礼村の地区があり、その地名は朝鮮語の「ムレ(山)」からとする説があります。

 市の南西に国際基督教大学などが立地する旧大沢村の地区があり、野川が貫流しています。

 この「いのかしら」、「むれ」、「おおさわ」は、マオリ語の

  「ウイ・ノ・カハ・チラ」、UI-NO-KAHA-TIRA(ui=disentangle,relax or loosen a noose ;no=of;kaha=crested grebe;tira=file of men,fin of fish,rays)、「カイツブリの・とさか(頭冠)・から流れ出る・ほどけた輪縄のような(ゆるやかに蛇行する川。その川の流れ出る池。その場所)」(「ウイ」が「ヰ」と、「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)(井の頭池の形状をカイツブリの三本の美麗な毛を立てた特徴のあるとさかに例えたものです。)

  「ムレ」、MURE(spread reports,slander)、「(不毛の地などという)悪い評判がある(土地)」

  「オフ・タワ」、OHU-TAWA(ohu=surround;tawa=burst open,crack)、「割れ目(野川)の周囲にある(土地)」

の転訛と解します。

 

(4)調布(ちょうふ)市

 

a 調布市・布田(ふだ)・染地(そめち)・国領(こくりょう)

 調布市は、武蔵野台地南部に位置し、国分寺崖線(二子玉川付近から成城学園、深大寺を経て、JR中央線を国立駅東側で横切り、立川の北東に至る10〜20メートルの段丘崖)と呼ばれる河岸段丘崖下の湧水は深大寺(じんだいじ)湧水や、市の中央部を流れる野川、東部の仙川、入間(いりま)川の水源となつています。市の北は三鷹市、東は世田谷区、南は狛江市と多摩川を隔てて神奈川県川崎市、稲城市、西は三鷹市、府中市に囲まれます。もと神奈川県北多摩郡調布町、明治26(1893)年に東京府に編入、昭和30年に市制を施行しています。

 市名は、古代朝廷に納める調(税)として苧麻(からむし)などを原料として織った布を生産したことに由来し、このことから布田(ふだ)や染地(そめち)などの地名が残り、『万葉集』にも歌われている(「多摩川にさらす手作りさらさらに何にぞこの児のここだ愛(かな)しき」(巻14。3,373))とされています。しかし、律令制の確立に伴う「調布」という漢語の導入以前から、「ちょうふ」、「ふだ」、「そめち」という地名があった可能性も否定できません。

 市の中央部を甲州街道が通り、国領(こくりょう)、下布田、上布田、下石原、上石原の布田五宿が置かれました。もと国領町の小字であった染地は多摩川沿いの低地に位置します。国領は、元国衙(こくが)領であったことに由来するとされます。

 この「ちょうふ」、「ふだ」、「そめち」、「こくりょう」は、マオリ語の

  「チホウ・フ」、TIHOU-HU(tihou=an implement used for cultivating;hu=mud,swamp,hill,silent)、「耕作されている丘」(「チホウ」のH音が脱落して「チョウ」となつた。「チホウ」のT音がS音に変化した「ショウ、耕作地」は、「荘園」の「荘」および「庄」の「しょう」と同じ語源と解します)

  「フ・タ」、HU-TA(hu=mud,swamp,hill,silent;ta=the,dash,beat,lay)、「浸食された丘」

  「タウ・マイ・チ」、TAU-MAI-TI(tau=come to rest,float,lie steeping in wqter;mai=clothing,garment;ti=throw,cast)、「濡れた(水に浸かった)着物が放り出されている(ような土地)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」から「ソ」となり、「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となり、「ソメチ」となつた。現府中市白糸台のもと多摩村上・下染屋(そめや)の「ソメ」も同じ語源と解します。)

  「コクフ・リオ」、KOKUHU-RIO(kokuhu=insert,fill up gaps where plants have failed in a crop;rio=withered,dried up,wrinkled)、「(野川と多摩川の)間にある乾燥した(土地)」(「コクフ」の語尾の「フ」が脱落した)

の転訛と解します。

 

b 深大寺(じんだいじ)・佐須(さす)・飛田給(とびたきゅう)

 市の北部、武蔵野台地の谷に、そばで有名な浮岳山深大寺があり、周囲には多くの湧泉があります。深大寺の名は、寺内の池のほとりに祀る水神・深沙(じんじゃ)大王にちなむとされます(『武蔵野歴史地理』)。

 野川の沿岸に佐須町があり、深大寺にやや遅れて創建されたという祇園寺があります。地名の由来は、「さす(新しい芽がでる)」からという説などがあります。

 市の北西、野川に沿って細長く伸びた調布飛行場のある地に接して飛田給地区があります。

 この「じんだいじ」、「さす」、「とびたきゅう」は、マオリ語の

  「チノ・タイ・チ」、TINO-TAI-TI(tino=main,essentiality,quite;tai=tide;ti=throw,cast)、「潮流のような湧き水が噴出する主たる(場所)」

  「タツ」、TATU(reach the bottom,be at ease,strike one foot against the other,stumble)、「(台地の上から)降りた底にある(低地)」

  「トピ・タ・キフ」、TOPI-TA-KIHU(topi=shut as the mouth or hand,small native earth oven;ta=the,dash,beat,lay;kihu,kihukihu=fringe)、「口を閉じたような細長い低地の縁に位置する(土地)」

の転訛と解します。

 

(5)狛江(こまえ)市

 

a 狛江市

 狛江市は、武蔵野台地南端に位置し、立川段丘崖(国分寺崖線の下にある段丘崖)が東西に走ります。西から北は調布市、東は世田谷区、南は多摩川を隔てて神奈川県川崎市に囲まれます。

 市名は、(1)高句麗から渡来した高麗(こま)人によって開発されたことから「高麗居(こまい)」の意とする説、

(2)「コマ(蛇行する)・エ(川)」とする説などがありますが、不詳です。

 市内には、亀塚古墳など縄文・弥生時代の遺跡が多く、狛江百塚と呼ばれ、狛江郷の中心でした。

 この「こまえ」は、マオリ語の

  「コマエ」、KOMAE(shrunk,blighted,withered)、「皺が寄っている(段丘崖がある土地)」

の転訛と解します。

 

b 和泉(いずみ)・岩戸(いわど)・猪方(いのがた)

 市の西南の多摩川に沿つたあたりに和泉地区が、東北に岩戸地区が、南の多摩川沿いに昭和49年9月台風16号による洪水で堤防が決壊して住宅19棟が流出した猪方地区があります。

 この「いずみ」、「いわど」、「いのがた」は、マオリ語の

  「イツ・ミ」、ITU-MI(itu=side;mi=stream,river)、「川のほとり」

  「イ・ウア・ト」、I-UA-TO(i=beside,past tense;ua=backbone,neck;to=drag,be pregnant,wet,the...of)、「背骨を伸ばしたような場所のそば(の土地)」

  「イノ・カタ」、INO-KATA(ino=descendant;kata=opening of shellfish)、「かつて潟(貝が口を開いたような水に浸かっていた場所)であつたところ」

の転訛と解します。

 

(6)清瀬(きよせ)市・清戸(きよと)・柳瀬(やなせ)・野塩(のしお)

 

 清瀬市は、都北部にあり、市域の大部分が埼玉県に突き出ています。北は埼玉県所沢市、東は同県新座市、南は東久留米市、西は東村山市に囲まれています。明治26(1893)年神奈川県北多摩郡から東京都に編入されました。市名は、明治22年上・中・下清戸村、野塩(のしお)村など6ケ村が合併して村制施行の際に旧清戸村の清と北端を流れる柳瀬(やなせ)川の瀬を合成して清瀬村となり、昭和29年町制を、昭和45年に市制を施行しました。 

 この「きよと」、「やなせ」、「のしお」は、マオリ語の

  「キ・イオ・ト」、KI-IO-TO(ki=full,very,of place,into;io=muscle,line;to=drag,open or shut a door or window,be pregnant,wet)、「川(柳瀬川)へ向かって引きずられている(傾斜している土地)」

  「イア・ナ・テ」、IA-NA-TE(ia=current,indeed;na=satisfied,content;te=crack)、「ゆつたりと流れる川(の割れ目)」

  「ノチ・ホ」、NOTI-HO(noti=pinch or contract as with a band or ligature;ho=pout,droop,shout)、「(柳瀬川と空堀川に)挟み付けられて・悲鳴を上げている(地域)」

の転訛と解します。

 

(7)東村山(ひがしむらやま)市・久米川(くめがわ)・恩多(大岱。おんた)・廻田(まわりだ)

 

 東村山市は、都の北端の武蔵野台地にあり、北は埼玉県所沢市、東は清瀬市、南は東久留米市、小平市、西は東大和市に囲まれます。北部には柳瀬川、中部には空堀川、南部には野火止用水が流れ、西北部は多摩湖(村山貯水池)に隣接します。

 市名は、明治22(1889)年久米川(くめがわ)村、大岱(おんた)村(のち恩多町)、廻田(まわりだ)村、南秋津など5ケ村が合併して村制施行の際に、武蔵7党の一つ村山(むらやま)党の勢力下にあった村山郷東部の地域であったことから東村山村とし、昭和17年町制を、昭和39年に市制を施行しました。久米川は、古代には上野国と武蔵国府を結ぶ官道の宿駅で、中世には鎌倉街道の久米川宿として栄えました。

 この「むらやま」、「くめがわ」、「おんた」、「まわりだ」は、マオリ語の

  「ムフ・ラ・イア・マ」、MUHU-RA-IA-MA(muhu=grope,push one's way through bushes;ra=wed;ia=current,indeed;ma=white,clean)、「草木が密生して実に清らかな(地域)」

  「クメ・カワ」、KUME-KAWA(kume=pull,drag,stretch,asthma;kawa=heap,channel)、「真っ直ぐ伸びた・通路(官道。その道路が通る場所)」

  「オネ・タ」、ONE-TA(one=beach,sand;ta=dash,beat,lay)、「(空堀川が運んできた)砂質土壌に覆われた(土地)」

  「マワ・リ・タ」、MAWA-RI-TA(mawa,mawawa=cracked,split,slack;ri=screen,pritect,bind;ta=dash,beat,lay,allay)、「(多摩湖に続く北柳瀬川と南柳瀬川の)二つの割れ目にまたがって並んでいる(土地)」

の転訛と解します。

 

(8)東久留米(ひがしくるめ)市・黒目(くろめ)川・前沢(まえさわ)・南沢(みなみさわ)・柳窪(やなぎくぼ)

 

 東久留米市は、都の中北部の武蔵野台地にあり、北は清瀬市、北から東は埼玉県新座市、南は保谷市、西東京市、小平市、西は東村山市に囲まれます。北端を野火止用水、北部を黒目(くろめ)川とその支流出水川、中部を黒目川の支流落合川が流れ、南部には南沢に豊富な湧水がある極めて水に恵まれた地域です。

 市名は、明治22(1889)年前沢(まえさわ)村、南沢(みなみさわ)村、柳窪(やなぎくぼ)村、落合(おちあい)村など11ケ村が合併して村制施行の際に、久留米(くるめ)村とし、昭和31年町制を、昭和45年に東久留米市として市制を施行しました。

 この久留米は、(1)北部を流れる黒目(くろめ)川に由来するとする説、

(2)応神紀37年2月、同41年2月条の帰化人阿知使主が呉から連れ帰つた織縫工女の一部がこの辺に土着して繰糸・織物の技術を伝え、これらの工女を呉女(くれめ)・呉津女(くれつめ)・繰女(くりめ)と呼んだことから「くるめ」の地名となつたとする説などがあります。

 この「くるめ」、「くろめ」、「まえさわ」、「みなみさわ」、「やなぎくぼ」は、マオリ語(ハワイ語)の

  「ク・ルマイ」、KU-LUMAI((Hawaii)ku=(Maori)tu=stand,settle;(Hawaii)lumai=to douse,to duck,to upset)、「少し水に浸かる場所に位置している(土地)」(「ルマイ」のAI音がE音に変化して「ルメ」となつた。「ク・ルマイ」は、地名篇(その十)の東京都区部の(15)新宿区のd早稲田鶴巻町の「ツ・ルマキ」と同義語です。)

  「クロ・メ」、KULO-ME((Hawaii)kulo=to wait a long time;me=as if like)、「長い時間待たせるような(雨が降ってもなかなか増水しない川)」

  「マエ・タワ」、MAE-TAWHA(mae=languid,withered;tawha=burst open,crack)、「しぼんだ沢(割れ目)」

  「ミナ・ミ・タワ」、MINA-MI-TAWHA(mina=desire,feel inclination for,(Hawaii)to regret,to prize greatly;mi=stream,river;tawha=burst open,crack)、「誰もが愛好する川の流れる沢(割れ目)」

  「イア・ナキ・クポウ」、IA-NAKI-KUPOU(ia=current,indeed;naki=glide,move with an even motion;(Hawaii)kupou=to go down,walk downhill fast)、「実になだらかに降りて行く窪地」

の転訛と解します。

 

(9)小平(こだいら)市

 

 小平市は、都の中央部の武蔵野台地に位置し、北は東大和市、東村山市、東久留米市、東は西東京市、南は小金井市、国分寺市、立川市に囲まれます。北西部を野火止用水、南部を玉川上水が流れます。

 市名は、明治22(1889)年小川(おがわ)村ほか江戸初期から中期にかけて開発された7ケ村が合併して村制施行の際に、最も早く開拓された小川九郎兵衛に由来する小川村の「小」と、”月の入るべき山もない”平らな土地である「平」を合成して小平(こだいら)村とし、昭和19年町制を、昭和37年に市制を施行しましたので、ここで解説すべき古い地名はありません。

 

(10)国分寺(こくぶんじ)市・恋ケ窪(こいがくぼ)・多喜窪(たきくぼ)

 

 国分寺市は、都の中央部の武蔵野台地南西部に位置し、多摩川段丘武蔵野面と立川面の上にあり、国分寺崖線が東西に走ります。西から北は立川市、小平市、東は小金井市、南は府中市、国立市に囲まれます。

 市名は、当地に建立された武蔵国分寺に由来し、明治22(1889)年11ケ村が合併して村制施行の際に国分寺(こくぶんじ)村とし、昭和15年町制を、昭和39年に市制を施行しました。

 恋ケ窪(こいがくぼ)地区のJR国分寺駅西北の日立製作所中央研究所内の池を源流として、野川が流れ出しています。一帯には昔いくつもの池があったと伝えられます。その池の南西、現泉町はもと多喜窪(たきくぼ。江戸時代は滝窪)でしたが、滝は存在しません。

 この「こいがくぼ」、「たきくぼ」は、マオリ語の

  「コイ(ン)ガ・クポウ」、KOINGA-KUPOU(koinga=point,edge,sharp bend in a stream forming a narrow tongue of land;(Hawaii)kupou=to go down,walk downhill fast)、「(崖の)縁近くの窪地」

  「タハキ・クポウ」、TAHAKI-KUPOU(tahaki=one side,the shore;(Hawaii)kupou=to go down,walk downhill fast)、「(恋ケ窪に相対する)一方の窪地」(「タハキ」の「ハ」音が脱落した)

の転訛と解します。

 

(11)国立(くにたち)市・谷保(やほ)

 

 国立市は、都のほぼ中央部の武蔵野台地南西部に位置し、北・中部は立川段丘、南部は青柳段丘、南端は多摩川沿いの沖積地に立地する市で、北は国分寺市、東から南は府中市、南西は多摩川を隔てて日野市、西は立川市に囲まれます。

 市名は、昭和26(1951)年谷保(やほ)村が町制を施行した際、JR国分寺駅と立川駅の間に設置された国立(くにたち)駅の名を町名とし、昭和42年市制を施行したものです。

 市の南部の谷保地区には、「やぼてん」の語源とする説(江戸時代に谷保天満宮が目白で本尊の御開帳を行ったことを狂歌の太田蜀山人が”神ならば出雲の国に行くべきに目白で開帳やぼのてんじん”と諷したことによる)がある「谷保天満宮」があります。

 この「やほ」または「やぼ」は、マオリ語の

  「イア・ホウ」、IA-HOU(ia=current,indeed;hou=bind)、「川が集まってくる(地域)」

  「イア・ポウ」、IA-POU(ia=current,indeed;pou=stick in,plunge in,pour out)、「川が突進してくる(または水が溢れる地域)」 

の転訛と解します。

 

(12)小金井(こがねい)市・峡田(はけた)・貫井(ぬくい)

 

 小金井市は、都の中央部の武蔵野台地南西部に位置し、北・中部は武蔵野段丘、南部は立川段丘に立地する市で、北は小平市、東は武蔵野市、南は三鷹市、調布市、府中市、西は国分寺市に囲まれます。二つの段丘の間には、12〜14メートルの高さの国分寺崖線が東西に走ります。この崖は「ハケ」と呼ばれ、大岡昇平『武蔵野夫人』の舞台です。

 市名は、(1)武蔵野7井の一つ、黄金井(こがねい)があったことに由来するとする説、

(2)「曲がった水流」の意とする説、

(3)府中市の名主の金井家の分家の土豪、小金井氏からという説などがあります。

 崖下の窪地から水が豊富に湧き出している場所を「峡田(はけた。破希田とも)」といい、江戸時代の貫井(ぬくい)村の小字として記録されています。この「ぬくい」は、「湧き水」の意と解されています。

 この「こがねい」、「はけた」、「ぬくい」は、マオリ語の

  「コ・(ン)ガネイ」、KO-NGANEI(ko=a wooden implement for digging;nganei=these)、「ここらの耕地」

  「パケ・タ」、PAKE-TA(pake=crack,creak;ta=the,dash,beat,lay)、「(崖地から流れ出る)細流がある(場所)」(地名篇(その十)の東京都区部の(27)中野区の項の「バッケの原」の「バッケ」は、この「パケ」と同じ語源と解します。)

  「ヌク・ウイ」、NUKU-UI(nuku=wide extent,distance,move;ui=disentangle,relax or loosen a noose)、「(狩猟に使う)輪縄がほどけて延びている(ように蛇行して流れる川のある地域)」(地名篇(その十)の東京都区部の(12)練馬区のb貫井川の項を参照して下さい。)

の転訛と解します。

 

(13)府中(ふちゅう)市・分倍河原(ぶばいがわら)・是政(これまさ)

 

 府中市は、都の中南部の多摩川左岸に位置し、市域の大部分は立川段丘で、甲州街道より南は多摩川の氾濫原の上にあります。北は国分寺市、小金井市、東は調布市、南は多摩川を隔てて稲城市、多摩市、日野市、西は国立市に囲まれます。

 市名は、古代律令制の下で武蔵国の国府所在地であったことによります。

 鎌倉時代には交通の要衝であったことから、新田義貞の分倍河原(ぶばいがわら。現府中市南西部の通称。分梅(ぶばい)町の名が残ります)の合戦などの戦場となり、江戸時代には甲州街道の府中宿が置かれて栄えました。

 南部の是政(これまさ)地区は、小田原北条氏の家臣井田摂津守是政が開発したことに由来するとされます。

 この「ぶばい」、「これまさ」は、マオリ語の

  「プパヒ」、PUPAHI(encampment)、「野営する(場所)」(「プパヒ」のH音が脱落して「プパイ」から「ブバイ」となつた)

  「コレ・マタ」、KORE-MATA(kore=be absent,be lost,be destroyed;mata=deep swamp)、「消失した(乾燥した)湿地」

の転訛と解します。

 

(14)稲城(いなぎ)市・矢野口(やのくち)・坂浜(さかはま)・平尾(ひらお)

 

 稲城市は、都の中南部の多摩川中流の右岸に位置し、市の北東部は多摩川沿岸の沖積低地、南部は多摩丘陵です。

 市名は、明治22(1889)年6ケ村が合併して村制施行の際に中世の領主稲毛(いなげ)氏(稲毛については、神奈川県の(2)川崎市のa稲毛の項を参照して下さい。)から神奈川県南多摩郡稲城(いなぎ)村とし、明治26年東京府編入、昭和32年町制を、昭和46年に市制を施行しました。

 東部の矢野口(やのくち)は、鶴川街道が多摩川原橋で多摩川を渡り、川崎街道と交叉する多摩川の沖積低地にあります。多摩川原橋は、もと矢野口の渡しで、『太平記』の新田義興謀殺の「矢口の渡し」(地名篇(その十)の東京都区部の(24)大田区のb矢口の渡しの項を参照して下さい。)とする説もあります。

 矢野口から鶴川街道を南西に多摩横山に分け入った、三沢川の上流に開けた場所が坂浜(さかはま)地区で、古くは「嵯峨浜(さがはま)」と呼んだともいいます。

 坂浜の南、川崎市麻生区との境が平尾(ひらお)で、「平らな尾根」の意とする説があります。

 この「やのくち」、「さかはま(さがはま)」、「ひらお」は、マオリ語の

  「イア・ナウ・クチ」、IA-NAU-KUTI(ia=current,indeed;nau=come,go;kuti=pinch,contract)、「川の流れが襲う川幅の狭い場所」

  「タカ・ハママ」、TAKA-HAMAMA(taka=heap,lie in a heap;hamama=open,gaping,vacant)、「高いところにある口を開けたような(場所)」または「タ(ン)ガ・ハママ」、TANGA-HAMAMA(tanga=be assembled,row;hamama=open,gaping,vacant)、「口を開けたような土地が連なっている(場所)」(「ハママ」の反復語尾の「マ」が脱落して「ハマ」となつた)

  「ヒ・ラホ」、HI-RAHO(hi=rise,raise;raho=platform,floor)、「高いところにある床のような平らな土地」

の転訛と解します。

 

(15)多摩(たま)市・関戸(せきど)・乞田(こつた)・鶴牧(つるまき)・連光寺(れんこうじ)

 

 多摩市は、都の南西部の多摩丘陵北部に位置し、北は多摩川を隔てて府中市、東は稲城市、南は神奈川県川崎市、町田市、西は日野市、八王子市に囲まれます。

 市名は、明治22(1889)年周辺の村が合併して村制施行の際に多摩丘陵に位置することから神奈川県南多摩郡多摩(たま)村とし、明治26年東京府編入、昭和39年町制を、昭和46年に市制を施行しました。多摩丘陵を切り開いて多摩ニュータウンが造成されています。

 旧鎌倉街道の関戸(せきど)の渡しを渡つたところが関戸で、鎌倉時代に関所があったからとされますが、千葉県関宿(地名篇(その十)の千葉県の(2)葛飾郡のb関宿町の項を参照して下さい。)と同様、それ以前からの地名の可能性があります。

 市のほぼ中央に、乞田(こつた)地区があり、多摩川の支流乞田川が流れます。この地名は、(1)昔食糧難に苦しんだ百姓が領主に「田を耕させて欲しい」と乞うたからという説、(2)このあたりは中世に吉富郷と呼ばれ、その音読みで「キット」から「こった」となつたという説などがあります。

 市の南部に鶴牧(つるまき)地区があり、昔ここの田んぼに鶴が飛んで来たからと伝えられます。

 市の東北に連光寺(れんこうじ)地区があり、かつて連光寺という寺院があったからとされますが、この寺院は現存せず、また文献にも見当たらず、その痕跡も全く無く、「れんこうじ」という地名だけがあってそれに漢字をあてはめたとしか考えられません。

 この「せきど」、「こつた」、「つるまき」、「れんこうじ」は、マオリ語の

  「テキ・ト」、TEKI-TO(teki=outer fence of a stockade;to=drag,open or shut a door or window,wet,calm,be pregnant)、「(武蔵国の)外側の境界の川の出入り口」

  「コ・ツタ」、KO-TUTA(ko=a wooden implement for digging;tuta=back of the neck)、「(乞田川の下流の両岸の丘陵によつて)狭くなっている場所の裏側の・耕地(がある場所)」

  「ツ・ルマキ」、TU-RUMAKI(tu=stand,settle;rumaki=immerse,duck in the water,stoop((Hawaii)lumai=to douse,duck))、「ちょっと水に潜る(浸かる)ことがある場所に位置している(土地)」

  「レナ・コウ・チ」、RENA-KOU-TI(rena=stretch out,disturbed;kou=knob,stump;ti=throw,cast)、「(下流との交通を)妨害する丘が放り出されている(場所)」

の転訛と解します。

 

(16)東大和(ひがしやまと)市・高木(たかぎ)・奈良橋(ならはし)・蔵敷(ぞうしき)・芋窪(いもくぼ)

 

 東大和市は、都の北部の狭山丘陵南部に位置し、北は埼玉県所沢市、東は東村山市、南は小平市立川市、西は武蔵村山市に囲まれます。

 市名は、明治17(1884)年清水(しみず)、狭山(さやま)、高木(たかぎ)、奈良橋(ならはし)、蔵敷(ぞうしき)、芋窪(いもくぼ)の6ケ村組合が設けられ、大正8年に「大いに和して」合併して大和村となり、昭和29年町制を、昭和45年に市制を施行して東大和市となりました。

 市の北部の谷には多摩湖(村山貯水池)が造成され、その南麓には奈良橋川と空堀川が並行して流れ、高木地区で合流し、南部には野火止用水が流れます。北西の芋窪は、古くは井野窪(いのくぼ)と呼んだようです。

 この「たかぎ」、「ならはし」、「ぞうしき」、「いもくぼ(いのくぼ)」は、マオリ語の

  「タカキ」、TAKAKI(neck,throat)、「(川が合流する)のどのような(場所)」

  「(ン)ガラ・パチ」、NGARA-PATI(ngara=snarl;pati=shallow water)、「やかましい音を立てる浅瀬(のある場所)」(「(ン)ガラ」のNG音がN音に変化して「ナラ」となった)

  「トウ・チキ」、TOU-TIKI(tou=dip into a liquid,wet,kindle;tiki,tikitiki=girdle,topknot in dressing the hair)、「水に浸っているまげ(のような土地)」(地名篇(その十)の東京都区部の(27)中野区のa雑色(ぞうしき)の項を参照して下さい。)

  「イ・マウ・クポウ」、I-MAU-KUPOU(i=beside,past tense;mau=carry,bring;(Hawaii)kupou=to go down,walk downhill fast)、「だらだらと下る(場所)」または「イ・ナウ・クポウ」、I-NAU-KUPOU(i=beside,past tense;nau=come,go;(Hawaii)kupou=to go down,walk downhill fast)、「だらだらと下る(場所)」(いずれも同義で、「マウ」、「ナウ」のAU音がO音に変化して「モ」、「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

(17)武蔵村山(むさしむらやま)市・三ツ木(みつぎ)・残堀(ざんぼり)川・空堀(からぼり)川

 

 武蔵村山市は、都の北西部の狭山丘陵南部に位置し、西から北は西多摩郡瑞穂町、埼玉県所沢市、東は東大和市、南は立川市、福生市に囲まれます。

 市名は、明治22(1889)年に神奈川県北多摩郡の岸(きし)、三ツ木(みつぎ)、横田(よこた)、中藤(なかとう)の4ケ村組合が成立し、明治26年東京府編入、大正6年に合併して村山村となり、昭和29年町制を、昭和45年に市制を施行して、中世の武蔵7党の一つ村山党にちなんで武蔵村山市となりました。

 市の北部には空堀(からぼり)川が東流し、中・南部には残堀(ざんぼり)川が東南流しています。三ツ木は、残堀川の水量が少なく、水利の便が悪く、20メートルを越す深井戸に頼る地区でした。

 この「みつぎ」、「ざんぼり」、「からぼり」は、マオリ語の

  「ミチ・キ」、MITI-KI(miti=lick up(mimiti=dried up,swallowed up);ki=full,very)、「(水を)十分に飲み尽くした(水が無い土地)」

  「タネ・ポリ」、TANE-PORI(tane=eructate after food(tanea=be choked);pori=wrinkled,fold as of the skin with fat)、「げっぷを出す・大地の皺(ときどき水が流れなくなる水路。川)」

  「カラ・ポリ」、KALA-PORI((Hawaii)kala=to loosen,free,unburden,acquit;pori=wrinkled,fold as of the skin with fat)、「(水を流すという役割から放免された)しばしば水が流れない・大地の皺(水路。川)」

の転訛と解します。

 

(18)羽村(はむら)市・小作(おざく)・五ノ神(ごのかみ)

 

 羽村市は、都の北西部の武蔵野台地西端に位置し、西から北は青梅市、東は西多摩郡瑞穂町、南は福生市、あきる野市に囲まれます。市の西から南の端を多摩川が流れ、玉川上水の取り入れ口であった羽村堰があります。

 もとは西多摩郡西多摩村でしたが、昭和31(1956)年町制を施行して羽村町とし、平成3年に市制を施行しました。

 羽村は、(1)中世の郷村名「羽村」を採ったとする説、

(2)武蔵野のはずれにあるからとする説があります。

 市の西北に小作(おざく)地区があり、(1)古くは「小佐久」と記していたことから信州佐久と同様「狭く細く行きづまりの谷」の意とする説、(2)西隣の青梅市友田の人々が川を渡って小作をしていたからとする説があります。

 羽村堰の東に五ノ神(ごのかみ)地区があり、五つの神社があったことによるとされます。ここには関東ローム層をらせん状に掘った「まいまいず井戸」があります。

 この「はむら」、「おざく」、「ごのかみ」は、マオリ語の

  「ハム・ラ」、HAMU-RA(hamu=gather things that are thinly scattered,glean,(Hawaii)eat voraciously,fragment,destroy;ra=wed)、「(洪水によって)さんざん痛め付けられた(場所)」

  「オ・タク」、O-TAKU(o=the...of;taku=edge,border,hollow)、「(川の)縁にある(土地)」

  「(ン)ガウ・ヌカ・ミ」、NGAU-NUKA-MI(ngau=bite,hurt,wander,go about;nuka=deceive,dupe;mi=stream,river)、「(五ノ神地区を)襲うかのようにだます川(流れの方向を大きく転ずる川のほとりの場所)」または「(大地を)堀りくぼめて川に似せた(井戸。その井戸がある土地)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

の転訛と解します。

 

(19)青梅(おうめ)市

 

a 青梅市

 青梅市は、都の北西部の多摩川が関東平野へ流れ出る地域にあり、中心部の青梅市街地の東は平野、西は山地に位置し、北は埼玉県入間村、飯能市、東は入間市、南は西多摩郡瑞穂町、羽村市、あきる野市、西多摩郡日の出町、西は西多摩郡奥多摩町に囲まれます。明治22(1889)年に神奈川県北多摩郡青梅町となり、明治26年東京府編入、昭和26年に霞(かすみ)、調布2村と合併して市制を施行し、昭和30年小曽木(おそぎ)、吉野、成木(なりき)、三田4村を合併しました。

 市名は、(1)平将門が武運長久を祈願して植えた梅の木の実がいつまでも青かったからとする説、

(2)平将門が建立した金剛寺の梅の木が近隣にないほど大きかったからとする説、

(3)武蔵府中の国府の役人、大目(だいさかん)がこの地に居住していたことから、大目が「おおめ」になつたとする説、

(4)下総国海上郡、下野国安蘇郡の麻続(をみ。をうみ)郷の麻続部が居住し、麻布の生産が盛んであったことによるとする説があります。

 この「おうめ」は、マオリ語の

  「オ・フメ」、O-HUME(o=the...of;hume=bring to a point,taper off,gather up,gird on)、「先が細くなる(場所)」

の転訛と解します。

 

b 軍畑(いくさばた)・駒木野(こまきの)・河辺(かべ)・小曽木(おそぎ)・成木(なりき)・塩船(しおぶね)

 多摩川の上流に軍畑の地があり、川はこの付近で流れを東から南東に変え、河原が広がり、水深も浅く、両岸は切り立った崖から緩い斜面になります。地名は、永禄6(1563)年北条氏照と在地の豪族三田綱秀の合戦がここで行われたことによるとされます。

 市内の多摩川の右岸に細長い壁を川に突き出したような丘陵地帯があり、もと駒木野(こまきの)村で、地名は村人が駿馬を絹で覆って鎌倉将軍に献じたことによると伝えられます。

 市内の多摩川の川べりに河辺(かべ)町があり、「かわべ」の約とされます。

 市の北東部の山間に小曽木地区、成木地区があります。とくに成木(なりき)は、江戸時代初期から石灰岩の採掘の中心でした。

 市街地の北部の霞丘陵の中に塩船地区があり、「周囲の地形が小丘に囲まれて船の形に似ているところから僧行基が塩船と名付けた」と伝えられます。

 この「いくさばた」、「こまきの」、「かべ」、「おそぎ」、「なりき」、「しおぶね」は、マオリ語の

  「ヒク・タパ・タ」、HIKU-TAPA-TA(hiku=tip of a leaf,headwaters of a river;tapa=edge,margin,cut,split;ta=dash,beat,lay)、「上流の川岸が浸食されている(河原が広くなる場所)」(「ヒク」のH音が脱落して「イク」となつた)

  「カウマハキ・ノウ」、KAUMAHAKI-NOU(kaumahaki=brace,buttress;nou=belonging to)、「まるで支柱(または控え壁)で支えているような(丘陵)」(「カウマハキ」のAU音がO音に変化し、「ハ」音が脱落して「コマキ」となった)

  「カペ」、KAPE(pass by,refuse,separate)、「(傍らを)川が流れ去る(場所)」

  「オ・ト(ン)ギ」、O-TONGI(o=the place...of;tongi=point,speck,peck as a bird,nibble at bait)、「鳥がついばんだような(窪地がある。石灰岩の採掘跡)場所」

  「ナ・リキ」、NA-RIKI(na=by,belonging to;riki=small(rikiriki=be broken in pieces))、「(石灰岩の採掘によって)粉々に砕かれて・しまった(場所)」

  「チオフ・ネイ」、TIOHU-NEI(tiohu=stoop;nei=to denote proximity,to indicate continuance of action)、「身をかがめた(ような丘の中にある場所)」

の転訛と解します。

 

(20)あきる野市

 

a あきる野市

 あきる野市は、都の西部の市で、北は西多摩郡日の出町、青梅市、東は羽村市、福生市、南は八王子市、西は西多摩郡桧原村に囲まれ、多摩川の支流秋川と平井川にはさまれた秋留(あきる)台地と小丘陵および西部の山地からなっています。昭和30(1955)年東・西秋留、多西のの3村が合併して秋多町と、昭和47年市制を施行して秋川市となり、平成7年五日市町と合併してあきる野市となりました。

 市名は、中世の秋留郷にちなみます。西の桧原村の中を並行して流れる北秋川と南秋川が合流した秋川の古名は、秋留川と呼ばれていました。

 この「あきる」は、(1)洪水によって水田の畔(あぜ)が切られることから、「畔切(あきる)」川の神を祀ったのが式内社阿伎留神社であるとする説、

(2)朝鮮語「アキ(子供)・ナリ(川)」の転とする説などがあります。

 この「あきる」は、マオリ語の

  「アキ・ル」、AKI-RU(aki=dash,beat,(Hawaii)furl as sails;ru=shake,agitate,scatter)、「帆を畳んだような(並行した山の尾根がある)山地から放り出される(勢い良く流れてくる川。その川が流れる地域)」

の転訛と解します。

 

b 小川(おがわ)・草花(くさばな)・菅生(すごう)

 市南東部の多摩川と秋川にはさまれて小川地区があります。『日本霊異記』に多摩郡小河郷とあり、『延喜式』に「御牧武蔵国小川牧」とあるのがこの地区といわれます。

 多摩川と平井川にはさまれ、東西に連なる標高200〜300メートルの丘陵地帯がもと草花村で、草花丘陵と呼びます。地名は、「クサ(切替え畑の跡地)・ハナ(端、先端)」からとする説、「クサ(よもぎ)」を作っていたからとする説などがあります。

 草花丘陵の中央部、平井川の支流鯉川を遡ったところに菅生地区があります。

 この「おがわ」、「くさばな」、「すごう」は、マオリ語の

  「オ・(ン)ガワ」、O-NGAWHA(o=the...of;ngawha=burst open,overflow banks of a river)、「(川が増水すると)堤防を越えて溢水する場所」

  「クタ・パナ」、KUTA-PANA(kuta=encumbrance,clog;pana=thrust or drive away,throb)、「動悸を打っている(高低のある)邪魔物(耕作に適した土地が少ない丘陵)」

  「ツ・(ン)ガウ」、TU-NGAU(tu=stand,settle;ngau=bite,hurt,wander,go about,raise a cry)、「浸食されたところに位置する(場所)」

の転訛と解します。

 

(21)福生(ふっさ)市・熊川(くまがわ)村

 

 福生市は、都の中西部の多摩川左岸の3段の河岸段丘上にあり、北は羽村市、西多摩郡瑞穂町、東は武蔵村山市、立川市、南は昭島市、西はおおむね多摩川を隔ててあきる野市に囲まれます。中世には福生郷、江戸時代から福生村、明治26(1893)年神奈川県西多摩郡福生村から東京府へ編入、昭和15年熊川(くまがわ)村と合併して福生町、昭和45年市制を施行しています。

 この「ふっさ」は、(1)福生は、「房」村と書かれたこともあり、「総(麻の古語)」と同じで、麻が栽培されたところとする説(地名篇(その十)の千葉県の(1)総国の項を参照して下さい。)、

(2)「阜(ふ。丘、陸)・沙(さ。細かい砂のある川岸、広い原)」から、

(3)アイヌ語の「フッチ(湖の口=ほとり)」または「ブッセ(泉の湧くところ)」からとする説などがあります。

 この「くまがわ」は、(1)「クマ(曲がりくねった)・川」からとする説、

(2)朝鮮半島からの帰化人が住んだので、故郷の「熊川(クマナリ)」からとする説などがあります。

 この「ふっさ」、「くまがわ」は、マオリ語の

  「フツ・タ」、HUTU-TA(hutu=a fishing net for sea fishing made by flax;ta=dash,beat,lay,the)、「魚を捕る網を仕掛ける(場所)」または「フ・ツタ」、HU-TUTA(hu=swamp,hollow,promontory,hill;tuta=back of the neck)、「(多摩川が)狭くなった場所の裏側の・湿地(または丘陵)」

  「クマ・(ン)ガワ」、KUMA-NGAWHA((Hawaii)kuma=cracking of the skin between fingers and toes;ngawha=burst open,overflow banks of a river)、「ひびわれがあって、(川が増水すると)堤防を越えて溢水する場所」

の転訛と解します。

 

(22)立川(たちかわ)市・柴崎(しばざき)・砂川(すながわ)・向(むこう)

 

 立川市は、都のほぼ中央部の武蔵野台地南端に位置し、武蔵野・立川・青柳段丘面と南端の多摩川沖積地の上にあり、北は武蔵村山市、東大和市、小平市、東は国分寺市、国立市、南は日野市、西は福生市、昭島市二囲まれます。中世には立河(たてかわ)郷、江戸時代は柴崎(しばざき)村、明治14(1881)年に神奈川県北多摩郡立川村、明治26年東京府へ編入、大正12年町制施行、昭和15年市制施行、昭和38年砂川(すながわ)町を合併しました。

 この「たてかわ」は、(1)在地の豪族立河氏がJR立川駅の南西もと柴崎の普済寺の地に居城を構えたが、その下に川が流れていたので舘川と称したことによる、

(2)舘はアイヌ語の「チャシ(城柵)」のことでそれからきた、

(3)府中が武蔵の国府であった奈良・平安時代に府中の人々は、南北の山を「日の緯(よこ)山」と、東西に流れる多摩川を「日の経(たて)川」と呼び、経川が立川となったとする説などがあります。

 砂川町は、江戸時代に残堀川から水を引いて砂川新田を開いたことに始まります。

 市の東南の羽衣町は、古くは向(むこう)郷で、土地がやや高かつたため、対岸で洪水に悩む日野の人々に羨まれていたといいます。

 この「たてかわ」、「しばざき」、「すながわ」、「むこう」は、マオリ語の

  「タテ・カワ」、TATE-KAWA(tate,tatetate=rattle,loose or slack of lashings;kawa=heap,channel)、「流れの勢いが緩む水路(その水路の付近の地域)」

  「チパ・タキ」、TIPA-TAKI(tipa=dried up,broad,extend;taki=track,stick in(takitaki=fence,palisading))、「柵を巡らした乾燥している(場所)」

  「ツ(ン)ガ・カワ」、TUNGA-KAWA(tunga=send,circumstance of standing,site;kawa=heap,channel)、「水路(残堀川)がある場所」(「ツ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「スナ」となつた)

  「ム・コウ」、MU-KOU(mu=silent;kou=knob,stump)、「静かな切り株のような(小高い場所)」

の転訛と解します。

 

(23)昭島(あきしま)市・福島(ふくじま)村・拝島(はいじま)村

 

 昭島市は、都の西部の武蔵野台地の西端に位置し、多摩川が南端を東流し、北は福生市、北から東は立川市、南は日野市、南から西は八王子市に囲まれます。明治23(1890)年福島(ふくじま)村、多摩川の屈曲点にあって日光往還の宿場町として栄えた拝島(はいじま)村など9ケ村が組合をつくり、明治35年拝島村が独立、昭和3年全国屈指の養蚕村であった8ケ村組合が昭和村と改称、昭和16年に昭和町、昭和29年に昭和町と拝島村が合併し、それぞれ一字づつを採って昭島市となりました。

 この「ふくじま」、「はいじま」は、マオリ語の

  「フク・チマ」、HUKU-TIMA(huku=tail;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「鳥の尾が掘り散らかされた(ような洪水で浸食された場所)」

  「ハイ・チマ」、HAI-TIMA(hai=the principal stone in the game of RURU(similar to knuckle-bones);tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「(洪水が襲う)主たる目標となる、掘り散らかされた(ような洪水で浸食された場所)」

の転訛と解します。

 

(24)日野(ひの)市・百草(もぐさ)・高幡(たかはた)・豊田(とよだ)・平山(ひらやま)

 

 日野市は、都の南西部の多摩川右岸の沖積低地と日野台地、多摩丘陵の上にあり、中央部を浅川が流れます。江戸時代に甲州街道の日野宿として栄えたもと神奈川県南多摩郡日野宿村で、明治26(1893)年東京都へ編入、日野町となり、明治34年桑田村を、昭和33年七生(ななお)村を合併、昭和36年市制を施行しました。

 市名は、(1)奈良時代に日野台地に烽火(のろし)台が設けられ、「飛火野(とびひの)」と呼ばれたことから「火野」が「日野」に転じたとする説(『武蔵名勝図会』)、

(2)武蔵7党のうち西党の祖といわれた日奉(ひまつり)宗頼がその祖先の天御中主神を祀った日野宮権現に由来するとする説(『新編武蔵風土記稿』)、

(3)日野中納言資朝の玄孫、宮内資忠が応永32(1425)年に当地に移住し、土淵ノ庄を日野と称したことによるとする説などがあります。

 市の東南、多摩丘陵の山間に梅の里、百草(もぐさ。茂草とも)地区があり、その西の浅川沿岸の山裾に関東三不動の一つ高幡(たかはた)不動尊があります。

 市の南西の日野丘陵の中に豊田(とよだ)地区があり、さらにその南の浅川右岸の多摩丘陵に平山(ひらやま)地区が、左岸の日野丘陵が東平山、西平山に分かれています。平山は、在地の豪族平山氏の居城があつたからと伝えます。

 この「ひの」、「もぐさ」、「たかはた」、「とよだ」、「ひらやま」は、マオリ語の

  「ヒナウ」、HINAU((Hawaii)thin,fine as the hair)、「草がまばらに生えている(場所。「日野の渡し」の川岸一帯)」または「ピ(ン)ゴ(ン)ゴ」、PINGONGO(shrunk,thrust in)、「皺(しわ)が寄つている(土地)」(「ピ(ン)ゴ(ン)ゴ」のP音がF音を経てH音に変化し、NG音がN音に変化し、反復語尾が脱落して「ヒノ」となつた)

  「モク・タ」、MOKU-TA(moku=few,little;ta=dash,beat,lay,the)、「あまり浸食されていない(土地)」

  「タカ・パタ」、TAKA-PATA(taka=fasten a fish-hook to a line,go or pass round,lie in a heap;pata=drop of water,drip)、「川のそばの(山から)水が滴り落ちる(場所)」

  「ト・イオ・タ」、TO-IO-TA(to=be pregnant,drag,wet,calm;io=muscle,line,lock of hair;ta=dash,beat,lay)、「静かな浸食された髷(まげ)(のような土地)」

  「ピラ」、PIRARA(separated,divided,wide apart,gaping)、「(浅川をはさんで両岸に)離れている(または大きく口を開いている山の土地)」

の転訛と解します。

 

(25)八王子(はちおうじ)市

 

a 八王子市

 八王子市は、都の南西部に位置し、多摩川の支流の浅(あさ)川に沿う八王子盆地の段丘上に市街地があり、その北に加住(かすみ)丘陵、南に多摩丘陵があり、北はあきる野市、昭島市、東は日野市、多摩市、南は町田市、神奈川県津久井郡城山町、同郡津久井町、同郡相模湖町、同郡藤野町、西は西多摩郡桧原村に囲まれます。

 多摩地域最古の市で、大正6(1917)年市制施行、昭和16年南多摩郡小宮町、昭和30年同郡横山、元八王子、恩方(おんがた)、川口、加住、由井の6村、昭和34年同郡浅川町、昭和39年同郡由木村をそれぞれ合併しました。

 市名は、牛頭天王の8人の王子を祀った八王子権現を守護神とした八王子城に由来します。

 この「はちおうじ」は、マオリ語の

  「パチ・オフ・チ」、PATI-OHU-TI(pati=shallow water;ohu=surround;ti=throw,cast)、「浅い川で囲まれて放り出されている(場所)」

の転訛と解します。

 

b 上野(うえの)町・廿里(とどり)・野猿(やえん)峠・松木(まつぎ)町・鑓水(やりみず)

 市街地の中央、富士森公園の丘陵の麓に、市民会館、公民館、郷土資料館などの文化施設や古い寺院が密集する上野町があります。

 JR中央本線高尾駅の北、多摩御陵、農林水産省農林技術総合研究所のある一帯が廿里(とどり)です。地名は、(1)京都から百里あるので十十里で廿里となつたとする説、(2)京都の高雄山に対する砥取(とどり)の地名が高尾山にも持ち込まれたとする説があります。

 八王子市街地から東南へ多摩丘陵の野猿(やえん)峠を越えて大栗川沿いに下り、多摩市関戸へ抜ける道が野猿街道です。大栗川に大田川が合流するあたりが松木(まつぎ)で、その地名は江戸時代に相模川の支流の道志川で捕れた鮎が松木経由で運ばれたため、鮎継ぎ、馬継ぎと呼ばれたことによるという説があります。

 江戸中期以降栄えた八王子の絹織物・生糸産業は、天保の改革で一時衰えますが、安政6(1859)年の横浜開港を期に生糸の輸出ブームが起こり、八王子市片倉から鑓水(やりみず)峠を経て町田市田端へ抜ける「絹の道」は空前の活況を呈しました。この地名の由来は、竹槍を突き刺すようにして水を出すからといわれます。現在付近の多摩美術大学では地下300メートルから地下水を汲み上げています。

 この「うえの」、「とどり」、「やえん」、「まつぎ」、「やりみず」は、マオリ語の

  「ウ・ヘ(ン)ゴ」、U-HENGO(u=breast of a female;hengo=break wind)、「風をさえぎる乳房のような丘(富士森公園の丘)がある(場所)」(「ヘ(ン)ゴ」のH音が脱落し、NG音がN音に変化して「エノ」となった)

  「ト・トリ」、TO-TORI(to=drag,be pregnant,wet,calm;tori=cut)、「浸食されているところを(谷の中に)内蔵している(土地)」

  「イア・エネ」、IA-ENE(ia=current,indeed;ene=flatter,anus)、「実に肛門(のような地形の場所にある峠)」

  「マツ・キ」、MATU-KI(matu=cut,cut in pieces,fat;ki=full,very)、「あちこち浸食されている(場所)」

  「イア・リ・ミチ」、IA-RI-MITI(ia=current,indeed;ri=protect,screen,bind;miti=lick up(mimiti=dried up,swallowed up))、「(疲労して)喉がからからになる実に嶮しい障害物(山の中の土地)」

の転訛と解します。

 

c 高尾(たかお)山・大垂水(おおたるみ)峠・小仏(こぼとけ)峠・景信(かげのぶ)山

 市の南西部に高尾山(600メートル)があり、天平年間に行基が開創したという真言宗薬王院有喜寺があります。いくつもの尾根が集まった山で、南へは東海自然歩道が、北へは小仏峠、景信山(727メートル)を経て陣馬高原に至る裏高尾縦走路が通じています。

 甲州街道は、現在高尾山の南から大垂水峠(389メートル)を越えますが、江戸時代には高尾山と景信山の鞍部の小仏峠(548メートル)を越えていました。

 この「たかお」、「おおたるみ」、「こぼとけ」、「かげのぶ」は、マオリ語の

  「タ・カオ」、TA-KAO(ta=the...of,dash,beat,cut;kao=assembled,collected together)、「切り裂かれ(た尾根が)集まった(山)」

  「オホ・タル・ウミ」、OHO-TARU-UMI(oho=wake up,arise;taru=shake,overcome,painful;umi=(Hawaii)to strangle,throttle)、「(越えるのに)苦労して息が切れるすっくと立っている高い(峠)」

  「コウ・ポトケトケ」、KOU-POTOKETOKE(kou=knob,stump;potoketoke=gather together in a bundle)、「塊状の山(にある峠)」(「コウ」が「コ」に、「ポトケトケ」のP音がB音に変化し、反復語尾の「トケ」が脱落して、「コ・ボトケ」となった)

  「カケ・(ン)ガウ・プ」、KAKE-NGAU-PU(kake=acsend,beat to windward in sailing,climb upon;ngau=bite,hurt,attack;pu=tribe,bunch,heap)、「食いちぎられた・荷物が・高くそびえているような(山)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

の転訛と解します。

 

d 陣馬(じんば)高原・案下(あんげ)・恩方(おんがた)

 景信山の北に陣馬山(857メートル)があり、周辺の東京都と神奈川県の境の地域(狭義には陣馬山の東麓地帯)を陣馬高原と呼びます。山名は、中世に北条氏と武田氏の戦いの際、陣を張つたからとする説などがあります。

 山麓の上恩方は、中村雨紅の童謡「夕焼け小焼け」が生まれた地といい、恩方の谷を通る陣馬街道は別名「案下道」といいます。

 この「じんば」は、マオリ語の

  「チノ・パ」、TINO-PA(tino=essentiality,reality,quite;pa=stockade,blockade)、「全く(武蔵国と相模国との間の)障壁となっている(山地)」

  「ア・(ン)ゲ」、A-NGE(a=the...of,particle used before names of places;nge=thicket)、「薮の・中を行く(道)」

  「オ・ナ・カタ」、O-NA-KATA(o=the...of;na=satisfied,belonging to;kata=opening of shellfish)、「貝を口を開いたような(谷の土地)」または「オ(ン)ガ・タ」、ONGA-TA(onga=crow;ta=dash,beat,lay)、「カラスが・居る(場所)」

の転訛と解します。

 

(26)町田(まちだ)市

 

a 町田市・相之原(あいのはら)・森野(もりの)・成瀬(なるせ)・鶴間(つるま)

 町田市は、都の南端に位置し、多摩丘陵の西部にあり、鎌倉街道が南北に縦断し、ほぼ西縁を武蔵と相模の境界をなす境(さかい)川が南流、北部を鶴見川が東流、中央部を鶴見川の支流恩田川が南流し(したがつてこの地域は多摩川の流域ではなく、その地形からみると古くは都筑郡に属していた可能性があります)、北は八王子市、多摩市、東は神奈川県川崎市、横浜市、南から西は大和市、相模原市、神奈川県津久井郡城山町に囲まれます。

 大型店舗が集中する小田急線町田駅とJR横浜線町田駅あたりは、戦国時代ごろ町田村の中の牛馬を飼育する秣場(まきば)で相之原(あいのはら)と呼ばれていたのが、天正10(1582)年原町田(はらまちだ)村として分離し、町田村は本町田村となり、原町田には江戸中期から生糸・繭の市が開かれ、明治22(1889)年本町田、原町田、森野(もりの)、南大谷の4村が合併して町田村となり、大正2年町制を施行、その後南村を合併、昭和33年堺、忠生(ただお)、鶴川の3村を合併して町田市となりました。

 市の中心市街地の北東の境川沿いに森野地区があり、地名は台地の斜面に発達した森からとする説があります。

 南東には恩田川が東流して地区を中程で南北に分断する成瀬(なるせ)地区があり、地名はその川がごうごうと瀬音を立てる「鳴瀬」によるとする説、横山地区(八王子市)の豪族横山氏の子孫、鳴瀬四郎太郎がこの地に落ち着いて馬の放牧を行ったことによるとの説があります。

 市の南端には西端を境川が流れる鶴間(つるま)地区があり、昔八幡太郎義家が奥州征討の途次この地を通過して「鶴舞う里」といったことによるという説があります。

 この「まちだ」、「あいのはら」、「もりの」、「なるせ」、「つるま」は、マオリ語の

  「マチ・タ」、MATI-TA(mati,matimati=toe,finger;ta=dash,beat,lay,the)、「指(のように尾根が分かれた丘陵)が浸食されている(崩れている地域)」

  「アイ・ノ・ハラ」、AI-NO-HARA(ai=orocreate,beget;no=of;hara=cut down bush,clear)、「薮を切り開いた場所(原)にできた子供(の村)」

  「モリ・(ン)ガウ」、MORI-NGAU(mori=low,mean;ngau=bite,hurt,attack)、「(洪水に)襲われる低い(土地)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となつた)

  「(ン)ガル・テ」、NGARU-TE(ngaru=wave of the sea,corrugation;te=crack)、「(恩田川の)割れ目がある・波を打つている(土地)」(「(ン)ガル」のNG音がN音に変化して「ナル」となつた)

  「ツ・ルマイ」、TU-LUMAI(tu=stnd,settle;(Hawaii)lumai=douse,duck(rumaki=immerse,duck in the water,stoop))、「ちょっと水に潜る(浸かる)ことがある場所に位置する(土地)」(語尾の「イ」が脱落した。なお、千葉県市原市鶴舞(つるまい)、神奈川県大和市鶴間(つるま)、世田谷区弦巻(つるまき)、神奈川県秦野市鶴巻(つるまき)も同じ語源と解します。)

の転訛と解します

 

b 図師(ずし)・広袴(ひろはかま)・能ケ谷(のうがや)・金井(かない)

 市の北部の多摩丘陵の裾に図師(ずし)地区があり、承久年間(1219〜22)にこの地にあった白山権現社の別当の僧が領主に絵図を付して修理を願い出た際、その出来栄えに感激した領主が僧を「図師の法印」と呼び、社地を寄付し、付近に図師の地名がついたと伝えられます(『新編武蔵風土記稿』)。

 市の北東部の多摩丘陵の中に、真光寺川が中央を流れる広袴(ひろはかま)地区があり、地名は付近一帯の地形からといいます。

 広袴地区の南に能ケ谷(のうがや)地区があり、かつては「直ケ谷」と書かれ、「谷が北西に真っ直ぐ延びている」からとする説、「荒れ地を直して(堰をつくるなど改修して)田を作つた」からとする説があります。

 市の中心市街地の北に、三本の細長い丘にはさまれて二つの谷戸(北は金井川、南は木倉川が流れ、木倉川に沿つて鶴川街道が通ります)がある金井(かない)地区があり、「金(鉄)を井(鋳)たところ」ではないかとの説があります。

 この「ずし」、「ひろはかま」、「のうがや」、「かない」は、マオリ語の

  「ツイ・チ」、TUI-TI(tui=pierce,thread on a string,lace,sew;ti=throw,cast)、「(大路(鎌倉街道)と大路(鶴川街道)を)連結する道が・敷設されている場所(図師)」(「ツイ」の語尾のI音が脱落して「ズ」と、「チ」が「シ」となった)(神奈川県の(8)のb逗子市の項を参照してください)

  「ヒロウ・ハカ・マ」、HIROU-HAKA-MA(hirou=rake,net for dredging shellfish;haka=deformed;ma=white,clean)、「熊手で引きかかれて変形した清らかな(土地)」

  「(ン)ガウ・(ン)ガ・イア」、NGAU-NGA-IA(ngau=bite,hurt,attack,wander,raise a cry;nga=satisfied,breathe;ia=current,indeed)、「実に十分に(川によつて)浸食された(土地)」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がOU音に変化して「ノウ」と、「(ン)ガ」のNG音がG音に辺がして「ガ」となつた)

  「カ・(ン)ガイ」、KA-NGAI(ka=be lighted,burn;ngai=dried leaves of flax,tow)、「引き綱(のような川のほとり)の集落(火を燃やすところ)」(「(ン)ガイ」のNG音がN音に変化して「ナイ」となつた)

の転訛と解します。

 

(27)西多摩(にしたま)郡瑞穂(みずほ)町・箱根(はこね)ケ崎

 

 瑞穂町は、都の北西部の狭山丘陵西端部に位置し、北から東は埼玉県入間市、東は武蔵村山市、南は福生市、西は青梅市、羽村市に囲まれます。明治26(1893)年神奈川県北多摩郡から東京都に編入、昭和15年箱根(はこね)ケ崎、石畑、殿ケ谷、長岡4村が合併して豊かな農村を示す瑞穂町となりました。中世には武蔵7党の村山党の根拠地で、江戸時代には日光街道と青梅街道が交叉する箱根ケ崎に宿駅が置かれました。

 箱根ケ崎の由来は、JR八高線箱根ケ崎駅の北にかつて広大な狭山ケ池があり、「筥(はこ)の池」と呼ばれたことによる(『新編武蔵風土記稿』)とされます。

 この「はこね」は、マオリ語の

  「ハコ・ヌイ」、HAKO-NUI(hako=anything used as a scoop or shovel,straight,erect;nui=big,large,many)、「シャベル(のようなもの)で大量に土を掘つた(ような場所。池)」

の転訛と解します。

 

(28)西多摩郡日の出(ひので)町・平井(ひらい)村・大久野(おおぐの)村

 

 日の出町は、都の西部、多摩川の支流平井川の渓谷沿いの町で、西から北は青梅市、東から南はあきる野市に囲まれます。昭和30(1955)年平井(ひらい)、大久野(おおぐの)2村が合併して日の出村、昭和49年町制を施行しました。

 町名は、御岳山の東の日の出る方角にある日の出山(902メートル)にちなみます。大久野は、山奥にあることから「大奥野」と呼ばれた、大久野という修験者が社を設けたことによるなどの説があります。

 この「ひらい」、「おおぐの」は、マオリ語の

  「ヒ・ライ」、HI-RAI(hi=raise,rise;rai=ribbed,furrowed)、「高いところにあって皺(しわ)が寄っている(場所)」

  「オフ・(ン)グヌ」、OHU-NGUNU(ohu=surround;ngunu=bend,deformed,singe)、「周囲の山で焼畑を作っている(周りが焦げている土地)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」となった)

の転訛と解します。

 

(29)西多摩郡奥多摩(おくたま)町・氷川(ひかわ)・古里(こり)・小河内(おごうち)・雲取(くもとり)山・日原(にっぱら)

 

 奥多摩町は、都の最西部の関東山地の中に位置し、北は埼玉県秩父郡大滝村、秩父市、入間郡名栗村、東は青梅市、南は西多摩郡桧原村、西は山梨県北都留郡丹波山村、同郡小菅村に囲まれます。昭和30(1955)年氷川(ひかわ)町と古里(こり)村、小河内(おごうち)村が合併して奥多摩町となりました。

 町の全域が秩父多摩国立公園の区域内です。埼玉・山梨との県境にある雲取(くもとり)山(2,017メートル)は都最高峰で、深田久弥『日本百名山』の一つに選ばれ、その北に連なる白岩山、妙法ケ岳とともに三峯山とも呼ばれています。 また、奥多摩湖(小河内ダム)や、御岳(みたけ)、鳩の巣、鍾乳洞がある日原(にっぱら)渓谷など観光資源に富んでいます。

 この「ひかわ」、「こり」、「おごうち」、「くもとり」、「にっぱら」は、マオリ語の

  「ヒカ・ワ」、HIKA-WA(hika=pudenda muliebria(vulva);wa=definite place)、「多摩川と日原川に挟まれた場所(女性の会陰部に相当する場所)」

  「コリ」、KORI(native earth oven)、「自然の土の蒸し焼き穴(のような小盆地)」

  「オ・(ン)ガウ・チ」、O-NGAU-TI(o=the place of;ngau=bite,hurt,attack,wander;ti=throw,cast,overcome)、「河流に食い荒らされて放り出されている(谷)」

  「クフ・モト・リ」、KUHU-MUTO-RI(kuhu=thrust in,insert;moto=strike with the fist;ri=screen,protect,bind)、「拳骨で殴った(浸食された)谷が・奥まで入っている・衝立のような(交通の障害物である。または谷が集まっている。山」(「クフ」のH音が脱落して「クウ」から「ク」」となった)

  「ヌイ・パハラ」、NUI-PAHARA(nui=large,big,many;pahara=incomplete,deficient)、「大きな欠陥(洞窟。鍾乳洞がある土地。またその土地を流れる川)」(「ヌイ」が「ニ」に、「パハラ」の「ハ」が脱落して「パラ」となり、「ニッパラ」となった)

の転訛と解します。

 

(30)西多摩郡桧原(ひのはら)村・秋(あき)川・人里(へんぼり)・笛吹(うずしき)

 

 桧原村は、都の西端、秩父山地に位置し、秋(あき)川の源流域で、北秋川、南秋川が並行して流れ(山梨県との境に笹尾根、南秋川と北秋川との間に浅間尾根、北秋川の北に湯久保尾根の山脈が並行して走ります)、北は奥多摩町、東はあきる野市、南から西は神奈川県津久井郡藤野町、山梨県北都留郡上野原町に囲まれます。江戸時代には武蔵から甲斐へ抜ける甲州街道の裏街道として重要な交通路でした。

 村名は、(1)桧が良く生育する場所の意、

(2)日当たりの良い土地の意、

(3)桧原の領主平山氏は、日野を根拠地とする日奉一族の一つであったことによるという説などがあります。

 南秋川流域に人里(へんぼり)地区があり、(1)「丿(へつ)、丶(ほつ)」の二字を人の字に誤つたとする説、(2)モンゴル語「フンホル」または朝鮮語「クンペル」(いずれも人の住む邑の意)」からとする説などがあります。さらに同地区に笛吹(うずしき)という小地名があり、笛吹峠(山梨県北都留郡上野原町へ抜ける峠。1,098メートル)があります。

  この「ひのはら」、「あき(川)」、「へんぼり」、「うずしき」は、マオリ語の

  「ヒ(ン)ガ・ウ・パラ」、HINGA-U-PARA(hinga=fall from an errect position,be killed,lean;u=be fixed,reach the land,reach its limit;para=cut down bush,a flake of stone,blood relative)、「没落して辿り着いた一族(の定住地)」または「没落して辿り着いた開墾地」

  「アキ」、AKI(dash,beat,(Hawaii)furl as sails)、「帆を畳んだような(並行した山の尾根がある場所。そこを流れる川)」

  「ヘ(ン)ガ・ポリ」、HENGA-PORI(henga=curve from keel to gunwale of a canoe,circumstance of erring;pori=wrinkle,fold)、「カヌーの船縁のように切り立つた(山の)皺(しわ。のような場所)」(「ヘ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ヘナ」となり、「ヘン」となった。なお、類似地名として、あきる野市西部、秋川右岸に「盆堀(ぼんぼり)、ポノ・ポリ、PONO-PORI(pono=true,bountiful;pori=wrinkle,fold)、皺だらけ(の場所)」の地名がみえます。)

  「ウツ・チキ」、UTU-TIKI(utu=dip up water,spur of a hill,front part of a house,reward;tiki=fetch,proceed to do anything(tikitiki=girdle,topknot))、「水から引き揚げられた(南秋川と上野原町を流れる鶴川の間にある)帯(のような山脈。そこにある峠)」

の転訛と解します。

 

(31)伊豆(いず)国

 

 東京都に属する伊豆諸島は、かつて東海道の駿河国に属していましたが、天武9(671)年に伊豆半島の三郡とともに伊豆国に分属したものです。

 この「いず」は、マオリ語の

  「イ・ツ」、I-TU(i=beside;tu=stnd,settle)、「(富士山の)傍らに位置する(地域)」

の転訛と解します。(地名篇(その一)の2の(2)伊豆国の項を参照して下さい。)

 伊豆は、古来流刑の地として知られ、神亀1(724)年には遠流の地と定められ、保元の乱で源為朝が大島に流された後、源頼朝が伊豆配流となったのをはじめ、とくに伊豆諸島には多数の人が流されています。

 

(32)伊豆諸島

 

 伊豆諸島は、大島支庁に属する大島、利島(としま)、新島(にいじま)、式根島(しきねじま)、神津島(こうづしま)、三宅支庁に属する三宅島(みやけじま)、御蔵島(みくらじま)、八丈支庁に属する八丈島(はちじょうじま)、八丈小島、青ケ島(あおがしま)のほか、ベヨネース列岩、鳥島など多数の無人島から成っています。

 

a 大島・三原(みはら)山・波浮(はぶ)港・千波(せんば)崎

 伊豆の大島は、伊豆諸島中最大の島で、大部分は玄武岩の三重式成層活火山です。 島の中央部のカルデラは7〜8世紀ごろに噴火した二つのカルデラが合体したもので、中央火口丘は三原山(764メートル)と呼ばれ、100〜200年毎に噴火を繰り返しています。

 島の南東部にある波浮港は、9世紀中ごろ割れ目噴火によってできた池が、元禄16(1703)年の関東大地震による津波によつて海とつながってできた入り江に作られた港です。

 島の南西部にある千波崎の近くには、地層大切(おおぎり)断面と呼ばれる比高20メートルにおよぶ大きな崖があり、約1万年前からの噴出物の地層の観察ができます。

  この「みはら」、「はぶ」、「せんば」は、マオリ語の

  「ミ・パラ」、MI-PARA(mi=stream,river;para=dark-colored stone,sediment)、「黒い溶岩(玄武岩)を押し流す(山)」(「パラ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハラ」となった)

  「ハプア」、HAPUA(hollow like a valley,lagoon(hapu=pregnant))、「(断崖絶壁で囲まれた)穴のような(湾にある港)」(語尾の「ア」が脱落した)

  「テンガ・パ」、TENGA-PA(tenga=Adam's apple,extinguished;pa=block up,stockade,screen)、「目立つ垣根(のような断層崖)」(「テンガ」のNGA音がN音に、「パ」のP音がB音に変化した)

の転訛と解します。

 

b 新(にい)島・式根(しきね)島

 新島の南3キロメートルにある式根島は、かつて歩いて渡れる長く細い砂州で新島とつながっていましたが、元禄16(1703)年の関東大地震・津波で分離されました。

 この「にい」、「しきね」は、マオリ語の

  「ニヒ」、NIHI(steep)、「嶮しい(島)」

  「チキ・ヌイ」、TIKI-NUI(tiki,tikitiki=girdle,topknot;nui=big,large)、「長い帯のような砂州(で新島と結ばれている島)」

の転訛と解します。

 

c 神津(こうづ)島・天上(てんじょう)山

 神津島の島名は、伊豆半島の白浜(下田市)からみて一番上手(右)に見えることから「上津島」といわれたことによるとされます。

 島の中央部に天長10(833)年の噴火でできたドーム型の天上山(571メートル)があります。

 神津島は、その沿岸の浅い海底(海面が現在より数10〜100メートルほど低かったと推定される旧石器時代には、陸上でした)に黒曜石を産することで有名で、考古学の成果によれば、その黒曜石は旧石器時代には黒潮を横断して海を越えて関東地方から静岡県西部まで運ばれ、さらに縄文時代の末まで本土への運搬が続いていたと考えられています。

 この「こうづ」、「てんじょう」は、マオリ語の

  「コウ・ツ」、KOU-TU(kou=knob,stump,good;tu=stand,settle)、「瘤(のような山がある(島)」または「良い物(黒曜石))がある(島)」

  「テンガ・チオ」、TENGA-TIO(tenga=Adam's apple,extinguished;tio=rock oyster)、「岩牡蛎が付着した喉ぼとけ(のように膨らんだ山)」

の転訛と解します。

 

d 三宅(みやけ)島・雄(お)山・阿古(あこ)

 平成12年からの噴火および硫黄ガスの噴出が止まらないため、全島住民の避難が長期に続いている三宅島は、おもに玄武岩から成る直径8キロメートルの複式活火山の島で、中央火口丘の雄山(814メートル)および100をこえる側火口からの噴火がしばしば記録され、昭和58(1983)年の大噴火では、西海岸の阿古集落が溶岩流に呑まれています。

 島名も噴火の多い島の意味の「御焼(みやけ)島」から転訛したとの説があります。

 この「みやけ」、「お(山)」、「あこ」は、マオリ語の

  「ミ・イア・ケ」、MI-IA-KE(mi=stream,river;ia=indeed;ke=different,strange)、「非常に変わった川(溶岩流)が流れる(島)」

  「アウ」、AU(smoke,cloud,sea)、「噴煙(を上げる山)」(AU音がO音に変化して「オ」となった)

  「アコ」、AKO(split)、「裂け目(が入った土地)」または「アカウ」、AKAU(shore,rocky coast)、「(岩石の多い)海岸」

の転訛と解します。

 

e 御蔵(みくら)島

 御蔵島は、直径5キロメートルの火山島ですが、有史以来噴火の記録はありません。伊豆諸島の中では珍しく水に恵まれ、平清水(ひらしみず)川などがあり、水力発電も行われています。

 この「みくら」、「ひらしみず」は、マオリ語の

  「ミ・クラ」、MI-KURA(mi=stream,river;kura=ornamented with feathers,precious,treasure)、「貴重な宝の(ような)川(が流れる島)」

  「ヒラ・チ・ミ・ツ」、HIRA-TI-MI-TU(hira=abundant,great,important;ti=throw,cast,squeak;mi=stream,river;tu=stand,settle)、「音を立てて流れる貴重な川がある」

の転訛と解します。

 

f 八丈(はちじょう)島(沖(おき)ノ島)・凸部(とんぶ)

 八丈島は、その西部に無人の八丈小島が附属している島で、10世紀ごろまで「沖(おき)ノ島」と呼ばれていました。その後江戸時代に黄八丈が特産品となって「八丈島」と呼ぶようになったといわれます。

 この島は、西山の八丈富士(854メートル)と東山の三原山(701メートル。大島の三原山と同じ語源です。)がつながった繭型の島です。八丈富士は、コニーデ型の成層火山で、伊豆諸島中の最高峯であり、山腹には多くの凸部(とんぶ)と呼ばれる寄生火山があります。

 この「おき」、「とんぶ」は、マオリ(ハワイ)語の

  「オキ」、OKI((Hawaii)cut in two,separate)、「(かつてつながっていた八丈小島が)切り離されている(島)」(日本海に浮かぶ隠岐島と同じ語源で、おそらくは縄文海進期に西山と東山が離れた頃に命名されたものでしょう。オリエンテーション篇の3の(2)「隠岐」と関連地名の項を参照して下さい。)

  「トンガ・プ」、TONGA-PU(tonga=blemish on the skin,wart;pu=heap,bundle)、「皮膚にできたいぼ(のような高まり)」(「トンガ」のNGA音がN音に変化した)

の転訛と解します。

 

(33)小笠原(おがさわら)諸島・父(ちち)島・二見(ふたみ)湾・コペペ海岸

 

 小笠原支庁に属する小笠原諸島30余の島は、その発見者と伝えられる小笠原貞頼の姓にちなむとされていますが、古くからこの地名があったのではないかと考えます。

 小笠原諸島の中の最大の島は、父(ちち)島で、周囲は切り立った海食崖をなしており、島の北西部二見(ふたみ)湾には水深の深い天然の良港二見港が、南西部にはウミガメの産卵地である海水浴場のコペペ海岸があります。

 この「おがさわら」、「ちち」、「ふたみ」、「コペペ」は、マオリ語の

  「オ・カタ・ワラ」、O-KATA-WHARA(o=the place of;kata=laugh,opening of shellfish;whara=be struck,be eaten)、「貝が口を開けたような湾が浸食されている場所」(入門篇(その一)の2の(3)のa「カサ」地名の項を参照して下さい。)

  「チチ」、TITI(steep)、「嶮しい(島)」

  「フ・タミ」、HU-TAMI(hu=hollow,swamp,silent;tami=tamitami=openly)、「(海に向かって)開いた穴(のような湾)」

  「コペペ」、KOPEPE(in a soft mass,pliable)、「やわらかな(砂の海岸)」

の転訛と解します。

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14 神奈川県の地名

 

 神奈川県は、かつて武蔵国の橘樹郡、久良岐郡および都筑郡、ならびに相模国に属していました。

 

(1)橘樹(たちはな)郡

 

 橘樹郡は、古代から近代の郡名で、武蔵国の南部、神奈川県の東部に位置し、北は多摩川を境に多摩郡、荏原郡、東は東京湾、南は久良岐郡、相模国鎌倉郡、西は都筑郡に囲まれます。おおむね現川崎市(麻生区の一部を除く)、横浜市鶴見区、神奈川区(一部を除く)、保土ヶ谷区(一部を除く)、港北区(一部を除く)ですが、近世以降都筑郡、久良岐郡から当郡に編入された地域を含んでいます。

 『和名抄』は「太知波奈」と訓じています。

 郡名の由来は、(1)日本武尊の東征説話の日本武尊と弟橘媛を祀る橘樹神社(川崎市高津区)にちなむとする説(『新編武蔵風土記稿』など)、

(2)駿河国正税帳(正倉院文書)にみえる御贄(おにえ)橘子にちなむとする説、

(3)「タチ(台地)・ハナ(先端)」の意とする説などがあります。

 なお、「橘」の地名は、川崎市、横浜市、小田原市にもありました。

 この「たちはな」は、マオリ語の

  「タハ・チ・パ(ン)ガ」、TAHA-TI-PANGA(taha=side,edge,pass on one side;ti=throw,cast;panga=throw,lay,place)、「(多摩川およびそれに連なる海の)岸辺に・位置している・地域」(「タハ」のH音が脱落して「タ」と、「パ(ン)ガ」のP音がF音を経てH音に、NG音がN音に変化して「ハナ」となった)

の転訛と解します。

 

(2)川崎(かわさき)市

 

a 川崎市・久地(くじ)・溝口(みぞのくち)・小杉(こすぎ)・稲毛(いなげ)・平間(ひらま)

 川崎市は、県の北東端、多摩川右岸に接し、東京湾に臨む地域です。市のほとんどは橘樹郡、北西の麻生区の西部の地域は都筑郡に属しました。

 江戸時代の中心地の川崎は、多摩川の渡し場を控えた宿場町であり、川崎大師の門前町でした。市名は、(1)「川の崎(先)にできた町」の意、

(2)領主河崎基家の荘園であったことによる、

(3)陸中の河崎の柵に由来するなどの説があります。

 江戸時代には、二ケ領用水が設置され、現多摩区中野島および宿河原から多摩川の水を取水し、高津区久地(くじ)に設置された分量樋(現在は近代的な円筒分水樋に改修されています)で溝口(みぞのくち)堀、小杉(こすぎ)堀、川崎堀、根方堀の4筋に分水され、稲毛(いなげ)領(おおむね多摩区中野島以南、中原区までの多摩川沿岸地域)40ケ村、川崎領(おおむね幸区、川崎区の地域)20ケ村計60ケ村の水田を潅漑していました。

 川崎区にある川崎大師(平間寺、へいげんじ)は、大治2(1127)年源義家の家臣平間(ひらま)兼乗が夢のお告げにより海中から弘法大師木像を得て寺を興したのに始まると伝えられ、その本貫地である中世の平間(ひらま)郷は、江戸期に上平間村が稲毛領、下平間村が川崎領に属しました。

 この「かわさき」、「くじ」、「みぞのくち」、「こすぎ」、「いなげ」、「ひらま」は、マオリ語の

  「カワ・タキ」、KAWA-TAKI(kawa=channel,passage between rocks or shoals;taki=track,lead,stick in(takitaki=fence,palisading))、「川のそばの柵を巡らした(集落)」

  「クチ」、KUTI(pinch,contract)、「(多摩川と多摩丘陵の間に)挟まれた狭い(場所)」(地名篇(その二)の岩手県の(6)久慈市の項を参照して下さい。)

  「ミ・ト・ノ・クチ」、MI-TO-NO-KUTI(mi=stream,river;to=drag;no=of;kuti=pinch,contract)、「川の流れを導くもの(溝)の狭くなつたところ(口)」

  「カウ・ツ(ン)ギ」、KAU-TUNGI(kau=group,multitude,company;tungi=set a light to,kindle)、「多人数が住む集落(その集落がある土地)」(「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となり、「ツ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「ツギ」から「スギ」となつた)

  「イ・ナケ」、I-NAKE(i=beside,past tense;nake=belly of a net)、「漁網のたるんだ腹のような場所のそば一帯」

  「ヒ・ラマ」、HI-RAMA(hi=raise,draw up,rise;rama=torch,catch eels etc. by torchlight)、「松明の灯りで(木像を)拾い上げた(場所。または拾い上げた人の住む場所)」

の転訛と解します。

 

b 登戸(のぼりと)・生田(いくた)・麻生(あさお)・柿生(おきお)・王禅寺(おうぜんじ)

 多摩区の登戸は、かつての鎌倉街道の渡船場で、多摩丘陵の中を津久井往還が西進して、生田を経て麻生区を横断しています。麻生区の西部(都筑郡です)には、柿生(おきお)、王禅寺(おうぜんじ)の地があり、禅寺丸(ぜんじまる)柿の発祥の地とされます。

 登戸は、多摩丘陵の登り口にあるからという説があります。

 この「のぼりと」、「いくた」、「あさお」、「かきお」、「おうぜんじ」は、マオリ語の

  「ノ・ポリ・ト」、NO-PORI-TO(no=of,belonging to;pori=wrinkled,people;to=drag,open or shut a door or window,wet,be pregnant)、「人々が(川を渡って)出入りする場所」

  「ヒク・タ」、HIKU-TA(hiku=eaves of a house,tip of a leaf;ta=dash,beat,lay)、「家の庇(丘陵の端)が崩れている(ような地形の場所)」(「ヒク」のH音が脱落して「イク」となつた)

  「ア・タ・アウ」、A-TA-AU(a=collar-bone,perch,the...of;ta=dash,beat,lay;au=firm,intense,certainly,current,string)、「崩れた鳥の止まり木(のような地形の土地)が密にある(地域)」

  「カキ・ホウ」、KAKI-HOU(kaki=neck,throat;hou=bind,force downwards,peck holes in drill)、「(丘陵の)喉のように狭い所が連なっている(土地)」(「ホウ」のH音が脱落して「オウ」となつた)

  「オフ・テ(ン)ガ・チ」、OHU-TENGA-TI(ohu=surround;tenga=Adam's apple;ti=throw,cast,overcome)、「崩れたのどぼとけのような丘にかこまれている(地域)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」に、「テ(ン)ガ」の語尾のGA音が脱落して「テン」から「ゼン」になった)

の転訛と解します。

 

(3)久良岐(くらき)郡

 

 久良岐郡は、古代から近代の郡名で、武蔵国の南端、神奈川県の東部に位置し、北は橘樹郡、東は東京湾、南は相模国三浦郡、西は相模国鎌倉郡に囲まれます。おおむね現横浜市南区、中区、磯子区、金沢区、港南区(一部を除く)、西区(一部を除く)です。『和名抄』は「久良支」と訓じています。

 郡名は、(1)「倉城」の意で、『日本書紀』安閑元年12月条に武蔵国造笠原直使主が朝廷に倉樔ほか4屯倉を献上したとあるその「倉樔」は「倉樹」の誤りとする説、

(2)「クラ(刳る、谷、崖)・キ(処)」で崖地の意とする説があります。

 この「くらき」は、マオリ語の

  「クラ・キ」、KURA-KI(kura=ornamented with feathers,precious,treasure;ki=full,very)、「羽根で飾ったような美しいところ(山に囲まれた美しい湾入)がたくさんある(地域。東海道有数の景勝地である袖ケ浦(神奈川宿。永禄(1558〜1570年)ごろに久良岐郡から橘樹郡に編入されました)や金沢八景を含む地域)」

の転訛と解します。

 

(4)都筑(つづき)郡

 

 都筑郡は、古代から近代の郡名で、武蔵国の南部、神奈川県の東部に位置する丘陵地帯にあり、北から東は橘樹郡、南は相模国鎌倉郡、西は多摩郡に囲まれます。おおむね現横浜市緑区、旭区、港北区、青葉区、都筑区、保土ヶ谷区と川崎市麻生区の一部です。『和名抄』は「豆々支」と訓じています。

 郡名は、(1)「ツツ(障(つつ)む、包む、崖、川の曲流、山ひだ)・キ(処)」の意、

(2)「ツ(接頭語)・ツキ(尽きる、崖、高地)」の意とする説がありますが、不詳とされます。

 この「つつき」は、マオリ語の

  「ツツキ」、TUTUKI(strike against an object,stumble,reach the farthest limit,be finished)、「(川の流れで)散々に浸食された(地域)」

  または「ツツ・キ」、TUTU-KI(tutu=hoop for holding open a hand net;ki=full,very)、「手網の支柱のような(尾根がU字形の股に分かれている)地形の場所がたくさんある(地域)」

の転訛と解します。地名篇(その三)の京都府の(13)b綴喜郡の項を参照してください。(私は、現在どちらかといえば山城国綴喜郡は前者、武蔵国都筑郡は後者の解釈に傾いています。)

 

(5)横浜(よこはま)市

 

 横浜市は、県の東部、東京湾に面する県庁所在都市で、かつてはおおむね海岸に近い地域が橘樹郡および久良岐郡、内陸部が都筑郡および鎌倉郡に属していました。

 

a 鶴見(つるみ)・日吉(ひよし)・綱島(つなしま)・矢向(やこう)・小机(こづくえ)・師岡(もろおか)・駒岡(こまおか)・獅子ケ谷(ししがやつ)・寺尾(てらお)・生麦(なまむぎ)・子安(こやす)

 鶴見は、鶴見川のほとりの低地にある旧東海道の川崎宿と神奈川宿の間の立場(たてば)でした。鶴見川の左岸の奥の丘陵に日吉(ひよし)、低地の中に島のような丘陵がある綱島(つなしま)、下流の低地に洪水にしばしば悩まされた矢向(やこう)があります。右岸の低地には、かつて城があったと伝えられる小机(こづくえ)地区があり、右岸の鶴見台地にはかつて師岡(もろおか)郷に属した駒岡(こまおか)、獅子ケ谷(ししがやつ)、寺尾(てらお)などの地区があります。寺尾の地名は、関東地方最古(建武元(1334)年)の絵図(「正統庵領鶴見寺尾郷図」)にみえ、図の中央に「寺」(松蔭寺)と書かれている場所には、明治時代に能登から総持寺が移転して大伽藍を構えています。

 海岸には幕末の文久2(1862)年に島津藩士が英国人を殺傷して翌年の薩英戦争の発端となった生麦(なまむぎ)の地があり、その地名は天正18(1590)年家康公が関東入部の際、生麦を刈つて街道を開いたことによるとされますが、その季節(陰暦8月1日江戸城入城)には麦は生育しておらず、この地名は入部以前から存在したようです。

 鶴見台地が海岸にせり出した場所に子安(こやす)があります。

 この「つるみ」、「ひよし」、「つなしま」、「やこう」、「こづくえ」、「もろおか」、「こまおか」、「ししがやつ」、「てらお」、「なまむぎ」、「こやす」は、マオリ語の

  「ツル・ミ」、TURU-MI(turu,tuturu=kneel;mi=stream,river)、「膝を曲げている川(河道が河口近くでU字形に曲がっている川。その場所)」

  「ヒ・イオ・チ」、HI-IO-TI(hi=raise,rise;io=muscle,line,spur,lock of hair;ti=throw,cast,lay)、「高いところに髷(まげ)のような丘が放り出されている(場所)」(「イオ」が「ヨ」となった)

  「ツ・ナ・チマ」、TU-NA-TIMA(tu=stand,settle;na=belonging to;tima=a wooden implement for cultivating the soil)、「まるで掘り棒で(周りを)堀ったような形(島のような地形の)ところに位置する(土地)」

  「イア・カウ」、IA-KAU(ia=current,indeed;kau=alone,only,swim,wade)、「一面水浸しになる(場所)」(「カウ」のAU音がOU音に変化して「コウ」となつた)

  「コツク・アイ」、KOTUKU-AI(kotuku=white heron;ai=procreate,beget)、「白鷺が繁殖する(場所)」(「アイ」のAI音がE音に変化して「エ」となつた)

  「モロ・ホカ」、MOLO-HOKA((Hawaii)molo=turn,twist;hoka=projecting sharply upwards,pierce)、「ねじれている尾根(がある丘陵地帯)」(「ホカ」のH音が脱落して「オカ」となつた)

  「コウマ・オカ」、KOUMA-OKA(kouma=breast plate,breast bone;oka=prick,stab,split)、「胸板に穴を穿った(ような地形の場所)」

  「チチ・(ン)ガ・イア・ツ」、TITI-NGA-IA-TU(titi=peg,comb for sticking in the hair;nga=satisfied,breathe;ia=indeed,current;tu=stand,settle)、「髪に挿した櫛の歯のような谷(丘陵の中に楔状に入り込む三本の谷)の中に実にゆったりと水が流れる場所」

  「テ・ラホ」、TE-RAHO(te=the,crack;raho=platform,floor,deck)、「裂け目がある平らな床(が丘陵の上にある土地)」(「ラホ」のH音が脱落して「ラオ」となった)

  「ナ・ムア・ムキ」、NA-MUA-MUKI(na=belonging to;mua=the front(of place),in front;(Hawaii)muki=sucking noise)、「前面(の砂浜)で(波が岸を)しゃぶっているような音がする(潮騒が聞こえる海岸)」(「ムア」が「マ」に変化した)

  「コウ・イア・ツ」、KOU-IA-TU(kou=knob,stump;ia=indeed,current;tu=stand,settle)、「実にそこに丘が居座っている(場所)」

の転訛と解します。

 

b 神奈川(かながわ)・青木(あおき)町・権現(ごんげん)山・袖ヶ浦(そでがうら)・帷子(かたびら)川

 神奈川県の県名となつた東海道の神奈川宿は、江戸期に御菜浦7浦の一つである神奈川湊をもつて繁栄した宿場でした。

 神奈川(宿)の地名の由来は、(1)神奈川本宿の西の町と仲の町の間を横切る小川があり、水源が定かでないので「上無川(かみなしがわ)」といった(『江戸名所図絵』)のを略して「かながわ」というようになった(なお、この小川は、上げ潮と降雨が重なると溢れて交通止めになつたといいます)、

(2)日本武尊が東征の折り、上無川から船にお乗りになるとき、その宝剣が水面に映り金色に輝いたので、「金川(かながわ)」と名付けた、

(3)源頼朝が金川の風光を賞し、「神が大いに示す川」として「神奈川」となった、

(4)神奈川宿を構成する本宿と青木(あおき)町の間を流れる滝の川をもと「カナ川」または「カヌ川」といい、これが「神奈川」となつたとする説などがあります(『神奈川区誌』)。

 青木町の西には中世に北条早雲と上杉氏との合戦があった権現(ごんげん)山があり、東には東海道屈指の勝景地、袖ヶ浦(そでがうら)と呼ぶ入江がありました。ここが神奈川湊で、袖ヶ浦の入江には帷子(かたびら)川が流入していました。

 この「かながわ」、「あおき」、「ごんげん」、「そでが(うら)」、「かたびら」は、マオリ語の

  「カ(ン)ガ・(ン)ガワ」、KANGA-NGAWHA(kanga=ka=take fire,be lighted,burn;ngawha=burst open,split,overflow banks of a river)、「(川で南北に)分かれている集落」または「川が溢れる場所にある集落」(「カ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「カナ」と、「(ン)ガワ」のNG音がG音に変化して「ガワ」となった)

  「ハオ・キ」、HAO-KI(hao=draw a net etc. round anything,enclose,make a clean sweep of anything;ki=full,very)、「実にきれいな曲線を描いている(海岸の場所)」(「ハオ」のH音が脱落して「アオ」となった)

  「(ン)ガウ・(ン)ゲネ」、NGAU-NGENE(ngau=bite;ngene=scrofulous wen,wrinkled,fat)、「ごつごつした瘤が喰い荒らされたような(切り立つた嶮しい山)」(「(ン)ガウ」のAU音がO音に変化して「ゴ」と、「(ン)ゲネ」の語尾のE音が脱落して「ンゲン」となった)

  「タウテカ」、TAUTEKA(brace,pole on which a weight is carried between two persons)、「(二人が担いだ荷物を吊るした棒のように)たるんでいる(海岸)」(「タウテカ」のAU音がO音に変化して「トテカ」から「ソデガ」となった)(地名篇(その十)の千葉県の(11)のb袖ヶ浦市の項を参照して下さい。)

  「カタ・ピラ(ン)ガ」、KATA-PIRANGA(kata=opening of shellfish;piranga=in shoals)、「貝が口を開けたような入江に流れ込む・浅瀬の(川)」(「ピラ(ン)ガ」の語尾のNGA音が脱落して「ピラ」から「ビラ」となった)

の転訛と解します。

 

c 横浜(よこはま)・州乾(しゅうかん)湊・野毛(のげ)・本牧(ほんもく)・根岸(ねぎし)・磯子(いそご)・保土ヶ谷(ほどがや)

 袖ヶ浦の南、東海道の東に遠く離れて、大岡(おおおか)川が流入する入江の開口部を北に延びて横にさえぎる砂嘴があり、そこに小さな農漁村であった横浜(よこはま)村がありました。砂嘴の内側に州乾(しゅうかん)湊があり、その北には山を背負った畑地帯の野毛(のげ)村があり、海岸では幕末のころ牡蛎の養殖が行われていました。州乾湊は、船がかりの良い入江でしたが、次第に乾陸、埋立てが進み、安政6(1859)年神奈川(横浜)開港以来、神奈川から横浜の海岸は全くその様相を変えています。

 横浜の南には、本牧(ほんもく)岬が、その南には根岸(ねぎし)、磯子(いそご)の海岸が続いています。

 横浜の西には、東海道の宿場であった保土ヶ谷(ほどがや)があります。

 この「よこはま」、「しゅうかん」、「のげ」、「ほんもく」、「ねぎし」、「いそご」、「ほどがや」は、マオリ語の

  「イホ・カウ・ハマ」、IHO-KAU-HAMA(iho=to intensify KAU etc.;kau=swim,wade across;hama=faded,light-coloured)、「(河口、河口の三角州などの前を)横にさえぎる(徐々に海の中へ消えて行く=丈の低い)砂浜(砂州がある場所)」(「イホ」のH音が脱落して「イオ」から「ヨ」と、「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となった)

  「チ・イフ・カ(ン)ガ」、TI-IHU-KANGA(ti=throw,cast;ihu=nose;kanga=ka=take fire,be lighted,burn)、「鼻を突き出している集落(その集落のそばの港)」(「イフ」のH音が脱落し、「チ」と連結して「チイウ」から「シュウ」と、「カ(ン)ガ」の語尾のGA音が脱落して「カン」となった)

  「ノ・(ン)ゲ」、NO-NGE(no=of;nge=thicket)、「薮(で覆われた土地)」

  「ホノ・モク」、HONO-MOKU((Hawaii)hono=back of the neck,brow of a cliff,bay;(Hawaii)moku=to be cut,broken loose,district)、「突き出た崖がくずれている(場所)」

  「(ン)ゲイ(ン)ゲイ・チ」、NGEINGEI-TI(ngeingei=stretching forth;ti=throw,cast,overcome)、「長々と・(平らな浜が)延びている(場所)」(「(ン)ゲイ(ン)ゲイ」の最初のNG音がN音に、次のNG音がG音に、EI音がI音に変化して「ネギ」となった)(地名篇(その十)の東京都区部の(11)台東区のf根岸の項を参照して下さい。)

  「イ・タウ・(ン)ガウ」、I-TAU-NGAU(i=beside,past tense;tau=come to rest,lie steep in water,be suitable;ngau=raise a cry,indistinct of speech)、「(波が)ゆっくりと休みながら・低い音(潮騒)を立てている・場所一帯」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」から「ソ」と、「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

  「ホト・(ン)ガ・イア」、HOTO-NGA-IA(hoto=wooden spade;nga=satisfied,breathe;ia=current,indeed)、「潮の干満で水位が上下する(呼吸する)木製の細長い鋤のような川(その川が流れる谷)」

の転訛と解します。

 

d 金沢(かなざわ)・乙艫(おっとも)・平潟(ひらかた)湾・六浦(むつうら)・内川(うちかわ)入江

 市の最南端、金沢区に景勝地、金沢(かなざわ)八景がありました。江戸初期に水戸光圀に招かれて来日した明の僧心越禅師が中国洞庭湖の瀟湘八景にならって命名したと伝えられます。

 北から南に延びた岬の東の海に面した浜を乙艫(おっとも)といい、その岬の西側の狭い水路の奥に平潟(ひらかた)湾が、平潟湾に面して六浦(むつうら)の地があり、湾の奥の更に狭い水路の先に内川(うちかわ)入江が広がっていましたが、江戸後期以降両湾とも埋め立てが進み、歌川広重によつて描かれた「武州金沢八景」の景色は現在では全く見ることができません。

 金沢(古くは「かねさは」といった)の地名の由来には、(1)釜利谷付近で金糞が出たことによる、

(2)畠山氏と関係の深い秩父の金沢村から鍛冶匠が移住して故郷の名を付けた、

(3)「鉄(かね)沢」で鉄分で赤みを帯びた川の意などの説があります。

 この「かなざわ」、「おっとも」、「ひらかた」、「うちかわ」は、マオリ語の

  「カ・ヌイ・タハ」、KA-NUI-TAHA(ka=take fire,be lighted,burn;nui=big,large;taha=calabash with a narrow mouth)、「口の狭いひょうたんの形をした巨大な入江にある集落(またはその土地)」(「ヌイ」が「ネ」になり、後に「ナ」になった)

  「オ・トモ」、O-TOMO(o=the...of;tomo=pass in,enter,begin)、「上陸する場所(浜)」(内川入江の入口は海水の流れが渦を巻く航行の難所でしたので、この乙艫の浜が海からの出入りの場所となっていた(あるいは船をこの浜から内川入江まで陸上輸送していたかも知れません)ものと考えられます。)

  「ヒラ・カタ」、HIRA-KATA(hira=great,important,widespread;kata=opening of shellfish)、「大きくて重要な(六浦の地に接する)貝が口を開けたような入り江」

  「ムツ・ウラ(ン)ガ」、MUTU-URANGA(mutu=finished,end;uranga=place of arrival,circumstance of becoming firm)、「(平潟湾の奥の)最終の船付き場(のある土地)」(「ウラ(ン)ガ」の語尾の「(ン)ガ」が脱落して「ウラ」となつた)

  「ウフ・チ・カワ」、UHU-TI-KAWA(uhu=cramp,stiffness;ti=throw,cast;kawa=channel,passage between rocks or shoals,reef of rocks)、「痙攣が走る(急な流れがある)水路」(「ウフ」のH音が脱落して「ウ」となった)

の転訛と解します。

 

(6) 相模(さがみ)国

 

 相模国は、東海道に属した旧国で、大化改新前は西部(酒匂川流域)に師長(しなが)国造、中部(相模川流域)に相武国造、東部(鎌倉・三浦郡辺)に鎌倉別(わけ)が存在したようで、足上、足下、余綾(よろき。後に淘綾(ゆるき))、大住、愛甲(あゆかわ。後にあいこう)、高座(たかくら。後にこうざ)、鎌倉、御浦(みうら)の8郡に、中世以降津久井県(つくいがた)を加えた9郡がありました。

 『古事記』は本文に「相武国」、歌に「佐賀牟(さがむ)」と記し、『和名抄』は「佐加三(さかみ)」と訓じています。

 相模の語源は、(1)足柄箱根から見下ろす「坂見」の国(『倭訓栞』)、

(2)足柄二郡は山で、平地が少ないことから「峻上(さかがみ)」(『類聚名物考』)、

(3)「身狭上(牟佐上。むさかみ)」からなどの説があります。(入門篇(その二)の「cサガ地名の(a)相模」の項を参照して下さい。)

 この「さがむ」、「さかみ」は、マオリ語の

  「タ(ン)ガ・アム」、TANGA-AMU(tanga=be assembled,row,company of persons;amu=grumble,complain)、「(大和朝廷に)不平を持つ(輩が)・集まつている(地域)」(「タ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「タガ」から「サガ」となった)

  「タカ・アミ」、TAKA-AMI(taka=heap,heap up,collect into heaps;ami=gather,collect)、「山が集まって高くなつている(地域。丹沢山塊を中心とする地域)」

の転訛と解します。

 なお、甲斐国都留郡相模郷の相模を『和名抄』(高山寺本)は「左加无乃(さかむの)」と訓じており、この「さかむの」は、マオリ語の

  「タカ・ム・ヌイ」、TAKA-MU-NUI(taka=heap,heap up,collect into heaps;mu=silent;nui=big,large,numerous)、「非常に静かな山々(がある地域)」(「ヌイ」が「ノ」に変化した)

の転訛と解します。

 

(7)鎌倉(かまくら)郡

 

 鎌倉郡は、古代から近代の郡名で、相模国の南東部、神奈川県の東部に位置する丘陵地帯にあり、北は武蔵国多摩郡、都筑郡、橘樹郡、東は久良岐郡、南は相模国御浦郡と相模湾、西は高座郡に囲まれます。おおむね現鎌倉市、横浜市瀬谷区、泉区、戸塚区、栄区、港南区の一部、藤沢市の一部です。『和名抄』は「加末久良」と訓じています。

 「かまくら」の語源は、(1)地形が竈(かまど)に似て、谷が発達しているところから、

(2)「カマ(洞穴、河底のくぼみ)・クラ(岩)」の意、

(3)「カマ(崖)・クラ(崖)」の意、

(4)「カマ(鎌形に曲がった地形の土地)・クラ(洞穴)」の意などの説があります。

 この「かまくら」は、マオリ語の

  「カ・マクラ」、KA-MAKURA(ka=take fire,place of abode;makura=light red)、「(丘の尾根にある洞穴が)赤く照らされている居住地」または「カハ・マクラ」、KAHA-MAKURA(kaha=rope,edge,ridge of a hill;makura=light red)、「丘の尾根(にある洞穴)が赤く灯で照されている(場所)」(「カハ」の語尾の「ハ」が脱落して「カ」となった)

の転訛と解します。もちろん、秋田県など雪国で雪室をつくり、中で子供達が餅を焼いて楽しむ「かまくら」も同じ語源です。

 

a 鎌倉市・谷(やつ)・名越(なごえ)・巨福呂(こぶくろ)坂・亀(かめ)ガ谷坂・化粧(けわい)坂・極楽寺(ごくらくじ)坂・滑(なめり)川・由比(ゆい)ヶ浜・和賀江(わがえ)島・稲村(いなむら)ケ崎

 三浦半島北端の相模湾に面した鎌倉は、50〜100メートルの起伏に富んだ丘陵に三方を囲まれ、一方は海で、かつては陸上からの出入りは嶮しい七口といわれた切通し以外に通路がなかった難攻不落の要害の地で、鎌倉幕府、室町幕府の鎌倉御所が置かれました。ここには「谷(やつ。またはやと)」が多く、崖には洞穴が多く掘り込まれています。七口は、東から名越(なごえ)、朝比奈、巨福呂(こぶくろ)坂、亀(かめ)ガ谷坂、化粧(けわい)坂、大仏坂、極楽寺(ごくらくじ)坂の切通しです。

 鎌倉の市街地中央を滑(なめり)川が流れます。この河口は、由比(ゆい)ヶ浜の砂が海流で押し寄せられて、波打ち際の河口が非常に細くなっています。

 由比ヶ浜の東には、かつて船着き場の突堤として造成したものの、大波に破壊されて島となつたという和賀江(わがえ)島が、西には稲村(いなむら)ケ崎があり、その西に七里(しちり)ヶ浜が続いています。 

 この「やつ」、「なごえ」、「こぶくろ」、「かめがや」、「けわい」、「ごくらくじ」、「なめり」、「ゆい」、「わがえ」、「いなむら」は、マオリ語の

  「イア・ツ」、IA-TU(ia=current;tu=stand,be wounded)、「水流で浸食された(谷)」または「水が流れるところ(谷)」

  「ナ・(ン)ガウエ」、NA-NGAUE(na=belonging to;ngaue=shake)、「(あまりの嶮しさに)身体が震える(坂)」(「(ン)ガウエ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴエ」となつた)

  「コプク・ロ」、KOPUKU-RO(kopuku=gunwale;ro=roto=inside)、「船縁(ふなべり)の内側(のような急傾斜地を登る坂)」

  「カメ・(ン)ガ・イア」、KAME-NGA-IA(kame=eat,food;nga=satisfied,breathe;ia=indeed,current)、「実に完全に(岩山を)喰いちぎつた(切通しをつくつた場所)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となつた)

  「ケ・ワヒ」、KE-WAHI(ke=strange,different;wahi=break open,split)、「異様な(山を)切り割った(坂道。切通し)」(「ワヒ」のH音が脱落して「ワイ」となった。大磯町の東部の旧東海道の化粧(けわい)坂も同じ語源と解します。)(地名篇(その一)の2の(3)のh鎌倉の項を参照して下さい。)

  「(ン)ガウ・クラ・クチ」、NGAU-KURA-KUTI(ngau=bite,hurt,attack;kura=precious,ornamented with feathers;kuti=pinch,contract)、「(山の中の)浸食された(周りを山で囲まれた)狭い平地(およびその平地へ抜ける坂)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化し「ゴ」となつた)

  「ナ・メリ」、NA-MERI(na=by,made by,belonging to;meri=enclose)、「(河口が)塞がる(川)」(地名篇(その一)の2の(3)のh鎌倉の項を参照して下さい。)

  「イ・ウヒウヒ」、I-UWHIUWHI(i=beside;uwhiuwhi=sprinkle)、「(波が海岸の岩に砕けて)水しぶきをあげる海岸のそば」(「ウヒウヒ」の同音反復の語尾の「ウヒ」が脱落して、「イ・ウヒ」が「ユヒ」となり、「ユイ」となった)(地名篇(その一)の2の(3)のh鎌倉の項を参照して下さい。)

  「ワ・(ン)ガエ」、WA-NGAE(wa=definite space;ngae=wheeze(ngaehe=rustle,tide))、「(潮流に襲われて)ぜいぜいと苦しんでいる(島)」または「ワ(ン)ガ・ヘ」、WHANGA-HE(whanga=bay;he=wrong,mistaken,in trouble or difficulty)、「湾の(中にある)場違いもの(の島)」(「ワ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ワガ」と、「ヘ」のH音が脱落して「エ」となった)

  「ヒ(ン)ガ・ムフ・ラ」、HINGA-MUHU-RA(hinga=fall from an errect position,be killed,lean;muhu=grope,push one's way through bushes;ra=wed)、「手探りでしか進めない鬱蒼とした茂みが連なっている高い山の尾根から急激に(海へ)落ち込んでいる(岬)」(「ヒ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がN音に変化して「イナ」と、「ムフ」のH音が脱落して「ム」となつた)

の転訛と解します。

 

b 瀬谷(せや)・柏尾(かしお)川・戸塚(とつか)・田谷(たや)の瑜伽(ゆか)洞・大船(おおふな)・七里(しちり)ケ浜・小動(こゆるぎ)崎・江(え)ノ島

 鎌倉の北部の丘陵地帯には、横浜市の瀬谷(せや)や、柏尾(かしお)川の発達した浸食谷には、東海道の宿場町として栄えた戸塚(とつか)、弘法大師像をはじめ多数の仏像が安置されている田谷(たや)の瑜伽(ゆか)洞、鎌倉市の大船(おおふな)などがあります。

 稲村が崎の西には、小動(こゆるぎ)崎までの間に七里(しちり)ケ浜があり、境川の河口には、陸繋島の江ノ島(江ノ島は現藤沢市ですが、かつては鎌倉郡でしたので、ここで解説します)があります。

 この「せや」、「かしお」、「とつか」、「たや」、「ゆか」、「おおふな」、「しちり」、「こゆるぎ」、「えの」は、マオリ語の

  「テ・イア」、TE-IA(te=crack;ia=indeed,current)、「川の流れる割れ目(谷)」または「タイ・イア」、TAI-IA(tai=tide,wave,anger;ia=indeed,current)、「暴れる川(の流れる谷)」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

  「タウ・ツカツカ」、TAU-TUKATUKA(tau=come to rest,float,be suitable,beautiful;tukatuka=start up,proceed forward)、「ゆつたりと流れて行く(川のそばの土地)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」となり、「ツカツカ」の反復語尾の「ツカ」が脱落した)

  「カチ・アウ」、KATI-AU(kati=bite,nip;au=current)、「(大地を)浸食する川」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」となった)

  「タ・イア」、TA-IA(ta=dash,beat,lay;ia=indeed,current)、「川が襲った(浸食した場所)」

  「イ・ウカ」、I-UKA(i=beside,past tense;uka=be fixed)、「(仏像を)安置した(洞穴)」(「イ」と「ウカ」の語頭の「ウ」が連結して「ユ」となつた)

  「オフ・フナ」、OHU-HUNA(ohu=surround;huna=conceal,destroy,devastate)、「荒れ地に囲まれている(土地)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」となつた)

  「チチ・リ」、TITI-RI(titi=peg,be fastened with pegs,comb for sticking in the hair,long streaks of cloud;ri=bind,protect)、「(稲村ケ崎と小動(こゆるぎ)崎という二つの杭に)結びつけられた長い雲の帯のような(砂浜)」

  「コイ・ウル(ン)ギ」、KOI-URUNGI(koi=headland,sharp;urungi=rudder,steering paddle)、「舵(かじ)のような岬」(「コイ」のI音と「ウル(ン)ギ」の語頭のU音が結合して「ユ」となり、「ル(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「ルギ」となつた)

  「ヘ・ノ」、HE-NO(he=wrong,mistaken,troublous;no=of)、「(長く続く単調な砂浜の中にあって)場違いな(嶮しい岩場のある島)」(「ヘ」のH音が脱落して「エ」となつた)または「アイ・ノ」、AI-NO(ai=procreate,beget;no=of)、「(境川が)産み落とした子供の(島)」(「アイ」のAI音がE音に変化して「エ」となつた)

の転訛と解します。

 

(8)御浦(みうら)郡

 

 御浦郡は、古代から近代の郡名で、相模国の南東端に位置し、北は武蔵国久良岐郡と相模国鎌倉郡、東・南・西を海に囲まれ、東西約8キロメートル、南北約20キロメートルと細長く、東京湾と相模湾を仕切る三浦半島を占めています。おおむね現横須賀市、逗子市、三浦市、葉山町です。『和名抄』は「美宇良」と訓じています。

 御浦の由来は、(1)東京湾の内浦、相模湾側の西浦、浦賀水道側の下(しも)浦の三つの浦から、

(2)「ミ(美称)・ウラ(海岸・港)」の意、

(3)日本武尊がここから乗船した貴い地にちなむなどの説があります。

 この「みうら」は、マオリ語の

  「ミ・ウラ(ン)ガ」、MI-URANGA(mi=stream,river;uranga=place of arrival,circumstance of becoming firm)、「川(のような海峡)に面して船の発着する場所(浦)がある(半島)」(「ウラ(ン)ガ」の語尾の「(ン)ガ」が脱落して「ウラ」となった)

の転訛と解します。

 

a 横須賀(よこすか)市・追浜(おっぱま)・走水(はしりみず)・観音(かんのん)崎・浦賀(うらが)・久里浜(くりはま)・平作(ひらさく)川・衣笠(きぬがさ)山

 横須賀市は、県東南部、三浦半島の中央部を占めます。北東部と浦賀半島の沿岸にリアス式海岸が発達し、内陸部は丘陵性の台地や谷が多くあります。

 市の北部の海岸にはもと海軍航空隊敷地で工業地帯となつた追浜(おっぱま)、南部には弟橘姫伝説の舞台、走水(はしりみず)が、半島最東端には観音(かんのん)崎が、その南には幕末の嘉永6(1853)年にペリーが来航した浦賀(うらが)港、ペリー上陸地の久里浜(くりはま)港があります。

 市のほぼ中央部を平作(ひらさく)川が流れ、川に沿って古東海道が通り、近くには三浦氏の居城であった衣笠(きぬがさ)山があります。

 市名は、中世以来の郷名に由来し、須賀(砂地、砂浜)の横を意味するとされます。

 この「よこすか」、「おっぱま」、「はしりみず」、「かんのん」、「うらが」、「くりはま」、「ひらさく」、「きぬがさ」は、マオリ語の

  「イホ・カウ・ツカリ」、IHO-KAU-TUKARI(iho=to intensify KAU etc.;kau=swim,wade across;tukari=dig and throw up into hillocks,wooden spade)、「(河口、河口の三角州、海岸の前の海の中を)横にさえぎる砂丘(がある場所)」(「イホ」のH音が脱落して「イオ」から「ヨ」と、「カウ」のAU音がO音に変化して「コ」となり、「ツカリ」の語尾の「リ」が脱落した)

  「オ・ツパ・マ」、O-TUPA-MA(o=the...of,belonging to;tupa=dried up,barren,flat;ma=white,clean)、「平らな清らかな場所」

  「ハ・チリ・ミ・ツ」、HA-TIRI-MI-TU(ha=what!;tiri=throw a present before one,scatter,remove TAPU from anything;mi=stream,river;tu=stand,settle)、「なんと(海神の怒りを鎮めるために弟橘姫が)入水した潮流が流れる(場所)」

  「カネ・オノ」、KANE-ONO(kane=head;ono=plant root crops)、「大地に根を生やした頭(のような岬)」

  「ウラ(ン)ガ」、URANGA(place of arrival,circumstance of becomibg firm)、「船が発着する場所(浦がある場所)」(「ウラ(ン)ガ」のNG音のN音が脱落して「ウラガ」となった)

  「クリ・ハマ」、KURI-HAMA((Hawaii)kuli=knee;hama=faded)、「膝(二つの岬)で抱え込まれた浜(のある場所)」

  「ヒラ・タク」、HIRA-TAKU(hira=great,important,widespread;taku=edge,hollow)、「大きな穴(のような盆地。そこを流れる川)」

  「キ・ヌイ・カタ」、KI-NUI-KATA(ki=to of place,into,upon;nui=big,large;kata=opening of shellfish)、「大きく貝が口を開けたような場所(盆地。そこにある山)」

の転訛と解します。

 

b 逗子(ずし)市・池子(いけご)・披露(ひろう)山

 逗子市は、三浦半島北西部の相模湾に面し、内陸の丘陵部にはもと弾薬庫のあった池子(いけご)地区があり、逗子湾の北には縄文遺跡がある披露(ひろう)山公園があります。

 逗子の市名は、(1)延命寺の伝行基作の延命地蔵尊を安置する厨子(ずし)に由来する(『新編相模国風土記稿』)、

(2)天正年間(1573〜92年)荘園に属する図師が住んでいたから、

(3)中世・近世の都市の大路と大路を連絡する小路をいう。

(4)「辻子(ずし。町の道路が交わる辻)」からなどの説があります。

 この「ずし」、「いけご」、「ひろう」は、マオリ語の

  「ツイ・チ」、TUI-TI(tui=pierce,thread on a string,lace,sew;ti=throw,cast)、「(大路(古東海道)と大路(安房国へ渡る走水の地へ通ずる路)を)連結する道が・敷設されている場所(逗子)」(「ツイ」の語尾のI音が脱落して「ズ」と、「チ」が「シ」となった)(東京都市部の(26)町田市のb図師(ずし)の項を参照してください)

  「イケ・(ン)ガウ」、IKE-NGAU(ike=high,strike with a hammer or other heavy instrument;ngau=bite,hurt,attack)、「(丘を)ハンマーで叩きこわした(ような場所)」(「(ン)ガウ」のNG音がG音に、AU音がO音に変化して「ゴ」となった)

  「ピラウ」、PIRAU(rotten,extinguished,decay)、「崩れた(山)」(P音がF音を経てH音に、AU音がOU音に変化して「ヒロウ」となった)

の転訛と解します。

 

c 三浦(みうら)市・城ケ島(じょうがしま)・下浦(しもうら)・油壷(あぶらつぼ)・小網代(こあじろ)湾・初声(はつせ)

 三浦市は、三浦半島の南端に位置し、中心部の三崎(みさき)には幕末に海上防衛の拠点として陣屋が、三崎港の前に横たわる城ケ島(じょうがしま)には狼煙台および砲台が設置されました。

 市の南から西は、リアス式海岸が発達し、南はもと下浦(しもうら)村の地域、西には油壷(あぶらつぼ)や、小網代(こあじろ)湾の景勝地があり、その北はもと初声(はつせ)村の地域でした。

 市名は、三方が海に面していることにちなむとされます。

 この「じょうがしま」、「しもうら」、「あぶらつぼ」、「こあじろ」、「はつせ」は、マオリ語の

  「チオフ・(ン)ガ」、TIOHU-NGA(tiohu=stoop;nga=satisfied,breathe)、「(三崎港の前に)どっしりとうずくまっている(島)」(「チオフ」のH音が脱落して「チオウ」から「ジョウ」となった)

  「チモ・ウラ(ン)ガ」、TIMO-URANGA(timo=peck,a bludgeon with a knob having a point on one side;uranga=place of arrival,circumstance of becoming firm)、「先端に突起をもつふくらみがある棍棒(のような地形の場所)の船着き場(浦。その浦がある土地)」(「ウラ(ン)ガ」の語尾の「(ン)ガ」が脱落して「ウラ」となった)

  「ア・プラ・ツポウ」、A-PURANGA-TUPOU(a=the...of,belonging to;pura=any small foreign substance in the eye,blind,twinkle;tupou=bow the head,fall or throw oneself headlong,steep)、「(眼の中にごみが入ったので)下を向いて・眼をしばたたせている・ような(湾。その場所)」または「アプ・ルア・ツポ」、APU-RUA-TUPO(apu=burrow,gather into the hand,heap upon;rua=two,hole,grave;tupo=ill omen,gruesome;rua tupo=a cave in which the bones of the dead are deposited after the flesh has decayed,a hole in the ground over which incantation were performed for the purpose of the destroying one's enemies)、「死者の遺骨を収蔵する洞穴が集まっている(場所)」

  「コア・チラウ」、KOA-TIRAU(koa=indeed,however;tirau=stick,pick root crops,out of the groundwith a stick)、「実に(草木の)根を掘り出して捨てた跡のような(湾)」(「チラウ」のAU音がO音に変化して「チロ」となった)(地名篇(その十)の千葉県の(18)夷隅郡のb網代湾の項を参照して下さい。)

  「パ・ツタイ」、PA-TUTAI(pa=stockade,fortified place;tutai=watch,spy,sentry)、「柵を巡らした見張り(魚群または敵の襲来の探知)をする集落(その集落がある場所)」(「パ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハ」と、「ツタイ」のAI音がE音に変化して「ツテ」から「ツセ」となった)

の転訛と解します。

 

d 葉山(はやま)町・鐙摺(あぶずる)港

 葉山町は、三浦半島北西部に位置し、海岸は出入りが多く、砂浜や磯浜の変化に富む景勝の保養地です。町名は、半島の「端(はし)山」からとされます。

 町の北端の逗子湾に面して日本のヨット競技発祥の地鐙摺(あぶずる)港があり、源頼朝が三浦義澄に招かれて三崎に赴くとき、鐙摺城があった旗立山が海に迫る嶮しく狭い道で、馬の鐙(あぶみ)が岩の摺れたことにちなんで命名されたといいます。

 この「はやま」、「あぶずる」は、マオリ語の

  「パイア・マ」、PAIA-MA(paia=pa=stockade,fortified place;ma=white,clean)、「柵を巡らした清らかな集落(その集落がある場所)」(「パイア」のP音がF音を経てH音に変化して「ハヤ」となつた)

  「アプ・ツル」、APU-TURU(apu=burrow,gather into the hand,heap upon;turu=pole,upright)、「垂直に高くなっている(山。そのそばの港)」

の転訛と解します。

 

(9)高座(こうざ)郡

 

 高座郡は、古代から近代の郡名で、相模国の東部、北端から南端まで細長く続き、神奈川県の中部に位置する丘陵地帯にあり、北は武蔵国多摩郡、東は鎌倉郡、南は相模湾、西は津久井郡、愛甲郡、大住郡に囲まれます。東の鎌倉郡との境を境(さかい)川(旧高座川)、西の愛甲郡、大住郡との境を相模川が流れます。おおむね相模原市、座間市、大和市、海老名市、綾瀬市、茅ヶ崎市、藤沢市(東南の境川左岸の地区を除く)、寒川町の地域です。

 『日本書紀』天武紀4年10月20日条には「高倉郡」とあり、『和名抄』は「太加久良」と訓じています。

 この「たかくら」は、マオリ語の

  「タ・カク・ラ」、TA-KAKU-RA(ta=the,dash,beat,lay;kaku=scrape up,bruise;ra=wed)、「表面を削られて浸食された場所が連なっている(地域)」

の転訛と解します。

 

a 相模原(さがみはら)市・鳩(はと)川・橋本(はしもと)・淵野辺(ふちのべ)

 相模原市は、県の北部、相模原台地北部、相模川左岸に位置し、相模川とほぼ並行して鳩(はと)川が南流し、北西端には橋本(はしもと)が、北部には地下水による水田開発が行われた淵野辺(ふちのべ)があります。市名は、相模原台地にちなみます。

 この「はと」、「はしもと」、「ふちのべ」は、マオリ語の

  「パト」、PATO(crack)、「割れ目(川)」(P音がF音を経てH音に変化して「ハト」となった)

  「パチ・モト」、PATI-MOTO(pati=shallow water,ooze,break wind;moto=strike with the fist)、「拳で殴られたように浸食されている水の湧き出る(場所)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハチ」から「ハシ」となった)

  「フチ・ノペ」、HUTI-NOPE(huti=pull up;nope=constricted)、「引き上げられて圧縮された(土地)」

の転訛と解します。

 

b 座間(ざま)市・伊参(いさま)・大和(やまと)市・鶴間(つるま)・海老名(えびな)市・綾瀬(あやせ)市・目久尻(めくじり)川・蓼(たで)川・比留(ひる)川・引地(ひきじ)川

 座間市は、相模川左岸、相模原市の南に隣接し、中心地は八王子街道の宿場町でした。

 市名は中世以来の座間郷により、その由来は(1)東海道の伊参(いさま)駅が「伊佐間」となり、のちに「伊」を除いて「ザマ」となつた(『新編相模国風土記稿』)、

(2)高座郡の「中の間(ま。小平地)の集落」の意とする説があります。

 大和市は、相模原台地の東端、相模原市の南、座間市・綾瀬市の東に隣接し、東は境川を境に横浜市と接し、市名は「大きく和する」意を込めたものです。古くから交通の要衝で、南北に鎌倉街道、東西に大山街道が通じ、交点の鶴間は宿場町として栄えました。

 海老名市は、相模川の左岸、座間市の南に隣接し、東部は相模原台地、西部は沖積低地です。

 市名は、(1)大きな海老が生息していたから、

(2)相模川が海老のように曲流していたからとする説があります。

 かつては国府が置かれ、国分寺・国分尼寺跡もあります。

 綾瀬市は、相模原台地の南部、座間市の南、海老名市の東、大和市の西に隣接し、市内の西部に相模川支流の目久尻(めくじり)川、中部に蓼(たて)川、東部に比留(ひる)川(綾瀬市の南端で蓼川と比留川が合流して引地(ひきじ)川となり、藤沢市を流れて相模湾に注ぎます。)が流れます。

 市名は、(1)これらの川が「綾をなして美しく流れる」ところから、

(2)蓼川の別名「綾瀬川」によるとの説があります。

 この「ざま」、「いさま」、「つるま」、「えびな」、「あやせ」、「めくじり」、「たで」、「ひる」、「ひきじ」は、マオリ語の

  「タ・アマ」、TA-AMA(ta=the,dash,beat,lay;ama=outrigger of a canoe)、「カヌーのアウトリガー(のような丘陵)がある(場所)」(「タ」のA音と「アマ」の語頭のA音が重複して後者が脱落し、「タ・マ」から「サ・マ」となり、濁音化した)

  「イツ・アマ」、ITU-AMA(itu=side;ama=outrigger of a canoe)、「カヌーのアウトリガー(のような丘陵)のそば(の場所)」(「イツ」の「ツ」と「アマ」の「ア」が結合して「タ」から「サ」となった)

  「ツ・ルマイ」、TU-LUMAI(tu=stnd,settle;(Hawaii)lumai=douse,duck(rumaki=immerse,duck in the water,stoop))、「ちょっと水に潜る(浸かる)ことがある場所に位置する(土地)」(語尾の「イ」が脱落した。なお、千葉県市原市鶴舞(つるまい)、東京都町田市鶴間(つるま)、世田谷区弦巻(つるまき)、神奈川県秦野市鶴巻(つるまき)も同じ語源と解します。)

  「エ・ピ(ン)ガ(ン)ガ」、E-PINGANGA(e=to denote action in progress or temporary condition;pinganga=lean,shrunk(pinaki=sloping gently))、「(ゆるやかに)傾斜している(土地)」(「ピ(ン)ガ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ピナナ」となり、反復語尾が脱落して「ピナ」となつた)

  「ア・イア・タイ」、A-IA-TAI(a=the...of,urge,drive,collect;ia=current,indeed;tai=tide,wave,anger)、「怒って暴れまくる川」(「タイ」のAI音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

  「マイ・クチ・リ」、MAI-KUTI-RI(mai=to indicate direction or motion towards;kuti=pinch,contract;ri=protect,bind)、「(相模川との間隔を)徐々に狭めて(最後に)合流する(川)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となつた)

  「タ・テ」、TA-TE(ta=the,dash,beat,lay;te=crack)、「(降雨があると増水して)突進してくる裂け目(川)」

  「ヒ・ル」、HI-RU(hi=raise,rise;ru=shake,scatter)、「(降雨があると)増水して震動する(暴れる川)」

  「ピキ・チ」、PIKI-TI(piki=support in a duel,come to the rescue of;ti=throw,cast)、「(東を流れる境川を)援助するように横たわっている(最後まで並行して流れる川)」(「ピキ」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒキ」となつた)

の転訛と解します。

 

c 寒川(さむかわ)町・藤沢(ふじさわ)市・鵠沼(くげぬま)・辻堂(つじどう)・茅ヶ崎(ちがさき)市

 寒川町は、相模川下流左岸の低地にあり、海老名市の南に隣接し、町名は相模国一宮の寒川神社に由来します。『和名抄』は「左无加八・佐无加波」と訓じています。

 藤沢市は、相模原台地の南部から相模湾の砂丘地帯にいたる地域にあり、北は綾瀬市、東は横浜市、鎌倉市、南は相模湾、西は茅ヶ崎市に隣接します。

 市名は、(1)淵沢(ふちのさわ)の転訛、

(2)藤の自生する沢が多かったからとの説があります。

 市の南部には、鵠沼、辻堂の地があります。

 茅ヶ崎市は、相模川左岸河口にあり、北東部は相模原台地の南西部、南部は海岸砂丘地に位置し、藤沢市の西に隣接します。

 市名は、中世以来の郷名で、千(ち)ノ川の崎に茅が生えている地形にちなんだものとされます。

 この「さむかわ」、「ふちのさわ」、「くげぬま」、「つじどう」、「ちがさき」は、マオリ語の

  「タムイ・カワ」、TAMUI-KAWA(tamui,tamuimui=throng,croud around;kawa=reef of rocks,channel,passage between rocks or shoals)、「(船着き場があつて)人々が群集する・水路(そのほとりの土地)」(「タムイ」のUI音がU音に変化して「タム」から「サム」となった)

  「フチ・ノ・タワ」、HUTI-NO-TAWHA(huti=pull up;no=of;tawha=burst open,crack)、「開けている高台」

  「ク(ン)ゲ(ン)ゲ・ヌイ・マ」、KUNGENGE-NUI-MA(kungenge=wrinkled,puckered)、「大きな皺(しわ)が寄っている清らかな(場所)」(「ク(ン)ゲ(ン)ゲ」のNG音がG音に変化し、反復語尾が脱落して「クゲ」となった)

  「ツ・ウチ・トウ」、TU-UTI-TOU(tu=stand,settle;uti=bite;tou=dip into a liquid,wet)、「(水に浸かっている)波が寄せてくる浸食を受けた場所にある(土地)」(「ウチ」のU音が脱落した)

  「チ・ヒ(ン)ガ・タキ」、TI-HINGA-TAKI(ti=throw,cast;hinga=fall from an errect position,lean;taki=track,lead,stick in(takitaki=fence,palisading))、「傾斜地に放り出されている柵を巡らした(場所)」(「ヒ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がG音に変化して「ガ」となつた)

の転訛と解します。

 

(10)津久井(つくい)郡

 

 津久井郡は、近世から現代の郡名で、古くは高座郡または愛甲郡の津久井領、津久井県といい、明治3(1870)年から津久井郡となりました。神奈川県の北西部に位置し、丹沢山地の山間部に位置し、北は武蔵国多摩郡、東は相模国高座郡、南は愛甲郡、足柄上郡、西は甲斐国に囲まれます。北部を東西に相模川が流れ、城山町川尻で南流して高座郡との境をなします。おおむね現津久井郡(藤野町、相模湖町、津久井町、城山町)の区域です。

 津久井の地名は、鎌倉初期に津久井為行が城山に津久井城を築いて知行したことによるとされます。

 この「つくい」は、マオリ語の

  「ツ・クイ」、TU-KUI(tu=stand,settle;kui,kuinga=small stream,source of a stream)、「(相模川の)上流に位置する(地域)」

の転訛と解します。

 

a 藤野(ふじの)町・道志(どうし)川・与瀬(よせ)・寸沢嵐(すあらし)

 藤野(ふじの)町は、県の北西端、陣場山の南にあり、北部に相模湖、南端に相模川支流の道志(どうし)川が流れます。町名は、もと甲州街道の宿場町であった吉野と関野の中間の藤野地区に役場を置いたことによります。

 相模湖町は、藤野町の東、中心部にはもと甲州街道の宿場町であった与瀬(よせ)が、東部には石器時代の遺跡がある寸沢嵐(すあらし)があります。町名は、昭和22(1947)年完成の相模湖によります。

 この「ふじの」、「どうし」、「よせ」、「すあらし」は、マオリ語の

  「フチ・(ン)ガウ」、HUTI-NGAU(huti=pull up;ngau=bite,hurt,attack)、「浸食された高台」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「タウチカ」、TAUTIKA(even,straight,boundary)、「真っ直ぐ(に流れる川)」(AU音がOU音に変化し、語尾の「カ」が脱落して、「トウチ」から「ドウシ」となつた)

  「イオ・テ」、IO-TE(io=muscle,line,spur,lock of hair;te=crack)、「髷(まげ)のような山を切り割っている割れ目(の場所)」

  「ツアラ・チ」、TUARA-TI(tuara=back,ally,assist;ti=throw,cast)、「(山の)背中に放り出されている(場所)」(相模湖の左岸はおおむね嶮しく、寸沢嵐地区のある右岸は傾斜の緩い段丘となっています)

の転訛と解します。

 

b 蛭ケ岳(ひるがたけ)・丹沢山(たんざわさん)・塔ノ岳(とうのたけ)・鍋割山(なべわりやま)・桧洞丸(ひのきぼらまる)・大室山(おおむろやま)・加入道山(かにゅうどうやま)・畦ケ丸山(あぜがまるやま)・菰釣山(こもつるしやま)

 津久井町は、丹沢山地の中心の蛭ケ岳(ひるがたけ。1,673メートル)、丹沢山(たんざわさん。1,567メートル)の北東に位置しています。

 丹沢山地は、神奈川、山梨、静岡三県にまたがる山地(山塊)で、神奈川県の屋根ともいわれます。稜線は一見なだらかに見えますが、平地から一気に立ち上がり、急な斜面と深い谷が発達し、地質は断層が多い複雑な構造をしています。

 丹沢山の南には塔ノ岳(とうのたけ。1,491メートル)、鍋割山(なべわりやま。1,273メートル)が、蛭ケ岳の西には桧洞丸(ひのきぼらまる。1,601メートル)が西南西に口を開いたU字形に並び、それぞれが支脈を広げ、西の甲斐国から駿河国との境には、大室山(おおむろやま。1,588メートル)、加入道山(かにゅうどうやま。1,418メートル)、畦ケ丸山(あぜがまるやま。1,293メートル)、菰釣山(こもつるしやま。1,349メートル)などが北から南へ並んでいます。

 この「ひるがたけ」、「たんざわ」、「とうのたけ」、「なべわり」、「ひのきぼらまる」、「おおむろ」、「かにゅうどう」、「あぜがまる」、「こもつるし」は、マオリ語の

  「ヒ・ル(ン)ガ・タケ」、HI-RUNGA-TAKE(hi=raise,rise;runga=the top,upwards,above,the south;take=root,base of a hill,cause,chief)、「(丹沢山地で)最高に高いどっしりした(根を下ろした)山」(「ル(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ルガ」となった)

  「タネ・タワ」、TANE-TAWHA(tane=male,showing manly qualities;tawha=burst open,crack)、「男性的な割れ目(谷)のある山地」

  「トウ・(ン)ガウ・タケ」、TOU-NGAU-TAKE(tou=annus;ngau=bite,hurt,attack;take=root,base of a hill,cause,chief)、「喰いちぎられた肛門(蛭ケ岳、丹沢山、塔ノ岳を結ぶ稜線は、西南西が欠けた噴火口のようで、この地形を指した広域地名が塔ノ岳の山名として残ったものでしょう)のようなどつしりした山」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)

  「ナ・ペワ・リ」、NA-PEWA-RI(na=belonging to;pewa=eyebrow,anything bow-shaped;ri=bind,protect,screen)、「まるで眉毛のような衝立(の形の山。蛭ケ岳、丹沢山、塔ノ岳、鍋割山を結ぶ稜線を眉毛に例えた広域地名がこの山の山名として残ったもの)」または「ナペ・ウア・リ」、NAPE-UA-RI(nape=fishing line;ua=neck,backbone;ri=bind,protect,screen)、「首筋に釣り糸が絡まっている(山。南および南西に連なる山脈を富士山釣り上げ神話の落ちた釣り糸に比したもの)」(地名篇(その九)を参照して下さい。)

  「ヒノヒ・キ・ポラ・マル」、HINOHI-KI-PORA-MARU(hinohi=compressed,contracted;ki=full,very;pora=large sea-going canoe;maru=power,shelter,escort)、「小さくしっかり圧縮した外洋航海用の力のある大型のカヌー(のような形の山)」(「ヒノヒ」の語尾の「キ」が脱落して「ヒノ」となった)

  「オフ・ムフ・ロ」、OHU-MUHU-RO(ohu=surround;muhu=grope,push one's way through bushes;ro=ro to=inside)、「手探りしなければ内部に進めない鬱蒼とした薮に囲まれた(山)」(「オフ」・「ムフ」のH音が脱落して「オウ」「ム」となった)

  「カニウ・タウ」、KANIU-TAU(kaniu,kaniuniu=spur or brow of a hill;tau=strange)、「異様な眉のような山頂の稜線(をもつ山)」(「タウ」のAU音がO音からOU音にに変化して「トウ」となつた)

  「アテ(ン)ガ・マル」、ATENGA-MARU(atenga,ateatenga=bosom;maru=power,shelter,escort)、「胸のような膨らみのある力のある大型のカヌー(のような形の山)」(「アテ(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「アテガ」から「アゼガ」になった)

  「コモ・ツルヒ」、KOMO-TURUHI(komo=thrust in,insert;turuhi=a weapon similar to the TAIAHA(a weapon of hard wood about 5ft.long))、「木製の棍棒を突き刺した(ように山腹から尾根が出ている山)」(原ポリネシア語の「ツルシ、TURUSI」の語尾の「シ」のS音がマオリ語ではH音に変化して「ツルヒ」となつた)

の転訛と解します。

 

(11)愛甲(あいこう)郡

 

 相模国の北西部に鎌倉時代から愛甲荘などの地名があり、愛甲三郎季隆の名が見えます。郡名にもなっています。『和名抄』は「阿由加波」と訓じています。おおむね現厚木市(東南端の地区を除く)、愛甲郡愛川町、清川村(南部の一部の地区を除く)の地域です。

 この名は、(1)相模川の別名、「鮎川(あゆかわ)」が転訛したもので、鮎川の名は、鮎がいるからとする説、

(2)相模川が中津(なかつ)川と合流するので「合い川」から「鮎川」になった、

(3)「アユ(揺り動く)」から「急崖をなした川」または「河岸段丘の発達した川」の意などの説があります。

 この「あゆかは」は、マオリ語の

  「アイ・ウカ・ワ」、AI-UKA-WA(ai=procreate,beget;uka=hard,firm,be fixed;wa=definite place,area,unenclosed country)、「(相模川の)子供の川(である中津川)が流れている区域」

の転訛と解します。

 

a 愛川(あいかわ)町・中津(なかつ)・八菅(はすげ)・清川(きよかわ)村・宮ケ瀬(みやがせ)・煤ケ谷(すすがや)

 愛川町は、県中北部、中津川の流域、丹沢山地の東にあり、町名は中津川の別名鮎川に由来します。相模川と中津川にはさまれた中津(なかつ)地区は、平坦な台地でかつて陸軍飛行場があり、いまは工業団地と住宅地が広がります。

 南部の八菅(はすげ)山麓の八菅神社は、山伏の修験場です。

 清川村は、県中央部、丹沢山地の東部、愛甲郡西部の県内唯一の村で、村名の由来は村内を流れる小鮎川、中津川が清い川であることによります。昭和31(1956)年宮ケ瀬(みやがせ)、煤ケ谷(すすがや)2村が合併して成立しました。

 この「なかつ」、「はすげ」、「みやがせ」、「すすがや」は、マオリ語の

  「(ン)ガ(ン)ガ・ツ」、NGANGA-TU(nganga=stone of fruit;tu=stand,settle)、「果物の核のような場所に位置する(土地)」(「(ン)ガ(ン)ガ」の最初のNG音がN音に変化して「ナ」と、次のNG音がG音からK音に変化して「カ」となつた)

  「ハ・ツ(ン)ゲヘ」、HA-TUNGEHE(ha=breathe,taste,sound;tungehe=quail,be alarmed)、「(あまりにも嶮しい修行の場なので)ひるんで立ちすくむ(場所)」(「ツ(ン)ゲヘ」のNG音がG音に変化し、語尾のH音が脱落して「ツゲ」から「スゲ」となつた)

  「ミ・イア・(ン)ガ・テ」、MI-IA-NGA-TE(mi=stream,river;ia=indeed,current;nga=the,satisfied,breathe;te=crack)、「実に割れ目のような川の流れる場所(瀬)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となつた)

  「ツツ・(ン)ガ・イア」、TUTU-NGA-IA(tutu=hoop for holding open a hand net;nga=the,satisfied,breathe;ia=current,indeed)、「手網の二股の支柱のような川(U字形に流れる小鮎川)の流れる場所(谷)」(「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となつた)

の転訛と解します。

 

b 厚木(あつぎ)市・依知(えち)・飯山(いいやま)

 厚木市は、県のほぼ中央、丹沢山地から相模川にかけて広がります。中世には厚木郷があり、相模川、中津川、小鮎川の三川が合流する地点では、舟運を利用する市場町を形成し、矢倉沢往還の宿場町として栄えました。

 市名は、(1)三川が合流し、材木が集まる(集木(あつぎ))ところから、

(2)「ア・ツキ(月)」から月の神を祀ったところ、

(3)アイヌ語の「アツイゲン(船の集まるところ)」の転などの説があります。

 市の東北部の相模川と中津川に挟まれた台地に、依知(えち)地区が、西部の丹沢山地東麓に湧き出している温泉の一つに、飯山(いいやま)温泉があり、飯山観音が近くにあります。

 この「あつぎ」、「えち」、「いいやま」は、マオリ語の

  「ア・ツ(ン)ギ」、A-TUNGI(a=the...of,particle before names of placescollect;tungi=set a light to,kindle burn)、「大きな居住地」(「ツ(ン)ギ」のNG音がG音に変化して「ツギ」となつた)

  「エチ」、ETI(shrink,recoil)、「(相模川の流路の移動によつて)縮んだ(後退した土地)」

  「イイ・イア・マ」、II-IA-MA(ii=i=ferment,be stired;ia=current,indeed;ma=white,clean)、「沸騰する水が流れる(温泉が湧き出す)清らかな(土地)」

の転訛と解します。

 

(12)大住(おおすみ)郡

 

 大住郡は、古代から近代の郡名で、相模国のほぼ中央に位置し、北は津久井郡、東は相模川を境に高座郡、南は相模湾、余綾郡、南から西は足柄上郡に囲まれます。おおむね現伊勢原市、秦野市、平塚市(南部の一部の区域を除く)、厚木市の東南端の一部の区域および愛甲郡清川村の南部の一部の区域です。『和名抄』は「於保須美」と訓じています。戦国期には愛甲、余綾両郡とともに中郡に属し、大中郡ともいいました。

 郡名は、(1)「オホ(美称)・スミ(隅、端の地。または谷の奥のつまった土地)」の意、

(2)「オホ(美称)・スミ(住み。集落)」の意などの説があります。

 この「おほすみ」は、マオリ語の

  「オ・ホツ・ミ」、O-HOTU-MI(o=the...of;hotu=sob,desire eagerly,chafe with animosity;mi=stream,river)、「川(相模川)が執拗に浸食する場所」

の転訛と解します。

 

a 伊勢原(いせはら)市・大山(おおやま)・阿夫利(あふり)神社・比々多(ひびた)神社・日向(ひなた)

 伊勢原市は、県中央部、丹沢山地から南の台地にかけて広がる市で、市名は伊勢国の里正勘兵衛が江戸時代に開拓したことによります(『新編相模国風土記稿』)。矢倉沢往還と田村通い大山街道が交叉する交通の要衝で、江戸期に市場町、宿場町、大山(おおやま)登山の門前町として栄えました。

 丹沢山地の東にある大山は、平野部からそそり立つため、雲が湧き、雨が降りやすいことから「雨降(あふり)山」の別名があります。この山に鎮座する式内社阿夫利(あふり)神社は、古くから関東一円の農民の雨ごいの神として尊崇され、また、相模湾から望むことができる海上交通の「当て山」でもありました。

 伊勢原市三ノ宮には式内社比々多(ひびた)神社があり、大山の東の谷、日向(ひなた)には元正天皇の勅願寺、日向薬師があります。

 この「おおやま」、「あふり」、「ひびた」、「ひなた」は、マオリ語の

  「オホ」、OHO(wake up,arise)、「起き上がった(山)」

  「アフ・リ」、AHU-RI(ahu=heap,sacred mound used in certain rites;ri=screen,protect)、「衝立のような高い山(または衝立のような、聖なる儀式を行う高地)」

  「ピピ・タ」、PIPI-TA(pipi=bathe with water,ooze,soak in;ta=dash,beat,lay)、「水が湧出する崩れた(場所)」

  「ヒ(ン)ガ・タ」、HINGA-TA(hinga=fall from an errect position,be killed,lean;ta=dash,beat,lay)、「崩れて落ち込んでいる(谷の場所)」(「ヒ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ヒナ」となった)

の転訛と解します。

 

b 秦野(はだの)市・渋沢(しぶさわ)・水無(みずなし)川・葛葉(くずは)川・鶴巻(つるまき)温泉

 秦野市は、県中西部、丹沢山地の南側に位置し、丹沢山地と南の渋沢(しぶさわ)丘陵との間に断層による秦野盆地が形成され、水無(みずなし)川、葛葉(くずは)川などの河川による扇状地ができています。

 『和名抄』は余綾郡七郷の一つ「幡多野郷」としています。市名は、(1)古墳時代末期に機織りを行とする秦氏が中心となつて開拓したことによるとする説、

(2)「ハタ(端の地)・ノ(野)」の意

(3)「ハリ(開墾)・タ(田)・ノ(野)」の転などの説があります。

 市の東端、 川と 川に挟まれたところに鶴巻(つるまき)温泉があります。

 この「はだの」、「しぶさわ」、「みずなし」、「くずは」、「つるまき」は、マオリ語の

  「パタ・(ン)ガウ」、PATA-NGAU(pata=drop of water,suckers on the tentaculae of the cuttlefish;ngau=bite,hurt,attack)、「烏賊の足の吸盤が吸い付いて地表を崩した(ような盆地)」(「パタ」のP音がF音を経てH音に変化して「ハタ」となり、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった。盆地を流れる水無川などを烏賊の足に見立てて盆地の地形を形容したもの)

  「ミ・ツナ・チ」、MI-TUNA-TI(mi=stream,river;tuna=eel;ti=throw,cast)、「放り出された鰻のような(形の)川」

  「クフ・ツハ」、KUHU-TUHA(kuhu=thrust in,conceal;tuha=tuwha=spit)、「(山に)焼き串を刺したような(川)」

  「チプ・タワ」、TIPU-TAWHA(tipu=swelling;tawha=burst open,crack,calabash)、「裂け目がある膨らみ」

  「ツ・ルマキ」、TU-RUMAKI(tu=stand,settle;rumaki=immerse,duck in the water,stoop((Hawaii)lumaki=to douse,duck))、「ちょっと水に潜る(浸かる)ことがある場所に位置している(土地)」(地名篇(その十)の東京都区部の(15)新宿区のd早稲田鶴巻町の項を参照して下さい。)

の転訛と解します。

 

c 平塚(ひらつか)市・須賀(すか)・馬入(ばにゅう)

 平塚市は、県の南部、相模川下流域の相模湾に面する市で、東部は相模川の沖積平野、北部は伊勢原台地の南端、西部は北金目台地と大磯丘陵、南部は砂丘地帯です。

 江戸時代に宿場町として発展し、相模川河口の須賀(すか)は漁港で海上運送の要地、その南部の馬入(ばにゅう)は東海道の渡船場として相模平野・丹沢山地の米、木材、魚類の取引でにぎわいました。

 市名は、高見王の子政子の棺を埋葬した塚の上面が平坦であったことによる(『新編相模国風土記稿』)とされます。

 相模川下流の別名を馬入(ばにゅう)川といい、「建久9(1198)年12月、稲毛重成が亡妻の追善供養のために相模川に架けた橋の渡り初めを将軍源頼朝に依頼した。頼朝が乗った馬が橋の半ばまでくると、馬が突然川に飛び込み、頼朝は大怪我をした」いう話が伝えられています。

 この「ひらつか」、「すか」、「ばにゅう」は、マオリ語の

  「ヒラ・ツカリ」、HIRA-TUKARI(hira=important,great,widespread;tukari=dig and throw up into hillocks,wooden spade)、「重要な砂丘(がある場所)」(「ツカリ」の語尾の「リ」が脱落した)

  「ツカリ」、TUKARI(dig and throw up into hillocks,wooden spade)、「砂丘(がある場所)」(語尾の「リ」が脱落した)

  「パ・ニウ」、PA-NIU(pa=touch,strike,block up,assault,stockade;niu=divinatin,dress timber smooth with a axe,move along,glide)、「斧で平らに削ったような(川岸にある)集落(またはそこを流れる川)」

の転訛と解します。

 

(13)余綾(よろぎ)郡・大磯(おおいそ)・鴫立沢(しぎたつさは)・川匂(かわわ)

 

 余綾郡は、古代から近代の郡名で、相模国の南部に位置し、中世から近代まで郡域の変遷が著しく、正確な郡域は不明ですが、北から東は大住郡、南は相模湾、西から北西は足柄下・上郡に囲まれます。おおむね現中郡大磯町、二宮町、平塚市の南部の一部の区域です。『和名抄』は「与呂支」と訓じています。

 郡名は、(1)「ヨロキ=ユルキ(風波で砂がゆり上げられたところ)」の意、

(2)「隆起(りゅうき)海岸」で「大地がゆり上げられたところ」の意とする説があります。

 大磯(おおいそ)町は、相模湾に面する大磯丘陵南麓の海岸段丘上にあり、町名は「長く続く磯」の意で、『和名抄』には余綾郡伊蘇郷とあります。JR大磯駅南の国道一号線南には、西行法師が「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢(しぎたつさは)の秋の夕暮」と詠んだ鴫立沢があります。

 二宮町は、大磯町の西にあり、町名は古代からこの地にあった式内社川匂(かわわ)神社が相模国二宮であったことに由来します。

 この「よろき」、「おおいそ」、「しぎたつさわ」、「かわわ」は、マオリ語の

  「イオ・ロキ」、IO-ROKI(io=muscle,line,spur,ridge,lock of hair;roki=make calm)、「静かな髷(まげ)のような丘陵(大磯丘陵、金目丘陵などを含む一帯の地域)」

  「オフ・イタウ」、OHU-ITAU(ohu=surround;itau=girdle for the waist)、「(丘陵の)裾に巻いた帯のような(海岸の場所)」(「オフ」のH音が脱落して「オウ」と、「イタウ」のAU音がO音に変化して「イト」から「イソ」となった)

  「チ(ン)ギア・タツ・タワ」、TINGIA-TATU-TAWHA(tingia=ti=throw,cast;tatu=an ancient form of weapon(generally of bone curved and unpointed);tawha=burst open,crack)、「緩く湾曲した棍棒が放り出されているような沢」(「チ(ン)ギア」のNG音がG音に変化し、語尾の「ア」が脱落して「チギ」から「シギ」となった)

  「カワワ」、KAWAWA(palings of a fence)、「尖った杭を巡らした(集落。その神社)」

の転訛と解します。

 

(14)足柄(あしがら)郡

 

 足柄(上・下)郡は、古代から近代の郡名で、相模国の西部に位置し、北は甲斐国、津久井郡、東は愛甲郡、大住郡、余綾郡、南は相模湾、伊豆国、西は駿河国に囲まれます。おおむね足柄上郡は現南足柄市、足柄上郡山北町、松田町、開成町、大井町、中井町、足柄下郡箱根町の北部の一部の区域、足柄下郡は現小田原市、足柄下郡箱根町(北部の一部の区域を除く)、湯河原町、真鶴町です。『和名抄』は足柄上郡を「足辛之加美」、同下郡を「准上」と訓じています。

 かつて駿河国と東国とを結ぶ交通路は、丹沢山地を越すのが困難なため、最も古くは富士山の東、御殿場から箱根外輪山の最高峰である金時山(1,213メートル)の南の乙女(おとめ)峠から仙石原を経て碓氷(うすい)峠を越え、明星ケ岳、明神ケ岳を経由して坂本(現南足柄市関本)に至る碓氷路があったという説があります。

 次いで律令時代には、駿河横走(よこばしり)駅(現静岡県駿東郡小山町竹之下または御殿場市六日市場付近)から金時山の北の足柄峠を越えて坂本に至る足柄(あしがら)路が東海道(官道)となったようです(平凡社『世界大百科事典』1988年)。

 この足柄路は、平安時代初期の延暦21(802)年5月の富士山の大噴火で塞がれたため、臨時に箱根路(永倉駅(現静岡県駿東郡長泉町)から元山中を通り山伏峠の南東に登り、降って芦ノ湖南岸の芦川宿から元箱根、芦の湯、鷹巣山、浅間山、湯坂山を経て湯本に至る路)が開かれましたが翌年足柄路が復旧され、その後幾多の変遷をへて、鎌倉時代には箱根路(湯坂山を経由せず、元箱根から畑宿を経て湯本に至る路)が主要道の東海道となったようです。

 郡名は、(1)「足(富士山の足、麓)・柄(「エ」、根もと、麓)」で、富士山の麓の地の意、

(2)箱根山の材木から「船足の早い船」が建造されたので「足軽山」といったことにちなむ(『相模国風土記逸文』)、

(3)「芦ケ原」の転、

(4)「アシ(崖地、自然堤防、微高地)・カラ(高所、微高地)」からとする説があります。

 足柄は、万葉集には「あしから」のほか「あしかり」とした歌がみえ、「古くは吉浜、真鶴付近の相模湾沿岸部の湯河原温泉をも包括し・・・古代においては足柄は箱根火山群の全体を包括する呼称であったと解するのが妥当・・・」(『角川地名大辞典』)とする説、「本来酒匂川沿いの地名だったらしい」(楠原佑介ほか『古代地名語源辞典』昭和56年、東京堂出版)とする説などがあります。

 この「あしから」、「あしかり」は、マオリ語の

  「ア・チカ・ラ」、A-TIKA-RA(a=the...of,particle before names of placescollect;tika,tikaka=hot,burnt,burnt by the sun;ra=wed)、「燃えている(噴火している)山に連なっている(地域。箱根火山とそれに連なる山間地域)」または「アチ・(ン)ガラ」、ATI-NGARA(ati=tribe,clan;ngara=snarl)、「がみがみいう種族(が支配する場所)」(「(ン)ガラ」のNG音がG音に変化して「ガラ」となった。足柄峠は「万葉集では、<足柄の御坂>ともいい、恐ろしい神の支配する峠とされ」ていたといいます(平凡社『世界大百科事典』1988年、渡瀬昌忠氏解説))

  「ア・チカ・リ」、A-TIKA-RI(a=the...of,particle before names of placescollect;tika,tikaka=hot,burnt,burnt by the sun;ri=screen,protect,bind)、「燃えている(噴火している)山に連なっている(地域。箱根火山とそれに連なる山間地域。または噴火している山が行く手を阻む障害となっている地域)」

の転訛と解します。

 

a 山北(やまきた)町・河内(かわうち)川・世附(よづく)川・玄倉(くろくら)川・都夫良野(つぶらの)・洒水(しゃすい)の滝・松田(まつだ)町・寄(やどろぎ)村・大井(おおい)町

 山北町は、県の西端、丹沢山地の南西部を占め、山梨・静岡両県に接します。町名は、明治22(1889)年に開通した旧国鉄東海道本線(のち丹那トンネルの開通に伴い御殿場線)の駅名にちなみます。

 町の北部の丹沢山地の中に河内(かわうち)川、世附(よづく)川、玄倉(くろくら)川などが流れ、河内川と鮎沢川が合流して酒匂川となって蛇行するあたりを都夫良野(つぶらの)といい、南部の平山(ひらやま。平山断層が通ります)には行場として知られる洒水(しゃすい)の滝があります。

 松田(まつだ)町は、山北町の東、丹沢山地の山間部と酒匂川左岸の平野部にあり、中世は松田氏一族の拠点で、古くから交通の要地で江戸期には矢倉沢往還の宿場町として栄えました。町名は、「祭り田」の転とする説などがあります。昭和30(1955)年に寄(やどろぎ)村を合併しています。

 大井(おおい)町は、松田町の東南、東は大磯丘陵、西は酒匂川左岸の平野部で、その境には国府津(こうづ)ー松田断層が走ります。町名は、この地にあった大井荘にちなみます。

 この「かわうち」、「よづく」、「くろくら」、「つぶらの」、「しゃすい」、「まつだ」、「やどろぎ」、「おおい」は、マオリ語の

  「カワ・ウチ」、KAWA-UTI(kawa=heap,channel,passage between rocks or shoals;uti=bite)、「浸食された(岩と浅瀬の間の)川瀬を流れる(川)」

  「イオ・ツク」、IO-TUKU(io=muscle,line,spur,lock of hair;tuku=let go,leave,send)、「流れ下るのに任せる縄(のような川)」

  「ク・ロク・ラ」、KU-ROKU-RA(ku=silent;roku=bend,wane of the moon;ra=wed)、「湾曲が連続している静かな(川)」

  「ツ・プラ(ン)ガ」、TU-PURANGA(tu=stand,settle;puranga=heap,heap up)、「高い(丘陵)地帯に位置している(場所)」(「プラ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「プラナ」となり、「プラノ」となった)

  「チア・ツヒ」、TIA-TUHI(tia=persistency;tuhi=conjure)、「(滝に打たれながら一心不乱に)祈り続ける(滝)」(「チア」が「チャ」から「シャ」に、「ツヒ」のH音が脱落して「ツイ」から「スイ」になつた)

  「マツ・タ」、MATU-TA(matu=fat,kernel,cut;ta=dash,beat,lay,the)、「(地域の)中心に位置する(場所)」

  「イア・トロ・キ」、IA-TORO-KI(ia=current,indeed;toro=stretch forth;ki=full,very)、「真っ直ぐに流れる川(中津川の中流沿いの地域)」

  「アウ・ホイ」、AU-HOI(au=current,rapid,string;hoi=noisy,uproarious)、「騒がしい音を立てて流れる川(相模川の中流域の土地)」(「アウ」のAU音がO音に変化して「オ」に、「ホイ」のH音が脱落して「オイ」となった)

の転訛と解します。

 

b 南足柄(みなみあしがら)市・明神ケ岳(みょうじんがたけ)・金時(きんとき)山・矢倉沢(やぐらざわ)

 南足柄市は、県の南西端、静岡県と接する市で、箱根外輪山の明神ケ岳(みょうじんがたけ。1,169メートル)、金時山(きんときやま。1,213メートル)や足柄峠などを含む山間地にあり、古く足柄関が置かれ、中心の関本(せきもと)は、古くは坂本(さかもと)と呼ばれ、古代は足柄峠越えの足柄路の宿駅として、江戸期は矢倉沢(やぐらざわ)往還の宿場町および明神ケ岳中腹にある、大山不動、川崎大師とともに県下三大名刹の一つとされる最乗寺の門前町として栄えました。市名は、足柄上郡南足柄村が昭和15(1940)年に町制を施行して南足柄町となり、昭和30(1955)年に南足柄町と福沢村、岡本村、北足柄村の一部が合併、新たに南足柄町が発足し、昭和47(1972)年に市制を施行して南足柄市となったものです。

 この「みょうじんがたけ」、「きんとき」、「やぐらざわ」は、マオリ語の

  「ミヒ・イオ・チノ・(ン)ガ・タケ」、MIHI-IO-TINO-NGA-TAKE(mihi=lament,greet,be expressed of affection;io=spur,ridge,muscle;tino=main,essenciality,very;nga=satisfied,breathe;take=root,base of a hill,chief)、「大地にどっしりと腰を据えた神々しい大きな峰(の山)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」と、「イオ」が「ヨ」と、「チノ」の語尾のO音が脱落して「チン」と、「(ン)ガ」のNG音がG音に変化して「ガ」となった)

  「キノ・トキ」、KINO-TOKI(kino=bad,ugly;toki=axe)、「悪い(悪意を持つ)斧」(「キノ」の語尾のO音が脱落して「キン」となった)(地名篇(その九)の第2の3の(3)金時山の項を参照して下さい。)

  「イア・クラ・タワ」、IA-KURA-TAWHA(ia=current,indeed;kura=ornamented with feathers,a TAIAHA(a weapon of hard wood about 5ft.long) adorned by red feathers;tawha=burst open,crack)、「実に(真っ直ぐで根元に赤い羽根飾り、先端にふくらみがある)棍棒のような裂け目(に似た地形の沢。その沢に沿う道)」

の転訛と解します。

 

c 小田原(おだわら)市・酒匂(さかわ)川・狩(かり)川・早(はや)川・曽我(そが)・風祭(かざまつり)・入生田(いりうだ)・根府川(ねぶかわ)・真鶴(まなづる)町・湯河原(ゆがわら)町・土肥(どひ)の湯・こごみの湯・小梅(こうめ)の湯

 小田原(おだわら)市は、県の南西部にあり、東部の足柄(酒匂)平野南半の中央を酒匂(さかわ)川、狩(かり)川が、西部の山地には箱根カルデラから早(はや)川が流れます。古くは土肥一族、小早川氏の早川庄の中核として開かれ、その後北条氏の城下町、江戸期には江戸防衛の拠点として、また箱根を控えた東海道の宿場町として発展しました。

 市名は、中世以来の地名で、(1)原野を開墾して小田としたことによる、

(2)「田原や野原の続いているところ」の意などの説があります。

 足柄(酒匂)平野の東端には曽我(そが)の地が、酒匂川河口左岸には酒匂(さかわ)の地が、早川の谷には風祭(かざまつり)、入生田(いりうだ)の地が、早川河口から南に続く岩石海岸には江戸城築城用の石材を採取した根府川(ねぶかわ)の地があります。

 真鶴(まなづる)町は、県南西部、箱根火山の南東麓に位置し、溶岩流が相模湾に押し出してできた細長い真鶴半島の景勝地があります。

 町名は、(1)鶴が羽根を広げた形に似るから、

(2)アイヌ語の「マツツイル(海岸の崩れやすい崖・路の地)」からという説があります。

 湯河原(ゆがわら)町は、県南西端、静岡県に接し、相模湾に面します。箱根古期外輪山や湯河原火山のカルデラに囲まれ、火口底を流れる藤木川沿いに奥湯河原温泉、支流の千歳川沿いに湯河原温泉が湧出します。

 この温泉は、平安時代には「土肥(どひ)の湯」、戦国時代には「こごみの湯」、江戸時代は「小梅(こうめ)の湯」といいました。町名は、川の中から温泉が湧出していたことにちなむとされます。

 この「おだわら」、「さかわ」、「かり」、「はや」、「そが」、「かざまつり」、「いりうだ」、「ねぶかわ」、「まなづる」、「ゆがわら」、「どひ」、「こごみ」、「こうめ」は、マオリ語の

  「オ・タワラ」、O-TAWHARA(o=the place of;tawhara=spread out,wide apart)、「広く開けている場所」

  「タカ・ワ」、TAKA-WHA(taka=thread by which the hook is fastened to the line,fall down,fail of fulfilment;wha=be disclosed,get abroad)、「釣り針を結んだ釣り糸が地上に落ちて川となった(その川。その川が流れる場所または釣り針を結んだ場所)」(地名篇(その九)の3の(4)酒匂の項を参照して下さい。)

  「カリ」、KARI(dig,dig uprush along violently)、「勢い良く流れる(川)」

  「ハ・イア」、HA-IA(ha=breathe,sound;ia=current,indeed)、「呼吸する(水量が大きく変化する川)」または「パイア」、PAIA(=pa=stockade,fortified place)、「柵を巡らした場所(外輪山と中央火口丘の間を流れる川)」(「パイア」のP音がF音を経てH音に変化して「ハヤ」となつた)

  「タウ(ン)ガ」、TAUNGA(resting place,anchorage for canoes)、「休息する場所」(「タウ(ン)ガ」のAU音がO音に、NG音がG音に変化して「トガ」から「ソガ」となつた)

  「カタ・マツ・リ」、KATA-MATU-RI(kata=opening of shellfish;matu=fat,kernel,cut;ri=bind,protect,screen)、「貝が口を開けたような地形が浸食されて連なっている(場所)」

  「イリ・ウタ」、IRI-UTA(iri=be elevated on something,rest upon hang;uta=the inland)、「(海岸から)内陸に入って高くなつた(場所)」

  「ネイ・プカワ」、NEI-PUKAWA(nei,neinei=stretched forward;pukawa=reef of rocks)、「岩礁が延びている(海岸)」

  「マナ・ツル」、MANA-TURU(mana=for him,authority,power;turu=post,pole,hand grip)、「(神が富士山を引き上げるために使用した)霊力が込められた釣竿(が落ちてできた半島)」(地名篇(その九)の第2の3では(6)御坂山地を釣り竿(羊歯の若枝)と解しましたが、これは最初の失敗した時のもので、真鶴半島がその後の成功した時の釣り竿と考えられます。)または「マナツ・ル」、MANATU-RU(manatu=anxious,remember;ru=shake,earthquake)、「地震の記憶がある(または地震を心配している半島)」

  「イ・フカ・ワラ」、I-HUKA-WARA(i=ferment,beside,past tense;huka=foam;wara=make an indistinct sound)、「ぶつぶつと音と泡を出して湧き出す(温泉の出る土地)」(「フカ」のH音が脱落して残ったU音と直前のI音が結合して「イウカ」から「ユカ」になつた)

  「トト・オヒ」、TOTO-OHI(toto=ooze,gush forth,spring up;ohi=grow,be vigorous)、「勢い良く噴出する(温泉)」(「トト」の反復語尾の「ト」が脱落し、「オヒ」の語頭のO音が先行するO音と連結して短縮化されて「ヒ」となつた)

  「カウカウ・ミ」、KAUKAU-MI(kaukau=bathe;mi=stream,river)、「川(の中)で入浴する(温泉。川の中から湧き出す温泉)」(「カウカウ」のAU音がO音に変化して「ココ」となった)

  「カウカウ・フメ」、KAUKAU-HUME(kaukau=bathe;hume=bring to a point,gather up)、「(源泉を)引いてきて入浴する(温泉)」(「カウカウ」の反復語尾の「カウ」が脱落し、AU音がO音に変化して「コ」と、「フメ」のH音が脱落して「ウメ」となった)

の転訛と解します。

 

d 箱根(はこね)町・芦ノ湖(あしのこ)・仙石原(せんごくばら)・神山(かみやま)・駒ケ岳(こまがたけ)・乙女(おとめ)峠・姥子(うばこ)温泉・強羅(ごうら)温泉・須雲(すくも)川

 箱根町は、県南西部、箱根火山の古期外輪山の嶺線から内部の全域に位置し、中央火口丘の西には芦ノ湖(あしのこ)、仙石原(せんごくばら)があります。

 町名は、古代以来の地名で、足柄地域の一部である神山(かみやま。1,438メートル)、駒ケ岳(こまがたけ。1,327メートル)などの西の根方回りの呼称であったとされ、

(1)「ハコ(箱のような形の山)・ネ(峰)」の意、

(2)古朝鮮語で「ハコ(神仙)・ネ(峰)」の意とする説があります。

 北部の金時山の西南には乙女(おとめ)峠があり、芦ノ湖からは早川が流出し、その流域に沿って山姥が金太郎の眼病を治したという姥子(うばこ)温泉、早雲山の麓にあって「石がごろごろしている場所」の意とされる強羅(ごうら)温泉をはじめ数多くの温泉が湧出していますが、南の外輪山の内側を流れる須雲(すくも)川の流域には温泉がありません。

 この「はこね」、「あし(湖)」、「せんごくばら」、「かみやま」、「こまがたけ」、「おとめ」、「うばこ」、「ごうら」、「すくも」は、マオリ語の

  「ハコ・ヌイ」、HAKO-NUI(hako=anything used as a scoop or shovel,straight,erect;nui=big,large,many)、「シャベル(のようなもの)で大量に土を掘つた(ような場所。「神が富士山を釣り上げるための釣り針として岩石のかたまりをもぎとった場所。芦ノ湖とその横の神山、駒ケ岳等を含めた地形)」または「直立した山が並んでいる(場所)」(これまでの解釈は後者でしたが、富士山釣り上げ神話と関連させて考えると、前者の解釈に傾きます。東京都郡部の(27)瑞穂町の「箱根ケ崎、筥の池」の項を参照してください。)

  「アチ」、ATI(descendant)、「(釣り針をもぎとった)痕跡」(地名篇(その九)の第2の3の(2)芦ノ湖の項を参照して下さい。)

  「テネ・コクフ」、TENE-KOKUHU(tene=be importunate;kokuhu=insert,fill up gaps where plants have failed in a crop,bastered)、「丹念に(火口原の)隙間を草が埋め尽くしてできた(原)」(「テネ」の語尾のE音が脱落して「テン」から「セン」に、「コクフ」の語尾の「フ」が脱落して「コク」となつた。地名篇(その九)の第2の3の(2)芦ノ湖の項を参照して下さい。)

  「カミ・イア・マ」、KAMI-IA-MA(kami=eat;ia=current,indeed;ma=white,clean)、「湖(古仙石原湖)を(噴火によつて)呑み込んだ(陸地に変えた)清らかな(山)」(地名篇(その九)の第2の3の(2)芦ノ湖の項を参照して下さい。)

  「コマカ・タケ」、KOMAKA-TAKE(komaka=sort out;take=root,base of a hill,chief)、「(中央火口丘の中で一つだけ)区別されているどっしりと座っている(山)」

  「オ・ト・マイ」、O-TO-MAI(o=the...of;to=drag,open or shut a door or window;mai=hither,indicate direction or motion towards,become quiet)、「(駿河国から相模国へ)出入りする場所(峠)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となつた)

  「ウパ・コウ」、UPA-KOU(upa=fixed,at rest;kou=knob,stump)、「ゆったりと休息している丘(そこにある温泉)」

  「(ン)ガウ・ラ」、NGAU-RA(ngau=raise a cry;ra=wed,yonder,suffix)、「叫び声(のような音)をあげ続ける(温泉)」(「(ン)ガウ」のAU音がOU音に変化して「ゴウ」となった)

  「ツ・クモウ」、TU-KUMOU(tu=stand,settle;kumou=komou=cover a fire with ashes or earth to keep it smouldering)、「火を地中に埋めこんだ(噴火口や温泉がない)場所を流れる(川)」

の転訛と解します。

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<修正経緯>

1 平成14年6月15日

 東京都郡部の(29)の「雲取(くもとり)山」の解釈を修正しました。

2 平成14年9月15日

 東京都市部の(19)青梅市のb成木の解釈を修正しました。

3 平成16年11月1日

 東京都の(3)三鷹市の井の頭・牟礼の解釈を修正、(6)清瀬市の野塩の解釈を修正、(7)東村山市の久米川の解釈を修正、(15)多摩市の乞田の解釈を補完、(17)武蔵村山市に空堀川の解釈を追加、(21)福生市の福生の別解釈を追加、(25)八王子市の景信山の解釈を修正、恩方の別解釈を追加し、

 神奈川県の(1)橘樹郡の解釈を修正、(5)横浜市の帷子川・根岸・磯子の解釈を修正、(6)相模国の「さがむ」の解釈を修正、(8)御浦郡の油壺の別解釈を追加、(9)高座郡の寒川町の解釈を修正しました。

4 平成19年2月15日

 インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<次回予告>の削除などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。

5 平成20年12月5日 

 神奈川県の(14)足柄郡のb南足柄市の市名の由来の解説を修正しました。

6 平成25年2月1日 

 東京都の(26)町田市のb図師および神奈川県の(8)御浦郡のb逗子市の解釈を修正しました。

地名篇(その十一)終わり


U R L:  http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル:  夢間草廬(むけんのこや)
       ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
作  者:  井上政行(夢間)
Eメール:  muken@iris.dti.ne.jp
ご 注 意:  本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。
(記載例  出典:ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など)
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