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[古風土記(和銅6年の令により各国から撰進された風土記をいう。以下同じ。)は、記紀・万葉集と並ぶ我が国最古の文献の一であり、その中には縄文語の語彙が万葉仮名表記されて多数収められています。ここでは、古風土記につき、主として歴史、社会および民俗の観点から、その概要を鳥瞰するとともに、常陸・出雲・播磨・豊前・肥前の五風土記のうち、とくに解明する必要があると思われる神名、人名、地名等につき、原則としてマオリ語により(ハワイ語による場合はその旨注記します。)解説するものです。
<お断り>風土記に記される地名のうち、概して、郡名はよく残っていますが、郷里名はあまり残っておりません。この理由については種々の説がありますが、50戸を1里とする郷里の編成が自然村を無視して行われたきらいがある地域が多くあり、その結果合成地名が多く存在した可能性があることや、本篇の語源解釈にみるように事績伝承の事績内容が地名とされた後その伝承が失われたことによるものではないかと考えられます。
したがって、現在まで残っていない古い地名、とくに郷里名を解釈してみても、その事績伝承が確実に残っている場合など特別の事情が判明している場合を除いては、あまり積極的な意味は見い出し難いと考えられますので、現在のところ、このような地名を片端から解釈し、現在の地名との比定を試みる考えはありません。]
(1) 風土記とは/(2) 風土記撰進の命令/(3) 風土記の形式と撰進の時期/(4) 風土記撰進の目的/(5) 律令制の国の改廃経緯/(6) 律令制の地方行政組織の変遷/(7) 古風土記の再提出/
(1) 国による差異/(2) 地名の残存/(3) 地名以外の記事/
(1) 神話・伝承の内容/(2) 神話・伝承の起源および特徴/
(1) 郷里制によるムラの変化/(2) ムラと神の祭祀/(3) 歌垣(うたがき、かがひ)・耀歌之會(うたがきのつどひ)/
(1) 成立の時期と編纂者/(2) 倭武天皇とヤマトタケル伝承/(3) 國巣退治伝承/(4) 谷津開発(箭括氏麻多智)伝承/(5) その他の主な伝承/
(1) 成立の時期と編纂者/(2) 国引神話/(3) スサノオ神話/(4) タケミカヅチ・フツヌシ神話/(5) オホナムチ神話/(6) 他国との関係/(7) 語臣猪麻呂の復讐譚/(8) 出雲国造家の祖先系譜/
(1) 神話と天皇伝承の分布/(2) 伊和大神伝承/(3) オホナムチ・スクナヒコナ伝承/(4) アメノヒホコ伝承/(5) 荒ぶる神伝承/(6) 出雲国との関係/(7) 仁賢・顕宗両天皇伝承/
(1) 豊後国風土記の特徴/(2) 豊国国名由来伝承/(3) 餅の的伝承/(4) 速津媛伝承/(5) 網磯野伝承/
(1) 肥前国風土記の特徴/(2) 火国国名由来伝承(3) 褶振(ひれふり)峯伝承/(4) 姫社郷伝承/(5) 彼杵郡郡名伝承/
T畿 内/01 山城/02 大和/03 河内/04 和泉/05 摂津/
U東海道/06 伊賀/07 伊勢/08 志摩/09 尾張/10 参河/11 遠江/12 駿河/13 伊豆/14 甲斐/15 相模/16 武蔵/17 安房/18 上総・下総(総)/19 常陸/
V東山道/20 近江/21 美濃/22 飛騨/23 信濃/24 上野・下野(毛)/25 陸奥/26 出羽/
W北陸道/27 若狭/28 越前・越中・越後(越)/29 加賀/30 能登/31 佐渡/
X山陰道/32 丹波・丹後/33 但馬/34 因幡/35 伯耆/36 出雲/37 石見/38 隠岐/
Y山陽道/39 播磨/40 美作/41 備前・備中・備後(吉備)/42 安藝/43 周防/44 長門/
Z南海道/45 紀伊/46 淡路/47 阿波/48 讃岐/49 伊豫/50 土佐/
[西海道/51 筑前・筑後(筑紫)/52 肥前・肥後(肥)/53 豊前・豊後(豊)/54 日向/55 大隅/56 薩摩/57 壱岐嶋/58對島嶋/
「風土記」とは、地方のことを書き記した書物の意です。自然、地理のみならず、風俗記・名勝記・名産名物記などを含む人文地理にもわたる地方誌をさす普通名詞です。
本篇では、次の和銅6年の命令により各国から撰進された風土記を「古風土記」と呼び、これを対象として解説を行います。
「風土記」の撰進の命令は、続日本紀元明天皇和銅6(713)年5月甲子(2日)条に次のように記されています。
畿内七道諸国。郡郷名著好字。其郡内所生銀銅彩色草木禽獣魚虫等物具禄色目。及土地沃脊。山川原野名号所由。又古老相伝旧聞異事。載于史籍言上。
すなわち、
a 郡郷名に好字(漢字二字の嘉字)を付ける
b 郡内の産物の目録を作成する
c 土地の肥痩状態を記録する
d 山川原野の名称の由来を記す
e 古老の相伝する旧聞異事(伝承)を記載する
というもので、これを書物として報告せよとしています。
これらはすべて漢文で書かれ、国守から中央への報告文書たる「解」として、全国六十数ヶ国からそれぞれ提出されましたが、現存するものはほぼ完本として出雲国、一部が欠けたものは常陸国・播磨国・肥前国・豊後国の計5風土記で、ほかは逸文として断片が残るにすぎません。これを一般の風土記と区別して「古風土記」と称しています。
五風土記のうち、早くできたのは播磨国と常陸国で、その後天平11(739)年までに出雲国(天平5(733)年)、豊後国と肥前国ができたとされます。
和銅6(713)年は、孝徳朝の大化の改新後の国家行政組織の再編整備の確立期にあたり、天武10(681)年3月条の「川嶋皇子…に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ」に始まる歴史書の編纂が進行中で、古事記撰進(和銅5年)の翌年、日本書紀撰進(養老4(720)年)の7年前であり、風土記の撰進は、日本書紀編纂の基礎資料収集を目的としていたとともに、地方行政の基礎資料を整備する目的があったものと考えられます。また、これは中国の史書にならって地理志・郡国志・州郡志・地形志などを編纂しようという計画があったことによるとする説があります。
しかし、日本書紀編纂の基礎資料となった形跡はなく、また編纂が遅れた国にあっては日本書紀に拠つて記述したと思われるものが見られます。
a 律令制とともに、5畿(山城・大和・河内・和泉・摂津ー大化2(646)年設置)7道(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)58国3島(対馬嶋、壱岐嶋、多執嶋)が定められました。天武紀12(683)年12月・13年10月・14年10月条には、諸国境界画定のために使者が派遣されたことがみえます。
b その後薩摩国分置(大宝2(702)年8月か)、出羽国分置(和銅5(712)年9月)、丹後国・美作国・大隅国分置(和銅6(713)年4月)、和泉国分置(霊亀2(716)年)、能登国・安房国・石背国・石城国分置(養老2(718)年5月)などが行われています。
c そして養老5(721)年には、最大数の69国3島となりました。
d その後能登国を越中国に編入(天平13(741)年)、佐渡国を越後国に編入(天平15(743)年)などが行なわれ、国数は減少に向かいます。
e そして天平15(743)年には、最小数の61国3島となりました。
f その後再び増加に向かい、佐渡国分置(天平勝宝4(752)年)、能登国分置(天平宝字元(757)年)、武蔵国東山道から東海道に所属替(宝亀2(771)年)、加賀国分置(弘仁14(823)年)などが行われました。
g そして66国2島(対馬嶋、壱岐嶋)となり、これが天長元(824)年から明治元(1868)年まで続き、地域名として永く定着して現在に至っています。
律令制の下での地方行政組織は、つぎのように変遷を重ねています。
a 国ー郡(大宝令施行前は、評)ー里(原則として(郷戸)50戸で1里)制(郷戸の規模は大宝2(702)年の御野国戸籍の1戸平均17.2~22.1人)
b 里を郷とし、その下に里(こざと)を置き、郷戸の中に小規模の房戸を置く(霊亀3(717)年ー出雲国風土記は霊亀元年としますが、出土木簡によれば3年が有力です)(房戸の規模は養老5(721)年の下総国戸籍の1戸平均6.8人)、国ー郡ー郷ー里制
c 里(こざと)を廃止(天平12(740)年ごろ)、国ー郡ー郷制
d 郡の数は、奈良時代前期に555(律書残篇)、平安時代前期に591(延喜式(延長5(927)年)でした。郷の数は、奈良時代前期に4012(律書残篇)、平安時代前期に約4000(和名抄(承平年間(931~938))でした。
古風土記は、その後再提出が命じられています(延長3(925)年12月14日太政官符五畿七道諸国司宛)。当時延喜5(905)年から延長5年まで、延喜式の撰修が行われていましたので、そのためのものと解されています。
その太政官符は、次のとおりです。
応早速勘進風土記事 如聞、諸国可有風土記文。今被左大臣宜稱。宜仰国掌令勘進之。若無国底、探求部内、尋問古老、早速言上者。諸国承知。依宜行之。不得延廻。符到奉行。
国によって精粗、採録の内容・範囲など記述方法がまちまちです。
郡郷名についても、その旧名・改名とその時期について出雲国は詳細に記述します(a 霊亀元(715)年(実は霊亀3(717)年)の式により里を郷とし、b その名の字は神亀3(726)年の民部省口宣により改めたなど)が、他はまちまちです。
産物についても、出雲国は郡毎にとくに雑薬として貢上すべき生薬を中心に詳細に記述しますが、播磨国は土地の肥痩の記述に重点を置き、物産記事は少なく、他は特異珍奇な産物を任意に採録するに留めています。
総じて各国が最も重要視したのは、古老の伝承またはその伝承によって説明される地名説明記事でした。地名の意味・由来伝承について、出雲は行政区画名字についてのみ地名説明を行い、播磨は郡里の地名説明に重点を置き、出雲・播磨とも地名説明に関係の無い記事が乏しく、常陸国は土地の風俗習慣を含めての地名説明に四六駢儷体の修辞を駆使した文芸的記述が目立つなど、国によって差異が甚だしいのが特徴です。
国名・郡名は明治に至るまでよく残りますが、郷里名・駅名はあまり残っていません(居住地が異動したか、地形の変化により地名が失われたか、50戸を1里とする郷里の編成が自然村を無視して行われたきらいがあり、合成地名が多かった可能性があるほか、本篇の語源解釈にみるように事績伝承の事績内容が地名とされた後にその伝承が失われたことによる可能性があると考えられます)。
山川河海名は、おおむねよく残りますが、残らない地域もあります。
国名をはじめとする地名の意味・由来伝承は、明らかなこじつけが多く、信頼に足るものはあまりありません。
<例1>常陸国号:…然号くる所以は、往来の道路、江海の津濟を隔てず、郡郷の境堺、山河の峯谷に相続ければ、直通(ひたみち)の義を取りて、名称と為せり。或るひといへらく、…倭武の天皇…み手を洗ひたまひしに、御衣の袖、泉に垂りて沾(ひ)ぢぬ。便ち、袖を漬(ひた)す義によりて、此の国の名と為せり…
<例2>出雲国号:出雲と号くる所以は、八束水臣津野命、詔りたまひしく、「八雲立つ」と詔りたまひき。故、八雲立つ出雲といふ。
地名の意味は、地形地名が多いのですが、成立伝説、所属する道内における位置や分置の経緯等を示す事績地名もあります(国名については末尾の付表「国名の意味一覧」を参照してください)。
郡名・山川原野名は、ほとんどが地形地名および環境地名です。
各国に和銅6年の官命にない寺・神社の記述、景勝地の地形記述や土地の風俗習慣の記述のほか、里程(播磨を除く)、軍団・戌・烽・関・城などを記述しているものがあります。
記録された神話・伝承は、地方行政区域の社会の故事来歴を語るものが主です。
a 常陸国・豊後国・肥前国では、先住勢力の土蜘蛛・球磨曽於(くまそ)の帰服ないし誅滅によって開ける大和朝廷治下の地方社会の始まりが伝承されています。
b 播磨国では、移住開墾、そのための土地占拠によって開ける社会の歴史の始まりが伝承されています。
c 出雲国では、土着勢力が優勢で、それら氏族の奉ずる神々の功業と鎮座によって民政の安定を語る神話・伝承が内容となっています。
これらの神話・伝承は、記紀神話と同様世界各地の神話に起源を持つものが混在しますが、記紀神話ないし記紀に語られる伝承と内容が一致しないものが多く存在します。
a 天地創造について詳細かつ体系的に語る神話は、みられません。
ただし、「天地の権輿(はじめ)、草木言語(ことど)ひし時、天より降り来し神、み名は普都大神と称す…」とする伝承が存在し(常陸国信太郡)(北方系天孫降臨型創世神話)、また、「昔、大人ありて、…他土(あだしくに)は卑(ひく)ければ、常に勾(かが)まり伏して行きき。此の土(くに)は高ければ、申(の)びて行く…」という伝承が存在します(播磨国託賀郡)(南方系天地分離型神話)。
b 記紀の国生み神話に相当する神話は、みられません。
ただし、出雲に「国引き神話」があります(出雲国意宇郡)。(南方系島釣り上げ型創世神話)
c 記紀のスサノオによって斬り殺されたオオゲツヒメから穀物など有用植物が発生したという神話に相当するものは、見あたりません。
d 記紀のスサノオ神話に相当するものは、見あたりません。
記紀神話にみえるスサノオには、とくに製鉄神たる性格が顕著にみえますが、スサノオ伝承がある出雲国意宇郡・飯石郡・大原郡の記事にも、鉄の産出記事がある飯石郡・仁多郡の記事にも、スサノオと鉄との関連を示すものはありません。
e 播磨国には、オホナムチ命とスクナヒコナ命の二柱の神が協力して国土経営に当たった(記紀も二柱の神が協力して国土経営に当たったとしますが、どのように分担したかは記されていません)ことに関する伝承が多いのですが、とくに小比古尼(スクナヒコナ)命に関して記紀の記述と異なり大男だったとする極めて具体的な伝承があります(神崎郡埴岡里)。これはその地域で活躍した神についての具体的で詳細な伝承ですから、遠隔の地にあって文献に頼って記述した記紀の伝承よりも信頼性が高いと考えられ、常識では考えられない記紀の伝承は、「少彦名(スクナヒコナ)神)」の名に宛てられた「少」の字義に引きずられて誤って伝えられたか、記紀の編集者が誤って理解したものと解すべきでしょう。
(語源解釈)「スクナヒコナ」は
「ツクヌイ・ヒコ・ヌイ」、TUKUNUI(main body of an army)-HIKO(move at random or irregularly)-NUI(great,many)、「大軍を率いて・転戦した・偉大な(民政を担当したオホナムチと協力して軍事を担当した神)」(UI音がA音に変化して「スクナヒコナ」となった)と解します。
f 播磨国には、オホナムチ命とアメノヒホコの土地争いの伝承が残ります(揖保郡)。アメノヒホコは記紀ではヒトですが、風土記ではカミとして伝承されています。
g 出雲国には、記紀のスサノオ命やオホクニヌシ命などの出雲系神話と異なる出雲独特の国引き神話(意宇郡)、ワニに食われた語臣猪麻呂の娘の比売埼伝承(意宇郡)、ワニが阿伊村の玉日女を恋う恋(したひ)山伝承(仁多郡)などの出雲神話があります。
h 出雲国には、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」という神観念があります。
i 出雲国には、いわゆる天皇行幸説話が全くありません。
j 出雲国大原郡神原郷には、「古老の伝えて云、所造天下大神の御財を積み置き給ひし処なり。即ち神財(かむたから)の郷と謂ふべきを、今の人、猶誤りて神原(かむはら)の郷といへるのみ」との記述があり、平成8(1996)年、その加茂町大字岩倉の加茂岩倉遺跡から我が国最多の39個の銅鐸が発見されました。
(語源解釈)この「かも(加茂。町)」、「いわくら(岩倉)」は
「カ・マウ」、KA(take fire,be lighted)-MAU(fixed)、「(そこに人が)定着して・(火を燃して)暮らしている(土地)」(「マウ」AU音がO音に変化して「モ」となった)
「イ・ワワ・クラ」、I(past tense,be side)-WHAWHA(lay hold of)-KURA(treasure)、「宝物を・積み上げた(埋蔵した)・(場所の)あたり」(「ワワ」の反復語尾が脱落して「ワ」となった)と解します。
また、これに先立つ昭和59(1984)年、加茂岩倉遺跡から山一つ隔てた簸川郡簸川町大字神庭字西谷(風土記は出雲郡健部郷)の荒神谷遺跡から358本の銅剣が発見され、一年後に同じ場所から銅鐸6個と銅矛16本が発見されています。この出雲郡健部(たけるべ)郷には「先に宇夜(うや)の里と号けし所以は、宇夜都辨(うやつべ)命、其の山に天降りましき。即ち、彼の神の社、今に至るまで猶此処に坐す。故、宇夜の里といひき」との記述があり、これも武器の埋蔵を暗示するものと考えられます。
(語源解釈)「うや(宇夜。里)」、「うやつべ(宇夜都辨。命)」は
「ウ・イア」、U(be fixed)-IA(indeed)、「(武器を)実に・埋蔵した(里)」
「ウ・イア・ツペ」、U(be fixed)-IA(indeed)-TUPE(a charm for depriving one's enemies of power,and arresting their weapons)、「(敵を無力化するために)武器を奪い取って・実に・埋蔵する(神)」と解します。
(前掲1の(6) 律令制の地方行政組織の変遷の項を参照してください。)
a 律令制以前、自然発生的に形成された自然村である「ムラ」ができ、その集合体ができ、その上に県主、国造がいたのが、律令制下で国ー郡ー里制(50戸で1里)に再編成されました。このムラでは、神を祀つていました。
((a) 播磨国風土記揖保郡条ー伊勢野はなかなか定住できない地でしたが、衣縫猪手・漢人刀良等がイセツヒコ命・イセツヒメ命を社を建てて祀ったところ、定住できるようになって遂に里を形成しました。
(b) 常陸国風土記行方郡条ー箭括氏麻多智が夜刀神を谷奥に追いやり、社を立てて祀り、谷津を開墾して田を作りました。
(c) 出雲国風土記嶋根郡条ー蜈蚣(むかで)嶋の項に「東辺に神社あり、この外は悉皆に百姓の家なり」とあり、このほかにも百姓之家と神社はセットで存在し、各郷里に1〜3の神社が認められます(関和彦『風土記と古代社会』)。
(d) 常陸国風土記香島郡条ー「年別の四月十日に、祭を設けて酒灌す。卜部氏の種屬、男も女も集會ひて、日を積み夜を累ねて飲み楽み歌ひ舞ふ。」とあります。
(e) 儀制令春時祭田条ー「凡そ春の時の祭田の日には、郷の老者を集めて、一たび郷飲酒礼を行へ。人をして長を尊び老を養う道を知らしめよ。」とあります。
(f) 令集解ー古記に、ムラごとに神社があり、私的な社首(やしろのおびと)と呼ばれる社官が置かれ、祭の日には、飲食を準備し、すべての男女が集まり、そこで国家の法が告知され、酒は出挙の利稲で準備され、膳部の給仕は子弟が行い、祭は春秋二回行われるなどとあります。)
b 祀られる神は、祖先神および山川河海を始めとする自然神すなわち天地の神(八百万の神)でしたが、律令制下で神の差別化が進行します。
((a) 神祇令ー「凡そ天神地祇は、神祇官、皆、常の典によりて祭れ。」とあります。
(b) 令義解ー「天神は伊勢、山城鴨、住吉、出雲国造の斎く神の類、地祇は大神、大倭、葛木鴨、出雲大汝神の類。」とあります。
(c) 延喜式神名帳ー天神・地祇3132座
うち名神大492座(うち304座は祈年・月次・新嘗等の祭に官幣(うち71座は相嘗祭にも)が献じられ、残り188座は祈年祭に国幣が献じられます。)
名神小2640座(うち433座は祈年祭に官幣が献じられ、残り2207座は祈年祭に国幣が献じられます。)
(d) 常陸国風土記ー大神は香島天の一柱です。
(e) 出雲国風土記ー各郡に官社と非官社を区分して列記し、大神は野城・熊野・佐太・杵築の四柱です。
(f) 播磨国風土記ー大神は伊和・出雲阿菩・出雲御陰(出雲)・宗形・住吉の五柱です。
(g) 山城国風土記逸文ー可勢大神がみえます。)
(3) 歌垣(うたがき、かがひ)・耀歌之會(うたがきのつどひ)
a 常陸国の筑波山をはじめ各地に毎年春秋二回男女が集まって歌を掛け合い飲食し求婚し性を開放する行事がありました。これを歌垣(うたがき、かがひ)または耀(正しくは女偏)歌之會(うたがきのつどひ)と呼んでいます。
(常陸国風土記筑波郡筑波岳条・茨城郡高浜条・香島郡童子女松原条・久慈郡山田里条・同郡密筑里条・行方郡板来村条。摂津国風土記逸文雄伴郡歌垣山条。筑紫国風土記逸文杵島縣杵島山条。古事記清寧天皇条および日本書紀武烈即位前紀(海石榴市)。万葉集9-1759~60高橋虫麻呂歌。)
(語源解釈)「うたがき(歌垣)」、「かがひ(歌垣、耀歌)」は、
「ウ・タハ・(ン)ガキ」、U(be firm,be fixed)-TAHA(pass on one side,go by)-NGAKI(cultivate,apply oneself to,occupy oneself intently,strive for)、「移りゆくもの(感情)を・止める(歌を詠む)ことに・熱中する(集い)」(「タハ」のH音が脱落して「タ」と、「(ン)ガキ」のNG音がG音に変化して「ガキ」となった)
「カハ・(ン)ガヒ」、KAHA(boundary line of land etc.,ridge of a hill)-NGAHI(suffer penalty,be punished)、「境界の地(や山の上)で催される・(勝負に負けると)罰則がある(集い)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「(ン)ガヒ」のNG音がG音に変化して「ガヒ」となった)の転訛と解します。
b この行事は、通常農耕儀礼(豊作祈願・収穫感謝)と成年・婚姻儀礼が複合した民俗行事と考えられ、成立はかなり古く、律令制の浸透、確立とともに次第に変化し、奈良時代には衰え、中国から取り入れられた踏歌に合流し、平安時代には男女踏歌は朝廷の年中行事となりました。各地の民俗にも 歌垣の痕跡が残るものがあり(鹿児島県内之浦町の春先のミタケマイリや、長崎県対馬の成女式カネツケ祝いにはカガヒを伴います。沖縄のモーアシビ(毛遊び)も同様)、中国西南部の少数民族では現在も盛んに行われ、インドネシアやフィリピンにも歌の掛け合いの習俗があります。
(常陸国風土記から旧国造領域に一ないし二ヶ所の歌場があり、香島郡童子女松原条の悲恋の物語は、この国造領域をまたがった男(那賀の寒田の郎子)と女(海上の安是の嬢子)が許されない恋に心中した説話と解する説(前掲関和彦)があります。)
常陸国風土記は、郡里制の行政区画による(行方郡当麻郷のみ郷)ところから、霊亀3(717)年より前に成立し、当麻郷はそれ以降に追加補正されたと考えられます。この時期に成立したとすれば、そのときの国司は石川難波麻呂で、当時日本書紀は完成しておらず、古事記はできていたとしても地方には普及していなかったであろうとする説が有力です。なお、養老3(719)年に国司に赴任した藤原宇合とその部下の万葉歌人高橋虫麻呂を編纂者にあてる説がありますが、無理でしょう。
常陸国風土記の中の倭武天皇の伝承は、記紀のヤマトタケル伝承と関連するものは一つもありません。
(a 古事記景行条ー(走水海・酒折宮)「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる」とだけあって、常陸国における事績はありません。
b 日本書紀景行40年是歳条ー「日高見の国より還りて、西南、常陸を経て、甲斐国に至りて、酒折宮に坐します」とだけあって、常陸国における事績はありません。
c 常陸国風土記ー
<新治地名関係>○総記ー倭武天皇が東の夷の国を巡狩して新治の県を通過された際、国造に井戸を掘らせ手を洗われたとき、「御衣の袖、泉に垂りて沾(ひ)ぢぬ。便ち、袖を漬(ひた)す義によりて、此の国の名と為せり」とあります。
(「常陸(ひたち)」については、地名篇(その六)の茨城県の(1)常陸国の項を参照してください。)
<タチバナヒメ関係>○行方郡相鹿(あふか)里条ー「倭武天皇の后、大橘比売命、倭より降り来て、この地に参り逢ひたまひき。故、安布賀(あふか)の邑と謂ふ」とあります。○久慈郡助川駅家条ー「昔、遇鹿(あふか)と号く。古老の曰へらく、倭武天皇、ここに至りたまひし時に、皇后、参り逢ひたまふ。よりて名とす」とあります。○多珂郡飽田(あきた)村条ー倭武天皇が東の垂(さかひ)を巡るためこの地に宿られた時、野には鹿多く海には鰒や魚が多いとの話を聞き、「天皇、野に幸して、橘の皇后を遣りて、海の臨みて漁らしめ、捕獲の利を相競はんと、山と海の物を別れて探りたまひき…野の物は得ざれども海の味は尽に飽き喫ひつ」とあります。
(語源解釈) 地名の「あふか(相鹿)・あふか(安布賀)・あふか(遇鹿)」、「あきた(飽田)」、植物の「たちばな(橘)」、人名の「おほたちばな(大橘。比売命)」、「おとたちばな(弟橘。媛)」は、
「アフ・カ」、AHU(heap,secret mound used in certain rites)-KA(take fire,burn)、「火を焚いて・(祀りを行った)丘(がある場所)」
「ア・キタ」、A(the...of)-KITA(tightly clenched)、「(獲物で)満ち溢れている・(野や海がある)場所」
「タ・アチ・パナ」、TA(the...of)-ATI(descendant,clan)-PANA(thrust or drive away)、「(棘があって)人を寄せ付けない・種類の・植物(橘)」
「オホ・タ・チパ・ナ」、OHO(spring up,arise)-TA(the...of,dash)-TIPA(a small body of men which advances rapidly before the main force)-NA (belonging to)、「(弟橘媛入水の報に)立ち上がった・実に・敏活に立ち回る・部類の(媛)」
「アウト・タ・チ・パナ」、AUTO(trailing behind)-TA(dash)-TI(throw)-PANA(thrust or drive away)、「(畳を波の上に投げ出した)後に続いて・身を翻して・さっと・飛び込んだ(入水した。媛)」と解します。
<井戸関係>○茨城郡田余(たまり)里条ー倭武天皇が桑原岳で食事をなさった時に、水部に井戸を掘らせたところ浄く香はしい水だったので、「能く渟(たま)れる水かな」と仰せになった。そこでこの里を、今、田余(たまり)と謂うとあります。○香島郡角折(つのおれ)浜条ー倭武天皇がこの浜で食事をなさった時に、水が無かったので、「鹿の角を執りて地を掘るにその角折れたりき。この所以に名付く。」とあります。
(語源解釈)地名の「たまり(田余。里)」、「つのおれ(角折。浜)」は、
「タ・マリ」、TA(the)-MARI(fortunate of good omen)、「幸運にも予想が当たった(良い水が出た。土地)」
「ツ・(ン)ガウ・オレ」、TU(fight with,energetic)-NGAU(act upon,attack)-ORE(bore,probe)、「躍起になって・堀りに・掘った(水を探し当てた。場所)」(「(ン)ガウ)」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)と解します。
<征服事績>○行方郡当麻郷条ー倭武天皇がこの郷を通り過ぎたとき、佐伯鳥日子が命に背いたので殺し、「…車駕の経る道狭く、地深浅(たぎたぎ)しかりき。悪しき路の義を取りて、当麻(たぎま)郷と謂ふ。」とあります。
(語源解釈)地名の「たぎま(当麻。郷)」は、
「タ(ン)ギ・マ(ン)ガ」、TANGI(cry)-MANGA(branch of a tree or a river etc.)、「(あまりに険しくて)泣かされる・枝道(の場所)」(「タ(ン)ギ」のNG音がN音に変化して「タギ」と、「マ(ン)ガ」の名詞形語尾のNGA音が脱落して「マ」となった)と解します。
<地名の命名関係>○信太郡乗浜村条ー倭武天皇が海辺を巡られて乗浜に至ったところ、「時に、浜浦の上に、多に海苔を乾せりき。是に由りて能理波麻(のりはま)の村と名づく。」とあります。○行方郡波須武(はずむ)野条ー「倭武天皇、此の野に停宿りて、弓弭(ゆはず)を修理ひたまひき。因りて名づく。」とあります。○久慈郡郡名由来条ー「郡より南、近くに小さき丘あり。体、鯨鯢(くじら)に似たり。倭武天皇、よりて久慈(くじ)と名づけたまひき。」とあります。
(語源解釈)地名の「のりはま(乗浜。村)」、「はずむ(波須武。野)」は、
「(ン)ゴリ・ハママ」、NGORI(weak,listiess)-HAMAMA(open,gaping)、「弱い(砂が少ない)・(開けた)浜辺」(「(ン)ゴリ」のNG音がN音に変化して「ノリ」と、「ハママ」の反復語尾が脱落して「ハマ」となった)
「ハハ・ツム」、HAHA(desolate,warn off by shouting)-TUMU(foundation,field of battle)、「荒廃した(かつて戦いの叫び声が響いた)・戦場(の場所)」(「ハハ」の反復語尾が脱落して「ハ」となった)の転訛と解します。
また、「久慈(くじ)郡」については、地名篇(その六)の茨城県の(19)久慈(くじ)郡の項を、「鯨(くじら)」については雑楽篇(その二)の734くじら(鯨)の項を参照してください。
<難破船関係>○香島郡浜里条ー軽野の東の浜辺に流れ着いた大船があり、天智天皇の時、国覓ぎに派遣するため、陸奥の石城に命じて造らせたものが難破したものと謂うとあります。これをヤマトタケルの東征に関連する伝承と解する説と、阿倍比羅夫の蝦夷征討が日本海側だけでなく、太平洋側でも行われたことに関連する伝承と解する説があります。
(「軽野」については、地名篇(その六)の茨城県の(13)鹿島郡のcの項を参照してください。)
d 倭武天皇実在伝承ー古事記景行条は即位しない皇子として異例に極めて詳細なヤマトタケルの系譜を記しています(他に例外として開化天皇の皇子ヒコイマスがあるだけです)。
また、古事記中巻の応神天皇まで他はすべて父子相承であるのに、(景行)ー成務ー仲哀だけが違うのは不自然で、風土記の成立時に、記紀と異なる天皇の継承に関する伝承が別にあった可能性があり、記紀を編纂者が参照し得なかったため、倭武天皇に関する古い伝承をそのまま記載したものとし、当時歴史と文学は混沌として分離していなかったとする説があります。)
a 茨城郡郡名由来条には、古老の言に、昔國巣(くず。俗に「つちくも」、または「やつかはぎ」という。)の山の佐伯・海の佐伯が居り、常に穴に住み、人目をさけて室に隠れ、盗みを働いて、同化しなかった。そこで多臣の黒坂命が室に茨棘を入れ、騎兵で佐伯等を追い、佐伯等は茨棘にかかって傷つき死に絶えた。よって茨棘(うばら)を取って縣の名に付けた。また或る人の言に、山の佐伯・海の佐伯が徒党を組んで良民を殺し、略奪を行ったので、黒坂命が賊を征伐するために茨で城を造った。この故に地(くに)の名を茨城(うばらき)という、とある。(本条末尾の細注には、「息長帯比売の天皇」と、また行方郡田里条には「息長帯日売の皇后」とある。)
(語源解釈)「くろさか(黒坂。命)」は、
「クロ・タカ」、KULO((Hawaii)to wait a long time)-TAKA(prepare)、「(室に茨棘を入れる)準備をして・(賊が罠にかかるのを)長時間待っていた(命)」と解します。
また、「國巣(くず)」、「國巣(つちくも)」、「國巣(やつかはぎ)」、「(山・海の)佐伯(さへき)」については地名篇(その六)の茨城県の(9)茨城郡の項を参照してください。
b 行方郡板来駅家(いたくのうまや)条には、古老の言に、崇神天皇の御代、東国の荒ぶる賊を平定するために建貸間(たけかしま)命を遣わされた。ここに国栖(くず)の夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)が居り、穴を掘り堡を築いて強く抵抗したので、兵を伏せておき、杵嶋の歌曲を七日七夜にわたって遊び楽しみ歌い舞った。そこへ賊が挙って出てきて大喜びで楽しんでいるところを急襲し全滅させた、とある。
(語源解釈)「たけかしま(建貸間。命)」、「やさかし(夜尺斯)」、「やつくし(夜筑斯)」は、
「タケ・カチ・マ」、TAKE(chief,stump)-KATI(bite,trap for rats)-MA(a particle used after names of persons)、「国栖を(鼠を罠にかけるように)退治した・(部族の)首長・殿(命)」
「イア・タカ・チ」、IA(indeed)-TAKA(fall off,fall away)-TI(throw,overcome)、「実に・落とし穴に落ちて・殺された(国栖)」
「イア・ツク・チ」、IA(indeed)-TUKU(blow from any quarter as wind,catch in a net)-TI(throw,overcome)、「実に・一網打尽に・殺された(国栖)」と解します。
また、地名の「板来(いたく)」については、地名篇(その六)の茨城県の(12)潮来町の項を参照してください。
行方郡曽尼駅家(そねのうまや)条には、a 古老の言に、継体天皇の御代、箭括氏麻多智(やはずのうじまたち)が谷津を開墾して田を開いた。このとき夜刀(やつ)神(蛇)が集まって妨害したので、麻多智が武装して夜刀神を追い払い、山口の境の堀に標柱を立て、「ここより上は神の土地、ここより下は人の田とする。今より後、吾は神の 祝となって祀りを行うから、決して祟るな」といい、社を立てて祭祀を続けた。
(語源解釈) 「そね(曽尼)」、「やはず(箭括。氏)」、「またち(麻多智)」、「やつ(夜刀。神)」は、
「トネ」、TONE(projection,knob)、「(こぶのような)高台(の地に設けられた駅)」
「イア・パツ」、IA(indeed)-PATU(edge,strike,kill)、「実に・(夜刀神を)追い払った(氏)」
「マタ・チ」、MATA(deep swamp)-TI(throw,overcome)、「(谷津の)深い湿地を・(克服)開墾した(男)」
「イア・ツ」、IA(stream)-TU(stand,settle)、「水の流れが・ある(場所。谷津。そこに住む蛇)」と解します。
b その後孝徳天皇の御代に、壬生連麿(みぶのむらじまろ)がこの谷を占有して池の堤を築いたとき、夜刀神が池の辺の椎の木に集まって去らなかったので、麿が大きな声で「この池を改修するのは民を活かすためである。これに協力しない神がどこにいるものか。魚虫の類はすべて撃ち殺せ」と叫ぶと蛇はいなくなった。この池は「椎井(しひゐ)の池」というとあります。
香島郡高松浜条に製鉄に関する伝承、那賀郡茨城里条に三輪山説話に似た脯時臥(くれふし)山伝承(「脯時臥(くれふし)山」については、地名篇(その六)の茨城県の(16)那珂郡のd甫時臥(くれふし)の山の項を参照してください。)、久慈郡に荒ぶる神を祀って鎮める賀毘禮(かびれ)峯伝承(「賀毘禮(かびれ)峯」については、地名篇(その六)の茨城県の(19)久慈郡のc賀毘禮(かびれ)の高峯の項を参照してください。)、各地に歌垣伝承(前掲)などがあります。
出雲国風土記は、巻末に「天平5(733)年2月30日勘造 秋鹿郡人 神宅臣全太理 国造帯意宇郡大領外正 六位上勲十二等 出雲臣廣嶋」とあります。また、各郡の末尾に郡司・大領・少領・主政等の名が記されています。(天平5(733)年は和銅6(713)年から20年後であり、国守の解でなく、また、2月は小の月で30日はなく後世の偽撰とする説がありましたが、正倉院文書写経目録に30日があり、疑いはないとされました。また、出雲臣廣嶋は続紀神亀元(724)年正月と同3年2月に平城宮に出向して神賀詞(かんよごと)を奏上しています。)
この時代、日本書紀はすでに完成し、出雲臣廣嶋もその内容を知っていたと考えられますが、風土記には全く日本書紀の影も見られません。
なお、本風土記は、初撰説、再撰説、増補説、私撰説があるほか、天平4年8月に置かれた山陰道節度使との関係で兵要誌的要素が付加されたとの説がありますが、結論は出ていません。
意宇郡郡名由来条は、八束水臣津野(やつかみずおみつの)命が「八雲立つ出雲国は狭い布のような若い国である。縫つて大きくしょう。」と言われた。そして志羅紀(しらぎ)の三埼に国の余りがあると、三本をより合わせた綱でそろそろと「国来(くにこ)々」とたぐって引いてきて縫い合わせたのが八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼である。この時の杭は佐比売(さひめ)山(三瓶山)、綱は薗(その)の長浜である。次に北門(きたど)の佐伎(さき)国の余りを引いてきて縫つたのが狭田(さだ)国である。次に北門の農波(ぬなみ)国の余りを引いてきて縫つたのが闇見(くらみ)国である。最後に高志(こし)の都都(つつ)の三埼の余りを引いてきて縫ったのが三穂(みほ)埼である。引いた綱は夜見嶋(よみのしま)、杭は伯耆国の火神(ひのかみ)岳(大山)である。命は、仕事を終えて意宇社に御杖をついて、「意恵(おゑ)」と言われたので、「意宇(おう)」という、とあります。
八束水臣津野命は、出雲郡伊努郷条に「国引きましし意美豆努(おみずぬ)命…」と、神門郡神門水海条に「意美豆努命の国引きましし時の綱」とあり、古事記のスサノオの系譜に四世孫、オオクニヌシの祖父の「於美豆奴(おみずぬ)命」としてみえます。
(a 縄文海進と地形の変化ー(a) 一万年前から六千年前に縄文海進が起こり、島根半島と中国山地北縁の間に内湾(古宍道湖と古中海)が形成(本土と分離)されました。(b)縄文海進がピークに達した六千年前以降は、河川が運ぶ土砂によって内湾の埋め立が進み、出雲平野や弓ヶ浜砂州などの沖積低地が拡大しました。(c) 風土記が書かれた二千年前には、島根半島は出雲平野によって完全に地続きになっています。宍道湖は中海を経て海水が流入し、弓ヶ浜砂州の付け根には水道が形成されていました。d 寛永16(1639)年、斐伊川が洪水によって流路を変え、宍道湖に流入するようになり、汽水化が進むこととなりました。国引き神話は、(b)から(c)までの地形の変化を説明するものと考えられます。)
(語源解釈)「いずも(出雲)」、「やくもたつ(八雲立つ)」、「やつかみずおみつの(八束水臣津野。命)」、「おゑ(意恵)」、「おう(意宇。社・郡)」は、
「イツ・ マウ」、ITU(side)-MAU(fixed,established,captured)、「(国土を引いてきて)固定した・その一帯(の地域)」(「マウ」のAU音がO音に変化して「モ」となった)
「イア・クモウ・タツ」、IA(indeed)-KUMOU(cover a fire with ashes or earth to keep it mouldering)-TATU(reach the bottom,be at ease,be content)、「実に・埋み火に灰を盛ったような(なだらかな)山が・ゆったりと休んでいる(国)」
「イア・ツカハ・ミ・ツ・オミ・ツ(ン)ゴウ」、IA(indeed)-TUKAHA(strenuous,vigorous,passionate)-MI(urine,stream)-TU(stand,settle)-OMI((Hawaii)to wither,droop)-TUNGOU(nod,beckon)、「実に・荒れ狂う・水の流れを・静止させ・勢いを弱めた(制御した)・(これでよしと)頷いた(命)」(「ツカハ」のH音が脱落して「ツカ」と、「ツ(ン)ゴウ」のNG音がN音に変化して「ツノウ」から「ツノ」 となった)
「アウヱ」、AUWE(expressing astonishment or distress)、「ああ疲れた」(AU音がO音に変化して「オヱ」となり、またWE音がU音に変化して「オウ」となった)の転訛と解します。
記紀の荒々しく粗野なスサノオ神話に対応するものは全くみられず、穏やかに巡行し鎮座する神・名を付ける神ー郷土の民の敬愛を集める男性神が記される。
(a 飯石郡須佐郷条ースサノオノミコトが「この国は小さな国だが国とするにふさわしい処だ。よって我が名は石木には付けてはならない。」と仰せられて鎮座された。b 意宇郡安来郷ースサノオノミコトが国土の果てまで巡行されたとき、この地に来られて「我が心は安平(やすけく)なった。」と仰せになったので、安来(やすき)という。)
(語源解釈)「スサノオ」は、
「ツ・タノイ・ワウ」、TU(fight with,energetic)-TANOI(be sprained)-WAU(quarrel,make a noise)、「性格が烈しくて・(高天原で)騒ぎを引き起こして・懲らしめられた(神)」(「タノイ」の語尾のI音が脱落して「タノ」から「サノ」と、「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」となった)
または「ツ・タ(ン)ゴ・ワウ」、TU(fight with,energetic)-TANGO(take hold of,take away)-WAU(quarrel,make a noise)、「性格が烈しくて・いつも・喧嘩していた(神)」(「タ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「タノ」から「サノ」と、「ワウ」のAU音がO音に変化して「ヲ」となった)の転訛と解します。
スサノオの御子神の伝承も、物静かな郷土神です。
(a 意宇郡大草郷条ー青幡佐久佐日古命の鎮座。b 嶋根郡山口郷条ー都留伎日子命の鎮座。c 嶋根郡方結郷条ー国忍別命の国讃め。d 神門郡八野郷条ー八野若日女命の鎮座と被求婚。D神門郡滑狭郷条ー和加須世理比売命の鎮座と結婚。E大原郡高麻山条ー青幡佐草日古命の麻の栽培。)
記紀の国譲り交渉のため出雲へ派遣されるタケミカヅチ・フツヌシ神話に対応するものは全くありません。
(意宇郡楯縫郷ー布都怒志命の天の石楯を造つて置いたので、楯縫というとあります。)
大穴持命を「所造天下大神命(天の下造りましし大神の命)」(意宇郡拝志郷条など8例)、「所造天下大神(天の下造りましし大神)大穴持命」(意宇郡母理郷条など7例)、「所造天下大穴持神(天の下造りましし大穴持命)」(意宇郡出雲神戸条1例)、「所造天下大神(天の下造りましし大神)」(楯縫郡郡名由来条など11例)と認めて特筆しています(合計27例)。
大穴持命は国譲りに際して「我が造りまして命(し)らす国は、皇御孫(すめみま)の命、平らけくみ世知らせと依(よ)さしまつらむ」としながらも、「八雲立つ出雲の国は、我が静まります国と、青垣山廻らし賜ひて、玉珍(たま)置き賜ひて守(も)らむ」と宣言し、記紀神話のようにひたすら屈服し従属する姿勢はみられません。このことは、出雲国造の「神賀詞(かんよごと)」とも共通しています。
(語源解釈)「オホナムチ(記)」、「オホアナムチ(紀)」は、
「オホ・ナ・ム フ・チ」、OHO(wake up,arise)-NA(belonging to)-MUHU(grope,push one's way through bushes)-TI(throw,overcome)、「すっくと立つている・どちらかといえば・手探りで道を切り開いて・(国を)平定した(命)」(「ムフ」のH音が脱落して「ム」と なった)
「アナ」、NA(denoting continuance of action or stste)、「これまでずっと」と解します。
a 高志(こし)国ー(意宇郡母理郷・拝志郷条)オホナムチが高志の八口を平定したとあります。(神門郡古志郷条)古志の国人が来て堤をつくり、定着したので、古志というとあります。(同郡狭結(さゆふ)駅条)古志国の佐与布(さよふ)という人が来て住んだので、最邑(さいふ)というとあります。)
(語源解釈)「さゆふ(狭結。駅)」、「さよふ(佐与布)」、「さいふ(最邑)」は、
「タイ・ウ・フ」、TAI(tide,wave)-U(be firm,be fixed)-HU(hill)、「川の流れを・堰き止めている・丘(の上にある。駅)」
「タイ・オフ」、TAI(tide,wave)-OHU(stoop)、「川の流れを・堰き止める(人)」
「タ・イフ」、TA(the)-IHU(nose,bow of a canoe etc.)、「あの・(カヌーの舳先のように)高い丘(堤の場所)」の転訛と解します。
b 若狹国ー(垂仁紀2年是歳条)ツヌガアラシトが北ツ海より廻って、出雲国を経て、越の気比に至ったとあります。
c 能登国ー(『延喜式』神名帳)能登国羽咋郡に大穴持神像石神社、能登郡に宿那比古像石神社など鎮座しています。
d 播磨国ー7の(6)の出雲国との関係を参照してください。
e 吉備国ー(崇神紀60年7月条)出雲振根が筑紫に行って留守のときに弟飯入根が神宝を大和朝廷に貢上し、兄に殺されますが、これを知った大和朝廷は吉備津彦を遣して振根を殺したとあります。(神門郡巻末)神門郡主政吉備臣とあります。(紀神代巻上第八段一書の第三)スサノオの蛇を切った剣は、今吉備の神部のもとにありとあります。(同一書の第二)これは、今石上(備前国式内社石上布都之魂神社)に在すとあります。
(「出雲振根(いずものふるね)」、「飯入根(いひいりね)」については、古典篇(その七)の210H10出雲振根の項を参照してください。)
(語源解釈)「石上(いそのかみ)」は、
「イト・ノ・カミ」、ITO(object of r evenge,trophy of an enemy)-NO(of)-KAMI(eat)、「征服した・(敵)の・(記念の)戦利品(を収蔵する場所。神社)」)と解します。なお、地名篇(その五)の奈良県の(53)石上神宮の項を参照してください。
f 筑紫国ー(景行記)倭武命は筑紫から出雲へ行き出雲建を征討したとあります。(記)大国主命が宗像三女神の一の多紀理毘売命を娶つたとあります。(荒神谷神庭遺跡)出土した銅矛は明らかに北九州系です。
g 大和国ー(神門郡日置郷条)欽明天皇の時、日置伴部等が派遣されて停り政を行ったとあります。(意宇郡舎人郷条)欽明天皇の時、大舎人として朝廷に仕えたとあります。
(意宇郡安来郷条)天武天皇3(674)年7月13日に語臣猪麻呂の娘が近くの毘売埼のあたりでワニに食い殺され、父は怒りを抑えきれず、遂に神々に仇を取らせてくれるよう訴えます。すると100匹余りのワニが1匹のワニを囲んで浜の猪麻呂のそばへやってきたので、矛で刺し殺し、それを見届けたワニが去った後、ワニの腹を裂いてみると果たして娘の脛が一本出てきます。猪麻呂はそのワニを串に刺して路傍に晒しものとしたとあります。
(語源解釈)「語(かたり)臣」、「猪(ゐ)麻呂」は、
「カハ・タリ」、KAHA(strong,persistency)-TARI(carry,bring)、「(物語などを)長期間にわたって・(保持し)記憶し物語る(ことを職とする臣)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)
「ウイ」、UI(ask,enquire)、「(娘の仇を討つことを)強く願った(男)」の転訛と解します。
0 出雲国造家の祖先系譜に「ヒコ」・「ワケ」名はありませんが、これをもって出雲臣一族が五世紀以前に遡る由緒を持った氏族であるという推定に対して疑念を持つ説(前田晴人『古代出雲』吉川弘文館、2006年)は誤りと考えます。
(語源解釈)「ヒコ」、「ワケ」は、
「ヒコ」、HIKO(move at random or irregularly)、「諸方を巡歴した(者)」
「ワカイ(ン)ガ」、WAKAINGA(distant home)、「(出身地または本来の居住地から)遠く離れて居住した(者)」(AI音がE音に変化し、名詞形語尾のNGA音が脱落して「ワケ」となった)の転訛と解します。
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風土記の内容は、地名の由来を語る神々の神話および天皇(とくに応神天皇)伝承が殆どですが、天皇伝承が濃密に分布する郡(賀古・印南・餝磨・揖保・美嚢郡ーおおむね南部の山陽道が通る地域)には神話が少なく、天皇伝承の少ない郡(讃容・宍禾・神前・託賀・賀毛郡ーおおむね北部の内陸地域)には神話が濃密に分布する特徴があります。
また、神々の中には、土着の伊和大神のほか、オオクニヌシやそれと争うアメノヒホコ、荒ぶる神々の存在が注目されます。
さらに、近隣の国の中では、とくに出雲国との交流関係が密接です。
(a 天皇関係の伝承は92話、うち品太(応神)天皇は44話、5郡にわたっています。
b 神話101話、うち伊和大神またはその御子神は19話、6郡にわたっています。
c 美嚢郡志深里条には、記紀のオケ・ヲケ天皇(仁賢・顕宗両天皇)とほぼ同じ伝承が記されています。)
播磨国の随所に土着神としての伊和大神やその御子神等の伝承があります。
なお、餝磨郡には伊和里がみえ、宍粟郡には伊和村(もとの名は神酒村)がみえ、伊和大神を祀る式内社伊和神社が鎮座します。
(語源解釈)「いわ(伊和。大神)」は、
「イ・ワ」、I(past tense)-WHA(be disclosed,get abroad)、「(外から)移住して・来た(大神)」
または「イ・ワハ」、I(past tense)-WAHA(raise up)、「国を(立ち上げ)作り・固めた(大神)」(「ワハ」のH音が脱落して「ワ」となった)と解します。
(a 餝磨郡英賀里条ー伊和大神の御子阿賀比古・阿賀比売がここにいたとあります。
(語源解釈)「あが(英賀。阿賀)」は、
「ア(ン)ガ」、ANGA(face or move in a certain direction)、「先に立って進む(神。その住む場所)」(NG音がG音に変化して「ガ」となった)の転訛と解します。
b 揖保郡香山里条ー伊和大神がこの地域を占有した際、鹿が来て山の峯に立ったとし、山の峯が墓に似ていたので鹿来(かぐ)墓と号け、後香(かぐ)山と改めたとあります。
(語源解釈)「かぐはか(鹿来墓)」は、
「カハ・(ン)グ・ハカ」、KAHA(crested grebe)-NGU(greedy)-HAKA(deformed)、「(かいつぶりの冠毛のようにピンと立っている)山の頂上が・食い千切られて・変形している(山。その山のある里)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」と、「(ン)グ」のNG音がG音に変化して「グ」となった)の転訛と解します。
c 讃容郡郡名由来条ー(伊和)大神兄妹二柱が競って国を占拠したとき、妹の玉津日売命が鹿を捕らえ、その腹を割き、その血に稲を蒔き、一夜でできた苗を田に植えたので、大神は「お前は五月夜(さよ)に植えたものだ」と言って他の地へ去ったとあります。土地に早く苗を植えた者がその土地を占有するという占居説話の典型です。
(語源解釈)「たまつ(玉津。日売命)」、「さよ(五月夜)」は、
「タ・マツ」、TA-MATU(ta=dash,beat;matu=cut,cut in pieces)、「(鹿を)屠つて・切り刻んだ(媛命)」
「タイ・オ」、TAI-O(tai=prefix sometimes with a qualifying force;o=find room, be capable of being contained or enclosed,get in implying difficulty or reluctance)、「(早々と稲を植えることによって)天晴れにも・(土地を)取得した(その地域)」(「タイ」と「オ」が連結して「サヨ」となった)
d 宍禾郡郡名由来条ー伊和大神が国を作り固めた後、境界を定めに巡行した時、矢田村で舌を出した大きな鹿に出逢い、「矢は彼の舌にあり」と言ったので「宍禾(しさは)の郡」と号したとあります。
(「しさは(宍禾)」については、地名篇(その四)の兵庫県の(21) 宍粟(しそう)郡の項を参照してください。)
e 神前郡郡名由来条ー伊和大神の子建石敷命が神前山にいたので、神前(かむさき)郡というとあります。
(「かむさき(神前)」については、地名篇(その四)の兵庫県の(22)神埼郡の項を参照してください。)
f 託賀郡袁布山条ー昔宗形の奥津嶋比売命が伊和大神の子を孕んでこの山に来て「我が出産すべき時がやってきた」と言ったので、袁布(をふ)山というとあります。)
(語源解釈)「をふ(袁布)」は、
「ワオ・オフ」、WAO(forest)-OHU(stoop)、「(お産のために)うずくまった・森(山)」(「ワオ」の語尾のAO音がO音となり、「オフ」の語頭のO音と連結して「ヲフ」となった)
g 宍粟郡伊和(いわ)村条ー本の名は「神酒(みわ)」で、大神が酒をこの村で醸造したことによるとします。「また、於和(おわ)の村といふ。大神、国作り終えまして以後、『於和(おわ)、我が美岐(みき)に等(まも)らむ』とのりたまひき。」とあります。この「於和」は、「神酒(みわ)」と同じく「伊和(いわ)」の同一語の音転訛とされ、また出雲国風土記意宇郡の八束水臣津野命が国引きを終えて「おゑ」といわれたのと同じとされます(いずれも『風土記』岩波日本古典文学大系頭注)が、疑問です。さらに、「美岐」は「棺」を指すとされます。
(語源解釈)「みわ」、「おわ」、「みき」は、
「ミ・ワ」、MI(urine,water)-WA((Hawaii)to make a noise,roar,to talk much)、「(飲むと)口数が多くなる・水(酒。神酒)」(M音が脱落して「イワ」となつた)
「オワ」、OWHA(=oha=dying speech)、「遺言」
「ミキ」、MIKI(ridge of hills)、「山波。(大神が作った)国(のたたずまい。その環境)」
出雲国と同様、二神が協力して国を経営した事績を語る伝承が残され、その一つは大汝少日子根命と一柱の神として伝承されています(神前郡埴丘里条)。注目すべきことは、スクナヒコナは小男ではなく大量の重い埴土を背負って何日も歩き続けることができる屈強な大男として語られ、他方オホナムチは何も持たずに歩く華奢な男のイメージで語られていることです。(この伝承については、3の(2)神話・伝承の起源および特徴の項を参照してください。)
(a 餝磨郡筥丘条ー大汝少日子根命(ここでは一柱の神として伝承されています)が日女道丘の神を訪ねたとき、女神がこの丘に食物や筥の器などを備えていたので、筥(はこ)丘と号けたとあります。
(語源解釈)「はこ(筥。丘)」は、
「ハコ」、HAKO(anything used as a scoop or shovel)、「シャベルで土を盛り上げた(丘)」と解します。
b 揖保郡稲種山条ー二柱の神が神前郡埴岡里の生野峯にあってこの山を望み見て、「彼の山は稲種(いなだね)を置くべし」と言われたとあります。
(語源解釈)「いなだね(稲種)」は、
「イ・(ン)ガタ・ネイ」、I(past tense)-NGATA(satisfied,dry)-NEI(to indicate continuance of action)、「乾燥し・きって・いる(場所。山)(種子の保存に好適な場所)」(「(ン)ガタ」のNG音がN音に変化して「ナタ」から「ナダ」となった)の転訛と解します。
c 神前郡埴丘里条ー二柱の神が争いをしてスクナヒコナは埴土の荷を担ってどこまで行けるか、オホナムチは糞を垂れずにどこまでゆけるかを競いましたが、数日後オホナムチが先に降参しました。スクナヒコナがそこで埴土を投げ捨てたので、埴丘というとあります。
d 賀毛郡下鴨里条ーオホナムチが碓を造って稲を搗いたところは碓居谷と、箕を置いたところは箕谷と、酒屋を造ったところは酒屋谷と号けたとあります。
e 餝磨郡伊和里十四丘由来条ーオホナムチの子火明命があまりに気性が激しかったので、子を置き去りにして船出したところ、火明命が怒って父の船を追いかけて破壊したとあります。)
(語源解釈)「ほあかり(火明。命)」は、
「ホア・カリ」、HOA(a generic game for charms for many purposes,work upon anything by means of such a charm)-KARI(dig,rush along violently)、「呪文を唱えて・(父の船に)猛然と襲いかかった(命)」と解します。
(餝磨郡伊和里十四丘由来条に関係する地名等については、地名篇(その四)の兵庫県の(16)姫路(ひめじ)市の項を参照してください。)
アメノヒホコがやって来てアシハラシコヲと国の占有争いをした伝承が各地(とくに宍禾郡に濃密)に残っています。
(語源解釈)「アメノヒホコ」は、
「ア・メノ・ヒ・ホコ」、A(the...of)-MENO(=whakameno=show off,make a display)-HI(raise,rise)-HOKO(lover)、「(自分の身分を)誇示した・身分の高い・(アカルヒメを追ってやって来た)恋人」)と解します。
(a 揖保郡粒丘条ーアメノヒホコが韓国から来てアシハラシコヲに「貴方は国主です。私が宿る場所を与えてください」といったところ、シコヲは海中に宿ることを許しました。するとヒホコは、剣で海水を掻き回して宿りました。シコヲは先に国を占拠しようとして粒丘に至って食事をし、口から粒がこぼれたので粒(いひぼ)丘というとあります。
(「いひぼ」については、地名篇(その四)の兵庫県の(18)揖保郡のb揖保(いぼ)川の項を参照してください。)
b 宍禾郡奪谷条ーアシハラノシコヲとアメノヒホコがこの谷を奪い合ったとあります。
(語源解釈)「うばひ(奪。谷)」は、
「ウ・パヒ」、U(fixed)-PAHI(strike,beat)、「(土地を争っての)撃ち合いが・決着した(場所。谷)」と解します。
c 宍禾郡波加(はか)村条ー国を占有したとき、アメノヒホコが先にここに来て、遅れて来た伊和の大神(シコヲの誤りか)が「ヒホコが先に来るとは考えもしなかった」といったとあります。
(語源解釈)「はか(波加)」は、
「ハカ」、HAKA(expressing surprise,complaint,admiration,etc.)、「(ヒホコに先を越されて)びっくりした(場所)」と解します。
d 宍禾郡御方(みかた)里条ーアシハラノシコヲとアメノヒホコが志爾岳に来てそれぞれ黒葛三本(三条(みかた))を足で投げたところ、アシハラノシコヲの黒葛は一本は但馬の気多郡に、一本は夜夫郡に、一本はこの村に落ちました。アメノヒホコの黒葛は、全部但馬国に落ちたので、同国の伊都志の地に住んだとあります。一説には、大神が形見として御杖をこの村に挿したので「御形(みかた)」というとあります。
(語源解釈)「みかた(御方)」は、
「ミカ・タ」、MIKA((Hawaii)to press,crush)-TA(dash,beat)、「押し・流す(川。三方川(揖保川支流)が流れる地域)」と解します。
e 神前郡粳岡(ぬかをか)条ー伊和大神(アシハラノシコヲの誤りか)とアメノヒホコの軍が戦ったとき、大神の軍が稲を搗き、その粳が集まって岡となったとあります。
f 神前郡八千軍条ーアメノヒホコの軍が八千人いたので、八千軍野(やちぐさの)というとあります。
(語源解釈)「やちぐさ(八千軍)」は、
「イア・チ(ン)ゴウ・タ」、IA(indeed,current)-TINGOU(tingoungou=knob)-TA(dash,lay)、「実に・こぶ(のような丘)が・ある(地域)」(「チ(ン)ゴウ」のOU音がU音に変化して「チグ」となった)の転訛と解します。
各地に往来する人や船の半ばを留めるという荒ぶる神の伝承が残っています。
(a 賀古郡鴨波(あはは)里舟引原条ー神前の村に荒ぶる神がいて、常に往来する舟の半分を留めていたので、往来する舟はすべて印南の大津江から川上に上り、賀意理多(かおりた)の谷から引き出して、赤石郡の林の港へ回って出るようになったので、舟引原(ふなひきはら)というとあります。
(語源解釈)「かおりた(賀意理多)」は、
「カオ・リタハ」、KAO(assembled(kaokao=sideways on))-RITAHA(lean on one side,incline)、「脇道の・(一方に傾斜している)谷」(「リタハ」のH音が脱落して「リタ」となった)の転訛と解します。
b 揖保郡意此(おし)川条ー応神天皇の御代、出雲の御陰の大神が枚方の里の神尾(かみを)山にあって常に往来する人の半数を殺したので、伯耆の人小保弖(こほて)・因幡の布久漏(ふくろ)・出雲の都伎也(つきや)の三人が朝廷に願い出て、額田部連久等々(くとと)が派遣され、屋形と酒屋を建て祈祷を行って鎮めたとあります。
(語源解釈)「おし(意此)」、「かみを(神尾)」、「こほて(小保弖)」、「ふくろ(布久漏)」、「つきや(都伎也)」、「くとと(久等々)」は、
「オチ」、OTI(finished,gone or come for good)、「(荒ぶる神の祭祀が)終わった(うまく行った。その場所を流れる川)」
「カミ・ワオ」、KAMI(eat)-WAO(forest)、「(人を殺す)神が座す・森(山)」(「ワオ」のAO音がO音に変化して「ヲ」となった)
「コ・ホテ」、KO(addressing males and females)-HOTE(chatter,jabber)、「おしゃべりな・男」
「フクロア」、HUKUROA(train,retinue)、「随行者」
「ツキ・イア」、TUKI(pound,attack,give the time ti paddlers in a canoe)-IA(indeed)、「実に・くってかかる(男)」
「ク・トト」、KU(silent)-TOTO(blood,bleed)、「生来・物静かな(男)」
c 揖保郡佐比(さひ)岡条ー出雲の大神が神尾山にあって出雲の国人でここを通る者の半数を留めたので、出雲の国人は佐比(鋤)を作って祀ったが、鎮めることができませんでした。その後に河内国の茨田郡の枚方里の住人漢人(あやひと)が来て祀り、やっと鎮めたとあります。
(語源解釈)「さひ(佐比)」、「あやひと(漢人)」は、
「タヒ」、TAHI(a wooden implement for cultivating)、「(木製の)鍬または鋤」
「アイア・ピト」、AIA(=kaitoa=brave man;expressing satisfactin or complacency at any event,especially at misfortune happening to others)-PITO(end,extremity)、「非常に・勇気がある(人)」または「非常に・他の人が殺されても意に介さない(楽天的な。人)」(「ピト」のP音がF音を経てH音に変化して「ヒト」となった)
d 神前郡生野条ー昔ここに荒ぶる神がいて往来の人の半ばを殺したので、死野(しにの)と号けたとあります。後に応神天皇が生野(いくの)と名を改めたといいます。)
(語源解釈)「しにの(死野)」は、
「チ(ン)ギ(ン)ゴ」、TINGINGO(tingingongingo=malignant devouring spirits)、「人を貪り食らう悪霊(が襲ってくる。場所)」(NG音がN音に変化して「チニノ」から「シニノ」となった)
播磨国には、オホナムチ・スクナヒコナ伝承のほか、出雲国との密接な交流関係を示す伝承が数多くあります。
(a 賀古郡比禮墓条ー景行天皇が寵愛した印南の別嬢の床掃へに奉仕した出雲臣比須良(ひすら)比売を息長命の妻に賜ったとあります。
(語源解釈)「ひすら(比須良。比売)」は、
「ヒ・ツラ」、HI(raise,rise)-TURANGA(circumstnce etc. of stnding,foundation)、「(住居の)環境を・高めた(清潔に住み易く整えた。媛)」と解します。
b 飾磨郡飾磨御宅条ー仁徳天皇の御代、意伎・出雲・伯耆・因幡・但馬の五人の国造を招集した際、招集使を水夫として京に向かったことを罪に問い、これらの者を播磨国に流して田を作らせたとし、これを意伎田・出雲田・伯耆田・因幡田・但馬田と号したとあります。
c 揖保郡上岡里条ー出雲国の阿菩(あぼ)の大神が大倭の国の畝火・香山・耳梨の三山が相戦うと聞いてこれを諫めようとやってきた時、ここで争いが止んだと聞いて、乗ってきた船を伏せて滞在したので、神阜(かみをか)と号けたとあります。
(語源解釈)「あぼ(阿菩。大神)」は、
「ア・ポ」、A(the...of)-PO(popo=pat with the hand,soothe,lullaby)、「何事によらず・宥める(神)」と解します。
d 揖保郡立野条ー昔土師弩美宿禰(野見宿禰)が出雲国に往来して日下部野で病気になって死んだとき、出雲の人が大勢やって来て川の礫を運んで墓の山を作ったので、立野(たちの)と号し、その墓屋を出雲の墓屋(はかや)と言ったとあります。この立野にちなんで龍野(たつの)市の市名が付けられました。
(語源解釈)「たちの(立野)」、「はかや(墓屋)」は、
「タ・チノヒ」、TA(the)-TINOHI(put heated stones upon food laid to cook in a earth-oven)、「あの・(地面に掘った蒸し焼き炉に入れた食物を調理するためにその上に焼いた石を載せるように)礫を積んだ(墓。その墓がある場所)」(「チノヒ」の語尾のH音が脱落して「チノ」となった)
「ハカ・イア」、HAKA(expressing surprise,complaint,admiration etc.)-IA(indeed)、「実に・素晴らしい(墓)」の転訛と解します。
e 揖保郡意此川条ー前項の(5)荒ぶる神伝承のbの項を参照してください。
f 揖保郡佐比岡条ー前項の(5)荒ぶる神伝承のcの項を参照してください。
g 揖保郡琴坂条ー景行天皇の御代、出雲の国人がここで休んだとき、坂本に田を耕す老人と娘がおり、琴を弾いてその娘に聞かせたので、琴坂(ことさか)というとあります。
(語源解釈)「ことさか(琴坂)」は、
「コト・タカ」、KOTO(sob,make a low sound)-TAKA(fall off,fall away)、「(琴を弾いて)低い音を立てた・坂」と解します。
h 讃容郡筌戸条ー大神が出雲の国からやって来たとき、島の村の岡に胡座を組んで休み、筌を川に置いたので筌戸(うへと)というとあります。この筌には魚がかからずに、鹿が入り、これを膾に作りましたが、大神の口に入らずに地に落ちたので、他に遷つたといいます。)
(語源解釈)「うへと(筌戸)」は、
「ウ・ヘ・タウ」、U(be firm,be fixed)-HE(wrong,mistaken)-TAU(come to rest,settle down)、「可怪しな・結果となった・休息(の場所)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」となった)の転訛と解します。
美嚢郡志深里条には、記紀のオケ・ヲケ天皇(仁賢・顕宗両天皇)伝承とほぼ同じ伝承が記されています。ただし、兄弟が身を寄せた先を志深の村の首、伊等尾(いとみ)とし(紀は縮見屯倉首細目(ほそめ)とします。)、弟の詠辞(ながめごと)の中に「たらちし 吉備の鉄の狭鍬持ち…」、「…市辺の天皇が御足末(みあなすえ) 奴僕らま」の語句がみえます。
(語源解釈)「いとみ(伊等尾)」、「たらちし」、「らま」は、
「イ・タウ・ミヒ」、I(past tense)-TAU(turn away,look in another direction)-MIHI(sigh for,greet,admire)、「(兄弟が皇子であることを知って)一転して・敬意を表・した(首長)」(「タウ」のAU音がO音に変化して「ト」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)
「タラ・チチ」、TARA(point,peak,horn)-TITI(having great endurance)、「抜群に長持ちする・刃先(の。吉備の鉄の鍬(現在「備中鍬」と呼ばれる三本ないし五本の枝分かれした鍬を指すものかと思われます。))」
「ラ・マ」、RA(intensive article,sometimes to be translated then or but)-MA(white,pale(whakama=whiten,ashamed))、「(高貴な人の前に)きちんと・かしこまれ!(控えよ!)」の転訛と解します。
肥前国風土記とともに現伝九州風土記の一ですが、記事の分量が極めて少なく省略本の可能性があります。
また、九州諸国風土記を通じて、紀と記事内容から表現までが類似しています。
さらに、ここには景行天皇にまつわる伝承が数多く存します(天皇伝承16のうち14)。
豊後国国名由来条は、豊後国はもと豊前国とあわせて豊国でしたが、景行天皇の命を受けて豊国を治める菟名手(うなて)が仲津郡の中臣村で北から飛んできた白鳥がたちまち餅となり、またすぐに里芋数千株と化したのを見、それが冬になっても枯れなかったので、朝廷に参上して瑞兆として報告し、天皇は豊(とよ)国と呼ぶよう命じるとともに菟名手に豊国直の姓を与えたとします。
(これは、稲作以前に芋が重要な作物として栽培されていたことを示す伝承と解されます。
なお、古事記国生み条は「豊国を豊日別(とよひわけ)と謂ふ」とします。)
(語源解釈)「とよ(豊)」、「うなて(菟名手)」は、
「ト・イオ」、TO(drag,open or shut a door or a window)-IO(muscle,line,strand of a rope)、「(潮の干満に応じて)潮が行き来する・縄のような海峡(関門海峡(および豊予海峡) に面している。国)」 )
「ウ(ン)ガ・テ」、UNGA(act or circumstance of becoming firm)-TE(say)、「(白鳥が餅となり里芋に)化したことを・奏上した(男)」(「ウ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ウナ」となった)の転訛と解します。
速見郡田野(たの)条は、ここは広く豊沃で米が余って収穫せずに畝に放置するほどでしたが、富者が餅を的としたところ、餅が白鳥と化して南へ飛び去り、百姓に死に絶え、田地は荒れ果てたとします。
(語源解釈)「たの(田野)」は、
「タ(ン)ゴ」、TANGO(take,take away)、「(獲得した富が傲慢な所業によって)逃げ去った(場所)」(NG音がN音に変化して「タノ」となった)の転訛と解します。
速見郡郡名由来条は、景行天皇が球磨贈於(くまそ)を征討するため周防国から海部郡の宮浦に到着して停泊したところ、この地の速津(はやつ)媛が服順して出迎え、その言によって鼠の磐窟に住む土蜘蛛の青・白、直入郡の禰疑野の打猿・八田・国麻侶を滅ぼしたので、速津媛の国といい、後の人が改めて速見(はやみ)の郡といったとします。この条は、景行紀12年10月条とほぼ同じ内容・表現であることから、風土記編集者が紀に従って記述したと解する説が有力です。
(この「速津媛」等については、古典篇(その八)の212H3速津媛の項を、「速見郡」については、地名篇(その二十)の大分県の(11)速見郡の項を参照してください。)
大野郡の網磯野条は、景行天皇が巡幸されたとき、土蜘蛛の小竹鹿奥(しのかおき)、小竹鹿臣(しのかおみ)が天皇の食膳に供しようと狩をする声が非常にうるさかったため「大囂(あなみす)」と仰せられたので、この地を大囂野(あなみすの)といつたが、今は訛って網磯野(あみしの)というとあります。
(語源解釈)「しのかおき(小竹鹿奥)」、「しのかおみ(小竹鹿臣)」、「あなみす(大囂)」、「あみしの(網磯野)」は、
「チ(ン)ゴ・カオ・キ」、TINGO(tingongo=cause to shrink,shrivel)-KAO(assembled,collected togather)-KI(full,very)、「震え上がって小さくなっている(土蜘蛛が)・たくさん・集まっている(部族)」(「チ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「チノ」となった)
「チ(ン)ゴ・カオ・ミヒ」、TINGO(tingongo=cause to shrink,shrivel)-KAO(assembled,collected togather)-MIHI(sigh for,show itself)、「震え上がって小さくなっている(土蜘蛛が)・集まって・溜息をついている(部族)」(「チ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「チノ」から「シノ」と、「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)
「アナ・ミヒ・ツ」、ANA(calling immediate attention,denoting temporary condition or continuance of action)-MIHI(sigh for,express discomfort)-TU(stand,settle)、「なんと・(不快な)うるさい・ことだ」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)
「アミ・チ(ン)ゴ」、AMI(gather,collect)-TINGO(tingongo=cause to shrink,shrivel)、「震え上がって小さくなっている(土蜘蛛が)・集まっている(場所)」(「チ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「チノ」から「シノ」となった)の転訛と解します。
豊後国風土記とともに現伝九州風土記の一ですが、記事の分量が極めて少なく省略本の可能性があります。
また、(2)国名由来伝承後段等に紀と殆ど同文の記事があるなど、九州諸国風土記を通じて、紀と記事内容から表現まで類似したものがあります。
さらに、ここには景行天皇にまつわる伝承が数多く存します(天皇伝承34のうち23)。
肥前国国名由来条は、肥前国はもと肥後国とあわせて肥国でしたが、崇神天皇のとき、命を受けて肥後国益城郡の朝来名峯の土蜘蛛打猿(うちさる)・頸猿(うなさる)を討伐した肥君等の祖、健緒組(たけをくみ)が八代で虚空から火が下るのを見て、戻って朝廷に報告したことから、火(ひ)君健緒純(たけをくみ)の名を賜り、この国を火(ひ)国と呼ぶようになったとします。
また、本条後段には、景行紀18年5月条と殆ど同文の八代の不知火の記事があります。
なお、古事記国生み条は、「肥(ひ)国は建日向豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ふ」とします。
(語源解釈)「ひ(肥。火。国)」、「たけをくみ(健緒組)」、「うなさる(頸猿)」は、
「ピ」、PI(eye)、「眼(大きな外輪山の中に火口丘がある=阿蘇山)(阿蘇山がある地域・国)」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒ」となった)または「ヒヒ」、HIHI(ray of the sun,feelers of crayfish,a method of dressing the hair in horns on each side of the head)、「(輝くばかりに飾り立てた)角状のみづらのような(有明海の東西に二つの火山がある地域が分かれている。国)」(反復語尾が脱落して「ヒ」となった)
「タケ・オク・ミヒ」、TAKE(base,origin,chief)-OKU((Hawaii)thunderstruck,horrified)-MIHI(sigh for,admire)、「どっしりとした(首長である)・雷を落とす・尊敬される(君)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)
「ウ(ン)ガ・タル」、UNGA(send,expel)-TARU(thing,sometimes with an idea of disparagement or unpleasantness involved)、「(人を悪事に)駆り立てる・悪い奴」(「ウ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「ウナ」となった)の転訛と解します。
松浦郡褶振峯条は、昔大伴狭手彦連が船で任那へ向かった時、弟日姫子(おとひひめこ)がこの峯に登り、褶を振って狭手彦の魂を呼んだことから、その名が付いたとします。(この地名起源譚は、万葉集(5-868,871~875)に松浦佐用(さよ)姫の伝説として歌われています。褶振の呪術については、オオクニヌシの正妻スセリヒメの呪術が著名です。)
その後弟日姫子に褶振峯の頂上の沼の主の蛇がとりつく後日譚があります。(後日譚は、三輪山伝説と類似しています。)
(語源解釈)「おとひひめこ(弟日姫子)」、「さよ(佐用。姫)」は、
「アウト・ヒヒ・メコ」、AUTO(trailing behind)-HIHI(a cape with strings of flax hanging loose,any long slender appendages)-MEKO(withhold,refuse to give)、「(狭手彦を)追いかけて・褶(ひれ)を振って・(魂を)呼び戻そうとした(媛)」(「アウト」のAU音がO音に変化して「オト」となった)
「タイ・オ」、TAI(taitai=perform certain ceremonies to remove tapu etc.)-O(find room,be capable of being contained or enclosed,get in implying difficulty or reluctance)、「(褶(ひれ)を振る)呪術を行って・(狭手彦の魂を)呼び戻そうとした(媛)」(「タイ」と「オ」が連結して「タヨ」から「サヨ」となった)の転訛と解します。
基肄郡姫社(ひめこそ)郷条は、ここを流れる山道(やまぢ)川の西に荒ぶる神がいて、往来する人の半分を殺したので、占いの結果、筑前国宗像郡の珂是古(かぜこ)に祀りをさせることとなり、珂是古が幡を投げると御原郡の姫社の社に落ちて祀りを求める神の居場所を示し、また山道川の辺に還つて落ちました。珂是古はその夜、夢に臥機(くつびき)と絡朶(たたり)が出てきて驚かされ、神が女神であることを確認し、社を建てて祀ったので、人が殺されることが無くなつたとあります。
(語源解釈)「やまぢ(山道。川)」、「かぜこ(珂是古)」、「くつびき(臥機)」、「たたり(絡朶)」は、
「イア・マハ・チ」、IA(indeed,current)-MAHA(many,great)-TI(throw,overcome)、「(実に)多数の(人が)・殺される・川」(「マハ」のH音が脱落して「マ」となった)
「カハ・テコ」、KAHA(strong,persistency)-TEKO(rock,standing out)、「際だって・強い(男)」(「カハ」のH音が脱落して「カ」となった)
「クフ・ツピキ」、KUHU(thrust in,insert)-TUPIKI(bind securely)、「(縦糸を布の)中に配置して・しっかりと結ぶ(足に結んだ綱で上下させる「あぜ」を持つ織機)」(「クフ」のH音が脱落して「ク」となった)
「タタリ」、TATARI(strain)、「(糸を)張る(糸繰り器具)」の転訛と解します。
彼杵(そのき)郡郡名由来条は、景行天皇が陪従の神代(かみしろ)直に命じて、この郡の速来津(はやきつ)姫の弟、健津三間(たけつみま)が持っていた石上の神の木蓮子(いたび)玉と白珠、さらに箆簗(のやな)が持っていた玉の三色の玉を手に入れたので、「この国を具足(そなひ)玉の国と謂ふべし」とし、彼杵(そのき)は訛りであるとします。
(語源解釈)「そのき(彼杵。郡)」、「かみしろ(神代。直)」、「はやきつ(速来津。姫)」、「たけつみま(健津三間)」、「いそのかみ(石上)」、「いたび(木蓮子。玉)」、「のやな(箆簗)」、「そなひ(具足。玉)」は、
「ト・(ン)ガウ・キ」、TO-NGAU-KI(to=drag,open or shut a door or a window;ngau=bite,hurt,attack;ki=full,very)、「(潮の干満に応じて)出入りする潮流が・激しく・襲ってくる(地域。大村湾を囲む地域)」(「ト」ガ「ソ」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった)または「トノ・キ」、TONO-KI(tono=bid,command,demand;ki=full,very)、「(海が)勝手気ままに・振る舞っている(潮の干満が大きく激しい。地域)」
「カミ・チロ」、KAMI(eat)-TIRO(look,survey)、「(宝玉を)探して・手に入れた(直)」
「ハ・イア・キ・ツ」、HA(breathe)-IA(current)-KI(full,very)-TU(stand,settle)、「潮の干満に伴う・流れが・速い(場所に)・住む(姫)」
「タケ・ツ・ミ・・マ」、TAKE(base,origin,chief)-TU(stand,settle)-MI(stream,river)-MA(a particle used after names of persons)、「どっしりとした(首長で)・水(海)辺に・住む・者」
「イト・ノ・カミ」、ITO(object of revenge,trophy of an enemy)-NO(of)-KAMI(eat)、「征服した(敵)・から奪った・戦利品(の玉)」
「イタ・ピ」、ITA(tight,fast)-PI(eye)、「堅い・(光る)眼(のような。玉)」
「ノイ・アナ」、NOI(elevated,high)-ANA(denoting continuance of action or condition)、「高い地位に・いる(者)」(「ノイ」の語尾のI音と「アナ」の語頭のA音が連結して「ノヤナ」となった)
「ト(ン)ガ・ヒ」、TONGA(restrained,suppressed,secret)-HI(raise,rise)、「隠されていた(玉が)・現れた(地域)」(「ト(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「トナ」から「ソナ」となった)の転訛と解します。
ここでは風土記逸文のうち、主なものの項目のみ記します。
(1)山城国 賀茂神社縁起(卜部兼方『釈日本紀』(以下「釈紀」と記します))
(2)摂津国 歌垣山(釈紀)/有馬温泉(釈紀)/敏馬松原(仙覚『万葉集註釈』(以下「万釈」と記します))/御前浜・武庫(本朝神社考)
(3)伊賀国 伊賀国号(日本総国風土記・風土記残篇)
(4)伊勢国 伊勢国号(万釈・日本書紀私見聞)/安佐賀社(参考ー大神宮儀式解)
(5)尾張国 熱田社(釈紀)
(6)駿河国 富士雪(万釈)/三保松原(参考ー本朝神社考)
(7)相模国 足軽山(続歌林良材集)
(8)常陸国 信太郡(釈紀)/常陸国称(万釈)
(9)近江国 伊香小江(存疑ー帝皇編年記)/竹生島(存疑ー帝皇編年記)
(10)陸奥国 八槻郷(大善院旧記)
(11)若狭国 若狭国号(参考ー和漢三才図絵)
(12)越前国 気比神宮(参考ー神名帳頭註)
(13)丹後国 奈具社(古事記裏書・元々集)/天椅立(釈紀)/浦嶼子(釈紀)
(14)因幡国 武内宿禰(万葉緯所引武内伝)
(15)伯耆国 粟嶋(釈紀)/伯耆国号(参考ー諸国名義考)
(16)播磨国 爾保都比売命(釈紀)/敏馬(釈紀)
(17)美作国 美作国守(伊呂波字類抄)
(18)備中国 邇磨郡(本朝文粋三善清行意見封事)
(19)備後国 蘇民将来(釈紀)
(20)伊豫国 湯泉(釈紀・万釈)/御嶋(釈紀)
(21)筑前国 産野(釈紀)/岡水門(万釈)/怡土郡(釈紀)/児饗石(釈紀)
(22)筑後国 磐井君(釈紀)/筑後国号(釈紀)/三 毛野(釈紀)
(23)豊前国 鹿春郷(宇佐宮託宣集)
(24)肥前国 杵島山(万釈)/褶振峰(万釈)
(25)肥後国 閼宗岳(釈紀)/肥後国号(釈紀)/阿蘇郡(阿蘇文書)
(26)日向国 日向国号(釈紀)/知舗郷(釈紀・万釈)
(27)大隅国 串卜郷(万釈)/必志里(万釈)
(28)壱岐国 鯨伏郷(万釈)
01 山城 「イア・マチ・ロ」、IA(current)-MATI(surfeited)-RO(=roto=inside)、「(京都盆地の)内部に・水の流れを・飽食している(南部に巨椋(おぐら)池がある地域。国)」
02 大和 「イア・マト」、IA(indeed)-MATO(deep swamp)、「実に・深い沼地がある地域(大和国)」
03 河内 「カプ・チ」、KAPU(hollow of the hand)-TI(throw)、「手のひらの窪み(のような地形の場所)に・置かれている(位置している地域)」
04 和泉 「イツ・ミ」、ITU(side)-MI(urine,stream)、「水の湧き流れるところの・傍ら(の地域)」
05 摂津 「テ・ツ」、TE(the,crack)-TU(girdle for man or woman to which the MARO(a sort of kilt or apron) was attached)、「切れ目のある飾帯(を締めている地域。上町台地が入り江の前面に延びている地域)」
06 伊賀 「ヒ(ン)ガ」、HINGA(fall from an erect position)、「(周囲の山から)落ち込んだ(地域。盆地)」または「(一方へ向かって)傾いている(一カ所から川が流れ出している。地域)」
07 伊勢 「イ・テ」、I(beside)-TE(emit a sharp explosive sound)、「(荒波が打ち寄せる)大きな音がとどろく場所の・一帯(の国)」
08 志摩 「チマ」、TIMA(work the soil with a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような(出入りの多いリアス式の海岸の)地形がある(地域、国)」
09 尾張 「オワ・リ」、OWHA(great,abundant)-RI(screen,protect)、「広い・(交通を)阻害する土地(湿地 帯がある。国。地域)」
10 参河 「ミ・カハ」、MI(stream)-KAHA(strong,rope,noose)、「綱のような・川(その川の流れる地域)」
11 遠江 「ト・ホタ・ア・フミ」、TO(drag,open or shut a dooror a window)-HOTA(press on(hohota=persist))-A(the...of,belonging to)-HUMI(abundant)、「往来(交通)を・阻害している・大きな海のような湖・がある(地域。浜名湖がある国)」
12 駿河 「ツ・ル(ン)ガ」、TU(stand,settle)-RUNGA(the top)、「最も高い山(富士))が・ある(地域。国)」
13 伊豆 「イ・ツ」、I(beside)-TU(stnd,settle)、「(富士山の)傍らに位置する(地域)」
* 14 甲斐 「カヒ」、KAHI(wedge,a comb made of fish bones)、「くさび(または櫛)のよう(平地が先細に山に入り込んでいる地域。国)」
15 相模 「タカ・アミ」、TAKA(heap,collect into heaps)-AMI(gather,collect)、「高い山が・集まっている(地域。箱根・丹沢の山々がある国)」
16 武蔵 「ムツ・アチ」、MUTU(end,finished)-ATI(descendant,clan)、「(東山道から分かれた)支道の・終 点(の国)」
17 安房 「アワ」、AWA(channel,river)、「海峡(に面した地域)」
18 上総・下総(総) 「フ・タ」、HU(promontry,hill)-TA(beat,lay,alley)、「浸食された丘陵(がある地域)」
19 常陸 「ヒ・タハ・チ」、HI(raise,rise)-TAHA(calabash)-TI(throw,cast)、「高い(山。筑波山)と・瓢箪(のような水の容れ物。霞ヶ浦)が・放り出されている(地域。国)」
20 近江 「アウ・ミ」、AU(sea)-MI(urine,stream)、「尿をする(瀬田川が流れ出す)海(琵琶湖がある国)」または「チカ・ツ・ア・フミ」、TIKA(straight,keeping a direct course)-TU(stand,settle)-A(the...of,belonging to)-HUMI(abundant)、「(東山道、北陸道への)近道に・ある(重用されている)・大きな海のような湖・がある(地域。琵琶湖がある国)」
21 美濃 「ミ(ン)ゴ」、MINGO(curled,wrinkled)、「皺が寄っている(地域。国)」
22 飛騨 「ヒ・タ」、HI(raise,rise)-TA(lay,alley)、「高いところに・位置している(地域。国)」
23 信濃 「チ・ナナウ」、TI(throw)-NANAU(angry(whakananau=be angry;(Hawaii)nanau=unfriendly))、「友好的でない態度を・示す(国)」または「暴れる川が・流れ出る国)」
24 上野・下野(毛) 「ケ・ヌイ」、KE(different,strange)-NUI(large,many)、「巨大な奇妙なもの(変ったもの(「華厳の滝」、「妙義山」などを指す)がある地域)」
25 陸奥 「ムツ」、MUTU(finished,end)、「(道の)終わるところ(の国)」
26 出羽 「テ・ワ」、TE(the)-WHA(be disclosed,get abroad)、「最近状況が明らかになつた土地(国)」
27 若狭 「ワ・カタ」、WA(definite space,area)-KATA(opening of shellfish)、「(小浜湾、内浦湾など)貝が口を開けたような・場所(がある。地域)」
28 越前・越中・越後(越) 「コチ」、KOTI(cut in two,divide)、「(出雲国から)分かれた(国)」
29 加賀 「カ(ン)ガ」、KANGA(=ka,kainga=place of abode,unfortified place of residense,country)、「(周囲に柵のない)居住地(国)」
30 能登 「(ン)ゴト」、NGOTO(head)、「(日本海に突き出した)頭のような(国」
31 佐渡 「タ・タウ」、TA(the,dash,beat,lay,alley)-TAU(ridge of a hill,come to rest,float,lie steeping in water)、「(二つの)山脈が・並行してある(島。その国)」または「波の上で静かに休んで・いる(島。その国)」
32 丹波・丹後 「タ・ニワ」、TA(the)-NIWHA(resolute,bravery)、「勇者(の国)」または「タ・(ン)ギハ」、TA(the,dash,beat,lay)-NGIHA(burn,fire)、「盛んに・(銅、鉛、錫などの金属を精錬する)火を燃やしている(国)」
33 但馬 「タ・チマ」、TA(the,dash,lay)-TIMA(a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような・(巨大な)地形のある(地域。豊岡平野のある国)」
34 因幡 「ヒ(ン)ガ・パ」、HINGA(fall from an erect position,be killed,be overcome with astonishment or fear,be outdone in a contest)-PA(touch,be connected with,block up,stockade)、「(昔オオクニヌシや兄達が参加した八上媛の妻問いの)競争が行われた故事に関係する(地域)」または「(昔オオクニヌシが兄達に成功を妬まれて迫害されたという)名誉を失墜した故事に関係する(地域)」
35 伯耆 「ハハキ」、HAHAKI(ostentatious,vain)、「見栄を張っている(大山という見掛けは立派だが、裏側は空虚な山を見せびらかしている・国)」
36 出雲 「イツ・マウ」、ITU(side)-MAU(fixed,established,captured)、「(国土を引いてきて)固定した・その一帯(の地域)」
37 石見 「イ・ワ・ミ」、I(beside,past tense)-WHA(be disclosed,get abroad)-MI(stream,river)、「(大きな平野を形成せずに)外へ出て行く・川の・そば(の地域)」
38 隠岐 「オキ」、OKI((Hawaii)cut in two,divide,separate)、「(縄文海進により島前と島後が、または島と本土が)切り離された(島。国)」
39 播磨 「パリ・マ」、PARI(cliff,flowing of the tide)-MA(white,clear)、「白い・崖(のある地域)」または「(その傍らを明石海峡の激しい)潮流が流れる・清らかな(場所)」
40 美作 「ミ・マ・タカ」、MI(urine,stream)-MA(white,clean)-TAKA(heap,lie in a heap)、「(吉井川、旭川が流れ出す)水源である・清らかな・高い(地域)」
41 備前・備中・備後(吉備) 「キピ」、KIPI((Hawaii)revelion,to dig with a sharp tool)、「反乱を起こした(地域)」もしくは「先細の掘り棒で掘ったような(細かい起伏がある。地域)」
42 安藝 「アキ」、AKI((Hawaii)to hurl as sails)、「畳んだ帆(のような東北から南西に延びる山脈が平行して連なっている。地域)」
43 周防 「ツホウ」、TUHOU(a ceremonial girdle worn by the priest)、「(山陽地方の外側に付けた)飾り帯のような(国)」
44 長門 「(ン)ガ(ン)ガ・ト」、NGANGA(breathe heavily or difficulty,make a harsh noise)-TO(drag,open or shut a door or a window)、「(潮の干満によって)激しく呼吸をするように・潮流が行き来する場所(その場所のある地域。国)」
45 紀伊 「キイ」、KII((Hawaii)to tie,bind)、「(山々を)結びつけている(山麓の平地が連なっている国)」
46 淡路 「アワ・チ」、AWA(channel,river)-TI(throw,cast)、「海峡に・放り出されている(島)」
47 阿波 「アワ」、AWA(channel,river)、「川(吉野川。その流域の地域(郡)。国)」
48 讃岐 「タヌ・キ」、TANU(bury,plant)-KI(full,very)、「たくさん・埋葬してある(平野の中に古墳や墳墓のような丘陵(山)が・たくさんある。地域。国)」
49 伊豫 「イ・イオ」、I(beside)-IO(muscle,spur,ridge,line,lock of hair)、「山脈線(地質構造線)の・傍らにある(地域。国)(またその山脈線が中央を貫いている島)」
50 土佐 「トタ」、TOTA(sweat)、「蒸し暑い(土地・地域)」または「トタハ」、TOTAHA(bind,encircle with a band)、「(砂州の)帯を締めたような(入り江、湾がある。場所。地域。国)」(語尾の「ハ」が脱落して「トタ」から「トサ」となった)
51 筑前・筑後(筑紫) 「ツ・クチ」、TU(stande,settle)-KUTI(pinch,contract)、「(三郡山地と背振山地に挟まれて)狭くなった・場所に位置している(地域)」
52 肥前・肥後(肥) 「ピ」、PI(eye)、「眼(大きな外輪山の中に火口丘がある=阿蘇山)(阿蘇山がある地域・国)」または「ヒヒ」、HIHI(a method of dressing the hair in horns on each side of the head)、「(輝くばかりに飾り立てた)角状のみづらのような(有明海の東西に二つの火山がある地域が分かれている。国)」
53 豊前・豊後(豊) 「ト・イオ」、TO(drag,open or shut a door or a window)-IO(muscle,line)、「(潮の干満に応じて)潮が行き来する・縄のような海峡(関門海峡(および豊予海峡)に面している。国)」
54 日向 「ヒウ・(ン)ガ」、HIU((Hawaii)caudal fin,hind part or tail section of a fish considered less delicious than the head or front section)-NGA(satisfied,breathe)、「満足している(ゆったりとしている)・(九州島の)尻尾(のような。地域)」
55 大隅 「オホ・ツ・ミ」、OHO(wake up,spring up)-TU(stand,settle)-MI(stream,river)、「水(海)の上に・(突然)起き上がった(噴火により出現した)ものが・ある(この地域内で最も特徴的である桜島火山がある。地域。国)」
56 薩摩 「タ・ツマ」、TA(the...of,dash,lay)-TUMA(challenge,abscess)、「なにかにつけて・反抗する(隼人が住む。地域)」または「タツ・マ(ン)ガ」、TATU(an ancient form of weapon)-MANGA(branch of trees or river etc.)、「(九州島の本体から)枝のように分かれている・斧のような地形の(地域。薩摩半島の地域)」(「マ(ン)ガ」のNGA音が脱落して「マ」となった)
57 壱岐嶋 「イキ」、IKI(sweep away,clear off)、「表面を拭い去ったような(島。そこの国)
58 對島嶋 「ツ・チマ」、TU(stand,settle)-TIMA(a wooden implement for cultivating the soil)、「掘り棒で掘り散らかしたような地形(湾)が・ある(島)」
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1 平成19年2月15日
インデックスのスタイル変更に伴い、本篇のタイトル、リンクおよび奥書のスタイルの変更、<修正経緯>の新設などの修正を行ないました。本文の実質的変更はありません。
2 平成19年9月20日
7播磨国風土記の(2) 伊和大神伝承の項にg伊和村の条を追加し、神酒・於和・美岐の解釈を追加し、(6)のd揖保郡立野条の立野の解釈を修正しました。
U R L: http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
タイトル: 夢間草廬(むけんのこや) ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源 作 者: 井上政行(夢間) Eメール: muken@iris.dti.ne.jp ご 注 意: 本ホームページの内容を論文等に引用される場合は、出典を明記してください。 http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/timei05.htm,date of access:05/08/01 など) このHPの内容をそのまま、または編集してファイル、電子出版または出版物として 許可なく販売することを禁じます。 Copyright(c)1998-2007 Masayuki Inoue All right reserved |